デュエルン鉄人伝説〜風の章(1)!

デュエルン・レーフェンス。 2001年夏、彼のジオポタ初企画「大井川」は、その楽しさと厳しさとで参加者が悲鳴をあげ続け、後々長く語り継がれる伝説と化した。 その後も数多くの伝説企画を生み出す鉄人、そして“風の旅人”デュエルン。 その旅のルーツは一体どこにあるのか。 多くの謎が、今明かされる。

(インタビュー&構成/サリーナ、監修/デュエルン)


■■子ども時代

デュエルン・レーフェンスは仙台に生まれ育った。 子どもの頃から鉄道は、模型を作るのも好きだし乗るのも大好き。 まさにテッチャン、鉄道少年だ。

当時(1960年前後)はほとんどが蒸気機関車だったという。 このあたりで電気機関車といえば、仙台〜石巻の「仙石線」くらい。 それから「仙山線」(仙台〜山形)は、途中の作並〜山寺間に“面白山トンネル”というなが〜いトンネルがあり、蒸気機関車では一酸化炭素中毒になってしまうので、その部分のみ電化。 こんな環境、今のSLファンにはうらやましい限りだが、蒸気機関車があたりまえだったデュエルン少年にとっては、電気機関車が見られる仙山線が大のお気に入り。 日曜日には、母親におにぎりをつくってもらって入場券だけで汽車に乗り込み、行けるところまで行っては帰ってくる。 けれど駅から外には一歩も出ない。 「鉄道に乗っていること、鉄道を眺めていることが楽しくて、ぜ〜んぜんあきないよ。」とデュエルン。 入場券だけで入っているから、検札が来たらヤバイ! トイレに隠れてやり過ごす。
そして、家では模型で汽車を作る。 D51やC62はそのへんにあって当たり前過ぎるからパス、ターゲットは大正時代の蒸気機関車だ。 当時の少年たちにとって、自分で作るのは当たり前、基本パーツを手に入れて、あとはすべて手作りだ。 だから、子どもの頃は休みの日にやることがいっぱいで忙しかった。
(今でも同じですね… by サリーナ)

■■デュエルン青年、初めて海外への旅に出る

鉄道が好きなだけで、別に「旅」が好きというわけではなかった。 そんなデュエルンが世界旅行に出かけたのは1973年、26才のときであった。

当時、有名建築家の設計事務所に勤めていたが、所内の労働争議に巻き込まれてしまった。 雰囲気的にやめざるを得ない状況になり、どうしようかと思い悩んだ。 時はちょうどドルショック(*1)、景気にはかげりが見え、就職活動は面倒なことになりそうだった。 そこでデュエルン青年は考える。「退職金をもらったし、独身だし、初めての海外に行ってみようかな。」

設計事務所で一緒だったドイツ人のクリストフが、台湾などアジアを巡る旅に出るという。 じゃあ僕も一緒に行こう、と決めた。 こうしてデュエルン青年は、結果的に1年にも及ぶこととなる世界旅行の第一歩を踏み出したのである。

1973年8月、実家には「沖縄に行く」とだけ伝え、まずは船で沖縄をめざす。 当時の沖縄はアメリカから返還されてまだ1年少々、東京からは2泊の船旅だ。 先に旅立ったクリストフとはここで待ち合わせ。 沖縄から台湾には行くつもりだったが、それからどうするかは全く考えていなかったのだ。 とりあえず、貯金は全額を引き出し、トラベラーズチェックにして持っていった。  

沖縄でクリストフと無事出会い、すぐに2人で台湾行きの航空チケットを探した。 飛行機の離陸直前に何とか2人分の席がとれて、飛行機に駆け込んだ。そのとたんに扉が閉まっていきなり滑走路を走り出す。 息を切らせ、席にへたり込み、シートベルトを締める。 中華航空のボーイング727は、うなりをあげて一路台湾の首都台北へ。

*1 ドルショック
1971年8月、アメリカのニクソン大統領が、ドルと金の交換一時停止などを含むドル防衛政策を発表。 東京外国為替市場にはドル売りが殺到して大混乱となった。 政府と日銀は対ドル・レート(交換比率)の変動為替相場制への移行を行った。 これがいわゆる「ドルショック」。 12月には、それまでの固定相場1ドル360円から1ドル308円に切り上げとなった。

-台湾最北端の野柳海岸にて
台湾最北端の野柳海岸にて

■■台湾で鉄道にハマり、香港で豪遊する

台湾先住民の娘台北到着。 暑い。

ともかく、初めての海外だ。 これから友人と一緒に冒険の旅、と胸を踊らすデュエルン青年。 台北の中心部で安宿のドミトリーに荷を解き、ベッドに身を横たえた。

ところが翌朝のこと、起きてみるとクリストフの姿が見えない。 「どうしたんだろう」と宿の人に聞いてみると、彼は朝早くチェックアウトしたとのこと。 行き先はわからない。 「なんていいかげんなやつだ!」 デュエルンは、海外旅行2日目にして、台北の安宿に一人取り残されてしまったのである。

どうしよう、と思い悩むもそこはのちの“鉄人”デュエルン・レーフェンス。 じゃあ大好きな鉄道に乗って、一人で台湾一周の旅に出よう、とあっさり決意。 台湾一周といっても当時はまだ鉄道だけで一周はできなかった。 高雄までは鉄道、あとの東部は長距離バスに乗ることになる。 ともかく一人旅のスタートだ。

写真:台湾先住民の娘。 先住民は部族ごとに言語が違い、隣の村から嫁さんをもらうと夫婦間で言葉が通じないという現象が起こり、日本の統治時代強制的に日本語を教えたので、現在は日本語をベースにした独自の言葉を作り出し、共通語としてそれを使っている。

天祥にて天祥にて

当時の台湾では、男子の長髪がご法度だった。 ところがデュエルンは、この頃髪を長く伸ばしていた。 捕まると、バリカンを持った床屋が控え、即座に丸刈りの刑! たびたび捕まっては、パスポートを見せてやっと無罪放免を繰り返したデュエルンであったが、あまりのうるささに、ついに長髪はバッサリ切ってしまった。(写真は全て短くなったあと)

台湾最南端のターファンリエに行ったときのこと、米軍基地の中にある宿泊施設に泊まったら、目の前は真っ青な海、しかも誰もいない。 米兵用のぶかぶかの海パンを借りて、さっそく海水浴。 これが思わぬことに、伊豆の海岸などとは比べものにならないくらい日差しが強く、完全に焼けどをしてしまい、二日間ほど全く動けなくなって宿のベッドでウンウン唸っていた。

そんなこんなでゆっくり回ったら1ヶ月くらいかかって、台北に戻った。 で、どうしようかと考えたが、クリストフが次は香港に行くと言っていたのを思い出し、何となくデュエルンも行き先を香港に決めた。 思い立ったら吉日、一路香港へ。

香港のアバティーン(水上生活者)香港のアバティーン(水上生活者)

高層アパートが林立するスキマにある香港・カイタック空港に無事到着。 目指すはバックパッカー御用達、九龍半島のユースホステルだ。 そうしたら、ここで“やっぱり”という感じでクリストフと再会。

デュエルンには、あまり香港の印象が残っていない。 実は暑さと疲れのせいか、香港到着と前後して、体調を崩し気管支炎になってしまったのだ。 記憶にあるのは、スターフェリーの舵を切るのがすごいし面白かったこと、九龍半島の屋台や食堂で出す小椀のラーメンが最高においしかったこと。 「台湾のラーメンもおいしかったけど、香港のは味が繊細。 これまでの生涯で食べたラーメンの中で一番だね。」 そしてもう一つが、豪遊の思い出だ。

ドイツ人青年クリストフは世慣れしているというか、さすが世界を旅しているだけあって、各地で生き延びる術を心得ている。 彼は、東京の建築事務所の同僚だった香港人デビッドの家に早速電話する。 「私たちは日本で息子さんと同じ事務所で働いていた者です…」。 間髪入れず、彼のお父さんは運転手付きジャガーで迎えに来てくれた。 香港の大富豪だったのである。 こうして、デビッドのお父さんには2人とも豪華酒家で大ごちそうになった。 「生涯で初めて乗ったジャガーで、その後まだ乗ってないね〜」とデュエルン。 「ジャガーの乗り心地? よかったと思うけど、ほんとに気管支炎で調子が悪かったんで、あまり覚えていない。 食べ物も…」 もったいない限りである。

体調はなかなか回復しない。 医者には「すぐ日本に帰って療養しなさい」と諭された。 香港に来て2週間が過ぎていた。 考え込んだデュエルンだったが、クリストフは日本に来る前にベトナムを汽車で旅したことがあり、「すごくいい所だったよ」と言う。 それなら、サイゴンで療養して気管支炎を治し、それからベトナムを汽車で旅しようかな、とサイゴンに行くことにしたのであった。

■■ベトナム戦争末期のサイゴンで療養

当時のベトナムは戦争中(*2)。 サイゴンが陥落する1年半くらい前のことだ。 サイゴンの空港ターミナルで、建物屋根にまるい穴があいているのに気がついた。 トップライトかと思ったら、大違い。 爆撃であいた穴だったのだ。 戦争中なんだ、と実感がわいてくる。

ベトナムの路上商いベトナムの路上商い

バスで街の中心部へ。 快適そうな宿を見つけて、とにかくダウン。 気管支炎の療養に来たのだから、と昼過ぎまで寝ていたら、部屋の入口の前でおばさんがずっと待っていた。 掃除を済ませないと次の仕事にかかれないらしい。 仕方ないから翌日からは少し早起きして部屋を出ることにしたが、やることがないので町をぐるぐる歩いた。

町のあちこちには土嚢が積まれその中に機銃が据えられていて、市街戦が始まるかの雰囲気の中、若い女性たちは青やピンク、原色のアオザイで華やかに歩いている。 彼女たち、スタイルはいいし、薄いアオザイは下着が透けて見えてなかなかセクシーだ。 うれしい気分に浸るデュエルン青年だが、ここベトナムは戦争中じゃなかったのだろうか、と考える。 戦争しているという感じが、どうも浮いているのだ。 ベトナム人にとっての戦争ではなかった、ということか。

自転車タクシー自転車タクシー

戦争中のこと、観光旅行にくる人も少なく(いなかったかも?)、ホテルも開店休業状態。 デュエルン以外に客がいたかも定かでない。 このホテル、建物は古いものの部屋は超デラックス、バスルームだけでも四畳半はあり、落ち着かないほど広い。 香港の一部屋に蚕だなのように二段ベッドがぎっしり並んでいたユースホステルから比べると、ここはまさに天国。 いつの間にか、気管支炎も治っていた。

しかし、クリストフの来た頃に比べると戦争も激化し、とても旅行どころではない。 結局サイゴンからは一歩も出ないまま、タイへ行くことにした。

*2 ベトナム戦争
1960年代初頭から1975年4月30日までベトナムで繰り広げられた、南ベトナムと北ベトナムとの武力衝突をいう。 戦争の実態は、南ベトナムを支援したアメリカと北ベトナムを支援したソ連、中国との政治戦略的な戦争であった。 米軍は最大時には年間50万人もの兵士を戦地に送り込み、戦死者の総数は約6万人に達し、南北ベトナム人民の戦争犠牲者は200万人を超えた。 また、米軍が大量に空中散布した枯葉剤は、今もベトナムの地に後遺症を残している。 1973年1月にアメリカ、南ベトナム、北ベトナム、南ベトナム臨時革命政府の和平協定調印、1973年3月のアメリカ軍の撤退完了を経て、1975年4月30日、北ベトナム軍の侵攻で南ベトナムの首都サイゴンが陥落、同日、南ベトナム政府の無条件降伏で戦争は終結した。

■■バンコクではクーデター、チェンマイでは美女を探す

バンコクのスコールサイゴンに1週間ほど滞在した後、病も癒えて、タイへ向かった。

飛行機で到着した首都バンコク。 この頃は旅も慣れてきて用意周到、今後の旅のルートを考えて、まずエジプト航空激安チケットをゲットした。 バンコク〜ボンベイ〜カイロ、そしてロンドンへのフライトである。

うまくいった! と思ったのはつかの間だった。 タイでクーデターが起こったのである。 反政府運動が活発化し、空港も一時閉鎖、政府機関が焼き討ちにあったりと、バンコクは不穏な情勢だった。 出国しようにも出られない。 どうしよう、と考えて思い浮かんだのは北部の都市チェンマイだった。 

写真:バンコクのスコール。 昼過ぎ毎日決まったようにスコールがくる。 上がったあともご覧のような水浸し、靴を手に持って歩くしかない。

チェンマイにて。 なぜか街角にピカピカに磨かれたSLがチェンマイにて。 なぜか街角にピカピカに磨かれたSLが

なぜチェンマイか。 それはというと、当時、日本で公金横領した男がタイのチェンマイに逃げて若い女性を集め、ハーレムで暮らしていたという事件が話題になっていた(玉本事件)。 つまりってことは、チェンマイには若い美女がたくさんいるんだよね、と胸を膨らませて夜行バスでチェンマイに到着したデュエルン。 「そしたら、全然いない(笑)。」 思わず「美女はどこにいるんでしょうか?」と質問してみた。 そしたら「みんなバンコクに働きに行ってるよ」とのこと。

ガッカリしたものの、食べ物はおいしいし居心地はいい。 チェンマイは、人口数万の小さな地方都市で街中広い葉の熱帯樹が生茂り、そのためか建物はあまり見えない。 車や大気汚染、都市の喧騒とは無縁の地だ。 凄く気温が高いにも関らず乾燥していて全く汗が出ない。 隠遁生活をするにはもってこいの土地だった。 そんなチェンマイでのんびりと骨休め。

チェンマイは古都らしく、街のいたるところに古い寺院や崩れかけた仏舎利塔などの遺跡が点在している。チェンマイは古都らしく、街のいたるところに古い寺院や崩れかけた仏舎利塔などの遺跡が点在している。

その頃バンコクでは、国民に信望の厚い国王の仲裁で、政権は変わったもののクーデターはおさまった。 バンコクに戻ったデュエルン、さあ次の目的地ボンベイに行くぞと思ったら、今度は何と第4次中東戦争(*3) が始まってしまった。 中東は関係ないだろうって? それが大ありなのだ。 デュエルンの持っている激安チケットは“エジプト航空”。 フライトの再開は、停戦までしばらく待たなければならなかった。

*3 中東戦争
◆第1次中東戦争 (パレスチナ戦争/1948年5月15日〜1949年2月24日):イスラエル共和国建国をめぐるイスラエルとアラブ諸国の戦争。
◆第2次中東戦争(スエズ動乱/1956年10月29日〜11月7日):イギリス・アメリカ両国のアスワン・ハイダム建設援助計画撤回を機に、エジプトのナセル大統領はスエズ運河国有化を宣言。 これに反対するイギリス、フランス、イスラエルが出兵したが、国連の停戦決議やソ連の警告など国際世論に押され、1957年に完全撤兵。
◆第3次中東戦争(6日戦争/1967年6月5日〜6月10日):1966年、シリア革命により左派政権が誕生し、アラブ民族主義が高まりをみせたのを警戒したイスラエルが、1967年6月、奇襲攻撃を開始。 イスラエル軍は1週間でシナイ半島全域のアラブ連合(現エジプト)領、エルサレムを含むヨルダン領、シリア国境地帯を占領。 米英の支持を受けたイスラエルは国連の仲介解決案を拒否、アラブ諸国もソ連等の支持の下に結束して反撃態勢をとった。 これ以後小規模な武力衝突が続く。
◆第4次中東戦争(10月戦争、ヨム・キプール戦争/1973年10月6日〜10月23日)
エジプトはソ連との親密度を深めたが、1970年9月ナセル大統領の死後、サダト大統領はアメリカにも近づいた。 ソ連も支援を打ち切ることはできず、エジプトとシリアに多数の強力な防空システムを供与。 これら状況から、エジプトはシリアとともにイスラエルを攻撃し、シナイ半島奪回を図ることを決めた。 イスラエルはエジプト・シリアによる奇襲の兆候を掴んでいたが、10月6日はイスラム教徒のラマダン(断食の月)のため戦争は無いと判断。 ユダヤ教徒にとって贖罪の日(ヨム・キプール)であった10月6日、エジプトとシリアがイスラエルを攻撃し、第4次中東戦争が始まった。 開戦当初はエジプト優勢だったが、戦争後半にイスラエルが反撃、激戦が展開された。 エジプトは米ソ両国の説得により停戦へ向かい、イスラエルもアメリカの強い働きかけにより10月23日、国連の停戦決議を受け入れた。
同時期に中東諸国はOPECで原油価格の値上げを発表。 アメリカに対する政治的な対抗策として発動された石油戦略は、アメリカではなく中東へ石油輸入を依存していたヨーロッパ及び日本へ深刻な影響を及ぼし石油ショックを発生させることになった。

■■中東は戦争中、インドでも足留め

ボンベイの海岸そろそろ秋風が吹いてきた…。 10月23日に第4次中東戦争は停戦、11月初めにやっとエジプト航空がフライトを再開し、次に向かったのはインド。 とにかく南回りでヨーロッパに到着するのが、当面のアバウトなルート設定だ。

写真:ボンベイの海岸にて、遠くにサリーをまとった妙齢な女性が見えるが、実は物乞いの人。 その後、施しの手を出してきた。

チャンディガール:コルビジエの設計による有名な裁判所チャンディガール:コルビジエの設計による有名な裁判所

インドで最初に降り立ったのはボンベイ(現在のムンバイ)。 次にデリー、そして鉄道で、カシミール地方のチャンディガールへ。 チャンディガールはコルビジェの建築を見に行く目的だ。

ところが深夜到着した駅は、漆黒の闇。 唖然…。 全く知らなかったのだが、チャンディガール駅は、街から遠く離れた郊外にあったのだ。 今しも一台のバスが走り出そうとしていたので、とりあえず飛び乗った。 どこに向っているのか全くわからない。 不安でいっぱいになり、「街の中心はどこだ」と叫んでいたら、一人の青年が話しかけてきて「おれについてこい」と言う。 なんでも赤十字に勤務していて、これから実家に帰るところだという。

とあるバス停で降りて、そこからタクシーのような馬車に乗換え、彼の家に着くと、夜遅いにもかかわらず、地元パンジャム大学で教鞭をとる彼の兄夫妻が暖かく迎えてくれた。「親切に泊めてくれて、ほんとに感激。 コルビジェの建築もすばらしかった。」 カシミール地方は、文化的に独自で他のインドとは違う雰囲気があったという。 

(残念ながらチャンディガールは最近カシミール紛争で旅行者が入れない状況 by サリーナ)

インドにはほぼ1ヶ月いることになった。 実は、ボンベイでまたしても足留めをくらっていたのだ。 第4次中東戦争は停戦したと聞いたが、どうやらまた紛争が始まったらしい。 エジプト航空は欠航したまま、カイロにいつ飛ぶものやら皆目わからない。 仕方ないからずっと待って、毎日毎日、今日は飛ぶのかと航空会社を訪ね、そして滞在が長引くとインドのビザが切れてしまうので、その延長手続きで法務局と警察署に何度も足を運んだ。 「まさにカフカの世界」を体験したデュエルン。 紛争がおさまった翌日、11月の終わりにやっと戦争開始後のカイロ行き第1便が出ることになり、それに乗りこんだ。

■■エジプトで大歓迎と銃口と

ギザのピラミッド。 人影がまったく見えない。ギザのピラミッド。 人影がまったく見えない。

カイロ空港に着いたら、税関では待ち構えた係の人たちから大歓声、握手攻めに合った。 なぜって、久しぶりの到着便で、乗っている外国人観光客といえばデュエルン青年ただ一人。 よくぞ来てくれた!と大歓迎だ。

空港を出たところにはエジプト航空のバスが待っていた。 エジプト航空乗務員を迎えるバスだが、デュエルンにも「乗れ」と言う。 乗務員に混じってただ一人の観光客デュエルンが乗ると、バスはスタート、カイロ市内の観光スポットを巡り始め、そして最後は宿の前までおくってくれた。 乗務員はみんな笑顔、ものすごく親切である。 「だからエジプトの印象はすごくいいですねえ〜」とデュエルン。

エジプトでは当然まずピラミッド。 ところがギザに行っても観光客など誰もいない。 3つのピラミッドを写真に撮ろうとアングルを考えていたら、いつの間にか兵士がやってきて、機関銃を向けられ背筋がぞっとした。 すぐ観光客とわかってもらえたけれど。 ここでもまた、戦争を身近に感じたデュエルンであった。

ルクソールの大地に溶け込んだ様な住居群それから、夜行寝台列車でツタンカーメンの墓のあるルクソールへ。 ところがエジプトの列車、その揺れ方はハンパではない。 頭を打ったり足をぶつけたり、鉄道好きのデュエルンにして、とてもじゃないが寝られる状況ではない。 なのに、ベッドの下の段のエジプト人は大いびきで熟睡。 上の段では列車の揺れといびきとで、ほとんど一睡もできないデュエルン。 ふらふら状態でルクソールに到着した。

写真:ルクソールの大地に溶け込んだ様な住居群。 空の雲に注意! 飛行機雲のようなスジ状の雲が空一面に広がっている。 たぶんナイル川の上空に雲が発生して、次々と流れてくるのではと想像します。

ルクソールのカルナック神殿ルクソールは年間を通して殆ど雨が降らない。 そこで見る星空はまぶしいくらいに輝き、毎日こんな星を見ていたら星座も思い浮ぶだろうと納得。 街では軍用車以外の自動車を見たことはなく、人々の交通手段は馬車かロバ。 デュエルンはといえば、貸し自転車を一週間借りて、渡し舟に乗せてナイルを渡り、対岸の神殿群やツタンカーメンの墓など、炎天下の砂漠の道をポタリング。 これがデュエルンのジオポタの始まりであったのか。

写真:ルクソールのカルナック神殿。 ピラミッド同様ここルクソールの遺跡もまったく人影がなく、こんな空間にただ一人たたずんでいると、古代エジプトの時代にいるかような錯覚を覚える。

エジプトには3週間滞在、気がついたら日本を出て4ヶ月が経過していた。 そろそろヨーロッパに向かおうか…。

(続く)

地図

■旅の行程

年月日 国/地域 月日 都市 交通
1973
08.10
〜08.12
日本 東京 → 那覇
08.13
〜09.10
台湾 08.13 那覇 → 台北
淡水、チョンリー、新竹、台中、彰化、水里、斗南、台南、高雄、屏東、オランピ(ターファンリエ)、台東、花蓮、スーアオ、基隆 鉄、バ
09.10 台北 → 香港 空 
09.10
〜09.26
香港/マカオ 09.17 香港 → マカオ
09.19 マカオ → 香港
09.26
〜10.01
ベトナム 09.26 香港 → サイゴン
10.01
〜11.01
タイ 10.01 サイゴン → バンコク
アユタヤ、チェンマイ
11.01
〜11.24
インド 11.01 バンコク → ボンベイ
11.06 ニューデリー
11.14 チャンディガール
11.18 チャンディガール
11.24
〜12.05
エジプト 11.24 ボンベイ → カイロ
ルクソール
12.05
〜01.05
イギリス 12.05 カイロ → ロンドン
ケンブリッジ、ノルウィック、ライチェスター、オックスフォード
1974
01.05
〜01.16
フランス 10.05 ロンドン → パリ
パリ
01.16
〜02.16
スペイン 01.16 バルセロナ
タラゴナ、ベニカルロ、アリカンテ
02.03 コルドバ
ロンダ、マラガ
02.10 グラナダ
アンテケーラ
02.16
〜02.27
ポルトガル 02.16 セヴィリア → ファーロ
02.18 リスボン
02.24 シントラ
02.27
〜03.16
スペイン 02.27 マドリード
03.08〜03.10 マドリード、トレド、サンタンデール 鉄、バ
03.10〜03.15 ビルバオ、バルセロナ、ヘローナ
03.16
〜03.27
フランス 03.16 マルセイユ
03.27 マルセイユ 鉄、バ
(モナコ、北イタリア) ニース、モナコ、サンレモ、ジェノア
04.12
〜05.10
イタリア 04.12〜04.15 ミラノ、レッコ、クレモナ、ミラノ、ヴェネチア
04.17 ボローニャ
04.20 フィレンツェ、ピサ、サンジミニアーノ、アレッツォ
04.21 シエナ
04.25 ペルージア、アッシジ 鉄、バ
04.30 ローマ
05.03 ナポリ、ポンペイ
05.04 セイッラ
05.06〜05.10 パレルモ、アグリジェント、タオルミナ、タラント、ブリンディシ、アルベルベッロ
05.10
〜05.26
ギリシア 05.10
05.11
ブリンディシ、アテネ
アテネ、シーラ島
05.23
05.24
アテネ → SKOPIJE
05.26
〜05.29
ブルガリア 05.26 アテネ → ソフィア
05.29
〜05.31
ルーマニア 05.29 ソフィア → ブカレスト
05.31
〜06.02
ハンガリー 05.31 ブダペスト
06.02
〜06.06
オーストリア 06.02 ブダペスト → ウィーン
06.06
06.07
ウィーン → プラハ
06.07
〜06.10
チェコスロバキア プラハ
06.10
〜06.14
ポーランド 06.10 プラハ → ワルシャワ
06.14
〜06.18
東ドイツ 06.14 ワルシャワ → ベルリン
06.18 デンマーク 06.18 コペンハーゲン
06.19 スウェーデン 06.19 ストックホルム
06.20
〜07.17 
フィンランド   06.20〜 ヘルシンキ、ラハティ、ミッケーリ、 海、鉄
クオピオ、コウヴォラ
06.29〜 ヘルシンキ、ユヴァスキュラ、オウル
07.08〜 ケミ、キッティーラ、セイナヨキ、ポール
07.13 サーロ
07.17 ヘルシンキ
07.18
〜07.27
ソ連 07.18
07.19
モスクワ
07.25
07.26
ハバロフスク
07.27 ナホトカ 鉄、海
07.29 日本 07.29 横浜

交通:鉄/鉄道、空/空路(飛行機)、海/海路(船)、バ/バス、ヒ/ヒッチハイク

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