デュエルン鉄人伝説〜風の章(2)

1973年冬。 デュエルンの旅の舞台はいよいよヨーロッパに移る。

((インタビュー&構成/サリーナ、監修/デュエルン)


アテネにて、パルテノン神殿を背にしてアテネのパルテノン神殿を背にして

エジプトのルクソールを先に見てしまうといまいち感動が薄い。 それにしてもギリシャはサングラスが似合う。

地図
地図ベース:Perry-Castaneda Library Map Collection

読者A: デュエルンさん、匿名希望の“読者A”ことサリーナです。 1970年代前半の旅、波乱万丈ですごいですね。 それにしてもデュエルンの写真はどれもノーブルなスタイルでステキ。 我々の旅の写真とえらい違いだ。 これは写真撮影用のスタイルですか? 旅行中はどんな服装で行動していたのですか。

デュエルン: 旅行はずっと、この写真そのままですよ。 襟付きのシャツ、パンツ、革靴です。 カバンは手提げにもリュックにもなるタイプ。

読者A: 当時はまだTシャツとか、リュックとか、スニーカーとか世間になかったんですか。

デュエルン: ありましたよ〜。 世界旅行するような人たちは、みんなフレーム付きのリュックとかね。 でも、そういうのが何だかいやだった。 それで、普段事務所に行くのとほとんど同じスタイルです。

読者A: でも、襟付きシャツっていうと、クリーニングはどうしたんですか? 旅先でアイロンかけられないでしょう。 ホテルでドライクリーニング?

デュエルン: まさか! 宿はユースホステルですよ。 ノーアイロンのシャツを2・3枚持っていきました。

読者A: 全財産を持っていったということですが、全部トラベラーズチェックですか?

デュエルン: そうです。 クリストフに影響されて、全部ドイツマルクのトラベラーズチェック。 結果的には失敗、途中でオイルショックになって4〜5万円の損失。 アメリカよりヨーロッパの方が影響を受けましたからね。

読者A: ヨーロッパはチケットの関係でまずロンドンでしたよね。

デュエルン: そうです。 カバンは小さいし、夏に出発なので服装も軽装。 着いたらほんとに寒かった。

■■ロンドン、若者たちは安宿で大騒ぎ!

いよいよヨーロッパ。 カイロからロンドンへ飛んだのは12月初旬のことだ。 寒いだろうとは思ったので、持っているすべてのものを下着から靴下、パジャマ(パジャマはデュエルンの必需品なので常に持っているのだ)、インドで買った唯一のセーター、すべて重ねて着込んでヒースロー空港に降り立った。 でもやっぱり寒い。 とりあえずユースホステルにはたどり着いたが、このままでは凍えてしまうと、すぐに服を買いに走った。 上から下まで、コート、パンタロン、ロンドンブーツ。 コートはウエストが細みの当時流行りのスタイルだ。 それを着て歩いていると、なぜか地元の人に道を尋ねられたり、日本人に英語で話しかけられたり。 いつの間にか、国籍不明になっていたデュエルンである。

ある日、大英博物館で出会った日本人の若者と意気投合! 彼は芸大の大学院生で、スペインから日本に帰国する途中だった。 2人でユースホステルに宿泊していたが、もっと安い宿があるというので移ったのは大きな学校の寮か兵舎みたいなところ。 世界中のヒッピーみたいな若者が集まっていて、みんな最初の数日分は宿代を払い、その後は無銭宿泊を続けていた。 チェックも何もなくていいかげんなのだ。 デュエルンたちもすぐにその仲間となった。

ところが数日後、デュエルンたちが逗留している男性の部屋に、アメリカ人女性20人ほどが大挙して泊まることになった。 宿帳上、そこには誰もいないことになっているからだ。 夕方部屋はからっぽ、女性たちはくつろいですぐにベッドに横になった。 そうとは知らない部屋の居候は各国の若い男たち4〜5人。 毎夜遅くまで飲んで騒いで、帰ってきたのが深夜。 まずデュエルンと友人が部屋に入ると、女性が寝ているではないか。 「まずい!」とあわてて明かりもつけず、そっとベッドに飛び込んでふとんをかぶって息をひそめていた。 しばらくして別の若い男たちが酔っぱらって帰ってきた。 いつものように大声で騒ぎながら電気をつけた。 「キャー!!キャー!!」 枕が飛び交い部屋は大パニック! デュエルンと友人の2人は夜明けを待たずこっそりと宿を逃げ出したのであった。

■盗難騒ぎと小旅行

憧れのジェームズ・スターリングの代表作「レスター大学工学部」憧れのジェームズ・スターリングの代表作「レスター大学工学部」

ある日、バッグの中から、カメラやサングラスなど貴重品を、ちょっと目を離したスキに盗まれてしまった。 日本から持ってきた一眼レフのカメラや交換レンズをすべて失った。 ロンドン警察の事情聴取が終わったら、なぜかほっと肩の荷が降りた気分だった。 旅を続けるうちに、荷物の重さが次第に負担になってきて、少しずつ捨てたりして、グラム単位で軽量化を図ってきたのだった。 一眼レフは重い。 でもカメラは捨てられない。 これが盗まれてなくなったのだから、何だか心が軽くなった。 代わりに当時、35mmカメラで最もコンパクトな『ローライ35』を買った。 デュエルン的旅のスタイルが、またひとつ生まれることになったのである。

ロンドンの冬の気温は東京とあまり変わらない。 しかし、大きな違いは天気が悪く、めったに太陽が顔を出さないこと。 貧乏旅行者が暖かく一日過ごせるところといえば、博物館や美術館しかなく、毎日、朝から晩までこれらをハシゴすることになる。 閉館時間で追い出されると、即パブへ直行してビールやスコッチをチビリチビリやりながら夜更けまで話し込む。

当時、デュエルンはジェームズ・スターリングの建築に興味を持っていたので、彼の作品がある地方都市へ小旅行に出かけた。 ロンドンとは打って変わって寒いの何の、大きな川が凍てついて、歩けるほどの寒さ。 写真を撮るにも指がかじかんでシャッターがうまく押せないデュエルンであった。

■■地中海をめぐる旅

読者A: ロンドンからの行く先に、まずスペインを選んだのはどうしてですか?

デュエルン: それはロンドンで会った芸大の学生がスペイン帰りで、スペインはいいという話をさんざん聞かされて感化されたから。 バスで途中パリも通ったけど、とにかくスペインに行こうと思って目もくれませんでした。

読者A: バルセロナは1月といっても、気候はロンドンとはずいぶん違って暖かいのでしょうね。 服装も変えなきゃいけないし。 旅を続けると、次第に増えてくる荷物はどうしていたのですか。

デュエルン: 夏服は軽いからかさばらないけど、ロンドンで買ったコートは気に入っていたので日本の実家に送りました。 あとは思いきりよく捨てていった。 ロンドン以降、各国でその国の服装になるのにはまりました。 ギリシアでは民族衣装を着たりとかね。

読者A: 現地にそんな人はいたんですか?

デュエルン: いません(笑)。 怪しいですよね。 だから現地の人も、旅行者も、あまり声をかけてこなかったかも。

■スペイン〜イタリアはゆったりと

アンテケーラで腕を組んで歩く娘と父親アンテケーラで腕を組んで歩く娘と父親

バルセロナ。 気候はロンドンとはうってかわって春めいている。 そう、ここはスペインなのだ。

地中海沿いに鉄道で移動、コルドバに至る。 コルドバでは民宿のような小さいホテルに投宿、あまりに居心地が良いので、ついつい、長居してしまった。 朝、起きると決まって雨が降っていて、またベッドもぐり込んで寝てしまうためになかなか次へ旅出せない。 そんなこと繰り返していると、宿の爺さんがしびれを切らして、「この地方の今どきは、毎日こんな天気なんだよ」と。 確かに、朝寝して次に目を覚ます時刻には、いつも雲一つ無い晴天になっていたのであった。

写真:スペインのアンダルシア地方「アンテケーラ」にて。 娘と父親が腕を組んで歩いている光景はヨーロッパ各地でよく見かけますが、日本では余り見ないですね。 この地方はあきれるほど可愛い娘が多いです。

クレモナのバイオリン作家の友人宅にてクレモナのバイオリン作家の友人宅にて

スペインからポルトガルへ、そして再びフランスを経由してついにイタリアである。 北イタリアはミラノ。 たどり着いたユースホステルで、フロントのスタッフとイタリア語で口論している日本人がいた。 へえ流暢なと思っていたら、この人に、クレモナに住んでいるから遊びに来るように誘われた。

写真:手料理のパスタをご馳走になりながらスペインとポルトガルのスライドをご披露。

ベニスのサンマルコ広場ベニスのサンマルコ広場

イタリア側からアルプスが望めるコモへ立ち寄ったあと、アドレスを頼りに彼のところを訪ねる。 その人は、ストラディバリで有名なクレモナでバイオリン製作工房を開いていて、のちに日本のテレビにも度々登場することになる御仁であった。 当時独身だった彼の流暢なイタリア語はベッドで覚えたというつわもの、もちろん現在の夫人はイタリア人である。

写真:陽気な生演奏を聞きながら飲むワインは最高ですね。 ベニスを訪れた本当の理由はビーナスのように美しく、モンローのようにエロチックな真鍮製のクルミ割り人形を手に入れるためでした。 残念ながら見つからない。

■アトランティス伝説の島「シーラ」

シーラ島へ向かう船の上からシーラ島へ向かう船の上から

ギリシャではぜひともエーゲ海に浮かぶ島に行ってみたく、現地のひとにもっともお勧めの島はと問うと、「シーラ島」を勧めてくれた。 ミコノスなどと違い、まだ観光化されていないという。 朝一番の船に乗り込んで出航、この船、途中の島島につぎつぎ寄っては乗客だけではなく、生活物資やら郵便物まで積み下ろす。 やっと終着のシーラ島に着いたときは、またしても真っ暗闇。 ロバを連れた民宿のおじさんについて行き、今夜の宿にやっとありついた。

写真:港の無い島は沖合いに停泊し 小船がきて、客と物資の積み下ろしをします。

シーラ島シーラ島

この島には車が走れる道がないので、島内には一台の自動車もない。 交通手段は徒歩かロバ、島には本土の富裕層の別荘と思われる一画があり、そこだけはバルーンタイヤを付けたホンダの三輪バギーが走っていた。

写真:シーラ島の町は海面からめまいがするほどの高みにあり、つづら折の階段で上り下りをします。 もちろんロバを利用することもできます。

宿泊していた民宿にて宿泊していた民宿にて

シーラ島は英語名で「サントリーニ島」ということから、後に、ウイスキーのサントリーがCMのロケ地に使い、以来、日本でもすっかり有名になってしまった。 古くからあるアトランティス大陸伝説、この島こそアトランティスだったという説が最近の研究で言われている。

写真:奥さんと一人娘と近所のおばさんが、ポーズ。 このあたりの建物の構造はきわめて興味深い。 谷底のような一番低いところが道路状の階段で、そのレベルに家畜小屋があり、ロバや豚などが飼われている。 その上が中庭状のテラスでここに主屋や、離れがあり、家畜舎の直上がトイレ、排泄物はどうなるか分かりますね。 写真に写っている主屋の横の階段を上り屋上に出ると、なんとそこには広い畑が広がっている。

■■冷戦時代の東欧へ

読者A: ギリシアのあと、ユーゴスラビアに入ってからずっと東欧旅行を続けた理由は?

デュエルン: 西欧はいつでも行けるけど、東欧は今行っておかないと、と思ったから。

読者A: さすが。 私は体制崩壊後の1990年に行って、楽しかったけど、東欧の憂鬱というよりは結構明るくて、観光化をめざしてディズニーランド化しそうな雰囲気でちょっと拍子抜けでした。

デュエルン: その当時は本当に暗い。 暗いだけではなくて恐怖を感じました。

■ソフィアで銭湯にはいる

ワルシュワにてワルシュワにて

『ソフィアに公衆浴場がある』と耳にし、久しくお風呂に入っていないので、早速教えられた場所に行って見た。 けれど、それらしき建物が見当たらない。 周りは東京で言えば丸の内か霞ヶ関のような雰囲気、とても風呂屋があるような場所には見えない。 しかし、どこからか微かに石鹸の香りが漂っている。 よくよく見れば、目の前の、神宮外苑の絵画館をさらに立派にしたような荘厳な建物が浴場だった。

日本の銭湯とはやや勝手が違うが、温泉プール、スチームバス、そしてマッサージも頼むことができる。 3週間ぶりの汗を流したデュエルンであった。

写真:何かの宗教的カーニバルで真っ白い衣装で着飾った少年、少女の行列に遭遇。

■東欧の国境を越えるということ

国境を越えて走る国際列車は、ローカル列車に比べて格段に運賃が割高だ。 そこでルーマニアからハンガリーに行くときに、国際列車には乗らずローカル列車で国境手前の駅まで行き、国境を徒歩で越え、向こうでまた列車に乗ることをやってみた。 そんなことをやる人は珍しいと見えて、国境の役人は『こいつは何をやっているのか?』とキョトンとした様子。

オーストリアからチェコへの国境越えは、そんなのんきな体験ではなかった。 珍しくリッチに国際列車の指定席で向かったところが、チェコ側の国境事務所で何やらアクシデントが発生。 係員が「荷物を持ってすぐ降りろ」と言っているようである。 すぐに戻れるものと思って、座席のテーブルにはタバコやライター、サングラスなど小物を残したまま降りると、まもなく列車は走り出してしまうではないか。 どうしてくれるんだ、あのタバコ!と叫びたいが言葉は全く通じない。

シェーンブルグ宮殿のゲートにてシェーンブルグ宮殿のゲートにて

憮然として取調べ室のような部屋に入れられると、そこには先客がいる。 フランス人の若夫婦で、しかも奥さんがシクシク泣いているではないか。 係員の言葉は一言も解せないので何事がおきたのかまったく分からない。 

このフランス人に聞いてみたら何のことない、パスポートに貼ってある写真とデュエルン本人がまったく違うために入国でないのだという。 パスポートは正真正銘デュエルンのもの。 しかし、たしかにこの時は髭を伸ばしていて、写真とは随分様子が違う。 弁解する間もなく、次のオーストリアへ向かう列車に乗せられて追放された。 同じようなトラブルに会ったフランス人夫妻は、「チェコなど二度と来るものか」と捨て台詞を吐いて帰っていった。 しかしプラハまでの切符を無駄にできない貧乏旅行者は、オーストリアの国境の駅で剃刀を買い、洗面所で髭を落して、再びプラハへ向かうのである。 思わぬトラブルですっかり遅くなり、プラハに着いたのはまたまた深夜、当然宿もなく、駅前の広場でホームレスと共に一夜を過ごしたのであった。

写真:ギリシャの衣装とひげとで怪しい雰囲気。 この後、チェコとの国境でサングラスは列車に置き去り、ひげも失うことに!! (国外追放の怪しさ納得? by サリーナ)

これで懲りたのか? いやいやデュエルン・レーフェンス。 さらに「ビザなし入国事件」を起こす。

ポーランドの美少女ポーランドの美少女

ワルシャワからベルリンへ向かう車内で、ポーランド人の美少女を連れた父娘と親しくなった。 ワルシャワから西ベルリンへ直接行くつもりだったので、東ドイツのビザは持っていなかったデュエルン。  ワルシャワからの列車は東ベルリン止まりだったから、本来はここですぐに、西ベルリン行きの電車に乗り換えなければ ならない。 が、うっかりしてポーランドから東ベルリンへ観光に来た行列にまぎれて、街へ出てしまった。 というか、美少女とお父さんについていったため…。 半日東ベルリンを三人で観光して回ったのだが、このことが後に思わぬトラブルに。 半日観光して、何も知らず駅に戻ってみると、これが大変な問題だったことが発覚、散々しぼられた後、やっと夕方になり西ベルリンに着くことができたのだった。

「東欧の旅全体を通して、行く先々の国のビザ取得に大使館通いに明け暮れ、大変でした」とデュエルン。

写真:これがポーランドの美少女だ! ほら、一緒に行きたくなるでしょう?

■ベルリン駅の恐怖

銃弾の後が残るベルリンの建物銃弾の後が残るベルリンの建物

当時の東欧は体制の崩壊を恐れてか、国境の警備は厳重を極め、列車内ではパスポートチェックの後に税関役人が来て、コンパートメントの相客を一時追い出し、座席の上に荷物を全部広げさせて入念なチェック、カメラの中まで開けろという。 貴重なフイルムが入っているからと強固に拒否。 その後ゲシュタポのような制服を着た治安警察がくる、これが恐ろしい。 車内の全てをチェック、アルミ製脚立をもっていて、天井のハッチまで開けて、天井裏を確認、駅に着くと床下に警察犬を走らせて、台車に密出国者が潜んでいないかをチェックする念の入れよう。 とりわけ女性係官が冷酷な感じで特に恐ろしかった。 「以来女性恐怖症になりました」とデュエルン?

そんな列車で東ドイツのベルリン駅に着いたときのことだ。 駅に着いて、出迎えの人もいるのに、駅の構内はしんと静まり返って、話声も物音もしない。 人はたくさんいるにも関わらず。 ガラスのヴォールト状になった駅の構内、人々はただ静かに歩いて出口に向かい、ヴォールトの上段に機関銃を構えた兵士が歩いている。 その靴音だけがコツ、コツと響く。 ここで走り出したりなんかしたら絶対に撃たれる!と、ものすごい恐怖を感じて緊張した。 まるで第二次大戦の映画の世界、「大脱走」のワンシーンのような気分だった。

写真:今は無いベルリンの壁の付近にはこのような建物が多く残されており、先の大戦のベルリン攻防の激しさを物語っています。

■■日本への旅立ち

シベリア鉄道でしあわせいっぱいのデュエルンシベリア鉄道でしあわせいっぱいのデュエルン

読者A: 1年も旅を続けていて、旅の締めくくりをどのように決断したのですか? お金の尽きた時?

デュエルン: シベリア鉄道にはぜひ乗りたいと思っていた。 だからヨーロッパ旅行の最後はシベリア鉄道っていうイメージが、いつの頃からかできていました。 あの1週間鉄道に乗り続けるのは何としてもやってみたいと。 だから、シベリア鉄道に乗るお金だけは手をつけずにモスクワに行き着こうと思いました。

読者A: やっぱり正真正銘のテッチャンですね。 シベリア鉄道が東アジア、そして日本に向かっていてよかったですねえ。 そうでなかったら帰ってこられなかった?…。

■フィンランドでヒッチハイク

フィンランドの小さな姉妹フィンランドの小さな姉妹

ヘルシンキのソ連国営旅行社で、ソ連のビザとヘルシンキからシベリア鉄道経由で横浜までのチケットの手配を依頼した。 そうしたら手続きに1ヶ月もかかるという。 所持金が残り少ない中、パスポートを預けたままフインランドでひと月過ごさなければならなくなった。

写真:ヒッチハイクで乗せてもらった車の後部座席には可愛いらしい女の子が二人乗っていました。 フインランドは比較的親日家が多く、理由はご存知のように、明治時代の東郷平八郎に遡るわけですが。 この車も日本のマヅダで、日本車に乗っていることが誇りのようでした。

真夜中の太陽真夜中の太陽

金をかけずに旅をするにはどうするか。 それは、交通費をケチるのが一番だと、徹底してヒッチハイクをしてみることにした。 そんなフィンランドでの旅の目標は、1.個人住宅を除くアールトの作品をすべて見ること、2.ノルウェイの国境近くまで到達すること の二点。

フインランドでは、ヒッチハイクが市民の日常の移動手段として定着していて、確かに気安く乗せてはくれる。 けれど、それだけ競争も激しいのだ。 通りかかる車に何とか乗せてもらおうという地元の人たちとの激戦の中、デュエルンはありとあらゆる種類の車に乗せてもらった。 変わったところでは、木材運搬中のトレーラートラック、生ゴミ運搬車(これは臭かった)、回送中のタクシーなど。

写真:夜中の12時の太陽です。 ここは白夜の国でした。

目標1.のアールトはほぼ達成、2.は北極圏には到達したものの、国境まであと100キロを残して断念。 一日に車が数台しか通らないという交通事情のため、残りたった100キロで涙をのんだ。

■シベリア鉄道

衝突したシベリア鉄道衝突したシベリア鉄道

当時、飛行機で日本に帰るのが片道11万円。 シベリア鉄道だと12万円くらいだから、飛行機の方が安い。 でもシベリア鉄道は、横浜までの船も含めて食事代込みの前払いでこの値段。 「飛行機なんかで帰るのはもったいない、シベリア鉄道は最高ですよ。」とデュエルン。

写真:架線工事の車両と我がシベリア鉄道が衝突! 機関車が破損し運転手も負傷して、代わりの機関車が到着するまでここに数時間立ち往生。

シベリア鉄道の車掌さんシベリア鉄道の車掌さん

1週間、列車は来る日も来る日も、シベリアの大地を走り続ける。 針葉樹林が広がる景色はいつまで経っても変わらない。 車中にはデュエルン含め外国人旅行者が7〜8人。 その中のヨーロッパ人夫婦の部屋は個室コンパートメント。 ちょうど8人くらいが座れる広さに外国人旅行者が集合し、そこで来る日も来る日も延々とトランプを続けたのであった。 ジオポタ定番の大貧民ではない。 世界共通の、ポーカーやセブンブリッジだ。 そのうち食事のアナウンスがあり、食堂車に移動。 毎日トランプと食事の繰り返しを楽しんだ。

(私的にはつらそうな旅に見えますが… by サリーナ)

写真:我が車両には二人の若い車掌さんが乗務していて、一週間世話をしてくれる。 車掌の仕事と、飛行機の客室乗務員のようなサービスと、掃除までやって、交代で一週間24時間勤務である。

食事もよかった。 シベリア鉄道は食事代込みで前払い制。 だけど前払いしたほど食べきれないから、少なく頼むとその分をソ連のお金で返してくれる。 でも、そのお金を持って日本に帰っても使えない。 だから、最後に余ったお金で一番いいお酒を出して、と頼んだら最高のシャンパンが出てきた。

横浜へ向かう船横浜へ向かう船

鉄道の終わりはナホトカ。 そこからは船で横浜まで、それも込みのシベリア鉄道だ。 「船も楽しかったなあ。 船員は陽気で、バンドがあって夜はディスコになったね。」

写真:ナホトカ横浜間の船上にて。 日中はプールや輪投げ、卓球をして過ごし、夜になると食堂がディスコに早代わり。

2泊3日の船旅を終えると、そこは横浜、1年ぶりの日本であった。 1年ぶりの母国。 何か懐かしさとか感動が生まれるのかと思ったら、そうでもない。 ただ夢がさめてしまったような寂しさを覚えたのみ。

■■エピローグ

イラクイラク

全財産を使い果たしスッカラカン、仕事もなし。 仙台の実家に戻り、数カ月を引きこもりのパラサイト・シングルとして過ごす。 その後、たまたま出席した友人の結婚式で、待ち構えていたのは元上司からのメッセージ。 「東京で新しく事務所を開いているから顔を出すように」!

行ってみると、イラクの空港のプロジェクトがあるから手伝えという。 そして現地視察と情報収集のため、“風の旅人”は再びカバンに愛用カメラのローライを詰め、バグダッドへと向かった…。

おわり

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uploaded:2004-07