花の都パリ、パリといえばシャンゼリゼ、シャンゼリゼといえば凱旋門。シャンゼリゼ通りの西の端、エトワール広場にある凱旋門はお化粧直しのため足場が掛けられていましたが、外側を覆うネットがトリコロールに塗られていました。こういったところはやっぱりパリという感じです。
エトワール(星の)広場という名は、上から見ると凱旋門を中心に、12本の道が放射状に延びていて、その形が星(エトワール)のように見えることから来ているそうです。 上から見下ろしたパリを見ると、ここは本当の都市計画がされた美しい街であることがわかります。比べて東京はもっと新しく開発された都市だけれど、道というものが見えず、極めて乱雑な印象です。
このエトワールの凱旋門は、ナポレオンの命によって建設が始まったものですが、そのナポレオンがここに凱旋したのは1840年にパリに改葬された時だというから皮肉なものです。あまり知られていませんがこの凱旋門の下には、第一次世界大戦で亡くなった無名兵士が眠っています。逆に、第二次世界大戦でナチスがパリに侵攻したとき、ヒトラーがここを戦車で凱旋した話はあまりに有名です。長いパリの歴史を見てきた建物というわけですね。
この凱旋門の真正面のラ・デファンスには、日本では新凱旋門と呼ばれる大きな新しい建物ができましたが、こちらは戦勝記念碑ではなくオフィスビルのようなもので、フランスではグランダルシュ(大アーチ)と呼ばれています。
ヴァンドーム広場は高級ホテルや高級ブランド店が並んでいることで有名で、平面形は四角なのですが、廻りを取り巻く建物の意匠で八角形に見えます。
真ん中に建つ丸い柱はナポレオンがアウステルリッツの戦勝を祝して建てたもので、浮き彫りのあるブロンズの板が巻きつけられています。この柱は一旦取り壊されていて、現在あるのは復元したものだそうです。
ノートルダム寺院は言わずと知れたゴシック建築の代表作。
シテ島にあるローマ・カトリック教会のこの大聖堂は、大型の教会堂によくある間が抜けた感じがまったく感じられません。薔薇窓もすばらしい、細く束ねられた柱が天に上り、天井を支えるアーチになる姿も美しい。内部のたてと横の比率もすばらしい。
正面の二つの塔はちょっとずんぐりした感じがしますが、側面から後ろのヴォールトを支えるフライング・バットレスは噂に違わず、機能と意匠との統合が見事。これは当初からのものではなくて、12世紀に現在のデザインに替えられたものだそうです。
ちなみにノートルダムという名はあちこちの教会に付けられていますが、そのノートルダムとはフランス語で『我らが貴婦人』すなわち聖母マリアのことだそうです。
整ったスカイラインがつくる街並は美しい。
エッフェル塔ももはやパリの顔。新市街の高層ビル群は今後どのような評価を受けるのでしょうか。
ノートルダム寺院と同じシテ島にある小さなサント・シャペル。
ノートルダム寺院があまりに有名すぎてその影に隠れがちですが、このサント・シャペルも13世紀なかばの盛期ゴシックの建築です。まるでステンドグラスが天井が支えているのかと思わせるほど、構造が目立ず、軽やかで幻想的な神秘がある空間です。このステンドグラスを通した柔らかな光に満ちた空間は、かつて体験したことのないものでした。
夜のサント・シャペルからはあの輝かしいステンドグラスが消え、蝋燭形のシャンデリアのほのかな明かりでかすかに照らし出された、ゴシック建築の美しい骨がだけが見えていました。これも驚くべき世界でした。昼と夜ではまったく異なる二つの顔を、このサント・シャペルは持っています。
そう、なぜ夜に? ここで小さな演奏会があるというので出かけてきたのです。なんとその演目はゴシック期の代表的な作曲家、レオニヌス(レオナン)とペロティヌス(ペロタン)の曲でした。
この幻想的な空間に素朴ともいえる曲が木霊したとき、一瞬私は、本当にゴシック時代に行ってしまったかのような錯覚を覚えました。
シャンゼリゼやヴァンドーム広場がパリの表舞台ならこちらは舞台裏。パリ・ジャンやパリ・ジェンヌの胃袋を支える市場です。
大通りから一歩入った裏道には八百屋や肉屋がびっしり並んでいました。不思議とアラブのケバブを売っている店が多いのはなぜでしょう。
花の都パリにも欠点がひとつ。犬の糞があちこちに落ちていることです。特に裏道のような細い路地は要注意。下を向いて歩かないとこれらを踏んづけてしまいます。この糞のせいばかりではないと思いますが、たいていのところがおしっこ臭いですね、パリは。
ルーブル宮、ルーブル美術館はやっぱり外せません。この美術館はとても一日や二日では廻りきれないほどの収蔵量なので、例によって駆け足3点巡りです。『サモトラケのニケ』、『ミロのヴィーナス』、『モナ・リザ』でしょう。ダ・ヴィンチの『岩窟の聖母』と『洗礼者聖ヨハネ』も。
この巨大な美術館は増築工事が行われており、中庭に造られたI・M・ペイ設計のガラスのピラミッドは完成には至っていないようですが、内部は完成していて入れました。外のピラミッドの下の内部には逆ピラミッドがあります。明るく気持ちがいい空間ですが、ん~~ん、それ以上は特に感想なしです。
旧オルセー駅の駅舎とホテルを改修して1986年にオープンしたオルセー美術館は19世紀美術の専門の美術館で、印象派の作品が数多く展示されていました。作品もいいけれど建物がすばらしい。この建築空間を損なわないように配慮された展示の仕方も垢抜けています。ここは美術館というより、先鋭なショッピングモールのような雰囲気と、ちょっとしたホテルのラウンジのような、そんな雰囲気がします。ルーブルを観たあとだと、ここは、あの輝かしくも重い空気から解放され、のびやかな気分になります。
モネ、ルノワールといった明るく輝かし作品は明るい部屋に置かれ、これらはもちろんすばらしいのですが、唯一といっていいほど照明が落とされた暗い部屋に置かれた、ドガのパステル画に心が動きました。同じ印象派の中にあってこの人だけは、光より人の動きを追求していたように見えます。バレエの踊り子を描いた幾多の作品には、一瞬の動きを紙の上に封じ込めたということとともに、優雅と気品があります。
パリの街中を離れ、近代建築の巨匠の作品を観に行くことにしました。パリの鉄道駅はそれこそ無数にありますが、わかりやすい国鉄の東駅を使います。
東駅は同じく国鉄の北駅に隣接していてちょっと紛らわしいのですが、パリから東へ向かう列車の始発駅です。
19世紀半ばに建築されたこの駅は、いかにもヨーロッパの始発駅、という雰囲気を持っています。
東駅から電車で20分ほどのところにあるル・ランシーなんたら駅で降り、歩くこと15分。
オーギュスト・ペレ( 1874~1954年、ブリュッセル生まれ)のル・ランシーのノートルダム教会です。『コンクリートの父』と呼ばれたこの人は、コンクリート打放しがまだ一般的でなかった20世紀の初頭からこれを始めました。
1923年にできたこの教会の内部は、マルグリット・ユレの美しいステンドグラスで装飾され、光に満ちあふれていて、驚くほど明るい(写真では少し暗い印象ですが)。精神がすぅーと舞い上がるようです。このステンドグラスに囲まれた空間は、意匠はずいぶんと違うけれどサント・シャペルのそれとどこか共通するものがあるように感じられます。折れそうなくらいに細い丸柱の列柱に支えられたコンクリート打放しのボールト天井は、驚くほど軽やかに、幾重にも連なります。
ちょっと素っ気ない感じの外観は、やはりコンクリートの打放しで、上に伸びる塔の袖のリブ柱がどことなくゴシック。
コンクリート造で、これだけデリケートなディテールとテクスチャーを持った仕事をした人は、他にほとんどいないでしょう。次世代のグロピウスやコルビュジェをはじめとし、その後の多くの人々はコンクリートをマッス(塊)と捉えた仕事をしているようです。
こちらは同じペレのフランクリン街のアパート(1902年)。
先ほどのル・ランシーの教会より20年ほど前に造られた、鉄筋コンクリート造による最初期の近代建築です。現存する鉄筋コンクリート造の集合住宅としては最古のものだそうです。
どれがそれ? という具合に隣の建物と見比べても今ではそう変わり映えしませんが、建設当時は積石造が主流の時代です。様式建築にも向かわず、アール・ヌーヴォーにも向かわず、この建築家はただコンクリートに向かっていたのでしょうか。
ごく僅かな装飾がコンクリートに施されています。
ガラス窓の大きさはおそらく当時としては画期的だったろうと想像します。
今度はパリから反対の西へ向かいます。RERでポアッシー駅までやってきました。そこからバスで向かったのは、近代建築の代表であるル・コルビュジエのサヴォア邸です。ちなみにこのル・コルビュジエは、先のオーギュスト・ペレの事務所で短期間学んだ人です。
1931年にできたこのサヴォア邸は、ちょっと堅苦しい表現をするならば、コルビュジエ自身により提唱された『近代建築の5原則』の、ピロティ、屋上庭園、自由な平面、水平連続窓、自由なファサードのすべてを具現化した作品。のびやかで気持ちがいい。
細い柱に支えられ空中に浮いたような2階を持つ白いファサードを眺めながら進むと、1階には半屋外のピロティーがあり、ガラス張りのホールに入ります。建物の中央にはゆったりとしたスロープがあり、1階から屋上まで続きます。このスロープが空間を有機的に繋いでいる。2階にはこのスロープを取り込んだ中庭的な屋上庭園があり、そこに面して、のびやかな水平連続窓を持つ広い居間があります。居間と屋上庭園との繋がりはこの時代では新しい試みだったと思われますが、この居間のインテリアだけを見るならば、少し焦点が定まらず殺風景な感じがしました。螺旋階段や浴室の曲線を持った寝椅子などは艶やか。
そうそう、コルビュジエの住宅ではラ・ロシュ=ジャンヌレ邸がパリの街中にあるので出かけてみました。カーブを持ったギャラリーとホールの吹抜けが印象的な建物ですが、こちらは休館で外観しか見られませんでした。住宅以外の有名なものには、14区の国際大学都市の中にあるスイス学生会館とブラジル学生会館があります。スイスはコルビュジエの最初の公共建築で力強いピロティを持ち、ブラジルのほうは40年近いパリでの活動の最後の作品でスイスから27年後に完成し、バルコニーがブラジル国旗の色で塗られています。ここには先のペレの打放しとはまったく質が違う、コンクリートの塊、ブルータリズムと呼ばれることもある、荒々しい表現があります。
知らない人はいないエッフェル塔。この塔は19世紀末、1889年のパリ万国博覧会のために建てられました。
建設当時は賛否両論あったそうですが、 否のほうの代表的な意見は『あまりに奇抜だ』『醜くグロテスク』というものだったといいますからびっくりです。パリのランドマークの一つとなった今日ではちょっと考えられないですね。この塔は今なら鋼鉄で作るのでしょうが、錬鉄でできていることでも有名です。
パリ到着の日の宿は日本から予約した三ツ星ホテルで、居心地は良いもののものすごく高い。そこで、観光にも便利でありながら安宿が多いカルチェ・ラタンに移りました。セーヌの左岸、パリの南側は、右岸、北側が商業地として発展したのに対し、ソルボンヌ大学を始めとした学生の街の様相を呈しています。パンテオンがあり、パリでもっとも古いサンジェルマン・デ・プレ教会もあります。その教会の脇では黒人がサックスを演奏しています。(TOP写真)
街の散策も楽しいのですが、のんびりぶらぶらするならリュクサンブール公園でしょう。ここには現在はフランスの上院として使われているリュクサンブール宮があり、その前には池と美しい芝生のフランス式庭園があり、周りを木々が生い茂るイギリス式庭園で囲っています。園内にはドラクロワの記念碑 ショパン、ボードレール、ジョルジュ・サンドといった著名な人々の像、そしてニューヨークやセーヌのグルネル橋のたもとにある自由の女神の原型があります。
この広々とした公園のベンチに腰掛けてバケットをかじりながら、日本のより少し小柄な雀がチュンチュン鳴きながらパン屑を突くのをぼんやりと眺めるのは、なかなか気持ちのいいものでした。この公園、宿の近くだったので何度か散歩しました。
ポンピドー・センターは、かのアンドレ・マルローの『空想の美術館』などに起源をもつとされます。現代芸術の擁護者ジョルジュ・ポンピドーは大統領になると、パリのど真ん中に美術館と図書館の大型複合建築を作ることにしました。国際設計競技がおこなわれ、レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャースの案が選ばれました。その案とは、柱や梁といった構造とともに、空調、電気、水道から階段やエスカレーターといった機能が外部にむき出しにされ、内部はガランとした空間を仕切る可動の間仕切りだけが設けられたものでした。
カラフルな色に塗られた鉄とむき出しのパイプ、そしてガラスだけの外観に人々はあっと驚きました。これはこれまでのパリのクラシックな建物群とはまったく異なる、前衛的とも言えるものだったから。賛否両論が巻き起こり、建築界も一般市民も喧々がくがく。この騒動は先のエッフェル塔の時を思わせるものがあります。
1977年開館ですからこの時点で10年少々の時が流れていました。確かにパリの街中にあってこの建物の外観は異様といえば異様。だけれど、周辺の街並がこの建物を包み込み、その中に溶かし込んでしまったようにも見えます。
歴史とはすごいものです。パリとはそんなすごい都市なのです。建物の前には大きな広場が用意されていて、そこではいつでもなにがしかのイベントやパフォーマンスがされています。この空間が素敵です。
メトロに乗って散歩に出かければ、あちこちでしゃれた出入口に出会います。アール・ヌーヴォーのエクトル・ギマールが作ったメトロの出入口です。
写真はメトロ2号線のポルト・ドーフィヌ駅(1900年)。アール・ヌーヴォーの手工芸的な繊細な表現がこの小さな出入口に凝縮されているかのようです。
そこに現れたパリ・ジャン、なんとなく絵になっていますねぇ。
こちらは同じくギマールのカステル・ベランジェ(1898年)。
当時、人々はここをベランジェを捩り『デランジェ(迷惑)』と呼んだと言われています。後世有名になる建物というのはいつでもこんなもんなんですね。複雑な形にうねっているのは、有名な鉄細工の扉ですが、これは陶芸家アレクサンドル・ビゴとの共同の仕事だそうです。
カステル・ベランジェはパリの16区にありますが、このあたりにはギマールの作品がたくさんあります。
これはギマール自身の家(1909年)で、カステル・ベランジェの成功から10年後に建てられました。内部はアパートメントに変更されてしまっていますが、外観のうねった意匠は当時のままです。
玄関にはギマールらしい植物のモチーフが見られますが、鉄細工の扉は比較的おとなしいです。
メザラ邸(1910年)はギマール邸とほぼ時を同じくして建てられた3階建の住宅です。ここではバルコニーの有機的な形状や鋳物の手摺に、ギマール邸に共通するものが見られます。
それはそうとこのバルコニー、なんだか生き物のように見えませんか?
玄関も石の部分の装飾はギマール邸のものによく似ています。
少し年代が下ったものではアンリ・エーヌ通り(Rue Henri-Heine)に立つアパートメント(1926年)を見ることが出来ます。
ここではかつて見られたアールヌーボー様式は影をひそめ、幾何学的な形態に変わって来ています。
セーヌでは有名な観光船(バトームーシュ)に乗ってみました。
シテ島から上流につづくサン・ルイ島、チュイルリー公園、コンコルド広場、エッフェル塔、シャイヨ宮、自由の女神像など、セーヌ川とその河岸のみどころを眺めながらのひと時は、なかなか楽しい。
一週間ほどパリで過ごしたあと、この旅のメインであるスペインに入る前に、南仏のアルルに寄ることにしました。地中海に面した南仏では、パリとはまた違った空気を感じることができるだろうと思ったからです。
アルル経由のバルセロナまでの切符を購入し、いざ、TGVでビューンとアヴィニョンへ。