バレンシアの小さな街ペニスコラからベニカルロへ出て夜行列車に乗り14時間、昼前になんとか目的のグラナダに到着しました。
駅からはアルハンブラ宮殿がある丘をめがけてテクテクと歩き出します。しかしここアンダルシアは先のバレンシアに輪を掛けて暑い! 宿を探しまわるとへとへとになりそうなので、観光にはさほど便利な場所ではないのですが、街の入口付近で適当に宿を決めてしまいました。
宿で休憩したのち、まず目指したのは大聖堂です。
路地を行くとさすがに大観光地のグラナダだけあり、土産物屋がびっしり。
そしてあちこちにアラブ的な装飾が見られます。この通りはアルカイセリアで、イスラム時代には市場だったところだそうです。
グラナダは8世紀にウマイヤ朝により征服され、これ以降800年に渡りイスラム教徒によって支配されます。15世紀の末、イベリア半島における最後のイスラム王朝となったナスル朝グラナダ王国がキリスト教徒により陥落。このグラナダ陥落でレコンキスタは完成とされています。
グラナダ大聖堂はレコンキスタを完成させたカスティーリャ女王イサベルの命で、16世紀の始め頃からモスクの跡に造られ始め、約200年かかって完成しました。ファサードはルネッサンス様式ですが内部はゴシックとプラテレスコで、いろいろな様式が混じり合っているようです。鐘楼は低く、高い尖塔がないのでゴロッとした感じの少し変わった建物です。
この内部は外部と違って真っ白でちょっと驚き。三位一体礼拝堂にエル・グレコらの祭壇画があります。
次はグラナダでもっとも古い地区、アルバイシンに向かいます。
ヨーロッパの古い街はみんな道が狭く、こんなところはなんだかわくわくします。
白壁の家々が並ぶこのアルバイシン地区はイスラム教、アラブの時代に城塞都市として発展したものだそうで、敵を迷わすためか道は迷路のように入り組んでいて、注意しないとどちらに向かっているのかわからなくなるようなところです。
ここでは街角でのんびり行くロバに出会ったり、
本当に迷子になったり、
細かい石を道に敷きつめている工事中のおじさんがいたり。これ、アートですねぇ。
急坂や階段があちこちにある、ぐちゃっとした路地が楽しいところです。
そんなところにある民家の庭はみんなきれいに手入れされていて、赤やピンクの花が咲き、薔薇のアーチがあり、セラミックのペイヴメントや壁飾りがあります。
こんな家々の表札には、カルメン、カルメン、カルメンと、カルメンだらけ。ここらへんはみなカルメンさんち? いえいえ、そうではありません。このあたりでは庭付きの一戸建の住宅をカルメンと呼ぶのだそうです。
サン・ニコラス教会の前にある広場まで上ると眺望が開け、真正面の高台にアラブ建築の最高傑作アルハンブラ宮殿が現れました。右側がアルカサバ、左が宮殿群です。
下に見えるのはアルバイシンの端っこの建物群で、これらはダーロ川沿いに立っています。
『ついにグラナダ、アルハンブラ宮殿までやってきたわね〜』 と、この眺望に満足のサリーナ。
これがアルハンブラの宮殿群。中央左のごろっとした箱状の塔はコマレスの塔、奥に見えるのがカルロス5世宮殿。
むこうの山並みはシエラ・ネバダでしょうか。ここからの眺めは最高〜
アルハンブラの反対側、アルバイシンの東側にはサクロモンテの丘があります。写真ではわかりにくいのですが、丘の斜面には無数の穴が開いています。これはジプシーの住む洞窟住居だそうです。
翌日、そこにあるタブラオにフラメンコを観に出かけました。本当に洞窟なのですが、意外に幅も奥行きもあり、真っ暗闇の奥に灯された小さな明かりの下で、まだ少女といったほうがいいような子が少し恥じらいながら足を鳴らし、真っ赤な衣装に身を包んだ女が炎のように舞います。漆黒の衣装の老女はたったの30秒ほどで宇宙を作ってみせる。強烈なフラメンコでした。
サン・ミゲル・バホ教会の西にあるサン・ミゲル・バホ広場からは、西方向に開けた赤茶けたアンダルシアの大地が強い陽の光を反射して白っぽく見えていました。
この午後の散歩ですが、ここの夏は暑すぎるためか観光的にはオフシーズンの位置付けのようで、あちこちで改修工事があり、スペイン特有のシエスタ(昼寝)とも絡んで主要な見所はほとんど閉まっていてちょっとがっかり。そして猛烈に暑い!
さて、翌日はアルハンブラ宮殿です。市内からアルハンブラ宮殿までは歩いても充分に行ける距離なのですが、朝からかなり暑く、バスで行くことにしました。
ゆらゆらとバスに揺られてグラナダスの門をくぐり、さらに上って行くと、丘の中腹には意外にたくさん木々が生えていてびっくり。アルハンブラ宮殿は砂漠の中にあると思っていましたから。
アルハンブラ宮殿はダーロ川の南岸の丘の上に9世紀から14世紀に掛けて築かれた要塞であり宮殿で、その中核を成すのはイスラム王朝のナスル朝(1238年 - 1492年)時代のものです。
構成は西からアルカサバ(要塞)と呼ばれる兵営区、宮殿群、そして一番東に宮殿で働く人々の住居、モスク、工房、店舗、公衆浴場などがあり、全体が宮廷都市を成していました。
アルカサバはアルハンブラ宮殿のなかでもっとも古い部分で、9世紀末ごろに農民の反乱を防衛するために築かれた後ウマイヤ朝の砦が原形とされています。ということで、ここは重要な遺構なのですが、その真ん中は基礎だけしかなく、実はあまり面白くありません。しかし塔が残っており、この上からはグラナダの市街が一望にできます。
アルカサバをさっと巡ったら次は宮殿群に入ります。ここの宮殿群は大きくは、ナスル朝時代(1232年 - 1492年)に築かれたナスル宮殿と、アルハンブラがキリスト教徒に明け渡された後で、その一部を取り壊して造られたカルロス5世宮殿に分けられます。
ナスル宮殿はメスアール宮(司法行政を行う場所)、コマレス宮(王の公的住居)、ライオン宮(ハーレム)から成り、北に少し離れたところに夏の離宮であるヘネラリーフェ宮があります。
メスアール宮はおそらくイスマイル1世(1314年 - 1325年)により、コマレス宮はユースフ1世(1333年 - 1354年)、ライオン宮はムハンマド5世(1354年 - 1359年)、ヘネラリーフェ宮はムハンマド3世(1302年 - 1309年)の時代に造営されたそうです。
まず最初に入るのはメスアール宮殿のメスアールの間です。ここは宮殿の中ではもっとも古いゾーンですが、度重なる改修により、元の姿は良くわからないようです。
メスアールは行政を意味し、王立裁判所が置かれていたところで、4本の柱の真ん中には王座が据えられていたようです。内装はイスラム的で一部にオリジナルが残りますが、ほとんどはキリスト教時代に手直しされたものだそうです。
ここは中庭が見どころ。
壁がものすごく繊細なスタッコの装飾で覆い尽くされています。
とにかくここを見ただけで度肝を脱がされます。ただただ見入るばかり。
南面の壁には二つの青銅の門があり、周囲は色鮮やかなタイルで装飾されています。
上を見れば、木造の深い軒が突き出ています。
上の写真の反対側、北側の三連アーチは黄金の間の前のポーチです。
黄金の間は少しあとの時代に建てられたものでコマレス宮に属しており、王の執務室、謁見のための部屋などその用途については様々な説があります。この天井は凝った寄木造りで、かつては金箔が張られていたためにその名が付いたそうです。
中庭からメスアールの間に戻って奥に進めば、細長い空間の祈祷室です。この部屋だけが他の部屋と異なった方向、メッカの方向に向けられています。
これでもか〜という壁面の装飾もすごければ、窓に入った格子のような細工もどうやって作るんだろうと思うほど細かい。しかしこれらも元の姿かどうか疑問が持たれているようです。
メスアール宮から王の公的な住居であるコマレス宮に入ります。
大使の間は玉座が置かれた正式な接見用の部屋で、他国の使節団が王に謁見したのはここでした。11m四方の正方形の部屋の壁はこれまで同様化粧漆喰で覆われ、神への賞賛の言葉や詩などが装飾文字で書かれています。
天井は高く、星空を思わせる木製の腰折れ天井です。
大使の間の前にはアラヤネスのパティオがあります。
陽の光が強烈なこの地方では、室内は真っ暗に見え、外に出ると目が開けられないほど眩しくて暑い。
大使の間から中庭に出てきた諸国の使節団は、建物が映し出された巨大な水鏡を見てさぞ驚いたことでしょう。コマレス宮は外交の中心地でもあったでしょうから、ここでは盛大なレセプションが開かれたことと思います。
向かいの建物の中断に見える7つの窓は女たちの居住空間だったようです。向こう側に見える。16世紀から建設が始められたカルロス5世の宮殿が空間を閉鎖的にしているのが残念。
アルハンブラ宮殿は水を使ったことでも有名です。こんな高台にどうやって水を引いているのか不思議ですが、その仕掛けは驚くほど高度なものらしい。
池の反対側に廻ってみると、正面にドーンと座っているのがかつては城砦だったコマレスの塔で、大使の間はあの中にあります。
中庭の腰壁はスタッコによるアラビア文字とタイルによる装飾が施されています。
ちなみにこの中庭の名になっているアラヤネスはミルトという植物のことだそうで、池を取り囲んでいるのがそれだそうです。
ここからはライオン宮です。この宮殿はナスル朝が最盛期を迎えた14世紀後半のムハンマド5世の治世下で造られました。3つある宮殿の中でも、最もゴージャスなものです。
アルハンブラといえばこちら、ライオンのパティオでしょう。四周は細い大理石の柱が巡らされ回廊になっています。真ん中には有名な12頭のライオンの像に支えられた噴水がありますが、この像、本当にライオン? という顔をしていますね。それはともかく、ライオンが12頭いるのは時計だったからだそうで、それぞれ別の時刻に水を吐いていたらしいのですが、今は全頭がいつでも水を吐いています。
なんとここはその昔は王様以外の男は立ち入り禁止だったそうな。
ぐるっと張り巡らされた2階の部屋には王の妃たちが住んでいたとのことで、ここは王様のハーレム・ゾーンだったのです。
この回廊はとても美しいです。
しかしイスラム建築ではこのように中庭を柱廊で囲むことは大変珍しく、キリスト教の修道院の回廊の影響があると考えられています。グラナダ王国の隣にはキリスト教国のカスティーリャ王国があり、キリスト教文化との交流は多かったと考えられます。
回廊の周りにはさまざまな部屋が並んでいます。
アベンセラヘスの間は、平面形は正方形ですが天井は星型で、モカラベスと呼ばれる鍾乳石飾りで埋め尽くされています。
アベンセラヘスは王に仕えた名門騎士団の名前だそうですが、后との不貞を知った王が、その一族の男たちをここで皆殺しにしたといいます。
諸王の間はライオンのパティオの東に位置します。部屋の名は天井にナスル朝の10人の王の肖像が描かれていることから来ているそうです。
ここは三つの正方形の部屋、それらの間の二つの長方形の部屋、両端のアルコーブから成り、それぞれ鍾乳石飾りの天井で覆われています。部屋と部屋の間にはアーチが架けられ、例によって装飾文字やアラベスクの繊細な漆喰で仕上られています。
回廊の隅にはよりプライベートなゾーンへ続くドアが設けられています。
これは確か正室の住居への出入口だったか。
何に使われたのか、小さなニッチの周囲も手抜きがなく、装飾で埋め尽くされています。
中庭を挟んでアベンセラヘスの間の向かいにあるのが、二姉妹の間。
この部屋は王妃とその家族が住まいとして使用していた部屋で、正方形ですが八角形のモカラベスの天井があります。これは見事!
この部屋はカルロス5世の部屋と繋がっており、またバルコニーはパルタルの庭園に面しています。
二姉妹の間の北側にはリンダラハのバルコニーがあります。窓の上には鍾乳石飾りが付いたアーチがありますが、ここは尖頭アーチです。
ここからは坪庭のようなリンダラハの中庭が見渡せます。囚われの身の二姉妹の一人リンダラハがお気に入りだったことからこの名が付けられたそう。
リンダラハの中庭は、南側はリンダラハのバルコニーと二姉妹の間、北側はカルロス5世の部屋、東西は王の専用回廊に面しています。
コマレス宮の東側には王の浴室があります。
この天井には星形の採光ための孔が開いています。ん〜ん、アラブ〜。
大使の間の横の上部のバルコニーに出てみます。
すると見えるのはダーロ川に沿った北面で、向こう側には女王の化粧部屋(Peinador de la Reina)が見えます。これはカルロス5世の妻であるエリザベス女帝の部屋だったそうです。
ここからはTOP写真のようなアルバイシンが望めます。
アルハンブラは外の庭園も美しい。アラブ時代、宮殿の周辺には貴族が住んでいた建物がたくさんあったそうです。現存するものの中で一番重要なのが、このパルタル庭園にある5つのアーチを持つ貴婦人の塔と呼ばれる建物。
大きな長方形の池とその周囲の緑、そして青い空が見事な調和を成していました。パルタル(Partal)は柱廊という意味で、中央のアーチのみがオリジナルだそうです。大理石の柱によって支えられていますが、この柱は以前は煉瓦製だったそうです。
パルタル庭園から東を望めば、手前にアルハンブラの城塞、その向こうに小さくフェネラリフェ、そして丘の上に別の城塞が見えます。
アルハンブラの城壁の外、谷の向こう側にあるのが、14世紀初頭に造られた王様の夏の別荘ヘネラリフェ。
糸杉のアーチをくぐると、離宮の建物までの間に広大な庭園が続いています。その中央には細長い池と噴水が配され、奥へと延びています。
この庭園の奥の奥にあるのが離宮で、そこには二つの建物が立ち、それらの間にアセキアの中庭(Patio de la Acequia)があります。
アセキアは水路というほどの意味で、ここにもまた下の庭と同じように池と噴水があります。この中庭にはきれいな花々が咲き、アーチを描く小さな噴水の水音が心地よく耳に響きます。
北側の建物の2階には、塀のむこうにアルバイシンの家々が見渡せる、すばらしい眺めがあります。
当初は平屋建だった北側の建物が15世紀の末に3階建に増築されたため、今日ではそちらが立派に見えますが、中庭の南側にある建物は主要な出入り口近くにあり、ヘネラリフェでは最も重要な建物だったそうです。
ヘネラリフェからはアルハンブラ宮殿の眺め良し! 王様っていいですね〜
ここで私たちは、王様は無理でもちょっとした貴族気分でも味わおうと、パラドールへ向かいました。このパラドールはアルハンブラ宮殿内の18世紀の修道院を改装したもので、さすがにアルハンブラの他の建物群と調和の取れた美しさ。たいていパラドールではその地方の郷土料理を味わう事ができるので、レストランへ向かいます。テラスからはヘラネリフェやシエラ・ネバダが見渡せ、とてもいい気分。
たくさんのお皿に一品づつ盛られた前菜にはじまり、メインは鱒のホワイトソースとビーフの煮込み、デザートに紅茶のムース。ちょっとお値段は張りますが、満足!
グラナダが陥落(1492年)し、アルハンブラがキリスト教徒に明け渡されると、カルロス1世(神聖ローマ帝国カール5世)はかつての宮殿の一部を取り壊して宮殿を造らせました。これが1527年に着工したカルロス5世宮殿です。
ミケランジェロに学んだ建築家によりルネッサンス様式が採用され、真四角の建物となりましたが、その中央は円形に切り取られ中庭になっています。この中庭の列柱は1階がドリス式、2階がイオニア式です。
アルハンブラのあとはスペイン・バロック建築の傑作の1つとされるカルトゥハ修道院です。この修道院は16世紀の初頭に建設が開始され、現在の姿に至まで200年の年月を要しており、当然ながら様々な様式が混じり合っています。
外観は地味で、これはおそらくバロック様式以前のルネッサンス様式、ここはスペインですからプラテレスコ様式あたりでしょうか。
中庭の回廊もご覧の通りで、バロックというよりもう少し古い時代の様式を感じさせますが、この修道院はナポレオン戦争でかなりの部分が壊され、大回廊も失われたそうなので、建築的には新しいものかもしれません。
しかしこの外部の印象は内部に入るとガラリと変わります。
18世紀ごろになるとヨーヨッパではバロック時代も後期に入り、ロココ様式と呼ばれるきらびやかで繊細にして豪華な意匠になりますが、スペインに伝播したバロック様式も独自の変化を遂げ、チュリゲラ様式といわれる様式が流行します。
チュリゲラ様式はスペインのバロック建築としては典型的なものだそうで、このカルトゥハ修道院の内部がまさにそれです。
この装飾の技法の化粧漆喰は基本的にはアルハンブラと同じですが、時代の違いとイスラム教とキリスト教の違いがこれほどまでに印象が違うものにしているのに、ただただ驚くばかりです。
以上でグラナダの散策はおしまい。
グラナダからは、アンダルシアの白い村々を巡ってコスタ・デル・ソルで一泳ぎし、ロンダに向かうことにしました。アンダルシアの小さな村々を巡るのには車でないとむずかしいので、TATというレンタカーやで、セアットのイビザという小さな車を借りました。
グラナダから幹線道をひたすら南下していると、山間にポツ、ポツと小さな村々が現れ出します。橋の上から覗くようにしてこういった村々を眺めるのはとても楽しい。
70kmほど走るとコスタ・デル・ソルの海岸に到着です。ちょうどそこに、こんもりした丘にへばりつくような白い街が現れました。サロブレーニャです。このあたりから村々はみんなこのような白い街になります。
サロブレーニャの街を入ったところの海岸で一泳ぎです。ここの海の水は思ったより冷たく、ちょっと冷やっとしましたが、さわやかでとても気持ちよかった。この海岸のレストランでランチ。さすがに海のそばだけあり、魚介類は新鮮でおいしい。
このあとは海岸線を西へ、一路マラガに向かいます。