鎌倉は南は相模湾に面し、その他は山に囲まれた自然の要塞都市でした。ここに都が築かれた頃、外敵の侵入を防ぎつつ、最低限の人や物資の流通のため、陸路には切通しが作られました。
鎌倉七口(かまくらななくち)は鎌倉の内外を結ぶ道に作られた切通しで、以下を指します。
亀ヶ谷切通し(かめがやつきりどおし)
化粧坂切通し(けわいざかきりどおし)
大仏切通し (だいぶつきりとおし)
極楽寺坂切通し(ごくらくじざかきりどおし)
名越切通し(なごえきりとおし)
朝比奈切通し(あさひなきりどおし)
巨福呂坂切通し(こぶころざかきりどおし)
資料的にはじめて『鎌倉七口』の文字が現れるのは江戸時代だそうで、これらすべてが鎌倉時代からあったかどうかははっきりしませんが、鎌倉時代に成立した吾妻鏡には、『気和飛坂』( 化粧坂切通し)、『六浦道』( 朝比奈切通し)、『名越坂』( 名越切通し)、『山内道路』( 亀ヶ谷切通しか巨福呂坂切通し)の名はあるようです。
円覚寺
北鎌倉駅のプラットフォームから東側の線路に沿った細道に出れば、すぐ南には真っ赤な紅葉と階段の上に杉林に囲まれた円覚寺の総門が現れます。
この道を線路に沿って南、建長寺方面へと向かえば左に明月院を抱く小高い山が現れ、やがてr21鎌倉街道に合流します。この地方道をさらに300mほど進むと、右手の階段の上に長寿寺(山号宝亀山)の門が現れます。
長寿寺の門と亀ヶ谷坂
この茅葺きの門のすぐ先に坂を上って行く一本の細道があります。これが亀ヶ谷切通しに至る道で、標識には『亀ヶ谷坂切通』とあります。ここは名称に坂を付けて呼ぶこともあるようで、こうした例はほかに大仏坂切通しがあります。
長寿寺の境内では銀杏の大木が黄色に、かえでを始めとする木々が赤く染まっています。
亀ヶ谷切通しに向かう
長寿寺から亀ヶ谷坂を上り始めれば、右手には長寿寺の土手が、左手にはこんもりした林の土手が迫り、いかにも切通しに向かう道にふさわしい雰囲気です。土手の苔もこの時期にふさわしく赤くなっていて、いい感じ。
徐々に勾配が増し、200mほども行けば道の最高点に達します。ここまで勾配は緩くはないものの、坂の名のいわれとなった、亀が上れずにひっくり返った、というほどのものではありません。現在の道は勾配を穏やかにするために切り下げられたようで、かつてはもっときつかったのでしょう。
亀ヶ谷切通しのピーク
頂上付近の左右の壁は大部分が木々に覆われていますが、良く見ればあちこちに岩が露出していて、いかにも切通しという趣があります。その岩壁の前にはお地蔵様がひっそりと。
岩船地蔵堂
扇ヶ谷(おうぎがやつ)側の坂は長寿寺側より勾配がきつく、道脇の切通し壁も良く残っています。しかし、下の方ではたくさん民家が建ち並んでしまっています。
峠からこちら側も200mほどで下り終わり、下の道に突き当たります。その角には源頼朝の娘大姫を供養する八角形の岩船地蔵堂が建っています。吾妻鏡に出て来る『亀ヶ谷辻』とは、どうやらこのお堂のあたりのことのようです。
海蔵寺に向かう
岩船地蔵堂から西、海蔵寺方面へ向かい民家の間を行くと、道脇はきれいな紅葉。
海蔵寺付近の紅葉
海蔵寺の大きなカエデの紅葉はすでに終わっていましたが、近くの木々の中には、今が盛りというものもたくさんあります。
突き当たりが化粧坂
海蔵寺からは少しもどって源氏山公園に向かいます。民家の間を行く細道の坂を上ると、先にこんもりした小さな山が現れ、道は行き止まりになります。
化粧坂その1
その行き止まりの先を良く見ると、細道が上に続いています。この道が化粧坂切通しへと続く道です。
この路面は一見なんの変哲もないただの土に見えますが、実はこれはすべて大きな岩なのです。そこに水が滲み出していて、滑る滑る。
化粧坂その2
上り口の路面はスロープ状ですが、そのうち大きな段差の階段状に変わり、これがずっと上まで続いて行きます。この階段も岩です。
ここは自転車を持ち上げるのに一苦労。
化粧坂その3
『化粧』を古くは『けわい』とも読み、この場合は『身だしなみを整える』という意味になるそうです。
ここ化粧坂切通しは、鎌倉と武蔵国(府中)を繋ぐ道の、鎌倉の内と外を分ける境界点だったようで、鎌倉という都、ハレの場に入る、『身だしなみを整える』べき場所だったのかもしれません。
源氏山公園の頼朝像
化粧坂を上り切ると源氏山公園に到着。この山は、後三年の役(1083~1087年)の折り、八幡太郎義家が奥州への出陣に際して山上に旗を立てたことから、源氏山、旗立山又は白旗山などと呼ばれるようになったとか。
源頼朝像を眺め、真っ赤なさざんかを眺めつつ一休み。
銭洗弁天入口
源氏山公園からは、路面に○○印の滑り止め加工が施された激坂を下り、銭洗弁天に。
道路脇の切り立った岩壁の前に鳥居が建ち、そのすぐうしろにはトンネルが掘られています。
銭洗弁天の境内
このトンネルを通り抜け、さらにたくさんの鳥居をくぐると弁天様の境内で、その奥の岩山には洞窟が見えます。
この洞窟の内に湧き出す清水が弁天様の御神体です。
霊水で銭をじゃぶじゃぶ
これは頼朝が霊夢によって導かれ見つけた湧水で、そこに洞を穿って社を建てたとされ、さらに北条時頼がこの霊水で銭を洗って一族繁栄を祈ったことから、以後ここでお金を洗うと何倍にも増えるということになったようです。
もちろん私たちもここでじゃぶじゃぶ。
佐助一丁目から西に向かう
弁天様からはまず急な下りで下の道に出、そこからは住宅街を下って佐助一丁目の交差点に出ます。
交差点からはやや上り基調の道を西に向かい、トンネルを二つくぐり抜けます。この道は少々車の通りが多いので注意を。
大仏切通し入口付近
r32に出て『火の見下』のバス停から民家の間の極細の路地に入り、さらにその先の民家の軒下を通るようにして、大仏切通しへ向かいます。
大仏切通しに続く階段
まず杉林が現れ、その中を進むと道は左右に分かれ、左手の木製の階段を上ると高い岩の断崖の下でおしまい。
右手は登山道のように丸太でステップが作られています。
切通しと置石
その右手のステップを上って行くと、いきなり両側の岩が削り取られた切り通しが現れます。
その中にはごろっとした大きな石がいくつもあります。こうした石は、上から落ちたり動かせずにそのまま放置されたものではなく、防御のためにわざと置かれたものだそうです。これは正に外敵を防ぐには有効でしょうが、ここを通る一般の人々には邪魔だったに違いありません。
ここは先ほど見てきた亀ヶ谷坂とも化粧坂とも違う印象を受けます。まさに切通し!
山間に相模湾
大仏切通しは、極めて細い道が尾根の中腹をくねくねと曲がりながら通って行きます。切通しのあとは掘割道のようなものが現れ、その掘割が低くなると右手が少し開け、r32の大仏隧道の入口が見えます。さらに進めば下りの階段が現れ、大仏隧道が抜けた先の道が下に見えます。遥か先には相模湾が。ここから海が見えるとは思っていなかったので、ちょっと感動です。
さて、この階段を下りれば大仏様に至りますが、私たちはここから引き返すことにしました。
成就院付近の極楽寺坂
大仏切通しの往復1kmほどの散策を終え、裏道で極楽寺方面へ向かいます。江ノ島電鉄の線路の上の赤い橋を渡ると、下の道に突き当たります。この道が極楽寺坂切通しへと続くのですが、現在は幅はやや狭いものの普通の道路といった趣です。
穏やかな坂を上って行くと、道の両脇は高い擁壁となり、かつてこの道が切通しであったことがかろうじて感じられます。右手に成就院に上る階段が現れると、この道の頂部はもうすぐです。
極楽寺坂を下ったところ
かつての極楽寺坂は成就院のあたりを通っていたと推測されるようなのですが、現在の道からはちょっと当時の姿は想像できませんでした。
道が下り出すと、左手にお地蔵さんと白い旗がたくさん立った虚空蔵堂が現れ、その階段下には『星月の井』という古い井戸も。この周辺には歴史を感じさせる民家も残っており、どこかなつかしさを感じさせる雰囲気を持っています。
由比ヶ浜
極楽寺坂の道は長谷で国道に合流します。するとそこは、相模湾の由比ヶ浜。
夏には賑わうこのビーチも、気温が低いこの日は浜にはまったく人はいませんでした。しかし海上にはウィンドサーフィンを楽しむ人々がたくさん。
材木座から名越切通しの山を臨む
若宮大路の海岸橋から材木座の中を進めば、正面に名越切通しがある山が見えてきます。名越切通しはあの山を越えて三浦に向かう主要道だったようです。
r311が名越隧道に入る付近でJR横須賀線の名越坂踏切を渡って、その北側に廻り込みます。民家と線路の間を行く道は、路面に○○の滑り止め加工が施されたコンクリートの急坂に。
名越切通し入口からJR横須賀線を臨む
その急坂が終わったところからは、横須賀線の線路に沿う崖に突き出した仮設のような歩廊を進みます。
ここは横須賀線のトンネルの入口のすぐ脇に当たり、本当にここ行ってだいじょうぶ? という雰囲気です。
入口にある庚申塔とお地蔵様
しかしこの道の突き当たりから、名越切通しに続く道が始まるのです。
入口の山側に庚申塔とお地蔵様が現れ、この道が切通しへ続くことを感じさせてくれます。
続く石段
トンネル脇のフェンス際をすり抜けるようにして進むと、鬱蒼とした木々の中、後世に整備されたと思われる石の段を上り出します。置石があり、さらに進めば急に道が90°方向を変えます。
両側はシダに覆われ、その中を序盤にあったものよりさらにしっかりとした石段が上って行きます。
掘割道
この石段を上り切ると、突然堀割道が姿を現します。
掘割とは連続した切土により周囲の土地より下げられたところをいい、堀割道はその掘割の底を通る道のことです。ここにも大きな置石があります。この置き石があるあたりがどうやら峠のようで、JR横須賀線はこの下を通っているはずです。この先で道の両側に、あまり高くはないものの自然の岩肌が現れるようになり、道が切り通されたと感じられるところに出ます。
まんだら堂のやぐら群
ここは外敵の侵入を阻む防衛施設であるとともに、埋葬の場でもあったようです。その埋葬遺構にあたるのが『まんだら堂』のやぐら群です。
ここでいう『やぐら』とは櫓ではなく、この地方を中心に存在する中世の横穴墳墓で、岩壁などをくり抜いた直方体の洞穴(2m六方くらい)に火葬した死者を埋葬したもののことです。そこには多くの場合五輪塔が置かれています。ここには四層に重ねられたやぐら群と、おびただしい数の石塔が見られます。
まんだら堂の名は1594年(文禄三年)の検地帳に畠の地名として現れるそうですが、建物としてはどんなものだったのかは、まったく分かっていないようです。
大空洞?
逗子市側に下って行くと、両側の側壁が高くなり道が狭くなります。一つの岩が道を塞ぐように突き出したところに出ました。
このあたりには外敵の侵入を防ぐため、岩が左右より覆い被さるように突き出した大空洞(おおほうとう)、小空洞(こほうとう)と呼ばれた場所があるといいます。これらの場所は特定されていないようですが、写真の場所を大空洞とする説もあるようです。
大空洞?から上を見る
そこから上を見上げれば、ごつごつとした切り立った岩壁。この上からやってきた敵を狙ったのでしょうか。
このすぐ先で下に民家が見え出したので、やって来た道を戻ります。
釈迦堂切通し
名越切通しの次は、鎌倉七口には入っていないものの鎌倉でもっとも有名な切通し、釈迦堂切通しへ。
ここは切通しの名はついているものの、岩をくり抜いた洞門というべきものです。しかし迫力満点で見応えは充分。現在は通行止めで、すぐ近くまでは行けないのが残念です。ここでちょっと不思議に思うのは、隧道としてはこんなに高くくり貫く必要はなかったろうということです。現在の姿に近いものが意図的に作られたのか、はたまた隧道の上部が崩落してこのようになったのか…
太刀洗川沿いを行く
次は朝比奈切通しへ。
滑川に沿って進み、十二所神社前の信号でr204から東に入ると、すぐ左手の塚の上に庚申塔や馬頭観音が現れます。この道が朝比奈切通しへと続いて行く金沢街道です。滑川は太刀洗川と名を変え、まわりからは山が迫って来ます。そのうち切り立った岩壁が道脇に現れるようになり、いよいよ切通しといった雰囲気に。
朝夷奈切通の碑と三郎の滝
しばらくすると石祠があり、その前に鎌倉五名水の一つ『太刀洗水』がちょろちょとと湧き出ています。つまり昔ここで刀を洗ったとされる人がいるわけですが、それは頼朝の密命を受けた梶原景時で、斬られたのは謀反の疑いありとされた上総介平広常でした。
周囲がさらに狭まりひっそりとしてくると道が二手に分かれ、右は果樹園に、そして左は朝比奈切通しへと続いて行きます。この左手の道を入るとすぐに、『朝夷奈切通』の碑と小さな『三郎の滝』が現れます。
三郎の滝付近の紅葉
この切通しの名は、朝比奈三郎義秀が一夜にして切り開いたとの言い伝えがあることからで、滝の名もこの人物の名にちなむのでしょう。しかし実際はこの道は北条泰時が1241年(仁治2年)から作らせたようで、吾妻鏡にはその難工事の様子が詳しく書かれているそうです。
この入口付近の路面は、落ち葉がびっしりと敷き詰められたようになっています。
岩を削り取った道が続く
道の北側には極細となった太刀洗川がさらさらと音を立て、どこからともなく滲み出した水で足下はぬかるみ出します。道はほぼまっすぐでやや広く、路面は周囲の岩を削り出して平らにしたようで、その中に置石は置かれていません。先の名越切通しとはずいぶん印象が違います。名越は防御優先型でこちらは物資運搬優先型だったようです。
平らだった路面にいつの間にか段が現れ始め、その段が奥に進むにつれて次第に大きくなって行きます。こうなるとハイキング靴でもかなり滑りやすく、注意して進みます。しかし、この岩の掘削工事は並大抵のものではありません。鎌倉時代にどうやって工事をしたのか、本当にもの凄い大土木工事です。
頂上付近の大切通し
現在の鎌倉市と横浜市の市境となっているこの切通し道の頂上付近は『大切通し』と呼ばれ、その切り落とされたようにしてそそり立つ側壁の高さは20m近くあります。
初代歌川広重が描いた『朝比奈切通しの図』によれば、なんとこの切通しから海が見えている! さて実際はどうなのか。
切通し壁の磨崖仏
大切通しの岩壁には荒々しい鑿のあとが残り、その中に磨崖仏が掘られています。
鎌倉時代の鑿の痕が今まで残っているとは思えないので、これはおそらく後世のものでしょう。その中の磨崖仏もおそらくは後世のものではないかと思います。
大切通し
その磨崖仏の反対側はこんなふうで、かなり猛々しい。
これより先の金沢寄りは『小切通し』と呼ばれ、徐々に側壁は低くなって行きます。この頂部の大切通しより少し先まで行ってみましたが、その先は針葉樹に阻まれ視線は行き止まりに。どうやら現在の朝比奈切通しから海は見えないようです。
この朝比奈切通しで、鎌倉七口のうちの六つを巡りました。残るはあと一つ、巨福呂坂切通しを残すのみで、来た道を戻って鎌倉の中心部に向かいます。
瑞泉寺の本堂と庭園
鎌倉には紅葉がすばらしいお寺がいくつもあります。この瑞泉寺もその一つ。
ここは夢窓疎石を開山として1327年(嘉暦二年)に創建され、山号の錦屏山は、紅葉ヶ谷(このあたりの谷)を囲む山の紅葉が寺の背後に錦の屏風のように広がることから名付けられたとされます。
本堂の裏には岩盤を削って作られた夢窓疎石による禅宗様の庭園があり、これは書院庭園の起源といわれています。
瑞泉寺の紅葉
ここはカエデの紅葉がきれいだそうですが、その一部は終わっていて、多くはこれからでした。しかし中にはこんな真っ赤なのも。
鶴岡八幡宮
鎌倉といえばの鶴岡八幡宮にお参りし、
巨福呂坂
そこから鎌倉七口の最後の巨福呂坂切通しに向かいます。巨福呂坂切通しは、鶴岡八幡宮の裏手から山之内(北鎌倉駅付近)を結ぶ道にあったようです。
鶴岡八幡宮からr21が大きくカーブする手前で細道を入ると、正面に送水管隧道が見え、その右の道を上って行くと大聖歓喜天の鳥居が現れます。さらに進むと庚申塔などが並んでいて、ここが古道だったことを感じさせます。
巨福呂坂終点
しかしそのすぐ先で道は突然行き止まりに。よく見れば奥に細道が続きますがここからは私有地らしいので、侵入を断念。かりにこの先を進んだとしても、道はr21で寸断されているはずです。
元の切通し道はここから峠を越えて建長寺前に抜けていたようですが、切通しとなる峠はどこだったのか、またどのようなものだったのかは、どうやらはっきりとはわからないようです。
鎌倉七口のうちいくつかは今でも古道の雰囲気を残し、古都鎌倉にふさわしい道でした。今回の自転車ルートは七口を繋いだだけのものですが、途中にはみどころがたくさんあり、気の向くまま寄り道しても楽しいと思います。