茗荷谷駅付近
寒い季節には軽めの街ポタがぴったり。
ということで今回は、昨年のツール・ド・文京区で廻り切れなかった文京区の見どころを巡ります。
旧磯野家住宅表門
丸ノ内線の茗荷谷駅から筑波大学の脇の道を下り出すとすぐに、ちょっと変わった門が現れます。ここは磯野敬という方が建てた住宅で、重要文化財に指定されています。
表門は大正2年竣工で、屋根には鴟尾が乗り、扉は楠の一枚板、そして柱に尾州産だという檜の丸太を用いた四脚門です。この表門はふだんは閉まっており、周辺はひっそりとしています。門の向こう側には深い木立が生い茂り、その中に大正元年竣工の主屋が建ちます。その屋根や壁が銅板で葺かれているため、ここは銅御殿(あかがねごてん)と呼ばれてきたとか。
旧磯野家付近
磯野家の門からさらに下ると、進行左手には教育の森公園一帯の森が広がり、かつてこのあたりが水戸徳川家二代光圀の弟、松平頼元の屋敷だったころの庭の面影を残す占春園の横を過ぎて行きます。
小石川植物園脇
r436千川通りを渡るとこれまで下りだった道は逆に上りに。この上り勾配がきつい! じつは文京区は坂だらけで、その勾配も半端ではないところが多いのです。
わっせわっせ、と上って白山通り、不忍通りと越えると、赤煉瓦の塀に囲まれた六義園(りくぎえん)に到着。
六義園
六義園は徳川綱吉の側用人・柳沢吉保の下屋敷の庭で、設計は吉保本人と伝えられる回遊式築山泉水庭園です。
その名称は、中国の古い漢詩集である「毛詩」の「詩の六義」、すなわち風・賦・比・興・雅・頌という分類法を、紀貫之が転用した和歌の「六体」に由来する、と都公園協会の資料にあります。ここは明治に入ると三菱の創設者・岩崎弥太郎の別邸になり、外周に今日も見られる赤煉瓦の塀が巡らされました。
藤代峠より
六義園の内庭大門を入ると、正面に大きなしだれ桜。春にここに来れば、この桜が見事な花を咲かせています。その桜の奥、庭園の真ん中には、千川上水から引かれた大泉水という大きな池があり、その中に中之島が浮かんでいます。
池を廻り、滝見茶屋で小さな岩場から落ちる滝を眺め、つつじ茶屋を廻ったら藤代峠に上ります。この峠が園内一の築山で、そこからは素晴らしい眺望があります。
本駒込の裏路地を行く
六義園を一回りしたあとは、本駒込の裏路地を進みます。
駒込名主屋敷
路地の突き当たりに駒込名主屋敷はあります。
豊臣方だった高木家は大阪夏の陣ののちこの地に逃れ、駒込の開拓を許されて名主を務めたようです。内部には旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関があり、そこで町人からの訴えや争いの仲裁を行ったため、『名主様玄関の裁き』と言われたとか。
天祖神社境内
高木家を出て南に向かうと、すぐに銀杏並木が続く神社があります。
狭いアプローチが逆に豊かに見える、ここはそんな空間です。
旧安田楠雄邸
本駒込から千駄木に入ると、そこにあるのは旧安田楠雄邸。
ここは豊島園の創始者・藤田好三郎により1919年(大正8年)に建てられた近代和風建築で、その後安田財閥の創始者・安田善次郎の女婿・善四郎のものとなり、その子・楠雄に受け継がれたものです。
旧安田楠雄邸の庭
敷地は当時より若干小さくなったようですが、それでもよく原型を留めているようで、いい感じです。
応接室
藤田好三郎は普請道楽で知られるだけあり、この家も相当に立派です。建物全体は和風ですが、玄関を入った先にある応接室とサンルームは洋風といっていいでしょう。
和と洋の切り替え・接合部もうまく処理されており、違和感を抱かせません。廊下から応接室に入るところの床板やその上の天井の扱いには感心させられます。
サンルーム
応接室から続くサンルームは和洋折衷ですが、ほとんど違和感がなく、自然に感じます。
応接室横の廊下
雁行に配置されたこの建物は、玄関からサンルームまでがその第一部で、畳敷きの廊下で第二部、客間である残月の間に続いて行きます。北側にあった廊下がほぼそのまま、残月の間では南側になるのが憎い。
残月の間の奥には茶の間があり、さらに二階にも立派な座敷があるのですが、残念ながらここでは紹介しきれません。一回りして玄関に戻って来ると、ボランティアの方がおいしい甘酒をくださいました。これで体がほかほかに。
芦葉家住宅倉庫
旧安田楠雄邸の近くには、昭和初期に土蔵に代わり普及した鉄筋コンクリート造の倉庫があります。
これは陸屋根の二階建で壁式構造に見えますが、実は柱梁構造だそうです。
須藤公園
須藤公園は加賀藩の支藩の大聖寺藩(十万石)の屋敷跡で、 滝、池、藤棚があります。
この池は、『かっぱに注意!』だって。
島薗家住宅
島薗家住宅は東京帝国大学の医学部教授の住宅だそうで、ドイツ風の洋館とされています。設計者は日本信託銀行本店の設計などで知られる矢部又吉。当初は陸屋根の平屋だったそうですが、その後二階が増築されたようです。現在見える一階の水平の軒が当初の屋根だったのでしょう。各所に施されたちょっとした装飾が楽しい。
これで千駄木はおしまいにして、一度、本駒込に戻ります。
吉祥寺
本駒込にある吉祥寺は、太田道灌が江戸城築城に際し井戸を掘ったところ、『吉祥増上』の刻印が出てきたので、和田倉門に『吉祥庵』を設けたのがはじまりとされます。徳川家康の関東入国の際に水道橋に移されましたが、明暦の大火で焼失し、現在の位置に移ったようです。この大火で家を失った門前の人々が移住した先が、武蔵野市の吉祥寺で、吉祥寺の地名はこのお寺に由来するのだそうです。
吉祥寺境内
このお寺の境内はかなり広く、お墓も立派なものが多い。門を入って少し先の左手には、八百屋お七と吉三の比翼塚があります。本堂の近くではセンダンの木が実を付けていました。
白山神社
吉祥寺から下ってR17旧白山通りを渡るとそこは白山で、その地名の元になった白山神社があります。
この神社の創建は古く、948年(天暦二年)に加賀一宮白山神社を現在の本郷一丁目に勧請したことによるとされています。二代将軍秀忠の時に小石川植物園の中に移りますが、まだ館林候だった徳川綱吉の屋敷の造営のために現在の地に移されたようです。この縁でこの神社は、綱吉とその生母桂昌院の厚い帰依を受けたそうです。現在は隣の白山公園(文京区最古の公園)と合わせてアジサイで有名で、6月には『アジサイ祭り』が行われます。
圓乗寺の八百屋お七の墓
r301の旧白山通りを渡ると、八百屋お七の墓がある圓乗寺があります。
幼い恋慕の挙げ句に当時は大罪だった付け火をし、市中引き回しの上火あぶりの刑にされた八百屋お七の事件は、井原西鶴の『好色五人女』で有名になり、以降、歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵などに取り上げられるほど江戸の人々の心を捕らえたものとなり、今日に伝えられています。
お七の墓石は今では三基もあり、中央の小さいのは住職が、右の大きなものは芝居で大当たりをとった初代岩井半四郎が建てたもの、そして左は二百七十回忌に建てられたものだそうです。
新町館(三宅家住宅)
圓乗寺から西片(にしかた)に向かう途中には新町館(三宅家住宅)があります。ここは住宅兼法律事務所として建てられたようで、その工事中には関東大震災があったとか。
鉄筋コンクリート造で陸屋根を持つ住宅の初期のもので、縦長の窓と軒下のトリグリフ状の飾りが特徴らしい。
平野家住宅
西片は、かつては福山藩主阿部家の中屋敷だったところで、今でもわずかながら明治・大正時代の雰囲気を残しています。
平野家住宅は1922年(大正11年)建造、木造二階建のスレート葺、ハーフティンバースタイルの洋館で、白タイル貼りという洒落たもの。
本郷追分
西片から本郷通り(岩槻街道)に出れば、これに旧白山通りがぶつかるT字路があります。ここは『本郷追分』と呼ばれ、江戸時代には中山道の最初の一里塚があり、日光御成道(岩槻街道)との分かれ道でもあったことから『追分一里塚』と呼ばれたそうです。
この角に建つ高崎屋は江戸時代より今日まで続く酒店で、付近からは同店の銘の入った酒徳利がたくさん発掘されており、当時は大繁盛だった様子が伺えます。ここには青果の大店・八百屋太郎兵衛の店もあったようで、その娘が圓乗寺に墓があった八百屋お七です。
ここから分れるR17を少し行くと、切妻屋根に背の低い鐘塔と三連の尖頭アーチ窓を持つ日本基督教団西片町教会(1935年(昭和10年))があります。
東京大学の塀沿いを行く
本郷追分の東は東京大学の農学部で、かつてここは水戸徳川家の中屋敷でした。この農学部の弥生キャンパスから言問通りを挟んだ南側には、同じく東京大学の法学部や工学部などがある本郷キャンパスが広がり、こちらは加賀前田家の上屋敷でした。
東京大学正門
東京大学の中には文化財クラスの建物がたくさんありますが、今回は正門を紹介します。
東京大学正門の設計は築地本願寺や湯島聖堂を手がけた伊藤忠太で、左右対称に正門・煉瓦塀・門衛所が建ちます。有名な赤門は前田家の御守殿門で建築様式としては薬医門であるのに対し、この正門は冠木門(かぶきもん)を基調にしたと言われており、花崗岩と鉄で造られています。門扉には唐草模様と青海波模様が見られ、また門衛所の屋根にはむくりが付けられており、伝統的な様式を保ちつつも新しい意匠を目指しているように見えます。
東京大学構内
この正門を入ると、安田講堂まで銀杏並木が続きます。ここには文化財クラスの建物がずらりと並び、足下をよく見ると、すり切れたマンホールには『東京帝国大学』とあります。
今回は参加者が10名とちょっと多いので、東大の学食で昼食にしました。安田講堂の前の地下にあるUFO食堂(中央食堂)は、昔は天井が 浅いドーム状でUFOみたいな形だったのですが、現在はその下に洒落た小割りの天井が付けられたようで、 UFO食堂じゃあなくなっちゃった。学食なのでお値段は激安ですョ。
求道会館
東大から本郷通りを挟んだ向かいのブロックには、求道会館(1915年(大正4年))があります。
ここは浄土真宗の僧侶でヨーロッパ留学経験もある近角常観(ちかずみじょうかん)が説法の場として開設したもので、設計は日本に初めてアールヌーボーやゼセッションを本格的に紹介したといわれる武田五一で、煉瓦造だそうです。
求道会館内部
会館の中に入れば、正面には中に本尊が納められた六角堂が建ち、その前に演壇、さらに手前に長椅子が配されています。
この空間構成は仏教寺院ともキリスト教聖堂とも違う独特なもので、説法に最適化されたものだとか。
求道会館内部その2
二階はバルコニー状になっており、それを支える柱にはガス管が使われています。
小屋組は2×6の部材を用いた木造トラスで、現代の木造建築で使われる構造形式にかなり近い。
求道学舎
求道会館の奥には、欧州形式の寄宿舎・求道学舎(非公開)があります。ここは一時はかなり荒れたようになっていましたが、近年リノベーションされました。
この隣にあった古い木造三階建ての下宿・本郷館は残念ながら取り壊されていました。
金澤家住宅
求道会館からは再び西片を通り抜けて、小石川植物園に向かいます。
西片にある金澤家住宅は、東京美術学校建築科の助教授がその父親のために建てたものだそうで、洋館は背の高い平屋建のアトリエで、外壁は下見板張り。切妻屋根の右手の寄棟部は応接室だそうです。
ここ西片にはこんなふうに、洋館などがポツポツと建っています。
旧東京医学校本館
西片から坂道を下った先にある小石川植物園の中には、旧東京医学校本館があります。
これは工部省営繕局の設計で、1876年(明治9年)に竣工した木造二階建の建物(移築)です。正面入口部にはポーティコが設けられており、当初は塔屋の四面に時計が付けられていたそうです。近年改修工事が行われ、そろそろリニューアルオープンするはず。
大塚公園
小石川から大塚に入ると、大塚公園です。
ここは特に有名な公園ではないのですが、開園は昭和3年ということでそれなりの歴史があり、露檀やトレリス、藤棚、パーゴラ、噴水といった今や公園の定番となった要素がすでにここに見ることができます。こうしたものに加え、気軽にちょっとした外遊びやスポーツができる広場があるのがいいですね。
大塚付近
大塚公園から春日通りを渡ると、激坂を下ります。このあたりでは春日通りが尾根を通っているのです。
護国寺の脇にある吹上稲荷神社は、2代将軍徳川秀忠が日光山から稲荷の神体を賜り、江戸城内吹上御殿内に東稲荷宮と称したのが始まりで、その後、松平大学頭邸内(現教育の森公園)、善仁寺と移り、この頃元は吹上御殿内にあったことから吹上稲荷と改名したようです。この吹上稲荷があったことから善仁寺の前の坂は吹上坂と呼ばれるようになったとも言われています。さらにその後、護国寺などを変遷し、明治の終わり頃現在の地に移ったようです。ここでは毎年節分には、おごそかに豆撒きがされるのですが、なんとそれは明日だとか。今日でなくてちょっと残念。
護国寺
吹上稲荷から不忍通りに出ると、すぐに護国寺があります。ここは、五代将軍徳川綱吉が生母桂昌院の願いにより創建した祈願寺で、本尊は観音様。
明治以降は一般人の墓所を造成し、そこには三条実美、山縣有朋、大隈重信などの有名人が多数が眠っています。
成瀬記念講堂
不忍通り沿いには日本女子大学もあります。ここは私立女子大学で常に人気上位にある名門で、明治時代の終わり頃建設され関東大震災の後再建された成瀬記念講堂は、屋根の木造トラスやステンドグラスが美しいそうです。
新江戸川公園
神田川の流れの脇にある回遊式泉水庭園の新江戸川公園一帯は、熊本藩細川家の下屋敷でした。
六義園とここはほとんど同じような構成に見えますが、六義園では回遊式『築山』泉水庭園とあり、築山されたことがわかります。一方こちらの様式名には築山がないことから、ここの起伏が自然のものであることがわかります。池の背後の台地を山に見立てており、その斜面は深い木立に覆われていて、秋には真っ赤に紅葉します。
永青文庫
この山の上には細川家の財宝を展示する永青文庫があり、さらに奥に、細川護立(元首相細川護煕の祖父)が細川侯爵家の本邸として建てた西洋式の和敬塾本館があります。
椿山荘の脇を行く
細川家の隣には上総久留里藩主黒田豊前守の下屋敷がありました。これは明治に入り山県有朋の邸宅となります。椿山荘の名はここに椿が多くあったことからだそうで、現在も残る庭は見応えがあります。こちらも細川家に劣らず広大なもので、現在はホテル・結婚式場の庭になっていますから、お茶でもしてゆっくり散策しましょう。
でもこの日は、もう庭はいいよね、ということでパスします。
江戸川公園
椿山荘に続くのは江戸川公園。この時すでに、早咲きの梅がいく輪か紅白の花を咲かせていました。
神田川沿いは桜並木になっており、春には花見の人々で賑わいます。この一帯は緑豊かで静か。
東京カテドラル関口教会
神田川から坂を上ると、目白通りの椿山荘の正面入口の先に東京カテドラル関口教会の高い塔が見え出します。
東京カテドラル関口教会はカトリック教会の東京教区の司教座聖堂で、モダンな聖マリア大聖堂は日本を代表する建築家・丹下健三の設計。光り輝く外壁はステンレス貼りです。
ピエタ
大聖堂の入口にはサン・ピエトロ大聖堂のピエタ(ミケランジェロ)のレプリカが置かれています。この像はサン・ピエトロのものと同寸で、サン・ピエトロのそれが現在はガラス越しの遠目にしか見られないのに対し、こちらは手で触れることができるほどのところから見ることができます。
大聖堂内部
内部空間は十字架をモチーフとしたトップライトに八面のHPシェルが架けられ、その室内面はコンクリート打ち放しで、当時としては大変大胆なものです。正面の巨大な十字架のうしろは薄い大理石で、そこから荘厳な黄金色の光が差し込みます。
音羽に下る
東京カテドラルから音羽に下ると、反対側の高台に鳩山会館(1924年建設、500円)があります。ここは鳩山一郎の居宅(1924年建設)だったもので、通称音羽御殿(おとわごてん)と呼ばれます。鉄筋コンクリート造の洋館で、ミミズクやハトなど鳥をモチーフにした装飾が楽しいのですが、2月まで休館とのこと。
拓殖大学本館
音羽からは再び激坂をえんやこ~ら、と小日向に上ります。出発地の茗荷谷駅のすぐ南には拓殖大学があります。この拓殖大学は、桂太郎(後の内閣総理大臣)により台湾開発の人材育成のために設立された台湾協会学校が元で、大学の名称の拓殖は『開拓』して『入植』することから来ているらしい。本館1932年(昭和7年)や国際教育会館1933年(昭和8年)など立派な建物があります。
茗荷谷駅の前を通る春日通りに面して、お茶の水女子大学があります。5代将軍徳川綱吉によって建てられた湯島聖堂には幕府の昌平坂学問所が置かれ、そこには明治以降、東京女子師範学校などが設置されました。この東京女子師範学校こそが今のお茶の水女子大学の前身で、名称の『お茶の水』はこの聖堂内(現東京医科歯科大学所在地)にあったことに由来するそうです。
ここには生活科学部本館1932年(昭和7年)や附属幼稚園園舎1931年(昭和6年)がありますが、女子大は入りにくいな~。