鮟鱇を喰いたい。その話題が出たのは昨年の忘年会でした。鮟鱇なら茨城県の大洗だ! ということで目的地は大洗に決定。
特急ひたちで都心から一時間、茨城県の水戸駅に到着です。ここのところお天気が続いていたのですが、この日は残念ながら曇り。しかも水戸は今朝方雨が降ったようで、路面が濡れており、寒い寒い。
水戸駅から大洗までは10kmほどしかないので、真っすぐ行ったらすぐに着いてしまいます。そこで水戸周辺の見どころを巡りながら、のんびり大洗に向かうことにします。
水戸駅の南口のすぐ前には桜川が流れ、その土手上の自転車道を辿って西へ向かうと、
すぐに千波湖が現れます。
千波湖は元は浅い沼だったと考えられていますが、江戸時代に水戸城の堀として位置づけられ、大きくなったようです。江戸時代には現在よりかなり東まで湖面が広がっていました。
ここには様々な水鳥がいます。カモやカイツブリ、ユリカモメに白鳥といったものが湖面を泳いでいます。
これは黒鳥。どうやらこの二羽はつがいのようで、陸に上がっている方は卵を抱えているようです。そんなわけでか、近付くと威嚇しているのか、ギャアギャアとうるさい。
千波湖は一周3kmほどですが、北岸から西岸に入ったところにちょっとした広場があり、黄門様の銅像が建っています。
その前の千波湖から東を見ると、左手の小高いところに水戸の市街が広がっているのが見えます。
黄門様の銅像からは千波湖を離れ、偕楽園に向かいます。偕楽園は水戸藩第九代藩主徳川斉昭(烈公)によって造園されたもので、日本三名園の一つであり、梅の名所として有名ですね。
偕楽園は千波湖のすぐ北を通るJR常磐線の線路を跨いだ先の高台にあり、歩行者専用の偕楽橋でアプローチできます。
偕楽橋を渡っていると、偕楽園の南斜面に紅梅が咲いているのが見え出します。水戸の梅が咲くのは都心よりずいぶん遅いのですが、この分なら少し期待できそうです。
偕楽橋の先にある偕楽園の入口は東門で、黒塗りの板塀に太い柱状の門が建っています。
東門を入ると右手に梅林が広がり、左手は芝生の見晴広場で、その先の南側の斜面には、偕楽橋からも見えた紅梅が咲いているのが見えます。
この紅梅は花は小さいのですが、色鮮やか。
紅梅を眺めながら広場の縁に近付いていくと、大きな白梅が咲き、その先に先ほどまでいた千波湖が見えています。
この木はちょうど見頃です。
展望広場の西には好文亭が建っています。好文亭は斉昭自身によって設計されたもので、斉昭の別邸であると同時に、ここで敬老会や各種の宴会を催し領民と親しんだといいます。
ここからは南に千波湖とその隣の桜山が、南西には関東平野の名峰筑波山を望み、そしてかつては西に大洗の海も見えたといいます。
好文亭から表門までは杉林や孟宗竹の中を通る道が通じています。
杉林の足元には笹がびっしりで、ここには、明るい展望広場や梅林とはまた違った独特の雰囲気があります。
黒門こと表門は本来の偕楽園の正面入口で、いくつかある偕楽園の門の中でももっとも風格があり、戦災にも焼け残って、開園当時の面影を残しています。左手にはヤブツバキ、右手には桜の巨木があり、この時は白梅が咲いていました。
現在は私たちが入った東門が賑やかですが、江戸時代には水戸城より水戸市中を抜けて、この表門から偕楽園に入っていたのでしょう。斉昭の構想は、この表門をくぐり、まず薄暗い孟宗竹や杉の林を抜け、好文亭に入り、そこから明るい展望広場や梅林に出るというものだったのでしょう。
表門を見たあとは梅林です。
ここには水戸の六名木なる梅があるようですが、どれがどれだか... とにかく園内の梅の木はどれもこれも老木といった感じで、いつまで生き延びられるのか心配させられるものばかり。
梅林の梅はまだほんのちょっとしか咲いていませんが、紅梅と可憐な白梅を少しだけ眺めることができました。
偕楽園からは、そのすぐ隣にある常磐神社を覗いて、水戸市の中心部へ向かいます。
偕楽園の東側は落ち込んだ谷になっており、『西の谷』として湿地帯の中に遊歩道が整備されています。この遊歩道の奥の階段を上ると、水戸市の中心部です。
水戸の旧市街を貫くメインストリートを渡ると、水戸芸術館です。
水戸芸術館は、コンサートホール、劇場、現代美術ギャラリーの3つの専用空間からなり、それぞれの分野でこれまでにない試みがされています。音楽分野では、小澤征爾が総監督を務める専属楽団である水戸室内管弦楽団の定期演奏会などが行われています。
その中庭に建つのが、水戸市制百周年を記念して建てられた高さ100mの塔。正三角形のチタンパネルを螺旋状に積み上げた、ユニークなデザインです。
水戸芸術館から裏通りを東へ向かうと、旧茨城県庁舎が正面に現れます。ここの地名は水戸市三の丸で、かつての水戸城の三の丸でした。
この建物は1930年(昭和5年)に建てられましたが、東日本大震災で被害を受けたため耐震改修がされました。この改修の際、戦後増築された4階部分を撤去し、建設当時の姿に戻したそうです。
旧茨城県庁舎の東には弘道館公園が広がります。弘道館は徳川斉昭によって作られた水戸藩の藩校で、1841年(天保12年)に完成しています。
その中の八卦堂(はっけどう)は建学の精神の象徴である弘道館記碑を納めた八角堂で、戦災で焼失しましたが、1953年(昭和28年)に復元されました。
八卦堂から東へ進むと弘道館の白壁が続き、その北は梅林のある公園になっています。
この公園を含め、この一帯が現在は弘道館公園という名称になっていますが、かつてここは単に『第二公園』と呼ばれ、水戸でも有数のデートスポットでした。ここが第二というなら第一はどこか。それは偕楽園なのです。
梅の季節の偕楽園は大混雑ですが、そんな時はこの第二公園でのんびり梅を眺めるのがいいですよ。
さて、肝心の弘道館です。藩内抗争の最後の激戦といわれる1868年(明治元年)の弘道館の戦いでその多くを焼失しましたが、正門、正庁、至善堂などは生き延びることができました。
写真左端に見える正門にはその時の弾痕を見ることができます。正門の奥の正庁は学校御殿とも呼ばれ、試験や様々な儀式に使われたそうです。さらにその奥にある至善堂は藩主の休息所であり、諸公子の勉学所でもあったそうです。そして最後の将軍徳川慶喜が大政奉還後、静岡に移るまでの間謹慎生活を送ったのがここでした。
弘道館を出て大手橋を渡るとかつての二の丸に入ります。さらに進むとJR水郡線がはるか下を通っているのが見えます。この線路が通っているのは、水戸城の本丸の空堀だったところです。
水郡線の上を跨ぐ本城橋を渡ると、現在は高校になっている本丸に入ります。屈曲する桝形の土塁が残り、その先に薬医門が建っています。この薬医門は水戸城で唯一残る建造物で、建立年代は安土桃山時代末期とされ、明治時代以降所有者が変わり場所も二転三転したようですが、1981年(昭和56年)に現在の場所に移築されました。
本丸の表門は橋を渡ったところにあるため江戸時代より橋詰門と呼ばれたそうで、この薬医門がそれではないかと言われています。あ、現在の屋根は銅板葺きですが、かつては茅葺きだったそうです。
水戸城周辺の見学を終え、高台にある水戸市街から那珂川に下ります。
水戸は、南は桜川から千波湖にかけての低地で、北にはこの那珂川が流れ、馬の背状になっているのです。
那珂川の左岸の土手上には自転車道が通っています。
しばしこの自転車道で下流へ向かいます。
この自転車道は大きな道や線路で途切れることもありますが、まずまず快調に進みます。
しかし残念ながら舗装がなくなったので、下の田んぼの中をどんどこ。風が出てきて、このあたりはちょっときつい。
田んぼの中から再び那珂川沿いに復帰すると、先に東水戸道路の新那珂川大橋が見えてきます。
新那珂川大橋の手前で那珂川を離脱し北へ向かうと、ちょっとした激坂上りがあり、ひたちなか海浜鉄道湊線の中根駅に下ります。この駅は田んぼの中にぽつんとある無人駅で、ちょっとした味わいがあります。
プラットフォームにある駅名標示板には、このすぐ近くにある虎塚古墳にちなんだ絵柄が使われています。時刻表を眺めていると間もなく上り列車がやってくるようなので、少し待つことにしました。やってきたのはピカチュウが描かれた一両編成のかわいらしい列車。
中根駅から虎塚古墳があるこんもりした丘を廻るようにして進むと、谷津に入ります。
谷津の真ん中には川が流れているのが一般的ですが、ここもその例外ではなく、細く用水路化してはいるものの、しっかり水が流れています。
谷津は低地なので、そこから出るときは大抵上り坂があります。
えっこらよっこらと坂道を上って行く面々。
この坂の上にあったビニールハウスの中を覗くと、見慣れぬものが並んでいます。
実はこれ、干しいもです。簀の子の上に薄くスライスされたサツマイモが並べられ、乾燥するのを待っているのです。日本で流通している干しいもの8割以上が、この茨城県で生産されているそうです。
干しいもの先でかつての街道らしき道に出ました。このあたりはひたちなか市になりますが、そこで唯一残る醤油屋が近くにあるので寄って見ることにしました。
仕込み樽が置かれた雰囲気のある門を入ると、左奥に蔵を改造したと思われる黒澤醤油店の店舗があります。この右手奥が醤油蔵で、予約制のようですが見学もさせてもらえます。
四代目蔵主が米こうじと米から造った甘酒をごしそうしてくれました。その甘酒をいただいて、好みの醤油の味見を。どれも角がなく、大手醤油メーカーではなかなか出せない深い味わいのものです。
ひたちなか市の勝田駅から東に延びるメインストリートを真っすぐ行くと、その突き当たりにあるのが、ひたち海浜公園です。
この公園の面積は実に東京ディズニーランドの5倍ともの凄く広く、花の名所にもなっています。春には水仙やチューリップ、5月にネモフィラ、そして秋には真っ赤になったホウキグサ(コキア)が見事です。
中には11kmのサイクリングコースがあるので、私たちはこれを使ってぐるり。
樹林エリアから入り、ネモフィラやホウキグサのみはらしエリア、草原エリア、砂丘エリア、プレジャーガーデンエリアと進んでいきます。そして観覧車の下でしばしお茶休憩。
ひたち海浜公園の南口を出て、阿字ケ浦海岸に下ります。
ここは夏の海水浴で人気のビーチ。
阿字ケ浦は砂浜ですが、それから南は岩がちになってきます。
地図を見るとよくわかりますが、銚子から続いてきたなだらかな鹿島灘は大洗で終わり、このあたりは凹凸のある地形になっていて、それに合わせるかのように海岸も岩場になるのです。
このあたりは磯崎といい、海岸には中生代白亜紀層が見られます。白亜紀は中生代でもジュラ紀の次の代で、恐竜が繁栄しそして絶滅したころです。
この岩場はそのころ形成されたもので、岩の柔らかい部分が波で浸食され、のこぎり状のギザギザになっています。そして30°ほど傾いているのが特徴だとか。この岩場では7,500万年前に生息していたアンモナイトやヒタチナカリュウ(翼竜)が見つかるそうです。一般的なアンモナイトは平べったいですが、ここのものは巻貝のように尖っていて異常巻アンモナイトと呼ばれるそうです。
このギザギザ海岸一帯は『神磯』と呼ばれ、古くから神聖な場所とされていました。このあたりで有名な神社の一つ、酒列磯前神社の酒列(さかつら)とはこの神磯を指しているそうです。
神磯にはこのあたりのすべての神仏が漂着したといわれる清浄石があります。これは自然の岩としてはめずらしく方形をしています。護摩壇に似ていることから護摩壇石とも、また阿字石とも呼ばれます。阿字ヶ浦は阿字石の前の浦ということから来ているようです。
ギザギザ岩場を眺めながら南下すると那珂湊に着きます。
那珂川の河口にあるこの港には魚市場があり、かつてより漁業関係者と飲食業の方々には有名でした。
最近はそれに観光用のおさかな市場が加わり、たいへん賑わっています。
とにかく新鮮で安い魚介類がびっしり。駐車場の車のナンバープレートを見ると、県内はもとより県外からもたくさん観光客がやってきているようです。
自転車でなければ買って帰りたい、と思うものがたくさんで、もちろん名物の鮟鱇もいます。顔はグロテスクな鮟鱇、小でも5千円、大はなんと2万円とかなり高額です。鮟鱇ってやっぱり高級魚なのね。
持っては帰れないけれどここで食べるならと、店先で販売していた生牡蠣をいただきました。これも安くてうまい。
おさかな市場のあとは那珂川の真っ赤な海門橋を渡り、大洗に入ります。
大洗の那珂川河口にあるのは大洗水族館。ここは歴史ある水族館で、内容的にも規模的にも日本でトップクラスだそうです。ペンギンショーを日本で初めて行った水族館として、またゆったり泳ぐマンボウの専用水槽があることでも有名です。
その水族館前のデッキを行き、大洗海岸を南下していきます。大洗は浜と磯の両方があり、水族館付近は浜、その南の大洗磯前神社付近は磯になります。
大洗磯前神社は徳川光圀により造営されたもので、祭神が降臨したと伝わる神磯に鳥居が建っています。その内陸に建つ大きな正面鳥居の先の階段を上ると随神門があり、その奥に拝殿が建っています。(TOP写真) 拝殿の裏には茅葺きの本殿が建っていますが、これは残念ながら正面からは見えません。
大洗磯前神社のお参りが終わったら、『アンコー、アンコウ!』の大合唱。
この日は気温が上がらず、海岸で風も強いため、かなり寒くてブルブルだったのです。
ということで、大洗港のめんたいパークには寄らず、大洗マリンタワーにも上らず、
大洗フェリーターミナルに停泊する北海道の苫小牧行きのサンフラワー号をちらっと眺めて、鮟鱇屋にまっしぐら。
大洗港のすぐ南には巨大な海水浴場のサンビーチがあります。そのサンビーチのすぐ内陸を通るサンビーチ通りに沿って、松並木の中を行く自転車道があります。
この自転車道をどんどこ南に行くと、松並木がちょうどなくなったところに本日の目的地の鮟鱇屋があります。
いよいよ待りに待ったあんこうです。
しかし鍋は最後に。まず焼きハマグリを。
ハマグリはおろかアサリさえ国産ではなかなかお目にかかれなくなった今日、鹿島灘で獲れたハマグリを食べられるとは、なんとした贅沢か。
一見何気ない刺身も地物で、タコでさえぷりぷりでしっかりした味。
やっぱり海はいいねぇ〜
そしてふぐの唐揚げをいただいたあと、あんこうの供酢を。
供酢は、湯引きしたあんこうの身や皮、肝などの7つ道具を、 肝と酢味噌を練り合わせたタレに付けて食べます。これは様々な食感が楽しめるのがいいところ。
そしていよいよ、あんこう鍋。今回はどぶ汁仕立てで。
どぶ汁は、元々は船の上で水を節約するために考え出された漁師料理で、ぶつ切りにしたあんこうに野菜を加えただけで調理されたものだそうです。これは濃厚でクセが強いため、今日は食べやすいようにスープや調味料を加えて作られることがほとんどです。
どぶ汁の名は、あん肝から出る肝油で汁が濁ってどぶろくのように見えるからとか、『どぶ』は『すべて』という意味で、あんこうのすべてを加えるからなど諸説あるようです。
今日のどぶ汁の多くは、煎ったあん肝を味噌仕立てのスープに溶かし込み、あんこうを煮るものです。これは確かに濃厚でおいしいのですが、人によってはくどく感じることもあるので、今回は最初は普通のあんこう鍋、次第にどぶ汁風になってくるという食べ方ができるところを選びました。
まずフライパンであん肝が煎られます。この香りがなんともいい匂いなのですね。
煎り上がったあん肝を鍋に投入し、火を付けて煮えるのをじっと待ちます。煮え上がったらほぼ一般的なあんこう鍋の出来上がり。これは癖がなくとてもあっさりしています。
箸を進めているうちにあん肝が徐々にスープに溶け込んでいき、時間が経てば経つほど濃厚などぶ汁になってくるというわけです。ここのどぶ汁はまったく癖がなく、うまみがたっぷりで、これは絶品!
ん〜ん、寒い中はるばる東京から来た甲斐があったというものです。あ〜、また食べたい!