2017年の走り納めは、東京の下町、谷中・根津・千駄木あたりを。出発地は文京区小石川の播磨坂で、序盤はこのあたりのちょっとした名所を巡りつつ、上野へ向かいます。
定刻に集合した面々が佐藤忠良(さとうちゅうりょう)の『風韻(ふういん)』の前に並びますが、あれ、一人足りないよ。
出発時刻になっても現れないベネデッタにメッセージを入れて走り出すと、そこに、『まってぇ〜』とぎこぎこ音を立てながらやってきたベネデッタ。今日は愛車ではなく、この近くに住む息子の自転車を借りたんだけれど、その自転車がボロくて到着予定時刻に来られなかったんだそうな。
なんとかベネデッタを吸収して、播磨坂から小石川の裏道を抜けて進めば、
傳通院の前に出ます。このお寺には、徳川家康の生母お大と千姫の墓があります。傳通院はお大の法名だそうです。
明治期に起こった火災と第二次世界大戦の空襲のため、ここには江戸時代の堂宇は全く残っていません。本堂は戦後まもなく再建されたようですが、山門は数年前に出来たばかりです。この山門、同時代の他のそれと比べると、柱がやや細いように思いますが、どうでしょう。
傳通院の前を東へ進むと善光寺坂です。善光寺はあの長野の善光寺で、この坂の途中にその別院があるのです。坂の上にはムクノキの老木が立っています。ここは江戸時代には傳通院の境内だったそうですから、この木は元々は傳通院の中に生えていたということになります。
ムクノキの前のお宅の表札には『幸田・青木』とあります。実はここにはかつて幸田露伴が住んだ小石川蝸牛邸があり、その娘で随筆家の幸田文と孫娘でこちらも随筆家の青木玉も住んでいました。玉の『小石川の家』などにはこのあたりのことが詳しく描かれています。
沢蔵司稲荷と善光寺別院を横目に善光寺坂を下り、都道に出て後楽園の方へ進むと、すぐ源覚寺があります。
源覚寺は『こんにゃくえんま』の方が通りが良い。ここには片眼がない、こんにゃく好きの閻魔さまがいるのです。
ある時、眼の悪いおばあさんが大好きなこんにゃくを絶って、どうか眼を直してほしいと毎日毎日をお参りに来たので、閻魔さまは自分の眼をこのおばあさんに差し上げて直してやったんだそうな。そんなわけで、それから閻魔さまの片眼はなくなったんだって。ということで、ここは眼の供養に。
源覚寺の境内には歯痛緩和にご利益があるという塩地蔵もありますから、こちらもどうぞ。
こんにゃくえんまからは言問通りを行き、菊坂を上ります。
菊坂の上り口付近には旧伊勢屋質店が建っています。
この伊勢屋質店には、かつて樋口一葉が度々通ったといわれています。ほぼその当時の姿のままと思われるこの建物は、最近、土日に限り公開されるようになりました。
その樋口一葉は、菊坂の一本裏の細道に住んでいたことがあります。ここはその旧居跡で、数年前まではほとんど当時の姿を留めていると思われるほどでしたが、近年手前の建物が建て替えられました。しかしまだ、奥には古い木造三階建の建物が残っており、路地の隅には一葉も汲んだだろう古い共同井戸も残っています。彼女の処女小説『闇桜』はここで書かれたものらしい。
このあたりの地図を眺めると、一葉の他にも、漱石、啄木、秋声など、多くの文人の名が見て取れます。
さて、鄙びた樋口一葉旧居跡を覗いたあとは菊坂を上り、東京大学の構内に入ります。
東大といえばの赤門。この門はかつては加賀藩前田家上屋敷の御守殿門でした。
東大の本郷キャンパスは加賀藩前田家上屋敷の跡地なのです。ちなみにこの隣の弥生キャンパスは水戸藩の中屋敷跡地です。
東大名物はいくつかありますが、銀杏並木もその一つと言って良いでしょうか。この銀杏並木には鮮やかな色のインコがたくさん群がっていました。
銀杏並木の先に建つのは安田講堂です。全共闘、東大安田講堂事件といわずとも、多くの方がこの講堂で起こった事件のことは知っているでしょう。
現在はもちろん、ごく普通の講堂として使用されています。
安田講堂のすぐ隣には三四郎池があります。
前田家は三代将軍家光の御成の折り、ここに育徳園という庭園を整備し、その中に池を造ったそうです。その池は心字池という名でしたが、夏目漱石がここを『三四郎』の舞台としたので、その後『三四郎池』と呼ばれるようになったのです。
東大の池之端門を出るとすぐに不忍池の畔に出ます。
東京の真ん中にこんな巨大な池って、ちょっと変かな、もしかしてこれは人工の池? と思ったのですが、どうやらそうではなく天然の池らしいです。ただし、弁天島はあとから造られたものだそうです。
不忍池が天然のものであることにはちょっと驚きましたが、さらに驚くべきことに明治時代には、この池を周回する形で競馬が行われたというからびっくりです。
不忍池を廻って上野公園に上ろうとすると、そこに今流行のカートに乗った人々がやってきました。
公道を走れるカートは手軽さで人気のようですが、安全面での問題も話題になっていますね。
上野公園といえば西郷さん。西郷どんですたい。高村光雲作。犬のツンは後藤貞行作だそうです。
この西郷どん、なんでも故郷の薩摩を向いて立っているとか。これは都市伝説?
ここで遥々千葉の奥地から出てきたヒロちゃんが合流。
西郷どんの横には寛永寺清水観音堂があります。その舞台に立てば、ちょっと変わった形の松の木が。
江戸時代に、歌川広重はここから見た景色を描いています。名所江戸百景『上野山内月のまつ 』。『上野清水堂不忍ノ池 』も。国芳は『東都東叡山の図』。
西郷どんと広重のあとは上野公園内を行きます。
大噴水の周りはなにかのイベントで大賑わい。いったい何をやっていたのかな。
日本で始めて造られた西洋式の音楽ホールである奏楽堂(移築)をかすめ、ピラミッド屋根の旧博物館動物園駅(京成本線)の入口を眺めて、根津に下ります。
根津の不忍通りには木造三階建の『はん亭』が建っています。
1912年(大正元年)頃建てられたこの建物は、不忍通りの拡幅工事の際に、その前面が削り取られました。削り取られた不忍通り側は鉄の矢来で覆われましたが、その反対側は昔のままの姿を留めています。
少し早めですが、石蔵の釜竹でお昼にします。
ここは石蔵とはいっても外壁は煉瓦でできています。1910年(明治43年)の建築だそうです。先のはん亭といい、この釜竹といい、よく残りましたね。
釜竹はうどん屋で、内部は蔵部分とそれ以外のところに分れます。蔵内は独特の雰囲気があってなかなか良いのですが、私たちは少々人数が多かったので、中庭が見える蔵外に通されました。
ここのうどんは釜揚げとざるしかありませんが、天ぷらはもちろん、だし巻卵や鴨のローストなど、つまみ類が豊富でおいしいです。大盛り注意!(量が多い)
さて、うどんでお腹を満たしたら、午後の部開始。
まずは谷中の玉林寺から。言問通りから斜めに入る細い参道を行くと、巨大なヒマラヤ杉が目に入ります。この寺にはこの木のほか、スダジイやタブノキの大木もあります。
ヒマラヤ杉の足元には、昭和の大横綱、53連勝の記録を持つ、ウルフこと千代の富士の像が立っています。
銅像というのはある程度離れて見ることを想定してか、実物より大きく造られることが多いですが、この像もその例外ではなく、背丈は210cmあるそうです。ところが巨木やらなにやら周囲の環境のせいか、かなり小さく見えるから不思議です。
かつてのウルフの快進撃に思いを馳せたら、玉林寺の前の極細道を行きます。
クランクを抜けると先にちょっとした階段が見え、その手前に古い井戸らしきものがあります。一葉の井戸といい、この井戸といい、現役で使われているのがすごいですね。
古井戸からさらに進むと、またヒマラヤ杉の巨木が見えます。この木は谷中のヒマラヤ杉として知られており、元は鉢植えだったそうですがそれが次第に大きくなり、今ではすっかり地面に根を張っています。
樹齢は90年くらいのようですが、幹周りの太さがそれよりずっと前からここにあるように感じさせます。数年前からこの木は伐採の危機にあるとも聞いていますが、その後この伐採話はどうなったのでしょうね。
この木はその足元に、昭和レトロなパン屋さんがあることで一層有名になっています。このパン屋さんで何か買い物をしたベネデッタによれば、
『中も昭和でした〜』
今年は平成29年。昭和もだいぶ遠くなりましたね。
ヒマラヤ杉の近くには大名時計博物館があります。大名時計とは和時計のことで、ここにはかつて日本が不定時法(日の出と日の入または夜明けと日暮れの間をそれぞれ6等分する)を採用していた時代の、江戸時代から明治時代初期にかけて作られた時計が展示されています。
この庭には椿の仲間か、白いきれいな花が咲いていました。
大名時計博物館は美作勝山藩の下屋敷の跡に建っているそうです。勝山藩は元は真島藩という名で、このあたりの旧町名である谷中真島町はこの真島藩の名にちなんでいました。
大名時計博物館から根津に下る坂は三浦坂といいます。このあたりは上野台地の高台と藍染川沿いの低地に分かれ、谷中は高台側で、根津の不忍通りが最低部になるため、こんな坂道がたくさんあります。
三浦坂を下り、不忍通りを突っ切って進むと、1919年(大正8年)築で木造平屋建の根津教会があります。
このあたりは不忍通り沿いにこそ高層ビルが建っていますが、そこから一歩下がると、まだまだ木造の低層建築が多く、この教会もその町並みに埋もれて、注意しないと見逃してしまいそうなほどです。
明日はクリスマスイブで、この教会でもミサが執り行われます。
根津にはつつじの名所として知られる根津神社があります。ここは森鴎外の『青年』や夏目漱石の『道草』に根津権現として登場します。
現社殿は五代将軍徳川綱吉が奉建したもので、権現造の傑作とされています。権現造は、本殿と拝殿を構造的に一体に造ったもので、ここではそれらの間にさらに幣殿が設けられています。ここには社殿と同時期に建築された唐門・西門・透塀・楼門のすべてが欠けずに現存しています。東京で江戸時代の楼門が残っているのはここだけだそうです。
根津神社の境内には駒込稲荷神社と乙女稲荷神社があります。小さな池の向こう側にたくさん赤い鳥居が並んでいるのが乙女稲荷神社です。
ここの御祭神は倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)。『ウカ』は穀物・食物の意味だそうで、これからもわかるように倉稲魂命は穀物の神様なのですが、古くから女神とされているといいます。
京都の伏見稲荷大社の千本鳥居のような赤い鳥居をくぐって進む(TOP写真)と、池の上の社殿に辿り着きます。この社殿の奥には風穴があり、これが女性の象徴とされているところから乙女稲荷の名前が付いたとされます。
根津神社のお詣りが済んだら、いよいよ谷根千の買い食いコースへ突入。
まずは『根津のたいやき』をと思ったら、なんとこの日は休業。これは残念。
鯛焼きの代わりは芋甚のアイスもなか。ほんのり甘い餡と薄皮の最中の相性がグーです。
ここは1895年(明治28年)創業の丁子屋。四代続く老舗の染め物・洗張店です。洗張は着物の糸を抜いてから洗濯する方法のことで、かの一葉もあそこでこの内職をしてたらしいです。
この店は最近まで築120年近くの建物で営業していましたが、老朽化のため2014年に建て替えられました。その新しい店先には、注染(ちゅうせん)による手ぬぐいなどの雑貨が並んでいます。豆しぼりはもちろんのこと、中には自転車柄なんてものもあります。
かつてこの丁子屋の前には藍染川が流れ、不忍池に流れ込んでいました。藍染川に面した染め物屋って、当たり前と言えば当たり前かもしれませんが、今日聞くとちょっと洒落ていますね。
暗渠化された藍染川であるくねくねのへび道を行き、よみせ通りの入口までやってきました。
そこにあるのは『菊見せんべい』。一枚から買えますよ〜 醤油せんべいは55円也。
桐箱をオーダーできる箱義桐箱店を覗き、よみせ通りに戻ってすぐの角を入ると、指人形笑吉があります。
指人形笑吉の人形たちはなぜかみんな年寄りばかりですが、ここでは似顔絵ならぬ似顔人形をオーダーすることができます。そして一日七回、人形劇が上演されます。なんとこの時の出し物は『50年後の冬ソナ』。ユジンがばあちゃんになっちゃった〜
へび道から続く『よみせ通り』も藍染川の跡です。
1920年(大正9年)に藍染川が暗渠化されると、その上は幅員8mの道となり、徐々に住宅や店が建ち始めます。夕方からは500mに渡り露店が軒を連ね、大いなる活況を見せたそうです。夜が更けるまで賑わったこの通りはいつの間にか夜店通りと呼ばれるようになり、それが現在の商店街『よみせ通り』の名に引き継がれたのです。
10円饅頭の福丸饅頭で9個110円の一口大福を買い、やなか珈琲店で挽きたてのおいしいコーヒーをすすって、三陽食品の店先で手突きところ天をいただきます。
谷中銀座と違い、つい最近まで観光客などいなかったこの通りですが、今回やってきてびっくり。そこら中に観光客の姿が。
商店街の北の入口付近には延命地蔵があります。
このお地蔵さんは元は長野県南佐久のお寺にあったそうですが、1933年(昭和8年)にここに引っ越してきました。このお地蔵さんにお参りすると長生きできる? やっぱりここにお参りされるのは少しお年を召した方が多いようです。
左に立つのは水洗い地蔵。
延命地蔵から坂道を上って行くと富士見坂があります。世の中には富士見坂という名の坂がたくさんありますが、現在その何割から実際に富士山が見えるのでしょう。
この坂の塀には、昔ここから見えた富士山の写真が何枚も掲げられており、解説板には『現在でも富士山が見える』と書かれています。ちょうど写真中央部のビルとビルの間に富士山が見えるはずなのですが、そこには新しいビルが建っている・・・ 解説板、書き換えなきゃね。
さて、残念ながら富士山は見えなかったけれど、お次は買い食い天国の谷中銀座商店街です。
ちょっとその前に面白そうなところに突入。谷中銀座商店街の東の入口近くにある初音小路です。初音小路ってなんかいい響きですが、このあたりの旧町名は谷中初音町で、そのものズバリ。注意深く観察すれば、このあたりでは『初音』の名が付くもろもろを発見できます。
初音小路はめちゃくちゃ狭いアーケード商店街。なんとこのアーケード、骨は木、屋根は半透明の波板で出来ています。戦後すぐに造られたものではないにしろ、バラック感バリバリ。
その下に並んでいるのは居酒屋や小料理屋で、全体に昭和レトロ感もりもり。夜だったらここで一杯やりたいところです。
さてさて、一杯呑むのはがまんして、いよいよ谷中銀座に入るとしましょうか。谷中銀座商店街の日暮里側の入口は『夕やけだんだん』。
日暮里駅から谷中銀座へ向かうと5mほど高低差があるところがあり、そこに36段の階段が造られています。この階段が『夕やけだんだん』です。『夕やけだんだん』から谷中銀座を見下ろす景色はこのあたりを紹介する記事などでは必ず取り上げられるので、ご存知の方も多いでしょう。ここから見る夕陽はきれいだそうです。
『夕やけだんだん』の反対側の西側は、先ほど通ってきたよみせ通りに突き当たっておしまいになります。そこまで150mほどの間にぎっしりと商店が建ち並んでいます。この商店街は1945年(昭和20年)頃、つまり終戦とともに自然発生的に生まれたようです。
都市化による環境の変化、交通網の変化、大型スーパーの出店、コンビニエンスストアの出現と、様々な波風により多くの商店街が姿を消していった中、ここはそういったものに耐え抜き、今でも立派に『銀座』です。
当然ながらこの商店街は近隣の人々の日常生活を支えるものを中心に扱っていました。店先からいい匂いが漂ってくる『いちふじ』は総菜屋で、やきとりはなんと一本40円でコロッケは30円成。安い!
この反対側には『肉のすずき』があり、レナールが好きだったジューシーなメンチカツが230円。
谷中は猫が多いそうで、ここ谷中銀座では看板や商品にも猫がよく登場します。ところがこの日、通りは買い物客やひやかしでごったがえしていたからか、ついぞ猫の姿を見掛けることはありませんでした。
しかしいつでも会える猫がここには七匹います。谷中七福猫といい、全部見つけるといいことがあるそうです。写真の二匹は簡単に見つけることができますが、あとはちょっとむずかしい。
久しぶりに谷中銀座に来て驚いたのは、人の多さもさることながら、外国人観光客が大変目に付くようになったことです。外国人受けする下町といえば、昔は浅草と相場が決まっていましたが、それにアキバが加わり、最近はついにヤナカにまで及んだようです。
そんな外国人にウケそうなものが目に留まりました。古くからある履物屋さんの店先に出ていたのは竹皮で編まれた草履で、鼻緒がかわいい。
谷中銀座商店街は全体としてはかなりがんばっていますが、やはり個々の店の入れ替えはあります。このランプやさんは今回始めて発見。トルコモザイクランプというものだそうで、ここで製作もできるようです。
歩き疲れたら商店街の中にある酒屋の店先で一杯ひっかけることもできます。この酒屋の屋根を見上げれば、七福猫が一匹。
栗菓子やコロッケなど、思い思いの食べ物で小腹を満たしたら谷中銀座を出ます。すごい行列のかき氷やの『ひみつ堂』の前を行き、岡倉天心記念公園で一休み。
ここはかつて岡倉天心の住居があったところで、天心はここで日本美術院を設立します。園内には茨城県の五浦にある六角堂を模した小さな六角堂が建ち、その中に平櫛田中作の天心座像が安置されています。
谷中は寺町で、お寺の数は60以上あるといわれています。その一つの観音寺の築地塀(ついじべい)はちょっと見応えがあります。
築地塀は泥土を突き固めて造られた塀で、ここのものは瓦と土が交互に積み重ねられており、40mほどの長さがあります。
しっとりとした築地塀を眺めたら、著名人の墓が多い、桜でも有名な谷中霊園を行きます。
ここにはかつて五重塔が建っていました。幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなったものですが、心中による放火で焼失し、現在その姿を見ることはできません。この塔の写真を眺めて見ると、なかなかいいプロポーションで、今うしろに見えている超高層ビルとは比べ物にならないくらい、この景色にマッチしていました。
谷中霊園の中央園路を南へ下ると、その東側は上野桜木になります。
ここには最近大ヒットの一角があります。その名は『上野桜木あたり』。
1938年(昭和13年)築の民家三軒をリノヴェーションした複合施設で、ビアホールやベーカリーが入っています。
昔、こんなとこあったよね。
というような路地に、ここにも井戸。
塩とオリーブの店ってのはいかにもマニアックですが、ここではコーヒーやソフトドリンクカクテルもいただけます。
飲みたくなっちゃうから暖簾を潜らなかった谷中ビアホール。
白ビールやペイルエイルもあります。
『上野桜木あたり』のちょっと先には、かつては風呂屋だったギャラリーがあり、
その向かいに愛玉子(オーギョーチイ)という店があります。
イチジクの仲間で台湾固有の果物に愛玉(アイユー)というものがあります。その種は愛玉子と呼ばれ、そこから愛玉冰というゼリー状のデザートが作られます。
『冰』は日本漢字では氷だと思いますが、見た目が氷のようだからでしょうか。愛玉冰にはほとんど味がないので、一般的にはレモンシロップをかけ、冷やして食べられます。ということで、台湾では檸檬愛玉冰という表現もよくされます。
ここはおそらく日本で唯一愛玉冰を食べることができるところでしょう。店のメニューには愛玉子の名も見えるのですが、この愛玉子と愛玉冰は同じもので、日本では愛玉子が使われることが多いようです。
愛玉冰はゼリー状というか、寒天のようというか、独特のぷるぷる感があります。しかし本物の愛玉冰にはゼラチンも寒天も一切使われません。愛玉子のペクチンだけで固まるのです。ここのものは少し固めで、この時は寒い季節だからか、冷やされていませんでした。赤いものはグミです。
ああ〜、台湾で愛玉冰食べたいなぁ
上野桜木で買い食いイベントは終了。ここから本日のメインイベント会場へと向かいます。
言問通りで根津に下り、東大の横を上って、西片から小石川に入ります。
辿り着いたのは出発地点の播磨坂です。ここにある彫刻は掛井五郎作の『哲学者』。
これから2017年の忘年会に突入。
ジオポタ御用達の秘密基地で、走行組と宴会メンバーが合流。このあと夜更けまでにぎやかに宴会は続くのでした。
今年はまずまず良く走りました。来年もまた楽しく走りましょう。