2018年の走り納めポタリングです。実は忘年会は一週間前にやってしまったのですよ。しかしその日は残念ながら冬場にしては珍しく天気が崩れ、走れなかったのです。
その時の予定コースは多摩川付近の用水巡りでした。そこで今回はそれに続く野火止用水の辺りを軽く走って年納めにすることに。
年末年始の休みモードに入った面々を叩き起こしての開催の上、ここのところぐっと冷え込んできており、この日の最高気温は8°C、最低気温はなんと-2°Cの予報なので、集合は集まりやすい東武東上線と武蔵野線の交差点の朝霞台駅、北朝霞駅にしました。
初っ端に秋ヶ瀬公園から彩湖を巡り、少し景気を付けてから街中をぶらぶらし、最後に野火止用水から平林寺に入り、冬の雑木林を楽しもうというコース取りです。
朝霞台と北朝霞の駅前には高層ビルや高層マンションが建ち並びますが、その一皮裏側にはまだ戸建住宅や畑がかなり残っていて、妙な雰囲気です。
ヨーロッパでは都市と農村とは完全に分離され、街の中に畑があるなんてことはあり得ないのですが、日本は元々農村であったところに急激な都市化の波が押し寄せ、ぐちゃぐちゃになっているところがとても多いです。
ほどなく新河岸川を渡ります。新河岸川は入間川などから田んぼに引かれた用水の落ち水と伏流水からなる川で、川越から荒川と隅田川を仕切る岩渕水門まで30km少々を流れます。
江戸時代に川越藩主の松平信綱が、当時『内川』と呼ばれていた川の流量を安定化させる工事を行い、江戸と川越を結ぶ舟運ルートとしたもので、その名の通りに河岸場(船着場)が多く作られ、明治時代初めまで舟運が隆盛しました。川越から江戸までの間に荒川のそれを含めると、37もの河岸場があったそうです。
新河岸川のすぐ先に流れるのは荒川です。新河岸川の元となった川が『内川』と呼ばれていたのに対し、こちらの荒川は『外川』と呼ばれていました。
荒川は古くから暴れ川で、江戸時代初期の付替工事(利根川の東遷、荒川の西遷)と明治時代から昭和時代初期にかけての荒川放水路の建設という2つの大事業により今の形がほぼ作られました。
その荒川の河川敷は広大で、土手上の自転車道から川面はまったく見えません。この少し上流に架かる御成橋付近の川幅は2.5kmを越え、日本最大です。
流れているはずの荒川のむこうに聳える超高層ビル群が建つのは大宮でしょう。そしてこの反対側には富士山が見えるのですが、あまり美しくない建物と電線がじゃまをして絵にならず。
気持ちのいい荒川自転車道をちょっと走って羽根倉橋を渡ります。
うしろに富士山〜
かつて『外川』と呼ばれていた荒川。
羽根倉橋を渡り切って秋ヶ瀬公園に下って行くと、正面に富士山が。
秋ヶ瀬公園は埼玉県営公園としては最大で、大きな広場や庭園、グラウンドなどがありますが、私たちのお気に入りは羽根倉橋付近に広がる雑木林で、この時期は落ち葉が積もっていて楽しい。(TOP写真) 山の中の本格的なダートは小径車ではむずかしいものがありますが、こういった平地の管理されたダートなら問題ありません。
この公園には何箇所か池がありますが、この日の明け方は予報の通りに氷点下だったようで、氷が張っていました。都心では氷はほとんど見かけることがないので、ちょっと感動。
秋ヶ瀬公園でちょっとだけダートを楽しんだら、その北を流れる鴨川の土手に上ります。
ここはその名も『富士見の土手』というらしく、最高の富士山が眺められます。今日は快晴で風もなく穏やかな天気で絶好の富士山日和ですが、富士山にはそれなりに風が当たっているようで雪煙が舞っているのが見えます。
富士山の手前には丹沢から秩父にかけての山々が、これもくっきり見えています。
乾いた田んぼと山の青の対比がとても美しいです。
鴨川の護岸はちょっと単調な造りではあるものの、コンクリートむき出しではなく緑で覆われています。
鴨川の左岸の土手は二重になっていて、外側のそれは桜並木になっています。
ここは桜の季節にはかなり気持ちのいい散歩ができます。
鴨川の昭和水門を渡り彩湖に下ります。鴨川はこの下のさくらそう水門で荒川に注いでいます。
彩湖は荒川の洪水に備えた荒川第一調節池の貯水池で、ここの一周5kmはジョギングやサイクリングに最適で、いつも大勢の人で賑わっています。
青い空と青い湖面。
斜張橋は外環自動車道の幸魂大橋。
彩湖を廻るムカエル、マサキン、コンタ。
『今日は年納めに最高のコンディションになりましたねぇ〜』 と、久々に登場のマサキン。
彩湖を出たら幸魂大橋を渡ります。
この橋は長大ですが、広い歩道が設えてあるので自転車でも安心して渡ることができます。
今朝方ムカエルはここまで散歩に来たそうで、その時の朝焼けがとてもきれいだったそう。
中央に東京スカイツリーがくっきり見えています。
幸魂大橋を渡ると和光市です。長照寺には市の天然記念物になっている大銀杏があります。
推定樹齢700年というこの銀杏は、幹廻り7.53m、樹高29mとまさに巨大で、紅葉の時季には辺り一面が黄色い絨毯を敷き詰めたようになります。今年はさすがにもう葉を落としているだろうと思ったのですが、秋がかなり暖かかったからか、まだ少し黄色い葉を残していました。
長照寺から坂を上ったり下ったりしてやってきたのは『新倉ふるさと民家園』で、ここには300年前の旧富岡家住宅が移築復元されています。
ムカエルによれば、富岡家というのはこのあたりの大地主だったようで、このあたりで立派な住宅というと大抵富岡さんなのだそうです。
このあたりにはかつて川越街道が通り、現在の川越街道旧道と白子川が出会うあたりから熊野神社あたりまでは白子宿(しらこじゅく)でした。
熊野神社の北には滝坂という激坂があり、その途中に湧水が湧いています。滝坂の名は滝のように湧水が流れ落ちていたことから付けられたようです。そして熊野神社の境内には1876年(明治9年)に湧水を利用した日本初の養魚場が作られています。
またこのあたりは豊富な湧き水を利用し、造酒が盛んだったそうです。
近くにはこんな伝統的な造りの民家が僅かながら残っています。もしかしたらこのお宅は蔵元だったかもしれません。
すでに絶滅危惧種となった唐破風のある銭湯も。
光が丘公園にやってきました。
もう年の瀬だというのに、このアプローチにはまだ紅葉を残している木があります。ちょっと驚きですね。
光が丘公園に入ると、その中央を貫く銀杏並木に葉っぱは残っていません。これがまあこの時期では普通でしょう。
ここの体育館にはレストランが併設されているのでそこで昼食をと思いましたが、どうやら年末休業のようなので、都道443号線沿いの中華&インド料理というちょっと変わった取り合わせのレストランで。
光が丘公園からは住宅地の中を進んで石神井公園に向かいます。
石神井川沿いには遊歩道が設えられているので、これをどんどこ。
最近、おそらく東京オリンピックに向けてか橋の改修と思われる工事があちこちで行われています。この石神井川沿いでもそれらしい工事が行われていて、それに気を取られて石神井公園の入口を見落としてしまい、あらぬ方角へ。仕方がないのでボート池こと石神井池の横を通るのは諦め、その奥にある三宝寺池に向かうことにしました。
石神井公園の西の端に入って行くと、ここにも紅葉が。
今日あちこちで見かけるこうした紅葉が、今年の秋がどれほど暖かかったかを物語っているようです。
三宝寺池の周囲ではメタセコイアが最後の紅葉を残していました。
ここは井の頭池、善福寺池とともに武蔵野三大湧水池の一つとして知られており、古くから湧水が湧き出ています。
これがその湧水で、三宝寺池や石神井川の水源となっています。
ここには中ノ島を中心にカキツバタやジュンサイが生い茂る国の天然記念物に指定されている三宝寺池沼沢植物群落というものがあるのですが、現在そのあたりで目に付くのは水鳥の群れです。
この日もアオサギらしき鳥がたくさん中ノ島の木にとまっていました。
石神井公園の周辺は都内でも高級な住宅地だそうですが、そこにはこんな広大な空地が残っているのがちょっと不思議です。
雑木林が残る『井頭憩いの森』をかすめて進めば、
大泉井頭公園に出ます。大泉井頭公園からは白子川が流れ出しています。このあたりには豊富な湧水があり、それが白子川となっているのです。しかしこの時は公園内には湧水は見られず、ちょっと寂しい感じです。冬場のこの時期は一年のうちでももっとも水が少ない時期なのだと思いますが、春先には湧水は復活してくれるでしょうか。
実は白子川はこの公園より上流もあるのですが、それは現在は暗渠化され見えない上に、その流れはこの時はここまで届いていませんでした。
白子川の水はこの先10kmの短い旅をして板橋区三園で新河岸川に注ぎますが、その横にはこんな細い道が続いています。
ちょっとだけ白子川沿いを走ったら平林寺へ向かいます。
新座市に入り平林寺が近づくと、野火止用水史跡公園があります。その横を流れているのが伊豆殿堀(いずどのぼり)とも呼ばれる野火止用水(のびどめようすい)です。これは玉川上水から分水され新河岸川まで25km続く水路で、主に飲料水や生活用水として使われたそうです。
写真には水路が二本見えると思います。左が本流で右はそれから別れ、これから向かう平林寺境内に導かれる『平林寺堀』。
野火止(のびとめ)はこのあたりの地名で、一方の伊豆殿堀の名はこの用水を造らせたのが川越藩主松平信綱で、その官位が『伊豆守』だったからだそうです。伊豆守は玉川上水開削の総奉行で、その功績を認められ川越の領地内への分水を認められたのです。そういえば午前中に見た新河岸川を整備したのもこの松平信綱でしたね。
野火止あたりにはかつての武蔵野の面影がまだ少し残っています。
平林寺堀の横には極細の遊歩道がありますが、今回は本流に沿って平林寺に向かいます。
新座市総合運動公園の横は本多緑道となり、この季節は落ち葉がたくさん積もっていていい感じです。
正面に平林寺の森が見えてきました。
平林寺は臨済宗の禅寺で、1375年(永和元年)にさいたま市岩槻区に創建されましたが、伊豆守の遺命により1663年(寛文3年)に野火止に移転されたそうです。
茅葺きの総門の門柱に『臨済宗平林寺専門道場』とあることから、ここでお坊さんが修行していることが伺えます。
ここの伽藍は禅宗に典型的な一直線の配置になっており、総門、山門、仏殿、中門、本堂と並びます。これらのうち本堂を除く四棟は茅葺きで、県の有形文化財に指定されています。
山門は寺が岩槻からこの地に移転したときにいっしょに移築されたものだそうですから、少なくとも350年以上前の建物ということになります。
仏殿は禅宗の寺らしく華やかさはないもののずっしりした構えで、その前には座禅灯籠と呼ばれる一対の石灯籠が据えられています。
中門以降は修行の場のようで、一般人は立ち入り禁止です。ここは伽藍も立派ですがもう一つの見どころは寺の裏手にある雑木林で、放生池を廻って雑木林へ向かいます。
放生池の前には半僧坊が建っています。年に一度の4月17日の半僧坊大祭の折には半僧門が開門され、大変な賑わいとなるようです。
放生池にはきれいな緋鯉がたくさん。
この寺には大河内松平家の廟所があります。大河内松平家は江戸時代の初期に川越藩第5代藩主松平伊豆守信綱によって起こされました。本堂からこの廟所には座禅灯籠が並ぶ参道が通じていますが、この参道は一般人は立ち入り禁止。
ここには今日何度も登場した松平伊豆守信綱の墓があります。写真手前が信綱のものでその奥は信綱の正室のものだそうです。
さて、いよいよ雑木林に入ります。
かつての武蔵野は水の乏しい土地で、一面ススキ野原だったそうです。伊豆守が用水を引いたことでこの地は目覚ましい発展を遂げ、新田の開発に伴い人口が増え、その生活を支えるための燃料や肥料を確保するために雑木林が形成されていきます。
平林寺の雑木林は当時の武蔵野の面影を止めるものとして国の天然記念物に指定されており、またここでは雑木林の再生も行われています。
冬のこの時期、木々はすべての葉を落とし、それがみごとな絨毯となって辺り一面を敷き詰めます。夕暮れで赤い日差しがス〜っと木々の間に入ってくるこの時間が、森が一番美しい時でしょう。
平林寺の雑木林に満足したら、再び野火止用水沿いを行きます。
この平林寺周辺の野火止用水沿いは良く締まった地道で、とても気分良く走れます。
畑の向こうに平林寺から続く雑木林が延び、その上にものすごい数のカラスが舞っています。
カラスの大群は久しぶりに見ましたが、やっぱりちょっと薄気味悪いですね。
r254から北の野火止用水は暗渠化されてすでにその流れはありませんが、かつて用水だったろうそれらしい道が続いています。
野火止用水は志木まで続いていたわけですが、適当なところでそのルートを離れ、出発点の朝霞台駅・北朝霞駅前に向かいました。
今回の年納めポタリングは天気に恵まれ、富士山も眺められて最高の一日となりました。秋ヶ瀬公園の雑木林のダートは楽しいし、明るく輝く彩湖はこの時期がぴったりのような気がします。広い光が丘公園ではもうちょっとのんびりしていたかったけれど、これはまたの機会に。石神井公園のメタセコイアも良かったし、何といっても野火止用水と平林寺周りの雑木林が最高でした。今年も良く走りましたね。