都心の花見ポタリングを。
本日の参加者は左から、チビバイクのミッチー、いつも20インチのスポーティーなバイクに跨るマージコ、今日はマウンテンバイクのコムラン、そしてカメラのサイダー。やってきたのは東京の花見の代名詞のような台東区の上野公園。なんと珍しく全員、ここまで自走でやって来ました。
今年の都心の桜の開花はとても遅くて3月29日。これは平年に比べて5日、昨年に比べるとなんと15日も遅いとのこと。週末で花見ができそうなのはこの土日だけになりそうですが、天気は昨日が芳しくない予報だったので必然的に本日の開催となりました。場所は郊外案もあったのですが多数決で石神井川に決定です。
ところが朝起きると雨。明け方までには上がっているはずの雨が少しずれ込んだようです。
雨雲レーダーをチェックするとそろそろ雨雲は通過しそうなので、集合時刻を1時間遅らせました。
そのせいで上野公園の人出はすでにかなりのものになっています。本当はみんなで公園内をぐるりと廻るつもりにしていたのですが、こう人が多いと自転車に乗るのも気が引けます。全員それなりに公園内の花見をしてから集合地点まで来たと言うので、この散策はパスすることに。
しかし上野公園の桜をまったく紹介しないわけにはいかないので、サイダーが集合場所に来るまでに撮ったものを掲載します。
ソメイヨシノは満開!
オオシマザクラも満開〜
このオオシマザクラはソメイヨシノの父で、鮮やかな緑色の若葉が出てから開花します。この葉っぱは塩漬けにされ桜餅に使われます。
蓮池とボート池の間を行く中の道は大混雑!
そして上野公園のメインストリートは外国人で溢れています。このところの円安のためもあるかと思いますが、外国人旅行者数はすっかりコロナ以前に戻ったようです。
さて、全員集合したところで上野公園に長居はせず、次の集合地点の王子の飛鳥山公園へ向かいます。
公園を出るとすぐに寛永寺の根本中堂です。ここの桜も見頃。
寛永寺は江戸時代には絶対的な勢力を誇り、最盛期の境内地は現在の上野公園を中心に30万5千坪に及び、さらにこの他に大名並みの寺領を有していました。江戸時代の根本中堂は先ほど私たちが集まった上野公園の大噴水のあたりに立っていましたが、それは幕末の戊辰戦争で灰燼に帰しました。
現在見ることができるこの根本中堂は明治12年(1879年)に川越喜多院の本地堂を移築し再建されたものです。
寛永寺からは谷中の墓地に入ります。この入口は道の両側とも桜並木で満開。
谷中の墓地は都立の谷中霊園や寛永寺の墓地など権利関係がとても複雑ですが、その中に江戸徳川の最後の将軍慶喜の墓があります。みなさんそれがどんなものか見てみたいというのでちょっと寄り道。この最後の将軍の墓はもちろんこのあたりではもっとも大きいのですが、家康の久能山と日光の巨大な東照宮を考えれば、とてもとても小さなものと言えるでしょう。
谷中霊園のメインストリート・さくら通りに出ました。ここは桜の名所としてかなり知られているところですが、宴会は禁止されているようで騒がしさはなく、落ち着いて散策できます。
そのさくら通りを自転車でゆっくり流して行きます。
谷中霊園を出たら観音寺の築地塀(ついじべい)をちょっと覗いてみましょう。
築地塀は一般的には泥土を突き固めて作った塀を指しますが、これは練った泥土と瓦を交互に積み重ねて築き、上部に瓦を葺いた塀で、より一般的には練り塀と呼ばれているものです。ここには40m近くが残っており国の文化財に指定されています。
観音寺から北上すると日暮里駅の西口から緩やかに上る御殿坂の末端に出ます。これを西へ向かうと、いつも買い物客で賑わっている谷中銀座商店街に通じる広い階段に出ます。
映画やドラマのロケ地として度々登場する『夕焼けだんだん』です。夕方ならしっとりした空気が流れるここも、午前中のこの時間帯はパリッとした空気です。
夕焼けだんだんの上から眺めた谷中銀座商店街の中を行ってみましょう。
時は10時過ぎ。まだ開店していない店も多いのですが、この時刻からお客はいっぱい。上野公園同様に、ここでも外国人の姿が目に付きます。
谷中銀座商店街を出たら『よみせ通り』『矢田川通り』『赤紙仁王通り』と繋ぎ、山手線沿いを駒込へ。
豊島区の駒込駅が近づくと沿道は桜並木に。そして駒込駅前に着くとそこにはもの凄い人だかりが。
ソメイヨシノは江戸時代の終わりごろから明治時代の初期ごろにこのあたりにあった染井村の植木職人によって広められたとされており、この駅前は染井吉野桜記念公園になっています。今日はそこでお祭りが行われているようです。
この公園にはエドヒガンザクラとオオシマザクラが植えられており、『染井吉野櫻発祥之里 駒込』と記された碑が立っているのですが、この人だかりではその中に入って行く気にならず、ここはスルー。
染井吉野桜記念公園から住宅地の中を進み、駒込小学校の角を曲がると小さな公園があり旧羽生家の腕木門が立っています。ここの桜も満開。
染井村で植木屋が多く集まっていたのは現在の染井霊園のあたりで、今日もそこには立派なソメイヨシノが植えられています。
今日私たちが見ることができるソメイヨシノは基本的にはすべてクローンで、その先祖がこのあたりで増やされたということですね。
『いや〜、ここの桜は立派ですね〜』と、その大きさに驚くマージコ。
染井霊園を出るとほどなく北区の飛鳥山公園に到着。ちょうどユッキーも到着したらしく、蒸気機関車のデゴイチの前で落合いました。
飛鳥山公園は江戸時代に将軍徳川吉宗が桜を植えさせ、花見の名所にしたところ。今年の花見は今日しかないというくらいに桜が見頃になってからのお天気は芳しくなかったので、ここももの凄い人出で、とても自転車で動けそうになく、次のポイントへさっさと移動します。
飛鳥山公園を出て王子駅方面へ行くと公園の縁に植えられた巨大な桜が上から覆い被さってきます。
壮観!
王子駅前には音無親水公園があります。現在は立派な公園になっているここも、このあたりをよく知るコムランによれば半世紀前はひどい状態だったそうです。
このあたりを流れる石神井川はかつては音無川と呼ばれ、江戸時代には歌川広重が江戸の名所として描くほどの河川でした。しかし高度経済成長に伴い水質汚染が進み洪水対策も必要となったことから、飛鳥山公園の下に地中トンネルを通して流すという流路の大変更がなされました。その際残された旧流路を整備して1988年(昭和63年)に開園したのがこの親水公園です。
音無親水公園には渓谷風の流れがあり、その上に立派な桜の木が並んでいます。この桜並木はここから中板橋まで5kmに渡って続いています。そしてその先は一部区間途絶えはするものの、石神井公園まで全体で17kmほど続くことになります。今日はこの川沿いの桜をメインに楽しみたいと思います。
ここに来て頭上に爽やかな青空が広がってきました。まだ半分は雲に覆われていますが、昼頃にはそれもなくなりそうです。
音無親水公園の遊歩道はこの時は人通りが多く、自転車を押して進んでいきます。
親水公園はほどなく終わり、それに続く遊歩道を行き、松橋で右岸に渡りました。紅葉橋通りを渡ると金剛寺の横に『松橋弁財天洞窟跡』の解説版があります。
それには『江戸名所図会』に描かれた『松橋弁財天窟 石神井川』が転載されており、『この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。』とあります。ここでは現在もこれら二樹枝のうち少なくとも桜の木を見ることができます。
ここは現在『音無もみじ緑地』となっていて川まで降りられるようになっていますが、階段を行くことになるので上から見渡すだけにしました。
今日は野郎ばかりが集まり、花がないですね。桜以外は!(笑)
滝野川橋に出ました。こちら側は紅葉小学校、向こう側は滝野川住宅。滝野川住宅の前の桜はまるで花が咲くように枝を広げています。
先に新板橋駅前に立つタワーマンションが見えてきました。
埼京線の線路をくぐると板橋区に入ります。この付近の石神井川は両岸ともに桜並木が続いているのでどちらを行ってもいいのですが、今日は人出が多いので主に人通りが少ない側を選んで走ります。
ここは対岸の桜並木がきれい。
どこもかしこも満開の桜で、写真をどう撮ってよいか迷うマージコは、立ち止まってはパチリ、また立ち止まってはパチリ。
帝京大学の前を過ぎ、稲荷台に入りました。桜はまだまだ続いていますが、ちょと飽きてきたかな〜(笑)
旧中山道に出るとそこに架かる橋は『板橋』。この橋が板橋という地名の由来となったとも言われています。
この『板橋』は鎌倉時代の書にその名が登場するため、平安時代に石神井川に架けられた板の橋と考えられています。当時の橋は丸太や土の橋が一般的でしたが、板の橋は珍しかったことから地名として定着したようです
ここには『距日本橋二里二十五町三十三間』の表示があります。中山道の最初の宿はここ板橋宿でした。
首都高速道をくぐると氷川町。この先に架かる橋の名は愛染橋。愛染は藍染に通じるのでこのあたりで染物がやられていたかもしれませんが、やっぱり愛染は愛を染めるでしょう。
江戸時代、江戸に入る最後の宿場には遊郭がありました。この中仙道にもそれはあったわけです。天保年間(1830-44年)の板橋宿の旅籠屋は54軒で、その約半数は飯盛り女(遊女)を抱えていたとされています。ちなみにすでに通り過ぎましたが仲宿の文殊院は、江戸時代は投げ込み寺と呼ばれており、遊女の遺体が筵に巻かれ、銭200文を付けて持ち込まれたといいます。
時は正午。そろそろ昼食にしようと石神井川沿いから中板橋の商店街に入ります。
この商店街の規模は思ったよりずっと大きく、通りに沿って飲食店もたくさん並んでいます。商店街の中心あたりまで進んだところでめぼしいところを覗きますが、どこも満席。今日は今期最大の花見日和とあり、この商店街の人出もかなりのものなのです。
そこにあった食堂を3〜4軒覗きましたがダメで、ちょっと横道に入るとインドネパールカレー屋さんにうまく入ることができました。
ただ一人、ユッキーはカレーはハウス・バーモントカレー専門でインド的な香辛料が効いたカレーはあまり好きではないらしく、野菜炒めを頼んでいました。ユッキーにはちょっと申し訳なかったですが、ここのカレーはそこそこ美味しかったですよ〜
午後の部は中板橋商店街を出て石神井公園を目指します。まずやってきたのは城北中央公園。
城北の『城』は江戸城のことだと思いますが、ここはそれより北部の地区の中央ということでしょうか。そもそも板橋区は一般的な区分の城北地域でも西の端にあり、公園の半分は城西に区分される練馬区に属しているのですから、なんだかあまりピンと来ないネイミングです。まあそれはそれとして、ここは公園としてはかなり大きいです。そしてこの日はその巨大公園が埋まってしまうのではないかという人出です。
城北中央公園から再び石神井川沿いに戻ります。先ほど言ったように城北中央公園の中程からは練馬区になるので、この先はしばらく練馬区です。
ここは北町豊玉線の新大橋。緩いカーブを描きつつどこまでも続く桜です。
2020年8月末日に閉園した豊島園があったところまでやってきました。
その跡地は一部がまだ工事中のようですが、ハリーポッターの巨大施設と練馬城址公園の整備が終わっているようでした。写真手前が公園で、向こう側に見える黄色っぽい建物がハリーポッター。
日差しが強くなってきて気温がかなり上がっています。花見客の中には半袖姿の方も。
富士見台4丁目と高野台2丁目の間に架かるその名も桜見橋から行く手を見ると、桜の花が両側から被さり石神井川の川面が見えないほどです。
この景色ににんまりはTOP写真、左から、ちょっとニヒルなミッチー、我らがデラックス部長マージコ、ワークマンなユッキー、ロード服のコムランでした。
枝垂れ桜じゃない枝垂れている桜。
西武池袋線の線路をくぐり、その先の都道を渡ると『平成みあい橋』に出ます。この橋は三方向から渡れるちょっと変わった形をしています。
ここは川辺に広めのデッキがあり、さらにその一段上にも遊歩道があるため、空間に広がりがあって桜が特によく見えます。
ここは下のデッキを行っても、上の遊歩道を行っても良いのですが、上の方が空いていそうだったので今回は上を。
はらはらと舞う花びら
そして、ついに石神井公園に到着です。
いや〜、今日はここまで遠かった〜(笑)
この公園も人出が多かったのですが、せっかくここまで来たのですから奥にある三宝寺池まで行ってみることにします。
石神井公園の池は西側を三宝寺池、東側を石神井池と言い、石神井池はボートに乗れるようになっています。その石神井池の畔をゆっくり進んで行きます。
三宝寺池にやってきました。石神井池はボート乗り場もあり周囲にレストランなどが立っているため賑やかな印象ですが、こちらの三宝寺池は木々の中にひっそりとあり、訪れる人も石神井池よりずいぶん少なく、静かです。
この池は浅層地下水がある武蔵野礫層が表面に出ているため池になっているのですが、この地下水による湧水量は大変減っており、現在は2箇所の井戸から水を汲み上げているそうです。
三宝寺池からは光が丘公園に向かいました。普段ならあまり選ばないようなまっすぐな道、富士街道と池袋谷原線を使ってその入口へ。途中にある目白通り、笹目通り、富士街道が交差する谷原交差点は陸橋を渡らなければならなかったので、ここを通るのは避けるべきでした。
光が丘公園は60haもある広大な公園です。この規模は城北中央公園の26haはおろか上野公園の54haをも上回ります。
この公園は太平洋戦争中は成増飛行場で、そのあと米軍の住宅地となった歴史を持ちます。それでこのような広大な敷地が誕生したのです。
ここはメインストリートの銀杏並木が有名ですが桜の木も千本以上植えられており、この日は花見客でいっぱい。それぞれが桜の花の下でのんびりくつろいでいます。
気温がかなり高いので私たちもここでアイスクリーム休憩です。
アイスクリームで疲れも癒されたところで光が丘公園を出ます。ゆりの木広場から赤塚口(正門)までは桜並木が続きます。
光が丘公園の次は赤塚城跡に入ります。赤塚城は15世紀の半ばに千葉自胤によって築城されたと伝えられていますが、それより以前からあった可能性もあり、あまりよくわかっていないようです。
現在は赤塚公園の一部として整備されており、周囲には桜の木が植えられています。ここはあまり有名ではないため、今日訪れた公園の中ではもっとも静かでした。
赤塚城跡からは首都高速沿いのバードサンクチュアリを行くつもりにしていましたが、うっかり高速道を渡ってしまったのでそのまま進んで高島平の駅前へ。
高島平と言えば高度経済成長期に日本住宅公団が建設した総戸数1万戸を超える大規模な高層団地が有名です。この団地も人口減少の影響でか空室が目立ってきていると言い、外国人の入居率が高まっているそうです。
高島平を抜け、荒川へ向かいます。
荒川のすぐ手前にはそれに並行して流れる新河岸川があります。くっつきそうで離れているこの二つの流れにはそれぞれに歴史があり、くっつかない理由があるから面白いですね。
荒川の土手上に出ました。ここからはおなじみの荒川自転車道を行きます。
荒川自転車道は土手の上と河川敷とにありますが、残念なことに眺めの良い土手上の自転車道は鉄道や道路で遮られ、河川敷へ下らなければなりません。これを何度も繰り返すのは面倒なので、結局のところほとんどは河川敷のそれを行くことになります。
東北本線の線路をくぐると、『お〜ッ!』という声が上がります。芝桜が華麗に満開です。
眺め良し! この時期は芝桜に加え桜も楽しめます。
この赤羽桜堤からは荒川とともに新河岸川も望めます。
これで本日のお花見ポタリングは終了。終着地の赤羽へ向かいます。
新荒川大橋をくぐり抜けると荒川の対岸に川口のエルザタワー55が見えます。今でこそ超高層マンションはだいぶ増えましたが、1998年にこの建物が完成した時はかなり驚きました。これまでの住宅は超高層と言えどせいぜい20階建程度だったのがこれは55階もあるのですから。そしてその立地もかなり衝撃でした。
赤羽へは岩淵橋を渡っても良いのですが、ここまで来たついでに岩淵水門まで行ってみましょう。
岩淵水門は新旧の二つがあり、手前のオレンジ色のものが旧水門、奥の水色のものが現在使われている水門です。ここで荒川から隅田川が別れ、その隅田川にこれまで横を流れていた新河岸川が流れ込んでいるのです。ちょうど二つの水門の間にある桜が満開でした。
旧岩淵水門のすぐそばにある新志茂橋で新河岸川を渡り、赤羽駅近くのせんべろ飲み屋街にやってきました。
『せんべろ』とは千円でべろべろに酔っ払えるという意味だそうで、この駅前には安い飲み屋がたくさん集まっているのです。
まだ17時半前ですが、どの店もかなりの客で賑わっています。ここには朝方から営業している店もあるらしく、一般的な居酒屋の早くとも17時オープンというトリセツは通じないようです。
たまたま通りがかった一軒の店に空きがあったのでここを本日の終着地としました。
いや〜、それにしても今日の人出はすごかったね〜