ハイランド第二の都市フォート・ウィリアム(Fort William)の朝は晴れだ。今日はウェスト・ハイランド最大の見どころとも言われるグレンコーを散策しに行く。
一般的にグレンコーと言った場合、それはフォート・ウィリアムの南にあるコー渓谷(Glen Coe)を指すが、その西端にある村もまたグレンコー(Glencoe)と言うから、ちょっと紛らわしい。グレンコー村の方は Glencoe village と紹介されることもあるから、ここでは後者はグレンコー・ヴィレッジまたは単にヴィレッジと呼ぶことにする。
私たちが行くのは、スコットランドでも有数の見どころの一つとされるコー渓谷の方で、その真ん中までバスで行き、自転車で Lost Valley あたりに入って戻ってくる計画だ。
出発の前にまず朝ご飯を。スコットランドの朝食のスタンダードは、ポリッジ(porridge)というオートミールとフル・スコティシュ・ブレックファストだ。
ポリッジはカラスムギのお粥で、牛乳や砂糖、あるいは塩を加えて食べられる。ここではメイプルシロップを試してみた。これは感覚としては、ジャムや蜂蜜を塗ったパンと同じようなものかもしれない。
もう一つのフル・スコティシュ・ブレックファストは複数の品からなる。
写真はブラック・プディング、ソーセージ、焼きトマト、卵、マッシュルーム、豆だ。このほかに、ベーコン、ハギス、ポテト・スコーンが加わるが、全部食べ切ることは不可能なので、この日は写真のものだけをお願いした。ジュース、ヨーグルト、フルーツはたいていサービステーブルに置かれており、好きなだけどうぞだ。もちろん、コーヒーか紅茶、そしてトーストが付く。
たっぷり朝食をとったら、フォート・ウィリアム中心部にある観光案内所に向かう。
フォート・ウィリアムはアイル湖(Loch Eil)が直角に折れ曲がる所に作られた街で、宿からはアイル湖沿いのA82を進む。
1kmほど走るとフォート・ウィリアムの中心部だ。そこにはA82に並行した歩行者専用道のような道の両側に、商店やレストランが並んでいる。
この中にある観光案内所で、フォート・ウィリアムからグレンコー周辺にかけての詳細な地図を入手した。
グレンコーまでは駅前からのバスに乗る予定だ。その出発時刻まではまだだいぶ時間があるので、駅で明日の列車のチケットを購入した。
プラットフォームには昨日私たちが乗ってきた蒸気機関車ジャコバイト号が入っていたので、ついでにもう一度覗いてみることにした。
大勢の観光客の中に、ちょっとクラシカルな出で立ちのカップルがいた。
おそらくこの人たちは観光用のモデルだと思う。日本なら羽織袴や着物で登場といったところだろうか。
昨日、ジャコバイト号に乗車したときは雨だったので運転席は見なかったが、この日は大勢の観光客に混じってそれを覗かせてもらった。
複雑な配管や計器が並び、その下で火室の中が真っ赤になっているのが見える。走っている間中、ここに石炭をくべ続けなければならないのですね。
バスの発車時刻が近付いてきたので、バス乗場へ移動する。さすがにフォート・ウィリアムだけあり、バス停がたくさん並んでいる。
ちょっとうろうろしたが目当てのバス停が見つかり、自転車を折り畳んでスタンバイ。グレン・コーへはステージコーチ(Stagecoach)とシティリンク(Citylink)のバスがあるが、私たちは後者を使う。ステージコーチはヴィレッジより奥へは行かないからだ。
バスがやってきた。大勢のハイカーが巨大なリュックを荷物室に放り込む。私たちが自転車を入れようとすると、係員がバッグに入れなければダメだという。これまでスコットランドで数回自転車をバスに載せたが、いずれも裸でOKだったので、すっかり輪行袋のことを失念していた。事前に問い合わせたところ、確かに、『バッグに入れてね』とあったのを思い出した。
宿に輪行袋を取りに戻る時間はない。困った。仕方がないので計画変更だ。
大変残念だがコー渓谷へ行くのは止めて、その手前にあるリーブン湖(Loch Leven)を廻ることにする。
そのリープン湖までだが、走っても次のバスを待ってもあまり変わらないので、ここは走ることに決定。やってきたA82を戻る。
私たちが宿泊したB&Bを通り過ぎ、どんどことA82を南へ向かう。
このあたりのアイル湖には白い帆を広げたヨットがたくさん浮かんでいてきれいだ。その先には対岸の山がずっと連なっている。
A82はグラスゴーとフォート・ウィリアムを繋ぐ幹線道路で、交通量がかなり多く大型バスも結構通るので、自転車向きの道ではない。コー渓谷まで行くことを諦めた理由の一つがこれだ。
先ほどから見えていた山がぐっと近付いてきた。そろそろリーブン湖の入口だろう。
ノース・バラチュリッシュまでやってきた。
ここの直前でアイル湖はキュッとくびれ、リニ湾(Loch Linnhe)へ注ぐ。
ノース・バラチュリッシュではまた、リーブン湖の水も、リニ湾へ注いでいる。
写真はリーブン湖がくびれ、リニ湾に注ぐ口だ。
リーブン湖の周囲にはぐるりと道があり、一周できるようになっている。
ノース・バラチュリッシュからはその南岸を辿り、グレンコー・ヴィレッジへ向かう。
リーブン湖の先に頭が尖った特徴ある山が見えてきた。あれはパップ・オブ・グレンコー(Pap of Glencoe742m) という名の山で、ハイカーに人気だそうだ。往復で7kmのトレッキングコースがあり、五時間ほどで登れるらしい。
グレンコー・ヴィレッジはあの山の麓にある。
右手の山側には小さな教会と、それに付属した墓地が見える。
その地面は、まるできれいに管理された芝生のような緑。
グレンコー・ヴィレッジが近付いてきた。
正面にはずっと、あのパップがデーンと座っている。
A82に並行する道に入ると、ちょっと洒落たクラフト・ショップやB&Bが数軒建ち並んでいる。
これらを横目に進むと、道はすぐにまたA82に合流する。
私たちが最初行こうとしていたコー渓谷は、ここから先のA82沿いに16kmほどの長さに渡り展開する。ちょっと覗いてみたいが、ここはぐっと我慢。A82を横切り、グレンコー・ヴィレッジに入る。
ヴィレッジの中にはグレンコー民俗博物館(Glencoe Folk Museum)があるので覗いてみた。
それは切り妻屋根の細長い建物で、軒がすごく低い。中に入るのに、入口で屈まないと入れない。
壁は石造らしく、白い石灰らしきものが塗られている。
その屋根は一風変わっている。世の中には植物を材料にした屋根葺き材はいろいろあるが、それらは、木の皮、木の薄板、藁や茅、またはバナナなどの植物の葉を使ったものだ。
ここの屋根は針葉樹の葉付き小枝で葺かれていて、これは初めて見るものだ。
内に入ると小屋は構造材が表しになっており、外観同様質素な造りだ。
ここの展示は、1692年のグレンコー虐殺やジャコバイト蜂起を始めとし、このあたりの主要な産業であったバラクラシのスレート採石場などが中心となっている。
この小さな博物館を眺めたら、村の入口にあったレストランで昼食にし、そのあとグレンコー・ロッカン(Glencoe Lochan)へ向かう。
グレンコー・ロッカンは、 パップの下にある小高い丘の中の小さな湖の周辺だ。
その湖の周りは気持ちのいい散策コースになっていて、自転車でも廻れる。
湖の周りの森は人工的に作られたもので、その話がなかなか素敵だ。あるカナダ人がこちらにやってきたのだけれど、その妻は生活に馴染めずふさぎ込んでしまったので、彼女を慰めるためにここに故郷に似た景色を作ろうと、カナダから樹木を移植し森を作ったのだそうだ。
その湖畔に洒落た格好をした人々が集まっている。男性は民族衣装のキルトを纏っている。
どうやらこれからここで結婚式があるようで、すぐ近くではアイリッシュ・ハープをつま弾いている人もいる。
ハイランドの川は黒い。そしてまた、湖も黒いのだ。
気温の低いこの土地では、植物が枯死しても分解されずに泥炭となる。その微粒子が沈殿しないで水中を浮遊しているので、川や湖は黒いのだ。
ここは静かでとてもいい。
この湖の周囲は2.5kmほどで、ゆっくり歩いても一時間も掛からない。自転車だとせいぜい20分だ。
一周すると、先ほど出会った結婚式のグループが、デッキでまだおしゃべりしているのが見える。
グレンコー・ロッカンの静寂を楽しんだあとは、ヴィレッジへ戻り、リーブン湖一周の再開だ。
ヴィレッジから先の道はA82ではなく、B863となる。この道はA82に比べ圧倒的に車が少ない。
コー川(River Coe)を渡りリーブン湖の奥へ向かうと、湖の幅はヴィレッジ付近の半分程度に狭まる。
ちょっと見には少し広めの川だ。
ここに来て空には雲が多くなった。天候はやや下り坂のようだ。先にはかなり厚い、真っ黒な雲もある。
ハイランドでは五分ごとに、晴れ、曇り、雨と変わることがよくある。
先ほどから道端に見えている赤紫の花はヘザーだ。
丘を覆うこのヘザーは、夏のハイランドの景色を作る重要な要素になっている。
それはこんなふうに、大概山の下から中腹あたりまでを覆う。山の上の方には生えない。
これははじめは森林限界のようなものがあるのかと考えたのだが、おそらく、岩でできた山の上部は勾配が急で土がないためだと思う。
今日のこのコースはほとんどフラットなのだが、ヴィレッジからグレンコー・ロッカンまでと、このリーブン湖南岸に二ヶ所、ちょっとした上りがある。
それらの坂は標高差50mほどで斜度もきつくないので、一気に上る。
リーブン湖が下に見えるようになってきた。これは川だろうか、湖だろうか、それとも海だろうか。Loch Leven の Loch は通常は川は含まず、湖か細長い海を指すことが多いので、湖か海なのだろう。
水面に一筋の線が見える。これは海なら潮目と呼ぶのだろうが、湖では何と呼べばいいのだろう。
先ほどから対岸に見えている山は Beinn na Caillich(762m)。
特に名高い山ではないが、鋭い刃物でカットされたような湖側のシャープな斜面が印象的だ。
二つ目の大きな坂を上って60mの高度差を一気に下ると、リーブン湖の東端にあるキンロックリーバン(Kinlochleven)に到着。
この村はかつてはアルミの精錬所があったことで知られたが、現在は観光が主要産業だ。グラスゴーのミルガイとフォート・ウィリアムを結ぶ150kmに及ぶウェスト・ハイランド・ウェイ(West Highland Way)を始めとし、多くのトレッキングコースがここを通っている。
その名もハイランド・ゲートウェイ(Highland Getaway)という名のバーで一休みしたら、リーブン川を渡ってリーブン湖の北岸へ入る。
休憩している間に、厚かった黒雲はすっかりどこかへ行ってしまったようだ。
先ほどまで見ていたリーブン湖に比べると、リーブン川はより浅く狭く、川という感じがする。
これを見ると、リーブン湖を川と呼ばないのも頷ける。
再びリーブン湖に出た。湖面に小島が浮かび、その先にあのパップが目印のように立っているのが見える。
コー渓谷は今見えている山々の向こう側で、ここはその一筋北側ということになる。
この周囲の山々は標高600mから800mといったところで、スペースからいってちょうどいい高さだ。
山が巨大だとその足元では周囲はほとんど見えなくなるが、ここはいろいろな山が見える。そうした山々の、ボコボコした山肌を眺めるのも楽しい。
パップの真横にやってきた。ここから見るとあのバランスの取れた尖った山頂はまったく違ったものに見える。
この山はまたの名を Sgorr na Ciche という。パップは英語で、こちらはスコットランド・ゲール語なのだろう。このあたりの山の名はほとんどがスコットランド・ゲール語によるものらしく、まったく読めない。
パップの尖った山頂が再び見えるところまでやってきた。
パップの手前の木に覆われた丘が、きれいな湖があったグレンコー・ロッカンだ。
この辺りはリーブン湖の岸まで山が迫っているので、あまり平場がない。
ごく僅かに開けた穏やかな斜面は牧草地として使われているようで、ほとんど緑の芝生のように輝いている。
グレンコー・ロッカンのうしろにコー渓谷の南側の山々が見え出した。
あそこから、スコットランドでもっとも壮観で美しい場所の一つと言われる、16kmに及ぶコー渓谷が始まる。ここから見るだけでも凄そうな渓谷だ。
リーブン湖が広くなった。
ここから見えているのは、コー渓谷の最西端の山とそれからリニ湾へと続く山だ。
リーブン湖周遊もそろそろ終わりだ。
北岸にはないかなと思ってた上りがここで登場、ちょと上って下るときれいな樹林帯を抜けていく。
ノース・バラチュリッシュに戻ってきた。午前中ここにはきれいな青空が広がっていたが、今は空の大部分を雲が占めている。その雲の穴から、陽の光がパーッと差し込む。これもスコットランドらしい景色の一つだ。
このあとはフォート・ウィリアムの宿まで一走り。途中で雨に合い、10分ほどの雨宿り。やっぱりこの日もスコットランドの天気だった。
うっかりミスで予定変更となったこのコースだが、グレンコー・ロッカンには心を癒される静寂があったし、リーブン湖周回ルートもダイナミックな景色で良かった。コー渓谷の入口の山々も見られた。これを見て、もしもう一度チャンスがあればやはり、是非、コー渓谷へ行きたいと思うのだった。