ノルウェイの首都オスロ(Oslo)の観光的な見所は、都心部とその少し西に位置するビグドイ(Bygdøy)半島に分れる。
私たちのノルウェイの旅の初日は、後者のビグドイ半島を廻ることにした。
ビグドイ半島にはビーチと興味深い博物館がいくつもあり、そしてまた、自転車に快適な環境もあるという。
オスロ中央駅近くの宿を出て、目抜き通りであるカール・ヨハン通り(Karl Johans gate)を西へ進めば、オスロの代表的なホテルであるグランドホテルの前を通り抜ける。
このグランドホテル周辺がカール・ヨハン通りの中でももっとも中心といえる場所だ。もっともまだ朝早いので、人通りはあまりない。
カール・ヨハン通りが緩やかに上り出すと、その突き当たりに王宮が現れる。ノルウェイの正式名称はノルウェー王国といい、この国には今でも王様がいるのだ。
この前庭では13:30から、その王様を守る衛兵の交代式が見られるという。
王宮を通り過ぎると住宅街になる。
その住宅街を過ぎると、ヴィーゲラン彫刻公園(Vigelandsanlegget)だ。
ここは32万m2という広大な公園で、彫刻家グスタフ・ヴィーゲラン(Gustav Vigeland)の作品がびっしり置かれている。
そしてヴィーゲラン以外の作品は一点としてない。
正門を入ると緑の芝生があり、その先に橋が架かっている。
この橋の欄干の上にもブロンズの彫刻がたくさん並んでいる。
『
ここでもっとも有名なのは、『おこりんぼう』という名の彫刻だ。この彫刻はここだけでなく、ノルウェイでもっとも有名な彫刻といってもいいだろう。
つい、「こんな子、いるよね。」 と言ってしまう、そんな作品がこの『おこりんぼう』以外にもいくつもある。
こちらはどういうシチュエーションなのか、まとわりつく子供を払いのけ、蹴散らす男の像だ。「え〜い、うるさーい。あっちへいけ〜!」って感じか。まあそんな気分になることも、たまにはあるよね。
『おこりんぼう』とこの像は数ある彫刻の中でも特に有名なものだが、他にも面白い像がたくさんある。
橋の先は薔薇が咲く庭だ。
緯度が高く寒いノルウェイでは、花は夏に一気に咲く。
薔薇の庭の先には噴水があり、その先に塔が建っている。
噴水もまたヴィーゲランの作品の一部だ。
樹木と女たち、そして樹木に絡み付く子供たちも見える。
噴水の先の塔はたくさんの壇が積み重なった『モノリスの大地』の上に建っている。『モノリスの大地』にはたくさんの群像が置かれ、モノリスを取り囲んでいる。これまでの彫刻はブロンズ製だったが、ここのものは白い花崗岩でできている。
中央に建つモノリスはその名の通り一枚の花崗岩から切り出されたものだそうだ。これは高さ14mを越える巨大なもので、そこに絡み合い重なりながら上へ延びて行く人物像が121体配置されている。
ヴィーゲラン彫刻公園のあとは、いよいよビグドイ半島へ向かうのだが、その途中、ちょっと面白いものを発見した。
一つはこの煉瓦造の建物。偶然通り掛っただけなので詳細はまったく不明だが、元は工場かなにかだったのだろう。きれいにリノベーションされてうまく使われている。
もう一つはその前の自転車店の店先で見つけたトレーラー。
これまでいろいろなトレーラーを見てきたが、これはそうした中でももっとも大型のものだ。丸っこい形がかわいらしいが、いったいどんなふうに使うのだろう。色と形からはキャンピングカーを想像してしまう。
さて、鉄道の線路とE18を越えるといよいよビグドイ半島だ。
ビグドイ半島の西側は森で、その中に自転車道が通っている。
ここの自転車道は日本で一般的にイメージするそれとはかなり異なり、ただの地道だ。
ただし、手入れはきちんとされており、細かい砂利敷きで走りやすい。自転車で走るのに気持ちのいい道、といったニュアンスで、ヨーロッパではよく見かけるタイプの自転車道だ。
ノルウェイは緯度が高く寒いため、野菜や穀物はあまり生産されず、農業は酪農が主体だ。
ここは森の中に開かれた牧草地らしい。
自転車道を少し行くと、ビグドイ海水浴場( Bygdøy sjøbad)が現れる。小さな入り江の砂浜で、すぐ沖に島があるため、波が穏やかで海水浴に適しているのだろう。
この時、作業員が砂浜の清掃をしていた。オスロの街中はとてもきれいで、ゴミなどあまり見かけないが、こんなところにまで手が入っているとはちょっと驚く。
さらに森の中を進むと次のビーチが現れる。パラディスブクタ(Paradisbukta)というところのようだ。Paradisはおそらくパラダイスのことで、buktaは岸という意味のようだから、ここはパラダイスビーチとでも呼べはいいのだろう。
ビグドイ半島のさらに西に突き出している半島と、そのさらに向こう側の低い山並みが見える。足元には地層が30°ほど傾いた岩が連続し、海辺には海藻と小さな巻貝が見られる。
半島の先端にはフーコードゥン(Hukodden)ビーチがある。ここにきて空に青い色が広がってきた。
サリーナはここまで上着を来たままだったが、気温が上がってきたのでそろそろその上着を脱ごうかというところに、年配の男性がパンツ一丁で現れ海へ向かって行った。いくら気温が上がったと言っても22-23°Cほどなので、海水はかなり冷たいはずだ。でもノルウェイの夏は今しかない。だからノルウェイの人々は、私たちにはちょっと信じられないくらいの気候でも海に入るのだろう。
フーコードゥンビーチのあとは博物館巡りが始まる。まずはフラム号博物館(Frammuseet)へ。
三角の建物が二つ見えるが、右側のそれがフラム号博物館だ。
フラム号(Fram)はノルウェイの探検船で、19世紀の終わりにフリチョフ・ナンセン(Fridtjof Wedel-Jarlsberg Nansen)の北極探検のために建造されたもので、海氷に閉じ込められたまま漂流するという途方もない発想から生み出された。
氷の圧力に耐えるため丸底になっているのが特徴で、長さ39mは乗船してみると意外と小さい。
こんな小さな船で氷に閉じ込められたまま何年も過ごすなんて、本当に想像を絶する。この船がシベリア北岸沖で氷に閉じ込められて北極海を漂流し、グリーンランド海で氷海を脱出したのはなんと3年後のことだ。
フラム号はこのナンセンの探検後、スベルドラップの北極海探検、1910年から12年のロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen)の南極探検に使用された。
ノルウェイのアムンセン隊と英国のスコット隊が人類初の南極点到達を競ったのは、あまりに有名な話だが、その時アムンセン隊が使った船がこのフラム号だ。フラム号博物館の湾側には、このアムンセン隊の像が立っている。
技術の進歩は早い。現在なら宇宙でも活動できる服があるが、この当時はほとんどすべての装備品に自然界のものを材料として使うしかなかった。
動物の皮の靴、木のスキーやかんじき。こんなものでよく北極や南極に行けたものだ。
3年もの間、氷に閉じ込められた生活はどんなだったろう。
ここに僅かな娯楽のスペースがあるが、よくみんな発狂せず耐えられたものだ。
これはフラム号が辿った北極海のルート図だ。
右側のオレンジと緑色の線が、ナンセンの探検ルート。
フラム号博物館の向かいにはコンティキ号博物館(Kon-Tiki Museet)がある。
この博物館も見なければならないものの一つだ。
コンティキ号(Kon-Tiki)はノルウェーの人類学者トール・ヘイエルダール(Thor Heyerdahl)によって1947年に建造された筏だ。
ポリネシアのある島に住んでいたヘイエルダールは、住民からその祖先は東の大陸から来たのだという話を聞き、南米のインカ文明とポリネシア文明とに相似点が多いことから、ポリネシアの住人の起源は南米にあると発表する。しかしこの説は、当時の技術では南米からポリネシアへは船で渡れないという理由で、学会には受け入れられなかった。
そこでヘイエルダールは、古代でも入手が容易な材料を用いコンティキ号を建造し、ペルーからポリネシアへの航海を行った。
ちなみにコンティキとはインカ帝国の太陽神ビラコチャの別名だそうだ。広げられた帆の中央に描かれているのがそのビラコチャだろう。
筏の主要部材はバルサだ。このバルサを繋ぐロープは船舶に詳しい人々から2ヶ月ほどしか持たないと言われていたが、実際は3ヶ月以上の航海中を持ちこたえたという。これはバルサ材が柔らかいため、ロープが食い込み、逆にロープに掛かる力を和らげたと考えられている。
ちなみにこの筏はインカ帝国を征服した当時のスペイン人たちが描いた図面に忠実に建造されたというが、最後まで機能が不明なパーツもあったらしい。
1947年、コンティキ号はペルーを出て曳航船によってフンボルト海流を越えた後は、漂流しながらイースター島を目指した。この航海はツアモツ諸島で座礁するまでの約8,000km、102日間に及ぶものだった。
現在、ヘイエルダールの学説には否定的な意見が優勢だが、とにかく彼は途方もないことを考え、実践したことだけは確かだ。
ナンセンの探検から半世紀が過ぎたこのヘイエルダールのコンティキ号の航海には、動画が残っている。
実際に大海原を航海する筏の姿は圧巻だ。ナンセンの航海は探検だが、こちらは冒険と言った方が相応しい気がする。
ヘイエルダールの冒険は続く。
木の筏の次は葦舟だ。
今度はアステカ文明とエジプト文明との類似点に着目し、アステカ文明はエジプトからの移民が作った文明ではないかという仮説を立てる。
そして葦で造られた古代エジプトの船に大西洋を渡る能力があることを証明するため、葦で造った『ラー号(Ra)』で、1969年にモロッコからカリブ海を目指す。
ラー号はもう一歩のところで破損してしまうが、一年後のラーII号による再挑戦では、見事にカリブ海のバルバドス島に到達した。
葦舟はピラミッドの前で建造されたようだ。
これがラーII号が辿ったルートだ。
このあとヘイエルダールの冒険は、葦舟『チグリス号(Tigris)』でのインド洋航海へと続いて行く。
ナンセンといいこのヘイエルダールといい、ノルウェイ人とはとてつもないことを考え、またそれを実践するものだ。
コンティキ号博物館を出ると、雨だ。
曇りから晴れ、そして雨。ここの天気は目まぐるしく変わるようだ。去年行ったスコットランドは『一日のうちに四季がある』と言われるほど天候の変化が激しかったが、ここもどうやらそうした傾向がありそうだ。
しばらくすると雨が上がったので、オスロ湾を眺めながら弁当を頬張る。
さて、ひと息付いたら次の博物館へ向かう。
次はヴァイキング船博物館(Vikingskipshuset)だ。
ここにはオーセベリ(Oseberg)、ゴックスタ(Gokstad)、トゥーネ(Tune)の三ヶ所から見つかったヴァイキング船が展示されている。
このうちもっとも保存状態の良いのがオーセベリ船だ。この船はオーセベリの墳丘墓から見つかっており、二人の女性の遺骨と多くの副葬品とが埋まっていた。ここに展示されている船はみんな墓の埋葬品の一部と考えられている。
この船の建造は紀元800年以前のものと推定されている。つまり今から1200年以上前に造られたものだ。船はほぼすべてがオーク材で出来ており、美しい鎧張りで非常にデリケートな曲線を描いている。
そして船首と船尾には、オーセベリ様式として知られる『握り獣(gripping beast)』という装飾が見られる。
全長21.58m、幅5.10m、マスト長は10m前後、15対合計30のオール穴がある。
この船はもちろん航海可能だが、比較的脆弱で沿岸の航海にしか用いられなかったと考えられているそうだ。
ヴァイキング船には舳先に竜頭飾りを持つものもある。
この船のものは蛇のデザインだ。船尾側はちゃんと尻尾になっているのが上の写真からわかるだろうか。
これは別の船のものだが、遺骨が置かれていた部屋だろう。
オーセベリでは5つの動物の頭の彫刻が見つかっている。
湾曲した木の根っこに彫刻を施したものだが、これが何のために造られたのかは、はっきりしないようだ。
副葬品の中にはこんなものもある。荷車だ。
この上の荷物を入れるところの外側にはびっしりと彫刻が施されている。
そしてこちらは橇。これにもびっしり彫刻が。
これらの彫刻のモチーフは様々だが、中にはこんな鬼だか悪魔のようなものもいる。
こうした副葬品を見ると、ここに埋葬された方がかなりの権力者だったことがわかる。
ヴァイキングとは紀元800年から1,050年の250年の間に、西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア半島からバルト海沿岸地域の武装船団を指す言葉だそうだ。
そのヴァイキングは、西は大西洋を渡ってカナダのニューファンドランド島、北はロシアの白海、南はポルトガルを廻って地中海、そして東はカスピ海あたりまで行っていたようだ。
ビグドイ半島ではもう一つ見逃せない博物館がある。それはノルウェー民俗博物館(Norsk Folkemuseum)だ。ここにはノルウェイ中から集められた民家などが展示されている。
ここに来てまず驚くのは、民家の多くの屋根に草が生えていることだ。これは現代のノルウェイでもかなり一般的に使われている屋根葺き工法で、かつては木の皮などを防水材として使い、それを押えるため、また断熱材としてその上に土を敷いたのだ。この土が乾燥して飛散したり雨で流れてしまわないように、草の根で固定している。
北欧と言えばログハウスと呼ばれる丸太造りの家を想像する方も多いだろう。
そう、ここノルウェイにもログハウスは多い。この家は1階がログハウスで、その上の2階は柱が立つ構造をしている。
ログハウスの壁は原始的には木材を丸太のまま使用していたはずだが、ここのそれは巨大な丸太を加工し、厚みを小さくしている。かなり手間の掛かる造りだ。
出入口の高さはかなり低い。普通の人なら必ず頭をぶつける。ノルウェイは寒さが厳しいので、開口部をできるだけ小さくして、室内の温度が下がらないようにしたのだ。
この博物館の特徴は、建物や民具を展示するだけではなく、実際どのように生活していたかがわかるように、デモンストレーションのようなことをしていることだ。
ここでは『大草原の小さな家』さながらの生活展示がされており、お父さんが庭先でジャガイモを茹で、娘たちがテーブルに食器を運んでいた。
ここでの最大の見所は、1212年に建築されたと考えられているこの建物だろう。ゴル・スターヴ教会(Gol stavkirke)。かつてゴルにあった教会を移築したものだ。
スターヴ教会は柱梁構造で、柱と柱の間には厚板が嵌め込まれる。この柱がstavと呼ばれるもので、それが建築技術の名として使われるようになったのだ。スターヴ教会は日本語では樽板教会と訳されることが多い。柱間の厚板が樽の断面ように膨らんでいることから樽板教会になったものと想像できるのだが、樽板という言葉はあまりなじみがないし、どうもピンと来ないので、ここではスターヴ教会と呼ぶことにする。
ちなみにstavに続くkirkeが教会のことだが、これはキルケではなくシルケと発音する。スターヴシルケ。
スターヴ教会はかつてはヨーロッパ北西部にかなりの数が存在していた。ここノルウェイにも千ほどあったという。
ところが中世に流行した黒死病(ペスト)により、教会を支える人口が激減したことで、急速にその数を減らして行く。なんとか教会を維持できるだけの人口を取り戻した頃には、かつてのスターヴ教会は使い物にならず、新しい教会が建てられた。こうしてノルウェイのスターヴ教会は現在、わずか28棟を残すだけとなってしまった。
スターヴ教会の構造的な特徴は先に述べた通りだが、ここで目に付くのは、何層にもなった柿葺きの屋根とその先端に付く竜頭飾りだろう。柿葺きは日本のそれよりずっと厚く、3〜4cmほどもある。もちろんスターヴ教会の中には竜頭飾りがないものや、単層の屋根のものもある。
そうそう、この建物は屋根も壁も真っ黒だ。これは木材の腐朽を押えるためにタールが塗られているからである。
ノルウェイは木材資源が豊富で、木造技術が発達していた。そこにヨーロッパの石造教会の技術が伝わり、ノルウェイの人々はそれを木造に置き換えて建築した。
そこにはあのヴァイキングの造船技術も利用されたことだろう。屋根の上の竜頭飾りや入口に施された彫刻はヴァイキング船で見たものとそっくりだ。
この教会のエントランスの柱や回廊の柱頭、そしてその上のアーチには、明らかな石造建築の意匠が見て取れる。
これは入口の装飾だ。
唐草模様だが、この中のどこかに動物らしきものが潜んでいる、そんな感じがする彫刻だ。
内部にはかなり細かいピッチで支柱が林立している。
石造の教会であれば、この程度の空間は外壁のみで支えられるが、木造ではそうはいかず、屋根を高く持ち上げたことでも内部に柱が必要になった。
柱と梁を繋ぐゾーンにはアーチ、またはそのバリエーションが見られる。
これは造形的にはヨーロッパの石造建築から持ってきたものだが、構造的には方杖の役目を果たしているのだろう。
内壁にはびっしりと絵が描かれている。
この建物はゴル・スターヴ教会の正面に建っている一見どこにでもありそうなログハウスだ。しかしなんと建築は1738年だ。
構造力学が発達していなかった古い時代のログハウスは石造と同様に構造上大きな開口は開けられず、ごく小さな窓がいくつか開いているだけだ。
左手が玄関、右手に見えるのはベッドだ。どういうわけだかノルウェイの伝統的なベッドはみんな小さく、150cmほどの長さしかない。しかも大抵そこに二人寝ていたという。
ノルウェイのベッドはなぜ小さいのかという謎は結局解けぬままだったが、フロム号の写真を見直していてはたと気付いたことがある。ノルウェイはヴァイキングの国だ。船は狭い。とても普通のベッドを置けるような場所は船にはないのだ。ヴァイキングが陸へ上がった時、家々のベッドはみんなヴァイキングサイズになった・・・
もう一つ考えられるのは、ノルウェイはもの凄く寒くて、へたをすると寝ている間に凍死しまう。空間を小さくして熱損失を小さくするためだと思うが、戸棚のような中にベッドを設えることもあった。その中で寒くないように身体をぎゅっと縮めて寝る。だからベッドは小さくていいのだ。そして隣にもう一人寝るともっと暖かくなる・・・
これはまた別の小屋だが、女性がパンをこねて焼いていた。
この時は売り切れで試食できなかったが、ちょっと食べてみたかった。おそらく無発酵だろうから、パンというよりインド料理のチャパティーのようなものだろう。
さて、以上でビグドイ半島の博物館巡りは終わりだ。
次は街中へ戻り、国立美術館(Nasjonalmuseet)でムンクを鑑賞しよう。
ビグドイ半島から街中までは、オスロ湾沿いに自転車道が通っている。ここはかなり交通量があり、二車線だ。
オスロは自転車にとって環境が良く、かなり多くの道に自転車レーンが設えられており、公共のレンタサイクルもたくさん利用されている。
オスロ中心部の港に戻ってきた。うしろ右手のクリーム色の建物がノーベル平和賞の歴史や歴代受賞者の功績を展示するノーベル平和センターだ。
ノーベル賞のうち、平和賞の授与式だけはスウェーデンではなく、ここノルウェイのオスロ市庁舎で行われる。
さて、国立美術館だ。
東側からアプローチすると、この美術館はごく普通の通りにあるごく普通の建物のように感じる。建物そのものはレンガ造で歴史を感じさせるが、それはこういう都市の中ではよく観察しないと見過ごしてしまうものだ。
この建物の西側には歴史博物館があり。その間にはちょっとした広場が設けられているので、そちら側からアプローチするとまた違った印象になるのだろうが。
『
ノルウェイの画家といえばムンク。そのムンクの作品の中でももっとも有名なのは『叫び』だろう。この絵は誰でもこれまでに一度位は目にしているはずだ。
『叫び』は油彩画一点、テンペラ画一点、リトグラフ一点、パステル画二点の合計五点が存在する。この国立美術館にはその中の油彩画(1893年)がある。
『
『マドンナ』も『叫び』同様に複数描かれた。これは1894年-95年作の油彩画だ。
タイトルから聖母マリアを描いたものであることが想像できるが、聖母の表現としては異例いうほかないだろう。この絵に対するキリスト教関係者の評判は決して良くなかったに違いない。
『
ここで私がもっとも見たかったムンクの作品は、この『思春期』(1894年-95年)だ。絵のモデルはムンクの姉のソフィーエだとも言われている。
ムンクは幼少期に母親を、そして次いで僅か15歳だったソフィーエを亡くす。このことが後のムンクの作品に大きな影響を与え続けたとされる。子供から大人へと変わろうとする少女を描いたこの絵には、『叫び』のようなダイレクトな表現はない。しかしその分余計に、思春期の少女の不安を感じさせることに成功していると思う。少女のうしろの黒い影はいったいなんなんだ。少女から抜け出た魂か何かか。
ノルウェイの旅の初日のオスロは、かなり充実した日となった。ビグドイ半島のサイクリングは楽しかったし、そこにある四つの博物館はみんな素晴らしかった。国立美術館のムンクも期待以上のものだった。
明日はここオスロから北へ350km、列車で4時間のオップラン県のドンボス(Dombås)へ移動し、いよいよ自転車の旅を始める。まずは氷河によって削り取られたU字谷を下るのだ。