今日はスロヴェニアのコペル(Koper)を出てアドリア海沿いにイストラ半島を南下し、クロアチアに入ります。途中、イゾラ(Izola)とベネツィア共和国時代の雰囲気を残すピラン(Piran)という素晴らしい街に立ち寄ります。
コペルの宿を出ると、道端に市が立ち始めていました。今日は土曜日なので、土曜市でも開かれるのかもしれません。
その市の様子を眺めながら進んでマリーナに出ました。
ここは昨夜散歩したところですが、朝のマリーナは夜とは打って変わって青い海と白いヨットの対比が素晴らしいです。
マリーナからは海沿いに広い遊歩道が伸びています。
このすぐ横はコペルの旧市街のすぐ外側に当たり、旧市街や近隣の街を補完するための大型施設が整備されつつあります。正面に見える丘の上は比較的新しく開発された住宅地です。
広い遊歩道が終わると、歩行者と自転車のためのそれぞれの専用道が現れます。自転車用はなんと二車線あります。
車道はこのすぐ内陸寄りを通っていて、ここは車に煩わされることなく快適に走れます。
自転車専用道はこのあと車道のすぐ横を行くようになります。そしてそのあとがちょっと面白いです。二車線だった車道の片方の車線が自転車専用になり、車用が一車線になるのです。ここの車道はたぶん一方通行なのだと思いますが、こんな造りはこれまで見たことがありません。
この道路は、第二次大戦直前までイタリアのトリエステ(Trieste)とクロアチアのポレチュ(Poreč)を結んでいた、ナローゲージのパレンジャーナ鉄道(Parenzana)の跡を利用したもののようです。パレンジャーナ鉄道跡はこのように自転車道として利用されているところがかなりあります。
コペルから程近いところのビーチは自転車道が車道に合流するあたりにあるのですが、そのあともあちこちで海に浸かっている人たちがいます。
ここは小さな船溜まりですが、そんなところにも海に入る梯子が設えられていています。
いつの間にか車道と自転車レーンが入れ替わっていました。先に教会の尖塔が見えてきました。あそこがイゾラです。
イゾラはイタリア語で島という意味で、昔は沖に浮かぶ島でしたが埋め立てて陸続きにしたのだそうです。ここからではよくわかりませんが、現在のイゾラは海岸線からぽこっと海に突き出した瘤のようなところです。
イゾラはローマ人によって建設された町が起源で、中世にはヴェネツィア共和国に支配されます。20世紀の初頭に島と陸地の間の埋め立てが行われましたが、この時、19世紀の初めに造られた街を取り巻く壁が壊され、埋め立ての資材として使われたそうです。
元々小さな島だったので、土地はとても貴重だったのでしょう。道はこんなふうにとても狭いです。
このあたりの家々は色鮮やかに塗られていて、ちょっと楽しいです。
街の真ん中には聖マウルス教会(Cerkev Sv. Mavra)が建っています。16世紀半ばのルネッサンス建築で、ファサードの明るい縞模様がかわいらしい。
鐘楼はヴェネツィアン・ゴシック様式で16世紀の後半に建てられました。
ここにはパレンジャーナ鉄道博物館(Muzej Parenzana)があるのですが、今日は少し長めに走らなければならないのでこれはパス。
このパレンジャーナ鉄道の跡は現在は自転車ルートとして利用されている部分も多く、私たちもこのあとその一部利用します。
聖マウルス教会から下って海岸に出るとビーチとマリーナがあります。
アドリア海に面したこのあたりの街には必ずと言ってよいほど、この二つはあります。
みんな気持ち良さそう。そろそろ海に入ろうかな。
この近くにはモザイクの公園があったのですが、マリーナやビーチに気を取られていて、うっかり見過ごしてしまいました。まあいいか。。
海辺に道がなくなるとちょっとした上りになり、先ほどまでいたイゾラが下に見えるようになります。
ここから見ると、イゾラが海に突き出ているのがよくわかります。
この先ピランまでは海辺に道はないので、高台をどんどこ行きます。
この周辺はオリーブ畑とぶどう畑です。
真っすぐだった道が突然90°角度を変えると、先の岬に教会の尖塔が見えます。あそこがピランです。
ストルニャン(Strunjan)に下ると交通量の多い幹線道路に入ります。
すぐにこの幹線道路を離脱し横道に入るのですが、この横道がダートのきつい上りで、へろへろ。序盤はまだましでしたが、中盤はガレ場になり、ほとんど立ち往生です。
まあ、この道がダートであることはわかっていたのですが、400mと短いので突破することにしたのです。しかし、ここは本当に途中で引き返したくなるほどでした。
空が開けて周囲がオリーブ畑になると勾配は徐々に弛み出し、地面も固まってきて押し上げやすくなりました。
予想された最悪の結果である行き止まりや廃道は免れて、なんとか舗装路に出ました。
オリーブ畑の中を進んで行くと、
これまでと反対側の左手の視界が開け、二つの湾が見えてきました。
手前側はポルトロシュ(Portorož)の前の入り江で、向こう側は、今でも700年以上前の製法で塩が作られていセチョヴリエ塩田(Sečoveljske soline)です。
道が下り出すと、下に赤い屋根が見えてきます。
ピランに入ったようです。このあたりは旧市街のすぐ外側にできた住宅地です。
この住宅地を進んで行くと、先に城壁が見え出しました。ここから向こう側が旧市街ということですね。
ピランは紀元前にローマ帝国に組み込まれますが、7世紀に入るとビザンチン帝国(東ローマ帝国)の支配を受けるようになります。ピランの都市化はこの頃始まり、街は強固な要塞化が行われます。これはオスマン帝国の侵入から街を守るためでした。
しかし8世紀にはフランク人に占領され、10世紀には神聖ローマ帝国の一部となります。13世紀にヴェネツィア共和国の一部となり、それは18世紀の終わりにオーストリア帝国に併合されるまで続きます。
7世紀に始まった城壁の建設は、15世紀の後半から16世紀の前半に掛けて最終段階に入ります。この城壁がその最終段階のものです。
塔の中ある階段を上って外に出ると、そこには素晴らしい眺望がありました。
さすがに防御用として造られただけあり、よく見渡せます。
これがピランの旧市街です。
海に突き出した半島がそのまま旧市街になっています。
城壁からの眺めを楽しんだら、旧市街に下ります。
街の中心とも言えるタルティーニ広場(Tartinijev trg)に向かう道の途中にはこんな壁がありました。ピランには様々な時代の城壁があちこちに残っていて、門が七つあるそうなので、おそらくこれはその一つでしょう。
タルティーニ広場に下りてきました。
小高いところに聳えるのは聖ユーリ教会(Župnijska cerkev sv. Jurija)の尖塔です。
現在のタルティーニ広場の場所は、かつて街の壁の外に位置した小型船舶のための内陸部のドックでしたが、中世には重要な建物や宮殿で囲まれ、重要な場所となっていました。
19世紀の終わりに下水道整備のため、このドックは埋め立てられ広場になりました。周りには市役所を含む様々な新しい建物が建てられましたが、これらのうち、以前の姿を残している唯一のものは、15世紀に建てられたヴェネツィアン・ゴシック様式の家です。
現在ヴェネツィアン・ハウス(Beneška hiša)と呼ばれているこの建物がそれです。ゴシック様式の特徴の一つは尖頭アーチですが、ヴェネツィア様式はそれに繊細なレースのような装飾が加わります。
この建物の上部の2つの窓の間の石板には、素敵なこんな物語が隠されています。
ヴェネツィア出身の裕福な商人が、ここの美しい女の子と恋に落ちましたが、すぐに地元のゴシップの対象となりました。 彼らを黙らせるために(そして恋人を幸せにするために)、商人は彼女のための小さな宮殿を建てました。
広場の真ん中には、この広場に名を冠したヴァイオリニストで作曲家のジュゼッペ・タルティーニ(Giuseppe Tartini、1692 - 1770)の像が立ちます。
『悪魔のトリル』の作曲で知られるこの人は通常イタリア人として紹介されていますが、生まれはここピランです。彼が生きた時代にはピランはヴェネツィア共和国だったのです。彼の生家はこの広場に面しており、現在は記念館になっています。
作曲家というものは多かれ少なかれ得意な分野があったり、特定の楽器による曲を好んで書いたりするものですが、この人はそれが極めて顕著で、極々僅かな例外を除くとヴァイオリンの曲しか書いていません。
タルティーニ広場から聖ユーリ教会に向かうと、道脇でハープを弾いている方がいました。
うっとりする音色。ここにはまだタルティーニが生きたヴェネツィア共和国時代のなごりが残っているのかも。
聖ユーリ教会は17世紀の初めに、巨匠アンドレア・パラディオ(Andrea Palladio)による同時期の教会のファサードに基づいて、ヴェネツィアン・ルネッサンス様式で建てられました。このファサードは三角形のペディメントと壁に埋まった4本の柱に特徴があります。
鐘楼は、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の鐘楼(St Mark's Campanile )の忠実なレプリカとしてその数年後に造られました。
内装も17世紀の初めのものです。
平面形はシンプルな長方形で、フラットな木製の格子天井と半円形のアプスを持っています。
塔に上ってみました。ちょうど上り終えようとした時に鐘がガ〜ンゴ〜ンガラガラガンと響いてびっくり。塔の中で聞く鐘の音は耳を劈くほどの大きさです。
外に出ると、絶景!
高台に見えるのが先ほど上った城壁です。
タルティーニ広場のすぐ外側は港です。
ピランは細長い半島にあります。
下にはエメラルドグリーンの海が見え、
視線を遠くにやると徐々に海の色がコバルトブルーに変わっていきます。
聖ユーリ教会の塔から南を望むと、ピランが一望にできます。
上からピランの街を眺めたら、ピラン半島の先端に行ってみます。
ピランは海水浴客でも賑わう街です。
ピラン半島の先端には、船乗りの守護聖人である聖クレメントの教会が建ち、円形の鋸歯状の塔があります。 この教会は13世紀に建造され、500年後に改修されました。
聖クレメントの教会の裏側には、それにくっついて古い灯台もあります。
ピランを出て海辺の道を進んで行くと、GPSの電源がダウン。バッテリー切れです。予備のバッテリーを接続するも、こちらもなぜか空っぽ。どうやら昨夜の充電がうまくいっていなかったらしい。仕方がないので細道を行くのは諦めて、ここからは分かりやすい道を走ることにします。
ほどなくポルトロシュに入りました。ポルトロシュはオーストリア・ハンガリー帝国時代に開発されたリゾート地で、カジノがあり高級ホテルがたくさん並んでいるところです。
ちょうど良い時間なので、ここで昼食を。私たちの食事は大抵、前菜一品とメイン一品を二人で分けます。こちらの料理はボリュームが大なので、これで充分なのです。
この日の前菜はシンプルなミックスサラダにしてみました。これはサラダというより、トマト、きゅうり、レタス、玉ねぎが刻まれただけのものです。これをテーブルクッキングします。味付けに使う材料は、酢、油、塩、胡椒だけです。これがこのあたりのスタンダードなサラダの食べ方です。この野菜とテーブルに置かれた酢、油、塩、胡椒の四点セットを見ると、南ヨーロッパに戻ってきたという、なにかなつかしい感じになります。
昼食を終えたらポルトロシュを出て、セチョヴリエ塩田に向かいます。
マリーナの先で丘に上ると、そこは彫刻公園(Forma Viva)になっていました。この公園、日本のそれのように整然としていなくて、そのへんにただごろっと彫刻が置かれているだけという感じです。こういうところはお国柄が出ますね。
彫刻公園から下ると運河(Kanal Sv. Jerneja )に出ます。
ほとんど流れていないように見えるこの運河は、雲を映して何か幻想的な感じです。
運河に沿って快適な道が伸びています。これはパレンジャーナ鉄道跡です。
この道をどんどこ行くと、セチョヴリエ塩田の入口に到着しました。現在、この一帯は自然公園に指定されており、貴重な生物の住処になっているそうです。
セチョヴリエ塩田はスロベニア沿岸で最大の塩田で、その面積は750haあり、今でも古くからの伝統的な製法で塩が作られています。
現在は、北部のレラ(Lera)地区でのみ塩が生産され、ドラゴニャ運河(Kanal Dragonja)で区切られた南部のフォンタニッゲ(Fontanigge)地区は20世紀の後半に生産を終了し、公園になっています。
このあたりの塩作りの歴史は大変古く、9世紀の初めまで遡るようです。それはピランの修道院による小さな塩田でしたが、14世紀の中頃に近代化が行われ、現在の塩田の基礎ができました。
入口から田んぼの真ん中に通る道を進んで行くと、赤い田んぼが現れます。確かこの赤い色は、緑藻の一種が出すカロテノイドのためだったと思います。
ここの塩作りが他と大きく異なるのは、ペトラ(petola)を使うことです。ペトラとはアドリア海の海底から採取された泥で、これはミネラル成分が豊富なバクテリアの堆積層です。
これを毎年少しずつ田んぼに敷き詰め、石のローラーで固め、海水を入れて培養します。ペトラの層は少なくとも3年以上かけて田床の上に作られるのですが、この過程でバクテリアが作用し、自然のフィルターとなります。塩の結晶が田床に接触するのを防ぎ、砂やその他の不純物が塩に混入するのを防ぎ、透明で白く、味が良い塩を作り出すのです。
塩田は海水を濃縮するゾーンと塩を結晶化させるゾーンとに分れています。海から引き込まれた海水はまず濃縮ゾーンに注ぎ入れられ、少しずつ水分を蒸発させます。ある程度の濃度になったら結晶化ゾーンに移し、塩の結晶ができるまでさらに水分を蒸発させます。
この結晶をかき集め、三角形の小山が作られます。この作業は真夏の暑い最中の数週間にしか行われないので、いつでも見られるわけではありません。
通常、塩の結晶はかなり大きいのですが、ここで短時間で結晶になった塩は小さく、ピラミッド形をしており、ソルトフラワーと呼ばれます。
このソルトフラワーは雨が降ったり強い風が吹くと消えてしまい、条件が整わない年には収穫できないこともあるそうです。ソルトフラワーは幻の塩の花と呼ばれているそうです。
塩田の奥にある博物館を見学したら、やってきた道を戻り、クロアチアとの国境へ向かいます。塩田のすぐ先はクロアチアなのです。運河沿いのパレンジャーナ鉄道跡は、ここから自転車道になりました。
この自転車道から111号線に入ると、さすがに国境へ向かう道だけあり車が渋滞しています。スロヴェニアもクロアチアもEU加盟国ですが、クロアチアはシェンゲン協定に加盟していないので、この国境ではパスポート・コントロールがあるのです。
かつて東側の国境付近で写真を撮ってあやうく拘束されそうになった私は、それ以来国境付近の写真は撮らないことにしているので、写真はありません。が、ここのイミグレーションの人はフレンドリーで、パスポートを見せると、
『お〜、君たち、日本から遥々ここまで自転車でやってきたのかい? すごいな。』 と、愛想してくれました。
ま、とにかくクロアチアに入国しました。国境の先のクロアチア側の道路はスロヴェニア側より狭く、交通量は同じだから、ますます渋滞です。しかも暑い上に上り坂で、ここはへとへと。
ここで両替をしなければなりません。クロアチアの通貨はユーロではなく、クーナという単位のものなのです。大抵こうした場合、国境付近には両替屋がずらりと並んでいるのですが、ここはさっぱりで、数km行った先でようやく両替できました。
両替ついでに一休みしていると、なんだか空模様が怪しくなり、真っ黒な雲が迫ってくるのが見えます。これはまずいとそそくさと出発。予定では海岸に出るつもりでしたが、ショートカットし最短ルートで本日の終着地のウマグに向かいます。ここでパラッと雨粒が落ちてきましたが、その後は何とか雨に合わずにウマグに到着しました。
ウマグの宿の前まで来たものの、看板はおろか小さな表札さえ出ていないのでちょとまごまごしてしまいました。番地を確認して中にいた人に、ここは Apartments Milka ですか、と訊くと、違うと言います。隣かなと思って隣の家を覗いていると、先ほどの家からおじさんが出てきて、ここだよ、ここだよ、と言うではありませんか。
さっき私たちが尋ねた人はこの家の友人かなにからしく、ここが民宿をやっていることを知らなかったようなのです。なんかのんびりしていますね。
荷を解いてシャワーを浴びたら、まずはビールです。スロヴェニアよりクロアチアの方が物価は安いと聞いていましたが、ビールに関しては違いました。スーパーマーケットで500mlのビールが11Kuna=200円とスロヴェニアより5割も高いです。税金の違いでしょうか。日本のビールの税金は異常に高く、価格の4割もしますね。
さて夕食です。ここではギリシャ風サラダとルッコラと小海老のピザを。ピザは写真のもので一人前。私たちには二人で一枚でちょうどいい大きさです。
この旅は今日まで、スロヴェニア→イタリア→スロヴェニアと辿り、クロアチアにやってきました。ここからしばらくはクロアチアのイストラ半島を楽しみます。明日はここにもう一泊して、だただらとビーチで過ごそうかと思います。