クロアチアのポレチュ(Poreč)の旧市街から1kmほどのところに宿をとった私たちは、部屋の横にあるテラスで朝食。
朝食は大抵、ジュースとサンドイッチです。サンドイッチの決め手はマヨネーズとマスタードなのですが、これらはアルミのチューブ入りなので、時々破れてムニュっと飛び出してくることがあります。味もちょっと大味ですが、まあ無いよりは断然よろしい。この日は葉っぱがないのがちょっと寂しいです。
朝食を済ませたら、ポレチュの散策に出かけます。
ポレチュの歴史は古く、紀元前2世紀には古代ローマのカストルム(castrum)と呼ばれる軍事拠点が築かれています。紀元前1世紀に旧市街の原形が建設され、当時パレンティウム(Colonia Iulia Parentium)と呼ばれた町は古代ローマの植民市になります。4~6世紀には初期キリスト教の複合建築物が建てられますが、その代表が世界遺産のエウフラシウス聖堂(Eufrazijeva bazilika)です。
その後、東ゴート王国、東ローマ帝国、フランク王国の支配を受け、13世紀にイストリアで最初のヴェネチィア共和国の都市になります。このヴェネチィア共和国の支配はその後5世紀以上に及ぶことになります。
18世紀からはオーストリア帝国、フランス帝国、イタリア王国に支配され、ユーゴスラビアを経て独立という歴史を辿ります。
ポレチュ旧市街はアドリア海に突き出した小さな半島にあります。私たちはこの半島の北の入り江から旧市街にアプローチ。
旧市街の見どころの時代区分は、簡単言うと次の通りです。
1. 街の基礎が築かれた古代ローマ時代
2. エウフラシウス聖堂が建築されたビザンチン時代
3. 邸宅や防衛塔が残るヴェネツィア時代
4. 南側の海沿いに建物が残るハプスブルク時代
12世紀から19世紀にかけてポレチュは城郭都市で、現在もその一部が残っています。
北塔は15世紀の防衛塔です。さすがに石垣は少し痛んでいますが、6世紀を経た現在でもかなり原型を止めているように見えます。この塔からは城壁が左右に延びており、特に右手の旧市街北側に続く壁はかなり長く続いています。
古代のポレチュの都市の壁には9つ(11という説も)の塔があったそうですが、現在も残る代表的なものは、この北塔の他に円塔と五角塔があります。
北塔の横の街の壁に開けられた入口をくぐって旧市街に入ります。
するとそこには、北塔と同じ頃のものなのか、外壁がかなり痛んでいる建物が目に入ります。建物と建物の間に渡されたロープに干された洗濯物が、ここが裏通りであることを示しています。ヨーロッパでは主要な通りに洗濯物が干されることはまずありませんからね。
洗濯物の下を通って進めば、エウフラシウス通り(Euphrazijeva ul.)に入ったようです。
この通りはエウフラシウス聖堂の前に続く道ですが、まだ朝の8時を過ぎたばかりのこの時間帯には、ほとんど人通りがありません。
エウフラシウス通りはかなり狭いのですが、周囲の建物はせいぜい三階建てほどなので、そう違和感はありません。
ヨーロッパの古い街は大抵こんな感じです。
右手に開口部が極端に少ない建物が現れました。13世紀の半ばに建てられたロマネスク様式のカノニカ(Canonica)です。
この建物は元の外観をそのまま残しており、今日までポレチュ教区の司祭の家として使われています。二階には二連アーチ窓が並んでいます。
このカノニカの先に、いきなりエウフラシウス聖堂の入口が現れました。これは正直言って、ちょっとびっくりです。
世の中の有名な教会の多くは、その存在感を際立たせるために、前に広場があり、その奥にドーンとあるものが一般的ですから。ところがこのエウフラシウス聖堂は、街の他の建物と同じ面にまったくさりげなく、その入口があるのです。
エウフラシウス聖堂は東ローマ(ビザンチン)帝国時代の4世紀にその原型が建てられ、6世紀に再建されたものです。ちなみにエウフラシウスとはこの再建を行った司教の名で、再建には10年の歳月がかけられているそうです。
時は8時20分。ここのオープンは9時と聞いていたのですが、表の門は開いていて中に入れました。しかしチケット売り場は締まっています。
聖堂の入口までは入れそうなので、中庭廻りだけでも見てみようと中にズイズイ。
入って左手に、大理石の柱廊で囲まれた小さな中庭があります。
この奥の八角形の建物は洗礼堂で、そのさらに奥に鐘楼の尖塔が見えます。洗礼堂はエウフラシウス時代の6世紀のもので、鐘楼は16世紀に付加されたものだそうです。
中庭の柱は大理石で、その頂部には初期ビザンチン様式の柱頭が載っており、アーチで繋がれています。
大理石は美しく比較的加工がしやすいので、教会建築にはよく用いられる材料ですが、屋外にあるこれらの柱は15世紀も前のものとは思えないくらいきれいです。実はこの中庭は16世紀には廃墟になっていたようで、19世紀後半に大規模な修復がなされているので、これらの柱はその時に替えられたのではないかと思います。これらの柱頭とアーチはコンスタンチノープルから運んだものと聖堂のものが使われたようです。
柱の内側の壁には、古そうなレリーフがあります。
三つ並んだそれらの一番手前のものの上には、チョークで『XIII』と書かれています。これはこのレリーフが13世紀のものという意味でしょうか。
一番左のレリーフには十字架とちょっと何者だかわからない動物が描かれていますが、これにはいかにも中世という雰囲気があります。これらのレリーフは異なる時期のもののようです。
中庭に立って振り返ると、聖堂の外壁の妻面が見えます。
その下半分にはフレスコ画なのか、彩色された絵が描かれています。上半分には絵がありませんが、この建物が建築された当時は何かが描かれていたかもしれません。
聖堂はさすがに開いていないだろうと思いきや、これがなんと入れたのです。え〜、ここは9時からじゃあないの・・・ ただで見ちゃっていいのかな。。。
聖堂は三廊式で、身廊と側廊との間には中庭と同じような大理石の列柱が立っています。18本あるこれらの列柱はコンスタンティノープル近郊のマルマラ海のプロコンネーソス島の採石場から、柱頭とともに輸送されたものだそうです。柱頭はビザンチン様式とロマネスク様式で、すべての柱にはエウフラシウス司教のモノグラムがあるそうですが、これはなかなか判読がむずかしい。
柱と柱の間のアーチには古代ローマ時代のスタッコの装飾が施されていますが、残念なことに南側のそれは15世紀の地震で落ちてしまったそうです。
そして正面には有名なモザイク画が。
この聖堂は初期ビザンチン美術の秀作とされていますが、中でもビザンツ人のモザイク職人によって製作されたとされる、アプスのモザイク画は特に評価が高いものです。床も地元の職人に制作させたといわれるモザイクでしたが、現在それはほとんど見ることができません。
アーチの上部にはキリストと12使徒が描かれており、中央のキリストは『私は真の光である』と書かれた本を開いているそうです。
ドームの中央にいるのは天上の王座に座る聖母子で、これは初期キリスト教の西方教会において、唯一現存している聖母子の描写だとか。
聖母子を取り囲むのは天使たちとエウフラシウス司教、そして地元の聖人たちだそうです。エウフラシウス司教は教会の模型を手にしているといいますから、左から二番目の人物でしょう。ちなみにエウフラシウスはここに自身の姿を描いたと言われているますが、これがそうでしょうか。
アプスの中にある天蓋は13世紀のものですが、その四本の柱は以前あった6世紀の天蓋のものを用いているそうです。
この正面のモザイク画は『受胎告知』。
アプスの窓の両側にあるモザイク画は、『受胎告知』と『聖母マリアの訪問』だそうです。
聖母マリアの訪問は、福音書によれば、受胎告知の折にいとこのエリサベトが身ごもったことを告げられたマリアがエリザベトを訪ね、エリサベトとその胎内子(洗礼者ヨハネ)は聖霊に満たされ、エリサベトはマリアを祝福し、マリアはマニフィカトを歌って主を賛美したとのこと。
うしろの建物からカーテンを開けて出て来る女性がちょっと面白い。
側廊にもモザイク画がありますが、これはかなりの部分が欠損しています。
ここには4世紀に最初の聖堂が建てられています。そして5世紀前半により大きな寺院が建築されます。その後の6世紀にエウフラシウスによる現在の聖堂が建てられるわけです。図の赤い部分、左が4世紀、右が5世紀の建物の位置を示しています。
現聖堂部分は左廊は4世紀に、そして5世紀にはすでに全体が寺院となっていたことがわかります。
左廊には現在も4世紀と5世紀の建物の一部が床下に眠っています。それも積層して!
このモザイクはおそらく4世紀のものと5世紀のものでしょう。もしかしたら5世紀のものと6世紀のものかもしれませんが。
八角形の洗礼堂です。天上までかなり高さがあります。
聖堂には入れたのですが、実はそれ以外の場所は9時からしか入れなかったので、ちょっと街を散歩してから戻ってきました。しっかり入場料を払って入りましたよ。
洗礼堂の床の中央には凹みがあり、ここに水を貯めて洗礼の儀式が執り行われたようです。
洗礼には主に浸礼(全身を水に浸す)、灌水礼(頭部に水を注ぐ)、滴礼(頭部に手で水滴をつける)の3種類がありますが、浸礼が原初の形態で、その他のものはこれを模し簡略化したものだそうです。ここでは浸礼が行われたのでしょう。
このあと鐘楼に上りました。周囲の建物の屋根はみんなオレンジ色。
左下の広場はユリア・ドブリラ公園(Park Jurja Dobrile)で、左の塔は修道院のもののようです。
左手に延びる海岸線にはビーチがたくさんあり、中でもゼレナ・ラグナ(Zelena Laguna)は素晴らしいというので、午後にでも行ってみようと思います。
右手の教会はスロボダ広場(Trg Slobode)に建つ聖母天使教会(Crkva Gospe od Anđela)。
これが今上っていたエウフラシウス聖堂の鐘楼。
鐘楼から下りたら監督司教の宮殿などを見学します。
司教宮殿は5世紀後半または6世紀初頭に建てられたそうです。
一階のポーチにはモザイクや柱頭など、かつてここにあったものが展示されています。
残念ながらこれらには何も解説がないので、どういういわれのものか分からなかったのですが、床のモザイクは4世紀から5世紀にかけての元の建物のものだそうです。
監督司教宮殿の東側、聖堂の北側には初期の建築の遺跡があります。
この遺跡からは旧市街の北が見渡せます。
そこには街の壁が続き、その外側に遊歩道が造られています。
4世紀にここに建てられたのは、イストリア地方に特徴的なアプスを持たない三廊式の聖堂でした。
ここには当時の床のモザイクがかなり良い状態で残っています。この地域でキリストとキリスト教を象徴するシンボルだという魚が描かれています。
なぜ魚がキリストとキリスト教を象徴するシンボルなのかはいろいろな説があるようですが、それらの中に次のようなものがあります。ギリシア語で『イエス・キリスト、神の子、救い主』と書いて、その頭文字を並べるとギリシア語で『魚』を意味する単語になる。
Ιησούς Χριστός, γιος του Θεού, Σωτήρα→ΙΧΘΥΣ
これはモザイクの床の上に、次の時代の建物が載せられた跡でしょうか。
エウフラシウス聖堂の見学を終えたら街歩きを続けます。
エウフラシウス通りを西へ進むとすぐ、ユリア・ドブリラ公園に出ます。
ここにはアーチの開口を持つ古い壁の一部が立っており、その向こうに聖堂の鐘楼がよく見えます。
ユリア・ドブリラ公園の北の角から西へ進むと、修道院らしき建物とその塔があります。
古代ローマの都市では多くの場合、その中心部を東西及び南北に貫く基幹道路が造られ、それぞれデクマヌス・マクシムス(Decumanus Maximus)、カルド・マクシムス Cardo Maximus)という名が付けられていました。ローマによって街の基礎が造られたここポレチュにもこれら二つの名を持つ通りがあります。ユリア・ドブリラ公園の西から南に延びる道がカルド・マクシムス通りです。
このカルド・マクシムス通りを南下すると、次の角でデクマヌス通りと交わります。
このカルド・マクシムス通りとデクマヌス通りの交差点にはマティエ・グプカ広場(Trg Matije Gupca)があります。
この広場周りにはゴシック様式とバロック様式の館が建ち並んでいて、旧市街の中でもここがハイソサイエティーの人々が住んでいた場所であることを感じさせます。
三階建てのズッカート宮殿(Palača Zuccato)は二階までが石造、三階部分は煉瓦造だそうで、三階部分の外壁には構造の赤い煉瓦がそのまま使われています。窓まわりには繊細な装飾が施されが石が使われており、特にねじりん棒柱のある二連アーチ窓が印象的です。
このヴェネチアン・ゴシック様式の外観は当時のものだそうです。
デクマヌス通りを西へ進んでいくと、13世紀半ばに建築された『ロマネスクの家』があります。
この建物は20世紀に改修されており、木造のバルコニーはおそらくその時に追加されたのではないかと想像します。この二階にも二連アーチ窓が見えます。
ロマネスクの家の横にはこんな井戸がありました。
獅子の紋章がベネチア時代のものであることを物語っています。
このあたりには特に古い建物が残っているのか、ロマネスクの家の向かいにはこんな建物も。
これは特に紹介されていないのでどんな謂れのある建物なのか不明ですが、かなり古いことだけは間違いありません。
デクマヌス通りをさらに西へ行けば、マラフォロ広場(Trg Marafor)に出ます。
この広場は古代の中心の広場でしたが、現在は街はずれになり、あまりぱっとしないように見えます。私たちが今歩いている石の舗装はかなり古いものに見えますが比較的新しいもので、この下数十cmには古代の舗道があるといいます。 広場の北西の建物の足下でこの古代の舗道が見られる場所があるというのですが、残念ながらどれがそうだかはっきりとは分かりませんでした。
マラフォロ広場のすぐ西にはネプチューン神殿跡があります。
ここは、1世紀にフォーラムの縁に建てられた、イストリアで最大のものと考えられているネプチューン神殿の遺跡とされています。しかし厳密にはこの寺院が捧げられた神はわかっていないそうです。海の神に捧げられた大きな寺院の遺跡は、北西にも、また、以前のフォーラムの近くにもあるようです 。
街中にこうも無造作に1世紀の建物の遺跡があると、誰かに持っていかれはしないかと、ちょっと心配になります。
ネプチューン神殿跡からは南に進み、半島南側の海岸に出ました。
このあたりは比較的新しい建物が多く、マリンレジャー関係のものと飲食店がびっしり。
だいぶ歩いたので海を眺めながらここで一休み。
飲み物を頼んだらポテトチップが付いてきました。ラッキ〜
この南側は港になっていて、クルーザーやボートタクシー、そして観光のための船が所狭しと並んでいます。ここからはクロアチアの近場を含め、様々なところへ船が出ていて、中にはヴェネチアに行くものもありました。
海岸の向こう400m先に見えるのはスヴェティ・ニコラ島(Otok Sveti Nicola)で、この旧市街を守るようにして海に浮かんでいます。
この南側の海沿いに建つ建物の中には、19世紀から第一次世界大戦までのハプスブルク時代のものが残っています。
ウィーンやブダベストによく見られるように、ハプスブルク時代の建築は華やかで優雅なものが多いです。
海岸沿いを東へ向かうと円塔に出ます。
これはオスマン帝国からの防衛のため15世紀にヴェネチア人によって建設されたもので、外観は円形ですが、内部は複雑で不規則な廊下や通路、吹き抜けなどでできているようです。
現在この円塔の上部はバールになっているようなのでちょっと覗いてみました。
階段はかなり狭い回り階段です。で、肝心のバールですが、この時はまだ準備中で内部がどうなっているのかはわかりませんでした。
円塔から北に向かうとデクマヌス通りの入口です。ここには五角塔があります。
この塔も円塔と同様の目的で15世紀に建てられたものですが、すでに中世にはここには別の四角形の塔が建てられており、五角塔はその基礎の上に建設されたそうです。さらには中世の塔は古代の遺跡の上に建てられたものであることが分かっているとか。ここには三代の建物が積み重なっているのです。
この塔が五角形なのは、オスマン帝国が攻めて来る方向を考えてのことで、攻撃される可能性のある面は滑りやすく造られているそうです。
塔の上部にはヴェネツィアのシンボルである翼を持つ獅子のレリーフがあります。
時はすでに11時。通りはだいぶ観光客で賑わい出しています。
デクマヌス通りの入口付近をちょっと歩いたら、旧市街の観光を終えます。
スロボダ広場(Trg Slobode)に出て18世紀に建てられたバロック様式の聖母天使教会を眺めると、この建物は300年も前に建築されたのに、旧市街のローマ時代からの建造物を見て廻った目には、なんだかとても新しいものに見えてしまいます。
旧市街からいったん宿に戻り、一休みしたら本日の第二部の開始です。
第二部はビーチ巡り。
ポレチュ付近の海岸は南北20kmに渡りビーチが続いています。
ビーチはどこもみんな素晴らしそうなのですが、私たちは南部のゼレナ・ラグナに向かうことにします。
旧市街の南の海沿いに出ると、ちょっとした木立の中に遊歩道が延びています。
その木立の中は水着姿の人がたくさん。すでにビーチに出たのです。
小さな入り江には子供たちがたくさん集まっています。学校の野外活動でしょうか。
この入り江の先には、先ほどまで散策したポレチュの旧市街が見えています。
木立を抜けたらデッキチェアが並ぶ海沿いをどんどこ。
ここにはおおきなヨットが何隻も浮かんでいて、その手前では水上スキーならぬ水上ボード?をやっている方がいます。
ちょうどこの方の向こう側に見えるのはジャンプ台です。
6kmほど走るとゼレナ・ラグナに入ったようです。ゼレナ・ラグナはグリーン・ラグーンという意味ですから、浅瀬で水がグリーンなのかなと想像します。
写真ではあまりはっきりしませんが、水は澄んでいて、本当に緑色っぽいです。
ここは遊歩道から海まで近く、木立も適当にあり、人も多過ぎず。トイレもシャワーもあります。
あ、ここは暑いので木立は日影になっていいのです。
海は入り江で波があまりなく、水上に大型遊具が置かれていることから、子供でも安心して水に浸かれるところに見えます。
ひとまずここでひと泳ぎと行きましょう。
しばらく水に浸かって身体を冷やしたら、昼食です。ビーチのすぐ横にあったレストランに入ってみました。
前菜にホタテ、メインに貝のスパゲッティを。ホタテはオリーブオイルやチーズをかけてオーブン焼きしたもので、グラタン風です。スパゲッティの貝は dondola というものだそうで、アサリと言っていたのでボンゴレ・ビアンコを想像していたのですが、これは違いました。貝はアサリに似てはいますが、日本のものとはちょっと違います。
二時間近くこのビーチで過ごしたのち、もう少し先のビーチに行ってみることにしました。
走り出すとすぐ、エメラルドグリーンの海が現れました。海がエメラルドグリーンに見える条件は、浅くて海底が白いこと、そして陽の光があることです。イストリア半島の海は岩がちで砂浜は少ないのですが、ここはちょっとだけ白い砂があるようです。
先ほど私たちが泳いだのはこの対岸に見えるリゾートホテルの右のあたりです。
ポレチュ近くの海辺には、あのようなリゾートホテルが山のように建っています。
どのビーチにしようかな、と海を眺めながらどんどこ行きます。
キャンピング・ゼレナ・ラグナ・ビーチ(Camping Zelena Laguna Beach)にやってきました。
ここはなかなか良さそうと目を付けていたところなのですが、ビーチの手前の林の中は満杯です。これではあまり落ち着いて過ごせそうにないとここはあきらめ、ちょっと戻って適当なところで海に入ることにしました。
しかしここは入り江ではないので、広い海が楽しめそうです。
小さな半島をぐるっと廻って、先ほど泳いだビーチが見えるところまで戻ると、そこは磯なのですが水がとてもきれいです。
ここに陣取って、しばらく海に浸かることにしました。
磯ではカニさんがかくれんぼをしています。
時々、スタンド・アップ・パドル・サーフィンを漕ぐ人や遊覧船がやって来ます。
行き交う船の中にはグラスボートもあって、このあたりがラグーンで魚がたくさんいることを思い出させてくれました。
そんじゃあちょっと潜ってみましょうと、サリーナがドボン。
『わ〜、縞々のとか横スジが入ったやつとか、お魚がたくさんいるよ〜』
砂浜ではあまり魚は見られませんが、ここには岩場があるのでちょっと魚がいるのです。
半時ほどこの海で遊んで、海沿いにゆっくりポレチュに戻りました。
今日の前半のポレチュ散策は歴史の積層が感じられて面白かったし、後半のビーチもとても素敵で、かなり密度の高い一日を楽しめました。
さて、明日はポレチュを出て海沿いを南下、リム・フィヨルド(Lim Fijord)を眺め、ポレチュ同様、小さな半島にあるロヴィニィ(Rovinj)へ。ロヴィニィはウマグの宿のおじさん推奨のところなので、今から楽しみです。