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カミーノ・デ・東海道五拾三次

開催日 2021年01月20日(水)〜現在走行中
参加者 クッキー/サイダー
案内人 歌川広重
総合評価 ★★
難易度
走行距離 520km
地域 関東・東海・近畿

東海道五拾三次之内『日本橋』朝之景
東海道五拾三次之内『日本橋』朝之景

コース紹介

東海道を。江戸から京までは500km。宿駅は53ヵ所、いわゆる東海道五十三次です。日本橋を出て箱根を越え、越すに越されぬ大井川を渡って三条大橋へ。歌川広重の『東海道五拾三次』を供に、いざ江戸から京へ、ヴァーチャルでGo!

地図:Googleマップgpxファイル/GARMIN Connect/Ride With GPS
トライアル用地図:ビジター用メンバー2人用メンバー4人用

トライアル・レポート:カミーノ・デ・東海道五拾三次の記録

番号 宿場名 国/都府県 累積距離 備考 保永堂版副題
江戸 日本橋 武蔵国/東京都 START 朝之景 / 行列振出
01 品川 同上 8km 日乃出
02 川崎 武蔵国/神奈川県 19km 六郷渡舟
03 神奈川 同上 29km 台之景
04 保土ヶ谷 同上 34km 新町橋
05 戸塚 相模国/神奈川県 44km 元町別道
06 藤澤 同上 51km 遊行寺
07 平塚 同上 65km 縄手道
08 大礒 同上 69km 虎ヶ雨
09 小田原 同上 85km 酒匂川
10 箱根 同上 104km 湖水図
11 三島 伊豆国/静岡県 122km 朝霧
12 沼津 駿河国/静岡県 128km 黄昏図
13 同上 135km 朝之富士
14 吉原 同上 147km 左富士
15 蒲原/かんばら 同上 158km 夜之雪
16 由井/ゆい 同上 162km 薩埵嶺/さったみね
17 興津/おきつ 同上 172km 興津川
18 江尻 同上 177km 三保遠望
19 府中 同上 189km 安部川
20 丸子/鞠子/まりこ 同上 195km 名物茶屋
21 岡部 同上 203km 宇津之山
22 藤枝 同上 210km 人馬継立
23 嶋田 同上 220km 大井川駿岸
24 金谷/かなや 遠江国/静岡県 224km 大井川遠岸
25 日坂/にっさか 同上 232km 佐夜ノ中山
26 掛川 同上 240km 秋葉山遠望
27 袋井/ふくろい 同上 250km 出茶屋ノ図
28 見附 同上 256km 天竜川図
29 濱松/はままつ 同上 272km 冬枯ノ図
30 舞坂 同上 284km 今切真景
31 荒井 同上 289km 渡舟ノ図
32 白須賀/しらすか 同上 296km 汐見阪図
33 二川/ふたかわ 三河国/愛知県 302km 猿ヶ馬場
34 吉田 同上 310km 豊川ノ橋
35 御油/ごゆ 同上 322km 旅人留女
36 赤阪 同上 324km 旅舎招婦ノ図
37 藤川 同上 334km 棒鼻ノ図
38 岡崎 同上 342km 矢矧之橋
39 池鯉鮒/ちりゅう 同上 357km 首夏馬市
40 鳴海 尾張国/愛知県 369km 名物有松絞
41 同上 377km 熱田神事、これより七里の渡し
42 桑名 伊勢国/三重県 397km 七里渡口
43 四日市 同上 412km 三重川
44 石薬師/いしやくし 同上 423km 石薬師寺
45 庄野 同上 427km 白雨
46 亀山 同上 436km 雪晴
47 同上 442km 本陣早立
48 阪之下/さかのした 同上 449km 筆捨嶺
49 土山 近江国/滋賀県 460km 春之雨
50 水口 同上 470km 名物干瓢
51 石部 同上 484km 目川ノ里
52 草津 同上 495km 名物立場
53 大津 同上 510km 走井茶店
京都 京師/けいし 山城国/京都府 520km 三條大橋
東海道五拾三次:WikipediaWikipedia(浮世絵)古地図 with MapFan東海道を歩くちょっと便利帳宿村大概帳東海道53次距離表江戸百景めぐり錦絵でたのしむ江戸の名所お江戸日本橋東海道への誘い五十三次名所図会東海道分間絵図歌川国貞 東海道五拾三次『美人東海道』平木浮世絵美術館

新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の影響で引きこもり状態になった私はある日一念発起、東海道を旅することにしました。供は広ちゃんこと歌川広重とその世話役のクッキーで、広ちゃんは宿場ごとにその地を紹介する絵を描いてくれるそうです。(笑)

東海道の元は飛鳥時代に整備された官道ですが、私たちがもっとも良く知るそれは、徳川家康によって1601年(慶長6年)から整備された五街道の一つとしてのそれでしょう。これは日本橋(江戸)から三条大橋(京都)に至るもので、宿駅は53ヶ所でした。いわゆる東海道五十三次です。歌川広重は幕府の行列に加わって東海道を1832年(天保3年)に初めて旅したとされ(しなかったという説もある)、1834年(天保5年)に全55枚からなる『東海道五拾三次』を完成、保永堂(仙鶴堂との共版)から刊行されました。

この企画のルールは、場所はどこでもいいのですが実際に自転車で走ります。その走行距離を東海道に当て嵌めて、途中の宿場などに思いを馳せて楽しむというものです。遊び方は『バーチャル自転車生活』を参照ください。

いざ、江戸から京都へ向け、出発! ヴァーチャルでね。(笑) 

01 日本橋-品川宿 8km

東海道五拾三次『日本橋』朝之景東海道五拾三次『日本橋』朝之景

東海道、江戸から京都までの距離は宿村大概帳によれば百二十六里六町一間(約495.6km)だそうです。現在は当時と若干道が違っているので520kmほどになりそうです。このツアーでは現代の道路に合わせた距離を上の表に記載します。その起点は2代将軍の秀忠の代、1604年(慶長9年)に日本橋と定められました。現在の日本橋の中央部には道路元標が埋込まれています。

広重の東海道五拾三次はこの日本橋から始まります。副題に『朝之景』とあることからもわかるように、ほの明るい空は朝焼け。広重がここで描いたのは参勤交代の大名行列と魚河岸帰りの人々。大名行列は国まで長い距離を歩かなければならないので、朝一番に江戸を出立するのでしょう。天秤棒を担いだ魚売りの人々は行商に出かけるところでしょうか。こうした商売は早朝からと決まっています。その左に見えるのは幕府のお触れが掲示される高札場。

手前に見える木戸の影には犬。その奥には罪人の晒し場があったようです。早朝、町の治安を守るために夜間閉じられていた木戸が開くと同時に動き出す人々。江戸で一番の賑わいの日本橋の早朝の活気は、東海道五拾三次の冒頭を飾るにふさわしい一枚です。

東海道五拾三次『日本橋』行列振出東海道五拾三次『日本橋』行列振出

 お江戸日本橋七つ立ち 初上り 行列揃えて あれわいさのさ こちや 高輪 夜明けて提灯消す こちやえ こちやえ

この民謡から日本橋を七つに立ったことがわかります。江戸時代の時刻は日の出と日没の時間を基準に一日を12刻に分けた不定時法ですから、今日の時刻にするには日を特定しないと出ないのですが、春秋分の七つは現在の午前四時で、かなり早い時刻に出立したことがわかります。

東海道五拾三次は大変な人気で、広重は20種類もの東海道シリーズを発表しました。その全部をここで取り上げることは不可能なので基本的には保永堂版だけを紹介しますが、同じ保永堂版でも後版と呼ばれるものが5点存在します。これらはいずれも初版に少し手が加えられたものです。

この日本橋にも後版があり、これを見ると初版より人がうんと増えています。より賑わいを出そうとしたのかもしれませんが、少しやり過ぎたように思えますし、橋の手前が塞がれてしまったので、空間が閉鎖的に感じます。

江戸名所百景『日本橋雪晴』(安政三年(1856年)五月 春の部)江戸名所百景『日本橋雪晴』(安政三年(1856年)五月 春の部)

広重はもうひとつの代表作、名所江戸百景でも日本橋を描いています。『日本橋雪晴』

この絵は名所江戸百景の冒頭を飾るもので、東海道五拾三次から二十年以上の歳月を経た後の作品です。五十三次ではまさに道としての日本橋を描いたのに対し、こちらはいかにも江戸の観光案内的、絵はがき的な構図です。

江戸名所百景『日本橋通一丁目略図』(安政五年(1858年)八月 夏の部)江戸名所百景『日本橋通一丁目略図』(安政五年(1858年)八月 夏の部)

日本橋を出て中央通りを南下するとすぐ、コレド日本橋が現れます。ここはかつて東急百貨店で、そのさらに前は江戸三大呉服店(越後屋、大丸屋、白木屋)の一つとされた1662年(寛文2年)創業の白木屋呉服店でした。

江戸名所百景『日本橋通一丁目略図』にこの白木屋が描かれています。一番手前が白木屋で、奥に『や』とあるのは、現在はふとん店として有名な創業1566年(永禄9年)の西川。驚いたことに西川は現在も当地で営業しています。

当時の風俗について伺い知ることは一般人にはなかなかむずかしいですが、ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)は、画面中央の二段傘の中の五人組は大阪の住吉神社に始まった住吉踊りの連中で、この頃はすでに江戸の大道芸人になっていたと述べています。画面一番手前に三味線を持って歩いているのは女太夫で、これは当時は最下層の芸人であったとも。そして、これらの人々に共通するのは木綿を着ていることで、それがこのあたりが木綿問屋であったことと結びつくと。

江戸名所百景『京橋竹がし』(安政四年十二月(1858年1月) 秋の部)江戸名所百景『京橋竹がし』(安政四年十二月(1858年1月) 秋の部)

日本橋の次は京橋です。日本橋にはちゃんと日本橋が架かっていましたが、この京橋には現在橋はありません。

満月の夜。江戸名所百景『京橋竹がし』に見える川は京橋川で、その上を通る東海道に架かるのが京橋。奥は中ノ橋で、この絵は東にあたる下流側を見ています。左手、川の北側に見えるのが竹河岸。

京橋川は徳川家康の入府後、最初に行われた天下普請で外濠と共に開削された水路でした。このあたりには、薪河岸、大根河岸、白魚河岸などたくさんの河岸がありました。その一つが建築資材や正月の門松、七夕飾りなどに使う竹を扱う竹河岸で、この絵ではかなり大げさにそれが描かれています。これらの竹は千葉県や群馬県などから筏などで運ばれたようで、河岸の横にそれを運んだのだろう筏が浮かんでいます。

京橋の欄干には擬宝珠(ぎぼし)が見えます。当時このあたりで擬宝珠が付けられたのは江戸城の各御門橋以外は日本橋とこの京橋だけだったそうですから、この橋がいかに重要なものであったかが伺えます。極めて色数を限定したこの絵は、じっくり見れば見るほど、その世界に吸い込まれて行きそうです。

銀座に入ると中央通りは銀座通りと名を変えます。日本一の繁華街です。世界の名だたるブランドショップが並ぶその銀座通りは容積のやりかえで最近高層化が進み、かなり街並が変わりました。これを抜けると新橋で、その南東に開発された汐留地区には超高層ビルが林立します。新橋は日本の鉄道発祥地であり、1872年(明治5年)に横浜とを結ぶ日本初の鉄道29kmが開通したところです。その停車場だった旧新橋停車場が復元されてビルの谷間に立っています。

江戸名所百景『金杉橋芝浦』(安政四年(1857年)七月 秋の部)江戸名所百景『金杉橋芝浦』(安政四年(1857年)七月 秋の部)

新橋でJRの線路をくぐると道路は第一京浜に変わり、車がわんさか。街の様相も大分変わります。浜松町の南、首都高速道の下を流れるのは古川で、金杉橋が架かっています。その東側、現在のJRの線路あたりは江戸時代には海でした。その江戸湾も現在は埋め立てられて、だいぶ遠くなってしまいました。

江戸名所百景『金杉橋芝浦』では芝浦の海が描かれています。左の彼方に見えるのは浜御殿(浜離宮)で、その先の大きな屋根は築地本願寺でしょう。高い竿にぶら下げられているのはお寺に寄進するらしい柄杓と手ぬぐいで、小豆色の幟の上に白抜きされているのは池上本門寺の紋。その下のお題目からここに描かれた群衆は日蓮宗の祖師参りの行列とわかるそうです。

江戸名所百景『高輪うしまち』(安政四年(1857年)四月 秋の部)江戸名所百景『高輪うしまち』(安政四年(1857年)四月 秋の部)

 こちや 高輪 夜明けて提灯消す

高輪あたりまで歩くと夜も明けてきて、灯していた提灯が消されます。

三田を抜けると泉岳寺です。ここには『高輪大木戸跡』なる史跡があります。江戸時代は町ごとに木戸が設けられ、自身番が警固していました。江戸の南の出入口であった高輪のそれは大木戸と呼ばれました。江戸名所百景『高輪うしまち』はその大木戸の外側を描いたもので、この絵からわかるように江戸時代にはこのあたりは海岸でした。

大きな車輪は牛車のもの。ここは当時芝車町だったそうですが、牛町の俗称の方が有名だったそうです。犬とスイカの皮と打ち捨てられた草鞋が醸し出すのは庶民的な風情です。沖に見えるのは当時造られたばかりの台場(砲台)で、空に架かる虹の描く弧と車輪の描く弧とを見ていると、海岸線のカーブが頭に浮かんでくるとスミス氏は言っています。

東海道五拾三次『品川』日乃出東海道五拾三次『品川』日乃出

建物の隙間から最近できた高輪ゲートウェイ駅を眺め、品川の駅前をかすめて進めば八ツ山橋です。これを渡り今で言う旧東海道に入ると、ようやく日本橋を出て最初の宿である品川宿に到着します。ここまで日本橋から二里、8kmです。

品川もまた江戸時代は品川湾がすぐそこまで迫っているところでしたが、今は海はありません。絵の手前右手に見える山は八ツ山で、これも橋にその名を留めるだけになっています。朝方日本橋を出立した大名行列もちょうどここまでやってきたようで、その最後尾が見えます。

名所江戸百景『月の岬』(1857(安政四)年八月 秋の部)名所江戸百景『月の岬』(1857(安政四)年八月 秋の部)

 恋の品川女郎衆に 袖ひかれ 乗りかけお馬の鈴が森 こちや 大森細工の松茸を

現在の品川からは想像できませんが、ここは『北の吉原、南の品川』と呼ばれたように、かつては花街でした。上の絵には宿屋や料亭が軒を連ねていますが、手前の茶店の中には客待ちらしき女の姿があります。

花街品川を思わせる一枚が名所江戸百景『月の岬』です。障子の影は遊女。この絵とその他の品川宿を描いた広重の絵については『品川宿と東海七福神 名所江戸百景2』で述べたので、興味がある方はどうぞそちらを。

品川宿とその周辺には東海七福神があります。その中で一番の見所はなんと言っても源頼朝が創建した品川神社でしょう。金運パワースポットの『一粒万倍の御神水』のご利益にあずかり、品川冨士に登れば、なかなかいい心持ちになれます。

東海道では外せないスポット、それは品川宿の南、つまり江戸の南側の出入口にある鈴ヶ森刑場遺跡です。ここは小塚原刑場とともに江戸二仕置場の一つで、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが見られます。冒頭の唄ですが、『乗りかけ お馬』はすばり女郎となにすること。

02 品川宿-川崎宿 10km

名所江戸百景『蒲田の梅園』(1857(安政四)年二月 春の部)名所江戸百景『蒲田の梅園』(1857(安政四)年二月 春の部)

鈴ヶ森刑場遺跡のすぐ南で道は再び第一京浜になります。その上には高速道路。大森海岸はモースが発見した貝塚が有名ですが、もうそうしたのどかな景色はここにはありません。

民謡に唄われた大森細工は麦わら細工で、編み細工と張り細工があり、かの葛飾北斎が図案を残してもいます。しかしこれは事実上絶滅しました。民謡の中の『松茸』は大人のおもちゃ。実はこの詞、かなり際どい内容なのです。

聖跡蒲田梅屋敷公園は江戸時代に薬屋が梅などを植えて茶屋を開いたことが起源だそうです。現在の園は当時よりずいぶん小さくなっているそうで、広重が描いた池もそれらしきものとしてかろうじて姿が認められる程度です。手前に大きく描かれた駕篭は東海道から足を伸ばしてここに梅見にやってきたものでしょうか。

東海道五拾三次『川崎』六郷渡舟東海道五拾三次『川崎』六郷渡舟

呑川を渡り、蒲田を通り抜けて多摩川の六郷土手に出ます。1600年(慶長5年)、徳川家康はここに長さ120間(220m)もある六郷大橋架けました。この橋は、千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされたそうです。『関が原』に向かうのに家康はこの六郷大橋を渡ったのでしょう。

しかし当時は土手は造られなかったため、橋は洪水でしばしば流失し、羽田村の渡船が用いられるようになりました。これが『六郷の渡し』です。この渡しは立派な橋が架かってもその橋が流失するたびに復活し、結局1925年(大正14年)に洪水時に水没しない橋が完成するまで続くことになります。

東海道五拾三次『川崎』六郷渡舟/後版東海道五拾三次『川崎』六郷渡舟/後版

東海道五拾三次『川崎』六郷渡舟がその情景です。この六郷川を渡ると川崎です。川崎大師は現在も有名なお寺ですが、江戸時代の中ごろから盛んになった弘法大師信仰により、江戸など近郊から参詣者が大勢訪れたそうです。その中にはこの渡船を使った方が大勢いるのでしょう。ここには様々な人々が描かれていますが、暴れ川とは思えないのどかな風景の中、船上ではリラックスしてたばこをふかす姿が見られます。奥に見えるのは川合所という料金所で、ここで渡し賃を支払ってから乗船したそうです。五十三次ではこの絵で初めて富士山が登場します。

『川崎』には六郷渡舟の副題まで同じ後版があります。『日本橋』では初版と後版ではたいぶ違いがありましたが、ここの二枚はディテイルに僅かな違いはありますが、構図は同じと言っていいでしょう。

03 川崎宿-神奈川宿 10km

五十三次名所圖會 三『川崎 鶴見川 生麦の里』五十三次名所圖會 三『川崎 鶴見川 生麦の里』

現在は渡船はなく、橋で川崎に渡ります。第一京浜の多摩川に架かる六郷橋の長さは443.7m。現在の川崎は神奈川県ですが、江戸時代には日本橋や品川と同じ武蔵国でした。

川崎宿ができたのは1623年(元和九年)で、他の駅より20年以上遅れて設定されました。これは品川宿と神奈川宿との伝馬継立(公用の人や荷物を次の宿まで運ぶこと)が往復十里(約39km)もあり、人馬ともに負担が大きかったため両宿が幕府に請願し、その中間に位置する川崎に新駅が設置されたからです。

私は川崎から西はほとんど行ったことがないので、この先の水先案内人は広ちゃんにお願いすることにします。川崎宿には旧道が残っているので第一京浜を離れ、これに入ります。

 六郷渡れば川崎の 万年屋 鶴と亀との よね饅頭 こちや 神奈川急いで 程ヶ谷へ

1855年(安政2年)に最後の東海道シリーズとして制作された『五十三次名所圖會』(通称竪絵東海道)に『川崎 鶴見川 生麦の里』があります。鶴見の名は源頼朝が鶴を放ったことから付いたとされます。東海道は鶴見川を長さ25間(約45m)、巾3間(約5.4m)の鶴見橋(現 鶴見川橋)で渡っていました。この橋を挟んだ左岸の市場村と右岸の鶴見村では、『江戸名所図会』にも紹介されている米饅頭(よねまんじゅう)が名物でした。この饅頭の名は鶴屋の娘の米が売り始めたことからと云われます。

川崎宿では奈良茶飯が名物の旅籠兼茶店だった万年屋と、米饅頭を扱った40軒ほどあったという店の中でも鶴屋と亀屋が特に名高かったようです。万年屋の茶飯を再現したという『奈良茶飯おこわ』が旧東海道沿いの川崎屋東照(とうてる)にありますから、ここで昼食にしてもいいですね。デザートは、米饅頭の現代版を御菓子司 清月でいただきましょうか。

生麦村は現在も地名に残るように鶴見川の右岸河口部に位置し、魚を将軍家の台所に納めることによって特別権益を与えられていた御菜(おさい)八ヶ浦の一つになっていました。ここはのちに生麦事件で知られることになりますが、その発生現場には解説板が立ち、キリンビール横浜工場の北の高速道路下に碑が設置されています。

生麦事件碑から先は再び第一京浜です。かつては見えた海はすっかり埋め立てられて、現在はまったく見えません。

東海道五拾三次『神奈川』台之景東海道五拾三次『神奈川』台之景

神奈川宿に到着。ここは日本橋から28km。東海道五拾三次『神奈川』台之景 は、現在の神奈川駅のすぐ近くの青木橋付近から横浜駅西口のあたりにあった海を望んでいます。台とは高台のことです。このあたりから海を見下ろす景色は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』で、「ここは片側に茶店軒を並べ、いずれも座敷二階造り、欄干つきの廊下桟など渡して、浪うちぎわの景色いたってよし」と紹介され、名所とされていました。

海にはたくさんの廻船が浮かび、海辺に茶屋や料理屋が軒を連ねています。茶屋の女たちはしきりに客を呼び込んでいますが、その場から逃げ出そうとしている旅人もいます。通りの人の中には巡礼姿の親子がいます。当時は遍路や巡礼が盛んだったのでしょう。この丘の向こうが今の横浜で、沖の海はあの葛飾北斎の『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』で非常に有名です。

04 神奈川宿-保土ヶ谷宿 10km

五雲亭貞秀 横浜平沼橋ヨリ東海道神奈川台并カルイ沢茶店又遠ク大師河原ノ裏ヲ見ル 1860年(万延元年3月)五雲亭貞秀 横浜平沼橋ヨリ東海道神奈川台并カルイ沢茶店又遠ク大師河原ノ裏ヲ見ル 1860年(万延元年3月)

神奈川宿の神奈川地区センター前には高札場が復元されています。これは横幅5.7m、高さ3.5mとちょっとしたものです。

神奈川台(現横浜市神奈川区台町付近)は高台で、下には入江が広がる景色が良いところとして知られ、東海道を旅人たちも必ず足を止めて憩った所だそうです。カルイ沢(軽井沢・現横浜市西区)も標高30mほどの丘陵でした。

東海道本線を渡って進めば『神奈川台の関門跡』があります。横浜の開港後、外国人が何人も殺傷される事態に各国の領事たちは幕府に激しく抗議しました。1859年(安政六年)、幕府は横浜周辺に関門や番所を設け警備体制を強化したのです。これらの施設は1871年(明治四年)まで残っていたそうです。

 神奈川急いで 程ヶ谷へ

例の唄はこのあたりをすっ飛ばしています。ここは一般民衆の気を引く色っぽい話には無縁だったということでしょうか。

東海道五拾三次『保土ヶ谷』新町橋東海道五拾三次『保土ヶ谷』新町橋

帷子川(かたびらがわ)に架かる新町橋(帷子橋)を渡ると保土ヶ谷宿です。この川は昭和時代の改修で流れを変えたため、現在の橋はこの絵の場所とは違うところに架かっています。江戸時代の橋は現天王町駅前公園あたりにありました。

橋を渡るのは深編笠の虚無僧と武士を乗せた駕篭の一行。橋の向こうには『二八』の蕎麦屋があり、客なのか店の者なのか女が二人。あとは行李を担いだ商人と旅人でしょうか。街道の両側に宿場の家並みが見えます。江戸時代には参勤交代の大名が宿泊する本陣が各地に置かれましたが、これはどの宿場にもあるというわけではなく、江戸を出て最初のそれがある宿が保土ケ谷でした。宿場の奥には田畑が広がり、のどかな風景が描かれています。

広重の絵は『神奈川』より前は色調豊かでしたが、ここに来てぐっと渋くなりました。作者に何か心境の変化でもあったのでしょうか。

旧道を進んで東海道本線の踏切を渡ると国道1号線にぶつかります。この正面が軽部本陣跡で、当時の門や土蔵が残っています。国道1号線を西に進めばすぐに格子戸や通用門が当時の雰囲気を伝える旅籠金子屋跡。現在の建物は1869年(明治2年)の建築だそうです。

保土ヶ谷には一里塚跡があります。ここは日本橋を出て8番目の一里塚で、京都(上方)側の出入口である上方見附跡と共通の案内板が立っています。

05 保土ヶ谷宿-戸塚宿 9km

保土ヶ谷宿を出て、元町から南に進路を変えた東海道が向かうのは権太坂(ごんたざか)。この坂の名は箱根駅伝で耳にしますが、そこで上るのは近くの国道1号線の坂で、本来の権太坂ではありません。東海道の急坂の権太坂を上り切ると、武蔵国と相模国の国境である境木(さかいぎ)に到達します。そこには境木地蔵があります。ここにはかつては茶屋が並んでいて、名物の牡丹餅(ぼたんもち)が出されたようです。

境木から焼餅坂(やきもちざか)を下ると品濃(しなの)の一里塚です。一里塚は道の左右にあるものですが、ここはその原型を残しているように見えます。

 痴話で口説は信濃坂 戸塚まあえ

品濃一里塚からさらに南に下ると信濃坂。道はだいぶ狭くなっています。ここが痴話で女を口説くところですね。しかし今日、この坂でなぜ女を口説かねばならにのかは、ちょっと私には理解できません。(笑)

東海道線の線路沿いを行くと不動坂の信号です。ここは東海道と柏尾通り大山道(おおやまみち)の分岐点で、大山道の道標があります。ここで東海道は国道を離れ南に向かいます。

舞岡川(まいおかがわ)に突き当たったら西へ進み、国道一号線に合流。ここで五大夫橋(ごだゆうばし)を渡ります。国道1号線であり戸塚道路と呼ばれる道を南下すれば江戸見付前の信号があり、道端に石碑が立っています。戸塚宿の江戸側の出入口はこのあたりにあったようです。

東海道五拾三次『戸塚』元町別道東海道五拾三次『戸塚』元町別道

粕尾川に架かる吉田大橋にやってきました。ここが広重が東海道五拾三次『戸塚』で描いた場所です。吉田大橋は広重の時代には単に大橋と呼ばれていたようで、長さは八間(約十四メートル)でした。当時としてはそれなりに大きな橋だったのでしょう。

橋の袂にある『こめや』茶屋に旅人がやってきています。馬の左に見える男は縁台に足を置いて片腕を突き出しています。いったい何をしているのでしょう。中央の道標には『左りかまくら道』とあります。この絵に描かれたものだという道標が妙秀寺に移転させられ残っていますが、その表記は『かまくらみち』。近くには絵の道標によく似たものがありのですが。。

副題の『元町別道』が示すのは、ここが東海道と鎌倉道との分岐点だということです。鎌倉道はここから柏尾川沿いに大船を経て鎌倉へ抜けて行きます。茶屋の上の札には、大山溝中、月島溝中、百味溝、神田溝中、京橋溝中とあります。『溝』は『講』のことだと推測出来ます。この茶屋は宿屋でもあったのでしょう。各地から様々なグループがやってきていたということですね。

東海道五拾三次『戸塚』元町別道/後版東海道五拾三次『戸塚』元町別道/後版

この絵にも後版があります。初版とあまり違いがないように思えますが、例の男はこの絵では馬に乗ろうとしているように見えます。すると初版の男は馬からひょいと飛び降りたところということでしょうか。しかし向こうを向いている馬から飛び降りたとすると上の絵のようにはならず、この絵のようになります。つまりこの後版の男は、馬に乗ろうとしているとも、馬から降りたところとも取れるのです。これに対し初版の男の姿は、通常ではあり得ない姿だということです。

どう解釈するかはともあれ、この二枚、間違い探し遊びにちょうどいい。(笑)

戸塚宿には二つ本陣があったようで、戸塚道路と長後街道の交差点に内田本陣跡が、戸塚消防署のすぐ北に澤邊本陣跡があります。戸塚道路をさらに南下すると富塚八幡宮(とみづかはちまんぐう)で、このお宮は戸塚の地名の由来となったところだそうです。

06 戸塚宿-藤澤宿 8km

富塚八幡宮の南で大きく西に進路をとった東海道は上方見付跡へと至ります。戸塚宿はここまでで、この先は大坂(おおさか)を上らなければなりません。大坂はその名のとおりに急勾配で長い坂だそうで、東海道の難所の一つとされました。

三代目歌川豊国『旅路の花聟』1860年(万延元年)4月 初代中村福助の早野勘平、四代目尾上菊五郎のこし元おかる、江戸中村座三代目歌川豊国『旅路の花聟』1860年(万延元年)4月 初代中村福助の早野勘平、四代目尾上菊五郎のこし元おかる、江戸中村座

大坂を上り切り、箱根駅伝の往路戸塚中継所の南で国道1号線に合流しさらに南下すると、『お軽 勘平 戸塚山中道行の場の碑』があります。仮名手本忠臣蔵の中で、腰元お軽と逢い引きしてお家の大事に間に合わなかった早野勘平がお軽の実家の地へともに落ちのびていく話。大坂と見られる『戸塚山中』での顛末を描いたのが『道行き旅路の花婿』、通称『落人』(おちうど)です。

五十三次名所圖會 六『戸塚』山道より不二眺望五十三次名所圖會 六『戸塚』山道より不二眺望

そのうち原宿(はらじゅく)という大きな交差点に出ます。戸塚にも原宿があったのですね。ここ原宿はその名に『宿』とはありますがこれは正式な宿場ではなく、宿場と宿場の間にある『間の宿(あいのしゅく)』と呼ばれた休憩所で茶屋が並んでいたところでした。間の宿は旅人の宿泊は原則禁じられていたので、旅籠はありませんでした。

広重は戸塚と藤沢の間の様子がわかる絵を五十三次名所圖會で描いています。この絵は縁に藤沢へ一里三十丁、鎌倉へ二里とあるので、藤沢の北4km少々のあたりとわかります。この原宿の交差点あたりかもしれません。当時ここはかなりの山道であったと想像できる絵です。広重は北斎ほど富士山については思い入れが強くなかったのか、どの富士の絵も山はそっけないくらいに描いています。あるいはこれは北斎という巨人がいたからなのかもしれません。

藤沢バイパス出口の信号で国道1号線を離れ、r30の東海道に入ると旧東海道松並木跡があります。海岸が近い街道に植えられる樹木の代表が松で、かつて松並木はどこの街道でもよく見られました。しかし道路拡幅やマツクイムシによりそれはほとんど姿を消しました。ここも数本の松の木が残るだけになっています。

今は解説板だけが立っているだけの遊行寺坂(ゆぎょうじざか)の一里塚跡のすぐ南にあるのは、小栗判官と照手姫の墓がある長生院(ちょうしょういん)。その下、r30から西に僅かに入ったところにある遊行寺の二枚の木札をかけた黒塗りの総門をくぐると、『いろは坂』と呼ばれる緩い四十八段の石段が見えます。この遊行寺から少し下ると藤沢宿です。

東海道五拾三次『藤澤』遊行寺東海道五拾三次『藤澤』遊行寺

東海道五拾三次の『藤澤』に描かれているのは副題にもある遊行寺。先ほど私たちが横をかすめてきたお寺です。そもそも藤澤は時宗(じしゅう)の総本山である清浄光寺(しょうじょうこうじ)の門前町として生まれました。清浄光寺は宗祖である一遍上人が修業のため全国を遊行したことから遊行寺とも呼ばれているのです。

川は境川、橋は大鋸橋(現遊行寺橋)。橋の上で大きな木太刀を持つのは、雨降神社に太刀を奉納しに行く大山詣の人々です。大鳥居はここから5km南にある江ノ島弁財天のもので、江の島詣の人々の中には、杖をついた人たちの姿があります。これは幼少時に失明し、江の島弁財天に籠もって礼拝を続けた結果、管鍼術を創案し大成したと伝えられる杉山検校にあやかり、目の不自由な人たちの参詣が盛んだったためだといいます。

双筆五十三次『藤沢』/歌川広重+三代 歌川豊国双筆五十三次『藤沢』/歌川広重+三代 歌川豊国

 藤沢寺の門前で こちや とどめし車そ綱でひく

藤沢寺は遊行寺。その門前で綱でひいた車とはどんなものでしょう。人力車や荷車なら綱でひく必要はないですね。ちなみに遊行寺本堂横の細い道を車坂と言うそうです。あ、そうか、門前に駐車している車が邪魔だったので綱で引いてどかしたという意味か・・・

いや、そういえば別の五十三次の藤沢に車を引いている図があったな。描かれているのは小栗判官伝説の照天姫で、地獄から蘇り土車で熊野まで送られた夫を、車の綱を引いて運んだという話です。当時は非常に有名な話でしたから、車の綱を引くと言えば照天姫だったわけです。

遊行寺を舞台にした話としては他に、落語『鈴振り』があります。これはここに書くのもはばかれるしろもので、おそらく公的な電波にはぜったいにのらないと思われますが、面白い話ではありまする。特にその元ネタが凄い。こっちは太鼓を突き破るからねぇ。。

07 藤澤宿-平塚宿 14km

r467町田街道に入りこれを北西に向かえば蒔田本陣跡ですが、そこには何も残っていません。この通りで唯一当時の面影を残すのは桔梗屋店蔵(国登録有形文化財)です。もっともこれでさえ明治時代の建物ではありますが。

藤沢を出た東海道は引地橋で引地川を渡ります。r43藤沢厚木線は付け替えられてまっすぐに延びていますが、かつての東海道は川の手前で曲がってから渡っていました。引地橋を渡ると『東海道分間絵図』に「ヤくし」と描かれている養命寺。その本尊の薬師如来座像は国の重要文化財ですが、残念ながらこれは非公開です。

東海道七 五十三次之内 藤沢 四ツ谷の立場 1847-1852年(弘化4年-嘉永5年)蔦屋版東海道七 五十三次之内 藤沢 四ツ谷の立場 1847-1852年(弘化4年-嘉永5年)蔦屋版

藤沢バイパスに合流するとそこは四ッ谷(四屋)の立場(宿場間の休憩場所)で、かつては何軒かの茶屋が並んでいました。広重はここを蔦屋版の五十三次で描いています。

東海道と大山道の追分で大山道四谷道の起点であるため、大山阿夫利神社の一の鳥居が立っています。絵の左端に描かれた不動明王像を戴いた大山道の道標は、現在は小さなお堂に納められています。

四ッ谷があったと思ったら今度は二ッ谷。するとそろそろ茅ヶ崎の赤松町です。ここには松並木が少し残っています。その名も『松林』に入ると牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)跡の解説板が立っています。ここは牡丹餅が名物だったのです。 藤沢宿と平塚宿の間には、四谷に続きこの牡丹餅、そして南湖、八幡と四つの立場があったのです。また牡丹餅立場には、紀州徳川家が国元と江戸屋敷とを結んだ専用の飛脚中継所である七里役所が設けられました。

茅ヶ崎駅から北に向かう通りは一里塚通りで、東海道に出た所に一里塚の跡が残っています。十間坂を下ると南湖(なんご)入口の信号機で、このあたりに立場があり、茶屋などが軒を並べていたので茶屋町とも呼ばれていました。

五十三次名所圖會 七『藤沢』南湖の松原左り不二 1855年(安政2年)五十三次名所圖會 七『藤沢』南湖の松原左り不二 1855年(安政2年)

東海道を江戸から京に向かうと、富士山は常に右手に見えます。この辺りでは珍しくもそれが左手に見えるので、『左富士』呼ばれ、名所となっていました。左富士はここと東海道五拾三次に描かれている吉原(よしわら)の二ヶ所が特に有名だったそうです。

広重は五十三次名所圖會『藤沢』で南湖(画中表記は南期)を描いています。この絵の縁に『平塚へ三里半』とありますから、平塚から逆算すると上の絵の四ッ谷でも足りないのですが、さらに困ったことにここ南湖はもっとずっと平塚寄りのところです。縁の文字は後世に書かれたものと思われるので、この距離は誤りなのかもしれません。ちなみに今日は、千ノ川を渡る鳥井戸橋の袂に『南湖の左富士之碑』が立っており、解説板にこの絵について、『鳥井戸橋を渡って、下町屋の家並の見える場所の街道風景を写し』とあるので、この解説者は描かれた場所は鳥井戸橋のあたりと確信しています。その鳥井戸橋からは確かに左冨士が見えます。

鳥井戸橋を渡るとすぐの右手に鶴嶺八幡宮の鳥居が立っており、奥に続く参道両側に松並木が見えます。境内には大銀杏がありますが、それは源義家が前九年の役の戦勝祈願として植えたものと伝わります。

下町屋を通り抜けて小出川を渡ります。橋の南側に位置する小さな池の中に、太さ60cmほどの檜の丸材が七本突き出ています。このあたりは田んぼでしたが、大正時代の大地震によって突然、地中から木柱が姿を現したのです。この木柱は『吾妻鏡』などから源頼朝が1198年(建久九年)に相模川に架けさせた橋の橋脚であることがわかったそうです。つまり当時の相模川は今より1kmほど東を流れていたのです。推定でこの橋は幅9m、長さ40m。なお頼朝はこの橋の落成式の帰途の落馬が原因で死に、馬が川で溺れて死んでしまったので馬入川となったと伝えられています。

東海道五拾三次『平塚』縄手道東海道五拾三次『平塚』縄手道

相模川に向かい馬入橋(ばにゅうばし)を渡り出すと、その真ん中に『日本橋より62km』の表示があります。しかし江戸時代には相模川を渡る東海道に橋はなく、『馬入の渡し』で往来が行われていました。

広重の東海道五拾三次『平塚』の副題は縄手道。 縄手道とは縄のように一筋に続く道、畦道のこと。平塚宿はそれが続く唐ヶ原の先にありました。坊主頭の山は高麗山(こうらいさん)で、その奥に真っ白な富士山が半分だけ見えています。縄手道を行くのは上半身裸の早飛脚と空になった駕籠を担いで帰路につく駕籠かき。手前に立つ杭柱は平塚宿との境を示しています。ジグザグの道と丸い山の対比が見事。

馬入渡りて平塚の 女郎衆は 大磯小磯の客をひく こちや 小田原評議であつくなる

馬入川を舟で渡ると平塚で、そこの女郎たちは大磯や小磯の客を引いている・・・

平塚駅からまっすぐ北に行くと平塚八幡宮で、国道1号線に面して大きな鳥居が立っています。1192年(建久三年)に源頼朝が北条政子の安産祈願として神馬を奉納しているそうです。

平塚市民活動センターの交差点のコーナーに江戸方見付跡の碑が立っています。ここから西が平塚宿です。当時の道幅は7〜11mで、宿は1kmほど続いていたそうです。本陣と脇本陣がそれぞれ一箇所、問屋場(といやば)は二箇所ありました。問屋場とは簡単に言えば次の宿場までの荷物運搬業と郵便屋さんです。

高札場跡を横目に進めば上方見付跡で、このあたりからは広重が描いた高麗山が今でもほぼそのままの形で見えます。

08 平塚宿-大礒宿 3km

上方見付跡を出るともう平塚宿はおしまいで、花水川に架かる花水橋を渡り大磯に入ります。すぐに南に現れる善福寺には横穴墓群と国指定重要文化財の伝了源上人坐像があります。

歌川広重 曽我物語圖會 虎御前 祐成歌川広重 曽我物語圖會 虎御前 祐成

右手には平塚から見えていたこんもりとした高麗山。高来神社の鳥居を過ぎると道は穏やかにカーブし出します。このカーブの途中の化粧坂信号で東海道は国道1号線から別れて進みます。松並木が残る道を進むと化粧井戸で、これは虎御前が化粧した井戸と伝わります。

虎御前は大磯の遊女で、歌舞伎にもよく登場する曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成の妾とされます。吾妻鏡にも登場するため、実在した人物であると。

化粧井戸の少し先には一里塚の解説板が立ち、東海道線をくぐりさらに行くと江戸見附。これより大磯宿です。

東海道五拾三次『大礒』虎ヶ雨東海道五拾三次『大礒』虎ヶ雨

東海道五拾三次『大礒』の副題は『虎ヶ雨』。はてこの妙竹林な名は。曾我十郎祐成が仇討ちの果てに命を落としたのが5月28日(陰暦)で、虎御前がその十郎を偲んで流した涙が雨となったという故事から、このころ降る雨を『虎ヶ雨』と言うそうです。

絵の場所は化粧坂を下った大磯宿の入り口付近で、街道沿いの松並木は現在も残ります。中間調の墨のぼかしが入る全体に淡い色調が梅雨の空気を感じさせます。薄明るく見える空はそろそろ雨が上がる合図でしょうか。海の濃藍が際立って見えます。空間構成的には左右二分割で、左に静の海、右に家々の重なりや折れ曲がった松の木などの動的なものが配され、画面の均衡を保っています。

国道1号線に合流し大磯駅の入口を横目に進むと、火除土手跡です。江戸時代の大磯宿は度々大きな火災に見舞われたため、1855年(安政2年)に火除土手が築かれました。これは現在は少し盛り上がった程度で道になっています。大磯宿には北本町と南本町があり、それぞれに本陣や問屋場がありました。延台寺には曽我十郎が敵に矢を射かけられた時に守ってくれたという『虎御石』があります。

高札場跡でほぼ大磯宿はおしまいです。これまで南下していた東海道は照ヶ崎海岸付近で大きく向きを変え、国道1号線とほぼ重なって西へ向かうのです。鴫立庵(しぎたつあん)、島崎藤村旧居、伊藤博文邸跡、吉田茂邸跡といったものの前を通過。

09 大礒宿-小田原宿 6km

大磯ロングビーチの気配を感じながら西へ進むと、葛川に架かる塩海橋です。この橋の名は文政年間ごろまでこのあたりの浜で塩が製造されていたことから来ているそうです。その浜は袖ヶ浦と言い、この名は千葉県の市名にもなっており、東京湾一帯に広がっています。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)ために海中に身を投じた妃の弟橘媛(オトタチバナヒメ)の袖が海岸に流れ着いたという伝説によるものです。

塩海橋を渡ると二宮です。二宮駅の西は山西で、梅の木が多かったことから海岸は梅沢海岸と名付けられたようです。日本橋から18番目の一里塚を過ぎると『梅沢の立場』と呼ばれたところです。宿場と宿場の間の村は『間の村』と呼ばれました。そこにある立場茶屋が町場化し、茶屋本陣を中心とした茶屋町を形成するようになると、そこを『間の宿(あいのしゅく)』と呼ぶようになります。このあたりでは茅ヶ崎の南湖とこの梅沢のニカ所がそれです。梅沢の立場は俗に茶屋町と呼ばれ、茶屋本陣の『松屋』を中心に茶店や商家が並んでいました。旅人がこうした『間の宿』を使う理由は本宿に比べ宿賃が格段に安かったからで、特にここのような大河近くでは増水時には川留めとなる可能性があるため、つまり足止めをくらって何日間も宿泊しなければならなくなるため、より安い宿を利用したと考えられます。

さて、いよいよ小田原です。小田原に入るには酒匂川を超えなくてはなりません。酒匂橋でGoというのは今の話で、江戸時代は徒歩(かち)渡しで渡っていました。その幅はなんと、三百二十間(580m)!

東海道五拾三次『小田原』酒匂川東海道五拾三次『小田原』酒匂川

東海道五拾三次『小田原』酒匂川 はまさにこの徒歩渡しを描いています。雨が降り続く春から夏にかけて増水する酒匂川ですが、水深が胸あたりになると川留めとなったようです。

すでにキュビズムの世界とも言えそうな山は箱根連山で、その下に北条氏の居城の小田原城が描かれています。スケールの大きな自然とそれに立ち向かう人。ここでの宿場はほとんどおまけのように見えます。

東海道五拾三次『小田原』酒匂川/後版東海道五拾三次『小田原』酒匂川/後版

この絵の後版は基本的な構図は初版と同じですが、だいぶ印象が異なります。川を渡る人の数が多くなり、山容もまったくと言って良いほど違います。対岸に置かれていた蓮台が手前に移動したことで、川を渡るという行為がより強く感じられます。

山王川(さんのうがわ)を渡るといよいよ小田原宿です。歩道橋の北側に小さな公園ありますが、ここが江戸見附でこれより西が宿場です。新宿(しんしゅく)の交差点で南に折れ、緩い『けあげ坂』を上って次の交差点を右折すると、かつての街道の雰囲気を残す東海道になります。

東海道を西へ進むと宿の中心部で、旧町名の万町・高梨町・宮前町・本町・中宿町・欄干橋町が続きます。途中、清水金左衛門本陣跡があり『明治天皇小田原行在所跡』の碑が立っています。ここから北の小径に入れば、小田原の総鎮守と言われる松原神社です。街道に戻って西へ進めば南側に片岡本陣跡があり、北側には城郭を模した『ういろう』が現れます。ここは『東海道名所図会』に中国風の建物で登場しています。

箱根口の信号を北に向かえば小田原城です。小田原は蒲鉾で有名なので、あちこちに蒲鉾の看板が出ています。

10 小田原宿-箱根宿 16km

早川沿いを遡って行くと山崎ノ古戦場跡石碑が立っています。幕府の遊撃隊と小田原藩を先鋒隊とする官軍とが戦った『戊辰戦争山崎の戦い』の場に建てられた碑です。この石碑を過ぎると山崎の切通しで、これを越えると三枚橋に出ます。ここを直進すれば温泉場ですが、東海道は三枚橋を渡って進んで行きます。いよいよここから箱根の山登りです。

鬱蒼とした森が見えてきます。左が白山神社、右が小田原北条氏の菩提寺の早雲寺です。正眼寺を過ぎるとS字カーブが続きます。道端にある双立道祖神を過ぎると湯本茶屋(集落)で、集落内には一里塚跡の石碑が立っています。日本橋から二十二番目ですから約86kmですね。

湯本茶屋が終わると道は須雲川を渡ります。カーブの途中にある大天狗神社の鳥居にはなぜだか天使がいます。ここの駐車場前からは二子山がきれいに見えます。このあと紹介する広重の『箱根』湖水図の山は二子山とする説が多いのですが、すだとするとこのあたりから見える山が絵に近いかもしれません。

須雲川橋の手前左側には『女転ばし坂』と彫られた石柱があります。江戸時代にここを馬で上ろうとした女が落馬して死んだそうな。それくらい厳しい坂ということでしょう。

次は畑宿の集落です。ここは小田原宿から箱根峠までの中で最も賑わいを見せていた『間の村』で、二十三番目の一里塚があります。その先は再び石畳の旧街道で西海子坂。これを過ぎると県道に合流し、七曲がりと呼ばれるうねうねカーブ道になります。勾配は10% ! 途中『橿木坂(かしのきざか)』があり、上り切ったところに見晴らし茶屋があります。

石畳の旧街道は『猿滑り坂』『追込坂』を上りますが、私たちは舗装路を行きます。旧街道は追込坂を上ると、どうやら平坦なところに出たようです。そこには甘酒茶屋あります。これはなんと江戸時代初期から400年も続いているものだそうです。文政年間の記録には『甘酒小屋』とあるようです。

このあとも上りは続きます。旧街道を行けば箱根のシンボルの二子山が見えて来ます。この山は小田原方面から見るとピークは2つですが、ここからは4つに見えます。ここから先は『権現坂』の下りです。しかしこれは石畳なので自転車ではちょっと・・・ もちろんアスファルト舗装された道もあるので私たちはこっちを。権現坂を下り切ると杉並木があり、箱根神社の赤い大鳥居の前に出ます。その先には芦ノ湖が広がります。

東海道五拾三次『箱根』湖水図東海道五拾三次『箱根』湖水図

東海道最大の難所といえば『天下の嶮、千仞の谷』と唄われたこの箱根をおいて他にないでしょう。迫る山は岩肌をむき出しにし、まるで生き物のようで、今にも襲いかかってきそうです。圧倒的な量感! 下に見えるは芦ノ湖で、荒々しい山とは対照的に深く落ち着いたブルー。山間を行く大名行列はこのあと芦ノ湖の湖岸にある関所に向かいます。ここでは脇役の冨士、控えめですが真っ白。写真では見難いですが左奥に描かれています。絵の中央の山は駒ヶ岳であろうと思います。手前右が二子山。

湖畔に沿って国道一号を進むとまた杉並木が見えてきます。この杉並木は唱歌『箱根八里』で『昼なお暗き杉の並木…』と歌われており、1660年ごろに植えられたものであることがわかっています。ここまでの街道を見てくると松並木になるべきところと思われますが、箱根は標高が高く、松が育たなかったので杉並木になったと言われています。

杉並木の入り口近くに二十四番目(約94km)の葭原久保の一里塚跡を示す石碑があります。この杉並木を通り抜けると小高い丘が見えます。これは箱根離宮が建てられたところで、現在は神奈川県立恩賜箱根公園になっています。この公園を過ぎると箱根関所です。現在は江戸後期のその姿を復元したものが立っており、見学できます。

登る箱根のお関所で ちよいとまくり 若衆のものとは受け取れぬ こちや 新造じゃないよと ちょと三島

男は女、女は男になりすまし、関所破りをする者が多かったので、秘部を検査するらしいです。あれ、こいつには付いてねえぞ、男じゃねえな。若い娘じゃねぇかい。いや〜、そこまでやるの? 箱根の関所は入り鉄砲に出女の取り締まりが厳しかったため、特に女は身体検査を嫌いここを通らず、手前の大磯から甲州街道へ回って山中湖から三島に抜けるものも多かったそうです。

箱根関所からは箱根宿へ向かいます。この宿は関所から箱根峠までの細長い土地にありました。これは関所の設置に不満を抱いた人々が本陣の提供を拒んだため、急遽町を人工的に造ったためだそうです。

小田原から三島まではいわゆる箱根八里で30kmほどあり、箱根の山越えを1日で歩くのは困難でした。西国大名の要請により1618年(元和四年)に、小田原と三島の宿から強制的に50軒ずつを移転させ、箱根に宿が形成されたのです。そのため現在も字に小田原町と三島町が残っています。この新しい町に対し、古くからあった関所から小田原寄りの地域は『元箱根』と呼ばれます。

宿を抜けたところに石仏や石塔が集まっています。この辺りから道は再び石畳となり、箱根峠へ向かいます。

11 箱根宿-三島宿 15km

旧街道は挟石坂(はさみいしさか)を上りますが、自転車だと国道1号線しかありません。道の駅を過ぎると箱根峠ですが、今日のそれはあまり感慨が湧くところとは言えなさそうです。とにかくこの峠を越えたら一気に三島に下ります。途中にあるのは、諏訪・駒形神社、山中城跡、こわめし坂、松雲寺、法善寺、国道1号線に入って錦田一里塚、大場川に架かる新町橋といったところで、これを渡ると三島宿です。県道22号線となった東海道に三嶋大社の鳥居が立っています。

東海道五拾三次『三嶋』朝霧東海道五拾三次『三嶋』朝霧

京から来れば三島は東海道最大の難所である箱根越えをする手前の宿でした。しっかり準備を整えて・・・

朝霧の中、駕篭や馬で箱根に向かう人々が描かれています。霞む鳥居は三島明神(現三嶋大社)。中央部の人や馬にだけに輪郭線を与え、他は輪郭線なしのシルエットで、ぼかしが使われています。濃淡のぼかしは日本画の伝統技術ですが、版画では摺り師の腕がものを言います。

12 三島宿-沼津宿 6km

東海道五拾三次『沼津』黄昏図東海道五拾三次『沼津』黄昏図

月に照らされた宿場が見えます。狩野川の支流の黄瀬川(木瀬川)沿いの細道を行き、三枚橋を渡ると沼津宿です。

大きな天狗面を背負った白装束の人は金比羅参りの途中で、面は大権現への奉納品。その前の二人は巡礼の親子か比丘尼とその弟子か、お布施を受ける柄杓を持っているように見えます。夕空に満月。広重が保永堂版の東海道で月を描いたのはこの一枚切りですから、特別な作品と言えるでしょう。夕闇が迫る中、宿に急ぎます。

川と空に使われている青は全く同じではなく微妙に違っていて、それが空間に奥行きを与えているように感じます。

酒もぬまずに原つづみ 吉原の 富士の山川 白酒を コチャ 姐さん出しかけ蒲原へ

山川白酒は現在もあるようです。このあと登場する吉原は白酒が名物でした。山城国の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』(1684年)には、山の中の川は急流なので、泡立って白く濁っているところから、白酒を山川酒と呼ぶようになったとあります。

13 沼津宿-原宿 6km

東海道五拾三次『原』朝之富士東海道五拾三次『原』朝之富士

現在の静岡県沼津市、原は最も富士山が美しく見える場所と言われたところだそうです。画面から飛び出した冨士! 前に広重は北斎ほど冨士に興味がなかったと言いましたが、この絵を見るとそうでもなさそうです。

浮島ヶ原から見る雪を纏った朝焼けの冨士は、均整がとれ優美です。その偉容に思わず足めて振り返る女。田んぼの中の鍋鶴はのどかに餌をついばんでいます。冬の朝でしょう。荷物運びの男の着物の模様は、広重の『ヒロ』の字をモチーフにしたもので、時々広重はこれを使います。ちょっとした遊び心ですね。

もう一度絵をよく見てみましょう。副題には確かに冨士とあります。ですからこの絵は冨士を主題としたことは間違いないのでしょう。しかし、やはり広重は北斎のような興味を冨士に持っていなかったと思います。この冨士はどこかステレオタイプ的で、それ自体が訴える迫力がありません。広重はここで冨士を描いてはいない。冨士は民衆の興味の大きな対象であったので、それを画題と絵の中のモチーフに用いたのに過ぎないと思います。広重が優れていたのはそうしたモチーフを用いつつ、東海道五拾三次を行くごく一般の人の姿を描くことによって、その世界にこの浮世絵を買った人が入って行ける世界を築き上げたことでしょう。絵による空間のワープ、そこに描かれた人が私になる。今ならこれに時間が加わると言ってもいいかもしれません。

もう一つ、絵には必ず視点があります。この視点は物理的なものでもありますが、どんな色の眼鏡を掛けて世界を見るかという意味でもあります。広重の視点は一見やさしく見えるのですが、実は冷徹に計算されたものであることを強く感じます。

14 原宿-吉原宿 12km

東海道五拾三次『吉原』左富士東海道五拾三次『吉原』左富士

藤沢のところで書いたように、左富士で有名だったのは南湖とこの吉原です。

街道沿いに続く松並木の向こうにオレンジ色の冨士が見えます。空はおそらく夕やけでしょう。馬に三人が乗っていますがこの乗り方は『三宝荒神(さんぽうこうじん)』と呼ばれるそうです。『二方荒神』は馬の背中を挟んで両側に二人が乗れるようにした枠をつけた鞍のことで、前を行く馬に見られるように、左右に荷物を振り分け一人だけ座るのは『乗掛』。馬の乗り方も旅する人数や荷物の量によって様々だったわけです。そして一番前を行く人は、旅のもっともベイシックなやりかたである、徒歩。

鮮やかな配色が旅の楽しさを伝えているようです。

15 吉原宿-蒲原宿 11km

東海道五拾三次『蒲原』夜之雪東海道五拾三次『蒲原』夜之雪

蒲原から大井川が流れる金谷までは、ほんのちょっとですが実際に旅をしたことがあります。時期はゴールデンウィークだったので、どこにも雪はありませんでしたし、蒲原は広重の絵ほどに山深いところではありませんでしたが。

すばらしい構図、傑作とされることに意義はありません。山深い集落に音もなく降る雪。夜の街道を雪明かりを頼りに歩く旅人。積もった雪は柔らかく、どこか暖かみを感じます。墨一色の中に旅人に施された僅かな指し色が画面を引き締めています。彩色されていない紙の白さがそれ以上の、雪の深い白さとして表現されています。

東海道五拾三次『蒲原』夜之雪/後版東海道五拾三次『蒲原』夜之雪/後版

この『蒲原』の二枚はたいへん興味深いです。細部に至るまでまったくいっしょに見えますが、部分的に異なる版木が使われています。足跡をよく見るとごく僅かな違いがあることがわかります。

空は上図では天ぼかし(天一文字--空が上から下に向かって明るくなっていく)ですが、下図では地ぼかし(ぼかし上げ--空が下から上に向かって明るくなっていく)です。天ぼかしが初刷りと考えられています。多くの浮世絵では初刷りが画家の表現したいオリジナルの状態と考えられ、版木も傷みがない状態なのでこの刷りが一番良く、後刷りには出版社の思惑が入り込むなどして程度が低いものが多いことは良く知られています。しかしこの絵に限っては、地ぼかしの方が夜の雰囲気が良く出ているように感じます。初刷り後のかなり早い段階で、広重あるいは保永堂の判断で、地ぼかしに変更されたとも言われています。

現在の蒲原の通りには、なまこ壁や格子のある家、クラシカルな洋館などが連なっています。

蒲原宿の次は由比宿です。ここには明治天皇が休憩した座敷を復元した由比本陣記念館『御幸亭』があります。その北側の庭は小堀遠州作と伝わります。そしてその横に東海道広重美術館が立っています。

16 蒲原宿-由井宿 4km

東海道五拾三次『由井』薩埵嶺東海道五拾三次『由井』薩埵嶺

この絵は難所と言われる薩埵峠(さったとうげ)を江戸側から越えた先の見返りです。下には真っ青な駿河湾に白い帆掛け船が浮かんでいます。その向こうに真っ白な富士山。これを引き立てているのが、強い風を感じさせる曲がった松の木と、手前に描かれた岩肌をあらわにした断崖でしょう。そこにはおぼつかない足どりで絶景を眺める旅人の姿があります。静かな駿河湾と荒々しい断崖の対比が見事です。

古くはこのあたりは薩埵山が海に突き出しており、波にさらわれないようにして海岸線を駆け抜ける必要があったといいます。そのため山側に迂回コースとして造られたのがこの薩埵峠なのです。

薩埵峠(さったとうげ)を京側から自転車で越えたことがあります。実は難所とされるこの峠の標高は93mとそれほど高くありません。ちょっとだけがんばればこの広重の絶景に会えるのです。しかしその時は曇りで、残念なことに冨士の姿はそこにありませんでした。

 愚痴を由井だす薩埵坂 馬鹿らしや 絡んだ口説きも興津川 こりや 欺まして寝かして恋の坂

薩埵峠は愚痴を言い出すほどきついということでしょうね。

17 由井宿-興津宿 9km

東海道五拾三次『興津』興津川東海道五拾三次『興津』興津川

薩埵峠を越えると興津(おきつ)宿の東を流れる興津川に下ります。広重の絵からもわかるように、興津川は水深が浅い川で、先には駿河湾が広がります。その湾に浮かぶは真っ白な帆の帆掛け船。このあたりは風光明媚なところとして知られていました。手前の松原は万葉集にある許奴美(こぬみ)の浜とされます。

 磐城山 直越へ来ませ 磯崎の 許奴美の浜に 吾立ち待たむ

この磐城山は薩埵山のことです。

興津川を体格のいい二人の男が駕篭と馬とで渡っています。力士でしょうか。馬は重くて嫌がっているのか、うなだれているように見えます。駕篭の吾人は窮屈そうで、かろうじて外に飛び出さないで収まってはいますが、駕篭からはきしみ音が聞こえてきそうです。

興津宿には奈良時代の創建とされる清見寺が立ち、西園寺公望の別邸であった坐漁荘が復元されています。

18 興津宿-江尻宿 4km

東海道五拾三次『江尻』三保遠望東海道五拾三次『江尻』三保遠望

興津を出ると清水港に入って行きます。副題に三保遠望とあるように、画面中央に横たわるのは羽衣伝説で有名な三保の松原です。この絵は二代将軍徳川秀忠が家康を祀った東照宮がある久能山の日本平あたりから清水港を眺望したものでしょう。

画面いっぱいの海。その中に幾隻もの白い帆を広げた船が浮かんでいます。港にもたくさん船が並び、当時からこの港は賑わいがあったことが伺えます。遠景は伊豆半島で山は愛鷹山。

江尻つかれてきは府中 はま鞠子 どらをうつのかどうらんこ こりや 岡部で笑はば笑わんせ

ん〜〜ん、あんまり意味がないような。。江尻では疲れてきたのね。

19 江尻宿-府中宿 11km

東海道五拾三次『府中』安部川東海道五拾三次『府中』安部川

府中は駿河国(するがのくに)の国府が置かれた所で、駿府(すんぷ)とも呼ばれました。徳川家康が晩年を過ごした地でもあります。この絵は駿河湾に流れ込む安部川と徒歩渡しを描いたものです。絵でもだいぶ広く見えますが、この川は実際、かなり広いです。

『吉原』で旅人が馬に乗る方法を描いた広重ですが、ここでは川を渡る方法を紹介しています。手前の女は人足の肩車、その向こうの女は駕篭に乗っています。そして一番向こうの女は蓮台には乗っていますが駕篭はなく直に座っています。対岸からやってくるのは男たちで、手前は荷物を載せた馬を引く人足たち、奥は歩いて川を渡る客と、それを補助する人足たちでしょう。渡し賃によって渡り方も色々ということでしょう。

そうそう、この絵にはちょっと洒落た隠し署名があります。右端の半纏の背中に描かれた『竹』は、版元の保永堂を示す印です。

さあて、無事に安部川を渡り終えたら『あべかわ餅』をいただきましょうか。本来のあべかわ餅は、つき立ての餅にきな粉をまぶし、その上から白砂糖をかけたものですが、最近はこれを小豆餡を絡めた餅と一緒に盛るのが一般的だそうです。

20 府中宿-丸子宿 5km

東海道五拾三次『丸子/鞠子』名物茶屋東海道五拾三次『丸子/鞠子』名物茶屋

東海道五拾三次『丸子/鞠子』名物茶屋の画題は『まりこ』と読みます。『丸子』と『鞠子』と二種類が用いられていますが、初刷りは『丸子』、後刷りは『鞠子』だそうです。

丸子は東海道で一番小さい宿場だったようです。絵に描かれているのは一軒の茶店で、店先に見える看板には『名ぶつ とろろ汁』とあります。

 梅若葉 まりこの宿の とろろ汁  --芭蕉--

この句のように店の前では梅がほころんでいます。店の中には二人の男がとろろ汁を食べていて、乳飲み子を背負った女がサービスをしています。これは当時人気だった十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』の中に出てくる弥次喜多と茶店の女房のシーンとまるで同じ。一文字ぼかしの梅色の空が、春の訪れ告げているようです。

私たちが丸子を訪れた際には、この景色によく似たロケーションに、400年の歴史を持つという茶店の丁字屋がありました。とろろ汁、おいしゅうございました。

21 丸子宿-岡部宿 8km

東海道五拾三次『岡部』宇津之山東海道五拾三次『岡部』宇津之山

東海道五拾三次『岡部』宇津之山

丸子から岡部に抜ける途中にあるのが宇津ノ谷峠です。絵は奥が丸子方面で手前が岡部方面。流れは岡部川で、段々になっていることから勢いよく流れていることがわかります。ここには『伊勢物語』にも登場する険しい山みちの難所として知られる『蔦の細道』がありましたが、豊臣秀吉は小田原攻めの際に新しい道をその北側に整備します。それがこの道です。

両側から迫る山の合間を流れる急峻な流れと薄暗い細道。その山道を柴を担いだ男と女が列を成して歩いて行きます。奥の人物は上半身しか描かれていません。そこから峠の急峻さが見えます。

私たちはまさにこのルートをトレースして丸子から岡部に抜けました。宇津ノ谷峠には、明治、大正、昭和、平成の各時代に掘られた多くのトンネルが存在し、峠を意識することなく抜けられます。

22 岡部宿-藤枝宿 7km

東海道五拾三次『藤枝』人馬継立東海道五拾三次『藤枝』人馬継立

東海道五拾三次『藤枝』人馬継立

東海道は岡部からは焼津に向かわず、藤枝に入ります。これは次の図を見てもらえばわかりますが、このあと大井川を越さなければならず、川渡りのポイントが嶋田だったためです。焼津だと遠回りになるからでしょう。

副題の人馬継立(じんばつぎたて)とは、宿場ごとに荷物運びの人足や馬を替えることで、その手配をするところは問屋場(といやば)と呼ばれました。この絵はその問屋場風景です。大勢の人があわただしく荷を捌いています。馬は荷を運び終わったところなのか、ほっと一息付いているようにも見えます。二頭描かれているので、ここで別の馬に荷が移されるのかもしれません。仕事を終えた人足が一服している姿も見えます。奥にいる紋付袴姿の武士と帳簿を持った役人らしき人物は、人荷の引き継ぎの打合せの真っ最中といったところでしょうか。

手前の馬の腹巻に見える文字は『竹内』で、これは『府中』同様に保永堂の印です。

 藤枝娘のしをらしや 投げ島田 大井川いと抱きしめて こちや いやでもおうでも金谷せぬ

投げ島田は髪型で、遊女好みのいきな結い方だそうです。

23 藤枝宿-嶋田宿 9km

東海道五拾三次『嶋田』大井川駿岸東海道五拾三次『嶋田』大井川駿岸

嶋田までやってきました。いよいよここで大井川を渡らなければなりません。絵の副題の『大井川駿岸』の駿は駿州のことで、駿岸は嶋田宿側の岸という意味です。

 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川 --箱根馬子唄--

東海道の最大の難所は箱根と書きましたが、実際のところはこの大井川でしょう。梅雨時の増水はしばしばで、そんな時は川止めとなり、足止めされることになるからです。参勤交代の大名行列となれば、たくさんの人と荷物を渡さなければならず、とても多くの時間かかったと思われます。絵にはたくさんの人が描かれており、良く観察すると楽しいです。

24 嶋田宿-金谷宿 3km

歌川広重『東海道川尽大井川の図』(とうかいどうかわづくし おおいがわのず)歌川広重『東海道川尽大井川の図』(とうかいどうかわづくし おおいがわのず)

広重は大井川を渡る人々の姿をより大写しにして描いています。

大井川は水の勢いが強く、渡るのがとても大変だったそうです。川を渡る方法は、手引、肩車、蓮台がありました。蓮台に乗り、富士山を眺めながら悠然と川を渡る女たち。蓮台は板に2本の担ぎ棒をつけたもので、4人で担ぐのが一般的だったそうです。二人乗りや、駕篭のまま載せるものもあったことがこの絵からわかります。遠方には参勤交代の大名の輿が見えます。

25 金谷宿-日坂宿 7km

東海道五拾三次『金谷』大井川遠岸東海道五拾三次『金谷』大井川遠岸

東海道五拾三次『金谷』大井川遠岸

大井川を渡り切ると金谷(かなや)です。山の中腹に金谷宿が描かれていますが、ここでの主題がそれでないことは一目瞭然です。前絵に続きこの絵もまた、大井川の川渡りを描いています。

大名行列が川を渡り終えようとしています。最後尾に見える大名の駕籠を乗せる蓮台を大高欄といい、これはベテランの侍川越と呼ばれた人足20〜30人で担いだと言われます。対岸では渡し終えた人足たちが川原で休息しています。しかしここからも金谷宿まではまだしばらく掛かりそうです。

『嶋田』と違い、ここでは遠方の山が描かれています。それが黒いシルエットだけなのが不気味で、この先の旅の困難を暗示しているようでもあります。

26 日坂宿-掛川宿 7km

東海道五拾三次『日坂』佐夜ノ中山東海道五拾三次『日坂』佐夜ノ中山

 年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山 --西行法師/新古今集--

年老いてから、再びこの峠を越えることができると思っただろうか。いや思いもしなかった。小夜の中山(さよのなかやま)を越えることができるのは、命があるからこそだなぁ。 と西行は長生きしたことに対する感慨を詠んでいます。

日坂(にっさか)の佐夜峠は、箱根峠や鈴鹿峠と列んで東海道の三大難所とされていました。山賊も度々出没したようです。その街道の真ん中に横たわるのは、ここで山賊に殺された妊婦の霊魂が乗り移った『夜啼石』で、夜になると泣き声が聞こえてくると伝えられています。山道を行き交う旅人もこの石の前で思わず足を止めています。

暗い山影の中に大胆な明るい色のカーブで表現された街道が映えます。その黄色の補色の青が配された遠景の山々は、ぼかしで霞が表現されています。

日坂宿では名物の蕨餅を頂かないわけにはいかないでしょう。 掛川城主だった山内一豊が、徳川家康をお茶と蕨餅でもてなしたと伝えられています。そして谷宗牧は蕨持ちについて次のように歌っています。なんか上の西行そっくりのようにも思えますがね。

年たけて 又くふへしと思ひきや 蕨もちゐも命成けり --谷宗牧/東国紀行(天文13-14年、1544年-1545年)--

そして例の唄にも夜泣石と蕨餅が出て来ます。

小夜の中山 夜泣石 日坂の 名物わらびの餅を焼く こちや いそいで通れや掛川へ

27 掛川宿-袋井宿 9km

東海道五拾三次『掛川』秋葉山遠望東海道五拾三次『掛川』秋葉山遠望

日坂宿の次は掛川宿です。逆川の馬喰橋を渡ると日本橋から58番目の葛川一里塚で、今は小さな碑が立っています。その横にほっそりとした石造の常夜灯があります。これは秋葉山の入口を示すもので、広重の絵の橋の手前に描かれているものもそれとのことなので、絵はここを描いたものかもしれません。もっともこうした常夜灯はこのあたりには数多く設置されていますが。

副題からすると山は秋葉山(あきはさん)なのでしょう。そこには秋葉神社があります。これは火防(ひぶせ)の神である秋葉大権現の後身だそうです。ちょっと脱線しますが、秋葉山は秋葉原の地名の由来となった場所だそうです。江戸は火災が多い都市でした。そこで秋葉原に火除地が作られます。そこに火防の神など三神を祀った社が創建されるのですが、人々は火防信仰で有名だった秋葉大権現が祀られていると勘違いし、秋葉大権現の原っぱ、『秋葉っ原』と呼んだことが秋葉原の名の始まりとされます。

さて、広重の絵に戻ります。橋の向こう側から上ってくる笠を被った人はおそらく秋葉大権現の僧侶で、手前の夫婦らしき旅人たちはこれから大権現にお参りに行くのか、その僧侶に深々とおじぎをしています。空には高く高く上がる凧と糸が切れたそれ。それを見て楽しんでいる童子。風が強い遠州では凧が有名です。田圃には草をとる農民の姿があります。

宿場に入ると東海道七曲という表示があります。現在は他に道ができたので少し分かり難くなっていますが、かつてここには折れ曲がった道が続いていたようです。これはおそらく敵の侵入を食い止めるためのもので、終点には木戸と番所があり、入ってくる人や物を監視していたようです。街道の北には戦国時代に山内一豊が10年間在城した掛川城の天守が木造で復元されています。また掛川城御殿は1855年(安政2年)に再建が始められた建物です。

28 袋井宿-見附宿 4km

東海道五拾三次『袋井』出茶屋ノ図東海道五拾三次『袋井』出茶屋ノ図

袋井宿は江戸から数えても京から数えても27番目で、ちょうど真ん中です。遠くに見える青は原野谷川でしょう。袋井の宿場は原野谷川の北岸にありました。その宿場の入口辺りなのか、一本の木の下に簡素な茶屋が出されています。こうしたものを出茶屋と言います。

石を積んだだけのかまどには木の枝から薬缶がぶら下がっています。その底は煤で真っ黒。かまどの火の面倒を見る女の横では、駕篭かきが煙草に火をもらって一服しようとしています。よしず掛けのみすぼらしい小屋の縁台では飛脚が休んでいます。なんとものどかな風景です。もくもくと立ち上る煙には空摺が施されています。

現在ここは江戸と京とのちょうど真ん中の宿場であることを売りに、観光案内所を兼ねた『ど真ん中茶屋』を作り、町をあげてど真ん中をPRしているようです。そうそうここには名物と呼べるかどうかはわかりませんがまん丸の『袋井丸凧』があります。これは広重が描いた浮世絵から逆に復元されたものだとか。秋葉常夜灯はこのあたりではたくさん見掛けますがここのものは屋形で、龍の彫り物がされた立派なものです。このあとはこうした形の常夜灯が多くなってくるようです。

袋井宿を出ると寺沢家長屋門があります。木原一里塚跡、木原畷古戦場、復元された木原一里塚、許禰神社と過ぎ、太田川の三ヶ野橋を渡ると松並木です。大日堂は上洛を目指す武田信玄と徳川家康が戦ったとされるところです。遠州鈴ヶ森刑場を過ぎ、秋葉常夜燈が見えて来るとそろそろ見附宿です。

袋井通りで見附けられ 浜松の 木陰で舞坂まくり上げ こちや 渡舟(わたし)に乗るのは新井宿

『木陰で舞坂まくり上げ』はちょっとあやしい。『わたしにのる』?

29 見附宿-濱松宿 6km

東海道五拾三次『見附』天竜川図東海道五拾三次『見附』天竜川図

画題の見附は現在の磐田市見付。この名の由来は、水(み)に接する土地であること、とか、京からやってくると初めて冨士が見えたこと、などによると言われています。ここには本陣2軒、脇本陣1軒、そして旅籠が56軒あり、浜名湖の北側の本坂峠を越える姫街道(見附宿と御油宿を結ぶ東海道の脇街道)の追分でもあったため、大変賑わっていました。

ここには脇本陣大三河屋門が残っています。大三河屋は旅籠屋でしたがが、のちに脇本陣となったようです。門は冠木の上に切妻屋根を載せた薬医門のような形をしています。1875年(明治8年)竣工の旧見附小学校(きゅうみつけしょうがっこう)は現存する日本最古の洋風木造小学校校舎だそうで、当所は4階建でしたがのちに増築されて5階建となっています。府八幡宮、遠州国分寺、宮之一色一里塚跡を通過。

見附宿の西を流れる天竜川までやってきました。この川は二瀬に分かれ、東側の大きな流れを大天竜、西の小さな流れを小天竜と呼びました。暴れ川として有名な川ですが、絵では朝霧が降り、穏やかです。

天竜川は大井川と違い水深が深かったため、主に船で渡っていました。手前の渡舟は客を下ろしたあとのようで、船頭はキセルをくわえて一服しています。中洲には船を待つ旅人や馬が、向こう側の瀬には大勢の人を乗せた船が描かれています。遠景は濃淡のぼかしで幻想的な雰囲気です。

天竜川を渡ると六所神社で、天竜川の治水事業に貢献した明善翁の生家や明善記念館、子安神社と過ぎ、馬込橋を渡ると濱松宿です。

30 濱松宿-舞坂宿 11km

東海道五拾三次『濱松』冬枯ノ図東海道五拾三次『濱松』冬枯ノ図

冬の荒涼とした風景です。街道脇に立つ大きな木の下でたき火で暖を取る雲助(くもすけ)たち。雲助は、荷物運搬や川渡し、駕籠かきに携わった人足のことです。その雲助たちに混じって道中合羽に三度笠姿の旅人もここで一服。

画面左は冬枯れの木立と積み藁。右の立て札がある松林は『颯々の松(さつさつのまつ) 』で、これは室町幕府六代将軍足利義教(よしのり)が富士山を見ようと下向の折、この下で宴を開き、狂言の冒頭で自ら『浜松の音はざざんざ』と謡ったとされるところです。ざざんざ? これは松が風に吹かれる音だそうな。ざざんざざざんざ。その向こうは、若き徳川家康が居城とした浜松城。下に見える浜松宿は本陣6軒、旅籠94軒と東海道中でも最大規模を誇るものでした。

立ち木とたき火から立ち上る煙が画面をまっ二つにしているこの絵は、一般的に画面を二分する構図はあまり良くないと言われるように、どうもあまり成功していないように思います。

浜松といえば、車好きならホンダ、スズキ、音楽好きならヤマハ、カワイ、ローランドといったところでしょうか。しかしまあ一般的には浜松城は抜かせないでしょう。往時の石垣の上に天守閣が再建されています。この城は徳川家康をはじめ、歴代城主の多くが後に江戸幕府の重役に出世したことから『出世城』と呼ばれました。近代の浜松は工業都市として発展したため空襲を受け、江戸時代の遺構はあまり残っていません。それより古い時代、奥州平泉の藤原秀衡とその関係者が建立したという『二つ御堂』が、舞坂宿との間にちょっとした見所としてあります。

浜松名物には『浜納豆』があります。これは塩味の乾燥している納豆でネバネバしておらず、お茶漬にするとおいしいそうです。でも関東出身の私としては、納豆と言えばやっぱり水戸なんですよね。

31 舞坂宿-荒井宿 6km

東海道五拾三次『舞坂』今切真景東海道五拾三次『舞坂』今切真景

浜名湖の東にあり遠州灘に面していた舞坂宿の入口には、江戸時代から続くという全長700mに及ぶ松並木が残り、宿の東端には見付石垣があります。見附の遺構が残っているところは多くないので、これは貴重なものでしょう。1838年(天保9年)築の脇本陣『茗荷屋』は書院棟が残されており、建物が復元されています。

浜名湖は元々は遠州灘と砂州で隔てられていましたが、室町時代の地震によって砂州が決壊し、これと繋がりました。砂州が切れた部分は、『今切れた』ということで『今切(いまぎれ)』と呼ばれるようになり、そこに荒井とを繋ぐ渡し『今切の渡し』ができました。

鮮やかなブルーの浜名湖の向こうに荒々しい山。その奥に優美な真っ白な冨士。手前の山とこの冨士はほぼ相似形でリズムを作っています。その間にある山も逆相似に見えます。黒と白、ギザキザとなめらか。ここには対比と調和が同時にあります。浜名湖に浮かぶ舟は蛤漁のものだそうです。手前に突き出ている杭は、遠州灘の荒波から渡し舟を守るために幕府の命で築かれたものです。

広重は五十三次では天ぼかしを多用していますが、この絵にそれはなく、空の色は水平線近くが少し強めではありますが、これも地ぼかしと言うほどではありません。広々としたオレンジ色の空はその下に広がる青い水面とバランスを取るためのものでしょう。逆にその水面には強いぼかしが使われていて、広さと深さが感じられると同時に、空とのバランスが意識されていると感じられます。この二色は補色関係にあるため、色彩だけを見ても非常にインパクトがある絵になっています。対立する二色を和らげるために右下に緑色が使われている点も面白いです。

舞阪から新居に向かうには今日は弁天橋を経由して行く他なさそうです。今切の上を行く国道1号線浜名バイパスは自動車専用ですから。脇本陣の横に西町常夜灯が立ち、その西の港に『渡船場跡北雁木』の石碑が立っています。

浜名湖渡船の舞坂側の渡船場跡です。雁木は雁が斜めに並んで飛ぶ様子から名付けられた階段状の構造物を指すことが多いのですが、ここでのそれは船着場です。これは1657年〜61年に造られた今切渡しの渡船場で、石垣を築き、石畳を水際まで敷きつめています。幅は10間(約18m)。こうした船着場は三箇所あったようで社会階級によって利用する場所が異なっていました。北雁木は諸侯用、中(本)雁木は武家用、南雁木は庶民と荷物の積みおろし用だったそうです。

弁天島に渡ると1709年(宝永6年)に今切の渡し船の安全を祈って建てられた弁天神社があります。ここは昔は砂洲が新居まで続く風光明媚なところだったようですが、明応の大地震(1498年)で舞阪の西の端が切れて島になったそうです。神社には天女が舞い降りたという伝説があります。

32 荒井宿-白須賀宿 6km

東海道五拾三次『荒井』渡舟ノ図東海道五拾三次『荒井』渡舟ノ図

舞坂を出た渡しは荒井に向かっています。前を行く幔幕を張り巡らせ毛槍を立てた大きな船は大名一行を乗せた御座船。そのうしろに続く小舟はその供のものたちでしょう。対岸の荒井に見える建物は、厳しく入鉄砲・出女を取り締まった今切関所。荒井側の船着場はあの関所の中にあったそうです。

この絵の色使いは前の『舞坂』とほぼ同じですが、舞坂では見られなかった天ぼかしが使われています。下の湖面は逆のぼかしで、両方とも水平線付近が薄く、バランスが取れています。ちょうど『舞坂』と逆のぼかしですね。

さて現在は新居関所と呼ばれている今切関所ですが、ここには当時の建物が残っています。これは主要街道の関所の建物としては唯一現存するものだそうです。現在残っているのは、面番所(めんばんしょ)、書院(しょいん)、下改勝手(したあらためかって)、足軽勝手(あしがるかって)で、面番所に居並ぶ役人の人形にはそれぞれ名前も記されています。裏手に廻ると、女の取り調べの場面です。関所で取り締まったのは『入り鉄砲に出女』と言われますが、ここでは江戸へ向かう女『入り女』も厳しく取り締まっていたそうです。一度は見学していい施設でしょう。

そうそう、例の唄ですが、箱根ではちょいとまくったのに、この荒井の関では何もなし。いったいどうしたことでしょう。

さて、荒井の宿を散策すれば、旅籠の紀伊国屋、大正から昭和20年代頃まで芸者置屋及び小料理屋を営んでいた小松楼、細い路地に寺院や神社が並ぶ寺道とでもいうべきところなどがあります。港も近いので漁師さんの姿もあり、なかなか楽しいところです。

33 白須賀宿-二川宿 6km

江戸を出た東海道が南下を続け、その一番南に辿り着きました。それが白須賀宿に至る手前にある汐見坂です。

東海道五拾三次『白須賀』汐見阪図東海道五拾三次『白須賀』汐見阪図

白須賀(しらすか)は眺めのいいところだったようです。遠州灘の絶景。坂は汐見坂。京から江戸へ向かうと、初めて太平洋の大海原や富士山が見えるのがこの汐見坂でした。ここの宿場は当初坂下にありましたが、1707年(宝永4年)の地震と津波により大半の家が流されてしまったため、翌年に坂の上に移転したそうです。

坂道を下る大名行列。並んだ黄色い笠が坂の勾配を強調しています。赤い挟箱(はさみばこ)に描かれた模様は『原』にも出て来た広重の『ヒロ』をデザインしたもの。海辺にある高いとんがり帽子は漁師の網でしょうか。スーっと引かれた水平線を遮るのは舟の白い帆だけ。青い海の上のピンク色の空は夕やけでしょうか。

坂道を上り切って家々が立ち並ぶところに入ると、曲尺手(かねんて)と呼ばれるクランク状のところがあります。これは枡形などとも呼ばれ、敵の攻撃を防ぐ防御の役割を持っています。さらに参勤交代時に大名行列がかち合わないためでもあり、大規模なものは道路延長を長くし、宿場内の民家を増やすためとも言われます。

お前と白須賀 二タ川の 吉田やの 二階の隅ではつの御油 こちや お顔は赤坂 藤川へ

『二階の隅ではつの御油』? なんのこっちゃ。。。

34 二川宿-吉田宿 6km

東海道五拾三次『二川』猿ヶ馬場東海道五拾三次『二川』猿ヶ馬場

二川宿(ふたがわしゅく)は遠江の国から三河の国に入って始めての宿場です。ほとんどの宿場はその後の開発により当時の姿をとどめないところが多いですが、ここは明治時代にできた鉄道駅の場所が村端だったためか、本陣が昔のまま残りました。東海道で本陣が残るのはここの他は草津宿だけです。本陣横に旅籠屋「清明屋』が、そして250mほど離れて商家『駒屋』が立っています。

絵の副題の『猿ヶ馬場』ですが、これは一般的に言う馬場とは関係ないようで、ただ小松が群生する荒涼とした土地だったようです。そこには豊臣秀吉が食べたという名物の柏餅を売る茶屋があり、結構繁盛していたようで、ここが柏餅発祥の地とも言われています。その前を行く三人の女は瞽女(ごぜ)と呼ばれた盲目の旅芸人で、諸国を廻りながら三味線や唄、踊りなどで生計を立てていたといいます。

原野が一面に広がるだけの寂しい景色ですが、この荒漠としたイメージを少ない筆から表現できるのは、高度なぼかしの技術と言えるでしょう。

35 吉田宿-御油宿 10km

東海道五拾三次『吉田』豊川ノ橋東海道五拾三次『吉田』豊川ノ橋

前の絵の寂しい雰囲気から一転。豪華なお城と長大な橋に鮮やかな青の川!

吉田宿は現在の豊橋です。渥美半島の付け根にある豊橋市を流れる豊川には豊橋が架かっています。この橋の名が豊橋市の名の由来だそうです。

江戸時代にここに架かっていた橋は絵で見るとかなりの大きさで、百二十間(218m)もあったそうです。当時、東海道の大河に架かる橋はごく僅かでしたが、その中の一つがこの天下橋であった吉田大橋です。吉田藩は将軍家の老中・大坂城代・京都所司代格の大名でした。手前に描かれているお城が吉田城で、改修工事中らしく左官が仕事をしています。鳶は何を見ているのか、高みの見物ならぬ高見の見物。川の対岸に見えるのは下地村の家並みです。

『東海道五十三次』の中で橋と城が同時に描かれているのはこの吉田と岡崎だけで、東海道でも屈指の景観であったことと思われます。吉田藩は15万2千石でしたが吉田城の城域面積は約84万㎡と、加賀百万石の金沢城の約30万㎡の3倍近くもありました。これは名古屋城より広く、吉田がいかに重要な防衛拠点と考えられていたかを示しています。

36 御油宿-赤阪宿 2km

東海道五拾三次『御油』旅人留女東海道五拾三次『御油』旅人留女

御油(ごゆ)の名は、持統天皇が宮路山に行幸された時、油を献上したという伝説に由来するそうです。 ここは浜名湖の北岸を迂回する姫街道と東海道とが分岐する追分宿として栄えました。

副題に見える『留女(とめおんな)』とは旅籠の客引きをする女のことです。絵には、通りの真ん中で客を引く女たちとそれに掴まりそうな旅人が描かれています。実に滑稽ですが、こうした情景は当時流行った『東海道中膝栗毛』の弥次喜多の珍道中さながらです。

右に描かれている旅籠の中では足洗いの桶が出されているので、客の男は無理矢理引きずり込まれ、今宿に入ったところなのかもしれません。そのうしろの壁に見えるのはこの東海道五拾三次の出版スタッフ名で、『一立斎図』『摺師平兵衛』『彫工治郎兵衛』とあります。一番左の大きな円の『竹之内版』は言わずと知れた保永堂の竹内孫八のこと。街道は遠近法を用いて描かれ宿場の奥行き感が表現されていますが、建物はモノクロームです。彩色されているのは人物だけであるため、そこにスポットライトが当たったような効果をあげています。

御油を出て西隣の赤坂宿に向かうと、御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600メートルに国指定天然記念物の松並木があります。この宿場間は僅かに2kmほどと短く、東海道で一番短い区間です。

37 赤阪宿-藤川宿 7km

東海道五拾三次『赤阪』旅舎招婦ノ図東海道五拾三次『赤阪』旅舎招婦ノ図

旅舎招婦ノ図(りょしゃしょうふのず)は旅籠の中を描いたものです。手前の中央に生えているのは蘇鉄で、画面をほぼ半分に分けています。こうした構図は広重には比較的良くあります。左と右とで別のものを描くときに使われる手法です。

左の廊下に立つ男は風呂でさっぱりして部屋に戻ってきたところのようです。部屋の中ではもう一人の男が煙管をふかしながら寛いでいます。そこに飯を運ぶ女中。頼んだ按摩もちょうどやって来ました。襖の前に干された手ぬぐいの模様は、これまでも何度か出て来ましたが、広重の『ヒロ』を組み合わせたもの。奥に二階から降りてくる者が足だけ描かれています。夕飯時の慌ただしい様子が見えます。

右は女たちの部屋で、ただいま入念に化粧をしているところ。彼女らが副題に書かれた招婦と呼ばれた飯盛女でしょう。この絵のモデルだという旅籠の大橋屋は2015年まで営業をしていました。

38 藤川宿-岡崎宿 15km

東海道五拾三次『藤川』棒鼻ノ図東海道五拾三次『藤川』棒鼻ノ図

広重が東海道を旅した際に加わったとされる幕府の行列は『八朔の御馬献上』と呼ばれる毎年8月1日に幕府から朝廷へ馬を献上する慣例の行事でした。この絵はその行列を描いたものとされます。

馬の背には御幣が立てられています。これが献上される馬です。行列は今高い柱の横を通り過ぎようとしています。この柱が副題の『棒鼻(ぼうはな)』で、棒端とも呼ばれたようです。これは宿場の境界に立っていたもので、ここから○○宿と書かれていたそうです。棒鼻の横の立札には何が書かれているのでしょう。その向かいの小屋根は高札場でしょう。

行列に向かって頭を下げている紋付袴姿の者は村の役人で、笠を抱えているのは旅人でしょう。そのうしろには無邪気な子犬が二匹。

39 岡崎宿-池鯉鮒宿 11km

東海道五拾三次『岡崎』矢矧之橋東海道五拾三次『岡崎』矢矧之橋

岡崎と言えば徳川家康が誕生の地として知られます。橋の向こうに見える城が家康が生まれた岡崎城でしょう。川は矢矧川(やはぎがわ)で橋は矢矧橋。岡崎はこの川を使った水運により、このあたりの中心都市として栄えていました。矢矧橋は幕府によって架けられた天下請負で、『東海道名所図会』には、 長さ二百八間、高欄頭巾金物、橋杭七十柱、東海第一の長橋なり とあります。擬宝珠が付いており、長さは370mで東海道で最長ということです。

橋の上を大名行列が通って行きます。家康が地の岡崎に入るとなれば、大名といえども緊張したのではないでしょうか。下を流れる川は鮮やかな青で、見事なぼかしでその深さや広さが表現されています。摺師の腕の見せどころです。

橋の東の八帖町は八丁味噌で知られるところで、味噌工場から味噌の匂いが漂ってきます。

岡崎女郎衆は ちん池鯉鮒 よくそろい 鳴海絞りは宮の舟 こちや 焼蛤をちょいと桑名

40 池鯉鮒宿-鳴海宿 7km

東海道五拾三次『池鯉鮒』首夏馬市東海道五拾三次『池鯉鮒』首夏馬市

これはいったいなんじゃらほい的な画題は、『ちりゅう』しゅかうまいち、と読みます。池鯉鮒は今日は知立という字を当てますが、かつて知立神社の池に鯉と鮒がたくさんいたことから、池鯉鮒となったと伝わります。

副題の首夏馬市ですが、首夏(しゅか)は陰暦四月のことで、馬市はその名の通り馬の売り買いをする市。宿場の東のはずれで毎年4月25日から5月5日まで開かれた馬市には、全国から馬が五百頭も集められたそうです。

絵は初夏の野原。夏草の匂いが立ちこめる丘。ここの馬市はこんなところに立ったのですね。白馬や真っ黒な馬の姿が見えるので、ここには様々な種類の馬が集められたのでしょう。手前では馬飼が馬を移動させようとしています。このあと向かうのは中央に一本だけ立つ松の木の下でしょう。松は談合松と呼ばれました。馬喰と仲買人とがこの松の木の下で競りを行うのです。そこへ弁当でも運んでいるのか二人の男の姿。松の木の向こうに見える穏やかなくじら山ですが、これは後摺りにはありません。

41 鳴海宿-宮宿 27km

東海道五拾三次『鳴海』名物有松絞東海道五拾三次『鳴海』名物有松絞

鳴海と言うから海が近いのでしょう。歌枕になっているここは鳴海潟や鳴海浦と呼ばれ、満潮時には海ですが、干潮時には洲となり歩くことが出来たところで、地場産業には浴衣にする絞り染めの鳴海絞りがありました。副題にある有松は隣町で、有松絞りが有名でした。元々は有松絞りを鳴海で販売していたようです。

宿場には有松絞りを扱う店が並んでいます。その中では奥さんへの土産にするのか、旅人が反物を物色しているようです。通りを行く駕篭の中の女の着物に、渋く大胆な柄が選ばれているのは、広重のセンスというものでしょう。店は立派な蔵造りで、このあたりが有松絞りで相当潤っていたことが伺えます。蔵造りは防火構造で、火災から大切な商品を守ってくれます。海鼠壁や虫籠格子が蔵造り商家のアイコンです。通りには天水桶が置かれており、この町がいかに火事を意識していたかが伺えます。有松村は1784年(天明4年)の大火で全焼し、有松・鳴海絞りが壊滅的な打撃を受けたことがあるからでしょう。手前の店の暖簾には、広重の『ヒロ』の文字を使った家紋と東海道五拾三次の版元である保永堂の竹内の文字が見えます。

現在ここは、重要伝統的建造物群・町並み保存地区に指定されています。

42 宮宿-桑名宿 20km

東海道五拾三次『宮』熱田神事東海道五拾三次『宮』熱田神事

『宮』は熱田神宮のことで、ここはその門前町。脇街道であった佐屋街道と中山道の垂井宿へ向かう美濃路があり、また東海道は『七里の渡し』で桑名へ渡る重要な港がありました。宿場としては東海道中最大規模を誇り、旅籠は248軒あったそうです。名古屋の市中は城下町として、ここは宿場町として発展しました。

熱田神宮の神事とはなんでしょう。馬を先頭に、たくさんの人が走っています。これは毎年五月五日に行われた『端午の走り馬』で、二組がそれぞれの馬を走らせ、その年の実りや吉凶を占ったものだそうです。各組は揃いの衣装を着ていて、ここでは赤と青の絞りの半纏が描かれています。

手前に描かれた鳥居がいかにも巨大に見えるのは構図の妙と言えるでしょう。奥でかがり火が焚かれているので、この神事は夕方ごろに行われるのでしょう。この行事は残念ながら今は行われていないとのことです。

43 桑名宿-四日市宿 11km

東海道五拾三次『桑名』七里渡口東海道五拾三次『桑名』七里渡口

熱田神宮にお詣りしたら桑名に入ります。副題の『七里渡口』は、宮宿から桑名宿へは伊勢湾を船で渡ったことから来ています。これは東海道における唯一の海上航路で、距離が七里のため七里の渡しの名が付いており、所要時間は約4時間だったそうです。面白いことに七里は満潮時の距離で、干潮時には沖を廻ったので10里ほどになったそうです。

お城は桑名城。ここには木曽川、長良川、揖斐川の3つの川流れ込んでいました。そこに到着した船は満員の様子。ここには米市場があり、江戸や大坂の相場を左右するほどの商業地だったそうです。沖合に見える船はまっ白い帆のを掲げていますが、入港する際には城に敬意を表してか、その帆を下ろしたそうです。港の海面は波立ってうねっています。この細い線は彫師の腕の見せどころでしょう。

渡船場跡が宮の渡し公園として整備されています。そこには伊勢神宮の『一の鳥居』が立っており、これは伊勢国の東の玄関口としてここが位置付けられることによるものだそうで、式年遷宮の年に、伊勢神宮宇治橋の鳥居を移して建て替えられます。

こちや 焼蛤をちょいと桑名

桑名といえば蛤、蛤といえば桑名だそう。焼き蛤は即席で旅人に供され、時雨蛤は土産物として売られていたようです。

44 四日市宿-石薬師宿 3km

東海道五拾三次『四日市』三重川東海道五拾三次『四日市』三重川

四日市の名は、四、十四、二十四など、四の付く日に市が立ったことに由来しているそうです。このことを知らなくともその名を知らない人はあまり多くないでしょう。海岸にコンビナートが立ち並び、そこから排出された煤煙により、四大公害病の一つ、四日市ぜんそくが起こったところです。

広重のこの絵はそれとはまったく別のところのようです。しかし、時間を巻き戻すとこのような景色になるのでしょう。副題の三重川は現在の三滝川のことで、それもすぐ先は海辺ですから風が強かったのでしょう。左の男は飛ばされて転がる笠を追い、右の男の合羽はばたばたと音を立てているよう。この男が渡っているのは橋とも呼べないような板を渡しただけの簡易なもの。季節は晩秋あたりか、枯れた水生植物がざわざわと音を立てています。画面の中央付近に立つのは何の木か、風で枝がなびいています。よく見ればその向こうに船の帆柱が見えます。あそこが港でしょうか。

広重としては珍しく躍動的な絵です。

四日市から石薬師 願をかけ 庄野悪さをなおさんと こちや 亀薬師を伏し拝み

45 石薬師宿-庄野宿 8km

東海道五拾三次『石薬師』石薬師寺東海道五拾三次『石薬師』石薬師寺

石薬師寺(いしやくしじ)は三重県鈴鹿市にあるお寺で、現在も境内の西側は国道1号線に面しています。

稲刈りが終わり稲叢が積まれた田んぼの縄手道の向こう側、宿場の入口に佇む石薬師寺。そのさらに向こうには鈴鹿山脈が幾重にも連なります。静けさが漂う晩秋の農村風景です。

46 庄野宿-亀山宿 6km

東海道五拾三次『庄野』白雨東海道五拾三次『庄野』白雨

庄野は前図と同じく三重県鈴鹿市。副題の白雨(はくう)は夕立などの白く見える激しい雨のこと。

庄野の宿から少し上がったところか、急な坂道を行き交う人々に突然雨が襲いかかります。駕篭かきは必死で坂道を登り、逆に転げ落ちるように駆け下って行くのは農夫と傘を差した旅人。この傘には保永堂を表す『竹のうち』と『五十三次』の文字が書かれています。

風も強く、ばさばさと揺れる竹林は濃淡のシルエットで遠近感を出しています。雨は一見同じ角度で降っているように見えますが、実は微妙に角度を違えていて、線があるところ、ないところと、とてもデリケートに描かれています。

この絵を見たら白雨という言葉は一生忘れないでしょう。広重の中でも傑作とされる一枚。

47 亀山宿-関宿 7km

東海道五拾三次『亀山』雪晴東海道五拾三次『亀山』雪晴

雪景色。それも山の中の急斜面。右上のお城は亀山城で、左下に雪に埋もれそうな亀山宿。松の木の向こうを登って行くのは大名行列で、これが斜面の角度を表現しています。朝焼けの空に雪が照らされ、きらきらと輝く様が目に浮かぶようです。

空の色と大名行列に僅かな色が施されている以外は墨の濃淡だけでこの深い雪は表現されています。

48 関宿-阪之下宿 11km

東海道五拾三次『関』本陣早立東海道五拾三次『関』本陣早立

関は鈴鹿の関で、近江の逢坂(相坂)、美濃の不破とともに三関に数えられたところです。副題の本陣早立は分かりやすいですね。この本陣は戦のそれではなく、参勤交代の時に宿泊する宿場のそれ。この本陣にはその宿の有力者の家が当てられていました。

江戸と国とを行き来する大名行列は移動が大変なことは想像に難くありません。早朝に旅立ち少しでも早く進み、経費を削減したことでしょう。絵はまだ明けやらぬ早朝で、ほのかに空が白みを帯びて来出したころでしょうか。まだほとんど色がないはずの時刻を表現するのに、鮮やかな黄緑色から黄色へのグラデーションを地面に採用したのは、やはり広重のデザイン力と言えるでしょう。

幔幕の家紋は、広重の父の姓『田中』をモチーフにしたもので、門の前の足軽が持つ提灯には例の『ヒロ』をデザインしたものが描かれています。お殿様が乗る駕篭の上に見える札には仙女香などの化粧品の名があります。広告料をもらっていたのかもしれませんね。

互いに手を取り急ぐ旅 心関 坂の下から見上ぐれば こちや 土山つつじで日を暮らす

49 阪之下宿-土山宿 10km

東海道五拾三次『阪之下』筆捨嶺東海道五拾三次『阪之下』筆捨嶺

東海道五拾三次『阪之下』筆捨嶺

副題の筆捨嶺は岩根山ですが、ここにはちょっと面白い話があります。その昔、狩野派の画風の大成した狩野元信がこの山を描ききれず、筆を捨てたというもの。それからこの山は筆捨山と呼ばれて来たそうです。

岩根山は奇岩に松、滝など、見所の多い山でした。絵は見晴らしの良い峠の茶屋で茶をすすりながらその景色を楽しむ旅人を描きつつ、この景勝地を紹介しています。絵には描かれていませんがこのすぐ下には鈴鹿川が流れているはずです。遠景の山は鮮やかな青で、空は赤、緑の谷に黄色の峠道。四原色を使って強烈なインパクトある画面に仕立て上げています。

50 土山宿-水口宿 14km

東海道五拾三次『土山』春之雨東海道五拾三次『土山』春之雨

江戸から京に向かう場合の最後の難所は、伊勢(三重県)と近江(滋賀県)との間にある八百八谷と言われた鈴鹿峠でした。土山はこの鈴鹿峠を越えた所にあります。

 坂は照るてる 鈴鹿はくもる あいの土山 雨が降る --鈴鹿馬子唄--

坂下宿では晴れだが鈴鹿峠を越えるころには曇りとなり、土山では雨になる。と唄われた土山は唄のとおりに雨が多いところでした。副題にある春はことさら多かったことでしょう。

しとしとの雨の中、轟轟と流れる田村川に架かる橋を大名行列が渡って行きます。笠を被り合羽を着込んで辛そうにうつむき加減で進んでいます。木々の中に立つ田村神社はひっそりとその姿を隠しているように見えます。

庄野の雨はザーっと降っていましたが、ここではしとしとと長く続きます。

51 水口宿-石部宿 12km

東海道五拾三次『水口』名物干瓢東海道五拾三次『水口』名物干瓢

水口は現在の滋賀県甲賀市にあり、副題から干瓢が名物だったことがわかります。

赤子を背負い夕顔の実を運ぶ女。それを剥く女。細い紐状になった干瓢を干す女。よく見れば奥の垣根に干している女の姿も。道行く男の姿と干瓢の収穫期からみて、季節は夏でしょう。今日の干瓢の主な産地は栃木県ですが、ここにその作り方を伝えたのが下野からやってきた水口城主と言われています。

水口びるに紅をさし 玉揃ひ どんな石部のお方でも こちや 色にまようてぐにやぐにやと

52 石部宿-草津宿 14km

東海道五拾三次『石部』目川ノ里東海道五拾三次『石部』目川ノ里

東海道五拾三次『石部』目川ノ里

石部は現在の滋賀県湖南市にあります。湖南ですからいよいよ琵琶湖というところです。江戸からの長い旅も終わりが近づいて来ました。

副題の目川ノ里は石部宿と次の草津宿の間にあった立場(たてば)です。立場は宿と宿の間の休憩所で、茶屋がありました。絵の茶屋には『いせや』とあります。ここは菜飯と焼き豆腐田楽で有名だったようです。長い旅路ではご当地名物を食するのが数少ない楽しみの一つでした。画面の右に描かれているのが目川でしょう。

茶店の前には大勢の旅人がやって来ています。中には踊っているような姿の男も。その様子を見て笑っている女たち。立場のちょっとした賑わいです。

遠景に描かれている水面が琵琶湖でしょう。その向こうに見える山は比叡山あたりでしょうか。

53 草津宿-大津宿 12km

東海道五拾三次『草津』名物立場東海道五拾三次『草津』名物立場

東海道五拾三次『草津』名物立場

この草津は群馬県のそれではなく近江国(おうみのくに)、今の滋賀県にあります。

ここは東海道と木曾街道(中山道)の分岐点で、交通の要所でした。琵琶湖の交通の要でもあったので有数の宿場として栄えました。街道を飛ばすは早駕籠のようで、通常二人のところを四人で担いでいます。三人一組(一人は交替要員)で担ぐ場合を三枚肩、四人一組(一つの駕籠を四人同時に担ぐか、二人で担いで残りは交替要員)で担ぐものを四枚肩(しまいがた)と呼んだそうです。

それとすれ違うのは小屋のようなものを運ぶ荷物担ぎです。奥にある茶店は『うばがもちや』で、旅人が大勢一服しながら名物の姥が餅を食べています。

画面の上半分と下半分とをはっきり分ける色使いはあまり見掛けません。地面に施された緩やかなぼかしが、その2つの世界を繋げています。

お前と私は草津縁 ぱちやぱちやと 夜毎に搗いたる姥ヶ餅 こちや 矢橋で大津の都入り

54 大津宿-京師宿 12km

東海道五拾三次『大津』走井茶店東海道五拾三次『大津』走井茶店

東海道五拾三次『大津』走井茶店(はしりいちゃみせ)

いよいよ琵琶湖の南に位置する大津宿までやってきました。副題の走井は大津から京へ向かう途中の山間にありました。走る井戸、清水が溢れるように湧き出る所という意味だそうです。

茶店の前には噴水のように湧き出ている井戸が描かれています。この水を使って作られた走井餅がこの茶屋の名物でした。街道には牛車が並んでいます。積み荷は米俵や薪のようです。京をひかえたここは、琵琶湖の水運もあり、物流が盛んな地であったことが伺えます。牛車だ三台なら茅葺き屋根も三つで、こうしたことで画面のバランスを取っているようです。遠景のぼかしを用いた山の形も茅葺き屋根と重なります。

55 京師

東海道五拾三次『京師』三條大橋東海道五拾三次 大尾『京師』三條大橋

京に到着。長い旅路もここで終わりです。画題の『京師(けいし)』は京都のこと。三條大橋は賀茂川に架かる橋で、現在も何代目かがこの絵と同じところに架かっています。ここが東海道の終着地点。

その橋の上を行くのは大原女や京女で、被衣(かずき)を着た公家の女の姿があります。この旅の出発地の江戸とはやはり趣を異にします。日本橋を思い出すと、そこに描かれた活気とこの和らいだ空気は明らかに違います。日本橋は朝の情景でしたが、この三條大橋は空の色から見ておそらく夕方でしょう。出発地の日本橋と終着地の三條大橋は時間まで対比させて描かれたと思っていいでしょう。

橋の向こう側には京の街並が広がっています。遠景は東山のようで、中腹には清水の舞台で有名な清水寺が見えます。そのさらにうしろの山はどうやら比叡山のよう。実際に三條大橋の袂に立ってみると、このような景色は現実にはあり得ないことがわかりますが、絵師の仕事は現実世界を紙に転写することではありません。

広重がこの絵を描いた当時、三條大橋の橋脚は石造だったことがわかっています。それを木造として描いたことや、『三島』より後はどこか実際と異なる部分が多く、東海道名所図会などから拝借したと考えられる場面が多いことから、広重が八朔御馬進献に同行して京へ上洛したという説を否定する向きもあります。実際に行ったかどうかはわかっていません。広重の絵には、この東海道五拾三次に限らず他の資料を参考にして描いたと思われるもの、あるいはまったくといっていいほどそっくりなものが数多くあることは事実で、これは良く知られたことでもあります。

現在、三條大橋の袂には『駅伝発祥の地』碑が立っています。日本初の駅伝『東海道五拾三次駅伝徒歩競争』は1917年(大正6年)4月27日にここを出発し、東京上野の不忍池までの23区間516kmでした。かかった時間は約44時間で、ゴールに飛び込んだのは最近放送された朝のドラマ『いだてん』で有名になった金栗四三(かなくり しそう)でした。

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