『木曽海道六拾九次』(天保6- 9年/1835-1838 頃)は、中山道の異称である木曽街道をテーマに、69の宿場と起点の日本橋の合わせて70ヵ所を描いた江戸時代後期の浮世絵です。『中津川』には雨の景と晴天の景が存在するため、全体では71図あります。当初、渓斎英泉(寛政2~嘉永元年/1790-1848)が手がけましたが、日本橋から本庄宿までの11図に加え、宿場を飛び飛びに13図、合計24図を2年ほど掛けて完成させたところで歌川広重(寛政9~安政5年/1797-1858)に引き継がれました。
最初の版元は『東海道五拾三次』(天保5年/1834 刊行)を出した保永堂(竹内孫八)でしたが、その後錦樹堂(伊勢屋利兵衛)へと変わっていき、完結後の版権は錦橋堂(山田屋庄次郎)が持ちました。広重は東海道のすぐあとにこの木曽海道を描いたことがわかります。なお文字違い『海』→『街』の『木曽街道六十九次』(嘉永5年/1852)を歌川国芳(寛政9年〜文久元年/1798-1861)が71枚揃いで描いています。歌川国貞(三代目歌川豊国)の『木曽六十九駅』(嘉永5年/1852)も。
江戸と京都を東海道が太平洋沿岸経由(南回り)で結んだの対し、中山道は内陸経由(北回り)で結びました。草津宿以西は東海道と道を共にします。江戸から京都までの距離は、東海道が126里6町1間(496km)なのに対し、木曽街道は135里34町余(526km)。現代の道で中山道をできるだけトレースしてみると、総延長は550kmほどになり、こちらも東海道よりわずかに長いです。
01 木曾街道 續ノ壹 日本橋 雪之曙/英泉
木曽街道の出発点は日本橋。これは東海道のそれと同じです。広重が描いた保永堂版東海道伍拾三次の副題が『朝之景』で日本橋を南から描いたのに対し、英泉のこれは『雪之曙』で、いずれも朝の情景、朝焼けの空という点が共通しています。先行図の東海道を意識しないわけにはおそらくいかなかっことでしょう。ともあれ、朝日と雪景色でおめでたい気分です。
広重は東海道五拾三次で日本橋を南から描きましたが、英泉は逆の北から東を向いて描いています。日本橋川の北側に並ぶ河岸蔵は隷書版東海道にも描かれたものですが、ここではそれがパースペクティヴな効果を生んでいます。橋の上にはさまざまな人が行き交い賑やかな江戸を演出しています。中央に2人の芸者を配したのは、いかにも美人画が得意だった英泉らしいと言えるでしょう。その下の傘にある文字は版元により表記が異なり、この版の『竹内』は保永堂の竹内孫八のことで、後刷りではこれが錦樹堂の伊勢屋利兵衛を表す『伊勢利』などに変わります。さらに後刷りには、なぜか太陽がないものもあります。
画題の木曾街道の次にある續ノ壹(つづきのいち)とはどう言うことでしょうか。版元が『東海道五拾三次』を出した保永堂ですから、この『續』は東海道五拾三次に続くという意味ではないかと始めは思ったのですが、それではいかにも卑下ています。木曾街道を描いた続き物の一番目ということでしょう。これは朱印に『第壹』とあることからもわかります。そしてこの朱印は最後の大津まで続いていきます。このシリーズは当初より『揃物』として計画されていたことがわかります。
02 木曾街道 板橋之驛/英泉
日本橋を出た中山道の1番目の宿場は板橋宿です。ここには一般の旅人が利用する旅籠や茶店の他、参勤交代時の大名の宿泊施設である本陣や脇本陣が置かれました。板橋宿は上宿、仲宿、平尾宿から成り、上宿と仲宿との間を流れる石神井川には『板の橋』架かっており、これが『板橋』の地名の由来となったそうです。
江戸名所図会の『板橋驛』の本文には、『伝舎(でんしゃ=旅籠)酒舗(しゅほ=酒屋あるいは酒を飲ませる店)軒端を連ね繁昌の地たり』とあります。今日でも仲宿の商店街は賑わいがあります。また『木曽路名所図会』(巻之四)の『武蔵板橋』には、『所々に花魁(おいらん)店前に並び、紅粉(こうふん=口紅とおしろい)を粧ふて花簪(はなかんざし)をさしつらねて美艶をかざる格子の内、行き交ふ旅客は歩みをとどめてあれをこれをと興ずるも多し』とあります。板橋宿は、品川、千住、内藤新宿とともに江戸四宿と呼ばれ、これらはいずれも街道の起点であると同時に遊興の地でもあったのです。
さて、絵ですが、ここは板橋宿ではなくそれより少し日本橋よりの巣鴨庚申塚あたりのようです。確かに、江戸名所図会の『巣鴨庚申塚』に描かれている石塔がこの絵に描かれているものによく似ています。巣鴨庚申塚は日本橋を出発して最初の立場(たてば=宿場間にある休憩所)でした。木陰に葦張りの出茶屋、その前で馬の草鞋を交換する馬子。このころは蹄に蹄鉄が打っていなかったので草鞋を履かせる必要があったのだそうです。馬のうしろには駕籠が置かれ、駕籠かきらしき男がつづらを天秤に担いだ男と何やら話をしています。その先を行くのはつづらの持ち主の夫婦でしょうか。休憩所でのありふれた日常が描かれています。
絵の左端に描かれている棒杭は宿場の境界を示すもので、この先が板橋宿であることを示しています。英泉は一枚の絵で巣鴨庚申塚と板橋宿との両方を描いたのでしょう。
岐蘓路安見絵図によれば、このあたりの清水村では夏の暑さに強い名物『江戸夏大根種』が売られ、これが上方でも珍重されていたとあり、中山道を通じて西日本にまで広がっていたことがわかります。現在この大根は復活の試みが成されています。
もう一つ、浮世絵特異の話題を。馬の腹掛けに見える山に林のマークは版元の錦樹堂の商標です。これはこのあとも度々登場するので覚えておくと楽しめます。左上には赤丸に保永堂とあります。これも出版社で、元々はこの保永堂が『木曽海道六拾九次』を企画しこの絵を世に送り出したのです。その最初に送り出された絵は、馬の腹掛けに『仕合吉』と当時腹掛けによく使われていた語が書かれていました。そして赤丸保永堂の上には出版社の社長名である『竹内』の文字がありました。その後錦樹堂が参入し、この絵を再び出版したのです。腹掛けの文字は自社のPRに使われ、前出版社の社長名は消されました。なぜ前出版社名も消さなかったかについては良くわかりませんが、まあ、そういう条件を前出版社の保永堂が出したのかもしれません。
浮世絵には初摺(しょずり)、後摺(のちずり/あとずり)があります。初摺は今日で言う初版第1刷のことで、後摺はこのあとに出版されたものを言います。この他、絵図が異なる異版もあります。異版は、極僅かな違いのものもあれば、かなり大規模な変更が加えられたものまで様々です。この絵は後摺で、腹掛けの文字の違いがあることから異版と呼べるでしょう。
03 木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場/英泉
中山道の2番目の宿場は蕨でした。板橋宿を発ち志村の一里塚を過ぎると、中山道で最初の難所である戸田の渡しです。この場所は現在も『舟渡』という地名として残っており、戸田橋の100m下流には水神社と渡し場跡の碑があります。
画題の戸田川ですが、これは現在の荒川のことで、当時このあたりは戸田川と呼ばれていたようです。荒川は暴れ川として知られ、その後大規模な河川改修が施されたことは良く知られていますが、戸田川も川留めが頻繁になされたという記録があります。川幅は100mほどでしたが、洪水時には4kmにもなってしまい、渡しは不可能でした。通常時も夕刻以降は川止めだったので、蕨の宿は多いに賑わったことでしょう。
さて、英泉はその渡しを描いています。舟には様々な人に加え馬まで乗っています。合羽を着た男のうしろに座る二人の女は瞽女(ごぜ)と呼ばれた盲目の旅芸人で、諸国を廻りながら三味線や唄、踊りなどで生計を立てていたといいます。彼女らは江戸を出て旅をしながら京へ向かうのでしょうか。
空には白鷺が舞うのどかな景色。江戸から京へ向かう街道を描いた絵ですから、対岸が戸田村と見るのが素直な解釈でしょう。ここを描いた江戸名所図会の『戸田川渡口 羽黒権現宮』を見ると、富士、大山、秩父の山々といったものが見えますが、この絵には一切それらは描かれていません。英泉はここをそうした風光明媚な場所としてではなく、江戸郊外の鄙びた場所として描いたのでしょう。
そうそう、この絵にはいわゆる『広重ブルー』が使われていることに加え、どこか広重を思わせるものがあると感じるのは私だけでしょうか。広重の青は独特の美しさを持ち、広重ブルーと呼ばれますが、その顔料のベロ藍(ベルリン藍=プルシアンブルー)を日本で初めて用い、藍摺絵を描いたのは実は英泉でした。
この渡しから2kmほど行くと蕨宿です。宿場だった通りは現在も『中山道本町通り』という名で残っています。このあたりは綿織物で栄えたところで、北町3丁目の交差点付近に機屋を思わせる民家が数軒残っています。当時の蕨は水路で囲まれており跳ね橋が二箇所あったそうで、そのうちの一つが現存しています。ちなみにこれは、女工たちの逃亡を防ぐためのものとも言われています。
蕨周辺では鰻の看板をちらほら見掛けます。当時上方へ向かう時はこのあたりを境に鰻を出す店がなくなったので、ここと次の浦和宿は鰻で有名でもあったようです。一説では蒲焼き発祥の地はこのあたりと言われます。
04 支蘓路ノ驛 浦和宿 淺間山遠望/英泉
埼玉は万葉の時代には前玉(さきたま)と呼ばれました。玉は湿地を意味し、前方にまだ耕すことのできる湿地がある場所、という意味だそうです。利根川、荒川、江戸川が流れるこのあたりは肥沃な大地を作り、江戸の大量消費を支える農業を始めとする産業を展開していき、絹や木綿、紅花、柿渋、狭山茶といった江戸地廻り圏ならではの産物も生産しました。ここからいよいよそうした地方に入って行きます。
支蘓路は『きそじ』と読みます。木曽海道六拾九次を構成する各絵に与えられたタイトルは統一されておらず、広重画はすべて冒頭が木曽海道六拾九次之内で始まりますが、英泉画はこの支蘓路のほか木曾街道、岐阻街道など様々な用語が使われています。
画題からは浦和宿から浅間山を描いたものと推測できます。浦和からは北関東の有名な山々がほとんど見えたと思います。北東に筑波山、北に日光の男体山、そして北西に浅間山。中でも浅間山はこのあたりを紹介する当時の資料にしばしば登場することから、これらの山の中でも特に良く見えたのかもしれません。あるいはこの絵が描かれる半世紀前の1783年(天明3年)に噴火しの鬼押出しを作っていますから、当時の浅間山は現在より煙がたくさん出ていて、それが他の山と異なっており、名物となっていたのかもしれません。
集落の入口の棒杭の前で荷を運ぶ馬と馬子、そのうしろで馬糞を掻き集める子ども、さらに、熊手を持つ男とそのうしろで荷を天秤に担ぐ従者が描かれています。通りの突き当たりには川と土橋が見えます。しかし浦和宿には現在も、そして当時も川は流れていなかったようなので、これは別のところが描かれていると考えられています。だいたい絵の建物は宿とは思えない並び方をしています。浦和宿は川向こうの山裾に見えるものかと思ったのですが、あれはその先の大宮宿で浦和宿は馬が行く方の画面左手にあるとする説もあります。
この場所は浦和宿より少し江戸寄りの、現代で言うと武蔵野線付近の焼米坂あたりとする説があります。そこには『名物新やき米』を食べさせる立場茶屋があり、その少し南に川が流れ、橋が架かっていたそうです。西へ向かえば荒川の道満河岸、東は日光御成道の鳩ヶ谷宿まで二里余りのところだと言うので、馬は道満河岸へ向かい、右の男は日光からやってきたのかもしれません。子供の頃、米を煎っておやつにして食べたことがあります。これはポップコーンのようにパンパン跳ねてちょっとだけ楽しいのですが、味はどうだったかな。やき米はこれと同じかと思ったのですが、どうやらちょっと違うみたいです。
JR高崎線の与野駅の程近く、旧中山道に『中山道と六国見(ろっこくみ)』の案内板が立っています。それによると、赤山街道と交差するこの辺りには立場茶屋があり、関東六国の山々を見渡せる見晴らしのよい名所として知られ『六国見』と呼ばれていたとあり、この英泉の絵が添えられています。しかしこれが描かれた場所は浅間山との位置関係からしても浦和より南と考えるべきでしょう。
05 木曾街道 大宮宿 冨士遠景/英泉
大宮宿あたりから見た富士山が描かれていますが、ここでも英泉は宿場そのものを描いていません。画題に○○宿とあるのにその宿を描かない図がこうも続くと、この絵師はひねくれ者なのではないかと思ってしまいます。それに大宮と言えば古代には武蔵国の国府があった場所であり、武蔵国一宮の氷川神社があるではないですか。
まあそれはともかく、花は桜でしょう。桜と富士山、おめでたいものを重ねたということでしょうか。ちなみに英泉は菊川英山に師事していましたが、葛飾北斎のところにも出入りしていたという、当時としては破天荒な性格の持ち主でした。北斎は桜と冨士を一枚に納めた絵を富嶽三十六景『東海道品川御殿山ノ不二』や『桜花に富士図』で描いています。この絵にはその影響があるのかもしれません。
左端にある石塔には『青面金剛』とあります。鍬を担いだ農夫と竹籠を背負った童は左へ、駕籠の旅人と振分荷物姿の男は右へ向かっています。河岸段丘なのか土手道なのか、低い崖とその下の田んぼ。
この辺りで富士山がよく見える場所として有名だったのは、先に挙げた大宮原の六国見とその近くの針ヶ谷村だったようです。かつての針ヶ谷村である現在の大原陸橋東詰め交差点には六臂合掌型の青面金剛立像があり『青面金剛 庚申塔 正徳四年(1714年)』と書かれた札が下がっています。庚申塔は塞神として村の境目に建立されることも多く、これはまた旅人にとっては道祖神でもありました。
06 木曾街道 上尾宿 加茂之社/英泉
上尾宿は江戸からおよそ10里の距離にあり、これは当時の旅人が1日で歩く距離に近かったため、江戸を発った旅人の多くは、ここもしくは次の桶川宿で最初の宿を探すことが多かったようです。しかし英泉はまたしても宿場を描きません。ここに描かれている場所は画題にある通り、上尾宿と大宮宿との間に位置する加茂神社付近です。京の上賀茂神社を勧請したこの神社は加茂宮村の鎮守であり、村名の由来にもなった社です。
通りに唐箕を出して籾を選別する農民たち。奥は立場茶屋で、そこに入ろうとする商人と、たった今茶屋から出て来たのであろう侍たち。神社の境内には加茂大明神の幟とともに『いせり』と書かれたそれが数本。『いせり』は『伊勢利』、つまりこの絵の出版元である錦樹堂(伊勢屋利兵衛)の宣伝です。これが保永堂版では『竹之内板』『保永堂』と書かれています。
この土地は天領でした。実りの季節の農民と神域、そして道行く旅人を描いたということでしょうか。
07 岐阻街道 桶川宿 曠原之景/英泉
桶川宿は上尾から三十町(3.3km)だったので、事実上、上尾と一体で発展した宿場でした。周辺は大麦や甘藷に加え、『桶川臙脂(えんじ)』の名で全国に知られるようになった紅花や武州藍、紫根などの染料植物、煙草栽培などが有名だったそうです。
ここは大宮台地の上で、広々とした空間が広がっています。小屋の前で脱穀をする女。空にはその落ち穂を狙って雀がやってきています。女に向かって話しかけている旅人は薬湯で有名だった加納天神への道を訪ねているようです。小屋の中には煙草の葉が干され、男が煙管に火を付けようとしています。小屋の前に置かれているのは踏み鋤で、これは農家には欠かせない道具の一つです。上尾には鍬太神宮(現 氷川鍬神社)があり、柄の付いた鋤鍬を作る有名な棒屋職人がいました。中景に描かれている馬子が横乗りしている馬の姿はちょっと面白い。
08 岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望/英泉
大宮宿に続いて富士山。画題を見ると、これまでは驛や宿とありましたがこれにはただ『鴻巣』とだけあります。続いて鴻巣宿と熊谷宿との間にある『吹上』の地名。素直に解釈すれば、鴻巣から吹上に向かう途中に見た富士山ということになります。吹上は宿場の間にある休憩場所である『間の宿(あいのしゅく)』でした。
それにしてもこのジグザグ道が中山道でしょうか。五街道の道幅は山道を除いておおむね 3~4 間(約 5.4~ 7.2 m)で、江戸に近いところでは 5 間(約 9 m)ほどあったので、この図はちょっと狭すぎると思います。そう言えば広重の東海道にも縄手道が続く『沼津』や『石薬師宿』がありました。まあ、場所によっては狭いところもあったでしょうし、絵師は現実世界をそのまま写さねばならないという決まりもありません。
道行く人は、白装束に編笠そして尺八がアイコンの虚無僧、天秤に荷を担ぐ旅人は冨士を振り返って、あ〜、いい眺めだなと、感心しています。富士山と反対側を見ているのはこの絵の鑑賞者に顔を見せるためで、これは浮世絵の一種の約束事のようなものです。両掛と振り分け、そして風呂敷に荷を担ぐ商人たち。人物の中に女の姿がないのがちょっと英泉らしくない? 並木は榎、畑に植えられているのは麦でしょう。
鴻巣は江戸時代から雛人形の生産で栄えたところで、今でも雛人形店が並ぶ人形町があります。
09 岐阻道中 熊谷宿 八丁堤ノ景/英泉
熊谷の久下村に御狩屋(みかりや)という茶屋がありました。この名は忍藩主が狩りのときに休んだことが由来とされます。絵はその御狩屋を描いたものとされます。店の前の看板には『あんころ』『うんとん』と書かれているそうで、これはそれぞれあんころ餅とうどんのことだそうです。
副題の八丁堤はどこでしょうか。吹上宿から久下村を抜ける中山道の荒川堤は『久下の長土手』あるいは『八丁の堤』と呼ばれていたので、このことでしょう。画面の奥に続くジグザク道。ん、ジグザク道? この絵は前図とジグザグで繋がっているようです。
茶屋の中に見られるのはごく普通の情景で、二人の男が休憩し店の女が茶を運んでいます。男の一人は馬子のようで、そのうしろで馬が飼葉を食んでいます。馬の腹掛けに見える山に林は板橋宿でも見た錦樹堂のコマーシャル。これは初摺では『竹』の字で保永堂(竹内孫八)を意味していました。版元が変わってこの文字も替えられたのです。
画面の真ん中では、荷担ぎを従えた駕篭の中にいる裕福そうな男と旅人とがなにやら話しをしています。二人が知り合いでない限りあまり想像できない場面ですが、一体何の話をしているのでしょう。
その右に見える石標に書かれた文字は私には判読できませんが、『右おしげうだ道』、『左深谷二里廿町』とあるそうです。『おしげうだ』は『忍行田』で行田の忍城あたりのことですが、すると深谷二里廿町はどう見ても計算が合いません。この深谷は熊谷の誤りではないかと考えられているようです。お地蔵さまは平井権八の物語と結びつけた『物言い地蔵』として知られる『権八地蔵』だろうと言われています。かつては御狩屋の近くの久下堤防の上にありましたが、堤防の改修により民家横に移され、現在はお堂に安置されています。
10
岐阻街道 深谷之驛/英泉
深谷にやってきました。ここは秩父の入口であり、寄居への追分です。利根川の舟運があり、また江戸を出立した旅人が2日目の宿泊地とするのに丁度よいところでしたから、夜の街としても栄えました。旅籠は80軒もあり、賑やかだったようです。熊谷には飯盛女がいなかったという事情も、ここが夜の街として栄えた要因の一つであったのでしょう。逆に大名行列は家来衆が御家の体面を穢すことを怖れ、飯盛女のいない熊谷宿に泊まることが多かったようです。
夜の娼妓街です。提灯を持つ送りの女、それに続く芸妓風の飯盛女たち。宿の中の格子の奥に座る女は遊女風。美人画が得意だった英泉らしい一枚と言えます。遠景の家並みとその前を行く人々は暗い色とシルエットで描かれ、前景の女たちにスポットライトを浴びせたような効果を生み出しています。後刷りはこのコントラストが弱く、夜の雰囲気と女たちから立ち上る色香が薄くなります。
旅籠屋の柱行灯と先頭の女の提灯に見えるの丸に『竹』は版元の保永堂(竹内孫八)を示すものです。
11 支蘓路ノ驛 本庒宿 神流川渡場/英泉
本庄宿は武蔵国最後の宿場です。夜の街とそこの女を描いた深谷から一転、本庄宿は風景画と言ってもよい画です。副題にある神流川の渡し場は本庄宿より西に7kmほどのところにあります。
橋を渡る大名行列。この橋は土橋だったようで、長さは30間(約55メートル)、幅は2間(約3.6メートル)だったようです。ここには万が一この橋が流失した場合に備え、別の橋と渡しも用意されていたそうです。橋の手前に見える巨大な常夜灯は在地の豪商によって建てられたもので、当時の本庄の繁栄が伺えます。
向こう側の瀬を渡るのは橋ではなく渡しです。その向こうに並ぶ家々は本庄宿の次の宿の新町ということになるでしょう。そうであればここは本庄宿ではなく新町宿として描かれるべきではなかったかと思うのですが、なぜ英泉が本庄宿で描いたのかは想像するしかありません。
遠景の山は方角から推測して、左から妙義山、榛名山、赤城山でしょう。するとそれらのうしろに描かれているのは、それぞれ浅間山、白砂山あたり、日光の男体山あるいは白根山あたりになりそうです。さあて、これからいよいよ山に突入。そんなことを感じさせる一枚です。
12 木曽海道六拾九次之内 新町/広重
最初に述べたようにこの木曽海道六拾九次の揃い物は、渓斎英泉と歌川広重の二人の絵師によって描かれました。ここまでの絵は英泉の手によるものでしたが、この12番目の『新町』で初めて広重が登場します。また英泉の画題の冒頭が『木曾街道』『支蘓路ノ驛』などバラバラだったのに対し、広重はこのシリーズで描いたすべてを『木曽海道六拾九次之内』としています。木曽『街道』ではなく『海道』したとのは、広重と保永堂のコンビで出版された前作の『東海道』と共通のシリーズであることを強調するためでしょう。
本庄宿までは武蔵国でしたが、神流川を渡ると上野国になります。新しい国に入り絵師が変わった。そして版元も錦樹堂(伊勢屋利兵衛)となりました。そこに何か特別な意味があるのかどうか。
おっ、広重が木曽海道だってよ! こりゃあ買わねばいけねえや!!
新町宿は中山道で最も遅くできた宿場です。前図で英泉が描いたのは新町宿の東の入口に当たる神流川でした。広重が『木曽海道六拾九次之内』の第1作として描いたのは、やはり川です。英泉に対抗し同じ神流川を描いたということはまったく考えられないことではありませんが、宿の西の入口に当たる温井川(ぬくいがわ)を描いた可能性の方が高いと思います。すると描かれている橋は弁天橋で、現在はこの袂に弁財天が祀られています。
道行く人は大きな荷を担いでいます。この辺りは養蚕が盛んな地なので、橋を渡る人が背負うのは生糸かもしれません。手前から橋に向かう男が天秤棒に担いでいるのは麹が入った箱らしいです。
山はどうでしょうか。一番手前は富士山のような形をしていますが、大きさと場所から見て富士ではありません。形からすると浅間山のようにも思えますが、ここでは具体的な山というより概念的な山として扱っているような気がします。
P.S. 『木曽名所図会』に『左の方に赤木山見ゆる。富士峯に似たり』とあります。
こりゃあおめえ、いったいどこだい?
上野国の新町ってとこらしいぜ。
ほ〜、そうかい。そんじゃあこの川はなんて名だい。
そりゃ〜おめえ、宿の入口を流れる神流川にきまってらね。
神流川ってのはこの前英泉が描いたやつだろ。広重が同じとこ描くかね。
ん〜、そうだな。そんじゃあ宿の西の温井川じゃあねえかい。あそこには弁天さまがいて橋が架かってらね。
ほ〜、そうかい。そんじゃあ、この山は富士のお山かい?
いや、ちがうねぇ。あそっからじゃあ富士のお山はこうは見えねえぜ。
そんじゃあいったいなんてぇ山だい。
浅間山じゃあねえのかい。
い〜や、浅間山は方角が違うんじゃねえかい、こりゃあ赤城山じゃねえのかい。
ほ〜、赤城山ってのかい。そんならその向こうの山はなんだい?
榛名山ってのが近くにあるって聞いたがの〜 いやまてよ、日光に男体山ってでっかい山があるらしいぜ。
13 木曾街道 倉賀野宿 烏川之圖/英泉
絵師は再び英泉で版元は保永堂。場所は倉賀野を流れる烏川。川で釜を洗う茶屋の女とその側で遊ぶ子供たち、そして茶屋の中でそれを眺める客の女。この客の女は美人画でならした英泉らしい扱いですが、さて、どんな女なのでしょう。
高崎の一つ江戸寄りの宿である倉賀野は日光例幣使街道の追分であり、烏川と利根川との合流点付近に位置し、利根川流域最北端の倉賀野河岸があるところでもあったため、水陸交通の要衝でした。江戸から50里、上りには塩・茶・干鰯などが、下りには廻米・煙草・板材などが運ばれたそうです。川に浮かぶ舟は米を運び、筏は木材で組まれているように見えます。
手前の小川は宿を流れる五貫堀かもしれません。五貫堀は長野堰用水を分水しこの地域の水田を潤した用水路で、宿の中で中山道と交差していました。
山はどこでしょうか。川は舟の進行方向から見れば右手が上流なので、概ね南西を望んでいると考えられます。単純に考えれば方角的に最も可能性が高いのは奥多摩から秩父あたりの山ということになると思いますが、これは少し遠いかもしれません。もっと近くの山ということだと、ほぼ真西にある妙義山が候補になるかもしれませんが、描かれているのが実在する山とは限りません。
14 木曽海道六拾九次之内 高﨑/広重
広重の二枚目は高崎です。ここは中山道最長の宿でありながら本陣も脇本陣もなく、旅籠屋は15軒しかありませんでした。それは各大名が、徳川四天王の一人である井伊直政が構えた城下町を敬遠したためだそうです。
川は烏川でしょう。しかしよく見れば茶屋のうしろに碓氷川との合流点らしきところが見えます。
山は榛名山でまず間違いないところでしょう。すると川向こうの家々は高崎の宿場ではなく豊岡ということになりますが、本来右側にあるべき宿場を反転させて描いたのかもしれません。奥に見える橋が高崎宿を抜けた先の中山道です。
茶店でぼーっと榛名山を眺めつつ煙管をふかす男。街道には夫婦連れらしき旅人と金をせびっているらしい物乞い。そして扇子と手を広げてそこに駆け寄る男。当時の習慣についてはよくわかりませんが、貧しいものは裕福な旅人に物乞いをし、旅人は施しをするのが一般に行われていたのかもしれません。
ここまでの英泉と広重の絵を比べてみると、英泉の方は、どこを描いたものであるか、なぜそこが選ばれたのか、また何が描かれいるのを理解するのが少し難しく感じるのに対し、広重のそれはどちらも比較的平明に感じます。しかし広重は少なくともここまでの二枚については、英泉に少し画風を合わせているように感じます。まず色が英泉好みです。特に『新町』は。そしてこの絵の小屋の描き方など、英泉の前の絵にかなり近いのではないでしょうか。
15 木曾海道六拾九次之内 板鼻/英泉
絵は再び英泉に戻ります。しかし画題は『木曾海道六拾九次之内』から始まり、広重が採用したものと同じになります。版元は保永堂と錦樹堂の合版 。どうして絵師は二人だったのか、どうして版元は二つだったのか、どうして画題は・・・と良くわからないことが多いのですが、このあたりは想像するより他はありません。
高崎から一里三十町(7.2km)の板鼻宿。宿の入口を流れる小川に橋、そして家並みが描かれています。小川は大きさと場所から見て15kmに及ぶ農業用水路の板鼻堰でしょう。この宿は旅籠が少ない高崎宿の隣であったことと、西に中山道唯一の徒歩渡しとなる碓氷川を控えていたため利用する旅人が多く、上野七宿の中で旅篭が最も多いところでした。
本シリーズ初の雪景色です。東海道と違い、山の中が多かった木曽街道は雪も多かったに違いありません。雪景色でもここは本格的な山中ではなく松並木で、どこかおっとりした雰囲気があります。それは赤や黄、薄い緑色といった色使いによるところも大きいように感じます。
馬をさえながめる雪のあした哉 --松尾芭蕉
英泉はこの句をヒントに描いたと言われています。出色の一枚!
16 木曽海道六拾九次之内 案中/広重
暗い山の中なのか。それともちょっとした丘なのか。この版の色は暗く沈んでいますが、もっとずっと明るいもの、緑色が強いものなどの色違いの版が複数あります。これも人気の浮世絵の面白いところです。
いずれにせよ、そう開けたところではない坂道を大名行列が行きます。並ぶ家々は茅葺きか藁葺きで、これは宿場ではないところの集落か立場茶屋でしょう。堀晃明は松井田宿に近い郷原村の坂道に、この絵の雰囲気に近いところがあると述べています。
斜面の上に生えるのは梅の木でしょうか。その下に石碑が見えます。先の家の前に広げられているのはムシロのようで、農民が何かを天日干ししているように見えます。堀はこれは塩漬けにした梅だと。一番低いゾーンは描き方からするとおそらく田んぼでしょう。梅がほころび出す頃、国へ戻る大名行列でしょうか。参勤交代で春先に江戸を出立するは2月が多かったようです。
17 木曽海道六拾九次之内 松井田/広重
坂道を上り下りする馬。崖には小さな祠が見えます。小さな田んぼには稲叢。その先に小高い山。
松井田宿は信州の各地から集まる年貢米の中継地で、米市があり『米宿』と呼ばれて大いに栄えたところだったようです。田んぼと稲叢は豊かな米の実りを象徴しているのでしょう。米俵などを運ぶ馬が行き交います。松の木の根元には榜示杭、石標そして関札が立っており、ここが松井田宿の出入口であることを示しています。江戸からここまでは平らで、いよいよこれより本格的な上りというところです。
山は小高く見えますが、場所からするともっとずっと大きな妙義山である可能性が高いです。しかしあの荒々しい姿ではなくごく一般的な山として描かれています。あるいはもっとずっと先の碓氷峠を概念的に描いたものかもしれません。しかしこの山はなぜか後刷りでは消されています。
絵は松井田宿から少し江戸寄りの琵琶窪付近を描いたとする説と、松井田宿から坂本宿へ向かう途中の五料の丸山坂を描いたとする説がありますが、現在の様子が似ているのは後者で、祠が夜泣き地蔵だとすると、これは今日もそこにひっそりとあります。同箇所に叩けば音がするという茶釜石がありますがこれは元はもう少し南の坂下にあったものだそうです。
ところで、奥の米を運ぶ馬が坂道を上っているのはそちらが松井田であるからではないでしょうか。手前のもう一頭の馬は松井田で仕入れた品々を運んでいると考えられます。この絵は江戸から順に中山道を紹介する揃い物の一枚ですから、江戸側の入口を描いたと見るのが素直でしょう。堀晃明は左に琵琶窪、右に逢坂を描き、山は碓氷峠としています。
18 木曽海道六拾九次之内 坂本/英泉
中山道の最大の難所といえば碓氷峠でしょう。京からやってくるとその碓氷峠を越えたところに『入鉄砲出女』を取り締まった碓氷関所があります。坂本宿はこの2つの難所の間にあり、多くの旅人が泊まる盛況な宿場だったようです。
うしろは刎石山(はねいしやま)。あの山の向こうに碓氷峠があります。街道の両側に軒を並べる建物。堀晃明によれば、南側の家々は道に平行に建てると裏鬼門を向くので、少しずつ北へずらして建ててあったそうです。道の真ん中には幅4尺の水路が見えます。その両側を行き交う人々。水路は家庭用のものが家並みのうしろ側にも通っていたそうです。実際の刎石山はこの絵とは異なり通りの正面にあり、現在は水路はありません。
19 木曽海道六拾九次之内 輊井澤/広重
木曾道名所図絵によれば、坂本からは『これより上り坂ばかりなり』『寒きこと甚だしくて五穀生ぜず…』とあります。碓氷峠は坂本宿から13kmほどのところにあり、道中は険しい山道を登る難所でした。 峠の頂上には関東平野や富士山を見渡す絶景があります。その碓氷峠を越えて辿り着くのが軽井沢宿です。
木で半分隠れた浅間山、闇に包まれている宿場の家並み、馬に乗ってそこへ向かう旅人、たき火でたばこに火を付ける男、立ち上る煙・・・ 馬に付けられた小田原提灯の『いせ利』は版元の錦樹堂(伊勢屋利兵衛)のことです。堀晃明によれば私が浅間山かと思ったそれは、宿場のすぐ近くにある愛宕山であろうと。
日がすっかり暮れた頃、ようやく軽井沢宿が見えてきて一安心。そこにあったたき火にほっとして一服する図でしょうか。火打石でしか火が着けられなかった時代の旅人は、たき火を見たら一服、というのが日常であったと想像できます。広重はここでたき火や提灯の炎が当たる部分を明るく、その他の部分を暗く描いていますが、こうした描き分けは当時の日本では新しい手法だったと言えると思います。
20 木曾街道 沓掛ノ驛 平塚原雨中之景/英泉
沓掛(くつかけ)宿は浅間山の南東、現在の中軽井沢駅のすぐ北側にありました。右手の家並みが沓掛宿だと思われます。平塚原は浅間山の南の裾野にあり、周囲は原野だったそうです。川は湯川らしいので中軽井沢のすこし東でしょう。
浅間おろしの強い雨風の中、木の葉が舞う街道を行く旅人たちとずんぐりした牛。どちらも頭を下げて風雨に耐えています。この牛は中馬(ちゅうま)と呼ばれる信濃や甲斐の中部山岳地帯で発達した運輸手段です。公式の伝馬役は宿場ごとに馬を替えなければならなく不便だったので、農民が副業として己の馬牛を使い荷物を目的地まで運ぶようになり、やがてこれが専業化していったのです。牛の場合も中馬と呼ばれたようで、これは山道に強く、食料的にも馬より有利な点があったようです。
蕎麦の花 浅間の裾の 秋の雪 --古川柳
浅間山麓一帯は蕎麦の原産地で、信州そばはもう全国区ですね。
21 木曾街道 追分宿 淺間山眺望/英泉
追分と言えば信濃追分、それがここです。これは分かりやすい画題ですね。追分宿は標高1,000mで中山道中もっとも高地にある宿でした。追分の名はここが中山道と善光寺へ行く北国街道の分岐点だったことによります。追分から中山道を西へ向かうと荒涼とした追分原が広がります。浅間山は天明3年(1783年)にのちに天明の大噴火と呼ばれる噴火を起こしており、それから半世紀を経た英泉の時代でも、周囲に生える木はただ落葉松だけだったようです。
北に雄大に聳える浅間山の麓を旅人が行きます。脇差しの武士は人足に大きな荷を担がせ、馬子は大量の荷を背負わせた馬を牽いています。馬の尻掛けに見える丸に竹の字は版元の保永堂・竹内孫八のコマーシャルです。面白いことにと腹掛けの方はのちに参入した版元、錦樹堂の商標が描かれています。初摺りと見られるものは腹掛けも保永堂を示す竹内となっていますから、この摺りは後摺りということになるでしょう。
追分の分去れ(わかされ)には1679年(延宝七年)建立の道標や石灯籠などが立っています。現在は年に一度夏祭りとして『しなの追分馬子唄道中』が行われています。ちなみに『追分』とは、元は牛馬を左右に追い分けるという意味だそうです。
22 木曽海道六拾九次之内 小田井/広重
小田井は追分宿から次の岩村田宿まで距離があったために整備された宿場で、初期の人々は近隣から移住させられたそうです。そのため旅籠はわずか5軒しかなく、中山道中もっとも小さな宿と言えます。元々村がなかったところですから、その姿を想像するのはそう難くありません。小田井から次の岩村田へ向かうと『かないか原』という原っぱがあり、この絵はそこから浅間山を望んだもののようです。
ススキが生えるだけの原野の中に小川が一筋。これは自然の流れのように見えますが、実は小田井宿の用水だそうです。真ん中の木は赤い花を咲かせていますが何の木でしょうか。荒涼とした風景を和ませています。右手の人物は『本堂建立』の幟を持つ勧進僧、左手からやってくるのは二組の巡礼者で、それぞれの笠に『同行三人』とあります。これは己と同行者そして仏様という意味らしく、男たちはともに妻の弔い巡礼中らしいです。真ん中の女が持つ柄杓は他人から施しを受ける際に差し出すもの。
そうそう、隣の追分宿は飯盛女が大勢いて賑やかだったので、姫君など女たちは小田井宿に泊まることが多かったため、この宿は『姫の宿』とも呼ばれたそうです。
23 木曾道中 岩村田/英泉
英泉は副題を添えることが多いのですが、この絵にそれはなく、ただ『岩村田』とだけあります。岩村田がどこなのか知らない方もいるでしょう。今なら佐久と言った方が通りがいいかもしれません。当時は岩村田と言えば『あぁ〜』と言えるものがあったのでしょうか。仮にあったとしてもそれが何だかはわかりません。それにしてもこの絵は結滞です。どう見ても喧嘩です。それも盲人たちの。唯一わかるのは左手の親分らしき人物がいるところは一里塚らしいということですか。
岩村田は中山道と善光寺道、下仁田道、甲州街道が交差する地点にあり、交通の要衝として栄えたにもかかわらず、本陣も脇本陣もなく旅籠も8軒と少ない特異な宿場町でした。城下町であったため嫌われたという説もあるようですが、ここに城下町ができたのは幕末のようですからこれは当てはまらないでしょう。
交通の要衝であれば商業的には栄えたでしょうから、喧嘩も多かったに違いありません。しかしそれだけで喧嘩を主題にするでしょうか。描くものが何も見つからなかった、だから動きが面白い喧嘩の絵にした、ということはまあ、あるかもしれませんね。とにかくこの絵については残念ながら、まだ説得力ある説明がされたものを私は知りません。
24 木曽海道六拾九次之内 塩なた/広重
塩名田宿は暴れ川であった千曲川の東岸に作られた小さな宿場でした。小田井同様に初期の人々は近隣から移住させられています。中山道の各宿場の本陣はほとんどが一軒ですが、ここは千曲川を控えていたため二軒ありました。
橋は何度も架けられましたが洪水の度に流失し、船や徒歩で渡らざるをえなかったそうです。明治時代になって舟を繋いでその上に板を渡す『船橋』ができましたが、その船を繋ぎ止めるために使われたのが上部に穴を開けた大きな岩石で、これは『舟つなぎ石』を呼ばれています。
絵は千曲川の渡し場です。手前では仕事を終えて帰ってきたらしい船人足が三人、冷たい風をゴザや簡単な羽織もので凌いでいます。藁葺き茶屋には薬缶が吊るされ、その前で人足たちがくつろいでいます。ここでは広重は旅人ではなく、渡しを支える人足たちの生活を描いたということでしょうか。
25 木曽海道六拾九次之内 八幡/広重
八幡宿は塩名田宿から千曲川を渡り、僅か27町(約2.9km)の距離にありました。これは千曲川が川止めになったときの待機地として整備された宿だからでしょう。ここは旅籠は僅かに3軒しかありませんが脇本陣が4軒もある珍しい宿です。それだけやはり川止めが多かったということでしょう。
蛇籠が敷設され、土が流失しないようにたくさんの根杭が打たれた小さな川に架かる板橋を渡る人々。連続する竹藪の彼方に見えるのはおそらく浅間山でしょう。人々の日常をさりげなく描いた絵です。村名の元になった八幡神社は今でも宿場に入ったすぐ北側に立っています。
26 木曽海道六拾九次之内 望月/広重
望月は陰暦十五夜の月、つまり満月のことです。ここは古くから馬の産地だったそうで、地名の望月の由来は旧暦8月15日の満月の日に馬を朝廷や幕府に献上していたことからだそうです。つまりここの地名の望月は満月と深く関わりがあるのです。
立派な松並木が続く街道を旅人が行きます。松の木の枝の間から満月が旅人を照らしています。こうした松並木はこのあたりにはなく、隣の芦田宿のさらに西の『笠取峠の松並木』を借りてきたという説もありますが、広重はその松並木もいっぺんにここで描こうとしたのかもしれません。
27 木曽海道六拾九次之内 あし田/広重
松並木がある笠取峠は浅間山の南に位置する蓼科山の北の尾根の標高900mほどのところにあり、眺望の美しさで知られるところだったようです。この絵はその笠取峠を描いたもので、遠景に描かれている赤茶色の山が浅間山でしょう。松並木は峠の東側にあり、前図ですでに描かれているのでここには登場しません。峠付近の出茶屋では力餅を売っていたようで、この絵にも二軒の出茶屋が描かれています。
この絵には出てきませんが、芦田宿の本陣土屋家には寛政十二年(1800年)に建て替えられた客殿が残っています。
28 木曽海道六拾九次之内 長久保/広重
長久保の名は一般にはあまりなじみがないかもしれません。しかし江戸時代には大きな意味を持つところでした。それは中山道で最大の峠、和田峠の上り口であったからです。そしてもう一方は笠取峠への上り。信玄の棒道(武田信玄が信州攻略のために作った軍用道路)と北国脇街道の分岐点でもあったため、旅籠は信濃二十六宿の中では塩尻宿に次ぐ数を誇りました。
当初、宿は依田川沿いに設けられましたが大洪水により流失したため、寛永8年(1631年)に段丘上に移りました。広重が描いた時は宿が移転してすでに200年が過ぎています。本陣や問屋場を中心とする『堅町』がまず東西方向に形成され、後に宿場が賑わうと南北方向に『横町』ができたため、全体はL字型の街になったそうです。
絵は宿場ではなく依田川の落合橋で、手前の街道だけ月の光が当たっていて明るく、その他はシルエットで描かれ、幻想的かつ奥行きのあるものに仕上がっています。橋を行く旅人と農民、手前には犬と遊ぶ子供と馬子。馬の尻掛けの山に林の文字は版元の錦樹堂(伊勢屋利兵衛)のコマーシャル。このあたりは風が強い地域のようで家の屋根は板葺きの上に石が載せられています。
29 木曽海道六拾九次之内 和田/広重
さて、いよいよ中山道の最大の難所と言われた和田峠に向かいます。この峠は中山道の最高地点で標高は約1,600mありました。長久保宿からやってきた旅人は和田宿に荷を解き、翌日に標高差900mの和田峠を越えたことでしょう。反対側の下諏訪宿までは中山道中最長の5里18町(約22km)あり、峠からは急な山道を800mも下らなければなりませんでした。そのため和田宿は山間にありながら、長久保宿同様に比較的規模の大きい宿場町でした。
難所だっただけに峠には5箇所の休み所が設けられ、これらは、西餅屋(下諏訪宿側)、東餅屋(和田宿側)、接待(和田宿側)など、今日も地名としてその名を残しています。東餅屋には茶屋が5軒あり、名物の餅と茶を旅人に供していたそうです。
ここは冬季は降雪が多く3mにもなることがあるそうで、広重も雪景色を描いていますが、山は険しくも、どこかのんびりした雰囲気に仕立て上げています。堀晃明によれば遠景の白い山は御嶽山だそうです。
30 木曽海道六拾九次之内 下諏訪/広重
最大の難所である和田峠を無事に越え、ほっと一息というところでしょうか。下諏訪宿は諏訪大社下社の門前町で、中山道と甲州街道、そして伊那街道の分岐点でもあったことからたいへん賑わいのあるところでした。
旅籠の中で男たちが食事をしています。足付き膳の上には一汁二菜。奥の襖の模様は例によって山に林の文字で、これは版元の錦樹堂(伊勢屋利兵衛)の商標です。左奥ではゆっくり風呂に浸かる男。その上にある火の用心の貼紙はここで湯が湧かされたことを意味しています。下諏訪は中山道で唯一温泉がある宿場で、共同浴場に浸かることもできました。
さて、明日は塩尻峠に向かわねばなりません。
31 木曾街道 塩尻嶺 諏訪ノ湖水眺望/英泉
塩尻の名は日本海側と太平洋側の塩がこのあたりを終点として運ばれてきたことからとされます。
中山道は諏訪湖までは下り切らずに方向転換し塩尻峠に向かいます。峠道に入ったところで振り返るとこの絵のような景色が広がっていたのでしょう。下に凍てついた諏訪湖。左手に八ヶ岳、正面に富士山、右手は赤石山脈、お城は高島城で下の集落は岡谷。
凍結した諏訪湖は昼夜の温度差により氷が膨張し、轟音と共に氷が裂けて盛り上がることがあります。これは『御神渡(おみわたり)』と呼ばれるもので、諏訪大社の上社の男神が、下社の女神のもとに通ったためといわれています。
馬の腹掛けには版元の商標が見えます。この版は山に林で錦樹堂(伊勢屋利兵衛)を表していますが、保永堂(竹内孫八)版では竹の字になります。
32 木曽海道六拾九次之内 洗馬/広重
塩尻から奈良井川に沿って南西に向かうと洗馬宿(せばしゅく)です。ここは中山道と北国西街道(善光寺道)の分岐点で『信濃の分去れ』と呼ばれていたところで、現在も宿場の入口にその道標が立っています。
近くには今井四郎兼平が木曾義仲の馬を洗ってやったとされる『太田の清水』があり、これが洗馬の名の云われともされます。また、奈良井川のやや下流の琵琶橋は琵琶法師蝉丸が秘曲を会得したところと伝わります。
宿の西を流れる奈良井川を柴を積んだ舟と筏がゆっくり下っていきます。風があるようで枝垂柳と葦がざわついています。夕やけが残る空にまん丸のお月さま。
33 木曽海道六拾九次之内 本山之曙/広重
洗馬宿から奈良井川に沿って遡ると本山宿です。ここは開けていた松本盆地が狭まりいよいよ木曽路となる要衝で、本山口留番所が置かれたところでした。
南へ向かう街道の上り坂は宿の南で終わり、そこからは下りになるといいます。この絵はそこから宿を見返ったところだろうと堀晃明は言っています。台風で倒れたのだろう松の木にはつっかえ棒がされ、その向こうの大木は切り倒されています。木こりは仕事を終えたところのようで一服しています。子供たちは籠一杯に柴を集め帰るところのようです。宿場から坂道を上ってくるのは菅笠を被った旅人。
本山宿はそば切り発祥の地とされるところで、そのことが記されている『本朝文選』は宝永3年(1706年)に編纂されたものなので、それ以前はそばがきとして食されていたことが伺い知れます。面白いことにこの宿の家々の中には、今でも昔の屋号の表札を掲げているところがあります。
34 木曽海道六拾九次之内 贄川/広重
木曽路はいったん入ったが最後、行き着くところまで行くしか手がない道です。贄川宿は木曽路最初の宿場で、北の入口には関所があり、これは福島関所の補助的な役割を果たしていました。
旅籠の店先が描かれています。荷を積んだ馬はたった今着いたところでしょうか。帳面を持って立っているのは宿役人でしょう。旅人を乗せて来た駕籠屋は店先で一服しています。奥ではその駕篭から降りた客か、足を洗っています。二階では宿泊客が通りを眺めながら涼んでいます。
よく見れば店先の講中札には、『板元いせ利』、刀や摺と書かれたこの絵の彫師と摺師の名、そして白粉の仙女香(せんじょこう)の名が見えます。しっかりこの絵の出版スタッフの宣伝をし、おそらく白粉からは広告料をもらっているのでしょう。浮世絵は大衆紙のようなものでしたからね。 そうそう、木曽海道には通し番号が付いているのですが、この絵には見当たりません。よく見るといつもなら版元の紹介をする馬の尻掛けに『三十四』とあります。どうやらこれがこの絵の番号のようです。
35 岐阻街道 奈良井宿 名産店之圖/英泉
奈良井宿までやってきました。ここは現在、重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、かつての街並みが保存されているので訪れた方もいらっしゃるでしょう。奈良井宿は木曽路十一宿の江戸側から2番目で、十一宿の中では最も標高が高い(940m)ところにあります。難所の鳥居峠を控えており、多くの旅人で栄えた宿場は薮原宿や贄川宿の倍ほどの長さの八町五間(約870m)あり、『奈良井千軒』といわれたそうです。産業的には白木細工(木曽といえば檜)が有名だったようで、曲物作りが盛んでした。
さてこの絵ですが、店先に『名産 お六櫛』とあります。これは、持病の頭痛に悩まされていた娘のお六が御嶽山に詣で願をかけ、お告げに従ってミネバリの木で作った櫛を使い髪を梳いたところ病が全快したため、ミネバリで作った櫛を売ると、木曽路の名産『お六櫛』として知られるようになったというものです。
この話の内容からしても先に見える山は御嶽山でしょう。しかし御嶽山は奈良井宿の中からは見えず、鳥居峠まで行かないと姿を見せません。奈良井宿から鳥居峠に向かう途中には茶屋が何軒かあり、そこから振り返ると奈良井宿が良く見えます。御嶽山は古くから霊峰として崇められた山で、木曽の象徴でした。またお六櫛の名も全国区になって、木曽といえば御嶽山にお六櫛、といったところだったのでしょう。英泉は茶屋のうちの一軒をお六櫛を売る店に仕立て、峠からの眺望である御嶽山も引き寄せて描いたと考えて良いと思います。
36 木曽街道 藪原 鳥居峠硯ノ清水/英泉
奈良井宿と次の藪原宿の間にあった鳥居峠の標高は約1,200m。その東を北に向かって流れる奈良井川と西側を南に向かって流れる木曽川の分水嶺を成し、かつては美濃国と信濃国の境でした。木曾義元が松本の小笠原と戦った時、ここから御嶽山を拝して戦勝を祈願し、これに勝った折に鳥居を建立して以来、鳥居峠と呼ばれるようになったとされます。
鳥居峠に着いて一服の図でしょうか。山は御嶽山で間違いないでしょう。左に見えるのは芭蕉の句碑で、『雲雀より 上にやすろう峠かな はせを』とあるそうです。その下、松の木の根元に見えるのが副題になっている『硯ノ清水』で、木曾義仲が平家打倒のため旗揚げして北国へ攻め上がる際、戦勝祈願の願書をしたためるためにこの水で硯をすったと伝えられます。
峠では男が二人寛ぎ、一人は煙草に火を着けようとしています。うしろの女たちは柴刈りに来たようですが、美人画で鳴らした英泉らしく、このあたりの女とは思えない風情に描いているのがちょっと面白いです。
この先はこの峠道は現在はハイキングコースとして整備され、歩けるようになっています。
37 木曾海道六十九次之内 宮ノ越/広重
鳥居峠から藪原宿に下ると、以降はしばらく穏やかな下りになり、街道の横を流れるのはこれまでの奈良井川から木曽川に変わります。宮ノ越宿は木曾義仲が生まれ育ち、平家討伐のための旗揚げをした地とされます。
宮ノ越宿の北側の入口付近の木曽川には『引塚大橋』(おそらく現在の青木橋)が架かっていました。この絵はその橋を渡り宿場へ向かう家族が描かれているようです。向こうにうっすらと見える菅笠を被った旅人が行くところが街道でしょう。家族には持物がほとんど見当たらないので地の人々でしょう。夜逃げの一家と見る説もありますが、堀晃明は祭り見物の帰りとし、うしろを行く娘がぶら下げているのは弁当としています。その祭りとは『だっぽう』で、これは現在の『らっぽしょ』に受け継がれ、8月14日に子供達が山吹山に登り、そこから松明を持って山を下り、徳音寺の義仲の墓にお参りをするものとなっているそうです。
霧か靄が出ているようです。旧暦の8月14日はほぼ満月です。背景は輪郭線をまったく使わないで表現されていて、それが独特の風情を絵に与えています。現代的な表現とも言えるでしょうか。摺師の技量によるところも大きい作品だと思います。
38 木曽海道六拾九次之内 福し満/広重
御嶽山と木曽駒ヶ岳に挟まれたところと言うとイメージしやすいでしょうか。福島宿は中山道のほぼ中間地点であり、江戸幕府の直轄領でした。東海道の箱根と荒井(新居)、そして中山道の碓氷と共に四大関所の一つに数えられる福島関所が設けられ、『入鉄砲に出女』を厳しく取り締まっていました。比較的規模の大きい宿場として多くの旅人で賑わい、また陣屋町としても繁栄したようです。
絵はずばりその関所です。関所は宿の北の端、江戸側の入口から急な坂道を上った先にありました。その西側は木曽川で、建物の背後には関山が迫る天然の要害だったようです。江戸川の東門、京側の西門とも冠木門で、建物の周囲には柵が巡らされています。検問を受けて出てくる人々、入っていく人々、そして土下座して検問を受ける人々が描かれています。面白いことに関所の幔幕はおなじみの山に林で、これは錦樹堂(伊勢屋利兵衛)のマーク。江戸幕府からクレームが付かないか心配ですね。
39 木曽海道六拾九次之内 上ヶ枩/広重
木曽川に沿って下ると上松(あげまつ)宿です。ここは檜の集散地として栄えてきた宿場町だそうです。近くには木曽八景で今昔物語集にも書かれた『木曽の桟(かけはし)』や現在は国の名勝に指定されている『寝覚の床』がありますが、広重は『小野の滝』を選びました。
木曾道名所図絵によればこの滝の高さは三丈(9m)ほどで、『巌をつたひ只(ただ)布をさらせるが如く落ちる』とあります。大田南畝によれば、滝の左にある茶屋では蕎麦切りを出していたようです。そして堀晃明は、岩のてっぺんに見える小さな祠には不動尊が祀ってあると言っています。
大量の柴を担いで土橋を渡って行くのは村人でしょう。そこへやってきた旅人は滝を指差し興味深そうに眺めています。観光名所も人により示す反応が違いますね。
ちなみにこの滝は北斎も『諸国滝めぐり 木曾海道小野ノ瀑布』で描いています。
40 木曽海道六拾九次之内 須原/広重
上松宿から須原宿までは3里9町(約12.8km)で、木曽路の中では一番長い宿間でした。ここにある定勝寺は木曽町の興禅寺、長福寺とともに木曽三大寺の一つとされ、山門、本堂、庫裏が国の重要文化財に指定されています。日本最古の蕎麦切りに関する文書(天正2年/1574年の改修工事竣工祝いの寄進一覧)が発見されています。
須原宿のはじまりは戦国時代ですが、洪水の被害により享保2年(1717年)に現在地へ移転しています。中山道の中では最も新しく整備された宿駅で、計画的な宿作りが行われました。その特徴は道にあり、幅は5間と広く、宿の入口は鍵型で、宿内で『く』の字に曲がります。道沿いに用水路があり水場(丸太をくりぬいた水船)が設けられています。
絵の建物は堀晃明によれば、鹿島大明神を勧進して建てられたと伝えられ、須原宿の鎮守となっていた鹿島祠だそう。一方、浮世絵大系(解説:菊池貞夫)では、神津さま(愛知県神津市神津神社)の御堂であろうか、としています。
突然の雨に慌てて駆け込む人々。山駕篭をたたんで走ってくる駕篭かき二人。風呂敷を背負い杖を持つ旅人は息を切らせてへたり込んだのでしょう。矢立から筆を取り出して柱になにやら書き付ける巡礼者。六部笠の六十六部はなにやら祈りをはじめたよう。深網笠の虚無僧は諦めたのか腰を下ろし足組みしています。
遠くではむしろを頭から被り馬で行く旅人とそれを追う馬子がシルエットで描かれています。雨の情景は広重の専売特許のようなもの。
41 木曾路驛 野尻 伊奈川橋遠景/英泉
野尻宿は檜の産地として栄え、奈良井宿に次ぐ長さを誇り、外敵を防ぐために所々狭く曲がりくねった街並みが特徴で、これは『七曲り』と呼ばれました。
須原宿から野尻宿へ向かうとほどなく橋場(はしば)という集落で、伊奈川が流れています。絵は橋場の南に架かる伊奈川橋です。木曾路名所図絵によれはこの伊奈川は『水流奔騰して其声雷霆の如し。大雨の時、水漲りて恐るべし』とあります。それ故この橋に橋脚は建てられずに反り橋となったようです。その長さは16間(約29m)あったそうです。
ほとばしるように流れる川はまるで滝のようで、その上に大きく競り上がった橋が架けられています。なかなか迫力のある絵です。私はこの絵は木曽海道を描いた英泉の絵の中でも秀でたものの一枚だと思います。英泉は画業の始めに狩野派に学んだこともあってか、筆が多く、やや説明的になることが多いように思いますが、この絵では狩野派の押出しの強さが生きているし、いつもの筆の多さも少し押さえられているように思います。
この橋を渡るのは勇気が入りそうです。そこを旅人が行き来しています。堀晃明によれば橋の向こう側の集落が橋場で、集落の上には急な階段があり、その上に岩出観音堂が立っているのが見えます。この観音堂には畑から偶然見つかった憤怒の相をした馬頭観音が祀られ、特に馬持ちたちの信仰を集めていたそうです。
この写真の絵は後刷りでしょう。初刷りと考えられる版は、橋の向こうに山がさらに遠景として描かれ、鳥が群れを成して飛んでいます。『英泉画』の落款がない版もありますが、これは版元が替わり、何らかの事情で取り去られたと考えられています。
42 木曽海道六拾九次之内 三渡野/広重
『三留野』は画題にあるように『三渡野』とも書くようです。貝原益軒は『木曽路の記』で、木曽路はどこも山中で、特に三留野より野尻までの間はもっとも危ない、と言い、また大田南畝は『見戸野の駅舎わびしきところなり』と言っているそうです。三留野は中山道で最も深いこのあたりでも、特別なところだったようです。
そんな寂しい三留野も『木曽巡礼記』によれば田畑が多かったようで、広重はそうした風景をここでは描いています。草むしりに勤しむ農夫。一休みが終わったところなのか、子供の手を取り、岡持を頭に載せて薬缶を持って帰るその女房らしき女。旅人は一服しながら農夫の作業を眺めています。
向こうの丘の上には梅だか桃だかの花が咲き、もっとも古い形がという神明鳥居が2つ並んで立っています。左奥に見える家並みが三留野宿でしょう。街道はどこにも描かれていないようにも見えますが、手前の畑と向こう側の丘の間にそれは通っているはずです。
43 木曽海道六拾九次之内 妻籠/広重
妻籠宿は中山道と伊那路の追分に位置する交通の要衝で、福島関ができるまで口留番所が置かれたところでした。明治時代に入ると宿場としての機能を失い衰退の一途をたどりましたが、街並保存運動が起こり、現在は重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。これは白川郷や京都の祇園などとともに昭和51年(1976年)に初めて指定されたもののうちの一つでした。
この絵はなかなかに難しいです。まず画題がなければどこを描いたものなのかを想像することは困難です。場所はどうやら山奥らしいということと、描かれている通行人の姿から道は街道筋であるらしいことがわかる程度です。描かれている山にもこれといった特徴はありません。つまりこの絵はどこにでもありそうな山の中を描いたものといえるのかもしれません。
それでももう少し探ってみると、道は右上から下って左下へ延びているようです。ここに限ってみれば峠道のように見えます。三留野から妻籠へ向かう現在の国道はまず木曽川縁を行き、蘭川が合流するとそこから蘭川沿いを行きますが、中山道は川岸ではなくもう少し東側の山の中を進んでいました。そこには元和2年(1616年)の一国一城令により廃城になった妻籠城の跡があったはずです。この城跡は標高520mほどの位置にあり、妻籠宿が見下ろせました。
堀晃明は左手が木曽川の谷と仮定し、これはお城の天然の空堀となり、向こう側が三留野、右手の緑色と黄色の山の稜線に沿って土塁が築かれ、土地の人々はこれを、城を守るためのものであったとも、鹿や猪が畑へ入るのを防ぐ鹿垣であったともいう、と言っています。
時々見掛ける人なので解説しておくと、画中の白装束に笠を被り大きな荷物を背負っている人は六十六部(単に六部とも言う)という行脚僧で、中世には法華経を66回書写し、全国の66か所の霊場に一部ずつ納めて歩いていました。江戸時代には僧侶の他に、仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らして、米銭を請い歩くものも多く現れたそうです。絵中の人物はおそらく後者でしょう。
44 木曾街道 馬籠驛 峠ヨリ遠望之圖/英泉
馬籠宿は木曽路十一宿の一番南の宿場です。島崎藤村の生誕地で『夜明け前』の舞台として知られます。今日は石畳が続く坂道の両側に風情のある建物が続き、妻籠宿とともに人気の観光地になっています。
さて、画題から見ればこの絵は峠から馬籠宿を見下ろしたものでしょう。峠は妻籠宿と馬籠宿の間にあった馬籠峠と考えるのが素直な解釈だと思います。ところが堀晃明によれば、この峠から馬籠宿は見えないので集落は峠村となるといい、また左に描かれている滝は峠より妻籠宿側にあった男滝と女滝だそう。
英泉は周辺の名所旧跡などを集めて一枚の画面に再構成することが多いので、集落はずっと下がったところから見える馬籠宿と考えても良いと私は思います。それよりこの絵を見て、おやっ、と思うのは絵そのものではなく前の広重が描いた『妻籠』との類似性です。絵を左右反転して見ると、遠景の山、二箇所に分けて描かれた街道、手前に急な角度で立ち上がる山と、かなり共通点があるように思えます。また色使いも全体として見ればほとんど同じでしょう。絵を描いたのは英泉が先と考えられますが、順番からすれば二枚が並ぶことは容易に想像できたわけで、広重が先輩である英泉に敬意を評し、似たような構図としたのでしょうか。
45 木曽海道六拾九次之内 落合/広重
信濃が終わりこれより美濃国で、美濃十六宿が始まります。その最初が落合宿です。落合は南東に位置する恵那山から流れ出る2つの川がここで落ち合ったことより名付けられたものだそうです。
馬籠宿を出て南西に向かうと今日は島崎藤村筆の『是より北 木曽路』の碑が立っています。これを過ぎると石畳の美濃路で十曲峠です。坂道を下って行くと落合川でそこに落合橋が架かっています。これを渡ると道は上りとなり、その先に落合宿があります。
宿の上に描かれた山は実際は反対の手前側にある恵那山で、やってくるのはこの先の難所の山道を覚悟して早立ちした大名行列だと堀晃明は述べています。
46 木曾海道六拾九次之内 中津川/広重
中津川宿は三と八の付く日に六斎市が開かれた東濃地方随一の商業の町で、今日でも卯建(うだつ)を上げた家や枡形が残ります。 堀晃明は前の落合宿の解説で、旅人達は、急な坂道を下り、前面の開けた平地の中に宿を見つけると、まるで我が家に帰った気分になった、と言っているのですが、かつて私はこれを中津川宿に感じました。
2枚ある中津川のうちこれは雨の景色を描いたもので、現存数が極めて少ないものだそうです。版元は錦樹堂で、こちらが初刷りと言われています。広重が描いた雨の情景は少ないためか、この絵を名作とあげる方もいますが、さてどうでしょう。写真からは判読できないと思いますが、この雨は胡粉を混ぜて表現されており、確かに、おっ、と思わせるものはありますが。
描かれているのは街道、中津川の宿場、池(このあたりには溜池が多かった)、そして恵那山でしょう。雨合羽を着た武士が三人描かれています。前の二人は竹馬(竹で作った四本足の駕篭)を背負い、うしろの一人は長い槍を持っています。合羽も竹馬の覆いも桐油紙(とうゆがみ:桐油を塗った和紙)でできていました。
真ん中に松の木。この木で画面は二分割されています。これは2つの異なる世界を描く際に広重がよく使う手です。堀晃明はこれに似た場所を求めるとすれば宿場外れとなると言っていますが、宿場とそこから離れた場所にある溜池を松の木を挟んでくっつけたのでしょう。2つの空間を繋ぐのが手前の三人の武士ということです。
46 木曾海道六拾九次之内 中津川/広重
もう一枚の中津川は快晴です。中津川に架かる土橋を畚(もっこ)を天秤を担いで渡る農民。向こうからは長持を担いだ人足二人がやってきます。石積みの護岸に柳の木。彼方に見えるのが中津川宿でしょう。
47 木曽海道六拾九次之内 大井/広重
それまで峠道だった木曽街道は中津川まで下ると穏やかになり、小高い丘をいくつも横切って進む道となり、大井宿へ向かいます。起伏は多いものの空が広く展望が良い道となり、恵那山や御嶽山を眺めながら歩けるようになります。尾州白木改番所、茶屋本陣を過ぎると甚平坂で、これは距離は短いものの急な坂道でした。この甚平坂を越えると大井宿です。
大井宿は5町に別れており、それぞれの町は6ヶ所の枡形によって区切られていました。ここからは名古屋へ向かう下街道(したかいどう)を行く旅人も多く、槙ヶ根追分付近は立場となっており、茶屋がたくさんあったそうです。交通の要衝であったことから、美濃十六宿の中でも大いに繁盛した宿場だそうです。
大井宿を出ると再び上りとなり、大湫( おおくて)宿までの間には十三峠と呼ばれる難所が続きます。ここには『西行塚』『槙ケ根の一里塚』『祝峠』『みだれ坂』『紅坂の一里塚』『ぼたん岩』『深萱立場』『権現山の一里塚』『尻冷やし地蔵』などがありました。
雪だるまが三つ。当地大井にある中山道広重美術館によると、この絵は中津川宿から大井宿に至る途中の甚平坂付近を描いたものと考えられるが、宿場の西側、西行坂を上り十三峠へと続く道中を描いたという説もあるとのこと。右の松越しに見えているのは恵那山、左は木曽山系の山々で、背景は鼠色の潰しに墨色のぼかしを施し、静寂の銀世界を描き出している、と。堀晃明は馬はおそらく体格が矮小だが強健な四肢を持つ木曽駒で、一番奥に見える白い頭の山は御嶽山としています。
48
木曽海道六拾九次之内 大久手/広重
十三峠を上り切った先にある大湫宿は美濃十六宿の中で最も高地にあり、周辺には急坂が多く、旅人や人馬役から難所と見なされていたそうです。十三峠西端の寺坂を下りた北町には枡形があり、6間半で平均な地割の家々が並んでいました。西には琵琶峠を控えていたため、小さい宿ながら旅籠は30軒ほどあり、賑わったようです。ここは現在もかつての宿場の面影を色濃く残していると言います。
大久手から細久手へ向かうと右側によく似た2つの巨岩が並んでいたそうです。これらは『ほろ岩』と『ゑぼし岩』あるいは母衣石(ほろいし)、烏帽子石(えぼしいし)というものだそうです。母衣石の幅は烏帽子石のそれの倍あったといい、堀晃明はここで描かれているのは母衣石だろうと言っています。
大湫宿側から坂道を農民夫婦らしきものたちが大量の柴を背負子で運んで上って来ます。この先は岩石が多い上り下りが続き琵琶峠に至ります。琵琶峠からは木曽の御嶽山、北に加賀の白山、西に伊吹山、南に伊勢湾を望むことができたそうです。
49 木曽海道六拾九次之内 細久手/広重
細久手宿は大湫宿と御嶽宿間が長く、途中に琵琶峠や謡坂など難所があったため慶長15年(1610年)に新設されたものだそうです。枡形は作られず、東から西に下る弓形の細い坂道が続く宿でした。
絵は宿の東の高台から宿の入口を眺めたものでしょう。大きな二本の松の木にゲートの役割を持たせているようです。宿に向かう武士と宿から出てくる旅人。その横は農民で、一人は背負子を付けて山に柴刈りにでも行くのでしょう。向かい合う二人は鎌を持っています。堀晃明によれば、このあたりは広い田畑に恵まれなかったため、楮の栽培をしており、この二人はそれを刈りに出かけるところだろうと。
ちなみに久手とは濃尾地方では山に囲まれた盆地を表すそうです。
50 木曽海道六拾九次之内 御嶽/広重
山は御嶽山(おんたけさん)ですが宿場の名は御嶽宿ÅiÇ›ÇΩÇØÇ∂Ç„Ç≠Åjです。地図を見るとよくわかりますが、ここまで来ると一気に世界が変わります。山を抜けて平坦になり、名古屋鉄道の終着駅があるのです。ここまでにも中津川や恵那といったいくらか開けたところはあったものの、それらはやはり山の中に一時的に開けただけのところでした。しかし御嵩には長い山岳区間を抜け出たところというイメージがあります。
絵はいくらか傾斜地でまだ山中を思わせる景色なので、堀晃明は宿の東の謡坂村にあった十本木の立場の夕暮れ風景を描いたものだろうと言っています。ここには茶屋が数軒あったようで、そのうちの一軒を木賃宿に仕立てたのだろうと。木賃宿は『もくちんやど』ではなく障子に描かれているように『きちんやど』と読みます。これは安宿で、泊り客は自炊し、燃料代だけ払うしくみでした。
小川では老婆が米を研ぎ、右には水桶を天秤に担ぐ女の姿。宿の軒先には『御嶽山』と書かれた柱行灯。御嶽山は古くから霊山とされ、御嶽講が盛んだったようです。
51 木曽海道六拾九次之内 伏見/広重
京都の伏見ではありません。ここはまだ美濃国です。伏見宿は木曽川の下流にあった土田(どた)宿が廃宿となり、代わりに元禄7年(1694年)に新設された宿場です。これは木曽川の流れが変わり、渡し場の位置が上流に移動したためだそうです。
今渡(いまわたり)の渡し場は、木曽のかけはし 太田の渡し うすい峠がなくばよい
と馬子唄にも唄われた中仙道の三大難所の一つでした。この渡しは昭和2年(1927年)に太田橋が完成するまで存在しました。
広重はこの渡し場ではなく杉の大木を描いています。木曾路名所図絵によれば、このあたりには東海道のような松並木があったそうです。しかし杉が有名だったのは木曽街道ではなく、伏見宿から名古屋に向かう犬山街道沿いの『伏見大杉(中恵戸大杉)』だったようで、堀晃明はこれを持ってきたのだろうと。同氏によれば人物は左から、日傘をさし薬箱を背負って来る田舎医者、昼寝をしているのは修行者のようで、台傘と長柄傘を持つのは大名行列から離れた中間(ちゅうげん)。右端の三人は瞽女で、御嶽宿の願興寺(がんごうじ=蟹薬師)では瞽女に屋敷を与え保護しており、そこから地方の村落へ遊歴に向かうところだと。
52 木曽海道六拾九次之内 太田/広重
太田宿は飛騨街道と郡上街道の分岐点に当たり、多くの旅人で賑わったところだそうです。尾張藩の太田代官所や川並番所が設置されたところでもありました。その東、現在の太田橋の下流には中山道三大難所の一つといわれた『太田の渡し』がありました。絵はこの渡し場を描いたものでしょう。太田の渡しは太田側の呼び名で今渡側(伏見側)は今渡の渡しと言いました。
難所とは思えないのどかな景色です。巡礼姿の夫婦と旅人数名が渡し舟の到着を待っています。堀晃明によれば、川に浮かんでいる筏は檜などの木材を尾張の熱田湊まで運んでいるところで、渡し舟の舳先は押し流されないように上流を向いているとのこと。とすれば手前が今渡側で対岸が太田側ということになります。
現在、このあたりから愛知県犬山市までの木曽川は日本ラインの愛称で呼ばれているそうです。
53 木曾街道 鵜沼ノ驛 従犬山遠望/英泉
鵜沼宿から南2kmほどの木曽川対岸に犬山城があります。英泉はこれを描きました。川向こうの山の裾に見えるのが鵜沼宿。
鵜沼宿はこの絵のとおり、小高い山と木曽川の間の平地に築かれた細長い宿場町で、その南端には犬山とを繋ぐ『鵜沼の渡し』がありました。絵の左手に小さく描かれている舟がその渡しでしょう。城は織田信長の叔父の信康によって築かれました。木曽川を臨んで断崖状となっており、大手門の前には濠があり橋を渡らなければなりませんでした。
この城は日本に現存する最古のそれとされ、国宝に指定されています。
54 木曽海道六拾九次之内 加納/広重
鵜沼宿から次の加納宿までは約18kmあります。平地になったとはいえ、この距離はちょっとしたものです。加納宿は美濃十一宿の中でもっとも大きな宿場町でした。永井肥前守の城下町で、岐阜から名古屋へ向かう中継地だったようです。
奥に見える城が加納城で、大名行列が通る道が木曽街道。とすると城を北東から望んでいることになり、大名行列は西から東に向かい、宿場は絵の右方向にあることになります。ここに来て山影が一つも見えません。実際、このあたりはほぼ完全に平地で、南西方向の山は30km近く離れています。
大名行列の先頭はあの『下にぃ、下にぃ』とやる露払いですが、すでに画面の外に出てしまったようです。ちなみに『下にぃ、下にぃ』とやるのは宿場付近のみで、露払いは大名の家臣ではなく、宿で雇った宿人足だそうです。この露払いから100mほど遅れて大名行列がやって来るそうなので、この絵で露払いが描かれていないのは当然なのです。そのあとには様々な役目の人が続きますが、絵の先頭は先箱(一対になっているので対箱ともいう)を持つ中間(ちゅうげん)で、箱の中には殿様の着替えなどが入っているそうです。続くは大名行列の花形の毛槍。右端に見える駕篭に殿様が乗っているはずです。こんな格好で一日平均40kmも歩いたそうですから、大変ですね。
55 岐阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼舩/英泉
河渡宿(ごうどじゅく)は全長は三町(約330m)の小さな宿でしたが、近くを長良川が流れ、米や木材などの輸送が多く、川留のたびに逗留客があって繁盛したようです。長良川を渡るのは1881年(明治14年)に河渡橋が架けられるまで『河渡の渡し』でした。
英泉は長良川で行われている伝統漁である鵜飼を描きました。鵜飼は月の出ない夜に、船首に取付けた舟篝(ふなかがり)で松明を灯し、川上から川下へ舟を流しながら行われたそうです。身体に縄を絡めた鵜を操り、篝火で照らされた水中を泳がせて、鵜が鮎を呑み込んだ頃合いを見計らって舟上に引き上げ、鮎を吐き出させるという漁です。鵜の首は大きな鮎が通らないように縄で締められているそうです。ちょっと気の毒な鵜ですね。川の向こうに見える山は長良川の源流の稲葉山でしょう。
おもしろうて やがてかなしき 鵜飼かな --芭蕉--
56 木曽海道六拾九次之内 みゑじ/広重
美江寺(みえじ)ってちょっと洒落た名だと思いませんか。これはWikipediaによれば『「美しき長江のごとくあれ」と祈念されて美江寺という寺院が建てられた事に始まる。』そうです。補足すれば「あれ」と祈念されたのはそれまで氾濫を続けていた木曽川でした。美江寺は十一面観音を本尊として719年(養老3年)に創建されたそうですから奈良時代の始めごろからあったことになります。
広重は美江寺の街はずれの夕暮れ時の風景を描いたようです。川は長良川の支流の犀川(さいがわ)と見られています。遠景に屋根だけ描かれているのが美江寺宿でしょう。堀晃明によればこのあたりは集落を川の氾濫から守るため、その周囲を堤防で囲んでいたといい、それを輪中(わじゅう)と呼んだそうです。右の近景は竹藪で、その前には地元の農夫、旅の老僧、旅商人が描かれています。
このあたりは海から50kmほど離れていますが海抜はたった10mほどしかなく、とても平坦で、ちょっとした雨で絵のように川が増水したようです。
57 木曽海道六拾九次之内 赤坂/広重
赤坂宿という名は東海道にもあったので少々紛らわしいですが、この赤坂は中山道のそれで、美濃国、現在の岐阜県にありました。
川は杭瀬川(くいぜがわ)。奥に見えるのが赤坂宿なのでしょう。宿場の建物の屋根は描き方と色合いからして茅葺きのようです。江戸や京は別として、主要な街道の宿場町といえどごく普通の宿や茶店は瓦葺きではなく、茅葺きだったのでしょう。これはこれまで見てきた絵からも分かりますね。
ついさっきまで雨が降っていたのか、土橋を渡る男は合羽姿で、手ぬぐいを姉さんかぶりにした女は傘を半分閉じて、着物の裾をまくり上げています。川は浅瀬のように見えますが、堀晃明によれば実際はもっと深く、赤坂河岸があって舟がずらりと並んでいたはずだと。そしてここから桑名まで諸藩の蔵米、特産の木材、茶、酒などが運ばれていったと続けています。
58 木曽海道六拾九次之内 垂井/広重
垂井は中山道と熱田神宮に通じる重要な道である美濃路の追分で、さらに美濃国の総鎮守にして全国の金属を司る南宮大社があり、かなり賑わっていたようです。宿の中ほどに南宮大社の大鳥居が立っているそうです。垂井の名は欅の巨木の下に清水が湧いており、これから付けられたとも言われています。
雨の景。大きな松並木の間からやってくるのは大名行列で、ちょうど松林が切れたところにある見附を過ぎたところ。傘を片手に羽織袴姿でやってきたのはその大名行列を出迎えにきた宿の役人。行列の先頭は露払いの二人で、時代物のテレビでよく見るように『下にぃ、下にぃ』と唱えているはず。
街道の両側では土下座して行列が通過するのを待つ人々が描かれています。茶屋の中の壁に掛かっているのは美人画や風景画の浮世絵で、左の店先の前に見える山の下に林のマークはこの絵の版元の錦樹堂の商標。
59 木曽海道六拾九次之内 関ヶ原/広重
関ヶ原にやってきました。日本人でこの名を知らない方はまずいないでしょう。壬申の乱やあの徳川の東軍と豊臣の西軍が戦った関ヶ原の戦いの舞台となったところです。地理的には開けた濃尾平野が垂井で終わり、山間を西へ少し進んだ所に開けた狭い盆地の中にあります。古代3関の1つである美濃の不破関があったことから関ヶ原と名付けられたようです。宿の中で北国街道と伊勢街道が分岐し、昔も今も交通の要所だそうです。
さて、広重の絵ですが、これはいったいどこを描いたものでしょう。宿内であればもっと蜜に建物が立ち並んでいるはずですから、その端っこあたりでしょうか。この北側には古戦場があるわけですが、それを思わせるものはどうも描かれていないようです。
手前の茶屋には『名ぶつさとうもち』、『そばきり うんどん』とありその上に『三五』とあります。そばきりは蕎麦、うんどんは饂飩ですが、『三五』は何でしょう。広重はこの木曽海道六拾九次を『新町』から描き出しましたが、この絵はそれから35番目だそうで、また前作の東海道53次の数をひっくり返したもので、縁起担ぎという説があるようです。ともあれその店先で、今やっと宿場に辿り着いたところなのか、茶を飲んで一服する旅人です。向こうで今まさに箸をつけようとしているものが『さとうもち』でしょうか。これはどうやら『ぼたもち』のことのようです。
60 曽海道六拾九次之内 今須/広重
今須宿は中山道美濃十六宿の最西端の宿場です。妙応寺の門前町として、また商業地としても賑わったようですが、明治以降は鉄道の駅がなかったためひっそりとした里になっていったようです。
『江濃両国境』の傍字棒にあるように、ここは近江と美濃との国境で、そこには幅50cmほどの溝があったそうです。絵は手前側が近江側で向こう側が美濃側。それぞれの旅籠は近江屋と両国屋で、壁に見える『仙女香坂本氏』は白粉(おしろい)の宣伝で、坂本氏は江戸は京橋南伝馬町三丁目の稲荷新町にあり、当時としてはかなり広範囲に宣伝をしていました。『不破之関屋』は関ヶ原の西にあった不破関を指しているようです。
『寝物語由来』は、50cmしか離れていない隣国どうしのものが家の壁越しに寝ながら物語を語れたということが由来で、この地を『寝物語の里』とも呼ぶようになったことを指すのでしょう。 またここには奥州に落ちのびた源義経にまつわる次のような伝説があります。義経を慕ってこれを追う家臣の江田源蔵広綱がここで美濃側の宿に泊まり、同じく義経を追う静御前は近江側の宿に泊まりました。静御前は源蔵の声に気づき、寝ながら壁越しに国境を隔てて奥州に連れて行ってくれるように懇願したというもの。
61 木曽海道六拾九次之内 柏原/広重
柏原(かしわばら)宿は太平記にも記載されている中世以来の宿場でした。伊吹山の麓、東西13町(約1.5km)におよび、344軒の家がありました。ここの名産は伊吹もぐさで、最盛時には10軒以上のもぐさ屋があったそうです。
広重が描いたのはその伊吹もぐさを売る亀屋佐京商店の店頭で、驚くことにこの店は今も当時の風情をそのままに伝えています。店先ではもぐさを買いに来た客を待っているのか駕籠舁きが二組ひかえていてます。ここで面白いものを発見。店の奥の右端に見えるのは福助人形ではないですか。調べてみると福助人形の起源には諸説あるものの、この店がその発祥ともされているようです。この亀屋には福助という正直一途の番頭がおり、その方が福助のモデルらしいです。
店は二つに分かれており、右側が一般的な店で伊吹山をかたどった置物が置かれています。まさかり担いだ金太郎の人形が置かれた左側は茶店になっているらしく縁台が並べられ、茶菓子や酒肴などが出されたのでしょう。
62 木曽海道六拾九次之内 酔ヶ井/広重
醒井宿(さめがいしゅく)は木曽路名所図会の『醒井』に『この駅に三水四石の名所あり 町中に流れ有りて至って清し 寒暑に増減なし』 と記されており、醒井の地名の由来ともなった『居醒の清水(いさめのしみず)』を源流とした地蔵川の流れに沿っていました。日本武尊はこの居醒の清水で傷を癒したと伝えられています。三水のあとの二つは十王水と西行水といい、四石はというと、蟹石、日本武尊の腰掛石、鞍掛石、影向石がありました。地蔵川には5月中旬から8月下旬にかけて梅の花に似た白い小さな梅花藻(ばいかも)という水中花が見られます。ここには宿場を切り盛りしたかつての問屋場がほぼそのままの姿で資料館として残っています。
さて、広重はこうした名所ではなく、宿場の端を行く大名行列の一番最後を描きました。前を行く中間は茶道具と弁当が入った茶弁当を担ぎ、最後尾の二人は竹馬と槍を担いでいます。背中に見える『林』の文字は例の版元錦樹堂の商標です。右手の土手上の農夫はやっと大名行列が去ったのでほっと一息、煙草を燻らせています。
絵は奥が下がっており、右手は丘に見えます。現在の街道にはあまり高低差が無いようですが、鴬ヶ端という眺めのいいところがあった宿の東の入口付近がもっとも傾斜があるので、この絵はそのあたりを描いたものかと思われます。その場合は絵の左側に天野川が流れていることになりますが、堀晃明は逆に、絵は宿の西端あたりを西向きに描いたものとしています。そこには枝分かれした大松があったようです。天野川はここからそう遠くないところで琵琶湖に流れ込んでおり、その気配を感じると。63 木曽海道六拾九次之内 畨場/広重
番場宿は飛鳥時代に東山道と呼ばれた頃以来の宿場ですが、慶長16年(1611年)に米原までの切通しができて米原道が築かれ、加えて米原港が開設されたことから、物資を中山道から琵琶湖の水運に乗り換えて京都へ運ぶ近道への分岐点となり、物流が増えて天保年間には6軒もの問屋場があったといいます。しかし旅籠はたったの10軒だけで、長さは一町十間(約130m)の中山道の中では最も小さな宿場でした。
左手の石垣の上に土塁があるのは宿の入口に設けられた見附ですから、この絵は番場宿の入口から宿の中を見たものです。広重の木曽海道にしては珍しく、宿場そのものがよくわかる図になっています。
太田南畝は壬戌紀行の中で、ここには脚気や足の痛みに効く薬の看板が多いと述べています。広重はこの看板の多さに着目したのか、右の茶店には『一膳めし、酒さかな』の提灯をぶら下げ、その向こうに、山形に『林』その下に『いせや』の文字の看板を出し、しっかりと版元の伊勢利の宣伝をしています。左のそれには『そばきり一ぜん』の提灯、奥には広重のヒロの紋と『歌川』の文字で、コマーシャルだらけ。
配役は左より、まず馬子三人と馬三頭で、堀晃明は醒井宿へ行く客を待っている帰り馬だろうと。白装束は伊勢神宮へ抜け参りに行く奉公人、駕籠舁のいない宿駕籠、菅笠に引回合羽姿は旅商人か飛脚で、その右の短刀をさしているのは宿役人であろうと。ちなみにこの次の宿の鳥居本は合羽の名産地だそうです。
64 木曽海道六拾九次之内 鳥居本/広重
番場宿から鳥居本宿(とりいもとしゅく)に向かう途中にあるのが摺針峠(すりはりとうげ)で、ここでようやく琵琶湖を望むことができます。そこには彦根藩が設けた茶屋本陣の望湖堂があり、大名などが接待を受けたそうです。
広重が描いたのはまさにこの摺針峠です。石垣の上に立つのが望湖堂でしょう。人々はこの眺望の素晴らしい峠の茶屋で、琵琶湖を眺めながら名物の『すりはり餅』をいただきました。
鳥居本宿の名はかつてここに多賀大社の鳥居があったことに由来するようです。古くは西隣りの小野集落が宿場でしたが、彦根城ができて城下に通じる街道が整備されたため、この地に宿が移されたようです。宿の南の外れに『右彦根道、左中山道京いせ』と刻まれた道標があります。この彦根道は朝鮮通信使が通る道で、朝鮮人街道とも呼ばれたそうです。
鳥居本宿には赤が付く名産品が三つあるそうです。赤い渋紙で造られた雨合羽(かっぱ)、万病に効能があるといわれる赤玉神教丸(あかだましんきょうがん)、赤いスイカ。雨合羽(道中合羽)を扱う店は最盛期には18軒もあったそうですがさすがに現在はこれを扱う店はないようです。しかし赤玉神教丸は威厳のある昔ながらの商家のたたずまいを残す有川家で現在も販売され続けています。
65 木曽海道六拾九次之内 高宮/広重
高宮宿は多賀大社の門前町として栄えたところで、現在も大社の一の鳥居が立っています。このあたりの特産品は麻織物で、高宮布と呼ばれ近江商人によって各地に流通したほか、彦根藩から将軍家への献上品にもなっていたそうです。町はこの高宮布の問屋町としても繁盛したといいます。
絵は宿の南を流れる犬上川から宿場方面を眺めています。犬上川はしばしば地下に潜り、地面の上を流れることは少なかったようです。仮設の橋があったようですがここではその橋脚だけが描かれています。川底に少し水溜まりがあるのか、人々はあっちこっちと歩いているようです。手前の二人の農婦が背負う縦長の俵の中身は麻幹(麻がら、おがら)だろうと堀晃明は述べています。
66 木曽海道六拾九次之内 恵智川/広重
愛知川宿(えちがわしゅく)は東山道時代からの宿駅で、高宮宿と同様に近江上布を扱い近江商人によって栄えました。宿場の近くの五個荘町は近江商人発祥の地といわれており、付近には旧家が多く残っているそうです。
絵は宿はずれを流れる愛知川を描いたもので、橋の袂の木柱には『むちんはし はし銭いらす』と記されています。現在は穏やかな流れですがかつては『人取り川』とも呼ばれた暴れ川だったそうです。この無賃橋ができるまでは歩行渡しでした。その橋を渡っているのは武士、その槍持ち、天秤に荷を担いだ男、笠を被った旅人で、手前には虚無僧、赤子を荷物の上に載せた親子連れの旅人、そして牛に荷を載せ引く女ですが、この牛の背の荷物の中身は何でしょうか。
堀晃明によれば、絵は川の北から南を望んだもので、山は西国三十三所の三十二番観音正寺がある観音正寺山だろうと。そして牛の背の荷物の中身は、恵知川の南では蠟と菜種油を原料とする鬢付油の一種である彦根きゃらを作っていたので、蠟かもしれぬと。
67 木曽海道六拾九次之内 武佐/広重
商業で賑わった近江八幡のすぐ東に位置した武佐宿(むさしゅく)は伊勢へ通じる八風街道の追分に開かれた宿場でしたが、比較的小規模な宿駅でした。しかし近江商人の往来は多く、また観音正寺と長命寺の観音霊場を控えていたことから、巡礼者も頻繁に訪れたようです。宿の西には日野川が流れていました。通常時は舟で渡っていましたが、水量が少なくなると川に杭を打って繋ぎ止めた舟の上に板を渡して作った舟橋を渡っていたそうです。
広重が描いたのはまさにその舟橋で、ここには様々な人が描かれています。堀晃明によると、手前の岸から向こうを眺めているのは村役人。腰を曲げ大きな葛籠(つづら)を背負っている老人はおそらく近江商人で、高宮宿で生産された蚊帳などを京都に売りに行くところ。そのうしろで風呂敷と傘を背負った旅人はこの老人のおぼつかない足どりを見守っている。対岸からやってくるのは西国三十二番札所の観音正寺を目指しているのだろう夫婦らしき巡礼者。対岸へたどり着こうとしている子供は握り飯を入れた藁苞(わらづと)と雑穀か塩を入れた叺(かます)を天秤で担いでいると。
68 木曽海道六拾九次之内 守山/広重
『守山』は山を守るという意味で、この山は比叡山を指すそうです。守山の名は今も街道脇に残る東門院(守山寺と呼ばれた)が、比叡山延暦寺の東の関門として創建されたことに由来すると言われています。この宿場は、京を立つとちょうどこのあたりが一日に歩く距離として適当だったことから、『京立ち守山泊まり』と言われ繁盛したところで、時代が下ると東の吉身、西の今宿が加宿となり、さらに発展していったようです。
満開の桜。川が流れる街道筋に並ぶ茶店、そこで一服する客、宿場を行き交う旅人が描かれています。 守山宿は長さが11町53間(約1300m)あり、人口は1,700人ほどだったそうです。面白いことに実際には守山宿に平行して流れる川は現在も過去もないようです。このあたりで目立つ川はというと宿の東に野洲川が流れていますが、それはかなり宿場から離れています。堀晃明は絵の川を今宿との間を流れる吉川(境川、守山川)とし、宿場の東側の茶屋や遊郭が多かった場所をその川と合体させて描いたのだろうと述べています。
背後の緑の山は野洲川の東にある近江富士と呼ばれた三上山だそう。すると右手が京ということになります。道行く人は一人を除いてみな左へ向かっていますから、朝、宿を出て江戸へ向かう人々でしょうか。一番右の家の中には駕篭が見え、続く三軒の家の中には人の姿があります。真ん中あたりの黒い屋根の軒下には、例によって版元の山に林の錦樹堂のマークが見え、その左隣の壁にはその別名である『伊せ利』の看板が見えます。
三上山には瀬田唐橋に現れた大蛇に頼まれた俵藤太(藤原秀郷)が大ムカデを退治したという伝説があります。手前の川はなんとなく蛇のように見えませんか。
69 木曽海道六拾九次之内 草津追分/広重
ついに草津宿までやってきました。草津宿は東海道と中山道の追分で、琵琶湖の矢橋湊(やばせみなと)へ下る矢橋街道の分岐点でもあったため、交通の要衝として多いに栄えたそうです。草津宿本陣は五街道の中でも最大級の本陣で、国の史跡として残っています。名物は『うばがもち』で、広重は東海道伍拾三次ではこれを売る茶屋を描いています。
川は宿の北を流れていた草津川(旧草津川)で、宿場より高いところを流れていたため天井川とも呼ばれていたそうです。通常は水量が少なかったため仮橋で渡っていました。画面奥の左手に常夜燈が立っているのが見えますが、あそこが東海道との追分で、東海道は左から合流していました。このあと中山道は京まで東海道と同じ道を辿ることになります。奥に宿場の家々の屋根が並んでいます。その前の坂道を上がって来た人々。手拭いを姉さん被りにした若い女は着物の裾を端折り、傘を担いで風呂敷包をぶら下げています。その右の笠を被った三人は連れ添ってどこぞに出かけていたのでしょうか。左の子は薪を集めてきたようです。こちらへ向かって坂道を上ってくる旅人らしき人の姿もあります。
遠景に描かれているのは比叡山の山々だそうです。
70 木曽海道六拾九次之内 大津/広重
木曽海道六拾九次の最後の絵です。
琵琶湖から流れ出る唯一の川である瀬田川に架かる瀬田の大橋を渡ってしばらく進むと、大津宿です。ここは中山道で(東海道でも)最大の宿場でした。琵琶湖の大津湊(おおつみなと)は水陸交通の要衝で、古くから軍事的にも重要なところで、江戸時代の大津は幕府の直轄地でした。また、近世においては延暦寺や園城寺(おんじょうじ=三井寺)の門前町として栄えました。
広重は東海道五拾三次の大津では走井茶屋と牛車を描きましたが、木曽海道六拾九次では琵琶湖と宿場そのものが主題です。北国海道(西近江路)の分岐点である高札場があった札の辻の少し上から琵琶湖を遠望しています。この視点あたりから札の辻までは『大津八町』と呼ばれ、本陣、脇本陣、そして多くの旅籠が並んでいました。
白帆が浮かぶ琵琶湖の畔には大津湊があり、舟で運ばれてきた物資をここで下し、牛車で上方へ運びました。大津八町にもその牛車が重い荷を牽いてやってきています。右手に見える菅笠を被った女たちは、三井寺にお参りした帰りでしょうか。
木曽街道の旅はまだ少し残っていますが、広重の中でその旅はここで終わります。それでこの絵には自身や版元の宣伝をたんまりと入れ込みました。左側に版元錦樹堂(伊勢屋利兵衛)の『いせり』。堀晃明によれば、その『新板』が『大當』し、『大吉』が出ることを祈っていると。右側には広重の名である『ヒロ』マークと『重』が見えます。一番目立つ『全』は、本シリーズの完結を意味するもので、これが金になるよう期待して丸金が各所に使われていると。
京まであと3里。三条大橋が東海道のゴールですが、木曽海道六拾九次で京は描かれませんでした。