21C

四国八十八ケ所

走行距離 1,514km
難易度 ▲▲
参考ページ

第31番札所 竹林寺 山門
第31番札所 竹林寺 山門

コース紹介

四国八十八ヶ所の札所巡り。阿波(徳島県)の第一番札所霊山寺から順に右回りで札所を巡り、土佐(高知県)、伊予(愛媛県)を経由して讃岐(香川県)の第八十八番札所大窪寺まで。途中、名所旧跡や絶景に立ち寄り、四万十川・しまなみ海道などのサイクリングも楽しみながら、全1,500km超をバーチャルで走破します。

地図:GoogleマップgpxファイルRide With GPS
トライアル用地図:ビジター用

コース詳細

発着地 累積距離 標高 コメント/寺院縁起・見所
【徳島県】 阿波国…発心の道場 23か寺
第1番 霊山寺 (START) 20m ▶第一番札所 竺和山 霊山寺(りょうぜんじ)
聖武天皇の勅願により行基が開創。815年に弘法大師がここで37日間の修法をした時に得た霊感の光景が、天竺の霊鷲山で釈迦が説法をしていた情景と似ていると感じ、「竺和山・霊山寺」と名づけた。このときの念持仏が釈迦誕生仏像であり、本尊の前に納められたことから四国八十八ヶ所の第一番札所と定め、霊場の開設・成就を祈願したと伝えられる。
【見所】多宝塔、明治の庭
第2番 極楽寺 1km 20m ▶第二番札所 日照山 極楽寺
815年、42歳の弘法大師がここで37日間『阿弥陀経』を読誦し修法し、その結願の日に阿弥陀如来が出現したので、その姿を彫造し本尊とした。この阿弥陀如来像の発する光は遠く鳴門の長原沖まで達し、漁民たちは、漁の妨げになると本堂の前に人工の小山を築いて光を遮ったという故事から「日照山」と号した。
【見所】木造阿弥陀如来像(秘仏本尊。鎌倉時代、重要文化財)、仏足石、願掛け地蔵
第3番 金泉寺 4km 10m ▶第三番札所 亀光山 金泉寺(こんせんじ)
聖武天皇の勅願により行基が寺塔を建立し「金光明寺」と命名。弘法大師が四国を巡教した際、ここに掘った井戸から湧き出た水は霊水で「長寿をもたらす黄金の井戸」とされ、寺名を改め「金泉寺」とした。その後、13世紀に亀山法皇が金泉寺に滞在し京都の三十三間堂に倣った堂舎を建立し、背後の山を「亀山」と命名し山号も「亀光山」と改めた。
【見所】沙羅双樹、熊蜂
第4番 大日寺 9km 80m ▶第四番札所 黒巖山 大日寺
815年に弘法大師がここで大日如来を感得し、一刀三礼をして1寸8分の大日如来像を彫造したことを由来として大日寺と称するようになった。この地は三方を山に囲まれており、黒谷と呼ばれていることから、地元では「黒谷寺」と呼び習わされることもあった。山号の「黒巌山」もこれに因んだものとされる。
【見所】木造大日如来坐像御尊体、大日堂(本堂)、弘法大師堂
第5番 地蔵寺 11km 20m ▶第五番札所 無尽山 地蔵寺
嵯峨天皇の勅願により821年に弘法大師が開創。大師自ら約5.5cmの勝軍地蔵菩薩を彫り本尊に安置。さらに紀州・熊野権現の導師であった浄函上人が延命地蔵菩薩像を刻み、胎内に大師作の勝軍地蔵菩薩を納めたとも伝えられる。勝軍地蔵菩薩信仰からか、源頼朝、義経をはじめ、蜂須賀家などの武将たちが多くの寄進をしている。
【見所】本堂、五百羅漢堂など5件が国の登録有形文化財。勝軍地蔵像(本尊の地蔵菩薩半跏像は秘仏)
第6番 安楽寺 16km 20m ▶第六番札所 温泉山 安楽寺
古くから温泉があり、安楽寺は弘法大師によって温泉湯治の利益が伝えられた旧跡で、山号は温泉山。現在も大師堂前から温泉が湧き出ている。桃山時代に蜂須賀家政公が「駅路寺」と定め旅人の宿泊、茶湯接待の施設を置き、宿坊は以来400年の歴史を持つ。茅葺き屋根の方丈は250年前に寄進され、質素ながら堂々とした木造建築(国の登録有形文化財)。
【見所】仁王像、拝殿(弘法大師の一代記の彫刻)、多宝塔、さかまつ、宿坊
第7番 十楽寺 18km 40m ▶第七番札所 光明山 十楽寺
元は十楽寺谷の堂ヶ原にあり、弘法大師がここに逗留したときに阿弥陀如来を感得し、如来像を刻んで本尊とした。その際、大師は生・老・病・死など人間として避けることのできない苦難に10の光明と輝く楽しみが得られるようにと「光明山十楽寺」の寺名を授けた。1528年、兵火で全堂塔が焼失。1635年に現在地に再建された。
【見所】山門、水子地蔵、治眼疾目救歳地蔵尊、愛染明王
第8番 熊谷寺 21km 90m ▶第八番札所 普明山 熊谷寺(くまだにじ)
四国霊場の中で最大級の仁王門を構える。815年、弘法大師がここで修行していた折、紀州の熊野権現があらわれ「末世の衆生を永く済度せよ」と告げ、金の観世音菩薩像を授けた。大師はその場にお堂を建て、等身大の千手観音像を彫造し、胎内に金の尊像を納めて本尊とした。境内にその鎮守堂があり、熊野権現が祀られている。
【見所】大師堂、多宝塔、弁天島
第9番 法輪寺 23km 30m ▶第九番札所 正覚山 法輪寺
弘法大師が巡教していた815年、仏の使いといわれる白蛇を見つけたことから、釈迦の涅槃像を彫造し本尊として寺を開基。古くは「白蛇山法林寺」と称され山間の法地ヶ渓にあったが、1582年に長宗我部元親による兵火で焼失。17世紀に現在地に移転し再建。当時の住職が「転法林で覚をひらいた」とされ、「正覚山法輪寺」と改めた。
【見所】本堂に奉納されたわらじのお守り
第10番 切幡寺 28km 160m ▶第十番札所 得度山 切幡寺(きりはたじ)
弘法大師が機織る乙女に僧衣を繕うための布切れを所望したところ、乙女は織りかけていた布を切って差し出した。乙女の望みを聞いた大師が千手観音像を彫造し、乙女を得度させて灌頂を授けると、乙女は即身成仏し千手観音菩薩に変身。大師はこれを嵯峨天皇に伝え、天皇の勅願により堂宇を建立。自ら彫った千手観音像と即身成仏した千手観音像を本尊とした。
【見所】山麓から本堂までの坂、切幡寺大塔(重要文化財)、はたきり観音、四国山脈と吉野川の眺望
●脇町 45km 50m ▶脇町 うだつの町並み
江戸中期より吉野川の水運による積出し港として栄え、藍商人たちが栄華を極めた。400mにわたって連なる「うだつ」の家並みは、重要伝統的建造物群保存地域に認定されている。
第11番 藤井寺 68km 40m ▶第十一番札所 金剛山 藤井寺
三方を山に囲まれ渓流の清らかな仙境に心を惹かれた弘法大師が、815年にここで護摩修法をした。大師は42歳の厄年で、自らの厄難を祓い衆生の安寧を願って薬師如来像を彫造し堂宇を建立、その上にある8畳岩に護摩壇を築き17日間の修法を行った。その堂宇の前に5色の藤を植えたという由緒から、金剛山藤井寺と称された。
【見所】木造釈迦如来坐像(寺伝薬師如来像、重要文化財)、藤の古木、雲龍の天井画
第12番 焼山寺 93km 700m ▶第十二番札所 摩盧山 焼山寺(しょうさんじ)
四国霊場で2番目に高い山岳札所。飛鳥時代に役行者が山を開き蔵王権現を祀った。815年、弘法大師が一本杉で休み、阿弥陀様の夢を見て目を覚ますと、火を吐く大蛇により目の前が火の海になっていた。大師は川で身を清め、「摩廬(水輪の意)の印」を結び真言を唱えながら山を登り、大蛇を岩窟に封じ込め自ら彫った三面大黒天を安置。山が焼山となったので「焼山寺」と名付けた。
【見所】三面大黒天、杖杉庵、四国山脈の山々の眺望、阿波遍路道焼山寺道・一宮道は国の史跡
第13番 大日寺 120km 30m ▶第十三番札所 大栗山 大日寺
弘法大師がここで護摩修法をしていた際、空中から大日如来が紫雲とともに舞いおり、「この地は霊地なり。心あらば一宇を建立すべし」と告げた。大師は、さっそく大日如来像を彫造して本尊とし、堂宇を建立し安置した。寺名の由来もこの縁起による。
【見所】ぼけ封じ観音、奥の院、建治寺、しあわせ観音
第14番 常楽寺 122km 40m ▶第十四番札所 盛寿山 常楽寺
四国霊場の中で唯一、弥勒菩薩を本尊とする。弘法大師が42歳の頃、ここで真言の秘法を修行していたとき、多くの菩薩を従えて化身した弥勒様が来迎。大師はすぐに感得し、その尊像を彫造し堂宇を建立。後に大師の甥・真然僧正が金堂を建て、高野山の再興で知られる祈親上人が講堂や三重塔、仁王門などを建立し、七堂伽藍がそびえる大寺院となった。
【見所】本堂・大師堂(国の登録有形文化財)、阿波遍路道 常楽寺境内(国の史跡)、アララギ大師、地蔵菩薩像
第15番 国分寺 123km 10m ▶第十五番札所 薬王山 国分寺
四国霊場の四県の国分寺の一つ「阿波國分寺」。聖武天皇は741年に全国68ヶ所に国分寺、国分尼寺を創建。阿波國分寺には天皇から釈迦如来像と大般若経が納められ、本堂には光明皇后の位牌厨子を奉祀。開基は行基で、自ら薬師如来を彫造し本尊とした。創建当初は壮大な七堂伽藍が整い、県の史跡に指定されている。弘法大師が巡教した際、宗派を真言宗に改めた(現在は曹洞宗)。
【見所】庭園(国の名勝)、本堂(1811年再建)
第16番 観音寺 125km 10m ▶第十六番札所 光耀山 観音寺(かんおんじ)
聖武天皇が741年、全国に国分寺・国分尼寺を創建した際に、行基に命じて勅願道場として建立した由緒ある古刹。弘法大師は816年頃にここを訪れ、千手観音像を彫造して本尊として再興し現在の寺名を定め、また脇侍像に悪魔を降伏する不動明王像、鎮護国家の毘沙門天像を刻んだ。
【見所】夜泣き地蔵、絵馬
第17番 井戸寺 128km 10m ▶第十七番札所 瑠璃山 井戸寺
673年、天武天皇が勅願道場として建立。当時の名は妙照寺で壮大な寺院があり、本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で聖徳太子作、脇仏の日光・月光菩薩像は行基作と伝えられる。815年に弘法大師が訪れ、十一面観音像を彫って安置。また大師が錫杖で井戸を掘ると一夜にして清水が湧き出したため、村を「井戸村」、寺名を「井戸寺」に改めた。
【見所】十一面観音像(平安初期、重要文化財)、面影の井戸、日限大師、仁王門
●眉山 135km 270m ▶眉山公園
阿波おどり会館5階(眉山ロープウェイ山麓駅)から眉山山頂へロープウェイで上る。展望台からの眺めは素晴らしく、海に流れ込む吉野川や、徳島の町並み、大鳴門橋や遥かに見える淡路島・和歌山までの眺望を楽しめる。
●丈六寺 144km 10m ▶丈六寺
650年、関東地方から来た尼僧が庵を構え創建。室町中期、阿波・三河・讃岐の守護大名・細川成之が金岡用兼を招聘し曹洞宗に改めて中興開山し、伽藍を整備。「阿波の法隆寺」と呼ばれ文化財も多い。重要文化財:本堂(1629年)、三門(16世紀後半)、観音堂(1648年)、経蔵(1644年)、木造聖観音坐像(平安末期)。
第18番 恩山寺 150km 70m ▶第十八番札所 母養山 恩山寺
聖武天皇の勅願により、行基が薬師如来像を彫造し草創。当時は「大日山福生院密厳寺」といい、女人禁制の道場だった。弘法大師がここで修行していた際、母・玉依御前が訪ねてきたが、女人禁制のため大師は瀧にうたれて7日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母を迎えた。やがて母は剃髪してその髪を奉納したので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め、自像を彫造し安置した。
【見所】玉依御前の剃髪所、弘法大師像、「源義経上陸の地」石碑
第19番 立江寺 155km 70m ▶第十九番札所 橋池山 立江寺(たつえじ)
高野山真言宗の別格本山。「四国の総関所」、また「阿波の関所」としても知られる。聖武天皇の勅願で、光明皇后の安産を祈るため行基が小さな黄金の延命地蔵菩薩を彫造し本尊として堂塔を建立。815年に弘法大師が訪れ、本尊があまりに小さく失われる恐れがあると、像高1.9mの延命地蔵像を彫造し胎内に本尊を納めた。この時に寺名を「立江寺」とした。
【見所】絹本着色釈迦三尊像(重要文化財)、肉付き鐘の緒の黒髪堂、白鷺橋、本堂・観音堂の絵天井
第20番 鶴林寺 170km 480m ▶第二十番札所 霊鷲山 鶴林寺
798年、桓武天皇の勅願により弘法大師が開創。大師がこの山で修行していた時、雌雄2羽の白鶴が老杉に舞い降り小さな黄金の地蔵を守護していた。歓喜した大師は高さ90cmの地蔵菩薩像を彫造、その胎内に黄金の地蔵を納めて本尊とし、寺名を鶴林寺とした。また、境内の山容が釈尊が説法をした霊鷲山に似ていることから、山号を「霊鷲山」と定めた。
【見所】地蔵菩薩立像(平安後期、重要文化財、京都国立博物館に寄託)、波切り地蔵、丁石11基(室町時代)、三重塔、阿波遍路道 鶴林寺道等(国の史跡)
第21番 太龍寺 184km 470m ▶第二十一番札所 舎心山 太龍寺
弘法大師19歳の頃、境内から約600mの「舎心嶽」という岩上で100日間の虚空蔵求聞持法を修行。793年、桓武天皇の勅願により堂塔が建立され、大師が本尊の虚空蔵菩薩像等諸尊を造像して安置し開創。山号は修行地の舎心嶽から、寺名は修行中の大師を守護した大龍(龍神)に因む。巡礼者にとって屈指の難所だったが、1992年にロープウェイが開通。
【見所】舎心嶽、丁石(南北朝時代)、阿波遍路道 太龍寺道等(国の史跡)
第22番 平等寺 206km 40m ▶第二十二番札所 白水山 平等寺
814年に弘法大師がここを訪れた時、心に薬師如来の姿が浮かび、「あらゆる人々の心と身体の病を平等に癒し去る」という誓願を立てた。加持水を求めて井戸を掘ると白い水が湧き溢れ、その霊水で身を清めて百日間護摩行を行い、薬師如来の姿を刻んで本尊として奉安。山号を白い水が湧いたことから白水山、寺号を平等寺と定めた。
【見所】本尊薬師如来像、箱車、天井絵
●阿南海岸 221km 0m ▶田井ノ浜(阿南海岸)
田井ノ浜から美しい海岸線の海沿いを行く。田井ノ浜は約1kmの白砂の海岸で、夏にはウミガメが産卵のため上陸する。橘湾から室戸岬までの約120kmは室戸阿南海岸国定公園。
●カレッタ 232km 0m ▶日和佐うみがめ博物館『カレッタ』
大浜海岸は白砂の美しい海岸で、ウミガメの産卵で有名。日和佐うみがめ博物館『カレッタ』(ウミガメの学名)は、カメの進化の過程や生態など、実際に泳ぐカメを見ながら学習できる施設。
第23番 薬王寺 234km 10m ▶第二十三番札所 医王山 薬王寺
聖武天皇の勅願により行基が開創。815年、弘法大師が42歳のとき自分と衆生の厄除けを祈願し厄除薬師如来坐像を彫造して本尊とし、厄除けの根本祈願寺とした。大師がこの厄除け本尊の功徳を平城、嵯峨、淳和の3代の天皇に相次いで奏上すると、各天皇は厚く帰依し厄除けの勅使を下して官寺とした。阿波最後の霊場、高野山真言宗の別格本山でもある。
【見所】瑜祇塔(ゆぎとう)、厄坂の賽銭、肺大師(ラジウムを含んだ霊水)
【高知県】 土佐国…修行の道場 16か寺
●室戸岬 316km 0m ▶室戸岬
海岸線には豪快に波が打ち寄せる岩礁・奇岩が続き、亜熱帯植物が茂り、乱礁遊歩道を歩くことができる。国の名勝に指定されているほか、世界ジオパークにも認定されている岬。
第24番 最御崎寺 318km 280m ▶第二十四番札所 室戸山 最御崎寺(ほつみさきじ)
室戸岬の突端にある土佐最初の霊場。792年、弘法大師19歳の頃、洞窟の樹下で虚空蔵求聞持法の修法に励んだ。唐から帰朝した翌年の807年、大師は勅命をうけて再び赴き、虚空蔵菩薩像を彫造して本尊とし本堂を建立。嵯峨天皇はじめ歴代天皇の尊信が厚く、足利幕府時代には土佐の安国寺となり、戦国・江戸時代には武将、藩主などの寄進により隆盛した。
【見所】重要文化財:石造如意輪観音半跏像、木造薬師如来坐像、木造月光菩薩立像(全て平安後期)。御厨人窟(みくろど。大師が修行した洞窟)
第25番 津照寺 324km 20m ▶第二十五番札所 宝珠山 津照寺(しんしょうじ)
弘法大師が四国修行の際、山の形が地蔵菩薩の持つ宝珠に似ているところから地蔵菩薩を刻んで本尊とし、宝珠山真言院津照寺と号した。1602年、山内一豊が室戸沖で暴風雨に遭った時、大僧が現れ船の楫を取り室津の港に無事入港。この大僧が実は本尊地蔵菩薩であり、楫取地蔵(かじとりじぞう)とも言われるようになった。
【見所】本堂前からの行当岬・室戸スカイライン・太平洋の景観
第26番 金剛頂寺 330km 180m ▶第二十六番札所 竜頭山 金剛頂寺
行当岬の頂上にある。807年、大師が平城天皇の勅願により本尊の薬師如来像を彫造して寺を創建。当時は「金剛定寺」といわれ、女人禁制で婦女子は行当岬の不動堂から遙拝した。嵯峨天皇が「金剛頂寺」とした勅額を奉納したことから現在の寺名に改め、住職は第十世まで勅命によって選ばれ、以後、16世の頃まで全盛を誇った。
【見所】霊宝殿(木造阿弥陀如来坐像、金銅旅壇具など重要文化財多数)、奴草、鯨供養塔、一粒万倍の釜
第27番 神峯寺 361km 450m ▶第二十七番札所 竹林山 神峯寺(こうのみねじ)
神峯山中腹に山門、境内が広がる。神功皇后(在位201〜69)の勅命の天照大神などを祀る神社が起源とされ、聖武天皇の勅をうけた行基が730年に十一面観音像を彫造して本尊とし、神仏合祀を行った。809年、弘法大師が伽藍を建立し「観音堂」と名付けた。幕末頃、岩崎弥太郎の母が、息子の出世を祈願し往復20kmを21日間日参したという話が伝わる。
【見所】庭園(石段沿いの景観)、石清水(神峯の水)
●安芸城跡 376km 20m ▶安芸城跡
1308年、安芸親氏が築いたと伝わる安芸城の跡地。城の周りには武家屋敷の町並み『土居廓中武家屋敷』があり、土用竹やウバメガシの生垣などかつての雰囲気を残す。また近くには、三菱財閥の基礎を築いた岩崎弥太郎の生家がある。
●安芸タイガース球場 382km 40m ▶安芸タイガース球場
1965年度から阪神タイガースが春季と秋季のキャンプを開催する野球場。2003年以降、春季キャンプは2軍のみ(1軍は沖縄県宜野座村。2021年現在)。メイングラウンドのほか、サブグラウンド、安芸ドーム(屋内練習場)がある。野球場のスタンドからは太平洋が望めて美しい。周辺の名物は『しらす丼』。地元の柚子でつくった『ゆのす』をたっぷりかけていただきましょう。
●絵金蔵 399km 10m ▶絵金蔵
江戸末期の狩野派の絵師金蔵、略して『絵金』。土佐藩家老桐間家の御用を勤める絵師であったが訳あって城下追放となり、赤岡に滞在して「芝居絵屏風」を大成させた。絵金蔵では絵金の芝居絵屏風を守り、絵金と芝居屏風の魅力を伝えている。
第28番 大日寺 405km 80m ▶第二十八番札所 法界山 大日寺
聖武天皇の勅願により行基が大日如来の尊像を彫造し、堂宇に安置して開創。その後寺は荒廃したが、815年に弘法大師が末世の人々の安泰を祈り、楠の大木に爪で薬師如来像を彫りこれを祀って復興。以後隆盛を誇り、七堂伽藍や末寺、脇坊も備わり、17世紀初頭からは土佐藩の祈願寺となって堂塔も整備された。
【見所】重要文化財:金剛界大日如来坐像(行基作とされるが平安後期作)・聖観世音菩薩立像(智証大師作とされる、平安後期)。本堂、大師堂
第29番 国分寺 414km 20m ▶第二十九番札所 摩尼山 国分寺
741年、聖武天皇が全国68ヶ所に国分寺を建立。土佐では行基が天下の泰平と五穀の豊穣、万民の豊楽を願う祈願所として開創。歴代天皇の尊信が厚く、加護をうけてきた。弘法大師が815年頃に訪れ、毘沙門天像を彫造して奥の院に安置。その際に本堂で真言八祖に相承される厄除けの「星供の秘法」を修め、以来、「星供の根本道場」となった。
【見所】重要文化財:金堂(1688年再建)、木造薬師如来立像2躯(平安中期、鎌倉時代)、梵鐘(平安前期)。国の史跡:境内
第30番 善楽寺 421km 20m ▶第三十番札所 百々山 善楽寺
大同年間(806〜810)に弘法大師がここを訪れ、土佐国一ノ宮・総鎮守である高鴨大明神の別当寺として開創し霊場と定めた。以来、神仏習合の寺院として法灯の護持につとめ、神仏の信仰を啓蒙して栄えた。特に土佐2代藩主・山内忠義公の頃には武門の庇護をうけて寺は興隆し、繁栄を極めた。
【見所】梅見地蔵、天邪鬼、本堂(昭和58年改築)
●高知城 427km 20m ▶高知城
1601年に山内一豊が築城を開始し、2年後に本丸・二の丸が完成。1721年に大半を焼失するが、1749年に再建され現在に至る。天守や追手門など15の建造物が重要文化財。天守に接続した本丸御殿を持つ形式で、本丸がほぼ完全に残っているのは現存の城の中で高知城のみである。
第31番 竹林寺 432km 120m ▶第三十一番札所 五台山 竹林寺
724年、聖武天皇が中国・五台山に登り文殊菩薩に拝した夢を見て、行基に五台山に似た山容を見つけるよう命じた。行基はここが天皇の霊夢にふさわしいと感得、文殊菩薩像を彫り山上に本堂を建てて安置した。その後、弘法大師が滞在して瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復、霊場とした。土佐の信仰や文化の中心地とも、土佐随一の名刹ともいわれる。
【見所】五台山(山全体が高知県立都市公園)、本堂(文殊堂、江戸前期、重要文化財)、書院(江戸後期、重要文化財)、宝物館(重要文化財の仏像17躰を収蔵)、五重塔、庭園(夢窓国師の作と伝えられ、国の名勝)
●牧野植物園 433km 140m ▶高知県立牧野植物園
高知県出身の植物学者・牧野富太郎の業績を記念して、1958年に五台山に開園。五台山は牧野博士が青年期に訪れていた山で、植物園建設計画の際、牧野博士が「植物園を造るなら五台山がいい」と言ったことから、第31番札所「五台山 竹林寺」より土地を譲り受けて造られた。園内には3000種の植物が栽培されている。
第32番 禅師峰寺 438km 60m ▶第三十二番札所 八葉山 禅師峰寺(ぜんじぶじ)
聖武天皇の勅命を受け、行基が土佐沖を航行する船舶の安全を願って堂宇を建立。806年に弘法大師が訪れ、奇岩霊石が立ち並ぶ境内を観音の浄土、仏道の理想の山とされる天竺・補陀落山さながらの霊域と感得し、ここで虚空蔵求聞持法の護摩を修法。十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とし「禅師峰寺」と名付け、峰山の山容が八葉の蓮台に似ていたことから「八葉山」と号した。
【見所】仁王門の金剛力士像(鎌倉時代、定明作、重要文化財)
●桂浜 445km 0m ▶桂浜
太平洋に向かって龍馬像が立つ景勝地。一帯は桂浜公園として整備され、桂浜水族館や坂本龍馬記念館などがある。
第33番 雪蹊寺 448km 10m ▶第三十三番札所 高福山 雪蹊寺
弘法大師によって815年に開創され「高福寺」と称し、鎌倉時代に運慶と長男の湛慶がこの寺に滞在したことから、寺名を「慶運寺」と改めた。戦国時代、長宗我部元親が廃寺となっていた寺を再興し、臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招いた。元親の死後、長宗我部家の菩提寺となり、元親の法号から寺名を「雪蹊寺」と改めた。
【見所】薬師如来像と日光・月光菩薩像(鎌倉時代、運慶作)、毘沙門天像・吉祥天女像・善膩師童子像(鎌倉時代、湛慶作)、12神将立像10躯(鎌倉時代、道運、海覚作)、以上16体は重要文化財
第34番 種間寺 455km 10m ▶第三十四番札所 本尾山 種間寺
6世紀後半、大阪の四天王寺を建立するため百済の皇子が派遣した仏師や造寺工が帰国の際に暴風雨に襲われ、本尾山近くの港に寄港。彼らは航海の安全を祈って薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。弘仁年間(810-824年)に弘法大師がここを訪ね、その薬師如来像を本尊として安置し諸堂を建てて開創。その折に唐からもち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けた。
【見所】薬師如来像(重要文化財)、底抜け柄杓、手水鉢(1677年作。市の指定文化財)
第35番 清瀧寺 464km 140m ▶第三十五番札所 醫王山 清瀧寺(きよたきじ)
723年、行基が薬師如来像を彫り本尊として堂舎を建て「影山密院・釋本寺」と名づけて開山。弘仁年間(810〜24)に弘法大師が岩上に壇を築き五穀豊穣を祈願して17日の修法を行い、満願の日に金剛杖で壇を突くと岩上から清水が湧き出て鏡のような池になったため、山号や院号、寺名を現在のように改めた。 この水は田畑はもとより紙漉きに重宝され、やがて土佐和紙産業を興すことにも貢献。
【見所】木造薬師如来立像(重要文化財)、山門(天井画は1900年の久保南窓による「蛟竜図」)、厄除け薬師如来立像、逆修塔
第36番 青龍寺 481km 30m ▶第三十六番札所 独鈷山 青龍寺(しょうりゅうじ)
弘法大師が唐の長安の青龍寺で密教を学び、真言の秘法を授かって真言第八祖となり、日本に寺院を建立しようと東の空へ独鈷杵を投げ、有縁の勝地が選ばれるよう祈願した。帰朝後、巡教の旅の際、大師は独鈷杵が今の奥の院の山の老松にあると感得し嵯峨天皇に奏上。815年、ここに堂宇を建て石造の不動明王像を安置し、寺名を青龍寺、山号は遙か異国の地から放った「独鈷」とした。
【見所】愛染明王坐(重要文化財)、奥の院
第37番 岩本寺 544km 210m ▶第三十七番札所 藤井山 岩本寺
聖武天皇の勅により、行基が仁井田明神の傍に建立した末寺七ヶ寺をもつ福圓満寺が前身。仁井田明神の別当寺。弘仁年間(810〜24)、大師は仁井田明神のご神体を五社に分け、さらに末寺五ヶ寺を建立。16世紀後半に兵火で焼失し、後に再興、足摺へ向かう途中の宿坊であった岩本坊に別当が移り、岩本寺に改称。戦国・江戸時代には神仏習合の札所として隆盛を誇った。
【見所】大師堂、本堂内陣の格天井画(575枚の天井絵)
●四万十川 545km 200m ▶四万十川(サイクリング起点)
『最後の清流』として知られる四国最長の大河(196km)。火振り漁や柴づけ漁など伝統的な漁が今も行われ、上流から下流に数多く残る沈下橋と周辺の景観は、国の重要文化的景観に認定されている。ここから四万十川沿いに河口まで約120kmを走る。
●足摺岬 707km 40m ▶足摺岬
四国最南端の岬。太平洋に向かって断崖が聳え立ち、眼下の岩礁にぶつかる波しぶきは豪快。足摺岬灯台から椿のトンネルや奇岩などを巡る遊歩道がある。
第38番 金剛福寺 707km 60m ▶第三十八番札所 蹉跎山 金剛福寺
足摺岬を見下ろす丘の中腹にある。822年、弘法大師が岬突端に広がる太平洋に観世音菩薩の理想の聖地・補陀落の世界を感得し嵯峨天皇に奏上、勅願により伽藍を建立し開創。三面千手観世音像を彫り安置し「金剛福寺」と名づけた。「金剛」は、大師が唐から帰朝の際に五鈷杵(金剛杵)を投げたこと、「福」は観音経の「福聚海無量」に由来。歴代天皇の勅願所となり武将からも尊崇された。
【見所】大師堂、本堂内陣の格天井画(575枚の天井絵)
●竜串 735km 0m ▶竜串
千尋岬の付け根にあり、奇岩奇勝が連続する景観の中を散策できる。竜串海域公園はサンゴが群生する美しい海辺。足摺海洋館や足摺海底館など、水族館や天然のミュージアムを楽しめる。
第39番 延光寺 774km 50m ▶第三十九番札所 赤亀山 延光寺
724年に行基が聖武天皇の勅命を受け、薬師如来像を彫造、本坊ほか十二坊を建立し開創。当時は「亀鶴山宝光寺」。本尊の胎内には行基が感得した仏舎利を秘蔵。 延暦年間(782〜805)に弘法大師がこの寺を桓武天皇の勅願所として再興。このとき大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が「眼洗い井戸」。911年、赤亀が背負った銅の梵鐘を寺に奉納し、名を「赤亀山延光寺」に改めた。
【見所】銅鐘(平安前期、重要文化財)、眼洗い井戸、1680年建立の石碑、大赤亀の石像
【愛媛県】 伊予国…菩提の道場 26か寺
第40番 観自在寺 802km 20m ▶第四十番札所 平城山 観自在寺
一番霊山寺から最も遠い「四国霊場の裏関所」。807年、弘法大師が平城天皇の勅命で訪れ、霊木から本尊の薬師如来と脇侍の阿弥陀如来、十一面観音菩薩を彫造して安置し開創。残った霊木に「南無阿弥陀仏」と彫り、庶民の病根を除く祈願を行った。 平城天皇は勅額「平城山」を下賜し行幸、また毎年勅使を遣わし護摩供の秘法を修したため、この地方を「御荘」「平城」と呼ぶようになった。
【見所】本尊と脇侍、「南無阿弥陀仏」の名号宝判、本堂(昭和39年再建)、大師堂(平成5年)
●宇和島城 846km 50m ▶宇和島城
宇和島城は1601年に藤堂高虎によって築かれ、現存する天守などの建築は宇和島伊達家二代藩主・宗利によるもの(1671年)。天守は重要文化財、また城跡全体は国の史跡に指定されている。城の南には、七代藩主伊達宗紀の隠居所としてつくられた池水回遊式庭園「天赦園」がある。
第41番 龍光寺 857km 190m ▶第四十一番札所 稲荷山 龍光寺
807年に弘法大師がここを訪ねた際、稲束を背負った老人が現れ、五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を彫造し堂宇を建てて安置。十一面観世音菩薩と、脇侍として不動明王、毘沙門天も造像し、「稲荷山龍光寺」とし四国霊場の総鎮守の寺として開創。 明治の廃仏毀釈令により旧本堂は「稲荷社」となり、新たに本堂が建立され十一面観世音菩薩像を本尊とし、稲荷明神像も一緒に祀られた。
【見所】本堂、太子堂、石の鳥居、稲荷神社
第42番 佛木寺 860km 200m ▶第四十二番札所 一カ山 佛木寺(ぶつもくじ)
807年、弘法大師が牛を引く老人と出会い、誘われるまま牛の背に乗って歩むと、楠の大樹の梢に宝珠がかかり光を放っていた。これは大師が帰朝する際、有縁の地が選ばれるようにと三鈷と共に東方へ投げた宝珠で、この地こそ霊地であると感得、楠で大日如来像を彫造し眉間に宝珠を埋めて本尊として安置、「一カ山仏木寺」と名づけた。寺は牛馬安全の守り仏、大日さまとして信仰を集めた。
【見所】大日如来坐像(1275年)、家畜堂、鐘楼堂(茅葺屋根。元禄時代(1688〜1704)に再建)
第43番 明石寺 881km 280m ▶第四十三番札所 源光山 明石寺(めいせきじ)
6世紀前半、欽明天皇の勅願により円手院正澄という行者が渡来仏の千手観音菩薩像を祀るため七堂伽藍を建て開創。734年に寿元という行者が紀州熊野から12社権現を勧請し12坊を建てて修験道の中心道場とした。 822年、弘法大師が嵯峨天皇に奏上し勅命を受け荒れた諸堂を再興。1194年、再び荒れた伽藍を源頼朝が修復し阿弥陀如来像を奉納、山号の現光山を「源光山」に改めた。
【見所】本堂(1890年、信者による天井絵)、しあわせ観音像
●大洲城 907km 30m ▶大洲城
1595年に藤堂高虎が入城し、近世の城郭として整備。1609年には脇坂安治が転封され、この2人の時代に天守をはじめとする建造物が造営された。天守は1888年解体されたが、2004年に伝統工法を用いて復元。台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓は重要文化財。また近くでは、肱川の上流にある景勝地に明治後期に建てられた臥龍山荘も見所(3つの数寄屋建築が重要文化財)。
●内子町 921km 60m ▶内子町
かつては木蝋生産で栄えた町。八日市通りには、江戸末期から明治にかけての白壁土蔵造りの家々が並び、往時の製蠟業の繁栄ぶりがうかがえる(重要伝統的建造物群保存地区)。少し離れた1916年建築の芝居小屋「内子座」も見逃せない。
第44番 大寶寺 965km 580m ▶第四十四番札所 菅生山 大寶寺
昔、百済の聖僧が山中に安置した十一面観音像を、701年に安芸(広島)からきた兄弟の狩人が発見。文武天皇はこの奏上を聞き勅命により寺院を建立、元号に因んで「大寶寺」とした。822年、弘法大師が訪れ密教を修法し、四国霊場の中札所と定めた。1152年に焼失したが、直後に後白河天皇が病気平癒を祈願し成就したため、伽藍を再建し勅使を遣わし妹宮を住職に任じて勅願寺とした。
【見所】仁王門(金剛力士像、室町時代)、芭蕉塚
第45番 岩屋寺 976km 600m ▶第四十五番札所 海岸山 岩屋寺
815年、弘法大師がここで法華仙人という女性に出会い、仙人は大師に帰依して全山を献上。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置、石像は奥の院の岩窟に祀り、全山を本尊とした。山号の「海岸山」は空海の歌「山高き谷の朝霧海に似て松吹く風を波にたとえむ」による。 鎌倉中期に一遍上人がここで修行。44番大寶寺の奥の院だったが、明治7年に初代住職が着任。
【見所】大師堂(1920年。近代仏堂の代表作、重要文化財)、穴禅定、道開き不動、逼割禅定
第46番 浄瑠璃寺 1001km 90m ▶第四十六番札所 医王山 浄瑠璃寺
行基が奈良の大仏開眼に先立ち708年にここを訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立。白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とし、脇侍に日光・月光菩薩と、眷属として十二神将を彫造して安置した。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から「浄瑠璃寺」とし、山号も医王如来に因む。807年、唐から帰朝した弘法大師がこの寺にとどまり、荒廃していた伽藍を修復し四国霊場の一寺とした。
【見所】仏手・仏足石、一願弁天堂、説法石、イブキビャクシンの木
第47番 八坂寺 1002km 90m ▶第四十七番札所 熊野山 八坂寺
役行者小角が開基。701年、文武天皇の勅願により伊予の国司越智玉興公が堂塔を建立。寺名は8ヶ所の坂道を切り開いたこと、また益々栄える「いやさか(八坂)」にも由来。 815年、弘法大師が寺を再興。本尊の阿弥陀如来坐像は恵心僧都源信(942〜1017)作と伝えられる(現本尊は鎌倉後期の作)。その後、紀州から熊野権現の分霊や十二社権現を奉祀して修験道の根本道場となった。
【見所】閻魔堂、救いの手、宝筺印塔、不動三尊(いやさか不動尊)
第48番 西林寺 1007km 50m ▶第四十八番札所 清滝山 西林寺
741年、聖武天皇の勅願により、行基が国司とともに一宮別当寺として堂宇を建立(現在の松山市小野播磨塚近辺)、本尊に十一面観音菩薩像を彫造して安置。807年、弘法大師が逗留し国司と協議、寺を今の地に移して四国霊場と定め国家の安泰を祈願する道場とした。 この頃村は大旱魃で苦しんでおり、大師は錫杖を突き、近くで清水の水脈を見つけた。「杖の淵」はその遺跡とされる。
【見所】福授地蔵、孝行竹、四國偏禮繪圖(1763年刊行。最古の四国遍路絵図)
第49番 浄土寺 1010km 50m ▶第四十九番札所 西林山 浄土寺
8世紀半ば、孝謙天皇の勅願寺として、恵明上人により行基が彫造した釈迦如来像を本尊として開創。法相宗だったが、後に弘法大師が荒廃していた伽藍を再興し真言宗に改宗。その頃から寺運は栄え、寺域は八丁四方に及び66坊の末寺をもつほどだった。 平安中期には空也上人が滞留し、村人たちへ布教をして親しまれた。1192年、源頼朝が一門の繁栄を祈願して堂塔を修復した。
【見所】本堂(1484年建立、重要文化財)、空也上人立像(鎌倉時代作、重要文化財)、本堂の厨子の落書き(最古のものは1525年)
第50番 繁多寺 1012km 80m ▶第五十番札所 東山 繁多寺(はんたじ)
8世紀半ば、孝謙天皇の勅願により行基が薬師如来像を彫造し建立。天皇より祭具の幡を賜り、これが寺名になったとの説もある。9世紀初め、弘法大師が寺に逗留。 その後寺は衰微するが、源頼義らの援助で再興、1279年には後宇多天皇の勅命で聞月上人が蒙古軍の撃退を祈祷。また一遍上人が青年期に参籠して修行。上人は1288年、亡父・如仏が所蔵していた『浄土三部経』を寺に奉納。
【見所】歓喜天堂(徳川4代将軍家綱の念持仏三体の一つ歓喜天を祀る)、鐘楼堂(1696年の信者寄進による梵鐘、天井絵には中国の24孝がモチーフ)
第51番 石手寺 1015km 60m ▶第五十一番札所 熊野山 石手寺(いしてじ)
728年に伊予の豪族、越智玉純が霊夢に25菩薩の降臨を見てここが霊地だと感得、熊野12社権現を祀った。聖武天皇の勅願所となり、729年に行基が薬師如来像を彫造し本尊として開基、法相宗の「安養寺」と称した。813年、弘法大師が真言宗に改めた。892年、右衛門三郎再来の説話により「石手寺」と改称。 鎌倉時代の風格をそなえ、立体的な曼荼羅形式の伽藍配置を現代に伝える名刹。
【見所】仁王門(1318年建立、国宝)、本堂(鎌倉末期)・三重塔(鎌倉末期)・訶梨帝母天堂(鎌倉末期)・鐘楼(1333年建立)・護摩堂(室町初期)・五輪塔(鎌倉末期)・銅鐘(1251年):いずれも重要文化財
●道後温泉 1016km 60m ▶道後温泉
3000年の歴史を誇る日本最古の大温泉。そのシンボル道後温泉本館は、1894年(明治27年)築の木造3階建の共同浴場。温泉街の南の丘陵地には、豪族河野氏の城跡で緑地公園となっている「道後公園」がある。
●松山城 1019km 130m ▶松山城
1602年、加藤嘉明の築城。再三火災に遭い、創建時のものは野原櫓・乾櫓・隠門・塀などのみ。天守も当初は5層だったが1642年に3層に改修し、現在の天守は1854年完成の三代目。天守をはじめ21の建造物が重要文化財で、城郭遺構は国の史跡。標高132mの勝山山頂にあり、眺望が良い。
第52番 太山寺 1028km 70m ▶第五十二番札所 瀧雲山 太山寺
587年、豊後の真野長者が船で大嵐に遭い、観音に念じると山頂から光が差し無事着岸。その頂上には小さな十一面観音があり、長者は一宇の建立を大願。豊後の工匠を集め1日で高浜に到着、一夜にして本堂を建立した。 739年、聖武天皇の勅願により行基が十一面観音像を彫造、胎内に真野長者が見つけた観音像を納め本尊とした。弘法大師は晩年訪れ、寺を法相宗から真言宗に改宗。
【見所】国宝:本堂(1305年建立)、重要文化財:仁王門(鎌倉時代)、本尊十一面観音立像(平安後期)、十一面観音立像 6躯(平安後期)
第53番 圓明寺 1031km 10m ▶第五十三番札所 須賀山 圓明寺(えんみょうじ)
749年、聖武天皇の勅願により行基が本尊の阿弥陀如来像と脇侍の観世音菩薩像、勢至菩薩像を彫造し、七堂伽藍の大寺として創建。当時は北の浜にあり「海岸山圓明密寺」と称した。 その後弘法大師が諸堂を再興したが、鎌倉時代に兵火で衰微。17世紀初頭に現在地に移され、1633年に須賀重久が再興。その功労から仁和寺の覚深法親王より須賀山の山号を賜り、仁和寺の直末とされた。
【見所】本堂(天井近くに左甚五郎作の龍)、キリシタン石塔、観音堂
第54番 延命寺 1065km 30m ▶第五十四番札所 近見山 延命寺
720年に聖武天皇の勅願により、行基が不動明王像を彫造し伽藍を建立して開創。9世紀に入り弘法大師が嵯峨天皇の勅命をうけ信仰と学問の中心道場として再興、「不動院・圓明寺」と名づけ勅願所とした。 その後火災と再興をくり返し、1727年に現在地の近見山麓へ移転。「圓明寺」の寺名は明治維新まで続いたが、同じ寺名の53番との間違いが多く、通称の「延命寺」に寺名を改めた。
【見所】山門(元は今治城の城門の一つ)、宝冠不動明王坐像(火伏せ不動尊)
●しまなみ海道 1073km 50m ▶しまなみ海道
「瀬戸内しまなみ海道サイクリングロード」は、美しい島々とそれらを繋ぐ橋で構成された広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ自転車道。1999年に開通し、サイクリングロードの全長約70kmのコースは「サイクリストの聖地」と呼ばれている。
*この旅では、今治市の糸山からしまなみ海道の一部を含めて愛媛県側の3つの島を一周する。
●大山祇神社 1123km 20m ▶大山祇神社
大三島の西岸、神体山とする鷲ヶ頭山西麓に鎮座する大山祇神社は、全国にある山祇神社(大山祇神社)の総本社や三島神社の総本社であり、山の神・海の神・戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた。建造物では本殿、拝殿が1427年の再建で重要文化財。平安時代の鎧など国宝・重要文化財も多数。
第55番 南光坊 1193km 10m ▶第五十五番札所 別宮山 南光坊
594年、推古天皇の勅により大三島に大山祇神社の元となる遠土宮が祀られた。703年、風波のため祭祀がおろそかになるのを憂い、文武天皇の勅を奉じ、国司越智玉澄が大山積明神を当地に勧請。同時に大三島に24坊を建立、その1つが南光坊。当地の宮は712年に完成し、「日本総鎮守三島の地御前」として奉祭され別宮と称した。弘法大師は四国巡錫の時別宮に参拝し、坊で御法楽をあげた。
【見所】大通智勝如来、書道家・川村驥山の菅笠、金比羅堂
●今治城 1195km 10m ▶今治城
藤堂高虎により1602年に築城開始、1604年に完成。三重の堀に海水を引き入れ、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海を最大限に活用した城。1869年(明治2年)に廃城され、ほとんどの建築物が破却されたが、石垣と内堀はほぼ江戸時代の姿を残す。現在の天守は1980年築のRC造。
第56番 泰山寺 1200km 20m ▶第五十六番札所 金輪山 泰山寺
815年に弘法大師が訪れた際、梅雨時で蒼社川が氾濫し、村人たちは悪霊のしわざと信じていた。大師は村人と堤防を築き、土砂加持の秘法を七座にわたり修法し、満願の日に延命地蔵菩薩を空中に感得し治水祈願が成就。 大師はここに「不忘の松」を植え、感得した地蔵菩薩像を刻み本尊とし堂舎を建てて「泰山寺」と名づけた。この寺名は「延命地蔵経」の中の「女人泰産」からとったとされる。
【見所】本堂(1854年再建)、不忘の松
第57番 栄福寺 1203km 50m ▶第五十七番札所 府頭山 栄福寺
嵯峨天皇の勅願により、弘法大師が瀬戸内海の平易を祈って府頭山山頂で護摩供を修法。満願の日、海上に阿弥陀如来の影向が漂い、この像を引き上げ山頂に堂宇を建て創建。 神仏混合の歴史もあり、859年、大和・大安寺の行教上人が宇佐八幡の分社を山城に創建するため航行中暴風雨に遭い漂着。府頭山が山城の男山と似ており阿弥陀如来は八幡菩薩の本地仏であるため、境内に八幡明神を勧請し勝岡八幡宮を創建。
【見所】古い納経帳(1800年)、少年の箱車、お願い地蔵、大師堂の十二支彫刻
第58番 仙遊寺 1206km 250m ▶第五十八番札所 作礼山 仙遊寺
天智天皇の勅により、7世紀後半に伊予の国主越智守興が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は海から上がってきた竜女が一刀三礼して彫ったとされ、「作礼山」が山号となった。また阿坊仙人という僧が40年にわたり七堂伽藍を整えたが、718年に雲と遊ぶかのように突然姿を消してしまったことが「仙遊寺」の由来。 弘法大師はここで修法し、人々の救済のため井戸を掘り伽藍を修復し再興。
【見所】本堂(本尊は平安後期作とされる)、竜燈桜碑、弘法大師お加持の井戸、犬塚池(寺から望む風景)
第59番 国分寺 1213km 10m ▶第五十九番札所 金光山 国分寺
伊予国分寺。741年、聖武天皇の勅願により行基が本尊の薬師如来像を彫造して安置し開創。第3世住職・智法律師のとき、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も2年間留まり、『法華経』の一部を書写して納めている。 往時には今の寺から150mほど東にあり、13個の巨大な礎石がある伊予国分寺塔跡は国の史蹟。
【見所】本堂(1789年再建)、書院、唐椿(市指定天然記念物)
第60番 横峰寺 1242km 745m ▶第六十番札所 石鉄山 横峰寺
651年、役行者が石鎚山の星ヶ森で修行していると蔵王権現が現れ、その姿を彫り小堂を建てて安置し創建。延暦年間(782〜806)には石仙仙人という行者が住み、桓武天皇の脳病平癒を成就して菩薩の称号を賜った。 大同年間(806〜10)には弘法大師がこの寺で厄除けと開運祈願の星供養の修法を行い、やはり蔵王権現が現れたのを感得、堂宇を整備して霊場とした。
【見所】本堂、本尊(金剛界大日如来像)、星供大師、星ヶ森(国の名勝、山門から約600m、霊峰石鎚山の遥拝所)
第61番 香園寺 1256km 30m ▶第六十一番札所 栴檀山 香園寺(こうおんじ)
用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立したと伝えられる。天平年間(729〜49)には行基が巡錫。大同年間(806〜10)に弘法大師が訪れ、門前で苦しむ身重の婦人に栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると婦人は元気な男子を無事出産。大師は栴檀の香を焚いて安産、子育て、身代わり、女人成仏を祈る「四誓願」の護摩修法をして寺に遺し霊場に定められた。「栴檀山」はこれに由来。
【見所】大聖堂、子安大師像
第62番 宝寿寺 1257km 20m ▶第六十二番札所 天養山 宝寿寺
聖武天皇の勅願で大国主大神ら三神を祀る伊予の一の宮神社が建立され、道慈が法楽所としての別当寺「金剛宝寺」を創建。 大同年間(806~10)に弘法大師が訪れ、光明皇后の姿をかたどった十一面観世音菩薩像を彫り本尊とした。また国司の越智氏の夫人が難産で、大師が霊水で加持し、夫人は玉のような男子を無事出産。これに因み寺名を「宝寿寺」と改め、安産の観音としても信仰された。
【見所】本堂・本尊、真念遍路道標(愛媛県歴史文化博物館に長期展示中)
第63番 吉祥寺 1258km 20m ▶第六十三番札所 密教山 吉祥寺
弘仁年間(810~824)に弘法大師が1本の光を放つ檜を見つけ、一帯に霊気が満ちているのを感得。大師はこの霊木で本尊の毘沙聞天像、脇侍の吉祥天像と善膩師童子像を彫って安置し堂宇を建立。当時の寺は今より南東の坂元山にあり、広い寺域に塔頭を21坊ほど有していたが、1585年に豊臣秀吉による四国征伐の際に全山を焼失。1659年に末寺であった檜木寺と合併して現在地に再建。
【見所】本堂・本尊(毘沙聞天坐像は60年に一度開帳の厳格な秘仏)、成就石、くぐり吉祥天女
第64番 前神寺 1262km 20m ▶第六十四番札所 石鉄山 前神寺(まえがみじ)
日本七霊山の一つ石鎚山の麓の霊場。天武天皇(在位673~86)時代に役行者小角が石鎚山で修行後、釈迦如来と阿弥陀如来が石鈇山大権現となって現れたのを感得し、尊像を彫って安置し開創。その後、桓武天皇(在位781~806)が病気平癒を祈願し成就したため七堂伽藍を建て、勅願寺「金色院前神寺」の称号を下賜。後に弘法大師も2度石鎚山で修行している。
【見所】本堂、石鈇権現堂、権現様縁日(毎月20日)、御瀧行場不動尊、奥前神寺(石鎚山中腹にあり7月1日からの10日間の山開き期間中参詣できる)
第65番 三角寺 1306km 340m ▶第六十五番札所 由霊山 三角寺
聖武天皇(在位724〜49)の勅願により、行基が弥勒の浄土を模して具現するため開創。815年に弘法大師が訪れ、本尊の十一面観音像を彫造して安置、さらに不動明王像も彫り、三角の護摩壇を築いて21日間、国家の安泰と万民の福祉を祈念し「降伏護摩の秘法」を修法。この護摩壇の跡が庫裡と薬師堂の間にある「三角の池」の中の島として現存し、寺院名の由来となっている。
【見所】三角の池、薬師堂、延命地蔵菩薩立像(昭和52年再建)
【香川県】 讃岐国…涅槃の道場 23か寺
第66番 雲辺寺 1335km 910m ▶第六十六番札所 巨鼇山 雲辺寺(うんぺんじ)
784年、弘法大師が16歳のとき善通寺(第75番)の建材を求めて山に登り、深遠な霊山に心うたれて堂宇を建立し創建。807年、大師はここで秘密灌頂の修法をし、さらに818年、嵯峨天皇の勅を奉じて登り、本尊を彫造し仏舎利と毘廬遮那法印(仏法石)を山中に納めて七仏供養をし霊場と定めた。四国霊場で最も高い標高にある難所。現在は麓からロープウェーで登ることができる。
【見所】重要文化財:千手観音坐像(平安後期)、不動明王・毘沙門天立像(慶尊作、1184年)、絹本著色聖衆来迎図。毘沙門天展望館(360度眺望)
第67番 大興寺 1346km 80m ▶第六十七番札所 小松尾山 大興寺
742年、東大寺末寺として建立。その後、最澄の影響で天台宗となる。792年に弘法大師が訪れ、823年、嵯峨天皇の勅によって大師が現在地より北西約1kmに熊野三所権現を鎮護する霊場として再興し、本尊に薬師如来と脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで堂宇を建立し安置。その後も東大寺の末寺として真言宗24坊、天台宗12坊の僧堂が連ね、空海と最澄の教えを修行する道場として栄えた。
【見所】仁王門(木造金剛力士像:伝・運慶作)、本堂(1741年再建、本尊、不動明王立像、毘沙門天立像、十二神将:堪慶作)
第68番 神恵院 1354km 20m ▶第六十八番札所 七宝山 神恵院(じんねいん)
703年、法相宗の日証上人が宇佐八幡宮のお告げを受け、海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀った。このとき神宮寺として建てられた寺が起源(68・69番)。行基が722年に訪れた後、807年に弘法大師が訪れ、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描いて本尊として祀り、後に院号を「神恵院」とし68番霊場とした。
【見所】本堂(2002年、RC造)、宝物館(絹本著色琴弾八幡本地仏像等:国重要文化財)、巍巍園(回遊式庭園。第45世大政大僧正道尊の作庭)
第69番 観音寺 1354km 20m ▶第六十九番札所 七宝山 観音寺
703年、法相宗の日証上人が宇佐八幡宮のお告げを受け、海上で神船と琴を発見。琴弾山に引き上げ、「琴弾八幡宮」を建立して祀った。このとき神宮寺として建てられた寺が起源(68・69番)。807年に弘法大師が第7世住職として入山、奈良の興福寺を模して中金堂に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、七堂伽藍を整備し仏塔を建てて七宝を埋め地鎮し、名称を七宝山観音寺と改めた。
【見所】国重要文化財:本堂(金堂)、木造釈迦涅槃仏像、絹本著色不動明王二童子像
第70番 本山寺 1358km 10m ▶第七十番札所 七宝山 本山寺(もとやまじ)
807年、平城天皇の勅願により弘法大師が70番札所として開基。当時は「長福寺」といい、本堂は大師が一夜で建立したとの伝説が残る。中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺となった。 天正の兵火では長宗我部軍が本堂に侵入の際、住職を刃にかけると脇仏の阿弥陀如来の右手から血が流れ落ち、驚いた軍勢が退去して本堂と仁王門は兵火を免れたという。その後、「本山寺」と名を改めた。
【見所】本堂(1300年再建、国宝)、二王門(室町中期、重要文化財)、五重塔(1910年再建)、国の登録有形文化財:大師堂・十王堂・大日堂他
第71番 弥谷寺 1370km 200m ▶第七十一番札所 剣五山 弥谷寺(いやだにじ)
聖武天皇の勅願により行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔うため創建。当初は蓮華山八国寺と称した。弘法大師は7-12歳の時、寺にある獅子之岩屋で学問に励んだ。807年、大師が再び訪れ、獅子之岩屋にて護摩を修し蔵王権現のお告げにより千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴と五柄の剣を納め、山号を剣五山、寺名を仏の谷という意味の弥谷に改めた。
【見所】大師堂本堂、奥の院 獅子の岩屋、弥陀三尊磨崖仏、金銅五鈷鈴(唐時代、重要文化財)
第72番 曼荼羅寺 1375km 50m ▶第七十二番札所 我拝師山 曼荼羅寺
弘法大師の出身氏族である佐伯氏の氏寺として596年に創建され、当初は世坂寺と称した。大師が唐より帰国後、請来した両界曼荼羅を奉納し、大日如来を本尊として再興、母(玉依御前)の菩提寺とし、曼荼羅寺と改称した。 鎌倉時代には後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えた。1560年、阿波の三好実休による兵火で焼亡、さらに慶長年間(1596~1615年)に戦火を受けたが復興している。
【見所】木造聖観音立像(平安後期)、笠松大師、西行の昼寝石
第73番 出釈迦寺 1376km 100m ▶第七十三番札所 我拝師山 出釈迦寺(しゅっしゃかじ)
弘法大師が7歳の時、倭斬濃山に登り「将来仏門に入り、仏の教えを広めて多くの人を救いたい。私の願いが叶うなら釈迦如来よ、姿を現したまえ。もし叶わぬのなら一命を捨ててこの身を諸仏に捧げる」と断崖絶壁から身を投じた。すると釈迦如来と天女が現れて抱きとめ、願いが成就された。大師は釈迦如来が現われた山を「我拝師山」と名づけ出釈迦寺を建立、釈迦如来の像を刻み本尊とした。
【見所】捨身ヶ嶽禅定(奥の院)、捨身ヶ嶽遙拝所、本堂
第74番 甲山寺 1378km 20m ▶第七十四番札所 医王山 甲山寺(こうやまじ)
壮年期の弘法大師が寺を建立する霊地を探していると、岩窟から老翁が現れ「ここに寺を建立すべし」と告げた。老翁が毘沙門天の化身と悟った大師は岩窟に毘沙門天を祀った。その後、嵯峨天皇の勅命を受け満濃池の修築を命じられた大師は、薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり、無事に築造を完成。その功績に朝廷から二万銭が与えられ、その一部で堂を建立し薬師如来を本尊とした。
【見所】本堂、多聞天堂(毘沙門天の岩窟)、子安地蔵
第75番 善通寺 1380km 30m ▶第七十五番札所 五岳山 善通寺
弘法大師は現在の善通寺市の出身。善通寺は大師の父で地元の豪族であった佐伯田公から土地の寄進を受け、807年に建立し始め813年に落成。大師の入唐中の師であった恵果が住していた長安の青龍寺を模して建立し、創建当初は金堂・大塔・講堂など15の堂宇であった。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は5つの山の麓にあることから命名された。
【見所】金堂(1699年再建、重要文化財)、五重塔(1902年、重要文化財)、御影堂(1831年)、金銅錫杖頭・一字一仏法華経序品(国宝)
●金刀比羅宮 1388km 250m ▶金刀比羅宮
象頭山中腹に海上の守護神大物主命を祀る。参道の石段は本宮まで785段、さらに奥社まで583段。江戸中期頃から全国の庶民へ信仰が広がり、各地で金毘羅講が組織され「金毘羅参り」が盛んに行われるようになった。重要文化財:旭社(1837年築)、表書院(1659年築)・奥書院・四脚門、十一面観音立像(宝物館内)。また門前町にある旧金毘羅大芝居(金丸座)は、日本最古の芝居小屋(1835年築、重要文化財)。
第76番 金倉寺 1397km 20m ▶第七十六番札所 鶏足山 金倉寺(こんぞうじ)
774年、和気道善が如意輪観音を祀り一堂を建立、自在王堂と呼ばれた。851年、道善の子・和気宅成の上奏により官寺とし道善寺と名付けた。その後、宅成の子・円珍が858年に唐より帰朝後、長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像し本尊とした。928年、醍醐天皇の勅命により金倉郷から「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改めた。
【見所】大師堂(1651年、元の金堂)、訶利帝堂
第77番 道隆寺 1401km 10m ▶第七十七番札所 桑多山 道隆寺(どうりゅうじ)
712年、当地の領主・和気道隆は桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったので矢を射ると、乳母に当たり誤って殺してしまった。道隆はこれを悲しみ、桑の大木を切り薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源。道隆の子・朝祐は807年、弘法大師に頼んで薬師如来を彫像しその胎内に道隆の像を納め本尊とし、また大師から受戒を受け第2世住職となり、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。
【見所】潜徳院殿堂(目なおし観音)、絹本著色星曼荼羅図(鎌倉時代、国重要文化財)
●丸亀城 1405km 20m ▶丸亀城
1597年、生駒親正が高松城の支城として整備し、以来、山崎氏・京極氏が居城とした。江戸初期の3層3重の天守・大手一の門・大手二の門は重要文化財。4重に重ねられ、合計で60mの高さになる石垣が美しい。
第78番 郷照寺 1410km 20m ▶第七十八番札所 仏光山 郷照寺
725年、行基が阿弥陀如来像を彫造し「仏光山・道場寺」として開創。807年に弘法大師が訪れ伽藍を整備。その時に自身の像を彫造し厄除け誓願をした。この像は「厄除うたづ大師」として今も広く信仰されている。仁寿年間(851~854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修し、寛和年間(985~987年)には恵信僧都が釈迦堂を建立。1288年には一遍上人が踊り念仏の道場を開いた。
【見所】観賞式庭園、境内から臨む瀬戸大橋の眺望
第79番 天皇寺 1416km 20m ▶第七十九番札所 金華山 天皇寺
天平年間、行基がこの山がカナヤマビメとカナヤマヒコの御座す山だとし金山と名付け、薬師如来を本尊とした金山摩尼珠院を建立。後に弘法大師が訪れ、金山権現と出会い中腹より湧き出る神水と感応し、金華山妙成就寺摩尼珠院として再興。十一面観音菩薩・阿弥陀如来・愛染明王を刻み堂宇に安置した。後に保元の乱により配流された崇徳天皇の供養の寺として、崇徳天皇寺と呼ばれた。
【見所】三輪鳥居、本堂、大師堂
第80番 国分寺 1423km 40m ▶第八十番札所 白牛山 国分寺
741年、聖武天皇が発した国分寺建立の詔により、行基が開基した讃岐の国の国分寺。その後、弘仁年間(810〜823)に弘法大師が本尊千手観音像を修理し霊場に定めた。1391年の文献には西大寺の末寺である旨が記されている。天正の兵火により本堂と本尊と鐘楼を残しほとんどが焼失。奈良時代の創建当時の遺構をよく残し、旧境内の全域が四国で唯一の国の特別史蹟。
【見所】重要文化財:本堂(鎌倉後期、創建時の講堂の礎石を利用)、木造千手観音立像(平安末期)、銅鐘。国の特別史跡:讃岐国分寺跡(金堂跡・七重塔の礎石等)
第81番 白峯寺 1436km 280m ▶第八十一番札所 陵松山 白峯寺(しろみねじ)
弘法大師が815年に訪れ、白峯山頂に如意宝珠を埋め仏に供える水を汲む閼伽井を掘り、衆生救済の請願をした。また860年、円珍(智証大師)が山頂に輝く瑞光を見て登頂、地主神である老翁より神託を受け、瀬戸内海に現れた不可思議な光を放つ霊木で千手観世音菩薩を刻み、本尊として仏堂を創建。1164年、崇徳上皇が讃岐流刑地で崩御し、当山稚児嶽上で荼毘に付され陵墓が造られた。
【見所】重要文化財:十三重石塔2基、山門(七棟門)、御成門、勅使門、客殿、勅額門、頓証寺殿、薬師堂、行者堂、阿弥陀堂、本堂、大師堂、「頓証寺」勅額
第82番 根香寺 1443km 350m ▶第八十二番札所 青峰山 根香寺(ねごろじ)
弘仁年間に弘法大師が訪れ、五色台の五つの峰に金剛界の五智如来を感得し、その一つの青峰に一宇を建立し五大明王を祀り「花蔵院」と称した。その後、円珍(智証大師)が832年に訪れた際、山の鎮守の市之瀬明神に蓮華谷の霊木で観音像を造るよう告げられ、千手観音像を彫像し「千手院」を建てて安置。この霊木は切り株から芳香を放ち続けたことから、2院を総称して根香寺と名付けた。
【見所】木造千手観音立像(平安時代、秘仏、重要文化財)、五大尊像、牛鬼の像
第83番 一宮寺 1456km 40m ▶第八十三番札所 神毫山 一宮寺
奈良仏教の興隆の礎を築いた義淵僧正により法相宗の寺院として大宝年間(701~704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称した。和銅年間(708~715年)、諸国に一の宮が制定された際、行基が堂宇を改修し一宮寺と改めた。その後大同年間(806~810年)に弘法大師が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。
【見所】本堂、一宮御陵、薬師如来の祠(地獄の釜の煮えたぎる音がする祠)
●栗林公園 1461km 10m ▶栗林公園
紫雲山を借景にし、6つの池と13の築山を配した75haの広大な大名庭園で、元生駒家の別邸を1642年に高松藩主松平頼重が庭園として整備し、1745年に作庭が完成。国の特別名勝。
●玉藻公園 1464km 10m ▶玉藻公園
「玉藻城」と呼ばれた高松城跡地の公園。1588年に生駒親正が黒田如水の設計で築城し、かつては城壁が瀬戸内海に直接面し、3重の堀に海水が引き込まれ軍船が出入りできた。三重櫓や門など一部の建物や石垣、堀が現存し、外堀と内堀には海水が引き込まれ、往時の名残を残す。重要文化財:北の丸月見櫓、水手御門、渡櫓、旧東の丸艮櫓、披雲閣(旧松平家高松別邸)。
●四国村 1470km 30m ▶四国村
四国各地から古い民家や伝統産業施設、灯台などの建築物を移築した野外博物館。重要文化財の民家2棟、重要有形民俗文化財の建物6棟をはじめ、ほぼ全ての建造物が文化財の指定・登録を受けている。2002年、村内に安藤忠雄設計の美術館と庭園で構成される四国村ギャラリーが開館。
第84番 屋島寺 1474km 290m ▶第八十四番札所 南面山 屋島寺
唐の鑑真和上が朝廷からの要請を受け、苦難の末753年に鹿児島に漂着。翌年、船で東大寺に向かう途中、屋島の北嶺に登り普賢堂を建て普賢菩薩像を安置し創建。のち和上の弟子で東大寺戒壇院の恵雲が堂塔を建立し「屋島寺」と称し初代住職になった。815年、弘法大師は嵯峨天皇の勅願を受けて屋島寺を訪ね、伽藍を現在地の南嶺に移し十一面千手観音像を彫り本尊として安置した。
【見所】重要文化財:本堂(鎌倉時代の前身堂の部材を用いて1618年建立)、木造千手観音坐像(平安中期)、梵鐘(1223年)
●イサム・ノグチ庭園美術館 1480km 20m ▶イサム・ノグチ庭園美術館
彫刻家イサム・ノグチのアトリエと住居を「イサム・ノグチ庭園美術館」として開設。この地が未来の芸術家や研究者、そして広く芸術愛好家のためのインスピレーションの源泉となることを強く望んでいたノグチの遺志を実現したもの。150点余の彫刻作品、自ら選んで移築した展示蔵や住居イサム家、彫刻庭園など、全体がひとつの大きな「地球彫刻」、あるいは環境彫刻となっている。
第85番 八栗寺 1485km 230m ▶第八十五番札所 五剣山 八栗寺(やくりじ)
829年、弘法大師が虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れ、ここが霊地だと告げた。大師は剣を山中に埋め、大日如来像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名づけ開基。眺望が良く八つの国が見えたので「八国寺」と称した。その後、唐から帰った大師が、唐に渡る前に入唐求法の成否を占うため植えた焼き栗八つが芽吹いているのを見て、八国寺を「八栗寺」に改めた。
【見所】聖天堂、中将坊堂、大師堂横の多宝塔、鐘楼堂
第86番 志度寺 1491km 0m ▶第八十六番札所 補陀洛山 志度寺
626年、凡薗子尼(おおしそのこに)が志度浦にたどり着いた檜の霊木から十一面観音を造立し、小さな堂を建て祀ったことが創建。681年、藤原不比等が堂宇を増築し「死度道場」と名づけた。693年に不比等の子・藤原房前が行基とともに堂宇を建立し、寺名を「志度寺」に改めた。その後、弘仁年間に巡錫に来た弘法大師が伽藍の修理にあたった。
【見所】重要文化財:本堂(1670年)、仁王門、木造十一面観音立像および両脇侍(藤原時代)、絹本著色十一面観音像(鎌倉時代)、絹本著色志度寺縁起 6幅(鎌倉末~室町初期)
第87番 長尾寺 1499km 40m ▶第八十七番札所 補陀洛山 長尾寺
739年、行基が楊柳に霊夢を感じ、その木で聖観音菩薩像を刻み安置し創建。当時は法相宗。聖徳太子創建との説もある。弘法大師が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、7日目に護摩符を人々に投げ与えた伝説があり、毎年1月7日の「大会陽福奪い」として今に伝わる。825年、唐より帰朝した大師は大日経を一石に一字写経し万霊供養塔を建立、真言宗に改宗した。
【見所】山門(1670年)、本堂、経幢2基(重要文化財)
第88番 大窪寺 1514km
(GOAL)
460m ▶第八十八番札所 医王山 大窪寺
717年、行基がこの地を訪れたとき悪夢を感得し草庵を建て修行をしたのが開基。弘仁年間 (810~823年) に唐から帰朝した弘法大師が現在の奥の院にある岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、谷間の窪地に堂宇を建て等身大の薬師如来坐像を刻んで安置し、また恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて、窪地にちなみ「大窪寺」と名付け結願の地と定めた。
【見所】木造薬師如来坐像(本尊、奈良末期)、本堂、大師堂
参考資料:(一社)四国八十八ヶ所霊場会HP阿波ナビ(徳島県観光情報)/よさこいネット(高知県観光情報)/いよ観ネット(愛媛県観光情報)/うどん県旅ネット(香川県観光情報)
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last modified:2021-03-24
uploaded:2021-03-12