石岡の看板建築
八郷の茅葺き民家めぐりのスタートはJR常磐線の石岡駅。八郷に向かう前にこの石岡の街中を散策します。
石岡は歴史ある街で古墳も多くあり、奈良時代には常陸国の国府が置かれ、江戸時代には水戸街道の府中宿として栄えたそうです。しかし昭和初期の大火により江戸時代の建物のほとんどが焼失し、その後建てられた看板建築のいくつかがこのあたりのもっとも古い建物として残ります。
写真左は昭和5年建造の十七屋履物店で、この地区の看板建築のさきがけだとか。外壁は左官仕上げのクラシカルな洋風のデザイン。お隣の久松商店の外壁は銅板張り。オリジナルは戦時に供出されてしまったものの近年復活したのだとか。右端にちらっと見えるのは土蔵造りの福島屋砂糖店です。この外壁、実は土ではなくコンクリートだそうです。この福島屋砂糖店や江戸時代末期に建てられた染物屋の丁子屋、そして江戸時代に創業の造り酒屋府中誉の屋根瓦は、東日本大震災の影響で落下、建物にも少し損傷があるようでした。
恋瀬川の自転車道を行く
石岡の街中のこうした看板建築を巡ったのちは、街の西のはずれを流れる恋瀬川に出ます。この恋瀬川沿いにはサイクリングロードがあり、この道が私たちを筑波山の麓まで導いてくれます。
正面にうっすらと男体山と女体山の二つの頂きがある筑波山が見え出します。
ちょっとだけ山道風のところを行く
6~7kmほどのところで恋瀬川の自転車道を降り、八郷地区に入って地方道をちょっと逸れたら、ありゃりゃ・・・ 山道っぽいところに入っちゃった。
『今日は上りはないと思って3速の自転車できちゃった! ここは結構つらいな~』 とビジターの赤シャツ・タカちゃんはダンシングでガシガシ。続くルビオもガシガシ。
田んぼと筑波山
山道っぽいところを下れば、そこはただ田んぼが広がるだけの世界です。小高い丘の向こうにはあの筑波山が二つの頂きをそろえています。
弓弦の茅葺き民家
八郷の茅葺き民家は弓弦( ゆづり)から始まりました。
田んぼの脇の坂道の上に杉の大木が何本も見えると、そこがこのお宅の屋敷林でした。急な坂の上に瓦屋根の大きな門、そしてその後ろに立派な茅葺きの母屋。このお宅の棟は瓦で葺かれているのが珍しく、もしかするとこれはあとから改修されたのかもしれません。
田んぼの中を行く
いきなり現れた巨大な民家にみんなあんぐり。
『立派な門があってこんなにでっかい茅葺きの民家は見たことないですねぇ。』 とはタカちゃん。
弓弦からは田んぼ中を抜け小野越へ向かいます。八郷は古くからの稲作地帯で、茅葺きの民家もほとんどが農家です。
小野越の茅葺き民家1
辻からr138を西に向かうと、筑波山を背に田んぼの中に茅葺き民家がぽつんと建っています。このお宅はちょっと小ぶりですが、それでも周囲は屋敷林に囲まれていてそれなりの風情があります。
小野越の茅葺き民家2
r138をさらに西に向かうとその先はロードレーサーにはおなじみの不動峠ですが、私たちはもちろんこの峠は上りません。(笑) 途中の山にへばりつくようにして、もう一軒の茅葺きの民家はありました。もしかしてあの裏山全部がここのお宅のもの?
八郷の茅葺き民家に共通しているのは寄せ棟造りであること、平入りであること、棟の真ん中に煙出しが一つ飛び出していることでしょうか。このお宅にもそれらの特徴が見て取れます。
辻の坂入家
小野越から辻に戻ると、そこには八郷を代表する茅葺き民家の一つがあります。近年、国の文化財になったここ坂入家は明治前期建造だとか。屋根の茅は半分が新しく葺き替えられていて、左右ではっきりその違いがわかるのが面白い。棟中央の煙出しの越屋根は瓦葺のようです。
農家である茅葺きの民家の内部は面積の3~4割が土間で、そこは農作業の場でもあり、一角に馬屋を備えるのが一般的だったようです。
山越え?
辻から青柳に向かうと、ありゃりゃ、ここはどこ? 道、間違えた~。と、ちょっと楽しいイベントもありましたが、なんとか下青柳に到着。
下青柳の茅葺き長屋門
下青柳のお宅はこれまで見たことのない、立派な茅葺きの長屋門を持っていました。母屋も茅葺きで健在です。どうして農家なのに長屋門があるのかなぁ。長屋門ってお武家のでしょう? と思ったら、それは歴史の始まりのころのことであって、時代が下ると庄屋や富裕な農家も造るようになったのだとか。そしてこうした門は、使用人の住居や納屋、作業所などとして使われたのだそうです。
使用人の住宅って、うちより広いや!
筑波山とサイダー
下青柳には茅葺きがもう一軒あるらしいのですが、これは発見できなかったので上青柳に向かいます。いつのまにか筑波山がぐっと近くなっています。
木崎家のお堂
上青柳には二軒の茅葺き民家が残るそうです。その一軒の前までやってくると、ちょっとした人だかりが。なにかのイベント?と様子を伺っていると、どうやら映画の撮影らしい。ちょうどそこへここ木崎家のご主人がやってきて、中を覗いてもいいとおっしゃってくださったので、さっそくおじゃましました。
まず目に付くのは屋敷の角にある小さな茅葺きの建物。棟の両端のキリトメという部分には『木崎』という文字と卍が彫込まれている。これはなにかといえば、虚空蔵さまをお祀りするお堂だという。個人のお宅にお堂!
木崎家母屋
こちらが母屋で、撮影の準備でせわしなく人々が動いている。なんでもこの映画は中国人の監督で、主演は倍賞千恵子さん。その倍賞さんは今宵やってくるのだとか。
辻の坂入家でも見られたように、ここの屋根も半分ずつ葺き替えられたようです。くわしいお話は聞けませんでしたが、半分ずつ葺くのは茅がたくさん入手できないからだろうと想像します。
木崎家の軒先
筑波流茅葺き屋根の特徴の一つは『トオシモノ』または『段葺き』と呼ばれる軒の仕上げ方にあるそうです。最下層に白い稲わら、その上に煤で黒ずんだ古茅と明るい色調の新茅を交互に重ねて5~7層に葺かれます。この縞模様、ちょっとバームクーヘンみたいですね。通常の屋根の葺き替えは一番上の一層だけだそうです。
北の木崎家
木崎さんにお礼を述べて立ち去ろうとすると、このすぐ北にもう一軒茅葺きの家があると教えてくださいました。そこでそちらに向かうとすぐ、田んぼを前に山を背にしたこのお宅が現れました。
北の木崎家のご主人と
門の前に農作業を終えて休憩している方がおられたので話し掛けると、その方はこのお宅のご主人で、私たちを屋敷の中に導いてくださいました。こちらも木崎さんなので先のを南の木崎家、こちらを北の木崎家と呼ぶことにします。
立派な瓦屋根の門には漆喰のコテ細工が施され、それが表と裏で違えているという凝りよう。長屋門は武家屋敷から始まりましたが、こうした薬医門も最初は公家や武家の門で、のちに扉をなくして医者の門として用いられるようになり、さらに豪農などが用いるようになったとか。
北の木崎家の母屋と書院
その門をくぐると正面に母屋、そしてその脇に書院と二棟の茅葺きが建っています。現在は三世代がこの母屋と書院に暮らしているそうです。
北の木崎家は庭も立派で、大きな藤棚に錦鯉が泳ぐ池があります。この池の水は最終的には田んぼに導かれるそうですが、途中でもう一つの池を経由します。その池は建物の横にあり、中華風の赤い東屋がありその廻りでは蓮が咲いています。こうした趣味や大きな屋敷をみると、少なくともかつては下級武士などとは比べ物にならないほど裕福だったのでしょう。
寿の文字が見える書院のキリトビ
筑波流茅葺き屋根の特徴の一つは軒の仕上げ方にあることは先に述べましたが、もう一つの特徴がこちら。
棟の両端のキリトメと呼ばれるところの装飾です。ここでは『寿』の文字が刻まれています。この文字、茅を鋏でチョキチョキしたあとに墨を入れるのだそうですが、鋏でよくもまあこんなに細かい芸当ができるものだと感心します。
しかしこうした茅の葺き替えができる職人は、ここ八郷ではかなり高齢の一人か二人になってしまったそうです。
上青柳から見る筑波山
北の木崎さんにお礼を申し上げて小幡に向かいます。このあたりから見る筑波山はとてもきれい。
小幡に向かうサリーナ
小幡まではちょっとした丘を越えます。その丘の先の筑波山は青柳から見たのとはまた微妙に姿を変えています。そして筑波山の北側の山の中腹には、峰寺山西光院がポツンと一つだけ木々の中から顔を出しているのが見えます。本日の最高地点、260mはその西光院なのです。
小幡の軒下のカメさん
小幡はかつてはちょっとした街道だったのか、それらしい雰囲気の道の両側に家々が並んでいます。その中の一軒は茅葺きの大屋根の下に瓦の軒を出しています。その大屋根の下にはこんなかわいらしい細工が施されていました。カメさんですね。北の木崎家のキリトメは『寿』、ここはカメさんと、どうやらこうした細工はおめでたいものでするようです。
小幡の茅葺き民家
こちらは小幡のもう一軒。煙出しの瓦葺越屋根が建物の真ん中ではなく偏っていること、腰に黒い漆喰のようなものが塗られているのが珍しいかな。
街道の民家は町屋であることが多いのですが、ここ小幡のそれらは農家型で、狭い敷地いっぱいに母屋が建っています。両側は隣の家になりますが、その境界にはイグネと呼ばれる生垣があります。この生垣は火災時の延焼防止のためだとか。
吉生に向かう面々
小幡からは吉生に向かいます。さきほどまで周囲は田んぼでしたが、ここにきてそれは畑に変わりました。途中通り越す道の名がフルーツラインであるように、畑にはぶどうや梨、めずらしいものでは銀杏を獲るためのいちょうなんていうものも植えられています。
吉生の長屋門1
吉生では二軒の長屋門を発見。これはかなり大きい!
吉生の長屋門2
すぐそばにもう一つ。
長屋門1の奥さんと
長屋門の前の梨畑で作業している方が声を掛けてくださいました。この方は最初の長屋門の持ち主で、かつては門に農作業のお手伝いさんを住まわせていたことや、10~15年に一度は茅の葺き替えをしなければならず、一面ずつ年を変えて葺くこと、一度に掛かる費用は長屋門の片面でも100万円以上もすることなどを教えてくださいました。
西光院への上り
吉生にはあと二軒ほど茅葺きの民家があるらしいので、西光院の登り口まで探してみましたがこれは見つかりませんでした。
ここからいよいよ本日随一の難所です。西光院の標高は260mほどで、登り口は40m。200m以上の高度を3kmほどで上らなければなりません。ん~~ん、平均斜度7%はきつい~
西光院到着
シッティングでよたよたと上る人もいればダンシングでガシガシ上る人も。それぞれのペースでこの坂をなんとか上って行きます。ピンクのヘルメットでガシガシ来るはビジターのヒコちゃん。それを追うは同じくビジターのペピーノ。
最後だけ乗った人、だ~れ?
西光院からの眺め
西光院のお堂は懸造(かけづくり)という清水寺にも見られる構造で、山の中腹から張り出すように造られています。そこからの眺めはこちら。小高い山とも丘ともつかぬものの間に緑の田んぼが広がります。八郷は意外と複雑な地形の中にあるのです。
上曽のヤギさん
西光院で眺めを楽しんだあとは上曽に下りました。
ン、あなた、どなた? どおしてここにいるの?
上曽の茅葺き民家1
上曽のこのお宅は長屋門と母屋、両方とも茅葺きです。屋敷内には新しい家が瓦葺きの伝統的な工法で建てられ、その廻りの塀も瓦に漆喰そして木で造られています。母屋の茅葺きにふさわしい造りで、気配りが感じられます。
上曽の茅葺き民家2
上曽のもう一つの民家はちょっと変わっています。八郷の茅葺きの民家はどれも平屋ですがこれだけ二階建てで、一階部分の屋根は瓦葺きです。この一階部分は新しく見えるので、増築もしくは改築されたのかもしれません。
棟の端部のキリトメのデザインもこれまで見てきたものよりカラフルです。茅葺きの一番外側の雨が流れる層はみずきりと呼ばれ、その下に防水のために杉皮が敷かれ、さらにその下は竹でできています。軒下に見える白い線はこの竹の小口が白く塗られたもので、とてもきれいに見えます。
上曽の茅葺きの前を行く
これまでの民家の平面は単純な長方形だったのに対し、ここはL型。実はこのお宅、江戸時代には旅籠だったそうで、他の農家とは一味違うのも頷けます。
ここの棟には竹簀(たけす)巻きの模様がきれいに見て取れます。この竹簀巻きは八郷のみならず、太平洋沿岸の竹が多く採れる地域に共通した棟の納め方だそうです。
パラグライダー
筑波山周辺はパラグライダーやハンググライダー、そして気球などの空のスポーツが盛んなところでもあります。上曽の通りからほんの少し北に入ったところに、あちこちに浮かんでいたパラグライダーの着陸点がありました。優雅に舞っていたカラフルなグライダーが次々に降りてきます。
鯨岡の茅葺き民家
パラグライダーの着陸の様子を眺めたあとは鯨岡に向かいます。鯨岡のこのお宅も薬医門を持つ立派な家です。見事に手入れされた緑の芝生が眩しい。住宅も良く手入れがされていて、建具などは新しくなっていますが元のプロポーションを壊さないように考えられています。この茅葺きには煙出しの越屋根がないのが珍しいですね。
筑波山・加波山系の山々
八郷は筑波山の麓にある村落ですが、関東平野の中にポツンと一つだけ飛び出したように見える筑波山も実は一つの山ではなく、北には加波山を始めとするいくつもの山が連なっています。そして八郷はそうした山々に囲まれたところでもあるのです。
筑波山以外の山々もとても美しいところです。
佐久の大スギ
佐久には鹿島神社の御神木であり、県の重要文化財・天然記念物になっている大杉があります。樹齢1300年ともいわれるこの杉の木は度重なる落雷や台風でだいぶ痛めつけられたようで、こちらには樹皮が見られますが反対側にはほとんどなく、瀕死の状態のように見えます。しかし近年は保存会や樹木医の努力で回復しつつあるといいます。幹周りはなんと9m近くあるとか。
佐久の大場家
八郷の茅葺き民家めぐりも大詰めです。佐久で国の文化財になっているのがこちらの大場家。
家の前のぶどう畑で作業しているここの奥様と思われる方に声を掛けると、快くお宅を見せてくださいました。端正なプロポーションのこのお宅では、建具も昔のままでアルミサッシにしておらず、雨戸を開けた縁側がひなたぼっこに気持ち良さそう。
松竹梅のキリトメ
さすがに国の文化財になるだけあり細部も凝っています。キリトメには松竹梅のカラフルな絵柄、その廻りの細かな細工もとても見事です。こうした飾りのほとんどは竹でできており、その小口に着色されています。これはこの地区の最高の名人の仕事だとか。
煙出しの越屋根
煙出しの越屋根の装飾も見事。奥まったところに書かれている文字は『寿』かな?
今度はぶどうの季節におじゃまして、ゆっくりお話を聞きたいと思います。
佐久良東雄旧宅
佐久から南に数kmの浦須にあるのは国学者で歌人の佐久良東雄(さくらあずまお)の旧宅。佐久良東雄は尊皇攘夷の志を持ち、桜田門外の変に参画した水戸浪士をかくまった科により投獄されたが、『吾、徳川の粟を食まず。』として絶食、獄死した人のようです。
ここはその東雄が幼少期を過ごした生家で18世紀中ごろの建造らしく、代々名主を務めてきた家だといいますから、八郷で数少ない農家ではない茅葺きの民家といえるかもしれません。あやめ畑の先に大きな茅葺きの長屋門があり、その中にある母屋も立派な茅葺き。脇には土蔵も残っています。他の民家に比べどことなくかちっとした端正さが感じられるのは気のせいでしょうか。
恋瀬川自転車道
浦須の佐久良東雄旧宅で本日の八郷の茅葺き民家めぐりはおしまいです。
佐久良東雄旧宅からはすぐ近くを流れる恋瀬川に出、川沿いにある自転車道で石岡に戻ります。恋瀬川の川面は石岡近くの自転車道からは見ることができませんが、このあたりは河川敷がほとんどないのでよく見えます。
『998の自転車で良く走った~』 と恋瀬川を眺めつつ先頭を行くのはビジターのペピーノ。ギコギコいわないようにチェーンに油付けてよね!
夕暮れの田んぼと筑波山
恋瀬川のほとりはずっと田んぼです。植えられたばかりの緑の稲と西に傾きつつある陽を写して、この田んぼはとてもきれい。そしていつでもその先にあるのはあの筑波山。
石岡駅到着
10kmほど恋瀬川の自転車道を楽しんで石岡の街に入れば、またあの看板建築が私たちを迎えてくれます。
今回八郷でみつけた茅葺きの民家は16軒。これでも全体の1/4ほどですから、いかにこの地区に茅葺きが多いかがわかります。茅葺きにお住まいの方々はみんな建物をとても大事にしていて、そして私たちにとても親切にしてくださいました。みなさん、どうもありがとう。茅葺きの民家が後世まで残って行くことを心より願っています。