島部を除いた東京都は簡単には区部と都下とも呼ばれる多摩地区に、そしてその区部はJR山手線の内と外に分類されるでしょう。文京区はJR山手線の内にあり、皇居のある千代田区の北に位置しています。区名のとおりに、明治時代より多くの文人が集まった地として知られています。
文京区の有名なものとしては、大学では東京大学やお茶の水女子大学、歴史的なものとしては弥生時代の名称の元となった弥生町や江戸幕府によって開園された小石川御薬園(こいしかわおやくえん)のあとの小石川植物園、水戸徳川家の上屋敷だった小石川後楽園などが揚げられます。文人に至っては夏目漱石に森鴎外、樋口一葉、幸田露伴と切りがありません。最近の話題では下町情緒を残す『谷根千』(やねせん)こと、谷中、根津、千駄木地区の内の根津と千駄木が文京区内にあります。江戸城が近かったこともあり、徳川家ゆかりのものも数知れず。
今回はこうした文京区と谷中などの周辺地区を巡ります。
播磨坂
集合場所は小石川の播磨坂。ここは現代の開発の一端が垣間見られると同時に、江戸時代の歴史の名残りがあるところです。
桜並木が整うこの広い道は地図で見ると分かるように、わずか400mほどしかありません。これはかつて計画された環状三号線なのですが、結局繋がることなくその計画は廃止され現在に至っています。
桜の季節には花見の人々で賑わうここも、お正月のこの日はひっそり。
現在の極楽水
播磨坂の名称は松平播磨守の上屋敷がこのすぐ近くにあったことから来ており、その位置は現在の播磨坂の下半分の両側に跨がるところだったようです。古地図にはその上屋敷の脇に宗慶寺(そうけいじ)が示されており、その境内にあった名水極楽水は現在、この坂沿いに建つ超高層マンションの足元にかろうじて残されています。
『極楽水、もうほとんど枯れているのねぇ~』 の図
極楽水の後ろに見える小さな社は小石川七福神の一つ弁財天。
小石川には多くの文人が住みましたが、その一人である石川啄木はこの播磨坂のすぐ近くで生涯を閉じています。
20%の藤坂
播磨坂を上って春日通りを渡り小日向(こひなた)に下ります。この春日通りの先の坂は藤坂といい、ぎっちりとブレーキレバーを握りしめても下るのが恐ろしいほどで、その勾配は標識によれば20%とのこと。おっどろき~
激坂を下り切ったところには藤寺こと傅明寺(でんみょうじ)があり、春には藤の花がきれいに咲きます。このお寺にも観音水という名水があったのですが、こちらももはや湧き出ぬ水となりました。
この傅明寺から丸ノ内線の線路を潜った先には、江戸時代には切支丹屋敷がありました。これはクリスチャンを幽閉し改宗させるために造られた牢やのようなものだったようで、ここで新井白石はイタリア人宣教師を尋問したことをきっかけとし、西洋紀聞などを記すことになったとされています。
林泉寺のしばられ地蔵
その近くには林泉寺があり、境内には『しばられ地蔵』と呼ばれる面白いお地蔵様が。
しばられ地蔵はここばかりではなく日本各地にあるようですが、それらに共通しているのはお地蔵様に願をかける時に縄で縛り、願いが叶うと解く、というもの。今では縄はビニールの紐に変わったところが多いようですが、ここは昔ながらの縄で縛られています。縄にしろビニール紐にしろ、ぐるぐる巻きにされたお地蔵様の姿が見られるのは今も昔も変わりません。
教育の森公園入口
林泉寺からは春日通りに上り、教育の森公園に向かいます。
教育の森公園はかつての東京教育大学(現筑波大学)の跡地で、さらに遡れば水戸徳川家二代光圀の弟、松平頼元の屋敷だったところです。
占春園
その庭園占春園は江戸の名園の一つでホトトギスの名所として知られていたとか。現在もその名残りがこの一角に見られます。
ここには幸田露伴の娘、幸田文(こうだあや)が植えた樹木がたくさんあり、ちょっと都心とは思えないような鬱蒼とした樹木に囲まれています。
占春園から細道を下るとちょっと広めの千川通り(r436)に出ます。千川通りは玉川上水を水源とする千川上水の跡で、この上水は徳川綱吉が小石川御殿、湯島聖堂、上野寛永寺などに給水することを目的としたものだったようです。
小石川植物園
千川通りを渡ると小石川植物園に突き当たります。小石川植物園は一般には公園として知られていますが正式には東京大学大学院理学系研究科付属植物園といい、東京大学の研究施設なのです。ここも少し歴史を遡ってみると、徳川綱吉の館林城主時代の別邸の地で、先の小石川御殿とはここのことなのです。のちに御薬園が移転して来て小石川養生所が設置されたところでもあります。
園内には『メンデルの葡萄』や『ニュートンのリンゴ』といったちょっと眉にツバを付けたくなるようなものもありますが、『精子発見のイチョウ』や温室では最近開花して有名になった数十年に一度しか咲かないインドネシア原産のアモルフォファルス・ギガスなども見られます。一般の公園とは違ってちょっとワイルドですが、そこが面白い。
善仁寺
集合地点の播磨坂のすぐ南にある吹上坂は、ここに極楽水が吹き出していたことから付けられた名だとか。
『吹上坂は松平播磨守の屋敷の坂をいへり(改選江戸志)』とあるように、ここに松平播磨守の屋敷があったことを偲ばせます。その下には『播磨たんぼ』があり『小石川』が流れていたそうですから、かつて小石川植物園の近くは田んぼだったのです。そしてこの『小石川』こそ今の小石川の地名の元になった川で、礫川(こいしかわ、れきせん)とも呼ばれ、神田川に流れ込んでいました。のちにこの川の下流は千川と呼ばれるようになったのですが、これは千川上水と同一のものではないというからちょっとむずかしい。
吹上坂の途中には、かつて極楽水があった宗慶寺があります(現在の宗慶寺は江戸時代の場所からは若干移動したらしい)。この寺はもと吉水山伝法院といい、徳川家康の生母お大の方の菩提所となるはずでしたが、境内が狭かったことから伝通院が開創されます。家康が死ぬと側室の茶阿局が宗慶尼と称してこの寺に隠棲し、法名にも宗慶が用いられたことから、寺の名を宗慶寺と改められたといいます。
その少し上には善仁寺があります。969年創建とされる善仁寺は、ここで親鸞聖人が手にしていた杖で地を掘ると清水がこんこんと湧き出しそれが現在の極楽水である、ともされているお寺です。前置きが長くなりましたが、このお寺はジオポタが毎年除夜の鐘を撞かせてもらっているところで、小さいながらも雰囲気抜群、この界隈では一押しです。
源覚寺
源覚寺の『こんにゃくえんま』は眼の供養に。
ここのえんまさまに片目がないのはな、それはそれはず~っとむかしのことじゃがな、ある眼の悪いおばあさんがな、大好きなこんにゃくを絶って、どうか眼を直してください、と毎日毎日お参りに来たんじゃとな。そんでもって、えんまさまは自分の片目をこのおばあさんにあげて直してくださったんじゃとさ。
そんで今でもこのえんまさまにこんにゃくをお供えする人が大勢いるんじゃよ。わしもこのごろ眼がわる~なってきてな、こんにゃくをた~くさんお供えするから、ど~ぞわしの眼も良くしておくんなさい、とえんまさまにお願いしたんじゃよ。ところが夢に現れたえんまさまが言うにはな、そんなにこんにゃくばかりは食われん、どうか一円でもいいからお賽銭にしてほしい、ってことじゃったよ。
善光寺別院
こんにゃくえんまから伝通院(でんづういん)に向かう途中の善光寺坂には長野の善光寺の別院となる善光寺があり、その隣には沢蔵司稲荷が。ここには大きな木がたくさんあって、ちょっとした雰囲気があるところとなっています。
このあたりは幸田露伴の孫娘、青木玉の『上り坂下り坂』の中の『小石川ひと昔』に描かれていて、その昔この坂は、上からは自転車のブレーキを使わずに滑走するのが土地の腕白自慢の種で、下からは筋力アップを試みる場所となっていたそうです。
幸田露伴の家の前の大きな椋の木
善光寺と沢蔵司稲荷を横目にその善光寺坂を上ると、その上の道の真ん中に、玉が『小石川の家』で描いた大きな椋(むく)の木が今でもかろうじて残っています。
椋の木の横の民家がかつて幸田露伴、その娘文(あや)、そしてそのまた娘の玉が住んでいた住居があったところ。
伝通院
椋の木の先にあるのは大きなお寺、伝通院。
伝通院とは徳川家康の生母お大の法名で、このお寺は家康がお大を葬ったところです。ここにはお大の方をはじめ千姫など徳川家ゆかりの女性の墓がたくさんあります。
伝通院の山門と参道
伝通院にはつい最近、立派な山門が完成しました。その前の参道はもの凄く広いのですが、これもかつての都市計画の遺物のようです。
広~い参道を進んで春日通りを渡り、坂道を下って脇道に入るとその正面にあるのは牛天神こと北野神社。
牛天神のなで石
両側に梅の木が植えられた急な階段を上った先にあるこの神社の境内は狭く、後ろに大きな建物が建っていてロケーションとしては今ひとつですが、ここは天神様をお祀りしているすべての神社にあるという牛石発祥の地だそうです。
境内にある『なで石』は源頼朝が奥州征討の途中に腰を掛けたという石で、頼朝の夢の中に牛に乗った菅原道真が現れ、願いが叶うと告げたといいます。なでると願いが叶うという願い牛(牛石)を、受験生を抱えるムカエルは一生懸命、なでなで。
この境内には水戸光圀が奉納した桜のうちの一本が残っており、この木は今でも毎年美しい花を咲かせているそうです。
小石川後楽園
都心に信じられないほど長く続く白塀。この塀の中にひっそりと小石川後楽園はあります。
小石川後楽園は水戸徳川家の上屋敷の庭だったもので、回遊式築山泉水庭園と呼ばれる様式で造られています。二代藩主光圀は中国の思想『天下の憂いに先じて憂い、天下の楽しみに後れて楽しむ』、士たるものは人々が心配する前に世の中のことを心配し、楽しみは世の中の人々が楽しんでからにせよ、ということから、ここを後楽園と名付けたとされます。ちなみに岡山にも同名の公園がありますが、園名の出典はこちらとまったく同じものだとか。
庭はたいへん優れたものだと思いますが、現在少し残念なのは、この周りにドームや超高層ビルなどが建ち、景観を損ねていることです。
ちなみに黄門様はここに6歳から63歳まで実に57年間も居住しており、西山荘に隠居したのはその後なので、生涯の大半をこの地で過ごしたことになります。『水戸のじじい』は『小石川のじじい』だったのです。
もう一つの後楽園
小石川後楽園の隣にはもう一つ後楽園があります。
後楽園遊園地に東京ドーム、ホテルなどがある一大レジャーゾーンです。その向こうに見える超高層ビルは文京区役所。
特別史跡、特別名勝の隣にこんな開発が許されるという東京の無策な都市計画の一端が良く見えるところです。
湯島聖堂大成殿
外堀通りで聖橋を潜ると立派な高い塀が現れます。その塀の後ろに隠れているのが湯島聖堂。
ここは徳川綱吉が建てた孔子廟で、境内には大きな孔子像も建っています。儒学の振興のため創建されたここにはその後幕府直轄の昌平坂学問所が置かれ、明治に入ってからは日本初の博物館(現東京国立博物館)、東京師範学校(現筑波大学)、日本初の図書館、東京女子師範学校(現お茶の水女子大学--お茶の水の名はここにあったことから)が設置され、まさに日本の学問所を引き継いでいました。こうしたことから、今では合格祈願のために参拝に訪れる受験生が大勢います。
楷の木
ここで面白いものを発見。楷(かい)の木です。
楷の木は孔子の墓に植えられている木だそうです。まあそれはともかく、この楷は楷書の楷で、この木の枝や葉が整然としているので楷書の語源となったといわれているそうです。
ん~ん、確かに、カクカク、シカジカ、カイショノカイ、ですな。
神田明神
湯島聖堂のすぐ後ろにあるのは神田明神。ここは千代田区なのですが、ついでに。
神田明神下の平次でございます、、、って、本当にあるんだよね、これが境内に。寛永通寶を形取って造られた『銭形平次の碑』、嘘のようなホントの話。昭和50年建立の総檜入母屋造りの随神門はあでやか。
大江戸八百八町といいますが、18世紀半ばの江戸には実にその倍の町があったとか。その中でここは108の町々の総氏神様だそうで、江戸三大祭の一つ神田祭が行われることでも有名です。お祀りしてあるのは大黒様、恵比寿様、それに加えて平将門様というのが面白いですね。ここにお参りに来られたら成田山新勝寺に行ってはいけませぬ。新勝寺は朝廷が将門を討つための儀式をしたところなのです。
この日はご覧のように参拝者で大賑わい。とてもお参りできる状況ではなかったので、平次さまにも将門さまにも悪いけれどスルーさせていただきました。
湯島天神
神田明神から北に向かうと途中で通行止め。??と思っていると、その先には長~い行列が。この行列が向かう先にあるのが湯島天神。
湯島天神はかつては湯島神社といっていましたが、いつからか湯島天満宮に。お祀りしているのはもちろん菅原道真、学問の神様です。この時分は受験生以外の参拝者も多いのはあたりまえですが、ここも神田明神同様に凄かった!
旧岩崎邸洋館
湯島天神から先はしばらく台東区を巡ります。まずは旧岩崎邸。
三菱の名を知らぬ人はまずいないでしょう。岩崎弥太郎はその三菱財閥の創業者で、ここは弥太郎が購入しその息子久弥によって整備されました。洋館と撞球室は近代日本建築の黎明期に大きな影響を与えたジョサイア・コンドル(英)の設計で、この他和館もあります。なんと洋館と撞球室は地下通路で繋がれており、そこにはガラスのトップライトも。洋館はちょっと見には石造のようにも見えますが、これは実は完全な木造建築です。
現在残っている敷地は当時の数分の一しかないらしいので、かつてこの一帯は岩崎家のものだったのでしょう。
上野公園不忍池
旧岩崎邸からは横山大観の住居だった横山大観記念館を横目に、不忍池に入ります。
この池は上野公園の中にあるとても大きなもので、なんと人工ではなく自然の池なのです。こんなところにどうしてこんなに広い自然の池があるのかちょっと不思議な感じ。池は3つのゾーンからなり、弁天様を祀る弁天島を真ん中に、夏にはきれいな花がたくさんの蓮池、子供に大人気のボート池、カワウがいる鵜の池に分れます。
ここはいつでも人でいっぱいですが、肌寒いこの日はちょっと少なめです。
寺町の大木
池之端から激坂を上り谷中に向かう途中はいわゆる寺町で、それはそれはもの凄いお寺の数。道脇にお寺、曲がり角を曲がればまたお寺と、お寺の連続。
そんな中に大きな木が一本。その下の古びた建物は昔ながらの雑貨屋さんで、中には店番のおばあさんがいて、ご近所の方なのか外から、こんにちは、と声を掛けるおばあさん。ここには下町のいい雰囲気が残ります。
軒下のお社
ちょこちょこっと入り込んだ路地は道というより民家と民家の間の隙間になって、でもこの隙間に面して玄関がある! その玄関の横にはこんな小さなお社が。
と、マニアックな空間をすり抜けて、着いたのは谷中霊園。
谷中霊園
谷中霊園はとても広い墓地で、春には見事な桜が咲く中央の通りを行くと幸田露伴の『五重塔』のモデルとなった五重塔の跡があります。
この霊園には有名人が多数が眠っており、寛永寺墓地の徳川慶喜をはじめ、横山大観、渋沢栄一など錚々たる顔ぶれが並びます。古い墓地のわりにおどろおどしくないのは、広さと中央の広い通りのせいでしょうか。
夕やけだんだん
谷中霊園から朝倉彫塑館の前を通り、日暮里駅から続く通りに出れば、その道の先は突然階段に。
ここが谷中銀座商店街の入口になる『夕やけだんだん』。ここから見る夕焼けはとてもきれいだそうです。
谷中銀座商店街
谷中銀座は『夕やけだんだん』の下から不忍通りの一本東の通りまで200mに渡り続く商店街で、狭い道の両側にはお店がびっしり。
世の中に○○銀座っていったいいくつくらいあるのでしょう? 多くのそんな銀座がすでに銀座ではなくなり、うらぶれているのは良く目にする光景ですが、この谷中銀座はそうではありません。今でもピカピカの銀座をやっています。食品雑貨からちょっとした土産物と生活と観光の両方を売っていて、週末ともなればこの通りは大賑わいです。お正月のこの日は開店していない店も多くありましたが、それでもお客でいっぱいです。
よみせ通り
谷中銀座を下って突き当たるのは『よみせ通り』。この通りは谷中銀座ほどではないものの、ちょっとした商店街になっています。
よみせ通りを南に下り都道を越えるとうねうねとした細い道になります。ここまで来るともうお店はなくなり、周辺は雑とした住宅地に。それにしてもこの道は本当にうねうねしています。いったいどうしてこんなにうねうねしているのかと思ったら、その昔ここには藍染川という川が流れており、それを暗渠化して道にしたのだそうです。そんなわけで、ここは台東区と文京区の区界を成してもいます。
とういことで、ここからは文京区に戻ります。
染物屋の丁子屋
へび道が終わって少し行くと『創業明治二十八年 染物 洗張 丁子屋』とある店が。
染物や洗張(あらいはり)を頼む客は最近ではほとんどいないと思いますが、中にはきれいな絵柄の手ぬぐいや巾着袋などが置かれていて、ショウウィンドウでは赤い獅子舞のお獅子が首を振っていました。ここは今ではこうした雑貨を主に販売しているようです。
丁子屋から不忍通りに向かうと、おいしいアイス最中の芋甚があるのですが、この日はお休み。
根津神社
不忍通りから入った道の先にあるのは根津神社。
根津神社は徳川綱吉が千駄木にあったものをここに移し造営したもので、その当時の権現造りの本殿や楼門など全てが欠けずに現存しています。これらはみな国の重要文化財で、春には境内がツツジで真っ赤に染まります。
他の有名どころに負けず、ここにも長~い行列が。
根津神社の造営により活気ある町となったこの周辺には遊廓が建ち並ぶようになります。神社ができてその周りが遊郭になるというのがなんとも不思議ですが。そのころ根津は不寝と書かれていたようです。遊郭で寝ずに遊ぶということでしょうか? 水野越前守の禁粛政治でこの根津遊廓はなくなりましたが、明治時代に復活し当時は相当華やかだったようです。しかし近くに東京大学が開設されると、風紀の観点から再び廃止されることに。現在ではこの遊郭の姿は影も形もなく、その存在を伺わせるものはまったく何も残っていないようです。
弥生式土器発掘ゆかりの地碑
根津神社から東京大学農学部の後ろにやってくると、そこには摩訶不思議な階段が。上りは40段、下りは39段というおばけ階段です。本当かどうかは?
おばけ階段を上り、言問通りを渡ると『弥生式土器発掘ゆかりの地』の碑があります。弥生二丁目の向ヶ岡貝塚から見つかった土器はここの町名から弥生式土器と命名されました。この遺跡の正確な場所はしばらくの間不明でしたが、最近、この碑のすぐ隣の東京大学浅野地区の工学部9号館あたりであることがほぼ確実となりました。
三四郎池
大正ロマンの画家竹久夢二などの作品を収蔵する弥生美術館・竹久夢二美術館の前を通り、東京大学本郷地区の中に入ります。
東京大学では安保闘争、学園紛争のシンボルとなった安田講堂を眺め(TOP写真)、夏目漱石の『三四郎』の舞台ともなった三四郎池へ。この池の正式な名称は育徳園心字池といい、かつては加賀藩前田家の上屋敷内の庭の池だったのです。
東大赤門
そして東大といえばの赤門。この門は先の前田家の上屋敷の御守殿門でした。つまり東京大学のこの敷地は加賀藩前田家上屋敷の跡地なのです。赤門が東京大学の正門と思われている方も多いと思いますが、実はそうではなく、正門は湯島聖堂の設計者でもある伊東忠太の設計で新しく、別にあります。
東京大学から本郷通りを南に向かうと本郷三丁目の交差点です。そこに建つ『かねやす』は『本郷もかねやすまでは江戸のうち』と言われたそのかねやすです。
18世紀前半にあった大火ののち、ここを境に南側の家屋は耐火性の高いの土蔵造りや塗屋にすることが決められます。これに対し北側は板や茅ぶきの造りのままだったため、『かねやす』までが江戸のうち、となったようです。
樋口一葉旧居跡
今ではビルディングとなった『かねやす』から菊坂を下り横町に入ると、そこはほとんど明治か大正時代のままのような雰囲気のところになります。
その一角にかつて樋口一葉が住んでいました。ここはしばらくぶりの来訪で入口がわからずにちょっとうろうろしましたが、細~い路地を入ると一葉が汲んだかもしれない井戸があり、その先に古びた木造の家屋が建っています。わずか17歳で戸主となった彼女は、ここで母と妹と三人で、針仕事や洗い張りをしながら苦しい生活をしていたようです。師である半井桃水(なからいとうすい)主宰の雑誌『武蔵野』の創刊号に発表した処女小説『闇桜』はここで書かれたようです。
--風もなき軒端の桜ほろほろとこぼれて、夕やみの空鐘の音かなし--
旧伊勢屋質店
こちらは一葉がしばしば通ったという菊坂の質屋で、ほとんど当時の姿を伝えているように見えます。
のちにこの近くの西片に引っ越した一葉は、隣に住む銘酒屋の女をモデルとした『にごりえ』などを書き、そこで肺結核のため、わずか24年という短い生涯を閉じています。さらに驚くべきはその作家としての活動はわずかに14ヶ月あまりだったということでしょう。
ぶらぶらとした一日、まだまだ巡りたいところはたくさんあるのですが、残念ながらここで時間切れとなりました。今回は文京区のほぼ半分を廻ったに過ぎません。残りの半分はいずれまた。