前回、鎌倉七口を巡ったことで鎌倉街道に興味が沸きました。鎌倉街道は各地より鎌倉に至る道の総称であちこちにあり、関東地方だけでも主要幹線として『上道』『中道』『下道』と呼ばれるものがあったことがわかりました。『上道』はこれらの中でももっとも良く知られ、鎌倉から北に向かい、武蔵国の府中を通り、所沢、藤岡そして高崎へと続いていたようです。
歴史の道百選には鎌倉街道上道として、埼玉県の伊勢根(小川町)~赤浜(寄居町)、大林坊~川角(毛呂山町)が選定されています。これらは私たちのお気に入りの比企丘陵の中にあり、自転車で走って楽しめそうなので、今回はこの鎌倉街道上道を探しながら走ることにしました。
寄居駅にて
お正月の三日、寝正月に飽きた9名が埼玉県の寄居駅に集結。プラットフォームに降り立てば、なんと空からは白いものがちらちらと。雪? ぶるっと身を震わせつつ自転車を組み立てれば、その白いものはいつの間にかどこかへ飛んでいってしまいました。
ちょっと寒さが心配ですが、空は青く気持ちいい。そこで、
『いざ、鎌倉!』 と気勢を上げて寄居駅前を出発します。
寄居の街中を進む
そうです、鎌倉街道は、いざという時鎌倉に急行するための道、でもあったのです。
寄居は秩父往還の街道筋にあり、かつては宿場町として栄えたところのようです。鎌倉街道は寄居駅よりやや東を通っていたようなので、まずはその地点を目指します。
玉淀の白鳥飛来地
その地点とは、以前、荒川の白鳥ポタリングでやってきた玉淀の白鳥飛来地の対岸なのです。ここは近年は鳥インフルエンザの影響で白鳥の保護をやめてしまったそうで、この日は一羽もいませんでした。ん~ん、白鳥が見られると思っていたのに、残念。
川岸を良く見ると大きな岩が一つ、ごろんとしています。このあたりにはかつて対岸とを結ぶ『渡し』があったようで、これを鎌倉街道の一つのルートと推測する説があるようです。また、ここの川岸から少し上がったところには『お茶々が井戸』があり、その解説書きには、『ここ鎌倉街道端に位置し、鎌倉時代旅の人々が休憩する茶店が一軒あって…』とあります。
荒川沿いを東に向かう
お茶々が井戸は今はコンクリートの枠が被せられていて、味も素っ気もありませんが、その名は古文書に登場するそうですから、このあたりに鎌倉街道が通っていたらしいことはほぼ間違いがないのでしょう。
お茶々が井戸をちらっと眺めてから、荒川沿いを東に向かいます。
花園大橋から西を望む
お茶々が井戸から鎌倉街道は北に向かいますが、もう一方は荒川沿いを東に向かっていたようです。これは私たちが走っている道とほぼ同じルートですが、どうやらそれはもっと河川敷に近いところを通っていたようです。写真の右側、木が生え出したあたりでしょうか。
倉庫のような建物に向かう
花園大橋を渡り荒川の右岸に出、さらに東に進めば、正面に大きな倉庫のような建物が聳えています。鎌倉街道はあの建物のあたりを通っているようなので、畑の中の道をどんどこ。
荒川右岸を行く
ちょっとその前に寄り道です。荒川の岸辺に出て少し行くと、
川越岩
河川敷に『お茶々が井戸』の下で見たような大きな岩があります。
これは川越岩(かわこしいわ)と呼ばれるようで、鎌倉街道はこのあたりにあった『赤浜の渡し』で荒川の左岸に続き、そこで二手に分れ、一つは『お茶々が井戸』に、もう一つは北進し本庄方面に向かっていたようです。
竹薮の脇を行く鎌倉街道
川越岩から倉庫の前を通り抜け急坂を上ると、そこに『鎌倉古街道』と書かれた碑が電信柱の脇に建っています。その碑から入る道をさらに上ると、今度は『鎌倉街道上道』と書かれた碑が。その碑の先の竹薮の脇は、特に用途もなさそうなのに下草が刈られ、道のようになっています。
これがかつての鎌倉街道らしく、良く観察すれば道の周辺がやや高くなっていて、鎌倉街道の特徴だという掘割状になっているようにも見えます。
『鎌倉街道上道』の碑付近からの眺め
そのあたりから西を見れば、先ほど通ってきた畑の先に荒川の流れが見えます。
普光寺付近
『鎌倉街道上道』碑から下ると道は畑の中の砂利道に。近くには普光寺があり、その境内の東側の道は鎌倉街道上道の跡であると伝えられているようです。
気持ちいい田舎道をどんどこと進めば、
三嶋神社
三嶋神社が現れたので、初詣です。
ここにある鰐口(わにぐち)には應永二年(1395年)云々の銘文が刻まれており、中世に鎌倉街道上道の宿駅だった塚田宿のこの神社に伝来した、と解説書きにあります。
三嶋神社の東の鎌倉街道
鎌倉街道上道は三嶋神社付近からr296の薬師堂のところに抜けていたようで、これは現在ある道とほぼ重なっているようです。
兒泉神社(こいずみじんじゃ)前
薬師堂から鎌倉街道上道はr296に重なり南下していったようです。一方で、市野川沿いに建つ兒泉神社(こいずみじんじゃ)あたりを通っていたとする説もあるようなので、私たちは後者を辿ってみることにしました。
神社の西側、森と薮の境界には掘割風の凹みがあり、これが鎌倉街道上道の跡らしいのですが、あまりピンとは来ません。鎌倉の切り通し、鎌倉七口の一部に見られるような、はっきりとした道と認識できるほどにはこのあたりの遺構は残っていないようです。
市野川
r296はr164と合流して南下を続けます。鎌倉街道上道もほぼこれに沿っているようなのですが、県道はやや交通量が多いので、私たちはさらに市野川沿いを進みます。
『→旧鎌倉街道跡』の標識付近
能増の交差点に出てそこから畑の中を南下すれば、道端に『→旧鎌倉街道跡』の標識が建っています。この標識に誘われて進むと、道はT字路となっておしまいに。しかしこのT字路の先の森の中を良く見れば、道らしきものが続いています。
迂回路を行く
でもそこは、自転車で進むにはちょっと、という感じなので、迂回することに決定。
この迂回路は、鎌倉街道らしい道が続いていた森の端っこをかすめて進んで行きます。
伊勢根の畑
森を抜けるとそこにはきれいな畑や田んぼが広がっています。
このあたりは伊勢根といい、歴史の道百選ではあの巨大倉庫があった赤浜からここまでを鎌倉街道上道として指定しています。
伊勢根の田んぼの中を行く
先の『→旧鎌倉街道跡』の道は、左奥の森を抜けてこの田んぼの際に下りてきています。
田んぼの中を行く道はおそらく新しく整備されたものなのでしょうが、とにかくこのあたりを鎌倉街道上道は通っていたのですね。
高台の道を行く
小さな川を越えると田んぼはおしまいになり、高台に上ります。
諏訪神社跡
この高台の道を少し南西に行くと、道端に『諏訪神社跡』の小さな標識があったので、砂利が敷かれた小径に入ってみました。そこにはこんな小さな社がひっそりと佇んでいました。小径の反対側には仏様だったかお地蔵様だったか、小さな石像も。
信濃の諏訪氏は武田信玄に滅ぼされましたが、その時難を逃れた諏訪頼忠が信濃一宮諏訪神社の御神体を携えてきて、この地に奉祀したと伝えられているそうです。
この小さな社の脇の道がどうやら鎌倉街道上道らしい。
新屋敷のあやしげな道
諏訪神社跡を眺めたのちは、適当に細道を辿って南下を続けます。
新川沿いの田んぼから上る
今日のコースはほぼ平坦ですが、それでも数mほどのアップダウンは至る所にあり、
『や~、またのぼりですか~』 となります。
普光寺
中爪に出ると、ちょっとした賑わいがあるお寺があったので立ち寄ってみました。赤浜にあったお寺と同名の普光寺です。
初詣の人々
お正月らしい飾り付けが施されたこのお寺は、初詣の人々でいっぱいです。おいしい甘酒をいただいて、かがり火の前であったまりました。
ちなみにこのお寺、布袋様や恵比寿様などがあちこちに立っており、どうやらここだけで七福神巡りができるようですよ。
嵐山のr296
普光寺からはr296で昼飯処を探しながら嵐山の街中を進みます。
R254の交差点に飲食店が固まっているので、そこまで行けば昼飯にありつけると思っていたのですが、お正月のまだ三日目とあって、どこも営業していませんでした。スマートフォンで駅前に営業している店を見つけて、なんとか昼飯にありつくことができました。あぶないあぶない。
都幾川
都幾川と槻川の合流点の北には、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将、畠山重忠の館があったところとされる菅谷館(すがややかた)跡があります。
そこには室町時代から戦国時代にかけての遺構が多く残っており、鎌倉街道が通っていたとする説もあるようなのですが、この日はパスし都幾川を渡ります。
神明宮
学校橋から少し南下すると『源義賢の墓』があり、坂上田村麻呂が龍退治のため出兵しているところに奥方が心配して訪ねてきたら、田村麻呂はそれに怒って縁を切ったという縁切橋があり、さらに行くと神明宮があります。
将軍沢付近
道の反対側の稲荷神社の隅には『鎌倉街道』の立派な石碑、そして明光寺の前には庚申塔が建っています。
このあたりの地名は将軍沢というらしく、これはなんとなくそれらしい名に思えます。
笛吹峠への上り
道が大きくうねって森の中を上り出すと、これが笛吹峠への上りです。
この森の入口付近に古道らしい細道がありますが、もしかするとそれが鎌倉街道だったのかもしれません。現在の道は勾配を緩くするためにカーブさせたのだろうと思いますが、鎌倉街道は基本的に真っすぐな道だったようです。
笛吹峠
笛吹峠は峠と名は付いていますが、高低差はあまりなく勾配も穏やかなので、少し長目の坂道といった感じで、まったく問題なく上れます。周囲は木々に囲まれてなかなかいい感じです。峠には東屋とトイレがあるのでここで小休憩。
案内板には『この峠を南北に貫く道が旧鎌倉街道で…』とあり、続けて、新田義貞の三男、義宗等が足利尊氏との戦いに最終的に敗れたのがここであり、以後、尊氏は関東を制圧していった旨が記されています。
用水沿いのダートを行く
笛吹峠からは一気に下って鳩山町の大橋に向かいます。
下った先には小川というか用水のような流れがあり、これに沿って進みます。ここはダートときれいな舗装路のミックスでした。
赤沼付近
大橋からは一旦r41に出ましたが、これはちょっと交通量が多いので裏道に避難。赤沼を通って進んで行きます。
このあたりはどこを鎌倉街道が通っていたのかはっきりしないようですが、のどかでいい感じのところです。
越辺川
越辺川(おっぺがわ)が近づくと、お馬さんがいる牧場を通り、毛呂山特別支援学校の前で川を渡ります。
毛呂山の鎌倉街道
毛呂山町は『歴史の道百選』で鎌倉街道上道として、大林坊~川角が選定されているところなのでちょっと期待が膨らみます。先の学校はその川角にあるのです。
学校の先の大類グラウンドの角に『鎌倉街道上道→』の標識が建っています。学校とグラウンドの間を行くこの道の入口はただの砂利道でパッとしませんが、奥に進むにつれて木立の中を行くいい感じの道になってきます。
続・毛呂山の鎌倉街道
鎌倉街道の基本形は掘割道だそうですが、ここにまだそれらしい形状が残っている(片側だけのようですが)のは、鎌倉時代からの年月を考えれば驚くべきことです。
この道は一旦r39で途切れますが、その先もそれなりにいい感じで続いて行きます。
毛呂山町西大久保付近
r114の手前で道がカーブする先に、鎌倉街道の形状がよくわかるところがあります。ここは以前は森だったようですが、一部の樹木が伐採されたために鎌倉街道の特徴とされる掘割状の地形が見て取れます。掘割の底は意外に広く、三間ほどあるという鎌倉街道上道をほぼそのまま残しているように見えます。
『歴史の道百選』に出て来る地名の大林坊はどこか正確には知りませんが、それは小字らしく大字は市場のようです。市場はこの先のr114の先のようなので、このあたりまでが『歴史の道百選』に選定されたところでしょう。
西大家駅付近
道端の馬頭観音を横目に進むと森戸橋で高麗川を越え、東武越生線の西大家駅からも南下を続けます。
西大家駅付近には道側に側溝のようなものがあります。詳しくは分かりませんが、なんとこれも鎌倉街道の遺構だといいます。
智光山公園前
JR川越線の武蔵高萩駅の西で線路を渡り、狭山に向かいます。r15を渡りさらに小川を越えると女影で、そこには道脇に鎌倉街道の道標が置かれ、霞野神社が建っています。その境内には、北条時行と足利尊氏の弟直義の戦を示す、女影ヶ原古戦場碑があります。もう一つの小川を渡れば鎌倉街道上道碑と書かれた石碑が建っています。
狭山が近づき智光山公園の前を通り、
入間川
昭代橋で入間川を渡ります。ここで鎌倉街道上道は『八丁の渡し』で川を渡っていたようです。現在の狭山市はかつて入間川宿があったと考えられているところで、ここから鎌倉街道はr227に重なって南下し、所沢を抜け、東村山へと続いて行きます。
しかしここから先は都市部となり自転車ではあまり快適ではなくなるので、鎌倉街道上道の散策はここでおしまいにし、東武東上線の上福岡駅を目指すことにしました。お茶で有名な狭山だけあり周囲には茶畑が現れ、三冨新田に似た江戸時代のものと思われる地割りの畑の中を進んで行きます。