染井吉野桜公園
新年明けて快晴の1月3日。今日は2つの七福神巡りで合計十四福神巡りとあって、『ご利益がありそう!』と駒込駅前にある染井吉野桜公園に集まったのは何と11人。
染井吉野桜公園を出発
さっそく谷中の七福神巡りに出発です。
『今日は距離も短いし、楽しそうですね~』とビジターのキヨちゃん。
サリーナが路地を引く
今日は多くの参加者で楽しいポタになりそうです。谷中のあたりは細い道が多く、七福神巡りの歩行者もたくさん歩いているのでのんびり進みましょうね。
谷中七福神は江戸時代中期に始まったといわれ、七福神巡礼としては最も古いのだそうです。
東覚寺山門
まず最初に到着したのは東覚寺。山門から外までずらりと、すでにお参りの人たちが列をつくっています。
このお寺の谷中七福神の解説の中に江戸時代の記述があります。
近頃正月初出に七福神参りといふ事始りて、遊人多く参詣する事となれり、その七福神は不忍の弁才天、谷中感応寺の毘沙門、同所長安寺の寿老人、日暮の里青雲寺の恵比寿、大黒、布袋、田畑西行庵の福禄神等也、近頃年々にて福神詣する人多くなれり --『享和雑記』享和三年(1803年)刊
福禄寿の大提灯
続いて以下の記述も。
人間の七福を七神に求めて、富財は大黒天、愛敬は弁才天、威光は毘沙門天、長寿は寿老人、人望は福禄寿、大量は布袋尊、正直は恵比寿となっています。
ここには福禄寿がいらっしゃいます。お賽銭を握りしめ、その福禄寿さまにお参り準備のエリン。
東覚寺にて
福禄寿は中国出身で、福・禄・寿の神様。福とは血のつながった実の子に恵まれること、禄とは財産、寿とは健康な長寿を意味するそうです。短身で長頭の姿をしていらっしゃいます。寿老人と同一神とされることもあるようです。
こちらのお寺では参拝者に甘酒もふるまわれており、温かい甘酒にジオポタメンバーにも思わず笑みがこぼれています。
荒川区西日暮里
谷中七福神は台東区・荒川区・北区と三つの区に跨がっています。ここは荒川区の西日暮里。
お正月の三日で、都心は車が少ないのですが、できるだけ車の通りの少ない細道を選んで進みます。
青雲寺
次にお参りしたのは青雲寺。こちらにいらっしゃるのは恵比寿さまです。
恵比寿は七福神中、唯一の日本出身。現在は商売繁盛や五穀豊穣をもたらす神様として知られていますが、古くは漁業の神様だったそうで、鯛を抱えておられます。
ここには滝沢馬琴の筆塚もあり、『南総里見八犬伝』で使用した筆が納められているとのこと。
修性院の塀
青雲寺のすぐ近くにある修性院には布袋さま。その塀にはふとっちょでかわいらしい布袋さまがいくつも描かれていて、外国人観光客にも受けています。
修性院
本堂に入ってみると、
修性院の布袋さま
こんな立派な布袋さまがいらっしゃいました。いや~、存在感。大迫力です。お堂の壁には子どもたちが描いた布袋さまの絵が飾ってあって、これもまた楽しい。
布袋は中国出身。唐代の仏教の禅僧で、元は別の名でしたが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称が付いたそうです。太鼓腹でおおらかな風貌。大きな袋からは財を出して与えてくださるそうです。弥勒菩薩の化身とも。
長安寺近く
寒さに弱いレイナが意を決して引き、それを見守るようにしてレイが続く。
谷中のお寺や古い家並、そして朝倉彫塑館を通り過ぎてしばらくすると長安寺に到着しました。
長安寺の寿老人
狭い入口の奥に本堂が建っています。この本堂の中に入ると、左手にいらっしゃるのが寿老人です。
寿老人は中国出身。宋代の伝説上の人物で、長寿の神様。酒好きで頭が長く白髪。団扇と巻物をつけた杖とを持ち、長寿と自然との調和のシンボルである鶴や鹿を連れています。
氷が張っている
ところで今日は雲一つない快晴なのですが、気温は低い。お寺の水瓶には氷が張っていました。
天王寺の脇にあるお地蔵さま
続いて谷中の墓地に入り、その北端にある天王寺に着きました。
お寺の脇にはお地蔵さまが祀られています。
天王寺毘沙門堂
天王寺はもとは感應寺という日蓮宗の寺院でしたが、1698年に江戸幕府の命令で天台宗に改宗させられ、その際に比叡山から毘沙門天のお像を迎え、ご本尊としたそうです。というわけで、こちらは毘沙門天。
毘沙門天はインド出身。ヒンドゥー教の戦いの神様でしたが、仏教に取り入れられてから、福徳増進の神様になります。四天王の一尊で武神でもあることから、甲冑を身に着け、勇ましい姿をしておられます。中央アジアや中国など、日本以外でも活躍されています。
天王寺の雪吊り
天王寺では江戸時代に富くじ興行が開催され、とてもにぎわっていたとか。また境内には五重塔がありましたが、昭和32年に焼失してしまいました。
境内には本堂、客殿、毘沙門堂、上善堂があり、庭も落ち着いたいい雰囲気です。『雪吊り』している木もありました。
谷中墓地
再び谷中墓地を横切り、
上野桜木
上野方面にしばらく走ると、
護国院入口
護国院に到着。こちらには大黒天がいらっしゃいます。
護国院本堂
護国院は寛永寺の子院だそうで、釈迦堂の別当寺として現在の東京国立博物館のそばで開創され、その後数回の移転を経て現在地に移ってきたそうです。本堂は1722年の再建で、釈迦堂とも呼ばれています。
実は、昭和2年に市立二中(現在の上野高等学校)創立のために寺領の大半を譲渡し、釈迦堂を現在の場所まで引き出して本堂としたため『釈迦堂』とも呼ばれているのだそうです。
護国院の大黒天
そして本堂には、打ち出の小槌を持ち福袋を担ぐお馴染みの大黒さまがいらっしゃいました。
大黒天はインド出身。ヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神(マハーは大、カーラは黒の意)でしたが、日本の大国主命(おおくにぬしのみこと)と神仏習合し、食物・財福の神様となられました。米俵に乗り、福袋と打出の小槌を持って微笑んでおられます。
上野公園の下
さて、谷中七福神の最後は不忍池の弁天さまです。
上野公園を廻るようにして進んで行けば、ほどなく不忍池の畔に出ます。
弁天堂
上野公園の不忍池の中にあり人気スポットなので、お参りの人々が長い列をつくっています。先のお堂の中には弁天さまがおられるに違いないのですが、この混雑でそのお顔を拝むことはかなわず。
弁財天はインド出身。ヒンドゥー教の芸術、学問などの知を司る女神でしたが、仏教に取り入れられ、吉祥天など様々な神様の一面を吸収し、音楽・弁才・財福・知恵などの神様となります。琵琶を抱え、バチを持っておられます。
西郷さんと記念撮影
空腹のジオポタメンバーはそっと脇からお参りした後、『上野の森さくらテラス』のレストランへ。
『上野の森さくらテラス』は、上野駅前の『上野松竹デパート』を建替え、多くの飲食店が入るビルとして2014年4月にオープンした建物です。私たちが入ったレストラン『ラ・ココリコ』は、チキンや魚のセットメニューでボリュームたっぷり、満腹・満足でした。
レストランを出るとその目の前には西郷さんが。お上りさんなジオポタメンバーはみんな大喜びで、『はい、ポーズ』。
不忍池と弁天堂
午後の部は新宿山ノ手七福神です。まずは上野から飯田橋まで移動。
不忍池の蓮池の奥に弁天堂が見えます。
不忍池を回る
不忍池を1/4周ほどして不忍通りを渡り、
無縁坂
東京大学の南の無縁坂を上り、
神楽坂
水道橋を経由して、飯田橋から神楽坂をわっせわっせと上ると、上り終えたあたりにあるのが善国寺です。
善国寺
ここには毘沙門天がいらっしゃいます。毘沙門天を祀る善国寺は1595年に創設され、何度か焼失、移転を繰り返した後、約200年前に神楽坂に移転してきたそうです。
お堂正面の両側に鎮座するのは、狛犬ではなく『寅』です。毘沙門天は寅の年、寅の月、寅の日、寅の刻にこの世にお出ましになったので、寅毘沙とも呼ばれるとのこと。ありがたや~。
牛込あたり
そうそう、午前中の谷中七福神が三区に跨がっていたのに対し、新宿山ノ手七福神はすべて新宿区内にあります。ということで、ここからはすべて新宿区です。新宿区というと、高層ビルが建ち並び、歌舞伎町などの賑やかな繁華街のイメージが強いと思いますが、表通りから一皮入った裏道は意外と静かでほとんどが住宅地です。
サイダーの案内するルートは時々怪しくも、車のほとんどいない気持ちのいい路地を駆け抜けていきます。不思議な形の家なんかもあって面白い。
経王寺
このあたりには、江戸時代ごろは職業がある一定のエリアに集まっていたことを伺わせる地名が多く、袋町、箪笥町、細工町、納戸町、鷹匠町といった具合です。
こうしたところを通り抜けて到着したのは、大久保通りに面した経王寺。道路から階段を上ったところに本堂があります。
経王寺の大黒さま?
そこにはこんな大黒さま??がいらっしゃいました。
日蓮聖人の高弟・日法上人作の大黒天立像は、度重なる火災から焼失を免れたため『火伏せの大黒天』 とあがめられ、庶民の信仰を集めたとのこと。この大黒天立像の開帳は年6回、『大黒天祭』として『甲子日(かつしのひ)』に行われるそうです。
写真の像はどなたさまでしょうか?
若松町
経王寺からは大久保通りの裏道を行きます。ここには高層ビルと中層のそれが混在していますが、日本の法律では広い道路に面する敷地には大きな建物が建つようになっていて、高層の敷地は大久保通りまで繋がっていることを示しています。
河田町
東京女子医大の東側を進むと、いきなり道が途絶え、階段に。
『今日はサイダー道のダートはないと思っていたら、こうなっちゃうのね。』
余丁町の激坂
この階段で自転車を担ぎ下ろし、もうこんなことはないでしょうね、と思っていたら、今度は15%は超えていると思われる激坂が登場。
『いや~、ここは楽しい~』 とガシガシ上るポチちゃんでした。
抜弁天の幟が立つ厳島神社
こうしたちょとした苦闘はあったものの、なんとか三叉路のかどっこにある厳島神社に到着。こちらは弁財天です。
『厳島神社』というと安芸の厳島神社を思い浮かべますね。実は1086年、鎮守府将軍の源義家公が後三年の役で奥州へ征伐に向かう途上ここに宿営し、安芸の厳島神社に戦勝を祈願したそうで、奥州鎮定後にお礼として神社を建て弁財天として祭神を祭ったのが、この神社の起こりだそうです。
厳島神社の参道
参道は南北に通り抜けられ、これは苦難を切り抜けるということで抜(ぬけ)弁天と称され、庶民から信仰されて江戸六弁天の一つとしても数えられているそうです。
『今年はマ抜けになりませんように。』とお祈りしたかどうかは知らねど、手を合わせるはヨンチェス。
厳島神社の龍
都心の大きな三叉路の真ん中に、池と木立がありちょっとほっとするスペースです。こんな強面な方もいらっしゃいます。
永福寺
厳島神社から道路を渡ったすぐ近くにあるのが永福寺。入口を入ると奥には静かな境内が。
正面にある本堂の向かいに小さな祠があり、ここに福禄寿が祀られています。
永福寺の福禄寿
頭の長い福禄寿です。ところでその横にお祀りされている石ですが、これは江戸末期に、ある植木職人が善光寺詣での際に「福禄寿の頭に似ている」として持ち帰ったものだそうで、その後運気が上昇したとのこと。こちらもご利益がありそうですね。
法善寺
次に向かった法善寺は、細い路地を入った家並みの中にあります。
法善寺の寿老人
こちらにいらっしゃるのは寿老人。社務所の中の高いところにたたずんでおられます。小さい上に遠くにおられるので、残念ながらよくみえませんでした。
このお寺には、日蓮宗の守護神の一つ、七面明神像があります。
新宿6丁目
法善寺からさらに路地を通り、
太宗寺
南下していったところにあるのが太宗寺。密集した街の中にあって、このお寺にはかなり開けたスペースがあります。
『今年こそはいいことがありますように。』と鰐口を打ち鳴らすビジターのサワちゃん。あれ、うまく鳴らないよ~ん。
太宗寺の布袋さま
太宗寺は1596年頃、「太宗」と称する僧の庵として造られた太宗庵を始まりとし、徳川家重臣・内藤正勝の信望を得て太宗寺と改称し、内藤家の菩提寺として発展したそうです。このお寺には、江戸六地像の3番地蔵、江戸三閻魔の閻魔王像、そして新宿山ノ手七福神の布袋尊が安置されています。
本堂にはとってもかわいらしい布袋さまがいらっしゃいました。
太宗寺本堂
布袋さまのいらっしゃる本堂をバックにポーズ! 右端のコンタくん、何見てる?
実はこの太宗寺、いろいろと見所があるのです。
塩かけ地蔵
本堂の脇にいらっしゃるのは、真っ白な塩を全身に積もらせた塩かけ地蔵。
願掛けの返礼に塩をかけるというお地蔵さまでした。
銅造地蔵菩薩座像
そして本堂の向かいにあるのは『銅造地蔵菩薩座像』。大きなお地蔵さまで江戸六地蔵の一つです。
右手に持っているのは錫杖、そして左手は桃? じゃなくて『如意宝珠』、様々な霊験を表すとされる宝の珠です。
新宿2丁目
太宗寺をあとに靖国通りを渡って歌舞伎町を走り抜けると、
鬼王神社拝殿
いよいよ新宿山ノ手七福神もフィニッシュ。こちらが最後の鬼王神社です。
この神社は、大久保村の氏神であった稲荷神と、熊野から勧請されていた鬼王権現を合祀し、稲荷鬼王神社となったのだそうです。境内にある三島神社には恵比寿さまがいらっしゃいます。
これで新宿山ノ手七福神巡りも無事終了、十四福神巡り完!
軍艦マンション
まだしばらく時間があるので、大久保周辺を少々散策です。
まず訪れたこの通称『軍艦マンション』は、建築家渡邊洋治による1970年竣工の『第3スカイビル』。2011年、新たにシェアハウスやオフィスなどで構成される『GUNKAN東新宿ビル』として再出発したとのこと。外壁の色も一部変更され、グリーンがかっていますね。
箱根山を上るコンタ
次に明治通りを東に渡って戸山公園へ。ここには山手線内で最も標高の高い『箱根山』(44.6m)があり、その登頂に挑みます。
箱根山登頂!
全員登頂成功! というわけで、日暮れの箱根山頂上で記念撮影です。
十四福神巡りも無事完走し、仕上げは新大久保駅近くの韓国料理。エンカイのみ参加のレナール、ムカエル、ルビオの3人が加わって、総勢14人の新年会です。今年もたくさんポタできて、よい年になりますように。