梅の香り漂う2月中旬、風もなくほんのり暖かくいい感じの土曜日です。
こんな日は観光だ!
というわけで横浜の関内駅に集合したのは6人とカメラのサイダー。
最初の見所の横浜スタジアムは関内駅からすぐ近く。
1978年に建てられたスタジアムの照明灯の逆三角形は「横浜」のYをかたどったものだそうです。
横浜スタジアムからまっすぐ海側へ北上する広い歩道と街路樹の「日本大通」は、横浜大火後の1870年につくられた日本初の西洋式街路だそうです。
この近辺には、横浜観光といえばはずせない「横浜三塔」があります。
まず訪れたのは「ジャックの塔」、横浜市開港記念会館です。
赤煉瓦と花崗岩に覆われたこの建物は、横浜港の開港50周年の記念事業として建てられたもので、1917年(大正6年)に完成しています。文明開化の都市らしく、横浜初の公開建築競技の当選案に基づいて建てられたそうです。
関東大震災で時計塔など一部を残し倒壊してしまいますが、数年後に復旧されます。この折、元あったドーム屋根は復旧されませんでしたが、1985年(昭和60年)に創建当時の設計図が発見され、1989年(平成元年)に 復元されました。
内部は講堂や会議室などで、タウンホールの趣です。
ジャックのすぐ近く、日本大道に面して、「キングの塔」こと神奈川県庁が建っています。
関東大震災で焼失した旧県庁舎に代わり、1928年(昭和3年)に完成したこの建物は、スクラッチタイルと大理石で覆われており、幾何学的な装飾が施されています。
日本大道の突き当たりは横浜港。この港は広大で、あちこちにパークと名の付くところがありますが、ここは「象の鼻パーク」。後ろに見える塔は、「クイーンの塔」横浜税関。
『わ~、横浜ってこんなに変わったのね~』 と、驚きの表情のサリーナ。なんと横浜は10数年ぶりだとか。そりゃぁ変わったよね。
港から西に視線を移せば、大観覧車や超高層ビルが林立するゾーンが目に入ります。「みなとみらい」地区です。
かつてそこは、造船所や国鉄の貨物線の操車場、そしていくつかの埠頭などが雑然とあるところでしたが、1980年代に着工された「みなとみらい21」事業により、周辺は埋め立てられ、今日見るすばらしいまちに生まれ変わったのです。
象の鼻パークから水辺を西へ進んで行くと、赤煉瓦の建物が目に飛び込んできます。これは、横浜のシンボル、2棟の「赤レンガ倉庫」です。
1911~1913年に竣工した保税倉庫(輸入手続きが済んでいない物資を一時的に保管する倉庫)で、日本で最初の荷物用エレベーターや消火水栓などを備えた倉庫です。レンガはすべて国産だそうです。
1970年頃までは港湾倉庫としてフル稼働していましたが、その後海上輸送のコンテナ化によって新しい埠頭が整備され、取り扱い貨物量が激減。1989年に倉庫としての用途が廃止されます。横浜市では、赤レンガ倉庫の保存のため土地と建物を取得し、9年に及ぶ保存・活用工事を終え、2002年に文化・商業施設として蘇りました。
路面に線路があるのが見えると思いますが、かつてここには貨物運搬用の鉄道が走っていたのです。
赤レンガ倉庫周辺は赤レンガパークと呼ぶようで、この時間帯はまだ営業開始前なので人はあまりいませんが、もう一時間もすればここは人々で大賑わいとなります。
この赤レンガから東を見れば、遠くにベイブリッジが、そしてその手前に大桟橋国際旅客ターミナルが見えます。
横浜在住のカズちゃんが、近くに興味深い施設があるので寄って行こうというので、行ってみました。赤レンガのすぐ北にその施設はあります。なんとそこには、2001年(平成13年)に九州の南西海域で起こった事件で沈没した、北朝鮮の工作船が展示されていました。
この船は、海上保安庁の巡視船に対し自動小銃とロケットランチャーによる攻撃を行い、その後自爆と思われる爆発で沈没したのだとか。船主と船尾には海上保安庁の射撃による穴がいくつも開いていて、ちょっとびっくり。
さて、赤レンガ倉庫から西へ向かえば、正面に凱旋門のように大きく口を開けた建物があり、その先に「みなとみらい21」地区が見えています。
この凱旋門をくぐると、ちょっとした広場の運河パークがあり、運河の中に「汽車道」が延びています。
汽車道は、1911年(明治44年)に開通した臨港鉄道の一部を利用した遊歩道で、古い橋梁が三つ残り、路面にもレールが残されています。かつてはこの線路を使って、赤レンガ倉庫あたりと貨物の行き来がされていたわけです。
500mほど続く汽車道の突き当たりにあるのは、帆船日本丸。
日本丸は1930年(昭和5年)に建造された練習用の帆船で、この時同時に造られた海王丸という姉妹船もあるそうです。両船とも半世紀以上に渡り活躍しましたが、現在は引退し、日本丸はここに、そして海王丸は富山県で展示されています。
この日は帆は張られていませんでしたが、時々、総帆展帆(そうはんてんぱん)といって全てのの帆が広げられることがあります。
また、お祝いの時に通信に使用する旗を掲揚する満船飾(まんせんしょく)、がされることもあるそうです。
日本丸は内部見学ができるのですが、この日はあいにく船体整備のため見られませんでした。
な~んだ、と思っていたら、大勢がマストに登り出し、なにやら作業を始めました。どうやら帆を広げる訓練のようです。帆は全部で29枚あるそうですが、これを一枚一枚手で広げて行くのですからかなり大変ですね。現在帆を張る作業は、ボランティアの協力で行われているそうです。
日本丸の帆を張る作業を眺めたのちは、「みなとみらい」地区に入って行きます。
ここの再開発で最初に建った建物は横浜美術館だったのではないかと思うけれど、そのころここは、他には何もない、ただの原っぱでした。それから四半世紀ですっかり様変わりしました。
みなとみらいにやってきたのは、街がどう変わったか見るためでもあったのですが、もう一つの目的は、鉄チャンの間では大変有名な原鉄道模型博物館を訪れるためです。
この博物館は、原信太郎という個人が制作・収集した鉄道関係のものを展示しています。この人がすごいのなんの。
小学生から精巧な模型を造りはじめ、コレクションは模型6,000両、その他膨大なフィルムや書籍があるといいます。
中でも、だれでも楽しめるのが、この1番ゲージによる巨大ジオラマで、走行音までリアル!
そしてなんと、このジオラマを走る列車は運転することもできるのだ!
いや~、これは楽しそう~。 鉄チャンだったら一日中遊べそうです。
さて、鉄チャン気分を味わったらベイエリアに戻ります。
「みなとみらい」の東端には臨港パークがあります。ここはその名の通り、横浜港に面した広大な広場かつペデストリアンウェイで、気持ちいい。
港を眺めながらぐるりと廻ると、赤レンガ、象の鼻パークを経て、大桟橋に至ります。
その大桟橋にやってくると、平べったい建物のような、そうでないようなものの中に道は入って行きます。
大桟橋は国際客船ターミナルになっており、平べったい建物のような、そうでないようなものはこのターミナルビルだったのです。
この建物、道路からスロープで直接屋上デッキにアプローチできます。
デッキは木でできており、ところどころに芝生が植えられています。ここは眺めがいいし、ベンチでお弁当を食べることもできます。
先端付近はちょっとしたイベントができるくらいの広さがあり、実際様々なイベントが行われているようです。
建物の一番奥はイベントホールで、その前は野外のイベント広場になっており、ここも楽しそう。
建物の内部は折り紙のような複雑な天井で、柱がありません。
ここは出入国ロビーで、出入国旅客がいる時は、奥にパスポートコントロールなどのブースが作られるようです。
この日は大型客船はいませんでしたが、レストランで食事をしていると、近海をクルーズする船が出航していきました。
自分が乗っているわけじゃあないのに、やっぱり船っていうのは、ちょっとワクワクさせるものがありますね。
大桟橋からあらためて赤レンガ倉庫と「みなとみらい」を眺めてみると、こんな感じ。
東京のベイエリアの多くと比べると、超高層建築の密度が低く、なにより高速道路が目に入らないのが好印象を与えます。
大桟橋からの眺めを楽しんだら、古くからある山下公園を通り抜けます。この公園は関東大震災のあとの復興事業として、海を埋め立てて造られました。当時としてはひどくモダンな公園だったろうと思われます。ここには、少々年配の方ならだれでも知っている、「赤い靴はいてた女の子」の像や「かもめの水兵さん」の碑があります。そしてその先に停泊するのはこれも横浜名物の一つ、氷川丸。
山下公園の向かいには、かつての横浜を象徴するものの一つであるマリンタワーが聳え、その下にホテルニューグランドが建っています。このホテル、昔はジーンズでは入れないというドレスコードがありましたが、今でもそうかしら。
山下公園からは本牧埠頭へ向かいますが、埠頭というのは港湾の物流のための施設なので、その付近は当然ながらトラックが多く、自転車向きの道ではありません。
ということで、表通りは避け、新山下団地の裏の道を辿り、さらに快適な緑道を使って先に進みます。
その緑道が終わると、いよいよ埠頭ゾーンに突入です。
ここは、再開発された華やかな「赤レンガ」や「みなとみらい」とはまったく違った、元からある横浜の一端が垣間見られる地区でもあるのですが、それはいうなれば、コンテナヤードに倉庫、工場というところでもあります。
本牧埠頭の一番端っこ、D埠頭に入り、その先端を目指します。
そこには横浜港シンボルタワーが建っています。1980年代の中ばにできたこの施設は、船舶通航信号所であり展望施設でもあります。
当時、横浜にはマリンタワー以外に高い建物はなく、ここは横浜港がぐるりと見渡せる数少ない展望台だったのです。
展望台には無料で上れますが、エレベーターはないのでひたすた階段を上らなければなりません。
へたれジオポタの面々はだれも上ろうと言わないので、下層の展望ラウンジをぐるりと。ここは360°ではないけれど、180°廻ることができます。
シンボルタワーの展望ラウンジから埠頭を見れば、こんなです。
キリンこと、港湾のシンボルであるガントリークレーンがたくさん並んでいます。
横浜港シンボルタワーの足元には芝桜が少しだけ咲いていました。
この芝桜、五月にはきれいに咲きそろうようです。
横浜港シンボルタワーからはベイエリアを離れ、三溪園に向かいます。
ここからは住宅地で、車の心配はなし。
三溪園は、生糸貿易で財を成した実業家であり茶人でもあった原富太郎(号:三溪)が築いた庭園で、ここには国の重要文化財12棟を含む、全国から集められた多数の日本建築が配置されています。
富太郎は、実業の生糸では最近世界遺産に登録された富岡製糸場などを所有し、現横浜銀行の頭取にもなった人のようです。
一方で、のちに日本画壇の大御所となる前田青邨らを援助していました。また、日本美術のコレクターでもあり、現在東京国立博物館蔵に所蔵される国宝の「孔雀明王像」も所有していたといいます。
大金持ちの美術コレクターは多数おれど、建築を収集した人はあまりいません。この方は、実業、一般的な美術に加え、建築にも「目利き」だったようです。
この聴春閣は、徳川家光が二条城内に建てたものと伝わります。一般的な建築が左右対称形を好むのに対し、これは徹底的に非対称を追求したとも思える造形。
三溪園の一角はちょっとした梅林になっています。
今日は暖かく、梅のにおいがそこらじゅうに漂っています。
紅梅もいい感じ。
さて、三溪園で日本建築美と梅の香りを楽しんだら、そのすぐ近くにある本牧山頂公園へ向かいます。
本牧山頂公園は「山頂」の名のとおり、ちょっとした高台にある公園で、見晴らしが良い。横浜港から房総半島、そして富士山までが見渡せます。
今でこそ気持ちのいい公園になったここは、1980年代の初頭までは米軍の住宅地でした。
本牧山頂公園からは根岸森林公園へ向かいます。本牧山頂公園で米軍のことを思い出したので、どうなっているか寄って見ました、今でもあるのか米軍接収地が。
そうしたら、根岸森林公園に隣接して、それはまだしっかり残っていました。一枚写真を撮って、さらにゲートに近づいて奥の建物の写真を撮ろうとすると、門番さんが出てきて、写真は撮ってくれるな、といいます。なんでもここで写真を撮ると、セキュリティーカメラにばっちり写って、あとでヤバイことになるかもしれないって。
海外では軍事施設はもちろん、出入国ゾーンなどの撮影をするとマズイことになりかねませんが、日本国内にもそういった箇所があるとは。お~、怖。
ということで、そそくさとこの米軍接収地から退散して、根岸森林公園に入ります。ここは1867年(慶応3年)に日本初の西洋式の競馬が行われた横浜競馬場の跡地で、いわば近代競馬発祥の地。競馬って意外と古くからやられていたんですね。
写真の場所は馬が走ったところで、ここを歩いてみると、馬が走るところってのは相当に広いのがわかります。
そしてこれがいわゆるスタンドで、当時は「一等馬見所」と呼ばれていたそうです。
写真はスタンドの裏側に当たり、段々席のスタンドはこの反対側にあります。
根岸森林公園からは坂を下り、再びベイエリアへ。横浜の見どころとしては外せない「港の見える丘公園」ですが、さてはて、ここから見える景色はこんなだったろうか。
私が知っているここは四半世紀も前のもの。当時ベイブリッジはもちろんなく、間近に見えるのは戸建てのちっちゃな家ばかりだったような。そしてなにより、海が狭くなった。
「港の見える丘公園」からグワ~と下れば中華街です。
ここはいつでも熱気で溢れている。折りも春節、山下町公園では春節娯楽表演なるものが行われていて、それは最高潮に近いものがありました。
溢れる人、人、そしてまた人!