梅雨、前日は雨、翌日も雨予報の中、この日は信じられないくらいの青空が広がっています。しかも気温はあまり高くならず、最高でも27°Cほどだといいます。最高のサイクリング日和となりました。
都心から二時間、単線のディーゼルカー一両編成という鄙びた小湊鐵道線に揺られてやってきたのは上総牛久駅。
小湊鐵道線には無人駅が多いのですが、上総牛久のまちは沿線の中では大きい方で、駅は有人です。
でも、駅舎はこんなにちっちゃい。
上総牛久から最初に向かうは笠森観音。
駅を出てまず驚くのは、建物はそれなりに建ち並んでいるものの、駅前には何にもなくて、そこからから延びる道がとても狭いこと。
駅前の道からすぐに線路に並行する道に入れば、ここが本当に駅のすぐ近く? という疑問が湧くほどです。
ほどなくこの道は線路沿いを行くようになり、すぐにR409に出て線路を渡り、さらに大滝街道を渡ります。このR409と大滝街道の交差点付近は、上総牛久駅付近とはまるで異なる雰囲気なのにさらにびっくりです。古くからある集落はあまり変わらないのに、その外側に新しく造られた道沿いが開発されるという、農村の典型を見るよう。
R409は房総横断道路と位置づけられており、ちょっとした交通量があります。
そこですぐにこの道を離脱し、その北を行くカントリーロードに入ります。伸びてきた稲が美しい田圃の中を進んで行くこの道は、とっても気持ちいい。
しかしこのカントリーロードは2kmほどでおしまいとなり、R409に入ります。
R409は今日のルートの中でもっとも交通量が多く、また大型トラックも通るため、慎重に行きます。
この道をガシガシ行くのはビジター初参加のヒロちゃん。
R409を4kmほど行くと笠森観音に到着です。笠森観音の入口は二ヶ所あり、メインはR409に大きな標識が出ている南側なのですが、私たちは北側からアプローチします。
この北側の入口には笠森観世音と彫られた石柱が立っており、本来の参道はこちら側だと思われるし、南側のアプローチが階段なのに対し、こちら側はスロープで済むからです。
『県立公園笠森山』とある標識のところに自転車を停め、そこからは歩いて奥へ進みます。
まずは鬱蒼と生い茂った木々の中の切り通しを行きます。ここは風が抜け、ひんやりして気持ちいい。
切り通しを抜けると、参道に覆い被さるようにして斜めに幹が倒れた木が見えてきます。
この木は楠で、『子授楠』といわれる霊木。その名の通り、この木にお参りすると子宝に恵まれるのだとか。
でもこのお参りはちょっと変わっていて、木の幹に開いた穴を夫婦でくぐるというものだそうです。
夫婦じゃあないとダメだそうな。しかも男が先で女が後・・・
『子授楠』から先へ進むと山門をくぐります。山門の内側すぐのところには土産物屋があります。ここには『子授楠』と並んで人気なものがあります。いや、人気でいえばこちらが上か。
『開運黒招き猫』。真っ黒な招き猫です。この招き猫を去年買って、今年の元日にお礼参りにいらした人たちの例では、当たり宝くじが、1.5億円、2億円、3億円成、という方々がおられたそうな。ん〜ん、そんなに当たるんなら、買っちゃおうかな。。
招き猫はあとあと、と土産物屋から奥へ進めば、正面の高いところにお堂が。
『お〜、これは凄い〜』 と、全員、上を見上げます。
このお堂、懸造り(かけづくり)という伝統工法でできています。懸造りでもっとも有名なのはあの京都の清水寺で、これは舞台造りとも呼ばれます。木材を格子状に組み、その上に建物を載せるこの工法は、崖や池などの上に建築する際によく用いられ、耐震性に優れているといいます。
この工法を採用する建物の多くは一部にのみこの工法が使われています。ところがこの笠森観音では四面全面に使われており、これは全国でここだけだそうです。
このお堂の真下は大きな岩で、それを足がかりに懸造りの基礎を造り、その上にお堂を載せたわけです。
お堂に行くにはもの凄く急な階段を上ります。この階段、足を滑らしておっこちたらひとたまりもない、そんな感じ。
その階段を上り切ると、下に先ほどくぐってきた山門が見えます。
この高さ、写真でわかるでしょうか。
回廊を廻ってお堂の正面に向かいます。
日本のお寺はごく僅かな例外を覗いて、南側が正面です。ここの正面もその例外ではありません。
その南側に開いたお堂の中には大きな提灯が吊り下げられ、そこから外に向かってみょうなものが延びています。
よく見ればこれは、一本の紐に赤ちゃんのよだれかけなどがたくさんぶら下げられたものでした。ここは子授けで有名だとは聞いていたのですが、まさかお堂の中でこんなものを見るとは思いも寄らぬことで、ちょっとびっくり。
高さ20m近くはあろうかというこの回廊からは周辺がよく見渡せます。
そんな回廊の北東の角で記念撮影を。左より、ビジターで初参加のヒロちゃん、ムカエル、クッキー、シロスキー、キルピコンナ、カメラはサイダーでした。
珍しい四方懸造りの笠森観音にお参りしたら、次は野見金公園(のみがねこうえん)へ向かいます。
R409をちょっと戻って入ったカントリーロードは、これもなかなか快適な道です。
山間の小さな田圃もきれい。
『わ〜、今日はお天気も良くて、こんなきれいな田圃を見られるなんて、来て良かった〜』 と笑顔のクッキー。
月は六月、水無月。梅雨の季節だから雨が多いのに水が無い月とは、はてこれいかに。
昔々って、そんなに昔ではないかもしれませんが、『無』は現代の『の』にあたる連体助詞だったのだそうです。水無月→水の月
それはそうと、水無月の花といえば紫陽花ですね。
今日はここまで、ちらっ、ちらっと紫陽花が咲いているのを見かけましたが、これから行く野見金公園はちょっとした紫陽花の名所だそうです。
その野見金公園までは少し上りがあります。
ちょっとばっかしえっちらおっちらし、野見金公園に到着。
先に小さな小屋が見えてきました。この公園には目立った看板はありませんが、あそこが野見金公園の入口です。
その小屋にはボランティアなのか、近所のおばさんが数人おしゃべりしています。ここは『町民手作り公園』なのです。小屋の造りが売店風だったので何か売っているのか聞いてみると、この日は何にもないけれど明日はここで弁当を売るそうです。明日から紫陽花まつりでもあるかもしれません。
さて、小屋の横の道を登って行くと、咲いてる咲いてる、紫陽花が。
かわいらしい白。
紫陽花園ともいうべきところを巡る散策路はこんな。
ちょっと可憐な薄紫。
いい色の紫陽花とジオポタ変種二種。
伝統の青。
野見金公園は周りから比べると高所にあり、眺望がいいそうです。
紫陽花が咲くゾーンの頂上までやってくると、それなりの眺望が得られますが、手前の木々が邪魔になり、ぱっと開けた360度の眺望というわけにはいきません。しかしここからは北東に、茂原のまちがしっかり見えます。
この公園はいくつかのブロックに分れており、眺望がいいのはこの紫陽花ゾーンの東側にある展望台があるところのようです。
しかし紫陽花ゾーンでもちょっと眺望があったので、もう展望台はいいよね、ってことで、山を下ります。
紫陽花ゾーンから下るとソバ畑があります。今ちょうどここの畑では小さな白い花が満開です。
遠目にはかわいらしいソバの花ですが、実はその匂いはかなり特徴的だとビジターのヒロちゃんが教えてくれたので、近付いてちょっと嗅いで見ることにしました。クンクンすると、
『オェー、く、くせぇ〜』 と、みんな顔をしかめてしまいました。実はソバの花はとっても臭いんです。それも何というか、人間の排泄物の匂いみたいだから、ゲー、って感じです。
きれいな紫陽花を観て、くさ〜いソバの花の匂いを嗅いだら、野見金公園から下り、熊野の清水(ゆやのしみず)へ向かいます。
下り出すとすぐ、道端に湧き水が出ていました。
『あっ、これが熊野の清水ですか〜』 と、キルピコンナ。
いえいえ、これはただの湧き水でしょう。山深い房総にはこんな湧き水がたくさんあるようで、あちこちに、名水なんたら、みたいなものがあります。
ビューンと下って、あれれ、また上りだ〜、というところにはきれいな真緑色の棚田がありました。
木々の合間から覗くこの緑色はなんともいえないほど、素晴らしく輝いて見えます。
山合いの細かいアップダウンをいくつも越え、細道広道細道と繰り返し、二車線のr147になると道は穏やかな上り。周囲は相変わらずの狭い田んぼで、ここはキルピコンナがみんなを牽いて行きます。
右に分岐するT字路までやってくると、そこには『熊野の清水』の大きな看板が出ています。このT字路を右折するとほどなく『熊野の清水』に到着です。
『熊野の清水』の熊野は『くまの』ではなく『ゆや』と読むようです。
なぜそう読むのかはしかるべきところを見ていただくとして、ここは全国名水百選に選定された名水なんだとか。
『熊野の清水』は熊野神社の境内にあります。
鳥居をくぐるとすぐに小さな池の前に出ます。その池の上に渡された竹筒から水がちょろちょろと流れています。
この清水は弘法大師の法力により湧泉したと伝えられており、これまで涸ることなく農業用や生活用として利用されてきたそうです。名水だから当然飲料可かと思いましたが、水はやや濁っており、煮沸して飲料せよという札書きがありました。
池の奥には熊野神社の社が建ち、その横を登って行くと瀧不動で、屋外には観音様が立っていらっしゃいます。
『熊野の清水』からは大多喜のまちへ向かいます。
『熊野の清水』の横を行く道には旧大多喜街道とあるのでこれを行ってみようかとも思いましたが、この道を奥へ行くと国土地理院の地形図では破線、つまり徒歩道となるのでかなり怪しい。もしかするとすでに廃道になっているかもしれません。ということで、ここは安全に普通の道を選択。
でも、その普通の道もこんなだからね。
この細道はほどなく広めの一車線道に合流します。そしてさらに二車線の道、r27と移ります。
r27は茂原と大多喜を結ぶ幹線道なので少し車の通りが多い。
そこで小土呂で田圃道に避難。
こういう道、いいですねぇ〜
小土呂の集落には茅葺き屋根の大きな民家があります。国の有形文化財の塩田家住宅です。またここはニューヨークのブルックリン植物園の日本庭園を造った造園家塩田武雄の生家としても知られています。
1901年(明治34年)建築のこの建物は現在宿泊施設の中野屋となっており、安価で宿泊ができます。
小土呂まで来ると大多喜のまちはもうすぐです。
大通りを避けて進めば、ちょっと地道も。
いすみ鉄道の線路を渡りr172に出ると、そこが大多喜のメインストリートです。
街の北の端には四ツ門公園があり、櫓が建っています。
大多喜は徳川氏家臣本多忠勝の城下町でした。そんなこともありこのまちには現在もそれなりに歴史ある建物が残っています。
これは国の重要文化財の渡辺家住宅。江戸時代後期の1849年(嘉永2年)築とかなりの歴史を持つ町屋です。
その隣は1873年(明治6年)築の伊勢幸。元々は酒屋のようですが、現在は雑貨も扱っているようです。
この建物の建築には大手門の材料を利用したと伝えられており、屋根瓦には城主の紋所があったそうです。
ここは街歩きはひとまず置いておいて、クラシックな家々が並ぶ通りを行き、その中にあったトンカツ屋で昼食です。
この近くにはそば屋もあったのですが、最近そば屋ばっかりだよってことで、ここはガッツリ系で。
ガッツリ系トンカツをいただいたら、午後の部開始。引き続き大多喜のまちを巡ります。
トンカツ屋の前は土蔵造りの釜屋。ここは質屋と金物屋を営んでいたようです。
商い資料館は土蔵造りの建物を大改修し、2001年(平成13年)にできた施設で、一階は昔の商家の再現、二階には昔の暮らしが偲ばれる生活用具や遊び道具が展示されています。
屋外には小さいながらも日本庭園があります。
天明年間(1781〜1789)創業と伝わる豊乃鶴酒造は『大多喜城』の醸造元です。
店の軒下にはその地酒の暖簾と、造り酒屋のお決まり杉玉がぶら下がっています。
店の奥には酒蔵があります。
酒蔵は1875年(明治8年)の建築で、その手前に建つ煙突はイギリス積の煉瓦造で、高さ16m。
大屋旅館は江戸時代から続く老舗で、現在も旅館業を営んでいます。
二階の戸袋に大きく屋号が漆喰で書かれているのが目に付きます。
1874年(明治7年)建築の宍倉弥兵衛商店。現在は商いはしていないのか、一階のガラス戸のうしろ側のカーテンは閉ざされていました。
出桁の下の二階は、真壁が半分と出格子窓が半分という、ちょっと珍しい構成。
大多喜町役場は今井兼次の設計で、1959年(昭和34年)建築。
今井は日本にいち早くガウディを紹介した建築家で、ガウディがグエル公園などで用いた陶片によるモザイクタイルを『フェニックス・モザイク』と名付けて、機会を見つけては何度も試みています。その代表作は長崎の日本二十六聖人殉教記念館ですが、この大多喜町役場のペントハウスの壁などにもフェニックス・モザイクが使われています。
この今井の大多喜町役場は最近改修され、新館が造られました。
大多喜町役場で大多喜の歴史的建築巡りはおしまい。次は大多喜城です。大多喜城は大多喜のまちを見下ろす西の高台にあります。
上総国が徳川家康に与えられた折り、本多忠勝が大多喜城の城主となり、大多喜藩10万石ができました。現在の城は1835年(天保6年)の図面を基にして1975年(昭和50年)に再建されたものだそうです。
大多喜城の次はいよいよ千葉セクション、話題のチバニアンです。この地層は小湊鐵道の月崎駅と上総大久保駅の間の養老川にあります。
大多喜は夷隅川(いすみがわ)と大多喜城が建つ山に挟まれた狭い土地ですが、その周囲には田圃が広がっていました。ところが夷隅川を離れるとあっという間に田圃はなくなり、いきなり山になります。
大多喜城からは『大多喜県民の森』を抜けて行きます。
この森の中を行く道は林道泉水西部田線。このあとはずっと、こうした山の中を行くことになります。
林道泉水西部田線は当然上りで、しばらくハヒハヒが続き、苦しい。
この上り、そろそろおしまいかな〜と思わせつつ、なかなか終わりません。あれ〜おかしいな、と思ってどんどこ上って行くと、いつしかr172に出てしまいました。
ここは一山越えて、下ってr172に出るのだろうと思っていましたがそうではなく、上りのままr172に続くのでした。
出た先のr172も上りで、ここでもえっこらよっこら。
午後になり少し日差しが強くなってきましたが、爽やかな風が吹いていてあまり暑さを感じることもなく、意外と気持ちいい。
気が付かないうちにそれなりの高度になっていたようです。
道端の木々の間から見える景色は、これぞ房総という、どこまでも小高い山が続くものになっています。
r172は大多喜と月崎を結んでいますが、これはほとんど交通量がなく、快適に進んで行きます。二車線だった道はいつの間にか一車線になっています。
やっとピークに辿り着いて、やった下りだ、と思ったらすぐに上り返しが待っていました。そしてこの上りもやっぱり、ピークかと思ってからが長かった。今度こそピークか、今度こそピークか、と何度思ったことか。
再び二車線になり伊藤大山(標高245m)付近で、こんなところにカフェが、というカフェが現れると、その先で真のピークに辿り着きました。
今度こそ下りです。この下りは森の中でいい感じなのですが、案の定あっという間に終わってしまい、再び上りになります。
楽しいことは一瞬で終わり、長く苦しい時間が続きます。まるで人生のようですな〜
えっちらおっちらし、なんとかもう一山越えると空が開き、周囲に田圃が出てくるようになります。
山を抜け出て養老川の筋に出てきたのです。ここで先頭を牽くはムカエル。
田圃の向こうに道が見え、大きな道路標識が現れると、そこが千葉セクションの入口です。
r81を横切り田淵会館の標識のある坂道を上って行くと、『松山逆磁極期の地層』という看板が立っています。この『松山』は古地磁気学者で地球磁場の反転説を世界で初めて唱えた松山基範から取られたものです。
地球は過去360万年の間に地磁気の向きを11回逆転し、2つの逆磁極期があったことが分かっており、この逆磁極期の500万年前から400万年前のものは『ギルバート』(1600年に地球は一つの大きな磁石であると主張した人物の名)、258万年前から78万年前のものは『松山』と名づけられているそうです。
ここ養老川沿いの崖面には地球の磁場が逆転した証拠となる地層、千葉セクションがあるのです。つい先日、この千葉セクションが地質時代の国際標準模式地に認定されるよう、国際地質科学連合の専門部会に提案申請書を提出すると報道されました。
日本の千葉セクションと国際標準模式地を争うのが、イタリアのモンテルバーノ・イオニコとビィラ・デ・マルシェの二ヶ所だそうです。そんなわけでか、ここには日本とイタリアの国旗が掲げられています。
千葉セクションに行くには養老川の崖を下りなければなりません。私たちは行けるところまで自転車で行ったのですが、この最後は超激坂で帰りが大変でした。
まあそれはともかく、ググッと下って養老川です。
川辺に辿り着いたら、ここから20mほどは川の中を行かねばなりません。この日は川の水量が極めて少なかったので、水に浸からずに歩けましたが、通常は長靴が必須となるでしょう。
川の縁を用心しながら南へ進むと、左手に白っぽい崖が現れます。これが千葉セクションです。
ここが国際標準模式地と認められれば、地球46億年の歴史の中で、77万年前〜12万6000年前の地質時代は、ラテン語で千葉時代を意味するチバニアンという名前が付けられるといいます。
崖面には緑、黄、赤の杭が打ち込まれ、ところどころに地質のサンプルを採取をした痕と考えられる小さな穴も見ることが出来ます。一年前の報道から見学者が多くなったのか、現在ここには解説板が設置されています。
それによると、緑色の杭は現在と同じ地場の地層、赤色の杭は地場が逆転していた時代の地層、これらの間にある黄色の杭は地場がふらふらしていた時期の地層を示しているそうです。
ここは一年前に訪ねる予定でしたが、都合で延び延びになっていました。一年間ここを訪ねるのを楽しみにしていたクッキーに感想を聞けば、
『ん〜〜ん、見てもよくわかんないということが分かりました。でも見られてハッピーです。』 とのこと。
たしかに地場逆転といったって、それを直接感じられるわけではないし、磁石を近づけてもN極とS極が逆転するわけでもありません。地磁気の逆転は、岩石などに記録されている磁場をなんだかむずかしい方法で解析してはじめてわかるものなのだそうです。
でもいいじゃあありませんか。国際模式地と認定され、ここにゴールデン・スパイクが打ち込まれる日が近くやってくるかもしれないのですから。
ある時代がチバニアンと呼ばれる日が来るかもしれない、という楽しい夢を見させてもらって、千葉セクションをあとにします。
ここからは久留里駅へ向かうのですが、少し時間があるので大福山方面を覗いてみることにします。大福山に上るのであれば林道月崎大久保線を行ってもいいのですが、ここはまだ見ぬ道で大福山の北にある石塚の集落まで上ることにします。
r81を南下し、大久保で養老川を渡ります。
そして上総大久保駅の横をかすめ、このあたりでは異様なほどまっすぐな細道を西へ。
時は17時少し前。
太陽の高度が下がり気温も下がってきて、いい風が吹いています。田圃を横目に山に向かって快適に進みます。
『わ〜、きれい〜』 という声の先に見えるのは、小さな段差のある輝かしい緑の田圃。
まっすぐな道の先にトンネルが見えてきました。このトンネルで田圃はなくなり、あとは山の中へ突入。
トンネルをくぐり抜けるとすぐ、左手に林道月崎大久保線へ上る道が現れました。これは超激坂。林道月崎大久保線は今くぐりぬけたトンネルの上を通っているようです。
私たちが行く道はこの林道月崎大久保線へ上る道の分岐から入ります。その道はというと、林道の標識がないので一般道なんだろうと思いますが、幅員は2mほどしかなく、周囲は鬱蒼とした森。ほとんど林道状態です。
序盤は直線基調の穏やかな上り。
そのうちカーブが現れるようになるといくらか幅員が増し、勾配がちょっと上がります。
左手に谷が現れ、少し空が開くとカーブの内側は急峻な崖です。
この崖の表面には細かな凹凸が見られます。一瞬、保護モルタルが吹き付けられているのかと思いましたが、よく見るとこれは岩の表面が風雨によって浸食されたもののようです。質感からしてこの岩は砂岩でしょう。
空はしばらく開いたまま。右手に先ほどと同じ砂岩と思われる崖が見えてきました。その下には養老川の支流の細い川が流れています。
有名な養老渓谷でも見ることが出来ますが、養老川の周辺にはこうした砂岩の地層が多いようです。
この養老川の支流からは激坂になります。ここまでなんとか耐えて上ってきたメンバーの中から、一人二人と押しに入るものが出てきます。
まあ、そうはいっても押さなければならないところはごく僅かなのでこれは問題無し。
えっこらよっこら、のろのろ上って、なんとか石塚の集落に辿り着きました。ここで最後の休憩をとります。
さて、このあとは久留里駅まで下るだけです。
下り出すとすぐ、ちょこっと近くの山並みが見えるようになります。どこまでも低い山が続くこの景色が、房総の内陸部の景色。
石塚から北にあるr32まではまずまずの道が続いていますが、すぐに林道長者線との分岐に達したので、私たちは林道長者線に入ります。
この林道長者線は一車線の舗装路ですが、まったくといっていいほど車が通らず、快適です。この序盤にはごくわずかな上りがありますが、それ以降は完全に下りになります。この森の中の下りは気持ちいい。
山を抜け、勾配が穏やかになると道脇に田圃が現れるようになります。下り側はどこで林道が終わるのか注意していなかったので判然とはしませんが、このあたりはもう一般道になっているかもしれません。
このあたりになっても引き続き、車の通りはほとんどありません。
穏やかな下り道を行くと、房総名物の素掘りのトンネルを二つ通り抜けます。
二つとも短いのであっという間に抜けてしまいますが、素掘りのトンネルはやっぱり味わいがあります。
小川を渡るとr32に合流です。
このr32は久留里駅とのちょうど中間付近にあるトンネルまで上りなのですが、勾配が穏やかな上にここはもう先が見えているので、全員快調に上ります。
トンネルからは高速の下りで久留里のまちに入ります。
久留里は江戸時代の久留里藩の城下町で、側わらには新しく建てられたお城があります。また、明治時代に上総地方で開発された井戸を掘るための『上総掘り用具』によりたくさん自噴井戸が掘られたことから、名水の里としても知られ、『久留里の大井戸』などが平成の名水百選に選ばれています。
商店街の中にお城をかたどった看板が現れると、久留里駅前に到着です。
今日もなんとか無事に走り切ることができました。
『おつかれさまでした〜』 と、久留里駅の前で完走を祝う面々です。
梅雨にもかかわらず快適なサイクリング日和となったこの日は、笠森観音、紫陽花の野見金公園、熊野の清水、大多喜のまち、チバニアンと、意外と見どころが多く、これまでにない房総を発見しました。きれいな緑の田圃と林道の上りも楽し。