9月というのはこんなに台風が多かったでしょうか。ここのところ立て続けに台風が押し寄せ、15号で千葉県は大停電という大きな被害を受けました。次の17号の影響で先週末の企画は延期を余儀なくされたのですが、結局は三連休とも晴れ間が出るという状況で、フラストレーションが溜まっています。
天気予報ではこの週末も微妙なのですが、もう待ってはいられないと土曜日にポタリングと決定。
例年は彼岸のころに咲くと言う彼岸花ですが、今年の夏は暑かったのか、その咲き出しはあまり芳しくありませんでした。しかしようやくここ一日二日で見頃になってきたようです。
ということで、この日は彼岸花を見に。
やって来たのはJR青梅線の東青梅駅。ここから向かうは塩船観音寺(しおぶねかんのんじ)です。
塩船観音寺はツツジが有名ですが、ここにはちょっとですが彼岸花もあり、これがなかなかいい感じなのです。
東青梅駅からはしばらく霞川沿いの遊歩道を行き、適当なところで塩船観音寺の参道に向かいます。
道脇には刈り取られた稲が干され、コスモスは見頃になっています。
参道の突き当たりに見えてくるのは茅葺き屋根の仁王門と大きな杉の木。
塩船観音寺には古い建物が残っており、この仁王門、阿弥陀堂、本堂は室町時代後期の建立です。
仁王門をくぐると、正面に立つのは阿弥陀堂。
この参道の両側に彼岸花が咲いています。
ここの彼岸花はちょうど今が見頃。
この花はまたの名を曼珠沙華(まんじゅしゃげ)と言いますが、この曼珠沙華はサンスクリット語の音からきているそうで、その元となるものは仏教の伝説上の天上に咲く白い花だそうです。
阿弥陀堂からさらに奥へ行くとご神木の大杉が立ち、右手に階段が続いています。
その先にひっそりと薬師堂が立っています。この鰐口はとても良い音で響きます。
薬師堂の右手にある階段を上ると、本堂です。
お寺の伽藍配置の基本は中心軸上かそれに対称に伽藍を並べるものですが、それは平地の場合です。ここのように山の中にある寺ではそのように並べようと思っても平場がないのでできないため、中心軸から外れたり、左右対称ではなくなったりするのです。
この本堂もその例の一つで、本堂の前のスペースもとても狭い。
本堂にお参りしたら、境内の一番奥に立つ観音様に向かいます。
本堂の横から急坂を上ると鐘楼があり、下に広大なツツジの庭が見えてきます。さすがにこの庭はツツジの名所とされるだけあり、見事に手入れされています。
このツツジを眺めながら進むと、庭の一番奥にして最も高いところに観音様が立っているのが見えてきます。
この観音様にお参りしたら、そのすぐうしろから霞丘陵自然公園に入ります。
霞丘陵自然公園はその名のとおり丘にあり、その中にハイキング道が通っています。
ここからはこのハイキング道を行きます。
塩船観音寺のすぐ裏手の道はほぼ平坦で、北側のゴルフ場を下に見ながら進みます。
しかしこの平坦区間はすぐに終わってしまい、いったんちょっと下ると、
その先は上りに。そして階段も登場。ここはハイキング道ですからね。(笑)
まあ、森の中の雰囲気を楽しみながら、ゆっくり行くとしましょう。
10分ほど押したり担いだり乗ったりして進むと、山を抜けたようで平場に出ました。
この先はアスファルトの舗装路です。
この舗装路を南に行くと愛宕山グラウンドがあり、そこからクイックターンするように方向を変えると白い車止めのゲートがあり、『七国方面→』の標識が下がっています。
このゲートをすり抜けると、そこは桜並木が続く気持ちの良い道。
この道端にも彼岸花が咲いています。
快適な桜並木が終わると岩蔵街道の笹仁田峠に出ます。
ハイキング道はこの先も続いており、笹仁田峠から南に僅かに下ったところにその入口はありました。
この入口はコンクリート舗装の急勾配で一瞬たじろぎますが、なんとか上っていきます。
すぐにコンクリート舗装は絶え、地道になります。この地道がここのところの大雨でか、かなり抉れて深い溝ができていて、自転車を押し上げるのに四苦八苦。
しばらく押し上げが続きますが、なんとか自転車に乗れる程度の道になるとほどなく、開けたスペースに出ます。ここは七国広場と言うようです。
七国広場からは尾根道のようで、ようやくフラットに。
このフラットな道を進んでいくと、いつの間にか七国峠を越えたようで、道は穏やかな下りに転じます。
霞丘陵のハイクング道にはほとんど眺望はありません。その唯一の例外と言える場所にやってきました。木々の合間から南西の山々が見えます。ここからは条件が良ければ富士山が見えるのですが、この日はごくうっすらとその裾野の一部が見えるだけでした。
富士見ポイントからはちょっとした上りがあり、木の根っこに引っかかったり、ゴロゴロ石を避けたりしなければなりませんが、なんとか進んでいきます。
そして分かれ道に辿り着きました。もっとも一般的なハイキングルートはここから階段を下り岩蔵温泉に抜けるのですが、国土地理院の地形図には直進ルートも記されています。
階段はできるだけ避けたいので、とりあえず直進ルートを行ってみることにしました。しかしこの道はもうほとんど使われていないようで、あえなく引き返すことに。
他にもいくつか道はありそうではあるのですが、今日のところは素直に階段の道を下ることにします。
『これまでも階段を担いだので、ここもなんとか行けるでしょう!』 と、いつも元気印のミルミル。
ということで、いざ、階段道へ!
まあこの階段道、序盤はそう問題はなかったのですが、そのうちゴロゴロ石の抉れ道になり、これがかなり長く続いて、もう、アヘアヘ。そこの写真はきつくて撮れませんでした。この写真は中盤のもっとも穏やかな下りのところです。
なんとか岩蔵温泉に下って黒沢川を渡ると、その先は気持ちの良い畑道。
彼岸花に毒があるのは昔から知られていたようで、田んぼや畑の周囲に良く植えられています。これはネズミなどの動物がその鱗茎の毒を嫌って作物を荒らすのを防ぐようにするためだそうです。
彼岸花満開〜
ここも!
ここは飯能市の苅生(かろう)というところ。
民家の庭先にきれいなコスモスが咲いています。
畑の横にも。
一丘越えて入間川の筋に下ってきました。
吾妻大橋のあたりは入間川の中でも名栗渓谷と呼ばれ、奇岩と渓谷美に富んでいます。
もう一丘越えて、今度は高麗川(こまがわ)の筋に出ました。
祥雲橋の下を流れる高麗川の川辺には彼岸花が見えます。
高麗川に出たら、本日のメインイベント会場の巾着田に向かいます。
r15川越日高線を渡ると、そこには大勢の人・人・人! 彼岸花を見ようとあちこちからやって来た人々が、ぞろぞろと巾着田に向かって歩いて行きます。私たちもこの人の波に乗って巾着田に向かいます。
巾着田はその名の通り、巾着袋のような形をした田んぼでしたが、今では彼岸花の名所となっています。
この外側を流れているのは先ほど横を通ってきた高麗川で、私たちはその上流側から巾着田にアプローチしました。
『お、咲いとる、咲いとる!』 と、彼岸花の状態を一目見て喜ぶは、サイダー。実は三日前に巾着田のWEBをチェックしたところ、まだあんまり咲いていないということだったので、ちょっと心配していたのでした。なんと今年の花はここ10年間でもっとも遅いようなのです。
『彼岸花って不思議な花ですよね〜 枝も葉っぱもないんだもんねぇ〜』 とマージコ。
そうなんです。彼岸花には枝はなく節もない一本の茎がすくっと伸びています。しかし葉っぱは、花が終わるとそのあと出てくるんですよ〜
もう一つ不思議なのが、彼岸花の色。
ここは赤みがかなり強く、緋毛氈を敷き詰めたように見えます。
ここもかなり赤いです。
でもここはかなりオレンジ色に近いと言っていいでしょう。
この色の違いはどこから来るのでしょうか。若い、陽の当たり方、湿度が高い低い・・・
この花は構造も不思議。花茎の先端に短い柄を持つ花が放射状に5〜7つ付いています。それぞれの花にある花弁は六枚で縮れており、くるっと反り返っています。
花の中央から四方八方に細長く飛び出しているのは雄しべと雌しべで、これは全部上を向いています。雄しべは6本で雌しべは1本だそうです。しべの先端がチョンと膨らんでいるのが雄しべで、このふくらみがほとんどないのが雌しべでしょう。
彼岸花と言えば赤ですが、白い花もあります。
ミルミルによると黄色い花もあるそうです。
やっぱりこの花は面白い!
そうそう、ここで彼岸花の実を見ました。しかしこの実からは正常に発育する胚をもつ種子ができないそうで、彼岸花はもっぱら球根によって増えるのだとか。種子が必要ないのなら花を咲かせる必要もないんじゃあないか、と思いますが、どうして彼岸花はこんな派手は花を咲かせるのでしょう。
彼岸花の生え方を良く観察してみると、同じところからいくつもの茎が出ているところがあります。彼岸花は多年生の球根性植物ですから、これは一つの球根が子供を増やしていて、非常に近くから複数の茎を出しているのだと想像できます。
たっぷりと彼岸花を眺めたら、巾着田を出て大通りの向かいの高麗郷古民家に向かいます。
高麗郷古民家は、江戸時代には名主を、明治期には戸長を、その後は高麗村の村長を務めた新井家の住宅でした。
この入口の彼岸花はすでに咲き終わっていました。巾着田ではまだ蕾の花も多いと言うのに。そして塩船観音寺では散っていた萩がいい感じ。植物って場所によりこうも違うから不思議ですね。
新井家の母屋は江戸時代末期から明治時代の前半の建築と考えられています。何度も改築が重ねられており、10数年前まで茅葺きだった屋根も瓦葺きになりました。
明治39年築とされる客殿の入口は向唐破風で、かなり格式の高い造りです。二つある土蔵も立派。
高麗郷古民家の次は聖天院(しょうでんいん)へ。この寺は高句麗の王族と推測される高麗王若光(こまのじゃっこう)の菩提寺として創建されたという由緒があるものです。この寺の紋章は皇室のそれと同じ菊花紋章。
7世紀に中国大陸で高句麗が滅亡したあと、王族を含む多数の高句麗人が日本に亡命、移住定着し、彼らの一部が『高麗(こま)』の氏姓を称したとされています。続日本紀(しょくにほんき)によれば、この地には716年(霊亀2年)に高麗郡が置かれ、関東各地に住んでいた高麗人1,799人が集められたそうです。
寺があるなら神社もあるか。もちろんあります。その名も高麗神社。
ここの宮司は若光の子孫とのことで、現在の宮司は60代目だそうです。
高麗神社の裏手には高麗家住宅が立っています。
ここは高麗神社の宮司を代々勤めてきた高麗家の住宅で、16世紀の終わりから17世紀の始めごろにかけて建てられたと伝えられているそうです。
内部には一般的な農家のものよりだいぶ小さな土間があり、そこに竃などがあります。珍しいことにこの建物には大黒柱がなく、柱はいずれもみんな細め。梁には手斧(ちょうな)や槍鉋(やりがんな)といったもので削った痕が残っていて、柔らかな印象を受けます。
この時は表座敷にススキが生けられ、月見団子が供えられていました。その隣にあるのは糸車ですが、これはちょっと変わった形をしています。
高麗家住宅で本日のイベントは終了。ここからは一路、坂戸駅に向かいます。
今日は午前中はいいお天気でしたが、すでに雲行きが怪しくなってきています。今晩からまた雨だって。
空はなかなか秋になりませんが、周囲の畑にはそれらしい季節がやってきています。
ところどころで『いがぼっくり』を踏んづけていましたが、ありました、栗畑が。ああ、栗ごはん食べたいなぁ。
コスモスは秋の花。
このあたりには沈下橋が多いのですが、痛んだり流されたりして徐々にその数は減ってきています。
高麗川に架かる多和目天神橋は規模は大きくありませんが、沈下橋らしらを残した橋の一つです。
ギシギシ、ばたばた鳴るこの音がなんともいい感じ。
高麗川沿いを進み、土手の自転車道を通って、
坂戸駅の近くにある若宮橋を渡ります。この橋はこのあたりの沈下橋の中ではもっとも長いものですが、老朽化のため数年前に架け替えられて、かつての味わいが失われてしまったのが残念です。
それでも地元の人々の要望により、現在もそれなりの姿で残っているのはうれしいと言わざるをえません。
若宮橋を渡ったら、高麗川の右岸の土手上を行きます。
この土手下の田んぼの畔には彼岸花が。
ほどなく坂戸駅に到着。この駅は何度も使ってはいるのですが、駅の写真を撮れたのは初めてかな。いつも、駅に着く前に飲みに入っちゃうのでね。(笑)
今年の巾着田の彼岸花は開花が遅く、予想を裏切る展開でしたが、いざ行ってみるとその花は見事でした。本当のピークはもう数日あとといったところかと思いますが、私はこれで十分に満足です。ここは混雑していていようとも、多少の入場料があろうとも、また行きたいと思わせるに十分なものがあります。