東京23区シリーズ、今回は北区です。合わせてその中にある、歌川広重の傑作『名所江戸百景』を巡ります。
名所江戸百景は広重が1856(安政3)年から1858(同5)年にかけて制作した連作の浮世絵で、その名の通り江戸の名所を描いたものです。 版元の魚屋栄吉によって『一立斎広重 一世一代 江戸百景』として刊行されました。これは梅素亭玄魚による目録1枚と119枚(内一枚は二代広重作)の絵から成ります。江戸119景!
この中でもっとも有名なのはゴッホが模写した二点、『大はしあたけの夕立』と『亀戸梅屋舗 』でしょうか。巨大な鯉のぼりが泳ぐ『水道橋駿河台』、亀がぶら下がっている『深川萬年橋』、馬の尻の『四ッ谷内藤新宿』、鷹が睨む『深川州崎十万坪』なども印象的です。
さて、119景をどのような順番で巡るかはいろいろ考えられます。各絵には描かれている季節があるので、その季節に巡ったり、出版順ということも考えられるでしょう。しかし効率を考えるとやはり描かれているエリアごとが都合が良いので、今回は一番北のエリアとなる王子・岩淵にしたのです。
ところであなたは北区を知っていますか。北区の名前は私の頭の隅っこにかろうじてひっついてはいましたが、それがどこだかははっきりとはわかりませんでした。王子や赤羽は知っていましたが、それが北区にあるとははっきり認識していませんでした。
もう一つ、あなたは田端を知っていますか。田端駅はJR山手線の駅です。
田端、う〜〜ん、そんな駅があったような・・・ というのが私の田端です。西日暮里駅も駒込駅も知っているのに、田端駅がその隣駅だということは思い出しませんでした。
今回はそんな北区の、その中の駅としては最南端に位置する田端駅からスタートします。
田端駅には北口と南口があります。この南口のひっそり感はかなりのものです。山手線の駅にこんな出口があったのかという感じ。
そんな南口ですが、ここからは山手線や新幹線が見えます。
南口のすぐ近くにはちょっとマニアックな店があります。この店、鉄道ものなら何でも買い取るという鉄道グッズ専門店『エクスプレスはやて』。
鉄道マニアには知られたことのようですが、実は北区は鉄道の聖地なんだそうです。JRの駅数は都内最多の11もあり、山手線唯一の踏切だという第二中里踏切や、JR東日本の車両基地である尾久車両センターや田端運転所といったものがあるのです。
さて、南口から線路に沿って南下すると、田端でもっとも大きな公園である田端台公園があります。いきなりですが北区はここまでで、これより南は荒川区になります。
この公園のすぐ南には、曲がりくねった道灌山坂があります。道灌山の名の由来には太田道灌の出城址説などいくつかあるようですが、それはこのあたりの狭い高台で山手台地の最高地点だったようです。
その昔は富士山や筑波山が見える景勝地であり、また虫の音の名所でもあったらしく、広重は東都名所で『道灌山虫聞之図(どうかんやま ちゅうもんのず )』を描いています。今はほぼ失われた、月見をしながら虫の音を聴くという贅沢、風流。
田端台公園が道灌山の一部だったかどうかはわかりませんが、ここは東に視界が開け、当時の雰囲気がごく僅かですが残るところと言えるかもしれません。
虫の音に聴き入る面々? そうですねぇ〜 今時、私の趣味は虫聴きです、なんていうと洒落てるねぇ〜
長谷川雪旦が挿絵を手がけた、1834(天保5)年から1836(同7)年にかけて刊行された江戸名所図会の7巻『道灌山聴蟲』と、この広重の絵とはそっくりです。これに限らず広重には江戸名所図会から拝借したと思われる作品がかなりありますが、いずれも元絵を越える出来映えと言っていいでしょう。それにしてもこれはそっくり過ぎじゃあありませんか。
田端台公園からは区界に沿って南西に向かいます。道灌山坂を下ると唐破風の千歳湯(荒川区)があり、さらに行くと谷田川通りに出ます。谷田川通りはその名の通り、かつて流れていた谷田川を暗渠化したものです。この川は谷中あたりでは藍染川と呼ばれていました。これを暗渠化した道は曲がりくねっているため『へび道』と呼ばれています。へび道は台東区と文京区の区界になっているので、この谷田川通りも区界かと思いましたが、このあたりのそれはこの道と不忍通りとの間の細道でした。この細道に出たところが北区の南西端で、向こう側は文京区です。
文京区との境を成すこの細道を北西に向かうと、田端銀座です。銀座と名の付く商店街は世の中にいくつあるでしょうか。そうしたもののほとんどは昭和レトロと決まっていますから、ちょっと見て回るのは面白いと思いますが、ここを通った時はまだ商店が開く前の時刻だったので、さっと通り抜けます。
田端銀座は谷田川通りを渡り、八幡坂通りの先まで続いています。一方、区界は谷田川通り付近で西へ移動し、アザレア通りになります。このアザレア通りも商店街になっていますが、ここもまだオープン前のはずなので、田端銀座がほぼ終わり山手線の線路が近づいてきたところから、第二中里踏切に向かうことにしました。
第二中里踏切は山手線で唯一の踏切だそうです。つまり山手線を横切る道はここ以外はすべて、オーバーパスかアンダーパスということになります。まあ踏切なんてものはないに越したことはないわけですが、だた一つだけとなると、通ってみたくなるのが人情です。
さて、JRの線路際に出ました。ここは南側を湘南新宿ラインが、北側を山手線が通っています。湘南新宿ラインと山手線の線路は少しレベルが異なっており、ここから東に向かって湘南新宿ラインはだんだん下り、逆に山手線は上っています。
その訳は、この先で二つの線路が交差し、湘南新宿ラインは山手線の下をくぐって赤羽へ向かうためです。ということで、第二中里踏切は山手線の線路を渡るだけで、道路はその南の湘南新宿ラインをオーバーパスしています。
ところで第二中里踏切を渡るにはどれくらい待たなければならないでしょうか。
ここは、ピーク時の遮断時間が1時間あたり40分以上となる踏切、開かずの踏切です。ということで踏切が開いている時間を1時間のうち20分として考えてみます。運転間隔はピーク時は2分20秒だそうです。
つまり、
1時間に通過する列車数:60'/2'20"=26台(片側)
一列車通過ごとの踏切が開いている時間:20'/26台x2(内回り外回り)=0.38'=23秒
ざっくりですが、朝のピーク時は50秒待って踏切が開くのは20秒ほどだということです。
別のシミュレーションをしてみましょう。列車一編成の長さは220m、時速60kmとすると、
地点の通過に要する時間:220m/60,000m/3600s=13秒(実測値12秒)
遮断機が締まってから列車到達までの時間:20秒(国の基準/実測値20秒)
列車通過から遮断機が開くまでの時間:5秒
遮断機が締まってから開くまでの時間:13+20+5=38秒
この結果から一列車通過あたりの遮断時間は40秒ほどと推定できます。昼は運転間隔が4分だそうですから、40秒待って踏切が開いているのは1分20秒ということになります。現地では対向列車がやってきたため70秒待ちました。
第二中里踏切で山手線を渡り、まっすぐ行って本郷通りを渡ると、旧古河邸があります。
旧古河邸とその庭は北区でもっとも知名度が高いところではないでしょうか。ここは足尾銅山などを経営していた古河財閥の屋敷だったもので、本館と西洋庭園はジョサイア・コンドルが設計しています。本館はスコットランドあたりに見られる建築様式に近く、野面の石積みの外壁に天然スレート葺きの切妻屋根が載っています。石造に見えますが煉瓦造だそうです。
日本庭園は京都の庭師・七代目植治こと小川治兵衛の作で、本館や西洋庭園が完成した2年ほどあとに造られました。
西洋庭園はバラで特に有名でその季節は見学者でいっぱいになりますが、この時はほとんど人がおらずにゆっくり廻れました。特に日本庭園はひっそりしていたほうが味わいがありますね。
旧古河庭園からは西へ向かい区界を行きます。向こう側はいつの間にか文京区から豊島区に変わっています。
この区界、こんな狭いところも。楽し〜〜!
都電荒川線に突き当たりました。
一瞬線路で行き止まりかと思いましたが、この線路沿いには極細道が通っていました。ここも北区と豊島区の区界になっています。この極細道を行くと西ヶ原四丁目駅に出ます。
都電といえばチンチン電車、というのはかなり年配の人だけが持つイメージなのでしょうね。現在の車輛は角張った新型になっていて、あの丸みを帯びた黄色いチンチン電車のイメージはすっかりなくなってしまいました。
車両は新しくなりましたが、走っているのは相変わらずビルの谷間というか、密集住宅地の中。周囲の雰囲気はあんまり変わりませんね。
西ヶ原四丁目駅の北側の地名は北区滝野川。この滝野川の名はあとで出てきますから覚えておいてください。
滝野川と豊島区の境を行き、明治通りに出たら西巣鴨交差点からR17に入ります。明治通りは北区と豊島区の区界を成していて、これは分かりやすいのですが、自転車では走りにくいのでその一本北の道に入ります。するとすぐに旧中山道を横切ります。先ほどちょっとだけ通ったR17は現中山道ですが、それに比べるとこの旧中山道がとても狭いのに驚きます。
区界を成す穏やかにカーブする道に出ました。
この道、周辺の道に比べると、うねうねがかなり長く続いています。こうした道は以前は川だったものが多いのですが、ここはどうでしょうか。
さて、このかつて川だったのではないかと思われる道を北に進むと、埼京線の板橋駅です。
板橋駅は板橋区にあるものだとばかり思っていましたが、これは三区に股がっており、南側のプラットフォームは豊島区、東口は北区滝野川にあります。
板橋駅が北区に掛かっているのに驚いたら区界を離れ、石神井川に向かいます。
出たのは観音橋で、写真の右手にちょっと見えるように、橋の北詰めに観音菩薩像があります。
観音橋からは石神井川に沿って遊歩道が続いているので、これを使って王子方面へ向かいます。
さて、ここからは今回の企画の題名になっている広重の名所江戸百景が続々と登場します。
江戸時代にはこのあたりの石神井川の周辺には多くの滝が落ちていたそうです。それらの中でも弁天、不動、権現、稲荷、大工、見晴らし、名主の7つの滝が特に有名で、これらは王子七滝と呼ばれていました。広重は名所江戸百景でこの中の二つ『不動の滝』と『弁天の滝』を描いています。
王子瀧乃川
この絵の題名の『瀧乃川』は川の名ではなく地名だそうです。先ほど見た通り、現在のこのあたりの地名は滝野川です。瀧乃川が文字を変えて今日まで引き継がれたのでしょう。流れている川は石神井川で、当時この川は蛇行し、渓谷があり、流れも急なことから、滝のような川ということで滝野川の別名もあったといいます。右端に描かれているのが七滝の一つの『弁天の滝』だそうです。下にいる人の大きさからするとこの滝の落差はかなりのものに見えます。
描かれた季節は秋で、赤く色付いた木々があちこちに配されています。この赤は丹色(にいろ)と称されるもので、丹は赤土の古語で『あか』とも読みます。残念ながらこの絵の丹は黒ずんでいますが、これは顔料が酸化したためで、本来はもっと鮮やかな色だったはずです。
崖下に見える赤い鳥居は松橋弁天で、そのうしろに見える洞窟の中に弁財天が祀られていたことから、岩屋弁天とも呼ばれていたそうです。岩屋弁天は金剛寺の領地内の崖下にあったそうで、右上に描かれているのが金剛寺とのこと。
橋は松橋で、その左奥に続く道の先に見えるのは王子権現(現王子神社)の門前の茶店。つまりこの絵は、石神井川の左岸に立ち、その下流を眺めたものということになります。松橋はこのあたりの地名でもあったようで、松橋弁天の名はここから来ているそうです。川の中にある東屋が立つ岩は、今日でも水中に見えるそうです。
当地には現在、紅葉橋やもみじ緑地があり、金剛寺は別名を紅葉寺ということから、また江戸名所図会の『松橋弁財天窟 石神井川』には、
この地は石神井河の流れに臨み、自然の山水あり。両岸高く桜楓の二樹枝を交へ、春秋ともにながめあるの一勝地なり。
とあることからも、このあたりが紅葉の名所だったことが伺えます。
広重は東都名所でこれと同名の絵を、江戸名所之内では『王子瀧の川紅葉風景』を描いています。
広重の絵と今日の風景を比べてみると、川幅は狭くなり、松橋弁天の鳥居と洞窟はなく、松橋もありません。しかし、鳥居が立っていたあたりは川の水面近くまで土地が切り下がっており、かつて松橋があったあたりなのかどうかははっきりしませんが、写真で川が切れたちょっと先に紅葉橋が僅かに見えています。
こんもりした山は削り取られたようで、切り立った崖だった石神井川の岸はコンクリートの護岸になり、さらに直線化されています。そこに落ちていた弁天の滝あたりには高層のアパートが立っています。川の周囲には建物が立ち並び、王子神社のあたりはまったく見えません。
唯一、金剛寺だけが現在も元の場所あたりに立っています。周囲に松の木は見当たりませんが、金剛寺の手前には高木があり、周辺には桜やモミジがたくさん植えられているので、秋には紅葉が楽しめるでしょう。
音無もみじ緑地の北東角には『松橋弁財天洞窟跡』の説明板が設置されています。この写真のところは窪地になっているので、おそらくここが松橋弁財天の洞窟があった場所だと思われます。ここは上の写真の階段のところです。
ここから少し東に行くと紅葉橋で、その一つ下に現在の松橋が架かっています。
金剛寺と松橋を眺めたら次の百景ポイントに向かいます。
王子不動之瀧
七滝のうち、水量が豊かで落差が大きかった不動之滝は一番人気で、その名は滝の横に不動尊が祀られていたことによるものだそうです。
この滝は江戸名所図会の『不動瀧』によれば、泉流(せんりゅう)の滝とも呼ばれ、正受院本堂裏の峽から坂道を下った石神井川の岸にあったようです。周囲は『蒼樹蓊鬱』で、『人跡稀なり』とあります。
広重の絵では巨木がたくさん立ち並び、垂直に切り立った崖からストレートに豪快な滝が流れ落ちています。これらは当然デフォルメされているだろうとは思いますが、それにしてもこの滝の大きさは、まるで華厳の滝のようです。この滝の流れ落ちる様は、アングルは違いますが、前の『王子瀧乃川』に描かれた『弁天の滝』にそっくりですね。
おばあさんはここで簡単な茶屋を開いているようです。このおばあさんから茶を受け取ろうとしている男、滝を浴びに行く男。この場にはちょっと不似合いにも見える傘を持った二人の女は、涼みに来たのであろう芸者らしいです。
正受院の下までやってきました。
このあたりに不動之滝が落ちているはずですが、滝はおろかそれが流れ落ちるべき崖も見当たりません。広重時代の雰囲気が感じられるとすれば、周辺に比べ比較的大きな木があること位ですが、それも鬱蒼とした森といったものではありません。ただ滝も何もないので『人跡稀なり』ではあります。(笑)
ちょっと滝は想像し難いのですが、そこに落ちているつもりで、はいポーズ!
王子七滝で唯一現存するのが『名主の滝』で、これは名主の滝公園にあるそうです。巡った順番は異なりますが、ここで紹介しておきます。
名主の滝公園には現在、男滝(おだき)、女滝(めだき)、独鈷の滝(どっこのたき)、湧玉の滝(ゆうぎょくのたき)の4つがありますが、水が落ちているのは男滝だけです。
残念なことにこの流れはポンプでくみ上げた水を流したものになっていますが、周囲の鬱蒼とした森と滝の背後の黒い岩が、広重の絵と重なります。
正受院に上ってみました。この門、なんだか竜宮城みたいですね。ここの境内には不動の滝跡の説明板があります。
竜宮門を通り抜けてやってきたのは赤煉瓦酒造工場。
この建物は旧大蔵省の醸造試験所として建てられたものです。かつては日本酒の製造は冬季に限られていたため、それを1年を通して行えるようにするため、ドイツのビール工場を参考にして設計されたものだそうです。
飛鳥山北の眺望
赤煉瓦酒造工場の次は飛鳥山公園です。
飛鳥山公園の前には西ヶ原で見た都電荒川線が走っています。西ヶ原四丁目駅付近はとても窮屈そうでしたが、この道は広く、ここでカーブを描いて進む姿は路面電車という感じで、なかなかいいです。
飛鳥山の名はここに飛鳥明神社が祀られていたことから来ているそうです。八代将軍徳川吉宗は享保の改革の一環として人々に行楽の地を与えるため、ここを桜の名所とし、他では禁止されていた酒宴や仮装を容認したそうです。
飛鳥山公園は1873(明治6)年に上野公園などとともに日本最初の公園として指定されています。
この絵には飛鳥山で花見を楽しむ様子が描かれています。前景に桜、中景に松、そして遠景に筑波山。筑波山の下の藍色の帯は利根川らしく、その手前には田んぼが広がっています。
傘を持つ女たち、扇を開いて踊り興じる男たち、毛氈の上で飲み食いする人々、奥の崖付近にいる三人は親子でしょうか。これはかわらけ投げしているところだとか。女たちが持っている傘は日傘でしょうかね。江戸時代から女性は日焼けに敏感だったようです。
緑色を基調としたおとなしい絵ですが、毛氈などに配された僅かな赤が全体を効果的に引き締めており、またほとんど何も描かれていない田んぼから、関東平野の雄大さが感じられます。
現在の飛鳥山公園も桜で有名です。都心の駅前という立地にありながら、比較的伸びやかな空間を維持しています。
確かに昔はここからの眺望は良かったでしょうね。しかし残念ながら今日は周辺にビルが立ち並び、遠望は望めません。
飛鳥山公園からは王子神社に向かいます。王子神社は1322(元亨二)年に熊野より勧請されました。この神社の名から王子の地名が生まれたそうです。
江戸時代には将軍家の崇敬篤く王子権現と呼ばれ、江戸名所図会にも『王子権現社』として描かれています。
王子神社には樹齢600年と言われる大銀杏があります。
この境内には関神社があります。これは髪の祖神とされ、祭神は蝉丸です。
能をご覧になられる方なら知っていると思いますが、蝉丸のお姉さんの逆髪姫は逆毛に悩んでいて、髢(かもじ=かつらの一種)を考案したことから髪の祖神とされています。ここには鬘屋さんなどの業界関係者の参拝者が多いようです。
王子音無川堰埭世俗大滝ト唱
王子権現のお詣りが済んだら音無親水公園に出ます。
かつてはこのあたりでは石神井川は音無川と呼ばれており、昭和時代にその流路が変更されたとき、旧流路を利用してこの公園が作られたそうです。
北区のWEBペイジによれば、ここには『流れ・せせらぎ』と、王子七滝の一つである権現の滝を再現した『滝』があるはずなのですが、この日は水が流れていませんでした。というか、ここに水が流れているのは見たことがありません。
この絵の表題の読みは『おうじおとなしがわえんたいせぞくおおたきととなう』。堰埭をヘンリー・スミスの『広重 江戸名所百景』では『いせき』と読んでいますが、これはダムのようなもので、人々はそこから流れ落ちる水流を大滝と呼んでいたことがわかります。
絵の中央に音無川が流れ、奥に轟音を響かせながら大量の水を落としている大滝が描かれています。左手は満開の桜の飛鳥山で、川に臨む茶屋の中に人が見えます。大滝の奥に立つのは王子権現の別当金輪寺のようです。
王子七滝の『権現の滝』はこのあたりに落ちていたはずですが、この大滝がそれでしょうか。人気の権現の滝を描いたのならそれを題名に入れると思うので、やっぱりこれは別の滝でしょうか。
春だというのに大滝に打たれる人や川の中に人の姿が見えます。ちょっと変ですね。実は広重は、この絵とほとんど同じ構図の別の絵を描いています。
『絵本江戸土産』は1850(嘉永3)年から1867(慶応3)年に出版されたもので、初編から七編までを初代広重が、八編から十編までを二代広重が手がけています。なんと名所江戸百景とこの絵本江戸土産は7割も描写地が重なるそうですから、百景の多くは土産を下敷きに描かれているといってもいいかもしれません。
音無川の堰世俗大滝と唱ふ。金輪寺の下の堰より落つるを、大滝といふ。これより水上所々に巌ありて、水これが為に琴々たり。しかるに井堰の上は水平らかにして、さらに声なし。よつて音無の名を負へりとぞ。
ここでは堰止められた川の上の流れが静かだったので音無川というとありますが、これは王子権現社の勧進元の熊野を流れる音無川にちなんでいるとも言われています。
広重は、土産の中では人が川の中にいる夏の絵を描いたのですが、百景ではほぼ同じ構図で桜が咲く春の絵に仕立て直したのです。しかし超忙しかった広重は人物をそのままにしてしまったのです。これは想像ですけどね。
王子装束ゑの木大晦日の狐火
音無親水公園からは装束稲荷に向かいます。
王子には、大晦日に狐が大きな木のもとに集まり、装束を改めて王子稲荷神社へ参詣するという伝承があったそうです。人々はこの狐の発する狐火の数から、その年の豊凶を占ったと言われています。
この大きな木は榎で、装束榎と呼ばれるようになりましたが、昭和初期の道路拡幅の折に切り倒され、後に装束稲荷神社が祀られたそうです。現在この神社のご神木となっているのは左に見える榎です。枝振りがちょっと下の絵に似ているような気もしますね。
この日は地元の方が、大晦日から正月にかけて行われる『王子 狐の行列』の準備をされていました。
これは広重では珍しく風景画というより民間伝承を元にした心象画とも言えそうな絵です。広重の代表作の一つとされています。
遠景に描かれているこんもりした森が王子稲荷。田んぼの中に立つ大木は榎で、その下に群がる狐は狐火を出しています。中景には各地から続々と集まって来る狐の群れが描かれています。大榎の枝には雲母摺り(きらずり)が施され、夜空にきらめく星の光をうっすらと反射している様子が表現されています。
なお江戸名所図会5巻『装束畠 衣装榎木(しょうぞくばたけ いしょうえのき)』はこれと同じ題材によるもので、広重はこれを下敷きにしたと指摘されています。
王子稲荷乃社
大晦日にお狐さまが出かけた先がこちら。王子稲荷神社。
お狐さま、いらっしゃいます。
そうそう、落語に『王子の狐』というのがあります。この近くで美女に化けた狐が逆に人に化かされる噺です。この噺に出てくる料理屋の扇屋は、現在は料理屋は経営していませんが今も王子駅前で卵焼きを販売しています。
王子稲荷神社は東国三十三国稲荷総司との伝承を持ち、東日本で最も格式が高いお稲荷さんだったようです。江戸時代には神社の一番人気だったとか。
今見てもかなり立派です。
王子稲荷神社はこの絵が描かれたその場所に現在も立っているようです。社殿と鳥居の位置関係、そして遠景として描かれている筑波山から、広重が描いた位置が正確にわかります。
赤い空は朝焼けでしょう。門前にたくさん並んだ茅葺き屋根は茶屋らしく、当時この稲荷が参拝者で賑わっていたことが想像出来ます。その先に何本か満開の白梅が描かれていることから、季節は稲荷社の祭りの日である初午(はつうま・旧暦2月の最初の午の日)の頃と考えられているようです。
木立を深い緑色とすることで社殿の赤が引き立って見え、茅葺き屋根の黄色が全体を引き締めているように感じます。
屋根は檜皮葺から銅板葺に変わりましたが、全体的には広重の時代の雰囲気を良く残していると思います。
王子稲荷神社の隣には名主の滝公園があります。
ここはちょうど広重が百景を描いたころの安政年間に王子村の名主が造った庭です。
鬱蒼とした森の中の池と滝がすばらしいところです。
先ほど述べた通りで、ここには四つの滝がありますが、男滝だけ水が流されています。
名主の滝公園を出たら北区中央図書館に向かいます。
この建物の一部には、東京砲兵工廠銃包製造所の煉瓦倉庫だった建物を保存改修したものが使われています。
酒造工場も赤煉瓦でしたが、このあたりに煉瓦工場でもあったのでしょうか。
北区中央公園の横を行き、十条銀座に向かいます。
十条銀座は1979(昭和54)年に造られた北区最大のアーケード商店街です。
今時、全蓋式のアーケードってのは珍しいと思いますが、ここは撤去されずにそのまま残ったようです。
この商店街、入ってびっくり!
まだ14時過ぎだというのに、もう呑み屋が開いています。ユッキーによれば、これはこのあたりではそう珍しくないとのこと。
そして、とにかく人が多い。超賑わっています。
まあ年末に入ったのでそのせいもあるとは思いますが、ここはかなり凄いです。
そして激安店多し。コロッケ30円也!
これで驚いてはいけませぬ。隣はコロッケ25円!!
食べ物ばかりじゃないですよ。衣料品も激安。
あんまり安くて本当に目を回したクッキー!
『うそ〜、こんな値段、信じられない〜〜』(笑)
まあ、こんな店ばかりでないことは言うまでもありませんが、とにかくここは地元の客で大賑わいなのです。いい商店街ですね。
十条銀座からは板橋区との区界に戻って北上するか、赤羽に向かうかちょっと悩みます。やはり北区で赤羽は抜かせないかなと思っていたところに、クッキーから、
『赤羽はシュールでディープな街。駅前に自由の女神がありますよ〜』
とコメントがあり、誘惑に負けてここは赤羽駅へ。赤羽に自由の女神? それって、どんなんじゃ〜〜
清水坂公園の横を通って、
赤羽駅前に到着。
赤羽は電車では比較的よく通る駅なのですが下車したことはなく、街についてのイメージもまったくありませんでした。しかし今回、赤羽のイメージは完全にできました。
どこだ、どこだ、自由の女神は!
と探すと、あった〜〜
なんとそれは駅前ロータリーからばっちり見える位置におっ立っておりました。
ジャーン! ビルの屋上に、でかいです。凛々しいお顔は本物そっくり。かなりいい造りです。
なんでもこのビルのオーナーはかつてサウナだか銭湯だかを経営しており、サウナ・銭湯→入浴→ニューヨーク→自由の女神、ってなったんだそうな。。風が吹けば桶屋が儲かるの図式。恐怖の赤羽三段論法ではサウナが自由の女神になるのだ。
いや〜、おもろいぜ、これは。
ついでに紹介しておくと、クッキーによれば赤羽を描いた漫画、『東京都北区赤羽』ってのが面白いらしい。
ここでサリーナから追加情報が。赤羽の駅前には一番街シルクロードというディープなアーケード商店街があるとのこと。その一番奥にある、おでん種を扱っている丸健水産に行ってみたいということなので、ちょっと覗いてみることに。
早々にユッキーに案内してもらうと、この一番街が凄かった。昼呑み屋がわんさか集まっていて、みんな満席に近い! なんじゃここは〜
そして丸健水産の前には長い行列が! なんなんだ〜これは〜〜 おでん屋に行列? 信じられへん。いったいどうなってるんだ、ここは〜〜〜 頭がぐちゃぐちゃになりそうだ。
おでんなら軽くつまんでもいいかと思っていたけど、こんな行列ではどうしようもありません。しかしこの行列はここで食べる人のもので、おでん種はそんなに並ばなくても買えるとあり、サリーナとクッキーは早々にGET。これ、とてもおいしかったそうです。
一番街はアーケードのシルクロードだけではなく、外にも続いています。
ユッキーによれば、このあたりで初めて昼呑みをやりだしたのがこの『まるます家』だそうです。なんでも戦後すぐのころ、隣の川口にはたくさん工場があり、夜勤明けの労働者がここで一杯飲んでから帰れるように店を開けたのが始まりなんだそうです。昼呑みじゃなかった、朝呑み!
いや〜、それにしても一番街、すごすぎ〜〜〜
赤羽駅前からは西へ向かい、板橋区との区界に戻ります。その区界を北上して新河岸川に出ました。
ここは新河岸川が区界で、向こう側が北区です。北区を眺めながら穏やかなカーブを描いている新河岸川を西へ進み、歩行者自転車専用橋を渡ります。
浮間船渡駅の横の高架橋の下をくぐり、浮間公園にやってきました。
ここは浮間ヶ池を中心とする公園で、湖畔にはシンボルの風車が立っています。ここが北区の北端で、西は板橋区、北は荒川を挟んで埼玉県川口市です。ツール・ド・北区もここで半分が終わったことになります。
浮間公園を通り抜けると荒川の土手です。ここからは荒川自転車道を東に向かいます。
東北本線の高架橋をくぐり赤羽桜堤緑地に入ると、前方の荒川にR122の長大な新荒川大橋が架かっているのが見えます。
川口のわたし善光寺
このあたりにはかつて対岸の川口とを結ぶ渡しがありました。それを描いたのが『川口のわたし善光寺』です。
この絵は赤羽の先の岩淵宿あたりから、対岸の川口宿側の善光寺を眺めた絵で、川は荒川。名所江戸百景の中では最北の場所になります。『わたし』は渡し場のことで、手前の岩淵宿側に立つ茅葺き屋根の茶屋の前から今出たばかりと思われる舟が川を渡って行くのが見えます。
その先の筏は、秩父の木材を千住の材木問屋へ運んでいるところだそうです。筏を連続的に複数描くことで、川の流れと同時に時間の流れが表現されているように思えます。この絵を見ると当時の荒川の水運がよく感じ取れます。
岩淵宿は日光御成街道の初宿でしたが、多くの人々は日光街道の千住宿を利用したのであまり活気はなかったようです。しかし江戸の人々は近場で善光寺参りができるとあって、対岸の川口の善光寺にこぞって参詣したそうです。
大きな荒川の流れを画面一杯に斜めに配することで、その雄大さと水の流れが表現されているように思います。またその中に置かれた濃い藍色が、川の深さを感じさせ、より一層幅を広く見せています。当時の荒川の幅は60間(109m)ほどだったようです。これは現在の半分ほどですが、それでもこの川は当時から大河だったのです。
善光寺は姿は変えましたが、現在もこの絵に描かれた場所にあります。そして私たちが善光寺を眺めた新荒川大橋の袂には、『岩淵の渡船場跡』と『江戸名所図会』についての案内板が立っています。
さて、これで本日の『名所江戸百景』巡りはおしまい。このあとはツール・ド・北区の残りです。
新荒川大橋から荒川自転車道を東に向かうとすぐに、1924(大正13)年に竣工し荒川と隅田川とを仕切っていた赤水門と呼ばれる旧岩渕水門が現れます。
この水門は通行可能で中之島(水門公園)に渡れるので渡ってみました。東には青水門こと旧岩渕水門の代わりに造られた新岩渕水門が見えています。
青水門を渡って墨田川と荒川の間を行きます。前方に東京スカイツリーが見えてきました。今なら広重はこの日本一高い塔を百景として描いたでしょうね。
この先で自転車道は足立区に入り、その先にちょこっとだけ北区があります。このあたりは区が入り乱れているように見えますが、元の境界はおそらく隅田川(元の荒川)で、荒川(荒川放水路)が造られたことにより複雑になってしまったのでしょう。
首都高速中央環状線の五色桜大橋までやってきました。この先は足立区ですが、ここから北区に入ってもあまりいい道がないので、尾久橋通りまで行ってから北区に戻ることにしました。
日暮里・舎人ライナーの巨大な荒川橋梁が見えたら、その下の扇大橋の袂で自転車道から下ります。
隅田川沿いを西へ向かい小台橋を渡ると荒川区です。さらに西へ向かうとすぐにあらかわ遊園で、その先が北区。しかし、あらかわ遊園に入るかどうかというところで某にメカトラブル発生。
この先は都電沿線に出て梶原駅をかすめて西へ向かい、スクラッチタイルにアールデコ調のデザインで昭和モダンな雰囲気を残す東京書籍の東書文庫をちらっと見て、車両基地の尾久車両センターと田端運転所の付近を通って電車を眺めるつもりでしたが、陽が沈んでしまいました。
残念ですがこれらは次の機会にということで諦めて、まっすぐ田端駅に向かいました。
田端駅の北口は南口とは違い、立派な構えでした。
本日の〆は田端駅の近くの居酒屋で。
『広重と北区って渋いから、飽きられちゃうんじゃないかと思ったけど、大丈夫だった?』 by サイダー
『役者になるのが楽しかったよ〜』 by マージコ
『赤羽スゴイ!』 by コンタ
『十条銀座も面白いねぇ』 by ユッキー
『おでん種がGETできてしあわせ〜』 by サリーナ
『名所江戸百景は今までにない斬新な楽しさでした!(笑) ポーズ写真、みんなでツボにハマりました♪ おでん屋さんや自由の女神のおまけつきだったし☆ 』 by クッキー
思ったより評判が良かったので名所江戸百景のシリーズ化決定! 次はどこにしようかな。。