恒例の大洗鮟鱇企画。120km、75km、50kmと3コースを用意しましたが、一週間前の天気予報は芳しくなく、皆さんからもっと短いコースをとの要望で45kmに変更。しかも出発時刻を遅らせろとな。しかもしかも、自転車無しで鮟鱇を喰うだけの参加というものが三名も出て来る始末。
ところがその後予報はどんどん変わって、当日はなんと晴れマークの上、暖かくなりそう。なんとか走り組が四名できたのですが、やっぱり皆さん短いコースが良いと。なんてったってジオポタですからね。(笑)
水戸駅前に集まったのは、シロスキー、マサキン、サイダー。
あれれ、クッキーがいない。また寝坊か、と思ったら、そのクッキーはなんと鈍行列車でやってきたのでした。ゴラー、15分の遅刻だぞー!
水戸駅からはまずは南口からすぐのところを流れる桜川沿いの自転車道に入り、千波湖に向かいます。
桜川の向こう、写真の右にちょっとだけ写っているのが千波湖です。
桜川を渡るとすぐに、千波湖をぐるりと廻る自転車道に入ります。
千波湖は周囲3kmほどの湖で、この周回路には散歩をする人やジョギングを楽しむ人もいますがあまり混雑はしておらず、のんびりしていていい感じです。
よたよたと歩いて道を塞ぐ生き物が一匹。よく見るとそれは黒鳥でした。
ここには白鳥もいるはずなのですが、この日は見かけませんでした。白鳥は渡り鳥なので、通常は春にはシベリアあたりに飛んで行ってしまいますが、黒鳥はオーストラリアに生息している鳥で、渡りは行わないといい、ここでは一年中見られます。
千波湖の北岸を進んで黄門像広場までやってきました。ここには水戸黄門こと徳川光圀像が立ち、その前の親水デッキからは様々な水鳥が見られます。デッキの先の湖の中には噴水が仕込まれていて、毎時0分と30分から噴水が湧き出ます。
北を見るとネジネジの水戸芸術館シンボルタワーが見えます。
黄門像広場から北に向かうとすぐ、こんもりした丘が見え出します。
あそこが日本三名園の一つに数えられる偕楽園です。左に見える建物は好文亭。
千波湖から偕楽園へはまず桜川と県道50号線、そしてJR常磐線を越える長いブリッジを行きます。
そしてそのあとはちょっときつい、うねうねの上り。
偕楽園は梅で有名ですが、通常この時期には咲いていません。しかし今年の冬はとても暖かいので、すでに早咲きのものが咲き始めていました。
千波湖側から偕楽園にアプローチすると東門に出ます。梅の季節だけの臨時駅偕楽園駅からのアプローチも同様で、この東門から偕楽園に入ることが多いと思いますが、徳川斉昭が園を造った江戸時代には東門はありませんでした。また御成門といういかにもそれらしい名の門がありますが、これも明治期に造られたものです。
偕楽園の本来の入口は、園の北にある好文亭表門だったそうです。
好文亭表門は茅葺き屋根のそう大きくない門ですが、これは創建当初のもの。
この表門を入ると二の門に相当する『一の木戸』があり、それをくぐると薄暗い空間。
そこには杉林と、弓の材料とするために斉昭が京都から移植したという孟宗竹林があります。
笹の生える杉林の先には中門があります。
この中門をくぐり抜けるととたんに明るくなり周囲が開け、好文亭に辿り着きます。
この好文亭は斉昭自らが設計したと伝えられており、横には木造平屋建の奥御殿があります。
偕楽園の名称は斉昭が偕楽園記で『是れ余が衆と楽しみを同じくするの意なり』と述べているように、民衆とともにここで楽しむことを意図したところから来ており、好文亭にも領内の人々を集めて歌会などが催されたようです。
好文亭から周囲を見渡すと、下には見晴らし広場があり、その先には先ほど廻った千波湖が広がっています。西には筑波山、そして天気が良ければ富士山が見えるといい、東にはかつては大洗の海が見えたそうです。
好文亭の北東には梅林が広がります。
その中には早咲きの紅梅が咲き、
白梅もちらほら。
ぶらぶらと歩いて東門までやってきました。ここで記念撮影は、左から、いつも渋い顔のシロスキー、小金虫のマサキン、企て人サイダー、遅刻なクッキー。
偕楽園は広く、丘の下のゾーンや向かいの桜山などを含めると優に半日くらい潰せそうですが、私たちはここまでのメインルートだけで切り上げ、水戸市の中心部へ向かいます。
偕楽園のすぐ東にある常磐神社の境内を通り抜け、さらにその東にある西の谷公園を行きます。ここは水戸城にあった五つのお堀のうち、最も外側のものだったようです。
徳川光圀は、藩内の貧しい人たちが医者にかかれず薬も入手できないことを知り、藩医に『救民妙薬』なるものを纏めさせました。ここではそこに記されている薬草を栽培する薬草園がボランティアによって運営されています。
西の谷公園を出ると水戸市の中心部です。先に千波湖からも見えた水戸芸術館のシンボルタワーが現れました。
この塔は水戸市制百周年を記念して建てられたもので、高さ100m。正三角形のチタン製パネルの三重螺旋が天に昇って行きます。
ここでちょうど昼になったので、昼食にします。
今日の夜は鮟鱇ですが、茨城県では奥久慈の軍鶏もなかなかいけます。これは鍋もいいですが、夜との兼ね合いもあるのでここは親子丼を。身の引き締まった奥久慈軍鶏、おいしいです。
昼食後は、まず水戸市三の丸にある旧茨城県庁(現茨城県三の丸庁舎)から。
ここは三の丸の地名からも分かるように、かつては水戸城の三の丸だったところです。
1930年(昭和5年)に建てられたこの建物は、外観はゴシック調で、玄関ホールの床は市松模様の石張り、大理石の階段と年代物のシャンデリアがあり、重厚で立派です。
この旧県庁の横にはちょっと変わった建物があります。
1932年(昭和7年)に建てられた水道低区配水塔。2階の窓周辺の飾りは消防ホースをモチーフにしたもので、当時はちょっとした話題になったそうです。
旧県庁の東には水戸藩の藩校だった弘道館があります。
この八角の建物は八卦堂(はっけどう)といい、各面の上欄に八卦(易)の算木があることから名付けられたそうです。中には弘道館の教育の基本を示した、徳川斉昭撰文の書を記した講道館記念碑(石碑)が納められています。
この一帯は弘道館公園で、梅の木もたくさん植えられていて、なかなか味わいがあるところです。
左の白い塀の中に弘道館があります。
弘道館の東には大手橋が架かります。現在はこの橋の下に県道が通っていますが、江戸時代はお堀でした。大手橋を渡ると二の丸です。そこにかつての大手門と二の丸角櫓が復元されました。
この大手門は土塁に取り付いており、その類いのものとしては日本の中でも最大級のものだったそうです。確かにこれはかなりの大きさです。
大手門の巨大さに驚いたら、二の丸に入ります。このかつては御殿が立っていた二の丸の場所は、現在の住所では『水戸市三の丸』だからちょっとややこしい。道の両側には白い立派な塀が立っていますが、その内側は両方とも学校になっています。
大手門からまっすぐ東に延びる道路の突き当たりには、JR水郡線を渡る本城橋が架かっています。この下もかつてはお堀でした。
この本城橋を渡るとかつての水戸城の本丸です。
ここには本丸橋詰門であったろうと考えられている薬医門が移設されています。この門の建立は安土桃山時代と推定されていますが、明治期以降に所有者や場所が変わったことで、あまりはっきりしたことは分かっていないようです。中央の柱の間に大扉があり、左の脇間に潜扉があるのが見えます。
さて、以上で水戸市内の観光は終了。このあとは那珂川に沿って太平洋に向かいます。
那珂川の土手上は舗装されており、ほとんど自転車道のようですが、ここは特にその位置づけにはなっていないようで、トイレなどのサービス施設はありません。
時々土手が途切れていたりもしますが、まずまず快適に進んで行きます。
先に東水戸道路の新中川大橋が見え出したところで土手を降り、
下の道をしばらく行くと、
ひたちなか海浜鉄道の一両編成のディーゼルカーが田んぼの中を走って行くのが見えます。
カラフルなかわいらしいラッピング車両でした。
ほどなく無人駅の中根駅に到着。先ほどの列車は阿字ケ浦行14:06で、すぐに勝田行14:17がやってくるので、しばらく待つことに。やってきたのは素っ気ないカラーリングの普通の車両で、ちょっとがっくし。ま、いいか。
中根駅からは田んぼの縁をどんどこ。このあたりは弥生時代から古墳時代にかけて稲作によって発展してきた地域で、先ほどの中根駅の駅名標には、近くにある7世紀前半頃に築造された虎塚古墳にちなみ、矛と前方後円墳が描かれています。
そうした古い時代のものの一つに、奈良時代を中心に約一世紀にわたり造られた横穴墓群の『十五郎穴』があります。
このあたりには広範囲に渡り凝灰岩が露頭していますが、虎塚古墳がある東中根台地の1.5kmにだけこの横穴墓群があるようです。総数は300と推定されていますが、調査は半ばのようで、まだはっきりとは分かっていないようです。
十五郎穴からも田んぼの縁をどんどこ行きます。
横は穴こそないものの、やはり凝灰岩の丘です。
田んぼの次は畑の中です。
冬のこの時期はそこに作物はほとんどありません。緑色の畑は麦でしょうか。
太平洋が近づいて来ました。海に出る前に寄るところがあります。酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ)。
このあたりで有名な神社といえば大洗磯前神社とこの酒列磯前神社で、ともに同じ縁起を持っています。
現在では観光地として大洗の方がこのあたりよりやや優位で、そのためもあって大洗磯前神社の方が知名度があるように思いますが、ここには大洗磯前神社にはないものがあります。
それはヤブツバキやタブノキの樹叢(じゅそう)です。参道に続くこの樹叢は、ちょっと他では目にしたことのないもので、これを見るだけでもここを訪れる価値があると思います。今回は果たせませんが、この樹叢は外側、阿字ケ浦あたりから見ても素晴らしいものがあります。
ここは二代藩主徳川光圀によって造営が計られ、三代の綱條が現在の地に遷座再興しましたが、1937年(昭和12年)に改築竣工されています。拝殿正面の上部には左甚五郎の作と伝わる『リスとブドウ』の彫刻があります。
さて、酒列磯前神社への参拝を終えたら、大洗の鮟鱇屋に急がなければなりません。ここまで、予定より20分も遅れているのです。
酒列磯前神社から下ると長いビーチの阿字ケ浦海岸があるのですが、そこはパスし、磯崎海岸をちらっと眺めるだけにします。この海岸を見たクッキー、
『うわ〜、凄い波ですね〜、この前見た千葉の海も波が荒かったですが、それより凄い!』
荒い波の太平洋を横目にr6水戸那珂湊線をどんどこ行きます。
磯崎海岸はその名のとおり、磯場が連続します。
それらの中には白亜紀の地層があったり、清浄石というゴロンとした大きな方形の岩があったりするのですが、そんなものを横目にどんどん行きます。
那珂湊にはちょっとした市場がありつまみ食いもできるのですが、今回は止む無くこれもパスし、ひたちなか市と大洗町とを分ける海門橋に急ぎます。
海門橋のすぐ北には湊公園があります。ここは水戸藩主の別荘夤賓閣(いひんかく)があったところで、『湊御殿の松』という樹齢300年以上の黒松12株があり、湊八景『日和山の秋月』に選定されています。時間がないので入りませんでしたが、せっかく入口まで行ったので通り抜ければよかったな。
海門橋は那珂川に架かる大きな橋で、ここはちょっと上り。
えっさこらさと上って行くと、那珂川の河口が見えてきました。対岸に見える建物は日本でもトップクラスの大きさを誇る大洗水族館アクアワールドです。アクアワールドはサメの飼育種類数がとても多いことでも知られています。
アクアワールドの先で海沿いの遊歩道を行ったあとは松林の中を下り、
大洗磯前神社の前に出ます。大洗磯前神社は先の酒列磯前神社と縁起を同じくすることは述べましたが、酒列磯前神社で見るべきものが樹叢であるなら、こちらは『神磯の鳥居』と呼ばれる磯の上に立つ鳥居でしょう。
毎年元旦には宮司以下の神職がこの磯に降り、太平洋に昇る初日の出を奉拝します。
『神磯の鳥居』の上には大きな二の鳥居が立っており、その奥にもの凄い階段が続いています。
このあたりはJリーグの水戸ホーリーホックのホームで、時々この階段をその選手たちが駆け上る姿が見られます。
あれれ、この階段下の大鳥居は一の鳥居じゃあないの?
そう、一の鳥居は実はこの県道のもう少し南に立っているのです。かつてはこの一の鳥居からが大洗磯前神社の境内だったのです。
さて、この一の鳥居を過ぎると大洗港です。
その一番東のゾーンは漁港になっており、沈んで行く夕日が漁船を赤く照らしていました。
漁港の先には大きなフェリーが浮かんでいます。ここ大洗と北海道の苫小牧を結ぶサンフラワー号です。この船、周囲の建物を圧倒して本当に巨大。
サンフラワー号の大きさに目を丸くしながら進んで行くと、ガラス張りの展望塔になっている大洗マリンタワーが現れます。この塔を横目に県道をどんどこ行きます。
どうやら鮟鱇の時間には間に合いそうになってきたので、このあたりでペースダウンしましょう。
県道の内陸側には細長い松林があり、この中に自転車道があるのでこの先はこれを使います。隣の県道はかなり交通量がありますが、この松林の中の自転車道はそれに煩わされずに、快適です。
集合時刻の15分前に大洗サンビーチ近くの鮟鱇屋に到着。これだったらもうちょっとあちこちぶらぶらしても良かったかな。この時すでに車組のベネデッタ、プリン、マージコは到着しており、サンビーチを散策していました。
予定の17時に宴会開始。さ〜て、今年の鮟鱇はどんなかな〜