葛飾区で最大の観光資源、それは堀切菖蒲園でしょう。都内の花の名所としては、ここは必ず登場します。
堀切菖蒲園の入口を入ると、正面に石灯籠が立ち、その向こうに松の木が見えます。花菖蒲田はこれらの向こう側に広がっています。
石灯籠を廻り込むようにして進むと、
『オ〜、きれい〜〜』 という声が。
そこには色とりどりの花菖蒲がびっしり。
時期的にはちょうどいい頃合いで、しおれた花はほとんど見当たらず(作業員が摘んでいることもありますが)、満開です。
さて、ここでいきなりですが、歌川広重の名所江戸百景『堀切の花菖蒲』を。
堀切の菖蒲園は、江戸時代は1800年代のはじめ頃、このあたりの百姓の小高伊左衛門という人物が、各地の花菖蒲を集めて庭で栽培したのが始まりと云われています。
この絵を見ると、当時の江戸はここまで来るともう何もないようなところだったのでしょう、花菖蒲の田圃がどもまでも続いているようです。手前に大胆に配された垂直に伸びる花菖蒲。その向こうの中景と遠景は水平の要素が強く、花菖蒲が伸びる様をより強調しているように感じます。ここで描かれている花は、当時のものとしてはおそらく最先端の品種で大型のものだったと考えられますが、現在はさらに品種改良が進み、もっともっと大きなものがたくさんありますね。
ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)によれば、二代目伊左衛門も繁殖に務め、さまざまな品種を開発していき、江戸一番の菖蒲園の名声を得るようになったようです。明治時代になると海外でも花菖蒲人気が高まり、根株がかなり輸出され、その人気を背景に堀切の菖蒲園は五園を超えるまでに広がりましたが、大正時代の終わり頃から急速に衰退し、二園にまで減り、これらも戦時下の食糧難のため田んぼに変えられてしまいます。戦後、この一部を都が買い取り、それが現在の堀切菖蒲園となったそうです。
そんなわけで現在の堀切菖蒲園はこじんまりしていて、広重の時代とは環境もがらりと変わり、周囲は密集住宅地となり、見上げれば高速道路が通るロケーションの中にあります。
広重は絵本江戸土産『堀切の里 花菖蒲』で同箇所を描いています。花菖蒲のふりがなには『はなあやめ』とあります。
綾瀬川の東にあり、数万株の花菖蒲。その色更に数を知らず。眺望類いあらざれば、毎年卯月下浣(下旬)より皐月に至りて、遠きを厭わず舟に乗り、箯(駕篭)に駕して、都下の美女、競うときは、いずれか花と見紛うばかり、水陸の遊観んなり。
この文から、ここには数万株の色とりどりの花菖蒲が咲いていたことがわかりますが、それよりも、のどかな景色であることの方をより強く感じます。これが刊行されたのは上の名所江戸百景と同年ですが、構図は大きく異なり、近景に大写しの花菖蒲がなく、それと同じくらい美しいと言っている美女の姿もありません。広重はまずスケッチ的に絵本江戸土産を描き、そのあと構図を練りに練って名所江戸百景に仕立て直したのではないでしょうか。
ただただ見とれてしまう大輪の花々。
都下の美女にも見とれてしまいます。(笑)
足下には水が張られています。
青紫色と白い花。
斑が入った紫色の花。
すくっと立ち上がった茎の先に花が付くのは名所江戸百景の絵のとおりなのですが、残念ながら広重のような構図では写真が撮れません。
花菖蒲田の周囲にはこの時期に咲く花が選ばれて植えられているようです。
オハイオ・スパイダーワート(Ohio spiderwort)またはブルージャケット(bluejacket)と呼ばれるもの。
オトギリソウ属でキンシバイの仲間ヒペリカム・ヒドコート(Hypericum patulum'Hidcote')。
西洋キンシバイとも呼ばれるようです。
ごくごく淡い紫色が入った白いアジサイ。
本日のメンバーは左から、サンダリアス、サリーナ、ムカエル、アンドレ。
あ〜、きれいな花が汚れる〜
堀切菖蒲園を堪能したら、広重の時代からは付け替えられた綾瀬川を越えて荒川の河川敷に出ました。
遠方には東京スカイツリーがすくっと立っているのが見えます。
荒川では美女が水上スキーを楽しんでいます。
荒川の河川敷には船着場がある堀切水辺公園があります。
その中には地元の方々によって管理されている花菖蒲田があります。
ここでも大輪の花菖蒲が花を咲かせています。
田んぼの広さと花の密度では堀切菖蒲園にかないませんが、ここは空間が開けていて気持ちいいです。
堀切水辺公園を出たら荒川サイクリングロードを北上します。
前方からなんだかニコニコした人が近づいてきました。なんとそれはユッキーでした。
ここからはその突如現れたユッキーを飲み込んで、6名で小菅の東京拘置所に向かいます。
小菅にある東京拘置所は全国に8箇所ある拘置所の一つです。ご覧の通りこの施設は巨大で、かつて4階建だった収容棟は12階建になり、3,000人以上を収容できるといいます。
ここは刑務所ではないので、死刑囚以外は刑が確定した人が入るところではありません。裁判中などで刑が確定していない人などと、死刑を待つ人が入っており、死刑執行室もあります。最近では海外に逃亡した某自動車会社元会長、少し古いところでは元首相が入っていました。某宗教集団の教祖はここで死刑を執行されました。
この土地は元を辿れば、8代将軍徳川吉宗の鷹狩の際の休憩所として建てられた小菅御殿というものがあったところだそうですからびっくりです。御殿が拘置所にねぇ。
東京拘置所の東には綾瀬川が流れています。そこにはかつての水戸街道が通り、付近には水戸橋が架かっています。
綾瀬川は荒川放水路の開削によって分断されたため、堀切あたりから下流は付け替えられましたが、このあたりは旧流路(江戸時代に新たに開削されたあとの)のままです。
綾瀬川を渡って古隅田川沿いに入ります。現在の古隅田川は全長5kmほどの小さな流れ、というか、ほとんど暗渠化された川ですが、かつてこの川は利根川及び荒川の本流だったと考えられているそうですから、びっくりです。
ここで古隅田川は綾瀬川に流れ込みますが、綾瀬川の開削で分断されたその先の旧流路が裏門堰親水水路として、先ほど通った東京拘置所の東と北に残っています。
綾瀬川から東の古隅田川沿いは緑道として整備されています。
川の中で大きな亀が甲羅干ししていましたが、それは目の横が赤いミシシッピアカミミガメでした。あの、屋台で売っていたミドリガメです。外来生物法の要注意外来生物。まあ、これはもはや日本中のあちこちにいますね。
暗渠化された古隅田川の上をちょっと行って、途中でこれを離脱し、曳舟川親水公園に向かいます。
葛飾区の地図を見ると、亀戸から四ツ木までまっすぐに延びた道路が目に留まります。
これは江戸時代に農業用として築かれた葛西用水の跡で、江戸時代の終わり頃にはこのあたりでは曳舟川と呼ばれていました。
現在そこは曳舟川親水公園となっています。
ザリガニ釣り、楽しそう!
歌川広重は名所江戸百景『四ツ木通用水引ふね』(よつぎどおり ようすい ひきふね)でここを描いています。
江戸時代、江戸から水戸方面へ向かうには水戸街道を行く以外に、亀有付近まで曳舟川を引船で行く方法があったそうです。この引船は江戸では唯一のもので、明治15-16年(1882-83年)ごろまであったそうです。ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、この曳舟川ルートは快適な近道で、船は四人乗りで約7kmの行程、その終点から1kmほどで亀有に着いたようです。
この絵はその曳舟川の終点近くを描いたものらしく、奥に描かれている船着場に引船が何艘か止まっているのが見えます。その先の橋が架かっているところが水戸街道のようです。遠景の山は方角からすると筑波山と考えるのが妥当と思えますが、スミス氏は描き方から見て日光連山のようだと述べています。また、実際の水路は直線なので、絵のそれが湾曲しているのは広重のデフォルメだとも。
この日、ここには残念ながら水が流れていなかったので、舟は引けませんね。(笑)
名所江戸百景と比べると、広重自身による絵本江戸土産(七篇)『四ツ木道 引舟道』は、視点の高さが低く、遠景の山が描かれていないという違いがありますが、それ以外はとてもよく似ています。
前に記せし掘割は、その長きこと二里に余り、末流新宿(にいじゅく)の川に入る。適(たまたま)ここを過るの旅客舟に乗って往還すれど、元来(もとより)幅の狭きによりて、その舟に縄を掛け陸に在りてこれを引く。因て引船道りと唱う。水竿を操り盧をおすより、またその容は風雅なり
優雅な引船に思いを馳せたら古隅田川に戻り、亀戸に向かいます。古隅田川は小さな流れが復活して出てきたあと、また暗渠になりました。その暗渠部分のあちこちには、かつてそこに橋が架かっていたことを示す表示が立っています。
亀有5丁目で広い道に突き当たると、その道は先ほど通った曳舟川親水公園の延長で、つまりかつての葛西用水で、元々のこの用水路はここで古隅田川に流れ込んでいたのでした。
商店街を抜けて、亀戸駅北口に到着です。
亀戸といえばやっぱり『こち亀』でしょう。駅前では『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の両さんこと両津勘吉巡査長が出迎えてくれます。
もちろん北口の目の前にはマンガのモデルとなったという交番があり、『両さんいますか。』と聞けば、『今、パトロール中です。』と返ってくるとか。ま、私たちはおとななので、そんな迷惑なことはしませんけどね。(笑)
マンガに良く出てくるという亀有公園に行けば、ここにはベンチで休んでいる両さん像と、もう一体、両手でピースサインを送っている『ダブルピース両さん像』があります。
亀有公園からは亀有香取神社に向かいます。
車が少ないところをと選んだのはこんな道でした。緑道でしょうか。
亀有香取神社に入ったら、なんとここにも両さんが。これは本当に偶然に発見。
いや〜、亀有は両さん様々ですね〜 神社にまで像があるとは、恐れ入りました。
亀有香取神社は鎌倉時代の創建で、旧亀有村の鎮守だったそうです。鳥居の前には狛犬ならぬ神亀像が一対置かれています。
この亀を見て思い出しましたが、ここ亀有はかつては『亀無』だったそうです。これは、このあたり一帯は湿地帯で、ここだけが亀の甲羅の形を『成す』ように盛り上がっていたことから来ていたとされています。『無し』は縁起が悪いということで、江戸時代の始めごろ亀『有り』に改められたといいます。
この神社には『享保稲荷』と彫られた石碑があります。これは徳川吉宗の代、享保年間にこのあたりの河川改修事業の工事を担当した井澤弥惣兵衛を称えるものです。この碑によれば、享保14年(1729年)に中川を掘り割って、3mの堤を築き、川幅が約144mになったとあります。それまでの川幅は45mほどだったそうですから、もの凄い工事を行ったことになります。
さて、亀有を出たら水戸街道で井澤弥惣兵衛が掘り割った中川に出ます。
17〜18世紀前半、ここには古利根川(現中川)を堤で締切って造られた亀有溜井がありました。享保14年(1729年)に現在の水元公園に小合溜井が造られると、ここの締切堤が廃されて中川が拡幅されたのです。この一連の工事を担当したのが井澤弥惣兵衛でした。
現在ここには中川橋が架かっていますが、江戸時代には『渡し』で川を渡っていたようです。
歌川広重の名所江戸百景『にい宿のわたし』です。
新宿(にいじゅく)は水戸街道の千住宿の次の宿だったところで、そこで佐倉街道が別れていました。新宿の渡しは水戸街道が中川にぶつかったところにあったそうですから、これは今の中川橋、つまり今私たちが立っているところです。
中川の右岸は亀有、左岸が新宿。この絵がそのどちら側から描かれたかについては両説あり、遠景の山についても、秩父、陣馬山・高尾山、筑波山などの説があります。
ヘンリー・スミスはこの絵について、『江戸への往還にかかる渡しの風景で、最も遠隔の地(最北東端)として境界となっている。』『名所を描くというよりも、境界を設定することの方が重要だったと思われる』と述べており、視点は亀有側、山は日光の男体山としています。当時の一般的な認識としてどうだったのかはともかく、広重の中では、江戸という領域はここまでということだったのでしょうか。
荷を積んだ船は江戸へ向かっており、手前に描かれている二軒の建物は鯉料理を売り物にした料理屋らしいです。
絵本江戸土産『新宿の渡し場』には次のようにあります。
前図(ぜんず)小梅の引船を過(すぎ)てこの所へ出る。川幅凡(およ)そ一町ばかり。尤(もっとも)夏秋洪水なれば、河原に渺々(びょうびょう)として海に似たり。これ、水戸街道の出口、渡しをわたりて名高き料理や等、いと賑わし。
川幅はおよそ一町(約109m)でこれは現在もほぼ同じです。亀有側から対岸の新宿側を見ており、そこには料理屋という文字があり建物が数軒描かれています。つまり料理屋は渡しの両側にあったということですね。近景で馬を洗っている人物は名所江戸百景のそれとまったく同じに見えます。
上の絵本江戸土産とほぼ同じところを眺めたもの。
料亭は今はなく、都市化の並で高層のマンションがあちこちに立ってきています。
中川を渡ってその左岸を北上します。
この中川沿いの道は狭いところがあるので要注意。
このあたりは密集住宅地なのですが、常磐線をくぐり抜けると風景は一変。そこは巨大再開発エリアで、東京理科大学をはじめ、大型の施設が立ち並んでいます。
この一角は『葛飾にいじゅくみらい公園』になっています。
葛飾にいじゅくみらい公園の中にちょっと変わったものがありました。
鉄のボールです。その名も地球釜! この名は愛称らしいのですが、なんとなく雰囲気が伝わります。赤錆と、今はもうやり手がいないリベットの継ぎ目がいい感じ。
ここはかつて三菱製紙中川工場で、この地球釜は破損紙を再生するための蒸し釜だったものだそうです。
葛飾にいじゅくみらい公園からはさらに中川を北上し、水元公園に向かいます。
自転車道らしきものが出てきました。短い区間ですが、『西水元水辺の公園』のところは車道から離れて走れ、快適。
新大場川水門からは大場川沿いに入ります。
大場川沿いの道は景色は悪くないのですがとても狭く、時々車がやってくるので右側の路肩を走らなければならないことがあってちょっとやっかい。
まあそれでもここは距離が短いので、そう大したことではありません。
水元公園の入口に辿り着きました。公園に入る前に大場川に架かる閘門橋を覗いてみます。
この橋は1909年(明治42年)に竣工した煉瓦造のアーチ橋です。写真の中央の出っ張りから右側の大きなアーチが架かる部分は増築されたもので、その左に三つのアーチが見えますが、面白いことにこのアーチは下流側から見ると五つあります。かなり変わった構造ですね。
閘門橋を眺めたら水元公園に入ります。
まずは左手に小合溜を見ながら進みます。これが中川橋のところで述べた小合溜井で、水害対策用及び灌漑用の貯水池として、古利根川を塞き止めて造られたものです。
ここが東葛西の村々を潤す水源、水の元となったため、『水元』の名が付いたようです。
広大な水元公園の森の中を気持ちよく進み、水元大橋を渡ります。
水元大橋を渡ると花菖蒲田があります。
今年は新型コロナウイルス感染症の影響で、その周囲にはオレンジ色のネットが張られ、木道に入れないようになっていたのが残念ですが、咲きぶりはなかなかのものです。
花菖蒲を眺めたら水元公園を出てすぐ近くにある南蔵院へ向かいます。
南蔵院には『しばられ地蔵』があります。
願掛けするときに縄でお地蔵様を縛り、願いが叶ったらそれを解くというもの。その由来は享保年間、徳川吉宗の治世、南町奉行大岡越前守忠相の裁きが云々、ということになるのですが、この話は日本橋のできごと。まあこの話が伝わって、あちこちにしばられ地蔵ができたのでしょう。
しばられ地蔵に願掛けしたら、江戸川に出て江戸川自転車道を南下します。
常磐線の線路をくぐり抜けると、先に三角形のトンガリ帽子が見えてきます。アニメ『こち亀』の扉の歌に出てくる『トンガリ帽子の取水塔』です。これはレンガ造りで昭和16年(1941年)に完成した第2取水塔。このすぐ横に、昭和39年(1964年)竣工の丸い頭の麦わら帽子のような第3取水塔もあります。第1取水塔はすでにその役目を終え撤去され、存在しません。
トンガリ帽子の取水塔のすぐ南には『矢切(やぎり)の渡し』があります。矢切は千葉県側の地名です。
江戸時代には江戸の防衛という観点から、川には基本的に橋は架けられませんでした。その代わりとなったのが『渡し』です。先に取り上げた水戸街道の新宿の渡しは幹線ルートのそれで、この利用は厳重に管理されていました。
地元民が田畑や寺社に行くためなどの日常の移動手段として、農民渡船と呼ばれるもっと小規模な渡しがいくつか設けられました。ここは幕府が利根川水系に設けた15の渡し場のひとつで、『金町・松戸の渡し』と呼ばれていたものです。これは現在都内に残る唯一の渡しだそうです。
矢切の渡しを眺めたら、江戸川の土手を下りて柴又帝釈天へ向かいます。
このお寺は経栄山題経寺と言いますが、この名を言ってもわかる人はまずいません。帝釈天はもちろん仏教の天部のひとつですが、ここは単に帝釈天で通っていて、わざわざ柴又を付けて呼ぶこともほとんどないようです。
柴又帝釈天は言わずと知れた『男はつらいよ』の寅さんゆかりの寺。そうそう、『こち亀』の歌でトンガリ帽子の取水塔から夕陽が落ちるのも帝釈天です。こうしたサブ・カルチャーで有名になった帝釈天ですが、ここはお寺そのものもかなり立派で、本殿帝釈堂の前にある『瑞龍の松』もなかなか見応えがあります。
そうそう、ここにはちょっと変わった御守があります。飲む御守『一粒符』。小さな包の中にそれはそれは小さな粒がいくつか入っていて、体調がすぐれないときに飲むといいそうです。江戸時代に疫病が流行ったとき、医者にかかれない庶民がこれを飲んで直ったということが伝えられているようです。
柴又帝釈天にお参りしたら、その参道を通って柴又駅に向かいます。
この中にある草だんごなどを扱う高木屋は、寅さんの実家『とらや』のモデルになったとされる店だそうです。
柴又駅前に辿り着くとそこには、寅さんの像と、最近できたというその妹のさくらの像が立っています。
亀有駅前の両さん像がマンガそのもののハチャメチャな感じなのに対し、こちらの寅さんとさくらは、ちょっとすましている感じがしますね。これは時代の差、なのでしょうか。
柴又駅前からは再び中川に向かいます。
中川の畔にある青龍神社には怪無池(けなしいけ)という、なんだかちょっと怪しげな名の池があります。この怪無池はその昔、中川が決壊してできたものだそうで、白蛇がいるという伝説が残っています。
この伝説では、干ばつに襲われた時、村人達がこの沼に雨乞いの祈願をしたところ、たちどころに雨が降ってきたとされ、ここに社を祀ったといいます。神社のご祭神は天水分神(あめのみくまり)で、これは水の分配を司る神とされています。
この日は子供たちがここでメダカを取って遊んでいました。
怪無池からは斜張橋の高砂橋に出て、ちょっとだけ新中川を覗いてみます。
新中川は高砂橋で中川から分かれ、8kmほど南下して旧江戸川に流れ込みます。この流れはかつては中川放水路と呼ばれていたことからも分かるように、中川流域の洪水対策として造られたものです。
川にはスペースがあり、このあたりには高層の建物が少ないので、どこからでもスカイツリーが見えます。
新中川の高砂諏訪橋を渡って中川に戻り、その左岸を行きます。
奥戸橋を渡ると立石に入ります。立石には熊野神社があるのでお詣りを。
ここは平安時代の陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)安倍晴名(あべのせいめい)が勧進したものとされ、幟には『満月夜参詣拝』と書かれています。陰陽師は陰陽五行思想による占い師のようなもので、古代の日本では地相や暦、天文学などを扱う官職でした。
安倍晴名は特に天文学の分野に秀で、その後陰陽寮を統括することになる安倍氏の祖となった人です。スケーターの羽生結弦選手が『SEIMEI』で安倍晴名を演じたことで、この人の名は一気に世間に知られるようになりました。
熊野神社のすぐ近くに『立石』の名の元になったという『立石様』というものがあるというので行ってみました。
かつてこの辺りの住人だったアンドレが案内してくれたのは、横丁を入ったところにある小さな児童公園でした。
『えっ、立石様ってこんなところにあるの?』 と、不思議がる面々。
児童公園の奥に、低い石の鳥居が立っています。立石様はこの奥にひっそりとありました。
それはなんとこんなものでした。ただの小さな石! (笑)
なぜこの石がこの地の地名の由来となったのか。
古くは道しるべとして石を設置することがあり、その石が置かれた場所を立石と呼んだそうなのです。つまりこの石は道しるべ石だったということです。立石様は古墳時代に古墳の石室を造る材料として千葉県の鋸山付近から運搬されてきたもので、奈良時代以降に古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられているそうです。江戸時代には地上に60cmほど露出していたそうですが、現在はご覧の通り、わずかに数cmほどが見えるだけです。
地名の由来なんてものはほとんどわからないわけですから、こんなちっぽけなものでも、これがおいらが町の名前の由来さ、と言えるのはいいことかもしれませんね。
さて、立石様にちょっと笑ったら、立石駅に向かいます。
アンドレによればこの駅前の仲見世がなかなか面白いそうな。
立石駅前にはサッカー漫画の『キャプテン翼』の看板がデーン。
これはそれを描いた高橋陽一が葛飾区四つ木の出身だからだそう。京成線の四ツ木駅はこの隣駅です。
葛飾区には、寅さん、両さんに加え、翼もいたのか。
翼の看板のすぐ横が立石仲見世の入口です。
仲見世とは大抵の場合、浅草の浅草寺のように神社やお寺の境内にあるものを指すことが多いと思います。なぜここが仲見世という名なのかはわかりませんが、中に入ってみると、なんとなく仲見世という雰囲気でした。
駅側の入口にはオープンエアの総菜屋があります。
ここは『トリゼン』という名で、焼き鳥などを中心に扱っています。
立石仲見世は1960年に架けられたという全長120mほどのアーケード商店街で、その雰囲気を伝えるには、まあ、昭和レトロと呼ぶのが一番早い。
おでん種の店・・・ ついついふらふら〜っと。。 最近まで地元民としてこのあたりに通い詰めていたアンドレは、ここで号泣!
このあとは新小岩駅まで行く予定だったのですが、誘惑に負けて、2ヶ月ぶりの外呑みと相成りましてございます。
あ〜、やっぱり外で飲む酒はうまい!