2023

ツール・ド・荒川区  名所江戸百景6

開催日 2020年12月19日(土)晴れ 4°C - 9°C
参加者 サンダリアス/ユッキー/マコリン/サリーナ/サイダー
総合評価
難易度
走行距離 30km
地域 首都圏

隅田川/汐入公園付近
隅田川/汐入公園付近

コース紹介

『ひぐらしの里』の社寺を巡り、夕やけだんだんを眺めて都電沿線に出たら、隅田川沿いを行き日光街道の千住大橋を眺め、下町三ノ輪の商店街を覗いて、最後に日暮里で羽二重団子をいただきます。広重の名所江戸百景からは六景を。

動画(08'31" 音声:BGMのみ)

地図:GoogleマップgpxファイルGARMIN ConnectRide With GPS

発着地 累積距離 発着時刻 ルート 備考
日暮里駅 東口 START 発09:05 - JR山手線など/太田道灌騎馬像
トレイン
ミュージアム
0.3km 着09:10
発09:15
御殿坂
一般道
日暮里駅北口の跨線橋下御隠殿橋
20種2,500本/日の列車が見える
富士見坂 0.8km 着09:17
発09:20
富士見坂 現在は富士山は見えない
修性院
しゅしょういん
0.9km 着09:25
発09:30
一般道 名所江戸百景『日暮里寺院の林泉
花見寺、谷中七福神布袋尊
イアナック 1.2km 着09:35
発09:45
一般道 08:30-19:00/カレーパン
西日暮里公園 1.5km 着09:50
発10:00
一般道 かつては日暮里山とも
諏方神社
すわじんじゃ
1.8km 着10:05
発10:15
一般道
富士見坂
名所江戸百景『日暮里諏訪の台
日暮里山
延命院 2.4km 着10:25
発10:30
一般道 シイの巨木/幹周5.4m/樹高15m/推定樹齢600年
夕やけだんだん
谷中銀座
2.5km 着10:35
発10:45
一般道 谷中銀座商店街入口の階段
東京書籍
東書文庫
10km 着11:30
発11:35
一般道 スクラッチタイルの建物
北区有形文化財(建造物)/近代化産業遺産(近代製紙業)
荒川車庫 11km 着11:40
発11:55
一般道 都電の車庫、都電おもいで広場/無料/古い車両2台展示
ポレポレ 12km 着12:05
発13:15
一般道 昼食
あらかわ遊園 13km 着13:20
発13:20
隅田川 23区中唯一の公営遊園地
荒川遊園煉瓦塀/1922年(大正11年)開業当時の塀
千住製絨所跡 19km 着14:10
発14:10
一般道 煉瓦塀
千住大橋 20km 着14:15
発14:30
隅田川 名所江戸百景『千住の大はし
絵本江戸土産 六編『千住川大橋
伊達政宗伝説の高野槙橋杭/足立区側千住小橋下の赤いブイの下
汐入公園 22km 着14:40
発14:45
隅田川 名所江戸百景『綾瀬川鐘か渕
石浜神社 23km 着15:00
発15:10
一般道 名所江戸百景『真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図
延命寺
24km 着15:25
発15:30
一般道 小塚原刑場跡/首切り地蔵、JR貨物
回向院 24km 着15:30
発15:30
南千住
仲通り
小塚原刑場跡/江戸二仕置場の一つ/明治初年廃止
/吉田松陰墓所/杉田玄白が刑死者の腑分けをした
三ノ輪橋 25km
26km
着15:35
発15:50
一般道 商店街ジョイフル三ノ輪
都電始発停留場
浄閑寺 27km 着16:00
発16:00
一般道 投込寺/安政の大地震時、遊女たちの遺体が投げ込まれた
新吉原総霊塔/永井荷風の筆塚
日暮里公園 28km 着16:10
発16:15
一般道 名所江戸百景『蓑輪金杉三河しま
日暮里繊維街 30km 着16:25
発16:30
一般道 繊維関係の店90店舗が並ぶ
羽二重団子 30km 着16:35
創業1819年(文政2年)/餡団子/焼団子/いちご団子/302円
本店10:00-17:00/日暮里駅前店10:30-18:00
笹乃雪/03-3873-1145★
日の入り16:30/名所江戸百景:地図Wikipedia国会図書館デジタルコレクション江戸百景めぐり
古地図 with MapFan錦絵でたのしむ江戸の名所浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」

日暮里駅東口駅前日暮里駅東口駅前

師走も半ばを過ぎ、ここ一週間ほどでだいぶ冷え込みがきつくなりました。今日は寒波が下りてきていて風も強いそう。そんな時は街ポタに限ります。

今回は荒川区。この区はなんだかんだで比較的良く通るところなのですが、荒川区に限ったポタリングはしたことがないので、区外辺をぐるりと一周し、ツールシリーズに加えることにしました。

やってきたのは日暮里(にっぽり)駅。ここはJRの山手線、京浜東北線、常磐線に加え、京成本線と日暮里・舎人ライナーの駅でもあるのですが、どうもマイナーで、今ひとつメジャーに上りきれない感があります。しかし2008年の日暮里・舎人ライナー開通以降、駅周辺の再開発が進み、超高層ビルが3本も立ちました。

太田道灌騎馬像太田道灌騎馬像

そんな駅前には江戸城を築城したことで知られる室町時代後期の武将太田道灌の騎馬像があります。日暮里の北西の台地は道灌山と呼ばれ、道灌の出城があったとされるところであり、道灌がこの辺でよく鷹狩りをしたことから、この像は鷹狩りの勇姿になっています。太田道灌、このあと様々なところで出てきますから覚えておいてください。

その勇姿の前に立つのは、左から、おいら寒いの嫌いのユッキー、今日は残念ながら午前中だけ参加のマコリン、ロートル・サリーナ、いつの間にか街ポタもこなせるようになったらしいサンダリアス。カメラはいつものサイダー。

道灌の騎馬像のうしろにはひっそりと一人の女性の像が立っています。『山吹の花一枝像』という題名のこの像は道灌の山吹の里伝説によるもので、これはあとで紹介します。

下御隠殿橋のトレインミュージアム下御隠殿橋のトレインミュージアム

荒川区の大部分は山手線の外側ですが、内側にも僅かに食い込んでいます。まずはそのエリアを巡ります。

エレベーターに乗り、日暮里駅北口の跨線橋、下御隠殿橋(しもごいんでんばし)に出ます。ここにはトレインミュージアムなるものがあります。

トレインミュージアムから見た列車トレインミュージアムから見た列車

ミュージアムとは言ってもここは建物があるわけではなく、橋の下に見える列車を展示品に見立てミュージアムと称したもので、1日に20種類、約2,500本の列車が行き交うのを見ることができるそうです。この時ちょうどやってきたのは、向こう側は北陸新幹線、手前側は宇都宮線です。

ちなみにこの橋の名になっている御隠殿というのは寛永寺の住職輪王寺宮法親王の別邸のことで、これは現在の根岸2丁目にあったようです。ここと鶯谷駅との間には御隠殿坂橋が架かっていますから、江戸城から遠いこちらの橋を『下』としたようです。

御殿坂御殿坂

さて、トレインミュージアムで列車が行き交うのを眺めたら、御殿坂を上って谷中銀座方面へ向かいます。するとすぐに進行右手に現れるのは月見寺として知られた本行寺(ほんぎょうじ)で、道灌の物見塚があったことを示す道灌丘碑があります。ここの開基は道灌の孫の太田資高(すけたか)。

今日はできるだけ荒川区の外辺、つまり区界を進んで行きます。この通りは荒川区と台東区の境を成しています。谷中銀座のお店が開くのは早くても10時なので、それまでの間、このあたりをぶらぶらします。

富士見坂富士見坂

まずやってきたのは富士見坂。

この坂は、東京に数ある富士見坂の中でも最後まで富士山が見えたという場所ですが、残念ながら今日、それは見えません。この坂の上の方のフェンスには、見えていたころの富士山の写真が展示されています。

名所東京百景『日暮里寺院の空無』(令和二年(2020)十二月 冬の部)/修性院名所東京百景『日暮里寺院の空無』(令和二年(2020)十二月 冬の部)/修性院

この富士見坂を下ると、北に修性院があります。江戸時代にはこの南に妙隆寺があり、北の青雲寺と3寺院が庭を競い合い、このあたりは花見寺や寺院林泉と呼ばれたと伝わります。

残念ながら今日ここには花も林も泉もありません。しかし谷中七福神になっている布袋さまは、ちょっとした見物です。これはお正月の数日のみ参拝できるようです。

この北にある青雲寺には舟で道灌の出城を目指すための目印となったという日暮里船繋松の碑や、『南総里見八犬伝』の作者滝沢馬琴の筆塚と硯塚の碑があります。

名所江戸百景『日暮里寺院の林泉』(安政四年(1857)二月 春の部)名所江戸百景『日暮里寺院の林泉』(安政四年(1857)二月 春の部)

日暮里は、古くは新堀または入堀と書かれていたようですが、江戸時代の中ごろには日暮里と表記されるようになり、春は桜、秋は紅葉が美しく、日の暮れるのも忘れるということから『ひぐらしの里』とも呼ばれたそうです。

歌川広重は修性院を名所江戸百景『日暮里寺院の林泉』(ひぐらしのさと じいんのりんせん)で描いています。この絵は現在私たちが立つ辺り、つまり藍染川の谷から東を見ており、よく見れば右下の広重の落款のすぐ上に刈り込みの舟が見えますが、これはこの寺の呼び物だったと云います。鮮やかな緑色の木々は春の色でしょうか。その中にピンク色の桜が咲き、なぜか真っ赤な紅葉も見頃。この絵には季節というものがないようです。

崖の上には門が見え、その左に三十番神堂だという建物が立っています。この門の先は諏訪神社(すわじんじゃ)がある諏訪台通りです。現在このあたりは建物で埋め尽くされてしまっており、庭と呼べるようなものは見当たりません。当時とあまり変わらないのは地形くらいで、諏訪台通り側が高くなっているのがかろうじて建物の並びで感じられます。

東都名所『日暮里修性院境内之図』東都名所『日暮里修性院境内之図』

広重はここを東都名所『日暮里修性院境内之図』でも描いています。左下の柵に囲まれた本堂から少し登ると小さな布袋堂で、さらに登ると大きな三十番神堂に出ることがわかります。枝垂桜、大きな松、ツツジの灌木、そしてあの舟の形の刈り込み。この刈り込みは『梅木舟』と呼ばれたようです。

また広重は東都名所『日暮里』も描いていますが、これは歌川芳員(うたがわよしかず)のとそっくり。

イアナックイアナック

今朝は『江戸うさぎ』で妖怪いちご大福を買おうと思っていたのですが開店時刻が11時からに変更になっていたので、イアナックのパンにしました。道灌山通りを渡ったすぐ先にあるこのパン屋さんは、とても多くの種類があり、どれにしようか迷ってしまいます。

迷いつつも銘々のお気に入りをゲットしたら、西日暮里公園に向かいます。

西日暮里公園西日暮里公園

西日暮里公園は高台にあるので、ちょっとエッコラヨッコラ。

この高台は日暮里山(にっぽりやま)と呼ばれていたようで、現在の道灌山通りから北にあった道灌山とは別のお山のようです。

ピスタチオ・デニッシュをがぶるマコリンピスタチオ・デニッシュをがぶるマコリン

西日暮里公園で日だまりを見付けてお気に入りのパンをいただきます。

サンダリアスとユッキーは何だか良くわからないもの、サイダーはカレーパン、サリーナはアップル・デニッシュ、マコリンはピスタチオ・デニッシュ。

おいしゅうございました〜

諏訪神社
諏訪神社

この高台には諏訪神社があります。諏訪台の名はこの神社が起こりとされています。この神社は太田道灌の出城の鎮守で、道灌から社領を寄進されて庇護を受けていたそうです。

名所江戸百景『日暮里諏訪の台』(安政三年(1856年)五月 春の部)名所江戸百景『日暮里諏訪の台』(安政三年(1856年)五月 春の部)

広重の名所江戸百景『日暮里諏訪の台』(ひぐらしのさと すわのだい)はこの諏方神社から北東を眺めたもので、右手下に見える屋根は現在の山手線の線路の向こう側となる日暮里村らしく、そこから人が登ってくる坂道は地蔵坂でしょう。かつてここは眺望に優れたところだったようで、遠景の山は左が日光連山、右が筑波山で間違いないでしょう。

小山の上から遠くを眺めた花見の図、これは王子の『飛鳥山北の眺望』と画材は同じで、中景の田圃にほとんど何も描かれていないことも共通しています。当時の江戸はもうこのあたりから外側にはほとんど何もなかったということでしょう。この絵ではそんな田圃の中に黄色の稲叢が二つ置かれています。画面中央に鎮座する杉の木も二本、筑波山の嶺も二つで、これらはどこかバランスを取り合っているように感じます。

名所東京百景『日暮里諏訪神社』(令和二年(2020)十二月 冬の部)名所東京百景『日暮里諏訪神社』(令和二年(2020)十二月 冬の部)

今日は残念ながらここからは日光連山も筑波山も、その他のあらゆるものすべて、ほとんど何も見えません。ただ、右手から登ってくる地蔵坂が広重の絵と同じ位置に残っているだけです。

地蔵坂の名の由来は、諏方神社の別当寺であった浄光寺(現在もこのすぐ南にある)に、空無上人の勧化により開眼された江戸六地蔵の三番目の地蔵尊が安置されていたことにちなむそうで、この地蔵尊は現在もそこにおられます。ちなみに今日一般的に言われる江戸六地蔵の三番目は新宿の太宗寺におられますが、これは地蔵坊正元発願のもので別のものです。

また浄光寺は将軍の鷹狩りの際の御膳所になっていたそうで、『将軍の腰掛けの石』などがあります。高台にあるため展望が開けて眺めが良く、雪見に適することから雪見寺とも呼ばれていたそうです。月見寺に花見寺、そして雪見寺。江戸の人々は風流だったのです。

ボルダリングする人ボルダリングする人

かつて筑波山が見えたらしい方面をよく見ると、なんと建物の壁をよじ登る人が。

これ何か変、と思ったら、本物の人ではなく、人形でした。この建物にはスポーツジムが入っているので、そこのコマーシャルでしょうか。

10時を過ぎたのでぼちぼち商店が店開きを始める頃です。谷中銀座に向かいましょう。

谷中せんべい谷中せんべい

御殿坂に戻ると通りの向こう側に創業1913年(大正2年)の『谷中せんべい』があります。暖簾には『谷中せん遍''以』と! ガラスのショウケースとその上に置かれたやはりガラスの丸い容器が素敵。もっともベイシックな堅丸は65円也。

この通りの南側は台東区なのでこの谷中せんべいは荒川区にはありませんが、まあそれは。だいたい『谷中』ってのは台東区の地名なのだよ。(笑)

延命院のモミジ延命院のモミジ

この向かいの荒川区にあるある佃煮やさんは渋くていい店ですが、みなさん何も買わなかったのでねぇ、、、

仕方がないので別のところをひとつ紹介しましょう。延命院。

世の中ではほぼ終わった紅葉ですが、ここにはかろうじて赤と黄色のモミジが残っていました。

延命院のシイの木延命院のシイの木

延命院で有名なのは紅葉ではなく、このシイの木です。

丈は15mとそれほど高くはなく巨木という感じはしませんが、推定樹齢600年という立派なものです。幹周りは5.4mあるのですが、そのほとんどがすでに腐ってなくなっていて、老木であることをしみじみと感じさせます。

年をとると、そりゃあ背も縮みますわな。

『夕やけだんだん』より谷中銀座の入口を見る『夕やけだんだん』より谷中銀座の入口を見る

さて、谷中銀座に入りましょう。谷中銀座の日暮里側の入口は『夕やけだんだん』と呼ばれる階段です。

ここはいろいろなマスメディアで取り上げられているので、今更紹介する必要もないでしょう。階段の上から賑やかな谷中銀座が見え、その向こうに雑然としたビル群、そしてそこに夕陽が落ちる姿が絵になるのですが、この時は夕陽まではずいぶん時間があるのでそれが落ちるのを待つことなく(笑)、商店街に入って行きます。

全長200mほどの谷中銀座は昔ながらの商店街でしたが、他の多くのそれらと同様、一時期商業的な地盤沈下が起こり歯抜けになり存続が危ぶまれた時期もありました。しかしその立地から新たな店舗が参入し、現在は伝統的な店や食料品、日用雑貨などの最寄り品を扱う店と観光客相手の比較的新しくできた店が共存する形で成立しています。

履物屋履物屋

明治24年(1891年)創業の『濱松屋はきもの店』は区界にあり、この西と南は台東区。そして商売の方でも扱っているものは伝統的な下駄や草履といったものですが、購買層は外国人などの観光客がかなりの割合を占めるようです。

谷中銀座はこれまで何度も巡ったし、今回は荒川区なのでこの濱松屋で商店街を離れようとしたのですが、このあたりは初めてというマコリンがその辺りをくまなく散策し始めたので、仕方なく商店街の突き当たりまで進んでしまいました。(笑)

谷中銀座七猫のうちの一匹谷中銀座七猫のうちの一匹

谷中銀座には猫が多く、よく『夕やけだんだん』で日なたボッコしている猫を見掛けます。そうした猫をモチーフにしたのか、ここには木彫りの猫があちこちにいます。

これは全部で七匹いるそうですが、全部は見つけられませんでした。写真は西側、文京区側の入口にいる猫ちゃん。

谷中銀座でショッピングを楽しんだら、台東区との区界を進んで北に向かいます。ところが年末になったこの時期、あちこちで道路工事が行われていて思うように進めず。

田端台公園田端台公園

ともかくも北区の田端台公園までやってきました。この公園の南側が荒川区との境界です。太田道灌の出城があったかどうかはともかく、道灌山はこのあたりを指したようで、現在でもその名を冠した坂や施設がこのあたりにはあります。その道灌山は虫の音の名所としても知られていたようで、広重は『道灌山虫聞之図』を残しています。

さて、以上で荒川区の山手線内側エリアをおしまい。ここからはお山を下って山手線の外側に出ます。

都電荒川線都電荒川線

西日暮里駅前のガードをくぐり抜け、東北本線沿いや北区との境を進んで行きます。そして出たのが都電荒川線沿いです。

都電は最盛期には41路線ありましたが、残るはこの荒川線だけで、荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区の早稲田停留場間の12.2kmのみの運行です。ちょうど都電の伝統カラーの黄色い電車がやってきましたが、これ、黄色は黄色でもレモンイエローというか、蛍光カラーっぽいですね。

東京書籍東書文庫東京書籍東書文庫

ここでちょっとだけ荒川区を離れ、北区におじゃまします。

そのわけは、この前ツール・ド・北区のときに立ち寄ろうとして時間切れで叶わなかった東京書籍の東書文庫を覗いてみたかったからです。

スクラッチタイルと楕円形の窓スクラッチタイルと楕円形の窓

アールデコ調のデザインで、外壁はスクラッチタイル張り。東京書籍はなくなったのか社名変更したのか、異なる会社名の札が貼られていました。

この建物は健在でしたが、通りの向かいにあった工場に付属した守衛所と事務所は取り壊されてなくなっていたのが残念です。

東書文庫の存在を確認できたので、ここはこれでよし。荒川区に戻ります。

ラッピング都電ラッピング都電

都電は黄色だと思っていましたが、向かいから渋い色合いの臙脂色の車両がやってきました。しかしその横腹にはどこかの企業のコマーシャルが一面に。

サンダリアスによれば、最近の都電はみんなこんなふうにコマーシャルラッピングがされているそうです。東京都って日本の都道府県で一番の金持ちだと思うのですが、都電まで広告で包んで視覚的な公害をまき散らすより、収入はなくとも目にやさしいデザインにした方がいいと思うのですが、どうなんでしょう。

銭湯銭湯

区界が都電の通りを逸れて北に向かったのでちょっとだけこの区界を行ってみましたが、さして面白いものはなく、途中で都電の通りに引き返しました。

荒川区といえば下町。下町といえば銭湯。しかしまあ、もはやそんな時代ではなくなったので、銭湯は世の中では絶滅危惧種です。仮に銭湯があったとしてもかつてのように薪をバンバン燃やすこともなくなったので、煙突がないから、それとは一目ではわかりません。ここなんぞはただ『ゆ』という看板がでている切りで、上はマンションだから、まったく銭湯っぽくありません。それでも銭湯が残っているあたりが、荒川区が下町と言えるところなのかもしれません。

荒川車庫荒川車庫

都電の荒川車庫にやってきました。しばらく見ないうちに都電の色はこんなふうに何色にもなっていたんですね。知らんかった〜

都電おもいで広場都電おもいで広場

この荒川車庫の横は『都電おもいで広場』になっていて、古い車両2台が展示されています。そのうちの一台は1954年(昭和29年)製造の5500形で、品川駅前〜上野駅前を走っていたそうです。正面に5501とあるので5500形でも第1号ということでしょうね。まるっこくてかわいい。

奥にちょっとだけ見える濃い黄色の車両は1962年(昭和37年)製造の旧7500形。2つ目玉のライトが特徴で、引退前の数年間は主に朝のラッシュ時に走っていたため『学園号』と呼ばれたそうです。

学園号の運転席学園号の運転席

ここでちょっとだけ鉄ちゃんになったサリーナでした。

ところで都電って運転席が前後にあるって知っていました? まあ大抵の列車は前と後ろに運転席がありますが、たった一両だと前後にあるのはもったいない気がしますね。

薔薇と都電薔薇と都電

都電の線路の横には薔薇が植えられています。

薔薇は真冬以外は花を付ける植物なので、ほぼ一年を通して楽しめるのがいいですね。

延命子育地蔵尊延命子育地蔵尊

都電おもいで広場の次は荒川遊園に向かいます。

その途中、荒川遊園通りに延命子育地蔵尊があります。この中に収められている日待供養碑や地蔵菩薩は江戸時代のものらしいのですが、いちばん端っこにものすごくリアルな顔のお地蔵様がいらっしゃいます。お地蔵様はたいてい特徴がない顔立ちであることが多いと思いますが、ここの菩薩はまさに悟りを開く前の修行時代、それもまだ修行をはじめたばかりといったところでしょうか。

荒川遊園通り荒川遊園通り

さて、ここでたこ焼きを食べようとこの延命子育地蔵尊から東に入ったところにある『ふく扇』に向かったのですが、あれれ、どこにもそれらしい店は見当たりません。近所の方に聞くと、一年ほど前になくなってしまったとのこと。あ〜残念!

仕方がないのでたこ焼きは諦めて荒川遊園へ向かうのですが、すぐ近くに煉瓦塀があるのを思い出したので寄って行くことに。

				荒川遊園煉瓦塀 荒川遊園煉瓦塀

この煉瓦塀は1922年(大正11年)に荒川遊園が開業した当時、その周囲を取り囲んでいた塀の一部です。

荒川遊園ができる前、そこには煉瓦工場がありました。その煉瓦工場にあった煉瓦を使い、遊園を囲む塀を造ったものが今も残っているというわけです。

写真に写っているボーダーより上の段の煉瓦は新しく積まれたもののようで、本来は下に見られるように、長手だけの段と小口だけの段を繰り返すイギリス積みだったようです。

荒川遊園入口の都電荒川遊園入口の都電

煉瓦塀を眺めたらいよいよ荒川遊園です。この施設は荒川区営で、入園料は無料! しかしここはずいぶん長い間改修工事中で、現在は中に入れません。残念。2022年の春に再オープン予定だそうです。ここには日本一遅いと言われるコースターがあったのですが、どうなるでしょうかね。

入口ゲート横の『いこいの広場』に置かれていた都電荒川線6000形の最後の1台だという電車は塗り替え中だったので、どうやらこのまま保存展示されるようです。

荒川遊園の観覧車荒川遊園の観覧車

そして観覧車もそのまま残るようです。

荒川遊園北の隅田川荒川遊園北の隅田川

荒川遊園はまた今度ということにして、その北を流れる隅田川に出ます。

荒川遊園から西は北区、そしてこの隅田川の向こう側は足立区です。

隅田川沿いを下る隅田川沿いを下る

ここからはしばらくこの隅田川沿いを下って行きます。

隅田川沿いには川面近くにデッキゾーンがあるのですが、これは一般的には自転車通行禁止なので、その上のゾーンを進んで行きます。

小台橋付近小台橋付近

小台通りの小台橋(おだいはし)で下のデッキゾーンに降ります。ここには上に道がなく、デッキゾーンに自転車通行禁止の表示はありません。もしかすると荒川遊園のところも自転車通行可だったのかもしれません。

このデッキゾーン、快適に続いて行くのかと思いきや、次の尾久橋(おぐばし)でプッチン。こっちもプッチンしたけれどどうにもならず、ちょっと戻って階段でコンクリートの高い防潮堤を乗り越えます。

ユリカモメユリカモメ

尾久橋をくぐり一般道をちょっと行くと、なんとかデッキゾーンに戻りました。

この川辺には鴨やユリカモメがたくさん。

岸辺の葦岸辺の葦

そして岸辺には葦が植えられています。これは鳥さんのためでしょうかね。

尾竹橋尾竹橋

次の尾竹橋(おたけばし)が見えてきました。

高い防潮堤の横を行く高い防潮堤の横を行く

この尾竹橋から東のゾーンは一抹の不安があるところ。ここは防潮堤の補強工事か何かそんなことが行われており、通れるかどうか良くわからなかったのです。

尾竹橋からは階段を担いで下ることができ、その後もしばらく進んで行きます。左手は防潮堤、右手にはフェンスが張り巡らされていて、なんだかここは進入してはいけないゾーンのような気がしてきますが、そんなことはないのです。誰もいないから安全ではありますがすぐ横が防潮堤なので、あんまり楽しくはないですね〜

京成本線の鉄橋をうしろに京成本線の鉄橋をうしろに

結局、荒川区立第五中学校付近まではこの防潮堤横の道を進むことができ、そこからは一般道に出て京成本線をくぐると、ほどなく土手上に出ました。

今日は11時ごろからお日様が出る予報でしたが、ここに来てそれは完全に雲に負けたようで、うすら寒い空の色が支配的になってきました。

千住製絨所跡の煉瓦塀千住製絨所跡の煉瓦塀

南千住に入り日光街道が近づいてきました。ここでちょっと寄り道を。荒川遊園で煉瓦塀を見たので思い出したのです。ここにも煉瓦塀が残っていたことを。

ここには明治新政府によって設立され、被服生地を製造していた千住製絨所がありました。国産の軍服や制服がここで作られたのです。この煉瓦壁はその官営工場を取り囲んでいたものの一部です。やはりこの壁も荒川遊園同様、イギリス積みが採用されています。

千住大橋千住大橋

さて、千住の日光街道に出ました。隅田川に架かるは千住大橋です。

ここに最初に橋が架けられたのは徳川家康が江戸に入った4年後の1594年です。当時の橋はここより200mほど上流に架かっていたそうです。江戸幕府は江戸防衛のため架橋を最小限に制限していて、1661年に両国橋が架かるまでこの橋が隅田川で唯一のものでした。それゆえ当時大橋といえばこの千住の橋を指しました。現在の千住大橋の上に単に『大橋』とだけあるのはそれを意識してのことでしょう。

名所江戸百景『千住の大はし』(安政三年(1856)二月 冬の部)名所江戸百景『千住の大はし』(安政三年(1856)二月 冬の部)

歌川広重の名所江戸百景『千住の大はし』です。

千住宿は奥州街道の最初の宿ですから、隅田川(当時このあたりは荒川と呼ばれていた)に架かる大橋は江戸の出入口と言って良いでしょう。

この絵は荒川区側から隅田川の上流方面の北西を見ており、橋向こうが千住宿。遠景に描かれている山はその方角から秩父連山とする説が多いようですが、ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)は日光連山としています。これは広重が描くこの山の共通性からという以外に、この場所が日光街道の出発点として持つ象徴的な意味を強調したかったため、雲で画面を上下に分け、二つの異なる視界を描いたのだろうと述べています。雲で画面を分ける手法は日本の伝統的な絵画ではよく見られます。

名所東京百景『千住大橋』(令和二年(2020)十二月 冬の部)名所東京百景『千住大橋』(令和二年(2020)十二月 冬の部)

残念なことに現在の千住大橋はその両側に橋が架けられてしまっているので、どこからどう写しても広重の絵のようにはなりません。千住大橋、いい橋なのにもったいないことをしましたね。

現在は奥州はもとより日光までも歩いて行く人はいないでしょうから、旅人はこんなだらだらポーズでいいか。あっ、一人、馬の代わりに自転車に乗ってもらえば良かったな。(笑)

橋杭の上に浮かぶブイ橋杭の上に浮かぶブイ

千住の大橋は何度も改架、改修が施されましたが、1885年(明治18年)に洪水で流失するまで一度も流されることなく、実に300年近く生き存えました。これは堅牢な構造に加え、仙台藩の伊達政宗が調達した腐れに強い高野槇を使ったためとされており、現在もその橋杭が残っています。

それは荒川区側ではなく川向こうの足立区側にあります。ついでなので行って見ましょう。足立区側の千住大橋の下には千住小橋という小さな橋が架かっています。そこから隅田川を覗くと三つの赤いブイが浮かんでいるのが見えます。このブイの下に伊達政宗の杭があるのですが、残念ながら杭そのものは上からは見えませんでした。

常磐線の橋梁をあとに常磐線の橋梁をあとに

奥州へ思いを馳せたら千住大橋を出て、常磐線、つくばエクスプレス、地下鉄日比谷線の三本の橋梁をくぐり、再び隅田川の土手上に出ます。

名所東京百景『旧綾瀬川鐘ケ渕』(令和二年(2020)十二月 冬の部)名所東京百景『旧綾瀬川鐘ケ渕』(令和二年(2020)十二月 冬の部)

千住汐入大橋を過ぎると川は大きなカーブを描きだします。川向こうには首都高速中央環状線が巨大な姿を見せています。

よく見ればその下に小さな河口が見えます。あれは荒川によって寸断され流路を変えられる前の綾瀬川です。あのあたりは鐘ケ淵といい、これは東武伊勢崎線の駅名にもなっています。鐘ケ淵の名はどこだかの寺の鐘が洪水で流されたことに由来するそうです。あの綾瀬川より北は足立区で南は墨田区になります。

名所江戸百景『綾瀬川鐘か渕名所江戸百景『綾瀬川鐘か渕』(安政四年(1857)七月 夏の部)

広重は名所江戸百景の隅田川遡上シリーズを『佃しま住吉の祭』で始め、その北端を描いたこの『綾瀬川鐘か渕』(あやせがわかねかふち)で終えています。この絵は今私たちが立つ隅田川西岸から北東の綾瀬川の河口を望んだものです。

このあたりを古い地図で見ると上流側に荒川の記載があることから、広重の時代に隅田川の上流部は荒川と呼ばれていたことがわかります。つまり広重が描いたここは事実、隅田川の北端なのです。当時、今の荒川(荒川放水路)はまだなく、綾瀬川がここで合流しているのもはっきりわかります。

この絵の綾瀬川には小さな橋が架かっています。これは現在の墨堤通りに架かる綾瀬橋の前身でしょう。絵を縁取りするように配されているのは合歓の木で、淡いピンク色の花がなんだかとってもモダンに見えます。その幹のうしろから飛び出した舟の舳先がわずかに見えます。粋な網目柄の衣装の筏師は何をしているのか、ただ竿を川に突っ込んだまま立ち尽くしているよう。その上を白鷺が舞っているのどかな風景。

水神大橋水神大橋

水神大橋とその先に東京スカイツリーが見えてきました。

川向こうの壁は防災団地の白髭団地。この団地は都市レベルの防火壁となるように造られた、長さ1.2kmに及ぶ長大な建物群です。

首都高速中央環状線首都高速中央環状線

長大といえば首都高速中央環状線も負けていません。

東京スカイツリー東京スカイツリー

巨大さなら東京スカイツリーも。下に架かる白鬚橋はいい橋なのですが、ここはどうしたって高い方に目が行ってしまいますね。

ここに来て急に空が暗くなってきました。するとこの景色がなんだかとってもシュールに見えます。

名所江戸百景『真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図』(安政四年(1857)八月 春の部)名所江戸百景『真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図』(安政四年(1857)八月 春の部)

歌川広重の名所江戸百景『真崎辺より水神の森内川関屋の里を見る図』(まつさきへんよりすいじんのもりうちがわせきやのさとをみるず)。

隅田川西岸の真先稲荷明神社の境内には名物の吉原豆腐の田楽屋が軒を並べていました。その一軒の甲子屋(きのえねや)のそれは特に有名で、江戸名物料理のひとつに数えられていたそうです。この絵は甲子屋の二階から北東を望んだものとされ、遠景には筑波山が描かれています。丸窓と白い障子によって切り取られた外の風景と暗い室内の対比が秀逸。

花は白梅、そして室内の左隅に白い椿。ヘンリー・スミスは梅の花から、季節は真先稲荷の初午詣(はつうまもうで/2月の最初の午の日)の頃で、祭礼で賑わう表の様子が連想されるとし、時刻は宵闇迫る頃で、江戸の通人はこのあと西の吉原へ向かうのだろうと述べています。また、真先稲荷は花魁の厚い信仰を集めていたとも。広重が描いた室内の絵にはこの絵に限らず、ひっそりとしたという以外にどこか、色っぽい秘めごとを含んでいるものが多いような気がします。

中景の木立の中には水神の森の神社の鳥居と灯籠。右奥へ延びるのは内川(うちがわ)と呼ばれた水路で、現墨田区の東白鬚公園の横にある木母寺に通じていたようです。さて関屋の里はと言えば、これは筑波山の下に見える一帯で、木母寺より北の隅田川左岸、現在の千住仲町から千住関屋町あたりで、江戸時代には風光明媚な土地として知られていたそうです。

広重はこのあたりを銀世界東十二景『真崎の大雪』でも描いていますが、これは隅田川から真先稲荷明神社を見たものになっています。

名所東京百景『真崎辺より水神の森も内川も関屋の里も見えずの図』(令和二年(2020)十二月 冬の部)名所東京百景『真崎辺より水神の森も内川も関屋の里も見えずの図』(令和二年(2020)十二月 冬の部)

さて現在、広重が描いたところがどうなっているのかと言えば、先ほどより見えている中央高速と白髭団地以外には何も見えず。森も川も里もありません。川面に浮かぶ船一艘さえ。もちろん梅もまだですね。(笑)

ただ、うしろの橋は水神大橋で、団地の中には水神保育園があるように、水神の名だけは辛うじて現代まで残っています。

白鬚橋白鬚橋

白鬚橋までやってきました。1931年(昭和6年)に完成したこの橋はこの頃造られた橋の中でも特に美しいもののひとつでしょう。この橋は基礎にベイマツの杭が使われているそうですから、やはり時代を感じますね。

白鬚橋は明治通りです。川の手前側はこの明治通りから南側は台東区になります。

石浜神社石浜神社

白鬚橋のすぐそばに立つのが石浜神社で、太田道灌が庇護した武蔵千葉氏が拠城とした石浜城はこの神社周辺にあったと伝えられています。

広重が『真崎辺』を描いた真先稲荷明神社は現在はこの写真の右の端に遷座されています。

石浜神社の紅葉石浜神社の紅葉

茶屋はと言うとごく最近再建され、この21日から有名な豆腐田楽を食べさすようになるようです。ただ、外から見た限りですが、広重が描いたような室内にはまずならないだろうと思われる建物でした。

しかもその裏には巨大なガスタンクが2つ並んでいます。まあ、南千住らしいといえばそうも言える風景ではありあますが。そう言えばかつてこのあたりにはそこら中に巨大ガスタンクがありましたが、ずいぶん姿を消したように思います。

JR貨物鉄道隅田川駅JR貨物鉄道隅田川駅

広重の『真崎辺』と現在のそれとのギャップに驚いたら石浜神社を出て、南千住駅のすぐ南側にあるJR貨物鉄道隅田川駅が見下ろせる歩道橋に上ります。

南千住と言えばかつては隅田川の舟運とこの鉄道貨物基地の陸運によって発展した工業の町でしたが、現在は南千住駅付近を中心とした大規模な再開発で、超高層ビルが何本も立っているから驚きです。

延命寺の首切り地蔵延命寺の首切り地蔵

歩道橋を降りるとすぐのところに延命寺があります。

このあたりは江戸時代には東海道の鈴ガ森とともに江戸二仕置場の一つである小塚原刑場でした。明治のはじめに廃止されるまで、磔、斬罪、獄門などの刑がここで執行されました。首切り地蔵は刑死者の菩提を弔うために造られたものだそうです。

延命寺のすぐ北には回向院があります。このお寺は小塚原刑場の牢死者や刑死者を供養するために開創されたもので、安政の大獄で獄死した吉田松陰らの墓所があります。また、ここで刑死者の腑分けに立会った杉田玄白らが、それをきっかけに『解体新書』を翻訳したと言われています。

小塚原刑場跡を眺めたら三ノ輪に向かいます。

ジョイフル三ノ輪ジョイフル三ノ輪

都電荒川線の三ノ輪橋停留所のすぐ北にあるのはアーケード商店街のジョイフル三ノ輪。

ここは谷中銀座と違って観光客はゼロ。食料品や日用雑貨などの最寄り品の店が横丁を含めると400mほど並んでいます。

昔ながらのガラガラポン昔ながらのガラガラポン

なんとここでは年末の福引も。あのガラガラポンです。

いや〜、いいね〜(笑)

荒川一中前荒川一中前

ジョイフル三ノ輪を東から西まで歩き、外に出ると荒川一中前停留場。

都電の停留場の間隔ってすごく短い。バスより短いんじゃあないかな。

都電横の通路都電横の通路

この荒川一中前停留場から三ノ輪橋停留所に向かいます。

そこは道なのか、ただ何かの都合でできてしまったスペースなのか分からないような空間です。写真は広いところですが、この先もっと狭くなります。とにかく狭い狭い!

ジョイフル三ノ輪メインエントランスジョイフル三ノ輪メインエントランス

このめちゃくちゃ狭い通路を通って三ノ輪橋停留所に到着しました。三ノ輪橋停留所は都電の始発終着駅ですが、少なくとも都電の進行方向からアプローチすると、えっ、ここが本当にターミナル駅って感じでした。

電車の横をすり抜けるようにして東の通りに出ると、北にジョイフル三ノ輪の入口が開いています。先ほど東からアプローチしたときは、これまた、えっ、ここが商店街の入口って思ったのですが、こちらがメインエントランスですね。

三ノ輪橋停留所三ノ輪橋停留所

そしてジョイフル三ノ輪のメインエントランス側から見る三ノ輪橋停留所はそれなりに立派でした。

三ノ輪橋停留所に停車中の都電三ノ輪橋停留所に停車中の都電

こうやって写真で見ると、けっこうかっこ良く見える。(笑)

桜せんべい桜せんべい

三ノ輪界隈が続きます。常磐線をくぐるとすぐ『桜せんべい』があります。ここの煎餅は厚い!

コンビニの煎餅はやたらに甘かったり、塩っぱかったりしてすぐに飽きるけれど、煎餅屋の煎餅は飽きずに食べられます。煎餅屋は大量に売る必要がないので、保存料や着色剤を使わずに済み、卸先の舌塩梅に合わせる必要もないので、伝統的な製法で製造できるからだと思います。やさしい米と醤油の味です。

浄閑寺浄閑寺

浄閑寺は投込寺と言われます。これは安政の大地震(安政二年)の時、新吉原の遊女たちの遺体が投げ込まれたことによるそうで、この奥には新吉原総霊塔があります。当時、ここに葬られた遊女の数は500人を超えるとされ、その後、新吉原廃業までに2万5千人が葬られたとも言われています。

安政二年と言えば広重が名所江戸百景を描きだす前年で、この地震は広重に大きな影響を与えたと考えられています。

新吉原はこのすぐ南にあったのですが、そこは現在は台東区になるので、これはまた次の機会に。三ノ輪はこれでおしまいにして、次は東日暮里に向かいます。西日暮里は山手線の駅があるのでイメージしやすいですが、東日暮里はどうもピンと来ませんね。まあこれは三ノ輪と西日暮里の間の全部と思えばいいでしょう。

名所東京百景『東日暮里三丁目日暮里公園』(令和二年(2020)十二月 冬の部)名所東京百景『東日暮里三丁目日暮里公園』(令和二年(2020)十二月 冬の部)

やってきたのは東日暮里三丁目の日暮里公園。今日の朝方パンを食べたのは『西』日暮里公園で、こちらは西が付かない日暮里公園です。

ここにやってきた理由は、下の広重の絵が描かれたあたりを通ったのですが、戸建住宅やビルディングで埋め尽くされていてまったく絵にならないので、僅かながらもスペースを持っているここに来たというわけ。広重の絵のように広大なスケールの場所はもうこの辺にはないのです。

名所江戸百景『蓑輪金杉三河しま』(安政四年(1857)閨五月 冬の部)名所江戸百景『蓑輪金杉三河しま』(安政四年(1857)閨五月 冬の部)

歌川広重の名所江戸百景『蓑輪金杉三河しま』(みのわかなすぎみかわしま)ですが、この画題の蓑輪は現在の三ノ輪、金杉は金曽木(根岸)、三河しまは三河島で、ここでは三つの村名が並べられています。これはどう理解すればいいのか。ヘンリー・スミスは蓑輪と金杉から西ないし北西に広がる三河島を眺めたところとしていますが、三つの村の真ん中辺り、あるいは単にこれらの村の辺りともとれそうです。

近景に大写しの鶴。こうした構図は広重が度々使う手の一つで、ここではドーンと鶴を持って来ることで、『長寿を表わすおめでたい鳥という概念に訴えかけようとしている』とスミス氏は述べています。今日ではこの概念(鶴=おめでたい鳥)はかなり薄れた思いますが、かつては慶事には必ず鶴に関係するものを目にしたので、確かにそうしたものが残っていたように思います。絵の鶴は頭が赤いので、今日の日本では北海道に僅かしか生息していないタンチョウとわかります。写真では判然としませんが、鶴の羽には空摺りが施されています。

当時の三河島はタンチョウの飛来地であり、『鶴の御成り』という将軍が朝廷に献上する鶴を捉える鷹狩りの場となり、鶴の飼場があったそうです。捉えられた鶴の肉は新年三が日の朝の吸物になったそうですから、ちょっと驚きですね。ちなみに東洋画題綜覧で金井紫雲は鶴の御成りについて、『鶴といつても多く鍋鶴で、丹頂は霊鳥として捕へないことになつてゐた。』と述べているので、献上されたのは広重が描いたタンチョウではなかったということですね。

この頃三河島と聞けば、鶴が連想されたと言っていいでしょうか。この飼場には鳥見名主がおり、当然ながら鶴の世話をするものがいました。中景で天秤棒を担いでいるのがこの世話係だろうと。鶴は囲いの中で飼われていたそうで、右端の木の根元に見えるのがそのための茅の柵らしいです。この飼場は三ノ輪交差点の西あたりにあったそうですから東日暮里一丁目で、上の公園からは少し離れています。

三河島は太田道灌の『山吹の里伝説』が残るところでもあります。道灌もまたここに鷹狩りにやってきたようで、その最中突然にわか雨に遭い、農家に立ち寄り蓑を借りようとしますが、出て来た娘は山吹の花を差し出す切り。

七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだになきぞ悲しき --- 兼明親王

『実の』と『蓑』をかけて、蓑が無くすみませんという意味で娘は山吹を差し出したのだそうですが、道灌はその時は意味がわからず、あとでこれを恥じて一層和歌の勉強に励んだとされています。

現在の三河島からは何が連想されるでしょうか。このあたりではハングルをよく見掛けます。三河島はコリアンタウンで、済州島出身者を中心に朝鮮半島出身の人が多く住むところになってもいます。

日暮里繊維街日暮里繊維街

さて、今は何処の鶴と実を付けない山吹に思いを馳せたら、本日の出発地であり終着地でもある日暮里駅前に向かいます。日暮里公園から後は台東区との区界を進んでみましたが、これは特に・・・(笑) まあ、区界で面白いこともたまにはあるのですがね。

日暮里はその業界の人であれば必ず知っている地名です。ここは繊維の街なのです。日暮里中央通りを中心に小売店がびっしり。あたし、『トマト』で生地買って子供の洋服作ってもらっていた、とはユッキー。あたしもトマトで生地買ったことある、とサイダー。ここは意外とこうした話題で盛り上がったのでした。

羽二重団子羽二重団子

日暮里で忘れてはならぬものがもうひとつあります。それは羽二重団子。

創業1819年(文政2年)の老舗ながらにして今日まで生き抜いてきた底力が、この団子屋にはあります。

だんごに笑顔のサリーナだんごに笑顔のサリーナ

まあ、騙されたと思って食べてみてください。その真価がわかります。この羽二重団子ににっこりのサリーナでした。

さて、これでツール・ド・荒川区はおしまいです。あれ、何かおかしい、、、荒川の紹介がないじゃないか、と思ったあなた。はい、実は荒川区には荒川は流れていないのです。荒川区を流れているのは隅田川です。ではなぜ荒川区なのでしょうか。

ここまでの本文を読まれて気付かれた方もいると思いますが、それは簡単に言えば、荒川が隅田川になったからです。荒川区は1932年(昭和7年)に誕生しますが、この時現在の隅田川は荒川と呼ばれていました。今昔マップを見ると確かに『荒川』と書かれているのがわかります。しかし1965年(昭和40年)に河川法の改正が行われると、人工河川の放水路が『荒川』とされ、岩淵水門から下流の荒川と呼ばれていた川は『隅田川』とされたのです。こうして荒川区から荒川はなくなったというわけです。 おしまい。

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