東京23区にあってその名も中央区! えらく大きく出たもんですね。しかしこの名はまんざらでもありません。江戸時代の絵師、歌川広重による名所江戸百景は119景からなりますが、そのうちのなんと五分の一近くの22景が、今の中央区を描いたものなのです。このことからもこの地は、広重の時代からまさに江戸の『中央』と言って良いところだったことが伺えます。
今日はこの22景の場所がどのように変わったのかを確かめつつ中央区をぐるりと廻りますが、全部はかなり大変なのでそのうちの14景、中央区の北部を取り上げます。
中央区と言えばまず何と言っても日本橋です。日本橋の名は徳川家康が江戸の東側の海岸地帯を埋め立てて町割りを行った際に橋を掛け、命名したとされます。ちなみに上の写真の橋名標は最後の将軍、徳川慶喜の筆によるものだそうです。
『日本橋雪晴』 この絵こそ歌川広重の名所江戸百景の冒頭を飾る一枚です。日本橋の北岸から鳥瞰で南西を見ています。
中央に大勢の人々が行き交う日本橋、その向こうに一石橋(いちこくばし)、さらに奥に目をやると江戸城、そして富士山。川にはたくさんの押し送り船(江戸周辺で漁獲された鮮魚類を江戸へ輸送するために使用された漕帆両用の快速小型荷船)、手前は魚河岸で賑やかです。左上には白壁の土蔵が並んだ並んだ。
この絵には日本橋の賑わいがすべて詰まっているようです。西の空が赤いので夕やけかと思いましたが、画題の『雪晴』と、描かれている内容から朝であることがわかります。絵の上辺が深い青なのは快晴の証です。
日本橋の北詰め東側には『日本橋魚市場発祥の地』と刻まれた記念碑と乙姫の像がある乙姫広場があり、一日千両の取引があると言われた日本橋魚河岸の歴史を今に伝えています。この魚河岸は家康が入府とともに佃村(大阪府大阪市西淀川区佃)から連れてきた漁師が、江戸城へ納めた魚の残りを売ったのが始まりとされます。この河岸は関東大震災で築地に、そしてつい最近豊洲に移りました。
その魚河岸があったあたりから日本橋を眺めてみます。日本橋川の上部を高速道路で塞がれてしまった今日、かつての日本橋の姿をここから想像することはまったくもって困難です。現在は富士山はおろか江戸城も、隣の一石橋さえ見ることはできません。
現在の日本橋は1911年(明治44年)竣工の石造2連アーチ橋です。
最初の日本橋は1603年(慶長8年)に架けられた木造橋で、翌年に五街道の起点となりました。
広重は名所江戸百景で日本橋をもう一点描いています。この絵では橋の北端あたりから東を見ています。日本橋の欄干の擬宝珠を極端にクローズアップして前景とし、さらに手前に魚河岸帰りの魚屋の盤台の中の初鰹。初鰹は江戸っ子の垂涎の的だったといいます。
下を流れるのは日本橋川で、向こうには江戸橋が見えます。その背景にダーッと並ぶ白壁土蔵は小網町河岸三十六蔵でしょう。このあたりの様子は古地図 with MapFanや日本橋北神田浜町絵図を見ると良くわかります。東の空は朝焼けで、よく見ればその中に顔を出しつつある太陽が見えます。
そうそう、葛飾北斎が日本橋を富嶽三十六景『江戸日本橋』で描いています。手前の人波でごった返す橋が日本橋でしょう。
よーく見れば、現在の日本橋からも江戸橋はかろうじて見えますが。。
日本橋の中央には7つの道路の起点を示す日本国道路元標が埋め込まれています。
写真の道路元標はオリジナルですが、日本橋の北西の橋詰にレプリカも置かれています。
日本橋の高欄の中央部には麒麟像があります。青銅製で照明灯の一部になっています。
なんだかドラゴンみたいですね。
広重の出世作、東海道五拾三次の冒頭を飾ったのも日本橋でした。東海道やこの絵についてはカミーノ・デ・東海道五拾三次で述べたので割愛しますが、とにかくここが街道の出発点、日本の中心だったわけです。
今はコロナウイルス感染症対策の緊急事態宣言が出ている最中なので、この企画もランデヴー・プロジェクトにしたのですが、日本橋にやってきたのはマージコとサリーナ、そしてサイダーです。(TOP写真)
さて私たちも旅の準備をして日本橋を出発することにしましょう。とは言っても私たちが向かうは日本橋界隈ですが。日本橋から南へ1ブロック行くとそこは東海道と永大通りの交差点、いわゆる日本橋の交差点に出ます。
画題にある通一丁目は現在の日本橋一丁目あたりで、『通(とおり)』は町名です。絵に『白木屋』の文字が見えます。これは江戸三大呉服店(越後屋、大丸屋、白木屋)の一つとされた1662年(寛文2年)創業の白木屋呉服店で、その後東急百貨店となり、現在そこにはコレド日本橋が立ちます。一番奥に『や』とあるのは、現在はふとん店として有名な創業1566年(永禄9年)の西川で、驚くことに現在も当地で営業しています。
この通りは当時も江戸一番の繁華街だったのでしょう。日傘をさしたり笠を被った人々が大勢行き来しています。画面中央の『ソ』の暖簾はヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)によれば蕎麦屋の東橋庵で、その出前持ちが白木屋の前に見えます。この頃から蕎麦はセイロに盛られ、出前があったということがわかります。
当時の風俗について伺い知ることは一般人にはなかなかむずかしいですが、スミス氏は続けて、画面中央の二段傘の中の五人組は大阪の住吉神社に始まった住吉踊りの連中で、この頃はすでに江戸の大道芸人になっていたと述べています。画面一番手前に三味線を持って歩いているのは女太夫で、これは当時は最下層の芸人であったとも。そして、これらの人々に共通するのは木綿を着ていることで、それがこのあたりが木綿問屋であったことと結びつくと。
日本橋の交差点にはかつて、白木屋の他に赤木屋、柳屋があったのですが、現在その名が見えるのは柳屋だけになりました。コレド日本橋は巨大ビルで、その足下はなんだかすっきりし過ぎていて絵にならなかったので、斜向かいの柳屋のショウウィンドウにカメラを向けてみました。
すぐ近くにある漆器店の黒江屋(創業元禄2年(1689 年))の北側のショウウィンドウには『万治元年戊戌年(1658年)9月吉日 日本橋御大工椎名兵庫』の刻印がある日本橋の擬宝珠が飾られています。
日本橋から西へ向かい外堀通りに出ると、そこには一石橋が架かっています。この写真の視点が一石橋で、外濠の先に見えているのは常磐橋です。
かつてここは外濠から日本橋川が別れる地点でしたが、現在はこれより南の外濠は埋め立てられてしまっているので、外濠がそのまま日本橋川になったように見えます。また、写真手前左手には道三堀がありましたが、これも埋め立てられて現在はありません。
一石橋を広重は『八ツ見のはし』としています。かつてはここから、自身を含め八つの橋が見えたようです。手前で欄干だけ見えているのが一石橋。外濠の向こうに見えるのが今は埋め立てられてなくなってしまった道三堀の銭亀橋(銭瓶橋)、そしてその先の道三橋。右手には常盤橋、左手には呉服橋と鍛冶橋、うしろを振り返れば、日本橋と江戸橋が見えたのです。築地八町堀日本橋南絵図の右上に一石橋が見えます。
大きくて優雅な柳の木と富士山、そして船で薪を運ぶ人、四手網(よつであみ)を沈める漁師。これらのうち、現在ここから見えるものはありません。そう、夏なら二羽のツバメはもしかすると見られるか。そうそう、柳の幹が左に出っ張った部分ですが、これ、横から見ると富士山ですよね。隠れ富士!
一石橋のすぐ北の外堀通りを行き常磐橋を渡ります。この常盤橋の北西にある常盤橋公園には、今度一万円札の顔となる実業家の渋沢栄一の像が立っています。
渋沢は日本で初めての銀行である第一国立銀行(1873年/明治6年設立)を作りました。これは国立という名が付いてはいますが完全な民間企業で、日本最初の株式会社でもあります。『国立』という名前が付いたのは日本銀行が設立(1882年/明治15年)されるまで紙幣の発行を委託されていたからです。写真右端に映っている建物が日本銀行の新館です。
渋沢が立っているところには江戸城の常盤橋門がありました。そこには古い常磐橋が架かっています。
先ほど私たちが通ってきた常磐橋は関東大震災後の復興計画で建設された道路橋で、この写真は江戸城に通じる歩行者専用の石橋の常磐橋です。
この常磐橋の先には江戸城の石垣が残っています。外濠はもう意識しないと本来の目的がなんであったかわからないものになっていますが、これは江戸城の濠です。江戸城の濠は螺旋状になっていて構造が複雑な上に、現在は埋め立てられてしまって高層ビル群の中に埋没してしまったところも多いため、残っているところもうっかりするとそれが何であったのかわからなくなってしまうのです。
現在この周辺は工事中で近寄れませんが、もうじきその工事も終わるようです。
常磐橋の東詰には日本銀行が立っています。
このあたりは江戸時代から両替商が軒を連ねた金融の中心でした。1896年(明治29年)に竣工した日本銀行旧館(本館)は東京駅を設計した辰野金吾の設計で、ギリシャ風のドリス式とコリント式の列柱が立ち並ぶクラシックな様式です。
その東は1929年(昭和4年)に竣工した三井財閥の本拠地である三井本館。
こちらもギリシア復古調の新古典主義様式です。
三井本館の南は三越本店。
その先が本日の出発地の日本橋です。この通りは江戸時代には五街道の中山道でした。
このあたりの現在の町名は日本橋室町です。室町の名は室町幕府から来ているのかと思いましたがどうもそうではないようで、中央区の解説によると、京都の室町からという説と、商家が多く土蔵(室)がたくさん立ち並んでいたからという説とがあるようです。ちなみに室町幕府は足利義満がその邸宅を室町通に建てたことから『室町殿』とよばれるようになり、これが室町幕府の名前の由来になったそうです。
中央通り(中山道)を挟んだ向かいは三井不動産がプロデュースしたコレド室町。
この日本橋室町あたりは江戸時代には駿河町と呼ばれており、都市計画で富士山を正面から跳められるように道が配されました。駿河町の名は富士山山頂が駿河の国にあることから来ているといいます。
左右に立ち並ぶ大店は井桁に三の字が見える暖簾から、三井越後屋。これはのちに三井と越後屋の頭文字を取り三越呉服店になります。左が現在の三越本店、右が三井銀行がある場所です。
店を一点透視図法で左右対称に描き、正面中央にデ〜ンと富士山。これは日本の伝統的な絵画ではあまり見られない構図で、やや単調な印象を受けますが、それが逆に絵に強さを与えているように感じます。
現在はどこからも富士は見えず、石の柱や壁、ガラスで遮蔽された建物は通りとはあまり関係を持たないので、全体に固く見えますね。
かの北斎もこの場所を富嶽三十六景『江都駿河町三井見世略図』で描いています。広重とはまた視点がかなり異なるのが面白いです。
三越の前から東に進むと、そこはかつては瀬戸物町、そして伊勢町でした。昔は町名でそこの成り立ちがわかるのが楽しいですね。今はこうした伝統的な町名が合併やらなにやらで失われ、なんとも味気ない名がはびこっているのが残念です。
昭和通りに出て旧日光街道に入ります。この旧日光街道あたりは江戸時代は大伝馬町で、江戸最大の繊維問屋街を成しており、木綿店(もめんだな)と称されていました。左端に見える柱は木戸の一部で、これは四ツ時(夜十時頃)には閉じられていたそうです。
ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、絵は宵の光景。暖簾が並んだ木綿店は手前から、田端屋、升屋、嶋屋。短く描かれた暖簾の間から店の中の木綿の反物が見えます。
この絵を見て驚くのは、店が長屋形式であることでしょう。長屋は裏店のものだと思っていましたが、こうした大店でも長屋形式をとることがあったのです。しかしこれはやはり珍しかったようで、スミス氏は大伝馬町独自のものだと述べています。さらにこの建物は長屋ではあっても防火構造であるようで、店と店の間には卯建(うだつ)が上がり、屋根上には防火用水置場の囲いが見えます。店の前を歩いているのは揃いの着物の芸者二人と供の小女で、足どりから宴席の帰りだろうと。
通りの反対側には小津屋、江戸屋、川喜多屋があり、この中の創業1653年(承応2年)の小津屋は現在もそこにあります。
私は縁あってこの小津和紙に、大判和紙に江戸小紋を雲母摺りしてもらったりと、30年以上も世話になっています。小津和紙の中には資料館があり、これは時間があったら覗いてもいいと思います。
みなさんは和紙の原料が何であるかはご存知ですね。ではその中のいくつくらい名を言えるでしょうか。今度、福沢諭吉に替わって渋沢栄一になる一万円札の原料はミツマタやマニラ麻ですが、日本で栽培されているミツマタは減少の一途で、かなり輸入物を使わざるをえなくなってきています。
これがそのミツマタの花です。きれいですね。
旧日光街道をそのまま東に進むと、現在の日本橋大伝馬町に入ります。
正面にはあの世界一高いタワー、東京スカイツリー。日本橋も裏通りは電線が這い回る Cool Japan !
ここで広重は大伝馬町をもう一点描いています。描かれているのは江戸三大呉服店の一つである下村大丸屋呉服店(現在の大丸)。そしてその前を練り歩く『棟梁送り』の行列。
棟梁(とうりょう)とは大工の親方のことで、棟梁送りとは現在ではほとんど廃れてしまった行事ですが、棟上式の祝宴を終えたあとに棟梁をねぎらってその家まで送って行くことです。
ヘンリー・スミス(前掲書)は、大工は江戸では職人の雄であり、この絵は、江戸で商いをするものと江戸を建てるものとの羽振りのよさを、それとなく巧みに描き出していると述べています。先頭で武士の礼装である烏帽子を付けているのが大工の棟梁で、担いでいるのは大幣。それに続く袴姿の人々は鳶の頭、左官といった職人たちで、二本の破魔矢を担いでいるのが見えます。
大丸屋の看板には『現金掛値なし』とあり、この商習慣は三井越後屋の三井高利(みつい たかとし)によって始められたもので、これに大丸屋が挑戦した形だそうです。広重は高名な大店の三井越後屋だけを描くのは不公平と考え、その競争相手であった大丸屋も描いたということかもしれません。
現在も越後屋があった場所が繁華街であるのに対し、大丸屋があったのあたりでは一般客相手の商店はほとんど見当たりません。
旧日光街道からちょっと逸れて日本橋馬喰町(ばくろちょう)に入ります。馬喰(ばくろう)は伯楽(はくらく)、博労(ばくろう)とも言いましたが、馬牛の売買・仲介をする商人です。江戸時代の初期には、浅草御門(現在の浅草橋の位置)のすぐ南西に『初音の馬場』とよばれる徳川家の馬場がありました。その北に郡代屋敷が置かれると、周辺は訴訟や裁判で地方から出てくる人のための宿屋が増加し旅宿街になり、次第に日光街道、奥州街道の起点のまちになっていきました。日本橋北神田浜町絵図
ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、初音の馬場は広重の時代には空き地になっており、この絵に見られるように柳の木が植えられていたようです。手前に見えるのは紺屋町の染物職人が干した反物で、その向こうには宿屋と馬場の西の端に立つ火の見櫓が見えます。
柔らかな落ち着いた色合いのこの絵は、摺師の腕に負っているところも大きいように感じます。この写真ではわかりませんが、白い反物には布目摺が施されています。
紺屋町ははるか昔になくなっていますし、現在の馬喰町は馬や日光街道とは関係を持っていないように見えます。
上の絵が描かれたと考えられるあたりは、ただ小さなビルが立ち並んでいるどこにでもある街になっています。少しでも当時に近いものはないだろうかとうろうろしていると、付近に柳原通りという柳が街路樹になっている道がありました。ここではこの柳の木が、当時と今とを繋ぐ唯一のもののように思えます。
柳原通りのすぐ北には神田川が流れています。井の頭池を水源とし、江戸市中に飲料水を供給する目的で開削された神田上水は神田川となり、このすぐ先で隅田川に注いでいます。この神田川までが中央区で北側は台東区です。
浅草橋から神田川の上流を見ると、そこには屋形船が並んでいます。江戸時代にこのあたりの水路を行く船の中で屋形船は最上級の乗り物で、大名や豪商が利用するものでした。それは移動する料亭という趣で、今で言う貸し切りが基本だったようです。それを思うと現在の屋形船はだいぶ庶民的になりましたね。
一本下の柳橋まで移動しました。この橋が神田川の最下流に架かる橋です。
ごちゃごちゃ感が一層深まりました。
この柳橋界隈はかつては花街で、昭和初期には芸妓が300人以上いたそうです。当時は料亭が立ち並び、旦那衆が芸者を乗せて隅田川を行き交う涼み船などが見られました。
この右手の手前に見える小屋は1881年(明治14年)創業の『柳ばし小松屋』の出店です。小松屋は船宿を営んでいましたが、土産として佃煮を出すとこれが評判となり、現在は佃煮屋となっています。この時期は牡蠣の佃煮が、夏場なら江戸前の穴子がおすすめでしょうか。
神田川から浅草の隅田川に出ます。隅田川の下流には両国橋が架かっています。絵は柳橋あたりから両国橋を見たものです。
夏の風物詩とも言える隅田川花火大会は、将軍吉宗が全国的な大飢饉とコレラの退散を願い、1773年(享保18年)に両国橋での花火の打ち上げを鍵屋に命じたことに始まるようです。旧暦の5月28日のことでした。
ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、以降その日を隅田川の川開きとし花火は恒例行事になりましたが、これ以外に7月と8月にも打ち上げられていたそうです。そして当時の記録では、夏には雨が降らない限り毎晩のように行なわれていたとあるそうです。この絵は、『秋』の部に入っていること、川開きの特徴となっている押すな押すなのどんちゃん騒ぎといった雰囲気がないことから、特定の一日の行事を描いたというより、夏の気分を表わしたもので、格式ある料亭からの眺め、としています。
大きな船は大店の商人たちが貸し切った屋形船で、それより小さな屋根船も見えます。小型の船はタクシーのような猪牙船(ちょきぶね)で、舳先に行灯を灯しているのは遊山船を廻って飲食物を売る荷売船だそう。
浮世絵は同じ絵でも現在の初版に当たる初摺りと、増刷に当たる後摺りとがあります。後摺りの中には初摺りとはまるで雰囲気が異なるものもあります。この例では花火は開いておらず、散っていくところのように見えます。
上の絵は鳥瞰で両国橋を捉えていますが、この写真は柳橋から両国橋を望んだものです。花火は上がっているのですが昼間なので見えません。あしからず・・・ m(-_-)m
手前の黒っぽい橋が両国橋で、うしろの白い構造物は高速道路です。広重が描いた両国橋は巨大な橋に見えますが、現在のそれはスパンが小さく、構造的にも派手さがなく地味です。
そういえば去年の花火はコロナで中止でした。今年は威勢のいい花火が見られることを祈りましょう。
両国橋の上から隅田川の上流を望むと、総武線の隅田川橋梁と東京スカイツリーが見えます。そこに遊覧船がやってきました。松本零士がデザインした『ヒミコ』も時々やってきます。
このすぐ左手に神田川の合流点があります。
絵は両国橋の真下から北を望んだもので、正面に見える山は形からして明らかに筑波山でしょう。
川は場所により時代によりその名を変えます。かつて隅田川は、鐘ヶ淵より上流は荒川で、浅草付近では浅草川とも宮戸川とも、そして大川とも呼ばれていました。この画題を見ると広重は画面の左、右、中で隅田川に別々の名を当てているのですが、混乱は否めず、後摺りでは『両国船中浅草遠景』と改題しています。
大山詣りを描いた絵です。大山は神奈川県伊勢原市にある霊山で、別名『雨降山』とも呼ばれ、雨乞いや五穀豊穣の祈願だけでなく、商売繁盛にも御利益があり、江戸時代には年間に江戸の人口の五分の一もの参詣があったそうです。大山登拝は大山講(講:同一の信仰を持つ人々による結社)によるものが一般的でした。
画面手前と右の船に梵天(たくさんの御幣(神祭用具の一つで、紙または布を切り細長い木に挟んで垂らしたもの)を束にして棒の先に刺したもの)が見えます。
ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、描かれているのは『大山石尊の水垢離(みずごり)取り』。水垢離とは、神仏に祈願する際に冷水を浴び、体のけがれを去り清浄にすること。右の船の大山講の一行は橋の東詰めの垢離場で身を清め、柳橋の船着場を目指しています。大山講は山伏が組織したので、船の舳先に法螺貝を吹く山伏が見えます。
左下は鉢巻き姿の職人たちで、端午の節句の早朝に夏の水垢離取りの口火を切るのは、こうした血の気の多い若い衆だそうです。垢離を取った人々は、梵天に刺さった御幣を抜いて、町内の一軒一軒に配って歩くのだそうです。
両国橋からは隅田川を下ります。
ここで振り返って両国橋の写真を撮ればよかったのですが、すっかり失念。で、下の絵の視点からの写真はありません。
広重は名所江戸百景で両国橋をもう一点描いています。画題の大川端は前図にも出てきましたが、両国橋付近の隅田川東岸の呼び名でした。
広重自身による絵本江戸土産の初編『両国橋』には以下のようにあります。
長さ九十六間あり。万治二年(1659年)に初めて架ける。むかしは武蔵と下総の境なればかく呼びしを、今は両岸武蔵となりて、ただ二国(ふたくに)はその名のみ。東都第一の繁華にして観場(みせもの)芝居、辻講釈、あるは納涼花火の景、昼夜の遊興絶え間なし
これによると、両国橋の名は武蔵国と下総国の境にあったことから来ており、この時代には国境が移動して両岸とも武蔵国になっていたことがわかります。両国橋は住宅の密集を緩和するために隅田川東岸に市街地を広げる目的で架けられたのでした。そして橋の周囲は東都一の繁華街で、芝居小屋などが立ち並ぶ、昼夜とも賑やかな遊興地でした。
絵は中央に往来の激しい両国橋、下によしず張りの茶屋が並んでおり、川面にはたくさんの船が浮かんでいます。向こう岸が大川端で、百本杭と呼ばれる水勢を緩和するための無数の杭が見えます。そのうしろは伊勢津藩藤堂家下屋敷で、さらにその向こう側(現在の両国国技館あたり)に御米蔵の水路に架かる御蔵橋が見えます。
隅田川に沿って南下し、首都高速道の下のいやな気分のところをしばらく行くと、新大橋の西詰に出ます。
この橋の初代は元禄6年(1694年)に今の橋の少し南、中州公園があるあたりに架けられました。
広重の作品でもっとも有名なものの一つ、ゴッホが模写したことでも知られる『大はしあたけの夕立』。日本橋浜町側から大橋を介し、北東を望んでいます。安宅は対岸一帯の俗称で、これは幕府の巨大軍艦安宅丸が半世紀ほど御舟蔵の前に係留されていたことから名付けられたものだそうです。
突然降り始めた夕立に慌て、傘を差したりゴザを被って逃げ出す人々。この写真では判然としないかもしれませんが、雨は二種類の線で描き分けられています。ネズミ色の細い線と墨色の線で、この二つは角度も微妙に異なります。
よく見れば、対岸の左に御舟蔵、右に火の見櫓がうっすらと見えます。御舟蔵は上の写真で高層マンションが立っているあたりにありました。
上部の黒雲は当てなしぼかしによるもので、後摺りと思われるものになるとこれは直線になります。この絵には対岸に二艘の船が描かれている異版があります。
中州公園から隅田川対岸を望んだところです。
手前に停泊しているのは軍艦ではなく、東京消防庁日本橋消防署の水難消防艇『きよす』と『はまかぜ』。
隅田川のテラスゾーンに降りてみました。自転車が通れる上のゾーンは連続しておらずこのあたりにはありませんが、歩行者専用ゾーンはほぼ連続して繋がっていて快適です。
ここで突然雨が降り出して走り出すかと思われたサリーナとマージコですが、ん〜〜ん、今日は雨、降らないみたいだ。南に見えるのは清洲橋。
その清洲橋(1925年(大正14年)着工、1928年(昭和3年)竣工)までやってきました。存在感がある吊り橋です。
今日の吊り橋のメインケーブルには鋼鉄のワイヤーが使われますが、この橋の部材はチェーンのようにプレートとピンで構成されています。日本ではあまり使われない用語ですが、この構造の橋はチェーンブリッジと呼ばれます。
清洲橋からはちょっと内陸をごちゃごちゃと走って進みます。するとそこに見慣れた赤いウィンドブレーカーが登場。ミルミルでした。今日はあまり時間がないので、佃島で佃煮を買い求め、水天宮にお詣りすることにしたのだそうです。出会った場所があまり良くなかったのでゆっくりおしゃべりできず、写真も撮れませんでしたが、とりあえずランデヴー成功で良かったです。
隅田川大橋を過ぎてなおも隅田川を下ると、先に永代橋が見えてきます。その手前、日本橋川に架かる豊海橋の袂で隅田川の堤防上の道はいったんお終いになります。
外濠から別れた日本橋川はここで隅田川に流れ込んでお終いとなるのです。
日本橋川の出口から南を望むと、先には永代橋が架かり、その向こうに超高層のマンションが立っているのが見えます。あの超高層ゾーンは石川島で、佃島はその右奥に隠れています。手前に見えている絵は広重の『東都名所 永代橋全図』で、橋が永代橋、右上にはっきり佃島の文字が見えます。当時の佃島には漁師の船がたくさん停泊しているのが見て取れます。
佃島は江戸時代に砂州を埋め立てて造られました。家康が連れて来た佃の漁民がここに住み着き漁業をはじめたのです。漁民とともにやってきた神主によって建てられた住吉神社は3年に一度の神幸祭で有名で、御神輿は八角形をした珍しいものです。前出の『日本橋通一丁目略図』に見られる住吉踊りは願人坊主らによってすでに大道芸化されたもので、本来の住吉踊りとは異なります。
江戸時代の永代橋は日本橋川の北側、つまり今私たちが立っているこのあたりに架かっていました。そして江戸湾に浮かぶ佃島は、今からは想像できないくらい小さなものでした。まだ越中島も埋め立てられておらず、江戸湾はとても広々としていました。築地八町堀日本橋南絵図
永代橋の下から佃島を見たこの絵をヘンリー・スミス(前掲書)は、『摺師の腕前と浮世絵師の意匠がみごとに一つになって詩情豊かな夜の眺めをつくりだしている。』『広重の数少ない月夜の描写で(中略)もっとも成功した作品』と述べています。
近景は左に永代橋の橋脚、右に漁船とその櫓。中景は右に弁才船(俗に千石船と呼ばれた大型木造帆船)、左に佃島から白魚漁に来た小舟の舳先と漁り火。遠景にその佃島。白魚漁のかがり火は隅田川の河口の冬の風物詩だったそう。
各所に見られるぼかしの技法。かがり火に照らされた川面はその光をぼーっと映しています。この写真ではわからないかもしれませんが、弁才船の帆柱には雲母摺(きらずり)が施され、月の光を反射しています。
さて、ここからは豊海橋を渡り、霊岸島を通って石川島、佃島方面へ向かってもいいのですが、それは次の機会にし、水天宮に向かいます。水天宮は久留米水天宮の分社で、安産祈願で有名です。このあたりではもっとも有名なお宮と言っていいでしょう。
現在の水天宮は建物全体が免震構造の現代的なビルディングで、屋上にお宮があります。お宮自体は伝統的なスタイルです。天気のいいこの日は若いカップルが何組も参拝に訪れていました。
水天宮に立ち寄ったら、小網町から鎧橋で日本橋川を渡ります。渡った先は茅場町。ここには江戸時代には橋はなく、『鎧の渡し』で川を渡っていました。日本橋川に沿って、小網町側には小網河岸が、茅場町側には茅場河岸があり、たくさんの土蔵が並んでいました。
絵は茅場町側から小網町側を見たものでしょう。並んだ並んだ土蔵が並んだ。空にはツバメが舞い、川にはいろいろな種類の船が浮かび、船着場にはこれから渡しに乗るのか、粋な着物姿の娘がいます。
ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、ここのお蔵には全国から集まった米、大豆、油といったものが蓄えられたといいます。中央で櫓を操るのはタクシーのような猪牙船。右には茶箱らしきものを積んだ荷足船。左に見える数名の客を乗せているのが渡しでしょう。画面左の黒い影は行徳・木更津方面に向かう内海航海用の五大力船(ごだいりきせん/江戸近辺で用いられた海川両用の廻船)だろうと。
江戸幕府が開かれてから江戸は爆発的な人口増加があり、生活物資の多くを上方に依存していました。灘の酒、播磨の醤油、京都の絹織物、河内の木綿などなど。こうしたものは『下りもの』と呼ばれて重宝されました。それに対し江戸周辺で生産されたものは『下らない』もの、粗悪品として扱われたのです。この下らないものが今日使われる『くだらねぇ』の語源と言われています。もちろん広重がこの絵を描いたころは江戸周辺も豊かな経済圏を成すようになっており、いわゆる地廻りものが成長して、下りものとともに経済を支えるようになります。大きく言えば、下りものは加工品、地廻りものは原材料が多かったようです。
ここには、源頼義(義家説も)が奥州討伐の途中暴風逆浪に合い、鎧を海中(徳川が埋め立てる前はこれより東南は海だった)に投げ入れて竜神に祈りを捧げたところ、無事に渡ることができたという伝説があり、以来ここを鎧が淵と呼んだといわれています。これが現在の兜町の名の起こりだそうです。また、平将門が兜と鎧を納めたところとも伝えられているそうです。
日本橋同様、鎧橋の上も高速道路で覆われています。対岸はこの高速道路のためにほとんど見えませんが、かろうじて見えているのは巨大なビルの壁。まあ、見えても見えなくてもあんまり変わりないですね。
鎧橋の西詰に立つのは兜町の東京証券取引所です。
鎧に兜、そして軍艦のような証券取引所とは、ここは勇ましいところのようです。
さて、これでツール・ド・日本橋の前半を終えることにしましょう。
『日本橋江戸ばし』に描かれていた江戸橋を渡り、
日本橋に戻ってきました。
日本橋の北詰には3年前に全面リニューアルされた日本橋三越の新しいファサードが見えます。
街は変わっていくものですね。