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ツール・ド・中央区 Part2  名所江戸百景10

開催日 2021年03月07日(日)
参加者 マージコ/サリーナ/サイダー
総合評価 ★★
難易度
走行距離 20km
地域 首都圏

佃島
佃島

コース紹介

東京都中央区をぐるりん Part2。江戸の中心でもあった中央区の中を描いた歌川広重の名所江戸百景は22景ありますが、今回はそのうちの8景を巡ります。広重の時代の江戸とそれから160年経った東京を見比べて楽しみましょう。

動画(07'46" 音声:BGMのみ)

地図:GoogleマップgpxファイルGARMIN ConnectRide With GPS

発着地 累積距離 発着時刻 ルート 備考
東京駅 START 発09:05 八重洲通り 八重洲口、1914年(大正3年)開業
八重洲地下街にヤン・ヨーステン記念像
ヤン・ヨーステン記念碑 0.3km 着09:05
発09:10
一般道 徳川家康の通訳、丸ビル南側に『リーフデ号』
広重住居跡 0.6km 着09:15
発09:20
一般道 『市中繁栄七夕祭』
永代橋 2.3km 着09:40
発09:45
一般道 国重文
鉄炮洲稲荷神社 4.0km 着10:10
発10:20
一般道 『鉄炮洲稲荷橋湊神社』
佃島
住吉神社
5.8km 着10:45
発11:10
一般道 『佃しま住吉の祭』
佃煮『天安』/日曜営業
月島 6.1km 着11:15
発11:20
一般道 『鉄炮洲築地門跡』
トリトンスクエア 7.2km 着11:30
発12:25
朝潮運河 朝潮運河沿いに遊歩道
晴海臨海公園 9.0km 着12:30
発12:30
一般道 晴海運河
晴海客船ターミナル 11.4km 着12:45
発12:45
一般道 休業中、展望台
晴海埠頭公園は休園中
築地大橋 13.9km 着13:05
発13:05
一般道 『芝うらの風景』
浜離宮 14.5km 着13:15
発13:15
一般道 300円
築地場外市場 15.5km 着13:20
発13:20
一般道 日曜日休み
築地本願寺 16.5km 着13:25
発13:45
一般道 設計:伊東忠太
歌舞伎座 16.9km 着13:50
発13:50
一般道
銀座四丁目交差点 17.3km 着13:55
発13:55
一般道 和光
泰明小学校 18.4km 着14:00
発14:10
一般道 『山下町日比谷外さくら田』
比丘尼橋 19.2km 着14:15
発14:20
一般道 『びくにはし雪中』/二代広重?
京橋 19.6km 着14:25
発14:35
一般道 『京橋竹がし』
東京駅 20.3km 着14:40 -
日の入り17:41/名所江戸百景:地図Wikipedia国会図書館デジタルコレクション江戸城三十六見附
古地図 with MapFan今昔マップ江戸百景めぐり錦絵でたのしむ江戸の名所浮世写真家 喜千也の『名所江戸百景』

外堀通りと東京駅外堀通りと東京駅

中央区とその中にある歌川広重の『名所江戸百景』を紹介したツール・ド・中央区 Part1 名所江戸百景9の続きです。新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言がさらに延長されたので、しばらく遠出の企画は中止です。そこでランデヴー企画としてツール・ド・中央区 Part2を発動。主要地点のおおよその通過時刻を決めて、各自適当に走り、まあ偶然出会えたらそれで良し。出会えなくても一向に問題なしというものです。

出発地点は東京駅の八重口。同じ方角に住むマージコとサリーナ、サイダーは東京駅に向かう途中で出会いました。急な企画の上にあまり天気が良くないので、駅前にメンバーの姿はなし。今日はおそらくこの三人でしょう。

さて、東京駅そのものは中央区ではなく千代田区に属していますが、駅のすぐ東側を通る外堀通りから東側が中央区です。外堀通りはその名から推測できるように、かつては江戸城の外濠でした。江戸時代、外濠の外側は商工業者が住んだところで、桶町、大工町、鍛冶町、紺屋町などと、町名に職業名が付けられたところもたくさんありました。こんな町名だったらなんだか楽しそうですね。

八重洲通りとヤン=ヨーステン記念碑八重洲通りとヤン=ヨーステン記念碑

八重洲側の東京駅の正面から南東に延びる広い通りは八重洲通り。かなり立派な通りなので、江戸城に向かうメインの道だったのだろうと想像していましたが、実はこれは関東大震災(1923年/大正12年)後に計画され、1939年(昭和4年)に完成したものだそうです。

大正時代中ごろのこのあたりを今昔マップで見ると、八重洲側は密集して建物が立ち並んでおり、まだこの八重洲通りはありません。東京駅(1914年/大正3年 開業)はすでにあるものの、丸の内側は丸ビル(1923年/大正12年 竣工)もなく、ガランとしていたことがわかります。さらに古い地図を見ると、現在の八重洲通りの突き当たりに八重洲橋があり、八重洲側と丸の内側を繋いでいたことがわかります。

ちなみに『八重洲』の語源は、江戸時代の初期、1600年(慶長5年)にリーフデ号に乗り込み来日し、徳川家康の通訳となりこのあたりに屋敷を与えられたオランダ人ヤン=ヨーステンの日本名、耶揚子(やようす)から来ているそうです。その記念碑が日本橋三丁目交差点の八重洲通りの中央分離帯にあります。

名所江戸百景『市中繁栄七夕祭』(安政四年(1857年)七月 秋の部)名所江戸百景『市中繁栄七夕祭』(安政四年(1857年)七月 秋の部)

さて、今回の歌川広重の名所江戸百景は広重の家からの眺めとされる『市中繁栄七夕祭』から始めます。画題から分かる通り、この絵は七夕を描いたものです。しかしその画題にはいつもなら挿入されている描かれた場所名がなく、だだ『市中』とあるだけ。

宮尾しげを(名所江戸百景 広重画/集英社)はこの絵の視点について、『(広重は)我が家の屋根の上に昇って見たものかも知れない』と言い、ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)は、この場所は広重の家(現 京橋1-9-7)からの眺めだと言い切り、手前の蔵はその西側にあたる南伝馬町の商家のもので、右下に見える浴衣は広重自身のものではないか、とさえ言っています。

名所東京百景『市中繁栄裏広重住居跡』(令和三年(2021年)三月 春の部)名所東京百景『市中繁栄裏広重住居跡』(令和三年(2021年)三月 春の部)

この絵を見ると、当時の七夕は現在よりずっと華やかだったようです。スミス氏によれば、七夕は江戸時代には五節句の一つとして将軍家の行事になる一方、農村では五穀豊穣を願ったそうです。都市では字の上達を願って、色紙などに詩歌を書いて青竹に吊るしたといいます。江戸時代の後半には江戸っ子の心意気の証として屋外で大々的にやられるようになり、物干し台に青竹をくくりつけて、それにいろいろな飾り物がつり下げられました。隣の家よりちょっとでも高く、豪華な飾り付けをしようという江戸っ子たちの姿が目に浮かぶようです。

杯は飲み助用か。スイカはなぜ?

七夕は昔から伝わる行事と思われがちですが、明治六年(1873年)に五節句廃止令が出されて以降これは衰退し、大正時代の始めごろ(1910年代)までにほとんど消滅したそうです。現在の七夕は、仙台の商人が七夕に似た飾り物で軍事訓練を祝い始めたことが起源のようですから、びっくりです。

八重洲通り八重洲通り

広重住居跡からは八重洲通りに戻り、さらにこれを東に向かいます。

すると八丁堀(地名)の亀島橋(かめじまばし)で下を流れるのは亀島川。橋の袂には赤穂浪士の堀部安兵衛武庸之碑と松尾芭蕉の句碑が立っています。

亀島橋から亀島川上流を望む/右が霊巌島亀島橋から亀島川上流を望む/右が霊巌島

菊の花咲くや石屋の石の間 --芭蕉--

元禄6年(1693年)秋、芭蕉50歳晩年の作だそうで、添書きに『八丁堀にて』とあります。芭蕉はこの翌年に亡くなっています。

この句は長谷川雪旦が挿図し広重も度々参考にした『江戸名所図会』の『三ツ橋』の詞書にも取り上げられています。江戸で刊行された初めての地誌『江戸雀』(延宝五年/1677年)に『八丁堀、石をあきなふ』とあるように、当時ここは石の運搬に便利だったためか、水路を利用した石屋が多かったようです。9月9日の重陽の節句には菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべたお酒を飲んで長寿を祈願したので、死後の象徴となる墓を造る石屋に見る石と長寿を願う菊の花の対比を詠んだのでしょう。

日本橋川とその出口に架かる豊海橋日本橋川とその出口に架かる豊海橋

これを渡ると中央区新川です。ここは江戸時代には霊岸島(れいがんじま)と呼ばれていました。広重の出世作『東海道五拾三次』を出した保永堂(竹内孫八)は小さな版元で、この霊巌島塩町(現 中央区新川一丁目)にありました。

日本橋川の港橋に廻り、豊海橋の先で日本橋川が隅田川に合流すると、その地点が前回の企画で下ってきた隅田川の終点としたところです。

江戸名所『永代橋佃島』/広重江戸名所『永代橋佃島』/広重

広重の名所江戸百景の『永代橋佃しま』は前回紹介したので、今回は同じ広重でも『江戸名所』の『永代橋佃島』を。

この橋の創架は元禄11年(1698年)で、隅田川で四番目に架けられた橋でした。佃島は中州を埋め立てられて作られた人工島で、月島も晴海も越中島もまだなく、江戸湾は広々としていました。参考:築地八町堀日本橋南絵図

隅田川と永代橋隅田川と永代橋

もう一度隅田川と永代橋を眺めてみます。

永代橋のリベット永代橋のリベット

現在の永代橋は大正15年(1926年)に竣工したもので、原案は田中豊、構造設計は竹中喜忠で、意匠は建築家の山田守と山口文象が協力したようです。

この橋、近づくとリベットだらけでおったまげます。

永代橋西詰の桜永代橋西詰の桜

永代橋の西詰の小さな広場に桜が咲いていました。

カタバミカタバミ

足下にはカタバミの黄色い花。

永代橋から南の土手は自転車走行禁止の遊歩道が続きます。歩いてこれを行くとすぐ、小さな新川公園に出ます。ここはかつてあった新川という運河の出口です。新川は万治三年(1660年)に豪商の河村瑞賢によって開削されたと伝わり、当時はこの一帯に酒問屋が軒を連ね、河岸には酒蔵が立ち並んでいたそうです。

中央大橋へ向かう中央大橋へ向かう

新川公園の先で一般道に出て隅田川沿いを中央大橋へ向かいます。

中央大橋と石川島中央大橋と石川島

先に斜張橋の中央大橋とそれが架かる石川島が見えて来ました。石川島には超高層マンションがたくさん立っています。

徳船稲荷神社徳船稲荷神社

中央大橋まで隅田川を下ると、そこに先ほど見た亀島川が流れ込んでいます。その最下流に架かる南高橋の東詰めに徳船稲荷神社があります。これは越前松平家下屋敷の屋敷神として祀られていたものが、中央大橋の工事の際に移転したものだそうです。

こうしたものが移転する際は環境が悪いところになってしまうこともしばしばですが、ここはいいところに移転できて良かったですね。

亀島川と八丁堀の末端亀島川と八丁堀の末端

この徳船稲荷神社から亀島川を眺めると、対岸の八丁堀(地名)の護岸に凹んだところがあるのに気付きます。かつてあそこは八丁堀(運河)の出口でした。

江戸時代には京橋から京橋川を下って行くと八丁堀に出ました。その八丁堀は亀島川の末端でこれに合流するようにして江戸湾に流れ込んでいました。八丁堀の出口には稲荷橋が架かり、そのすぐ南には湊神社が立っていました。この神社は元の位置から少し移動して鉄砲洲稲荷神社として現在もあります。鉄炮洲は湊神社の南に長く延びる洲で、現在は鉄炮洲通りなどにその名を留めます。

名所江戸百景『鉄炮洲稲荷橋湊神社』(安政四年(1857年)二月 秋の部)名所江戸百景『鉄炮洲稲荷橋湊神社』(安政四年(1857年)二月 秋の部)

絵は河岸が並ぶ八丁堀の末端から西を望んでいます。ヘンリー・スミス(前掲書)によると、手前の二本の柱は弁才船二艘の帆柱で、その先に見える橋が稲荷橋。橋の左に見える朱色の玉垣の向こうに半分だけ見えているのが湊神社。奥へ向かっている船は弁才船から受け取った荷を橋の向こうに見える河岸蔵に配送する瀬取船で、『川の合流点の感じをうまく出している。』といい、湊神社は『江戸でも有数の古社で、江戸湾から都市へ入る入口を守る神としてことのほか重要であった』とも、述べています。

『帆柱の様子から、和船の帆装に使う装置の知識が、ある程度得られる。』そうですが、和船に詳しい方の話として、正確に描いていないところがあると紹介しています。

最近朝日新聞に連載されている『広重の描いた江戸 名所百景はいま』では、手前の船は樽回船で、関西から運ばれてくる『下り酒』が届いた様子としています。先ほど通った新川公園周辺も酒蔵が立ち並んでいましたから、江戸の人々はよっぽど酒が好きだったんですね。

名所東京百景『鉄炮洲稲荷橋湊神社跡』(令和三年(2021年)三月 春の部)名所東京百景『鉄炮洲稲荷橋湊神社跡』(令和三年(2021年)三月 春の部)

かつての八丁堀が正面に見える付近まで進んでみましたが、すでに埋め立てられているので、あまり面白い絵になりません。そこで南高橋の上から亀島川の上流を眺めてみました。

亀島川の手前の方は河口で広がっていますが、奥の方はほぼ八丁堀と同程度の幅です。現在川の廻りに立ち並ぶのは高層ビルですが、かつての八丁堀の周囲は河岸で河岸蔵が立ち並んでいたのです。

鉄砲洲稲荷神社鉄砲洲稲荷神社

移転した鉄砲洲稲荷神社を覗いてみましょう。南高橋を渡ったすぐ先にそれは立っています。

川辺からここに遷座したしたのは明治元年(1868年)だそうです。関東大震災では大きな被害を蒙りましたが、昭和10年(1935年)以降に本殿や神楽殿が再興されたそうです。

鉄砲洲冨士鉄砲洲冨士

境内には区内唯一の富士塚があります。寛政2年(1790年)に築造されて人気を集め、『江戸名所図会』や広重の『絵本江戸土産』では本殿より大きく描かれているので、当時はかなりの威容を誇ったのでしょう。現在のそれはだいぶ小さいですが。

そうそう八丁堀ですが、八丁堀と言えば『八丁堀の丹那』ですよね。江戸時代初期の八丁堀は寺町でしたが、人口の増大により城下の拡張が行われ、ほとんどの寺は移転させられ、茅場町から八丁堀一帯に江戸町奉行配下の与力・同心が集められ、与力・同心組屋敷の町が作られました。与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆でした。

中央大橋のザッキン中央大橋のザッキン

鉄砲洲稲荷神社の参拝が済んだら、中央大橋を渡って石川島に向かいます。

中央大橋の東側の中央部付近にはオシップ・ザッキン作の『メッセンジャー』像があります。説明書きによると、パリのセーヌ川は隅田川の友好河川で、友好締結の際に当時パリ市長だったジャック・シラクから寄贈されたものだそうです。ザッキンはレオナール・藤田とも交流があり、日本贔屓だったようですからそれで選ばれたのでしょうか。

それにしてもこの像、なんで向こう向いているのさ。ザッキンって恥ずかしがりやじゃないと思うけどね。

メッセンジャーが見つめる隅田川メッセンジャーが見つめる隅田川

メッセンジャー君はこの風景を見たかったのかな。。

大川端リバーシティ21大川端リバーシティ21

石川島に入ります。石川島は隅田川の中州が起源で、元々は佃島とは別の島でしたが、現在はこの2つはくっついていて、住所は中央区佃で石川島の名称は公園や施設に残るだけです。

中央大橋の袂から入る石川島公園はかつては自転車で走れたのですが、いつからか自転車乗り入れ禁止になっていたので、これはパスし、超高層マンションの大川端リバーシティ21の足下を通って佃公園に入ります。佃公園は佃島ではなく石川島にあります。

佃公園佃公園

佃公園は隅田川に沿って細長いのですが、それが佃島の北に廻り込むと、池があるこんなスペースになります。賑やか過ぎず、寂し過ぎずでちょうど良さそうです。

江戸時代、ここには人足寄場がありました。人足寄場は無宿者の収容や犯罪者の更生を主な目的とする人足寄場と呼ばれた収容施設で、いわゆる牢屋ではなく、もちろんここは島流しの場所でもありません。これは火付盗賊改方の長谷川宣以(長谷川平蔵)が松平定信に提案し、寛政2年(1790年)に設置されたものです。火付盗賊改は町奉行所の中のいわば地検特捜部のような役職でした。療養所を備えた更正施設であり、職業訓練所でもあったのです。

その後、黒船来航を発端に西洋式軍艦の整備を図る必要性から、水戸藩の徳川斉昭が嘉永6 (1853) 年に造船所を開設し、これが石川島播磨重工業 (IHI ) の工場に発展しました。IHIが移転した跡地に現在の大川端リバーシティ21が立っているのです。

石川島灯台石川島灯台

佃公園の南西端には江戸時代にあった灯台が再現され立っています。

これは人足寄場奉行の清水純畸(しみずじゅんき)が船の航行のために慶応2年(1866年)に築かせた常夜灯で、当時は六角形で二層からなるものだったようです。その資金は人足寄場のきつい労働であった『油しぼり』の益金を割いたもので、近在漁師はこの灯台の完成をとても喜んだそうです。『油をしぼられる』という言葉は、このきつい労働から来ているらしいです。この灯台の灯は人足寄場で『絞り上げた』油だそうです。

灯台の再現はいいとして、それが公衆トイレってのはね〜

これから小さな運河に見える佃川支流に架かる橋を渡って佃島に入ります。この写真の右下に見える赤い鳥居が佃島の住吉神社です。

ハクモクレンハクモクレン

ハクモクレンがいい感じ。

佃煮の天安佃煮の天安

さて、佃島です。

佃島は江戸湾に浮かぶ砂州のようなものだったようで、そこを埋め立てて島にしたそうです。徳川家康が江戸に入るのに合わせ、大阪の佃村の漁民がやってきて住み着き、漁業を始めたそうです。

天安の佃煮天安の佃煮

佃といえば佃煮です。佃島には現在も佃煮を製造販売するところが数軒あり、其の前までやってくると、なんとも言えない甘ったるい匂いがします。

冷凍やフーズドライがなかった時代に佃煮は保存食として、とても重宝されました。しかし保存という目的ばかりでなく、佃煮にするとその食材が本来持っている以上のおいしさになりますから、どうぞ試してみてください。昔は甘辛いだけの佃煮でしたが、最近は様々な改良が施されていると見え、甘さもしょっぱさも押さえられたものが出ています。

佃煮をゲットしたサリーナとマージコ佃煮をゲットしたサリーナとマージコ

マージコはホタテ貝のひもを、サリーナはアサリをゲット。

酒のさかなに、ばっちぐ〜〜

住吉神社住吉神社

佃煮をゲットしたら住吉神社にお詣りします。

住吉神社は大阪の佃村から漁民がやってきた時に分社され、ここにあるのです。

名所江戸百景『佃しま住吉の祭』(安政四年(1857年)七月 春の部)名所江戸百景『佃しま住吉の祭』(安政四年(1857年)七月 春の部)

前にも言いましたが、当時の佃島の周囲は海でした。築地八町堀日本橋南絵図を見るとわかりますが、北斎の冨嶽三十六景『武陽佃嶌』を合わせて見ると、よりイメージできるでしょう。

絵は、中央にデンと『住吉大明神』と書かれた幟。その向こうの海の中には大勢に担がれた神輿。彼方の山は房総半島。

ヘンリー・スミス(前掲書)によると、祭りは大阪からここに移住したことを祝うもので、三年ごとに執り行われており、神輿は島をぐるりと一周して住吉神社に戻ってくるそうですが、この水渡御は昭和時代に廃止されたそうです。右にちょっとだけ見えている赤いものは祭り用の提灯で、実際は格子模様の屋根の下にいくつか並んでいるようです。幟の文字を書いた整軒宮玄魚は広重の友人で、のちに名所江戸百景の目録を手がけることになる梅素亭玄魚のことだと。

八角形の神輿八角形の神輿

水渡御の神輿は八角形をしており、これは現在もこの住吉神社にあります。

天保9年(1839年) 芝大門の万屋利兵衛製作で、水の中を行くためか内部も漆塗りになっているそうです。

佃川支川佃川支川

住吉神社の周囲にある佃川支川は江戸時代からのもので、このすぐ先は海でした。

水渡御はなくなりましたが三年ごとに行われる例大祭は現在も続き、上の絵に描かれた大幟の柱とそれを支えるための抱木(だき)は、劣化を防ぐためにこの佃川支川に埋められています。

名所東京百景『佃島住吉神社横の祭』(令和三年(2021年)三月 春の部)名所東京百景『佃島住吉神社横の祭』(令和三年(2021年)三月 春の部)

そこを神輿を担いだつもりで、ワッショイ!

漁船が浮かぶ佃川支川漁船が浮かぶ佃川支川

佃では今でも漁がやられているようで、佃堀に漁船が数隻停泊していました。

江戸時代から架かっていた佃小橋を眺め、佃島をあとにします。

名所東京百景『月島から隅田川対岸の築地を見る』(令和三年(2021年)三月 春の部)名所東京百景『月島から隅田川対岸の築地を見る』(令和三年(2021年)三月 春の部)

新しく埋め立てられた月島に入ります。新しくとは言っても今から100年以上前のことですが。隅田川は年々堆積する土砂により船舶の往来が困難となっていました。 そこでこれを浚渫しその土砂で島を造る計画が明治25年(1892年)に作られました。こうして月島や勝どきができたのです。

隅田川の対岸は築地で、写真の左から1/4ほどのところに、かつては西本願寺(現 築地本願寺)本殿の大屋根が見えていました。

名所江戸百景『鉄炮洲築地門跡』(安政五年(1858年)七月 秋の部)名所江戸百景『鉄炮洲築地門跡』(安政五年(1858年)七月 秋の部)

築地は埋め立てて築いた土地という意味で、驚くことにここは、明暦の大火(1657年)の際に焼失した浅草御門の南にあった西本願寺の代替地として、佃島の住人によって造成されたものだそうです。

この絵は鉄炮洲の湊神社から1kmほど南へ移動した地点で、遠くに見える大屋根は西本願寺本堂。画題の築地門跡はその尊称だそう。画面中央付近で石垣が切れていますが、その右側が明石町で、これは現在も地名として残っています。その手前に見える二列の石積は砂や波を避けるためのもの。帆掛け船が行き交う中、釣りをする人や投網を打つ人が描かれています。

我らがヘンリー・スミス(前掲書)は、広重がこれを描いた時、西本願寺はまだ普請中だったに違いないと言っています。西本願寺本堂はこの絵が出版される二年前の安政三年(1856年)に暴風雨で倒壊、再建の完成は1860年なのです。広重のこの絵は完成予想図?

さて、この絵の外題を良く見ると、いつもの『名所江戸百景』ではなく『江戸百景餘興』とあります。餘興? この『餘興』が付くのはこの絵の他にもう一枚あります。スミス氏は『餘興』についていくつかの考えを述べた後、最終的には『文字通り「余分」の売り物として遊びの気分で出されたものであろう』としています。『そうはいっても手前の2枚の帆には、布目摺が丹念に施されている』と、絵の仕上の丁寧さについて述べています。

西中橋から月島川の南を望む西中橋から月島川の南を望む

月島を出て勝どきとの間にある月島川沿いを行きます。先ほど述べたように月島も勝どきも新たな埋め立て地ですから、この月島川も新しいものです。現在は運河状ですが元々は海で、周囲が埋め立てられて残った水面というわけです。

100年とちょっと前はまだモータリゼーションが起こる前なので、水路は重要だったに違いありません。しかし運輸と漁業以外の水路の利用はまだあまり考えられない時代だったのでしょう。残念なことに護岸はコンクリートでただ固められただけです。

晴海トリトンスクエア晴海トリトンスクエア

勝どきからは晴海通りを行き、朝潮運河を渡り晴海に入りました。晴海の埋め立てが完了したのは昭和4年(1929年)です。

すぐ左手に現れるのは巨大開発のトリトンスクエア(平成13年/2001年開業)です。晴海は島全体がほぼ超高層ビルで埋め尽くされており、街が成立しにくいのですが、ここだけはブレイクされたスケールで、いつも賑わいがあるところです。

晴海トリトンスクエア3階からの眺望晴海トリトンスクエア3階からの眺望

トリトンスクエアの3階からの眺めです。

左右に朝潮運河、まっすぐ先に延びるのが月島川。右手が月島で左手が勝どきです。

朝潮運河沿いのデッキ

朝潮運河沿いには広いデッキが設けられ、ここは気分良く通行できます。

超高層マンション群超高層マンション群

晴海にはまず日本住宅公団の団地が出来ましたが、それ以外は東京国際見本市会場で時々イベントがあるくらいで、あまり足が向かないところでした。

国際航路専用の客船ターミナルである晴海客船ターミナルが1991年(平成3年)に完成しますが、これも用がありません。現在は超高層マンションがつくしんぼ状態。

島の東側には晴海臨海公園がありますが、ここ、上下二段で通路があるのに、どちらも歩行者専用で自転車走行禁止。どうなっているのかな〜って、ちょっと首をかしげます。計画と運用は一体でないとね。

だれもいない道を行くだれもいない道を行く

つくしんぼは一年延期になった東京オリンピックの選手村に当てられる予定ですが、現在はだれも住んでいないのでほとんどゴーストタウンと言って良い状態です。

ご覧の通り、広い道を行く車も皆無。昔なら暴走族が喜んでやってきたと思われる環境ですが、今はそうした『族』もいませんから、静かなことこの上なし。

ゴーストタウンゴーストタウン

ごく稀に見掛けるのは、誰も乗っていない路線バスとパトカー。

いや〜、ここ、本当にシュールですわ。

晴海客船ターミナル晴海客船ターミナル

晴海客船ターミナルはコロナのため閉鎖されています。ここもまた誰もおらずでなんとも言えない感じ。

その先にあった晴海ふ頭公園はオリンピックの選手村関連施設として使用されたのち、リニューアルし再開園される予定ですが、現在は一切立ち入りできない状態で、どうなっているのかもわかりません。

朝潮小橋から見る勝どきの巨大タワマン朝潮小橋から見る勝どきの巨大タワマン

戻って朝潮小橋で勝どきに渡ります。この朝潮小橋も自転車走行禁止。

勝どきは銀座から2kmに満たない立地にもかかわらず、1940年(昭和15年)に勝鬨橋が架かるまで橋がありませんでした。そして2000年(平成12年)に勝どき駅が開業するまでは電車もなかったので、工場や倉庫ばかりでした。しかし近年は急速にこうした施設の超高層マンションへの建て替えが進んでいます。

だれだったか言ってましたよね。大きいことはそれだけで悪だ!

築地大橋築地大橋

勝どきを通り抜けて、築地大橋(2018年/平成30年完成)で築地に渡ります。

築地大橋は外堀通りを新橋、豊洲を抜けて有明の湾岸道路まで繋ぐ計画の環状2号線が隅田川を跨ぐ橋です。当初計画では隅田川を地下トンネルで抜ける計画でしたが、築地市場が豊洲に移転することとなったこと踏まえ、橋に変更されたのです。現在は築地市場跡地内の工事が遅れているため、暫定開通です。

東京タワー方面東京タワー方面

その築地大橋から東京タワー方面を眺めたところです。中央に東京タワーがあるのですが、他のビルに埋もれそうです。

手前の森は浜離宮。右が汐留。左は浜松町。一番左の黄色い船があるところが竹芝桟橋。

築地市場跡地築地市場跡地

環二通りの向こう側に築地市場の跡地が見えてきました。さすがに天下に知れた築地市場の跡だけあり広大そのものです。

ところがこの跡地の利用問題がなんともはっきりすっきりしません。どうなるんだか。

名所江戸百景『芝うらの風景』(安政三年(1856年)二月 冬の部)名所江戸百景『芝うらの風景』(安政三年(1856年)二月 冬の部)

広重はこのあたりを『芝うらの風景』として描いています。これは名所江戸百景のなかで最初に出版された五枚のうちの一枚です。

右手に描かれているのは今の浜離宮庭園で、当時は浜御殿と呼ばれた将軍の別荘です。手前左と中景に描かれているのは、浅瀬で船が安全に航行できる水路を示す澪標(みおつくし)。遠景には造られたばかりの台場(砲台)がいくつかと、高輪から品川にかけての海岸線。愛嬌ある鳥はユリカモメ。

ヘンリー・スミス(前掲書)によると、ここにはすでに『近景の一部を大写しにして遠景と対比させるという工夫』が現れているといいます。しかしそれは『まだ完全に自分のものになっていない。』と。確かにこれは『鉄炮洲稲荷橋湊神社』や『佃しま住吉の祭』と比べると一目瞭然です。

二つの澪標が連続しているもののように見え、さらに中景のそれとその右に描かれている船の大きさとは釣り合いが取れていないとも。広重の絵には遠近法の一つである透視図法的な描き方をしているものがかなりありますが、それが正確でないことは多々あります。

浜御殿の実際の石垣はまっすぐですが、ぎざぎざに描いたのは構図に変化を付けるためのようだと。

この絵の左下には彫師の『彫千』の名があります。これは名所江戸百景にあっては例外中の例外です。『彫千』の名が見えるものはもう二点ありますが、それらは絵の外の印で、絵の中にそれがあるのはこの一点しかありません。(『京橋竹がし』の『彫竹』は明示的ではない)

名所東京百景『芝浦の風景』(令和三年(2021年)三月 春の部)名所東京百景『芝浦の風景』(令和三年(2021年)三月 春の部)

浜離宮は昔とそれほど違わずにあると思いますが、ここも他の湾岸同様に竹芝桟橋など周辺が埋め立てられ、海は一体どこだ〜 状態。

大手門橋大手門橋

さて、浜離宮庭園に入ってみましょう。

その入口に架かるのは大手門橋です。江戸時代の大手門橋は木造で関東大震災で焼失したため、その翌年に石橋が架けられました。なかなか風格あるデザインです。

しかし、高速道路と超高層ビル群がすぐそこまで迫ってきています。

大手門大手門

大手門橋の先にあるのは大手門で、両脇には風格ある石垣が残っています。

この日はコロナで閉園でした。

大手門横の石垣大手門横の石垣

石垣の年代はわかりませんが、かなりきれいです。

しかしよく見ると、ちょっと隙間があったりぴたっとくっついていなかったりしていて、インカのそれには負けます。(笑)

築地場外市場築地場外市場

浜離宮庭園のすぐ横が築地です。卸売り市場は豊洲に移転しましたが、場外市場はそのままです。

しかし今日は日曜日なので営業している店は極僅かです。コロナもあっていつもならごった返している道もご覧の通り、閑散としています。まあ、いつも通りだったらここは自転車ではちょっと通れません。

築地本願寺築地本願寺

築地といえば、、、ここを忘れてはいけませんね。先ほど紹介した『鉄炮洲築地門跡』に描かれている西本願寺は関東大震災では地震による倒壊は免れたものの、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失します。

現在の築地本願寺は1934年の竣工で、インド風、ヨーロッパ調、日本風・・・ この奇妙な建物の設計者は橿原神宮や湯島聖堂を設計した伊東忠太。

空飛ぶライオン空飛ぶライオン

天使のライオン?

築地本願寺内部築地本願寺内部

外観に比べると内部はおとなしいですが、パイプオルガンが設置されていたりと、やっぱりどこか普通じゃありません。

早咲き桜早咲き桜

外には親鸞上人がお立りになり、その横で早咲きの桜が咲いていました。

歌舞伎座歌舞伎座

さて、築地はおしまいにして銀座に参りましょう。

歌舞伎座は近年超高層ビルになりましたが、外観は前作を踏襲しており以前とまったく同じに見えます。

銀座四丁目交差点付近銀座四丁目交差点付近

日本の顔の一つ、銀座四丁目交差点にやってきました。銀座は容積率の見直しで大幅に床を増やせるようになり、現在建て替えがあちこちで行われています。

もう少し経つと、見知ったビルは服部時計くらいしか残っていないかもしれません。

空が狭くなった銀座空が狭くなった銀座

空が狭くなった銀座です。

銀座コリドー通り銀座コリドー通り

銀座通りを南西に進んで行くと高速道路にぶつかります。そこが中央区と港区との境です。

高速道路に沿う道は急なカーブを描きつつほぼ直角に曲がり、御門通りから銀座コリドー通りへと変わります。

みゆき通りガード下みゆき通りガード下

その銀座コリドー通りはみゆき通りにぶつかって終わります。そこから西を見ると、高速道路、横須賀線、東海道新幹線、東海道本線などのガードが連続します。

この先右にカーブして続く高速道路の下は江戸城の外濠でした。その外濠は一方は私たちが今通ってきた銀座コリドー通りを通り新橋方面へ、もう一方はこのガード下を通って内堀とを繋ぐ内山下堀になっていました。ガードの左には山下御門があり、そして今私たちが立っているところは山下町といいました。参照:古地図 with MapFan

名所江戸百景『山下町日比谷外さくら田』(安政四年(1858年1月)十二月 春の部)名所江戸百景『山下町日比谷外さくら田』(安政四年(1858年1月)十二月 春の部)

山下町は外濠の外側でしたから町屋が多かったようです。日比谷は現在の有楽町1丁目と日比谷公園の間にあった日比谷門の周辺。外桜田は桜田門周辺で、日比谷濠・桜田濠と外濠に挟まれた範囲。外桜田と日比谷には武家屋敷が立ち並んでいました。外濠の内側と外側とではまるで違う景色だったのです。

絵は泰明小学校の正門あたりから日比谷方面を眺めたもの。濠は外濠が山下御門で折れ曲がって内山下濠になり、さらに正面の赤い門、松平肥前守・佐賀鍋島藩上屋敷(現 日比谷公園)のところで右に折れ曲がったところです。右手の石垣は牧野越中守・笠間藩上屋敷(現 日比谷シャンティから東京ミッドタウン日比谷あたり)。外桜田永田町絵図 御江戸大名小路絵図

空には凧が揚げられ、羽子板と羽根突きの羽根が見えます。よく見れば左の手前にあるのは門松です。お正月! うっかり見落とすところでしたがこの門松の影、現在帝国ホテルが立つところには白河藩の屋敷がちょこっとだけ見えています。

ヘンリー・スミス(前掲書)は、『江戸のまちにおける威風堂々とした大名の構えと町人の遊びの軽妙洒脱さを対比して目を楽しませてくれる。』と述べています。

名所東京百景『内幸町日比谷有楽町』(令和三年(2021年)三月 春の部)名所東京百景『内幸町日比谷有楽町』(令和三年(2021年)三月 春の部)

泰明小学校の正門あたりから眺めてもガードが映るだけなので、ガードをくぐって日比谷側に出てみました。一見レンガ造風のガードには『山下橋架道橋』とあります。

左に見えるのが白河藩の屋敷だった帝国ホテル、突き当たりの緑が日比谷公園で元の佐賀鍋島藩上屋敷。右手の塔がある宝塚のビルはちょうど内山下堀だったところで、そのさらに右手が笠間藩上屋敷あたりです。やはり現代でもこちら側は大きなビルが多いようです。

泰明小学校泰明小学校

さて、ここで外濠の外に戻りましょう。(笑)

なんとそこには中央区立泰明小学校があります。これ、現役の小学校ですから驚きです。超高層ビル群の中に低層の小学校、それも1929年(昭和4年)築の校舎です。太陽の塔の小型版はまぎれもなく岡本太郎の作で『若い時計台』。 

数寄屋橋交差点付近数寄屋橋交差点付近

さて、ここからは外堀通りを北へ向かいます。外堀通りは江戸時代には江戸城の外濠だったことは述べましたが、そこには当然橋が架かっていました。

当時の切絵図(地図)築地八町堀日本橋南絵図を見ておきましょう。この図を90°反時計回りに回転さすと、ほぼ現代の地図の向きとなります。元のままの向きで説明すると、一番上に左右に延びているのが外濠で、左の方に上の図の視点付近の山下御門が見えます。その右の数寄屋橋御門は今日の数寄屋橋交差点付近です。

外濠から京橋川が別れていた地点外濠から京橋川が別れていた地点

さらに右に行くと外濠から京橋川が別れていて、そこに比丘尼橋が架かっています。今日、京橋川は外濠同様に完全に埋め立てられ、その上には高速道路が通されています。

ここが『びくにはし雪中』で描かれたところです。写真は絵とは逆に数寄屋橋側から鍛冶橋側を望んだところです。

名所江戸百景『びくにはし雪中』(安政五年(1858年)十月 冬の部)名所江戸百景『びくにはし雪中』(安政五年(1858年)十月 冬の部)

江戸名所百景は基本的には初代歌川広重の手によるものですが、その死後出版されたものが三点あり、この絵もそのうちの一つです。この絵には二代広重の手が加わっているとする説や、初代広重以外の作とする説もあります。名作だとする方もいますが、私には絵の手前のがらんとした空間や、どことなく雑に感じる描き方がどうも一流の描き手のものとしてはふさわしくないように思えます。この絵はどこか不安定さを感じさせるのです。

さて、画題の通りにこの絵は雪の絵で、描かれているのは比丘尼橋です。最近は東京ではほとんど雪を見なくなくなりましたから、この絵は一瞬どこを描いたものだろうと思ってしまいましたが、今から半世紀ほど前までは、このあたりでも雪が20〜30cm積もることはそう珍しくありませんでした。この絵は比丘尼橋の右に外濠が見えるので、北の鍛冶橋側から南の数寄屋橋側を描いたものであることがわかります。濠の向こうに見えるのは江戸城の石垣でしょう。

手前左の大きな看板の『山くじら』は猪の肉のことで、ここはその鍋を食べさせた店らしい。右手の『○やき 十三里』の○やきは丸焼きの意で、十三里は、栗(九里)より(四里)美味い十三里(9+4=13)という洒落で、売られていたのは焼き芋。十三里は店の名で、これはまた、今でもサツマイモの産地として知られる川越までの距離だとか。この店は橋番(橋の警備や清掃ををする番人)の番屋と見る向きもあるようです。当時の橋番は副業として日常雑貨などを売ったりしていたようで、寒い冬の日には、焼き芋はぴったりだったのかもしれません。

橋に向かって天秤棒で箱を担いでいるのは『おでん燗酒屋』だか総菜を売って歩く『煮売り屋』だか。先に見える火の見櫓は数寄屋橋のあたりに立っていたようです。

名所東京百景『びっくりはし無雪』(令和三年(2021年)三月 春の部)名所東京百景『びっくりはし無雪』(令和三年(2021年)三月 春の部)

戦後の復興事業の一環として道路を造るために、京橋川が完全に埋め立てられてなくなってしまったのは1959年(昭和34年)のことで、すでに60年以上が過ぎました。

今ではここで焼き芋を売る人はいませんね。

京橋の中央通り京橋の中央通り

比丘尼橋からは外堀通りを外れ京橋方面へ向かいます。新橋も京橋も現在は地名として一般には知られているでしょう。しかしこれらは元々はそこに橋が架かっていたのです。

現在の中央通りが京橋川を跨ぐところに架かっていたのが京橋でした。

京橋の親柱京橋の親柱

京橋は1875年(明治8年)に江戸時代の木造の橋より石造アーチ橋へと架け替えられました。

その石橋の親柱が中央通りの歩道に残されています。大きくて立派です。

名所江戸百景『京橋竹がし』(安政四年十二月(1858年1月) 秋の部)名所江戸百景『京橋竹がし』(安政四年十二月(1858年1月) 秋の部)

満月の夜。川は京橋川で、手前に大きく描かれているのが東海道で日本橋の次に架かる京橋。奥は中ノ橋で、東にあたる下流側を見ています。左手、川の北側に見えるのが竹河岸。

京橋川は徳川家康の入府後、最初に行われた天下普請で外濠と共に開削された水路でした。このあたりには、薪河岸、大根河岸、白魚河岸などたくさんの河岸がありました。その一つが建築資材や正月の門松、七夕飾りなどに使う竹を扱う竹河岸で、この絵ではかなり大げさにそれが描かれています。これらの竹は千葉県や群馬県などから筏などで運ばれたようで、河岸の横にそれを運んだのだろう筏が浮かんでいます。

京橋の欄干には擬宝珠(ぎぼし)が見えます。当時このあたりで擬宝珠が付けられたのは江戸城の各御門橋以外は日本橋とこの京橋だけだったそうですから、この橋がいかに重要なものであったかが伺えます。

ヘンリー・スミス(前掲書)は、京橋の下を行く荷足船(にたりぶね)に積まれているのは竹籠と見て、近所に竹細工の店があるらしいと述べています。橋の上には、大山帰りで大森名産の麦わら細工の纒(まとい)を担いでいる大山講中の人々が見えます。この写真では分からないと思いますが、中央より少し左の人物が持つ赤提灯には『彫竹』と書かれています。彫竹は彫師の横川彫竹(よこがわ ほりたけ)のことで、この人は当時もっとも有名な彫師の一人だったそうです。

浮世絵は絵師、彫師、摺師の共同作業で、絵師の名は画中によく出てきますが、彫師と摺師の名はそれほど多くは見られません。特に名所江戸百景では彼ら名がわかるのはこの絵を除けば『彫千』の名が認められる3点だけです。スミス氏は、彫竹の名が小さく隠し入れられる程度に押さえられてしまったのは、画面をできるだけすっきり整えようとする版元の方針にちがいない、としています。

極めて色数を限定したこの絵は、じっくり見れば見るほど、その世界に吸い込まれて行きそうです。この絵を見ると『びくにはし雪中』とはまったく異なる密度と気品を感じます。

名所東京百景『京橋中央通り』(令和三年(2021年)三月 春の部)名所東京百景『京橋中央通り』(令和三年(2021年)三月 春の部)

現在は竹がしはもちろん、広重の時代を忍ばせるものは何も見当たりません。

ただ高速道路を挟んだ北側に、『京橋大根河岸青物市場蹟』という碑が立っているだけです。

京橋の桜京橋の桜

その大根河岸の碑の横に咲いていた桜。

照明付き親柱とガス灯照明付き親柱とガス灯

歩道の東側には1922年(大正11年)に設置された照明付きの親柱1基が残されています。その横はガス灯で、シェードは復元ですがその他はオリジナルだそうです。

今日は晴れ予報でしたが、ほとんどお天道様は顔を見せず、気温は何と8°C止りで、ちょっと寒い日になりました。都心のポタリングコースは寒い冬の日用として前々からいくつかストックするように心がけていましたが、最近、広重どんのお世話になるようになってからはそのコース作りが楽になりました。都心は景色がいいところや走って快適なところというのが少ないので、何か良い切り口を見つけないと楽しいポタリングにするのが難しいですが、強力なそれができたのです。『名所江戸百景』は119景ありますし、広重どんはその他にも江戸の町をたくさん描いているので、今しばらく楽しめます。

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