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江戸城のお濠ぐるぐる 名所江戸百景11

開催日 2021年03月20日(土)曇り/11-18°C
参加者 マージコ/サリーナ/サイダー
総合評価 ★★
難易度
走行距離 23km
地域 首都圏
東京都

大手門前のサリーナとマージコ
大手門前のサリーナとマージコ

コース紹介

江戸城のお濠巡りを。かつて江戸城は複雑に張り巡らされたいくつもの濠に取り囲まれていました。現在は埋められてしまったところもありますが、そのお濠を巡り、同時に、歌川広重の名所江戸百景から13景を訪ねます。桜巡りも。

動画(07'07" 音声:BGMのみ)

地図:GoogleマップgpxファイルGARMIN ConnectRide With GPS

発着地 累積距離 発着時刻 ルート 備考
大手門 START 発09:40 内堀通り 大手濠、桔梗濠、桔梗門、蛤濠、
坂下門、二重橋濠、正門、二重橋
桜田門 1.7km 着10:00
発10:05
桜田通り 外桜田門、凱旋濠、桜田濠
名所江戸百景『外桜田弁慶堀糀町』
霞ヶ関 2.3km 着10:10
発10:15
一般道 名所江戸百景『霞かせき』
憲政記念公園 3.2km 着10:25
発10:35
内堀通り 日本水準原点
櫻の井
国立劇場 4.3km 着10:45
発10:50
内堀通り 三宅坂、桜田濠、柳の井
名所江戸百景『糀町一丁目山王祭ねり込』
半蔵門 4.6km
5.2km
着10:55
発11:05
内堀通り
千鳥ヶ淵
半蔵濠、千鳥ヶ淵
服部半蔵の屋敷が近くにあったことから名付けられた
靖国神社 7.0km 着11:25
発11:40
外堀通り 桜の標本木
田安門、牛ヶ淵、清水門、清水濠、竹橋
平川橋 9.0km 着11:50
発11:50
外堀通り 平川橋
和田倉橋 10.1km 着12:00
発12:05
日比谷通り 和田倉濠、馬場先濠、日比谷濠
日比谷公園 11.2km
12.0km
着12:10
発13:00
園内路
一般道
日比谷茶廊
西新橋交番前 12.8km 着13:05
発13:05
一般道 虎ノ門ヒルズ、蕎麦屋『砂場』
名所江戸百景『愛宕下藪小路』
虎の門二丁目西 13.1km 着13:10
発13:15
外堀通り 名所江戸百景『虎の門外あふひ坂』
山王日枝神社前 14.3km 着13:20
発13:25
外堀通り 名所江戸百景『赤坂桐畑』
赤坂見附 14.4km 着13:30
発13:30
外堀通り 名所江戸百景『赤坂桐畑雨中夕けい』/二代目広重
弁慶濠
紀伊国坂 15.3km 着13:35
発13:35
外堀沿い 名所江戸百景『紀の国坂赤坂溜池遠景』
市ヶ谷橋 16.9km
17.5km
着13:45
発14:10
外堀沿い 名所江戸百景『市ヶ谷八幡』
市ヶ谷亀岡八幡/金刀比羅宮、外堀
元町公園 21.0km 着14:35
発14:40
本郷通り 名所江戸百景『水道橋駿河台』
神田明神 22.3km 着14:50
発15:00
本郷通り 名所江戸百景『神田明神曙之景』
絵本江戸土産 五編『神田明神の社
昌平橋 23.0km 着15:05
発15:10
一般道 名所江戸百景『昌平橋聖堂神田川』
絵本江戸土産 五編『昌平橋聖堂
万世橋 23.4km 着15:20
- 名所江戸百景『筋違内八ツ小路』
絵本江戸土産 五編『筋違八ッ小路
旧万世橋駅/マーチエキュート神田万世橋/2013年開業
日の入り17:41/名所江戸百景:地図Wikipedia国会図書館デジタルコレクション江戸切絵図江戸城三十六見附江戸名所図会古地図 with MapFan今昔マップ江戸百景めぐり錦絵でたのしむ江戸の名所浮世写真家 喜千也の『名所江戸百景』

およそ二ヶ月半に及んだ新型コロナウイルス感染症緊急事態宣言の二回目は明日解除されます。しかしどうも今一つ遠出をする気分ではありません。そこで今回も前回に引き続き、近場のランデヴープロジェクトとしました。都心も都心、皇居を取り巻くお濠をぐるりと巡ってみようというものです。

江戸時代、現在皇居があるところには江戸城が立っていました。江戸城は長禄元年(1457年)に太田道灌によって築城され、その後、これを大永4年(1524年)以降に北条氏下の遠山氏が改修します。江戸時代に徳川家康により大改修が行われ、家光の時代に私たちが良く知る江戸城が完成します。

大手門と大手濠大手門と大手濠

江戸城には門がたくさんありましたが、いわゆる正門に当たるのは大手門です。そこでその大手門を今回の出発地に選びました。

江戸城は関東大震災(1923年/大正12年)で大きな被害を受け、さらに東京空襲(1945年/昭和20年)によって焼失します。現在の大手門は1963年(昭和38年)に木造によって復元再建されました。

大手濠の桜大手濠の桜

今日はお濠巡りなので、分かる範囲でその名称をお伝えします。ご存知の方も多いと思いますが、江戸城の濠は大きくは、江戸城近くを取り巻く内濠とその外側にある外濠とに分けられます。まず内濠から行きます。

大手門の北にあり竹橋まで続く濠は大手濠です。その大手濠は桜並木です。今年の都心の桜は3月14日に開花が宣言されました。それからちょうど一週間で、かなり開花が進んでいます。

江戸城のお濠図/現地案内板(千代田区)より江戸城のお濠図/現地案内板(千代田区)より

大手門の前に具合の良いことに、お濠がよくわかる図があったので拝借してここに掲載させていただきます。

中央部の赤丸が現在地の大手門で、薄紫色のところが内濠です。その外側を取り巻くようにしてある、紫色の縁取り線で囲まれたところが外濠で、その東部、南部、西部は現在は埋め立てられ存在しません。そして北部は神田川と呼ばれており、その末端は江戸の東を流れる隅田川に注いでいます。隅田川は南下し最終的に江戸湾に注ぎます。

桔梗濠の白鳥桔梗濠の白鳥

大手門から南に延びる濠は桔梗濠。

ここには白鳥がいました。この白鳥、どうやらここで飼われているようです。

桔梗濠と巽櫓桔梗濠と巽櫓

桔梗濠に沿って内堀通りを南へ行くと道脇は緑の新芽がきれいな枝垂柳。

その先に巽櫓が見えてきます。

巽櫓巽櫓

巽櫓の名は本丸から見て東南(辰巳)の角にあることから名付けられたようです。

隅角に造られた現存する唯一の隅櫓で、桜田二重櫓とも呼ばれます。関東大震災で損壊したため、解体し復元されたものです。現在の江戸城の遺構にはこうしたものが結構多いのです。

桔梗門桔梗門

巽櫓でお濠は90°向きを変えます。その先の突き当たり右手にあるのが桔梗門で、これは内桜田門とも呼ばれています。

桔梗門の名は門の瓦に太田道灌の家紋がである桔梗が付いていたことからとされます。

桔梗門付近の桜桔梗門付近の桜

桔梗門の内側は三の丸で、鬱蒼とした森の中にきれいな桜の木が一本。

蛤濠蛤濠

桔梗門からお濠は蛤濠になります。そしてまた90°曲がります。

先に見えるのは坂下門です。

坂下門坂下門

坂下門を入ると西の丸で、その坂下にあったことからこの名が付いたようです。

『桜田門外の変』は有名なので誰でも知っていると思いますが、『坂下門外の変』は学校で習ったでしょうか。この事件は桜田門外の変の2年後に起こります。またしても水戸の仕業です。1862年(文久2年)に尊王攘夷派の水戸浪士がここで老中安藤対馬守信正を襲撃し、負傷させたのです。安藤対馬守は直弼の開国路線を継承し、尊王攘夷派の幕政批判をかわすため公武合体政策を取り、皇女和宮の将軍家茂への降嫁を推進しました。これが原因で襲われることとなったとされます。

さて、坂下門から南のお濠は現在は二重橋濠と呼ばれています。ここでちょっとした事件が起きました。坂下門から二重橋の近くまで進んだのですが、そこに二重橋前の見張所から警察官が出てきて、自転車は進入禁止だから出て行けと言うではありませんか。えっ、たった今通ってきた坂下門にも警察官がいたのですが、そこでは何にも言われなかったけどな〜 まあ、そうは言ってもダメだと言われたら出て行くしかありません。ということで、な、なんと二重橋の写真はなし。二重橋は有名なので検索すればいくらでも情報がでてくるでしょうから、ま、いいか。

外桜田門外桜田門

ということで外桜田門にワープ。(笑)

外桜田門は現在は単に桜田門と呼ばれることが多いと思いますが、江戸時代には桔梗門が内桜田門とも呼ばれていたことから、こちらは『外』が付けて呼ばれていたようです。名の由来はこのあたりが桜田郷と呼ばれていたことによるようです。

坂下門のところで触れたように、ここで安政7年3月3日(1860年3月24日)雪の日、雛祭りの総登城を狙って、水戸藩からの脱藩者らが大老井伊直弼を襲撃、暗殺しました。

名所江戸百景『外桜田弁慶堀糀町』
名所江戸百景『外桜田弁慶堀糀町』
(安政三年(1856年)五月 夏の部)
名所東京百景『外桜田桜田堀糀町』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

外桜田門の外側の濠の呼び名は東が凱旋濠、西が桜田濠。広重はここから西を見た絵を描いています。画題の弁慶堀は今日の桜田濠を指しています。

左に見える赤い門は暗殺された井伊直弼の屋敷、つまり彦根藩井伊家の上屋敷です。この絵は『桜田門外の変』が起こる4年前に描かれているので、絵と事件とは関わりがありません。井伊家の向こう側は田原藩三宅家の上屋敷で、その前は現在も三宅坂と呼ばれています。そのさらに向こう側は明石藩松平家の上屋敷で、右端の火の見櫓は定火消御屋敷。この火の見櫓のすぐ先が半蔵門です。ちなみにこれら井伊、三宅、松平の各屋敷は現在はそれぞれ、憲政記念公園、最高裁判所、国立劇場になっています。

井伊家の表門の外に三つの釣瓶が見えます。これは『櫻の井』で、少し移動しましたが憲政記念公園の中にあります。道は現在の内堀通りで、その先、左にカーブしているところに見えるのは『柳の井』で、これはそのままの位置で現在もあります。

法務省旧本館赤れんが棟法務省旧本館赤れんが棟

内堀通りの向こう側を見ると法務省旧本館の赤れんが棟が見えます。明治28年(1895年)に司法省として竣工。設計はドイツ人のベックマンとエンデです。この建物は戦災で一部を残し焼失しますが、その後復旧工事が行われ、平成6年(1994年)の改修工事で創建当時の姿に復原されました。

この奥には弁護士会館がありますが、そこは江戸時代は名奉行として知られる大岡越前守忠相の屋敷でした。なるほど〜、という感じですね。

名所江戸百景『霞かせき』
名所江戸百景『霞かせき』
(安政三年(1856年)五月 夏の部)
名所東京百景『霞ヶ関』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

広重は霞ヶ関を一枚描いているのでそのあたりを見てみましょう。その前に霞ヶ関の名ですが、千代田区の解説によると、中世ごろこのあたりに関所が置かれていたと言われていることから来ているそうです。

霞ヶ関一丁目の交差点にやってきました。江戸時代の切絵図の外桜田永田町絵図を見てみましょう。右上に櫻田御門と書かれているのがわかるでしょうか。そこから南へ下った最初の交差点に今私たちは立っています。

現在の霞ヶ関は中央官庁街ですが、江戸時代は広壮な諸大名の屋敷が立ち並んでいました。ここは東に向かって穏やかに下る霞が関坂です。絵を見ると、広重の時代はここから江戸湾が見えたようですね。遠方のやや左に見える大屋根は築地本願寺だそうで、『今とむかし廣重名所江戸百景帖』(暮しの手帖社)は広重の写生が正確であると言っています。

ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)は、この絵は新年であると言い、めでたい点景や人物の様子として、朱に染まる東の海、空に上がる凧、右に半分だけ描かれた門松などを挙げています。右手の建物は福岡藩黒田家上屋敷(現 外務省-憲政記念公園)だそうなので、今私たちが立っているところよりもう少し上から描かれたようです。

憲政記念公園の桜憲政記念公園の桜

霞が関坂を上って行くと突き当たりに憲政記念公園があり、そこに白い桜が咲いていました。オオシマザクラ?

北側の憲政記念公園北側の憲政記念公園

憲政記念公園は国会議事堂に向かう道の両側二箇所に別れていて、彦根藩井伊家上屋敷はこのうちの北側のそれになります。そこにも桜が。

憲政記念公園のソメイヨシノ憲政記念公園のソメイヨシノ

こちらはソメイヨシノでしょう。満開!

桃

これは桃でしょうか。

日本水準原点日本水準原点

憲政記念公園には日本水準原点があるので寄ってみました。現在はGPSがあるので簡単に高さの計測できますが、昔は高さを計るのはかなり難しかったのです。日本の土地の高さは、東京湾の平均海面を基準としていますが、一々それを測るのは大変なので、これを地上に固定するために設置されたのが日本水準原点です。

このローマ調の建物の中に、高さの基準を示す水晶板が埋込まれた船形台石があります。現在の日本水準原点の標高は24.3900mです。

一等水準点一等水準点

日本水準原点の周囲にはいくつもの一等水準点があります。これらは通常の計測時と日本水準原点のチェックのために使われたようです。

櫻の井櫻の井

彦根藩井伊家上屋敷の門のすぐ外にあった『櫻の井』は現在はここに移動され、外側の石の囲いだけが残っています。

広重は東都名所外桜田弁慶堀桜の井でこの井戸周辺を描いており、江戸名所図会『櫻の井』からも当時の様子がわかります。

『柳の井』あたり『柳の井』あたり

内堀通りに戻って半蔵門方面へ向かいます。その途中、道端に『柳の井』の解説板がありました。お濠端に現在もそれはあるのですが、そこは立ち入り禁止ゾーンで道路からはちらっとしか見えません。

江戸名所図会『柳の井』で様子がわかりますが、井戸のすぐ横に柳の木があったようです。

名所江戸百景『糀町一丁目山王祭ねり込』
名所江戸百景『糀町一丁目山王祭ねり込』
(安政三年(1856年)七月 夏の部)
名所東京百景『糀町一丁目神幸祭中止』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

三宅坂を上って最高裁判所の横を通り国立劇場の前に出ました。お濠は桜田濠(江戸時代は弁慶濠)ですがそれはこのカーブの先の右手にある半蔵門で終わります。

広重の絵は日枝神社の山王祭の様子を描いたもので、これは今日まで続いています。日枝神社は太田道灌が江戸城を築城するにあたり、川越日枝神社を勧請したことに始まるようで、徳川家康が城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守としました。旧暦6月15日の大祭である山王祭は江戸三大祭の一つで、山車、練り物、神輿が練り歩き、半蔵門から江戸城内に入り上覧するというものでした。

この絵はヘンリー・スミス(前掲書)によれば、『麹町一丁目から、門を通って城内へねり込もうとする決定的瞬間』で、遠景に見えるのは南伝馬町の山車で、山王の神の使いである猿を象どったもの。手前に見えるのは大伝馬町の諌鼓鳥(かんこどり)といわれる山車だそうですが、実際の順番は諌鼓鳥が先とのこと。これはそうした方が図柄的に優れていると広重が考えて、順序をあえて逆にしたのだろうと。

国立劇場前の桜国立劇場前の桜

国立劇場の方に目をやると、その入口の桜は満開。

国立劇場前の桜その2国立劇場前の桜その2

ソメイヨシノだと思いますが、木によってはまだほとんど咲いていないものもあるのに、これは早いですね。

国立劇場前のピンク色の桜国立劇場前のピンク色の桜

その横にはピンク色が強い桜も咲いています。

国立劇場前のピンク色の桜その2国立劇場前のピンク色の桜その2

こちらはまだ蕾が残ってはいますが、ほぼ満開といってもいいでしょう。

半蔵門より桜田濠を見る半蔵門より桜田濠を見る

国立劇場の桜に満足したら半蔵門に上ります。半蔵門は、服部半蔵の屋敷が近くにあったことから名付けられたそうです。

その半蔵門から桜田濠を見返るとこんなふう。お濠が残り、三宅坂もあるのですが、さすがにこの絵から江戸時代の風景は思い描けませんね。

半蔵濠半蔵濠

半蔵門の北は半蔵濠になります。

千鳥ヶ淵交差点の菜の花千鳥ヶ淵交差点の菜の花

その半蔵濠は千鳥ヶ淵交差点までで、そこから北は千鳥ヶ淵です。

しかし江戸時代にはこの交差点から東に延びる道はなく。現在の半蔵濠と千鳥ヶ淵は一体でした。

千鳥ヶ淵沿い千鳥ヶ淵沿い

千鳥ヶ淵は桜で有名ですね。

千鳥ヶ淵の桜千鳥ヶ淵の桜

こんな満開の木がありました。

今日は曇りなのが残念ですが、これはかなり見応えがあります。

千鳥ヶ淵沿いその2千鳥ヶ淵沿いその2

ここは内堀通りが別に通っているので交通量が少なく、かなり快適に走れます。

木々も季節により様々な表情を見せて目を楽しませてくれます。

千鳥ヶ淵のサリーナとマージコ千鳥ヶ淵のサリーナとマージコ

千鳥ヶ淵と言えばボートが出ている絵がよくありますが、この日はまったく見当たりませんでした。コロナ休業でしょうか。

ここでかなりあやしいおじさん発見。(笑)

千鳥ヶ淵の桜その2千鳥ヶ淵の桜その2

いわゆる桜の千鳥ヶ淵はこのあたりなのですが、ここはまだ1分から2分咲きといったところ。

モクレン咲く千鳥ヶ淵沿いモクレン咲く千鳥ヶ淵沿い

赤いモクレンもいい感じ。

靖国神社靖国神社

千鳥ヶ淵の北で九段坂に出ると、道の向こうに靖国神社があります。

標本木標本木

この時期の靖国神社は桜で知られます。何と言ってもここには桜の標本木があるのです。あの開花宣言をするのに観察される木です。靖国神社のこのソメイヨシノは1966年から55年間も標本木を務めています。

ところで標本木ですが全国には58本あるそうですよ。

靖国神社の桜靖国神社の桜

これは標本木ではありませんが、すでに満開です。

千鳥ヶ淵末端と田安門千鳥ヶ淵末端と田安門

九段坂を下り千鳥ヶ淵の末端が見えると、その先には田安門が立っています。

近くの桜は水面近くまで枝を伸ばし、なかなかいい感じです。

清水濠と清水門清水濠と清水門

田安門の東は牛が淵で、これは昭和館のところで折れ曲がり南東に向かいます。すると清水門が現れます。

先ほどの田安門とこの清水門は徳川御三卿と呼ばれた大名家である田安徳川家と清水徳川家の屋敷に繋がる門です。御三卿は徳川将軍家に後嗣がない際に将軍の後継者を提供する役割を担っていました。そんなわけで江戸城のすぐ横に広大な屋敷が与えられたのです。この屋敷跡は現在は北の丸公園となっており、日本武道館などが立っています。

御三卿のもう一つは一橋徳川家で、最後の将軍である慶喜を輩出しました。この屋敷は一ツ橋の南東にあり、現在は気象庁や消防庁などになっています。

竹橋竹橋

清水門の南は清水濠で、これは竹橋まで続きます。

その竹橋が見えてきました。竹橋の先には竹橋門があり、天守の北にある北桔梗門に繋がっていました。

平川橋平川橋

内堀通りは竹橋で大きくカーブし、東に延びていきます。ほどなく平川門と平川橋が現れます。古くはこのあたりに平川が流れ、平川村があったことから名付けられたようです。

この内濠に架かる橋は慶長19年(1614年)に架けられました。当時は江戸城三の丸の正門で、徳川御三卿の登城口でした。現在の橋は昭和63年(1988年)に架け直されたものです。

東の大手濠側から平川橋を望む東の大手濠側から平川橋を望む

平川橋は現在は公開されている皇居東御苑に繋がっているのですが、この時はコロナ閉園中で渡ることはできませんでした。ということで、内濠の中のさらなる内濠には辿り着けませんでした。(泣)

その内側の濠には、天津濠、平川濠、乾濠、蓮池濠などがあります。

和田倉橋和田倉橋

内側がだめなら外側に向かいましょう。大手門の南にある桔梗濠は途中で東に分かれ和田倉濠になります。ここから外堀です。

そこに架かるのが和田倉橋で、この先には和田倉門がありました。現在の橋は昭和25年(1955年)に竣工した三代目です。

東京駅東京駅

和田倉濠に沿って日比谷通りを南に向かいます。すると左に東京駅が見えます。

現在は東京駅から皇居に向かって広い行幸通りが通っていて、和田倉濠にも立派な橋が架かっていますが、江戸時代には行幸通りも和田倉濠を渡る橋もありませんでした。

日比谷通り日比谷通り

そういえば、このあたりも超高層ビルで埋められてきました。かつては後ろに見える煉瓦色の東京海上ビルディング(1974年/昭和49年完成)しかありませんでした。それも皇居を見下ろすとは何と言うことかとかなんとかで、当初計画の高さ128m、30階建を100m、25階に変更せざるをえませんでした。

この計画に反対していたのが当時の佐藤栄作首相で、17階建のホテル・ニーオータニと同じ高さなら、ということだったようでが、自民党のご意見番で副総裁の川島正次郎の案として、足して二で割る案が出され、これが採用されたそうです。その後この地区の建築の高さは100mが不文律となったのです。それが今は200mの時代。

日比谷公園の桜日比谷公園の桜

さて、お濠ですが、馬場先濠の突き当たりには日比谷門がありました。これは現在の日比谷公園の北東端あたりになります。ここで馬場先濠は90°向きを変え桜田門へ向かいます。またここからは外濠とをつなぐ内山下濠が別れていました。この内山下濠は泰明小学校のところで外濠に合流します。外濠の一部は『ツール・ド・中央区 名所江戸百景9』や『ツール・ド・中央区 Part2 名所江戸百景10』で巡ったので今回は省略します。

ということで、ここから日比谷公園に入ります。ここを公園として残した明治政府は偉い、と思ったのですが、どうやら始めは他のところと同様に官庁の建設が予定されたようです。しかしここは元々日比谷入江と呼ばれたところで地盤が悪かったため、最終的に公園になったようです。1902年(明治35年)着工。

日比谷公園の噴水日比谷公園の噴水

そのころの日本では公園の設計は行われておらず、せいぜい寺社の境内だった上野公園や芝公園などを公園化する程度でした。日本において一からの公園設計はこの日比谷公園が初と言って良いと思います。私たちが時々利用するレストランの松本楼は開園の同年にここに出店しているといいますから、ちょっとびっくりです。

噴水の先、右手に見えるのは帝国ホテル、左手は日生劇場が入る日本生命日比谷ビル、その向こうのタワーは東京宝塚劇場が入る東京宝塚ビル。

名所江戸百景『愛宕下藪小路』
名所江戸百景『愛宕下藪小路』
(安政四年(1857年)十二月 冬の部)
名所東京百景『愛宕下虎ノ門ヒルズ』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

さて、泰明小学校あたりの外濠は、一方は東京駅方面に、もう一方は新橋駅方面に続いていました。新橋駅方面のお濠は新橋駅のすぐ北で汐留川と繋がっていました。汐留川はこの上流にあった溜池からの流れで、江戸時代に人工的に開削されたもので外濠の一角を成していました。そしてこの近くには桜川と呼ばれる小さな川がありました。

現在虎ノ門ヒルズが立つあたりにその桜川は流れていたようです。広重はここを雪景色として描いています。右の流れが桜川。正面は南にある愛宕山で、現在そこには愛宕神社があり、その先にはあの東京タワーが立っています。今はもう愛宕神社も東京タワーも見えませんが。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、先に見える赤いところが愛宕山権現社の門で、手前の竹薮は江戸の名所の一つで当時の人々なら誰でもこの場所がわかるそうです。画題の薮小路はこの竹薮にちなんだ名だそうですが、絵には登場していないと。

名所江戸百景『虎の門外あふひ坂』
名所江戸百景『虎の門外あふひ坂』
(安政四年(1857年)十一月 冬の部)
名所東京百景『虎の門外あふひ平』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

虎ノ門ヒルズから虎ノ門病院方面に向かうと、ビルの中に金刀比羅宮の鳥居が見えて来ます。かつてこのあたりには大きな溜池がありました。現在の溜池山王の地名はここから来ていると思われます。

広重はその溜池から流れ落ちる堰を描きました。流れ落ちた先が外濠です。左に描かれた道が画題となっている葵坂ですが、これは溜池が埋め立てられたときに削られ、今は平らになり虎ノ門病院の前を通っているそうです。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、絵は極寒の夜だと。確かに。この絵を見るとその寒い夜に不釣り合いな手前の裸の二人の男に目が行ってしまいます。それぞれの手には『金比羅大権現』の提灯。この二人は四国丸亀藩京極家上屋敷にあった金比羅様にお参りに行った帰りで、この神社は毎月10日に一般に公開されていたそうです。年季奉公の職人たちが極寒の夜に神社や寺にお参りに行き、水垢離をとって修行の上達を祈るのは当時良く行われた習慣だと。

うしろに見える二つの屋台は、そばと『天平しっぽく』をたべさすものだそう。『しっぽく』は長崎の和風中華料理で大皿に盛られた料理を各々が自由に取り分けて食べるものですが、この卓袱料理の中に、大盤に盛った麺(そうめん、またはうどん)の上にいろいろな具をのせたものがあったようで、これを江戸のそば屋が真似した『しっぽくそば』というのがあったようですから、きっとこれでしょう。

江戸には野良犬が多くうろついていたといい、奥に見える榎は左手後方にある榎坂の名の由来の木で、右上は山王権現(現 日枝神社)らしいです。

名所江戸百景『赤坂桐畑』
名所江戸百景『赤坂桐畑』
(安政四年(1857年)十一月 冬の部)
名所東京百景『赤坂花水木』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

虎ノ門病院から外堀通りに出て、溜池の交差点を経て日枝神社前に出ます。

かつて溜池は赤坂見附からこの日枝神社の前を通り虎ノ門まで続いていました。絵の左のこんもりした山が日枝神社でその下に見える建物はその別当寺です。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、広重の時代には桐畑(きりばたけ)と言えばこの溜池の南岸一帯を指したそうです。池の中に見えるぷちぷちは蓮だそう。暗い空に鮮やかな緑が映えます。

今日この溜池はすっかり埋め立てられて外堀通りになっています。絵の池はカーブしていますが、外堀通りもこの少し西で穏やかにカーブしています。

名所江戸百景『赤坂桐畑雨中夕けい』
名所江戸百景『赤坂桐畑雨中夕けい』
(安政六年(1859年)六月
名所東京百景『赤坂鉄畑曇中昼けい』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

カーブした外堀通りをさらに北へ行くと赤坂見附です。突き当たりの左右方向に高速道路が見えますが、あそこが赤坂見附の交差点で、右に行くと赤坂御門がありました。

絵には『二世廣重畫』の落款があります。名所江戸百景の中でこの一点だけが二代広重の作品であることが明示されています。溜池の突き当たりで右の赤坂門に上る坂道が描かれています。

初代広重が桐の木をクローズアップして描いたのに対し、二代目は桐畑を全体の景色の中にさりげなく置いています。初代の雨はかなり定評があるところですが、二代目のこの絵もしっとりとした情感を出すのに成功していると思います。黄色から明るい緑色、そして暗い空までのグラデーションによって空気感が出ているのも素晴らしいと思います。

しかし浮世絵は良く言われるように絵師、彫師、摺師の協力の賜物ですから、二代広重の力量についてはこの一枚の絵だけでは判断できません。この絵の素晴らしさは摺師の力量に負うところも大きいと感じますが、それでも二代広重の可能性を充分に感じさせてくれる作品だと思います。写真では判然としませんが、けぶったところには雲母が使われています。総力を挙げて二代目を売りに出そうとしたことが感じられます。

名所江戸百景『紀の国坂赤坂溜池』
名所江戸百景『紀の国坂赤坂溜池』
(安政四年(1857年)九月 秋の部)
名所東京百景『紀伊国坂赤坂首都高速』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

赤坂見附の交差点を突っ切って北へ進むと今日の弁慶濠に突き当たります。この弁慶濠に沿って紀伊国坂を上って行きます。弁慶濠は徐々に下に行き、高速道路の影でまったく見えなくなります。

紀伊国坂は紀伊徳川家上屋敷(現 迎賓館、赤坂御用地)の横であることから名付けられたようです。この辺りは茜が多く栽培されていたことから茜山と呼ばれ、その登り口の坂は『赤坂』と称したそうです。これが現在の赤坂の地名の由来で、赤坂はのちに紀伊国坂と呼ばれるようになったのです。

さて、この絵は紀伊国坂から上ってきた側を振り返ったものです。大名行列の一行が坂を上ってきます。よく見れば右端に火の見櫓が描かれていますが、これが紀伊徳川家のものでしょう。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、左の木立は山王権現(現 日枝神社)の杜で、その手前で濠の左にわずかに見える緑の部分は彦根藩井伊家中屋敷で現ホテル・オータニ。遠方に見える火の見櫓は溜池の南にあった定火消屋敷のもので現在はホテル・オークラが立っているところとしています。濠の畔の立て札は、宮尾しげおの説として『魚捕禁止の札』を紹介しています。へ〜、江戸時代は魚とっちゃいけなかったんだ。

喰違橋門跡から南を望む喰違橋門跡から南を望む

紀伊国坂の写真が広重の絵と似ていないのでもう一枚。弁慶濠の突き当たりで、紀尾井坂へ向かう喰違橋門跡から南を見たところです。

濠にボートが見えるでしょう。あれは釣りをしているのです。今はここで釣りしても良いのです。(笑)

外堀の内側の道外堀の内側の道

弁慶濠から北は真田濠でしたがこれは今日は埋められて、上智大学のグラウンドとして使われています。

ここからは外堀通りではなくお濠の内側の道を行きます。土手には桜が植えられ、なかなかいい感じです。土手上に上れば見晴らしが良く、素敵な気分になれます。

四谷門跡四谷門跡

四谷駅までやってくると、そこには江戸城の四谷門の石垣が残っています。

四谷駅付近のお濠跡四谷駅付近のお濠跡

さてこのあたりの外濠はどうなっているでしょうか。それはJRの総武線と中央線の線路になっていました。

四谷駅からもお濠の内側の道を進んで行きます。

名所江戸百景『市ヶ谷八幡』
名所江戸百景『市ヶ谷八幡』
(安政五年(1858年)十月 春の部)
名所東京百景『市ヶ谷隠れ八幡』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

前方が開けると市ヶ谷駅の前です。かつてはここに江戸城の市ヶ谷門がありましたが、現在それらしいものは何もありません。しかし外濠は復活し水が入っています。逆に言えばここが現在のお濠の末端であり、流れがほとんどないため水はきれいではありません。水がきれいならここには快適な親水空間ができたはずです。まあこれはお濠の他のところも似たり寄ったりではありますが。

広重はここで市ヶ谷門あたりからお濠の向こう側の高台にある八幡さまを描いています。その下に見えるのは門前町としての町屋のようですが、ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、この場所は歓楽街、遊興の地として全国にその名を知られたところだったそうです。

この絵は広重の死の翌月である安政五年(1858年)十月の改印がある3枚のうち1枚で、制作については二代目広重作説など、いくつかの説があります。

市ヶ谷八幡上り口市ヶ谷八幡上り口

今日、お濠の上の橋からは八幡さまはまったく見えません。八幡さま今でもあるのでしょうか。それともビルが建設されてなくなってしまったのでしょうか。

ビルとビルの間の細い道を入って行くと、その先にもの凄い角度で上って行く階段があり、その上に鳥居が立っています。

茶ノ木稲荷神社茶ノ木稲荷神社

この階段を上って行くと、まず茶ノ木稲荷神社があります。

最初はこれが八幡さまかと思ったのですが、さらに上に階段が続いています。鳥居も上にあるので、さらに上って行きます。

市ヶ谷八幡宮市ヶ谷八幡宮

鳥居をくぐると、八幡さまです。こんなところにひっそりと立っていたんですね。ビルに囲まれてしまわなければなかなかいいロケーションだと思いますが、現在のそれは・・・ちょっと寂しいです。

この周辺の町名は市ヶ谷八幡町です。この名前、ずっと守ってほしいですね。

飯田橋駅付近の桜飯田橋駅付近の桜

市ヶ谷八幡から再び外濠を渡り、その内側の道を東に進んで行きます。相変わらず土手上には桜の木が並んでいるのですが、どれも老木なので咲きが遅いものが多いようです。

それに比べ新しく植えられた道端の桜はもう満開です。

牛込門跡牛込門跡

飯田橋駅前の牛込橋までやってきました。

ここにはかつて江戸城の牛込門がありました。その石垣の一部が残っています。

牛込橋から外濠を見る牛込橋から外濠を見る

さて、外濠はというとここでぐっと幅を狭め、牛込橋の下を通って水道橋へと続いて行きます。

小石川橋より神田川上流を望む小石川橋より神田川上流を望む

この先はもうお濠とは呼べないしろものになります。だってこんなですよ。まあそれはさておき、このあたりからはこの流れを現在使われている呼称である神田川と呼ぶことにします。神田川も江戸城の外濠の役目を持っていたことは想像に難くありません。

ここは水戸藩上屋敷(現 小石川後楽園・東京ドームなど)から続く小石川橋で、小石川門がありました。江戸時代に江戸市中の飲料水を確保するため神田上水が開削されたことは良く知られていますが、その神田上水はこの少し上流で水戸藩上屋敷に送られ、その余水が飯田橋で神田川に流れ込んでいました。

そしてここで神田川から日本橋川が分流します。この日本橋川は現代ではほとんど忘れ去られようとしていますが、江戸時代は重要な流れで、もう一つのというか、本来のというかはともかく、外濠の一部を構成していました。この辺りの川の歴史を辿ると、平川は現在の日本橋川の流路を辿り日比谷入江に注いでいましたが、その下流域は洪水が多かったため、第二代将軍徳川秀忠は仙台藩の伊達政宗に命じ、この辺りから現在の神田川の下流に当たる部分を開削させ、日本橋川の上流端に架かる三崎橋付近から俎橋付近までの平川を埋め立てたのです。結果、日比谷入江付近の洪水は防止され、神田川の掘削土で海を埋め立てて土地を造成し、人口増加に対応したのです。さらに川運を利用した物資輸送を活発化させ、江戸城の北方に対する防衛をも強化しました。

現在の三崎橋から俎橋までの日本橋川は、明治時代に物資運搬のために再び開削されたのです。

水道橋水道橋

今回はその日本橋川沿いではなく神田川に沿って下ります。

ここは水道橋。江戸の北部の水を集め、水戸藩上屋敷内を通ってきた小石川はこのすぐ上流で神田川に流れ込んでいました。広重が描いた絵本江戸土産 五編『水道橋』はなかなか魅力的ですが、現在は周囲はビルに囲まれ、神田川の流れは相変わらずであまり褒められたものではありません。

神田上水懸樋跡碑神田上水懸樋跡碑

水道橋からは外堀通りに出てこれを東に行きます。

100mほど行くと神田川の畔に『神田上水懸樋跡』碑があります。神田上水はここで神田川を懸樋で渡り、神田の武家地、道三堀北側の大名屋敷、神田川北岸の武家地、神田川南岸の武家地及び町人地に給水していました。

名所江戸百景『水道橋駿河台』
名所江戸百景『水道橋駿河台』
(安政四年(1857年)九月 春の部)
名所東京百景『水道橋神田駿河台』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

神田上水懸樋跡碑からさらに東進すると、北側の少し高いところに元町公園があります。この公園に入ってみましょう。

広重はこのあたりから駿河台を眺めた名作を残しています。クローズアップされた巨大鯉のぼり。遠景に富士山、下に神田川。この絵は一度見たら決して忘れない類いのものでしょう。鯉のぼりの尾ひれのあたりに見える橋が水道橋で、懸樋は画面のすぐ左に架かっていたはずです。よく見れば鯉のぼり以外に吹き流しがあり、幟がたくさん立っています。右下には大きな兜を持つ子。端午の節句を描いたのでしょう。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、吹き流しや幟を飾るのは武士の家で、鯉のぼりはそれが許されなかった町民が代わりに用いたものだそうです。武家の端午の節句とそれを模倣した町人のそれとの対比が描かれていると。

神田明神随神門神田明神随神門

さて、鯉のぼりを眺めたら神田明神にお詣りしましょう。神田神社は日枝神社の山王祭同様、江戸三大祭りの神田祭で有名で、江戸の総鎮守社。

朱色に塗られた随神門は昭和50年(1975年)再建の総檜・入母屋造り。

神田明神拝殿神田明神拝殿

一方の拝殿は昭和9年竣工の権現造りで、当時としては画期的だった鉄骨鉄筋コンクリート造です。しかも伊東忠太、大江新太郎、佐藤功一といった錚々とした顔ぶれにより設計されました。

小屋組を鉄骨造として荷重を軽減し、木造に近いプロポーションの柱と梁を実現しています。

名所江戸百景『神田明神曙之景』
名所江戸百景『神田明神曙之景』
(安政四年(1857)閏五月 夏の部)
名所東京百景『神田明神昼之景』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

絵は神田明神の境内から東を望んだものです。ここが神社であることを示すものは右手に描かれた朱色の建物の一部と、神主と巫女ら神社関係者と見られる三人だけです。

東の空が赤みを帯びる早朝、三人は何を眺めているのでしょう。

現在、この絵の光景を目にすることはできません。境内の東から上ってくる男坂だけが、スペースを作ってくれており、ここが高台であることを感じさせてくれます。

湯島聖堂の練塀湯島聖堂の練塀

神田明神で曙を眺めたら坂道を下って秋葉原に向かいます。

そうそう、神田明神の前には湯島聖堂が立っています。その周囲は練塀(ねりべい)という、瓦と白漆喰を交互に積み上げた土塀が巡らされています。しかもここは坂道なので、練塀も段々になっています。

ここでマージコが、湯島聖堂と湯島天神は同じ? なんでここが湯島なの、湯島はもっと北の方じゃあないの? と聞くので答えますが、まず湯島聖堂と湯島天神はまったく別のものです。湯島聖堂は孔子廟です。そして二番目の問いですが、ここは湯島なんですよ。湯島は南北に長く、北は東京大学の下あたりから南はこの神田川まであるのです。湯島がもっと北じゃないかというのは、湯島天神が春日通り沿いにあるからではないでしょうか。

昌平橋上の総武線鉄橋昌平橋上の総武線鉄橋

昌平橋までやってきました。近年、秋葉原は大変革を遂げ、あの戦後のバラックを思わせるがちゃがちゃ電気街からまったく別の街になってきました。

しかしこの昌平橋の上の総武線の鉄橋だけは昔のままです。お〜、秋葉原〜

名所江戸百景『昌平橋聖堂神田川』
名所江戸百景『昌平橋聖堂神田川』
(安政四年(1857年)九月 夏の部)
名所東京百景『昌平橋隠れ聖堂神田川』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

絵は雨の神田川。広重の雨には名作が多いと思いますが、この絵もしっとりとした情感があります。緑が素晴らしいです。

手前に欄干だけが見えるのが昌平橋で、正面に見えるのは湯島聖堂の前の外堀通りの相生坂でしょう。お堂は描かれていませんが鬱蒼とした木立と白い段々の練塀が見えます。右手に見える舟が停まっているところは薪河岸とも呼ばれた昌平河岸。神田川の崖は急峻に描かれていますが、現在はそれほどでもなく、コンクリートで覆われてしまっています。

神田川は相変わらずのみすぼらしい流れ。その流れに沿って建物が立ち並んでいるので、現在はここから相生坂は見えません。

丸ノ内線・聖橋・センチュリー・タワー丸ノ内線・聖橋・センチュリー・タワー

横には中央線、上には総武線が通り、先には丸ノ内線。その向こうは放物線を採用した山田守の聖橋。一番向こうに見えるビルはノーマン・フォスターのセンチュリー・タワー。

ここにはアジアの混沌がありますねぇ。

万世橋より秋葉原を見る万世橋より秋葉原を見る

昌平橋の一つ下に架かる万世橋が本日の終点です。この通りは国道17号線の中山道。

向こう側は秋葉原の電気街ですが、秋葉原駅前の再開発によりだいぶ整理され、最近はこぎれいなビルも見掛けるようになってきました。でもまだあの秋葉原は残っているようです。

名所江戸百景『筋違内八ツ小路』
名所江戸百景『筋違内八ツ小路』
(安政四年(1857年)十一月 春の部)
名所東京百景『筋違内ニツ小路』
(令和三年(2021年)三月 春の部)

画題の筋違(すじかい)は地名で、これは日本橋からの道と本郷・下谷から神田に通じる道が交差する地点であることに由来します。奥州・日光・甲州街道、東海道、中山道など多くの街道が集まる場所で八ツ小路(八ツはたくさんの意)といわれました。この八ツ小路には筋違橋御門があり、万世橋の前身となる筋違橋が架かっていました。この橋は将軍が寛永寺に詣でる際に渡る橋でした。

絵は筋違橋御門前の八ツ小路を江戸城側から俯瞰したもので、緑色の柳原土手の向こうにたなびく雲の下が外濠(神田川)。中央の小屋は辻番所で、そのすぐ向こうで土手が切れているところに立つのは昌平橋の冠木門。その左は武家屋敷で、右奥の高台に見えるのは神田明神でしょう。広場の手前を行くのは大名行列。筋違御門は現在の昌平橋と万世橋の間にあり、画面のすぐ右あたりでした。右手前に見えるのはよしず掛けの茶屋のようです。

広重のこの絵を初めて見た時、この広さはデフォルメだろうと思ったのですが、当時の地図でこのあたりを見ると八ツ小路は相当広いスペースであることがわかります。そこは現在は神田郵便局やJRのビルなどで埋め尽くされてしまっており、線路前の僅かなスペースが残っているに過ぎません。

マーチエキュート神田万世橋マーチエキュート神田万世橋

かつてここには東京駅によく似た国鉄中央本線のターミナル駅、万世橋駅がありました。万世橋駅は赤煉瓦造りで、設計は東京駅と同じく辰野金吾。1912年(明治45年)に営業が開始されました。

しかしその後東京駅が完成し、1919年(大正8年)に万世橋駅 - 東京駅間が開通すると、万世橋駅は中央本線の起終点駅としての役目を終えます。関東大震災(1923年/大正12年)で駅舎が焼失し、その後簡素な駅舎が再建されますが、神田駅及び秋葉原駅が完成したことで利用者数が激減し、1943年(昭和18年)に実質上廃止となりました。交通博物館としての利用を経て、現在この万世橋駅の跡地は商業施設のマーチエキュート神田万世橋になっています。この中には旧万世橋駅のプラットホームがデッキとして整備されています。

マーチエキュート神田万世橋の神田川側マーチエキュート神田万世橋の神田川側

神田川はここから東進を続け、柳橋で隅田川に流れ込みます。この河口付近については『ツール・ド・中央区 名所江戸百景9』や『ツール・ド・中央区 Part2 名所江戸百景10』で巡っています。

さて、江戸城のお濠をぐるっと巡ったわけですが、やはり水の流れというのは基本的には魅力あるものだ感じます。しかしそれを生かすも殺すも人次第ですね。護岸を工夫して水質を改善し、ゴンドラでも浮かべれば東京もベネチアになります。あ、その前に日本橋の上をなんとかしなくちゃ。

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