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城北/名所江戸百景13

開催日 2021年05月03日(月)晴れ
参加者 サリーナ/サイダー
総合評価 ★★
難易度
走行距離 23km
地域 首都圏
東京都

玉川上水跡/新宿御苑北の通り
玉川上水跡/新宿御苑北の通り

コース紹介

歌川広重の名所江戸百景から城北エリアの7景を。『高田の馬場』、巨大な馬の尻『四ッ谷内藤新宿』、玉川上水の『玉川堤の花』、手拭いがぶら下がる『神田紺屋町』、『下谷広小路』、『上野山した』、桜満開の『千駄木団子坂花屋敷』。

動画(06'52" 音声:BGMのみ)

地図:GoogleマップgpxファイルGARMIN ConnectRide With GPS

発着地 累積距離 発着時刻  ルート 備考
小石川播磨坂 START 発09:10 一般道
西早稲田 3km 着09:25
発09:30
早稲田通り 名所江戸百景『高田の馬場』
絵本江戸土産 四編『高田馬場
穴八幡宮 5km 着09:35
発09:50
一般道 絵本江戸土産 九編『穴八幡
高田馬場の流鏑馬
西向天神社 6km 着10:05
発10:15
一般道 絵本江戸土産 九編『大久保西向天神
東大久保富士
内藤新宿 7km 着10:20
発10:20
一般道 名所江戸百景『四ッ谷内藤新宿』
絵本江戸土産 四編『四ッ谷大木戸内藤新宿
新宿御苑
旧新宿門
7km 着10:25
発10:30
一般道 名所江戸百景『玉川堤の花』
四谷大木戸跡 8km 着10:40
発10:45
一般道 四谷大木戸跡碑、水道碑記、玉川上水水番所跡
江戸名所図会 巻之三 第九冊『四谷大木戸
鎌倉河岸跡 14km 着11:15
発11:15
一般道 神田橋と常磐橋の間の北岸、中間に鎌倉橋
江戸城築城のための石材を陸揚げした河岸
神田紺屋町 15km 着11:20
発11:20
一般道 名所江戸百景『神田紺屋町』
於玉稲荷神社 16km 着11:30
発11:35
一般道
中央通り
お玉ヶ池跡
下谷広小路 18km 着11:50
発11:55
園内路
一般道
名所江戸百景『下谷広小路』
名所江戸百景『上野山した』
上野公園
不忍池
19km 着12:00
発12:50
一般道 NC CURRY
千駄木団子坂 21km 着13:00
発13:05
一般道 名所江戸百景『千駄木団子坂花屋敷』
絵本江戸土産 七編『千駄木団子坂花屋鋪
紫泉亭より東南眺望
九編『団子坂茶亭之図
御林稲荷神社 22km 着13:05
発13:10
一般道 千駄木御林があった
小石川播磨坂 23km 着13:20


日の入り18:22/名所江戸百景:地図Wikipedia国会図書館デジタルコレクション江戸百景めぐり江戸切絵図古地図 with MapFan錦絵でたのしむ江戸の名所浮世写真家 喜千也の『名所江戸百景』くずし字見ながら歴史散歩絵本江戸土産江戸名所図会

小石川播磨坂小石川播磨坂

名所江戸百景シリーズも13回目となりました。今回は私のデイリーコースの拡張版とも言えるもので、城北エリアを巡ります。今日は連休中なので都心の車はかなり少ないはずで、普段なら通り難い道もほとんど問題ないと思いますから、そうした大きな道も使ってみようと思います。

出発地は文京区小石川の播磨坂。

小石川播磨坂その2小石川播磨坂その2

桜の葉っぱの色はだいぶ深くなりました。花期が長いツツジはまだ花を咲かせていて目を和ませてくれます。

気温はすでに19°Cと高いのですが、湿度が低いのかスーっとして気持ちのいい朝です。

神田川と江戸川公園神田川と江戸川公園

小日向(こひなた)から神田川が流れる江戸川橋に出て江戸川公園をかすめ、椿山荘の横を通り、

グランド坂グランド坂

早稲田大学の間を行くグランド坂を上ります。

早稲田通りの東側から西早稲田交差点を望む早稲田通りの東側から西早稲田交差点を望む

すると西早稲田の交差点に出ます。突き当たったのは早稲田通りで、これを西へ行くと『高田馬場駅』に出ます。

高田馬場の名は東京に住むものなら誰でも知っています。JR山手線や西武線の駅名になっていますから。しかしそれが何を意味するかを知る人は少ないでしょう。馬場(ばば、ばんば)は乗馬を行うための土地であることは良く知られています。近世城下町では武家地に馬場があり、そこで城下に在住する武士が乗馬の訓練などを行っていました。

馬場があった北側の通り馬場があった北側の通り

1636年(寛永13年)、現在の西早稲田3丁目、ちょうど上の写真の正面に当たるところに、三代将軍徳川家光により馬術の訓練や流鏑馬のための馬場が造営されました。高田馬場の馬場はこれを指します。

それに『高田』と付けられたのは、その場所が家康の六男越後高田藩主松平忠輝の生母である高田殿(茶阿局)の遊覧地だったことから、とする説が有力です。赤穂浪士四十七士の一人である堀部安兵衛が伯父の仇を討った『高田馬場の決闘』の地としてもその名を知られます。

名所江戸百景『高田の馬場』(安政四年(1857年)二月 冬の部)
名所江戸百景『高田の馬場』
(安政四年(1857年)二月 冬の部)
名所東京百景『西早稲田3丁目サーキット』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

本日最初の名所江戸百景はこの高田馬場を描いたものです。

馬場で馬を走らす武士2人。右の3人は弓矢の稽古中で手前の大的を狙っています。ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)によれば、訓練用の矢先は通常布で覆われており、的に当たると跳ねて落ちるそうです。そのさらに手前にクローズアップされている松の木は、馬場の北側に植えられた風よけの一本だそう。快晴の空に上品なぼかしの冨士のお山。

馬場があったあたりの早稲田通り馬場があったあたりの早稲田通り

ちょっと脱線しますが、高田馬場の駅名の読みはたか『だ』ですが、史跡名としてはたか『た』と濁らないのが正しいようです。永井荷風は「秋葉ヶ原に停車場あり。これをアキハバラ駅と呼ぶ。鉄道省の役人には田舎漢多しと見えたり。高田の馬場もタカダと濁りて訓む」(「断腸亭日乗」大正15年(1926年)7月12日の項)と述べています。

馬場があったところの現在の町名は先に述べたように高田馬場ではなく西早稲田3丁目で、町名としての高田馬場はこれより西にあります。これはどうやら駅名から来ているようです。

穴八幡宮の一の鳥居穴八幡宮の一の鳥居

早稲田通りを南東に進むと諏訪通りと早大南門通りとの交差点に出ます。そこに穴八幡宮(あなはちまんぐう)が立っています。

この八幡さまは1062年(康平5年)、奥州の乱を鎮圧した源義家(八幡太郎)が凱旋の折りに日本武尊の例にならい、ここに兜と太刀を納めて氏神八幡宮を勧請し、東北の鎮護の社として創建されたそうです。

穴八幡宮の石垣穴八幡宮の石垣

穴八幡の名の由来は、このあたりにあった山裾を切り開いた際に見つかった横穴の中から金銅の神像が現れたことによるとされます。三代将軍家光はこの話を聞き、ここを幕府の祈願所、城北の総鎮護とします。

幕府の庇護を受けただけあり、この八幡さまはとても立派で、写真のような巨石が積まれた石垣もあります。

穴八幡宮の石段穴八幡宮の石段

穴八幡は尾州侯(びしゅうこう)戸山(とやま)の御館(おんやかた)の傍(かたわら)にあり、此のあたり植木屋(うえきや)多く、四季(しき)の花物(はなもの)絶(た)ゆることなし  --絵本江戸土産 九編『穴八幡--

とあるように江戸時代のここは、美しい花でいっぱいだったようです。

穴八幡宮の随神門穴八幡宮の随神門

道路に面した朱色の一の鳥居をくぐるとその先に石の二の鳥居があり、その先の石段を登って行きます。

すると朱色の随神門で、これをくぐると左手に鼓楼が見えます。

穴八幡宮の拝殿穴八幡宮の拝殿

正面の拝殿は格式の高い造りで、金の装飾で威厳を感じます。

境内の北東側には神輿蔵がずらり。

穴八幡宮の流鏑馬像穴八幡宮の流鏑馬像

8代将軍吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願のためこの八幡さまに流鏑馬を奉納したことにより、流鏑馬は今日まで伝わり、現在は毎年体育の日に戸山公園で開催されています。

諏訪通り諏訪通り

穴八幡さまにお詣りしたら諏訪通りに入ります。

戸山公園戸山公園

早稲田大学の戸山キャンパスが切れると、そこは戸山公園の入口です。

戸山公園は江戸時代には尾張藩徳川家の下屋敷でした。穴八幡のところで紹介したように、現在ここで年一回の流鏑馬が行われますが、その場所は写真の右手のアスレチック広場です。

西向天神社の鳥居西向天神社の鳥居

広い戸山公園を抜けて新宿方面へ南下して行くと、西向天神社があります。

道から少し上がったところに西向きに石の鳥居が立っています。

西向天神社の社殿西向天神社の社殿

神体(しんたい)右を向かせ給う故(ゆえ)にその名あり。傍(かたえ)不二(ふじ)の形(かたち)せし山(やま)にありて風景(ふうけい)面白(おもしろ)し  --絵本江戸土産 九編『大久保西向天神--

鳥居の先の石段を登った先の社殿も西を向いています。これは太宰府の方角を向いているのだそうです。

西向天神社の富士塚西向天神社の富士塚

絵本江戸土産にあるようにここには境内の南奥に富士塚があります。

敷地に段差があるため上からだとほんの頭の部分しか見えませんが、下から見上げるとそれなりに立派です。

ほとんど車が通らない新宿ほとんど車が通らない新宿

西向天神社にお詣りしたらさらに新宿方面に南下して行きます。新宿といえば車がわんさかで自転車ではもっとも走り難いゾーンの一つですが、驚いたことにこの日はご覧のとおり、ほとんど車の通りがありません。

新宿通りの新宿一丁目西交差点に出ました。新宿通りは旧甲州街道で、江戸時代、ここには甲州街道の一番目の宿場である内藤新宿(ないとうしんじゅく)がありました。

名所江戸百景『四ツ谷内藤新宿』(安政四年(1857年)十一月 秋の部)
名所江戸百景『四ツ谷内藤新宿』
(安政四年(1857年)十一月 秋の部)
名所東京百景『新宿通り新宿一丁目』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

でた〜〜ぁ! といわずにおれない一枚。馬のケツ、それに加えて馬糞まで書くとはなんと下品な。(笑) 事実この絵はそんな理由で非難するものが多いとヘンリー・スミス(前掲書)は述べています。

内藤新宿は新宿の名のとおり、それまで甲州街道の最初の宿であった高井戸までの距離が長過ぎたことから、浅草のおそらく吉原関係の町人によって設立申請されて新しく作られた宿でした。とどのつまりここは、初めから岡場所(色町)を念頭に作られたと言ってもよいようなところで、繁盛すれどもあまり上品でなく、いつまでたっても田舎臭さが抜けないところだったようです。

絵は内藤新宿の宿場内から東を見ており、先に見える森は玉川上水の水番所あたりとのことなので、この先に四谷大木戸があったはずです。江戸時代は町ごとに木戸が設けられ、自身番が警固していました。つまりここは江戸の西の玄関口でした。

7本の馬の足は草鞋を履き、その先に馬方の足も見えます。スミス氏はこの絵を西洋の遠近法の思想への冒涜(ケツの穴から描いているから?)としながらも、芸の巧みさを評価しないわけにはいかないと述べています。確かにこれはあっと驚く絵であることは間違いなく、スミス氏が言うには、たいへんうまく場所性を表しているそうです。明治時代になってからも文学上では新宿と馬糞はしばしば繋げられて語られていたという事実を含め、内藤新宿がどのようなところであったかはこの絵を見ればだいたい見当が付くというものでしょう。

新宿御苑旧新宿門新宿御苑旧新宿門

新宿一丁目西交差点の南には新宿御苑の旧新宿門があります。新宿御苑の大部分は江戸時代には信州高遠藩主内藤家の中屋敷でした。内藤新宿の内藤はここから来ています。

レトロなこの門はガチャゴチャな新宿には似つかわしくありませんでしたが、その新宿も最近はずいぶんきれいになってきており、いつの間にかすっかり周辺の風景の一部になった感があります。

玉川上水・内藤新宿分水散歩道玉川上水・内藤新宿分水散歩道

この旧新宿門が面する道はかつては玉川上水でした。

玉川上水は江戸の人口増加により神田上水では飲料用水がまかない切れなくなったため、1654年(承応3年)に開設された、多摩川の羽村堰から四谷大木戸(現在の四谷四丁目交差点付近)までの素掘りの水路です。全長は約43kmで、標高差はわずか約92mという極めて緩い勾配です。四谷大木戸から先、江戸市中へは土中埋設された木樋と石樋によって供給されました。

玉川上水を偲ぶ流れ玉川上水を偲ぶ流れ

現在新宿御苑に接する北側一帯は、気持ちの良い『玉川上水・内藤新宿分水散歩道』になっています。

この中を流れる水路は玉川上水を偲ぶ流れとして整備されたもので元々の玉川上水ではありませんが、なかなか良い雰囲気です。

名所江戸百景『玉川堤の花』(安政三年(1856年)二月 春の部)
名所江戸百景『玉川堤の花』
(安政三年(1856年)二月 春の部)
名所東京百景『玉川堤の花』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

この絵は玉川上水の末端である四谷大木戸付近を描いたものだそうです。ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、堤に沿って植えられた桜の木は美観を添えるだけでなく、根が堤を補強し、花びらと葉が持つ解毒作用で水を浄化するという実用的な一面も兼ね備えていたらしいです。花見に興じる人々。これはいつの時代でも同じですね。

左手に見えるのは内藤家中屋敷の西側にあった武家屋敷で、現在の新宿御苑の旧新宿門あたりが描かれているようです。玉川上水の右手は内藤新宿の花街の裏手で、建物の一室に客と赤い襦袢の飯盛女3人の姿が見えます。甲州街道の内藤新宿は、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光街道(奥州街道)の千住宿とともに江戸四宿と呼ばれました。この四宿はいずれも岡場所としても賑わたところです。内藤新宿が現在の新宿の地名の元になったことは言うに及びません。

玉川上水・内藤新宿分水散歩道北側の道玉川上水・内藤新宿分水散歩道北側の道

新宿御苑の旧新宿門から玉川上水・内藤新宿分水散歩道の北側に続く道で四谷大木戸方面へ向かいます。ここにかつて玉川上水が流れていたのです。

現在この左手は高層ビル群ですが、江戸時代だったら上に描かれているような花街の裏手が見えたことでしょう。

新宿御苑大木戸門新宿御苑大木戸門

道が左に急なカーブを描くと、そこに新宿御苑の大木戸門が現れます。先ほど見た旧新宿門と同じ時代に建てられたものでしょう。

旧新宿門のところは遊歩道になりその内側に新たな新宿門が造られましたが、この大木戸門は新宿御苑の現役の門として使われています。

水番所があった辺り水番所があった辺り

大木戸門のカーブを過ぎると新宿通りに出ます。そこに江戸時代、四谷大木戸がありました。この四谷大木戸については長谷川雪旦が描いた江戸名所図会『四谷大木戸』を見るとよくわかります。1792年(寛政4年)以降は木戸そのものは撤去されており、その両側にあった石垣だけが描かれています。三頭の馬が運んでいるのは市中で汲みとった下肥で、ここでも馬と糞が関連づけられています。

新宿通りを東へ向かうとすぐ四谷四丁目の交差点で、玉川上水の水番所はこの辺りにありました。この四谷水番屋では異物の監視等を行い、玉川上水の水質・水量を厳重に管理していたそうです。

水道碑記水道碑記

ここには1895年(明治28年)建立の水道碑記が立っています。

これは高さ4.6mもある石碑で、碑文は漢文なのでちょっとしか読めませんが、神田上水と玉川上水が造られた理由などが記されているようです。

四谷大木戸跡の碑四谷大木戸跡の碑

水道碑記のすぐ横には四谷大木戸跡と彫られた石碑があります。

四谷四丁目東交差点の新宿通り四谷四丁目東交差点の新宿通り

四谷四丁目からは新宿通りを東へどんどこ。

津之森坂入口交差点の新宿通り津之森坂入口交差点の新宿通り

この道は普段は車が多いので絶対に通らないのですが、この日はガラガラでまったく問題なし。

番町番町

四谷駅前を過ぎたところで『番町文人通り』に入りました。この道の界隈には明治から昭和にかけて、島崎藤村、泉鏡花、有島武郎、与謝野晶子・鉄幹、藤田嗣治などの多くの作家や芸術家が住んでいたことからその通称で呼ばれるらしいのですが、実際にこの通称を用いているのを私は聞いたことはありません。

まあそれはともかく、このあたりの番町は江戸時代も番町と呼ばれたところでした。将軍を直接警護する旗本を大番組と呼びますが、その大番組の住所があったことから番町と呼ばれたのです。大番組は一番組から六番組まであり、これが現在の一番町から六番町に引き継がれているのですが、江戸時代の大番組の番号と、現在の町目の区画は一致してはいません。

東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部庁舎)

番町文人通りからシフトして英国大使館の北側を通り、千鳥ヶ淵の交差点から代官町通りに入ります。吹上御所の北側を通り抜けて最初に目に入る建物は東京国立近代美術館工芸館です。

この建物は1910年(明治43年)に陸軍技師により建設された2階建煉瓦造の近衛師団司令部庁舎でした。煉瓦造のままでは現代に要求されるの耐震性能を満足させないため、壁の内側に鉄筋コンクリートの構造体を設ける改修工事が行われていますが、中央の階段回りとホール部分は、当時の姿を残していると言われています。

平川濠平川濠

東京国立近代美術館工芸館の向かいは江戸城の乾門で、その東に平川濠が見え出します。

平川濠の名はこのあたりに平川村があり平川が流れていたことによるそうです。

平川橋平川橋

竹橋を渡ると東に平川橋が見え出します。

平川橋と平川門平川橋と平川門

平川門は江戸時代には徳川御三卿の登城口でしたが、現在は通常は公開されている皇居の東御苑の入口となっています。しかし新型コロナウイルス感染症の影響で、ここのところずっと閉じられています。

一ッ橋一ッ橋

平川門で皇居の内堀を離れ外濠である日本橋川に向かいます。内濠と日本橋川の間に立つ、丸紅本社、大手町合同庁舎、東京消防庁あたりは、江戸時代は徳川御三卿の一角の一橋家の上屋敷でした。

その北側の日本橋川に架かる橋は一ッ橋で、ここにはかつて一ッ橋門がありました。

一ッ橋から鎌倉橋の間の遊歩道一ッ橋から鎌倉橋の間の遊歩道

今日の日本橋川は日本橋の上をはじめ、まったくもって見苦しい高速道路で覆われてしまっているのはご存知の通りですが、このあたりは都市計画変更で周辺の建替えが進み、外濠に沿って遊歩道が設えられ、なかなかいい感じになってきています。

鎌倉橋から北の外濠を望む鎌倉橋から北の外濠を望む

鎌倉橋を渡ってみます。普段なら死川である日本橋川をわざわざ見ることもないのですが、今日はあえてちょっと覗いてみましょう。どうです、この真っ黒い姿。残念ながらこんなで見るのもおぞましい姿をしています。

しかしここから高速道路を取り除いた川の姿を想像してみてください。そう悪くない空間がイメージできるでしょう。護岸をちょっと工夫すれば、東京もベネチアになれたのです。

鎌倉橋鎌倉橋

この鎌倉橋を中心とし、神田橋と常磐橋の間の北岸は江戸時代には鎌倉河岸と呼ばれていました。

鎌倉河岸の名は、江戸城築城のための石材を鎌倉から運び、ここで陸揚げしたことによるそうです。

神田駅南口ガード神田駅南口ガード

鎌倉河岸からいったん外堀通りに出て、すぐに神田駅の南口ガードをくぐり抜けると神田金物通りに入ります。中山道を渡ると北側は紺屋町(こんやちょう)です。

紺屋町は慶長年間(1596年-1615年)に徳川家康から関八州と伊豆の藍の買付けを許された紺屋頭が支配した町で、藍染職人が集住しました。

名所江戸百景『神田紺屋町』(安政四年(1857年)十一月 秋の部)
名所江戸百景『神田紺屋町』
(安政四年(1857年)十一月 秋の部)
名所東京百景『神田鍛冶町』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

遠景にはお決まりの富士山。屋根の上に設えられた木で組まれた背の高い物干し竿からぶら下げられた何枚もの布。右手の白地の手ぬぐいには名所江戸百景の版元である魚栄を意味するのだろう『魚』の文字が見えます。そのうしろにある『口』の中に『ヒ』は、ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、広重の象形印だそう。写真では判然としませんが、白地には布目摺りが施されており柔らかな印象です。

江戸時代にはその一帯で営まれていた職業の名がそのまま地名になることはかなり多かったのですが、広重の時代になるとこれらが一致することはすでに珍しかったそうで、幕末になると神田紺屋町は分化され、紺屋は50軒足らずになっていたようです。現在、ここには染め物屋らしきものはまったく見られません。それどころかビルで埋め尽くされていて空が狭く、ちょっとしたスペースが見られるのは学校の校庭らしきところだけでになっています。

首都高速と紺屋町の標識首都高速と紺屋町の標識

染物を染めるには大量の水が必要です。ここには幅一間ほどの川があり藍染川と呼ばれていたそうです。この川は内神田を流れ神田川に注ぎ込む短い流れで、上に首都高速道が通る昭和通りの紺屋町交差点の一本北側の道あたりを流れており、そこに藍染橋という名の橋が架かっていたそうです。

そうそう、『場違い』という言葉がありますが、江戸時代、浴衣や手拭いの大半が紺屋町で染められていた当時、ここ以外で染められた藍染めことを、江戸の人々がそう呼んだことに由来するという説があります。

岩本町岩本町

さて、このあたりにかつては不忍池ほどの池があったというところがあるので行ってみることにしました。

ここは神田の東隣の岩本町ですが、車っ気はおろか人気もなく、ちょっと不気味。

お玉ヶ池跡お玉ヶ池跡

果たしてその池の跡というところが見つかりました。

路地も路地、このスペースはいったいなに? というところに小さな碑が立っていました。池の名は『お玉ヶ池』。

於玉稲荷於玉稲荷

この碑のすぐ南に小さな於玉稲荷がありました。『江戸名所図会』巻之一 天枢之部『於玉ヶ池の古事』によれはこの稲荷には次のような伝説があるようです。

中世の奥州街道沿いにあった『桜が池』のほとりで茶屋の娘の玉という美しい女が2人の旅人の男に求婚されますが、どちらを選ぶか決めかねてついには池に身を投げてしまいます。村人たちは玉の霊を祠に祀り、池はいつしか於玉が池と呼ばれるようになりました。

この於玉稲荷神社は太田道灌が江戸城築造に際してその守護神とすべく1457年(長禄元年)に創建したものとも伝わります。安政二年の大地震火災で焼失し、明治四年に葛飾区新小岩に遷座しました。

秋葉原秋葉原

神田川を万世橋で渡ると秋葉原です。いや〜このガチャガチャ感はさすがです。しかし良く見ればむちゃくちゃな看板装飾もすべてビルの中、硝子の向こう側のものが多く、なんだかずいぶんと統一されてしまった感があります。この景色を見て、一昔前のごっちゃり感を懐かしむ方もいるかもしれませんね。

さて秋葉原ですが、これはなんと読むでしょう。アキハバラと読んだあなたは永井荷風によれは田舎漢ですな。(笑) 

上野の中央通り上野の中央通り

万世橋から秋葉原を抜けて上野のお山に繋がる道は中央通りと呼ばれます。

その中央通りをどんどこ行くと『広小路』に出ます。地下鉄銀座線の駅名に上野広小路駅があるので現在は上野広小路がその呼び名になりつつありますが、ここは単に広小路と呼ばれていました。

名所江戸百景『下谷広小路』(安政三年(1856年)九月 春の部)
名所江戸百景『下谷広小路』
(安政三年(1856年)九月 春の部)
名所東京百景『下谷広小路』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

上野は寛永寺の門前町として発展しました。明暦の大火以後の江戸にはあちこちに火除地(ひよけち)が作られ、現在の上野公園の入口から松坂屋に至る道路もその一つで、広小路と呼ばれました。これはまた将軍が寛永寺に参拝する際の御成道で、日本橋とともに江戸を代表する繁華街の一つでもありました。

広重がここで取り上げたのは江戸四大呉服店の一つである上野松坂屋です。遠方の源氏雲がかかるあたりが上野のお山。その下には不忍池から流れ出る小川に架かる三橋があります。そろいの日傘をさしてぞろぞろ歩いて行くのは、お稽古ごとの師匠に引率されて上野のお山に花見に行く女たちらしいです。その手前ではなぜかズボンを履いた武士の姿があります。ペリー来航が1853年(嘉永六年)で、広重がこの絵を描いたときにはすでに西洋式のズボンが世に出回っていたのかもしれません。

上野松坂屋上野松坂屋

上野松坂屋の歴史は1768年(明和五年)に名古屋の『いとう呉服店』が広小路にあった呉服店の松坂屋を買収し、『いとう松坂屋』としたのが始まりだそうです。

そのマーク『いとう丸』は、丸の中に「井桁」と「藤」を描いたもので、「井」+「藤」で「いとう」を表していると言います。これは広重の絵からほとんど変わっていないように見えます。

名所江戸百景『上野山した』(安政五年(1858年)十月 春の部)
名所江戸百景『上野山した』
(安政五年(1858年)十月 春の部)
名所東京百景『上野山した』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

広小路を北へ進むといよいよ上野のお山です。上野のお山の下は山下と呼ばれていました。

ここを描いた名所江戸百景の『上野山した』は富士塚巡り/名所江戸百景7で紹介しましたが、その時はより雰囲気が近いところということで、絵の視点とは別のところの現地写真を用いました。しかしやはりこの絵の視点が現在どうなっているのかをお伝えした方がよいと思い、ここに再掲載します。

この絵は画題のとおりに上野の山の下を描いたもので、ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、広小路にあった三橋のひとつを渡った辺りから北を描いたものです。ここは現在の位置でいうと、上野公園の南の入口(京成上野駅付近)のすぐ南にある動物園通りと広小路が交わるあたりです。当時から広小路は広く今日と同じくらいの幅があったようですが、現在この周囲にはビルが立ち並び、絵とはまるで雰囲気が異なります。

そろいの日傘は寛永寺に代参に行く御殿女中で、黒い石垣の手前は一階が魚屋、二階が料亭の伊勢屋。『志楚めし』(紫蘇飯)の暖簾が見えます。そのうち棟に描かれている雁にちなんだ料理を出すようになり、後に『雁鍋(がんなべ)』という名に替わり、幕末から明治にかけて人々が通う人気店になったようです。 夏目漱石の『虞美人草』、森鴎外の『雁』、正岡子規の『病寐六尺』にこの雁鍋が出てきます。また上野戦争の折にはこの店に新政府軍がたて籠り、二階から彰義隊を狙撃して勝利のきっかけとなったことでも知られます。

伊勢屋の奥に見える鳥居は五條天神社(当時は現在の場所ではなく、広小路の突き当たりに入口があった)で、その上に描かれた『すやり雲』の上に飛ぶのは黒い烏。

団子坂下団子坂下

上野公園、不忍池、根津そして谷中は他のペイジで紹介しているので今回は省略させていただいて、千駄木に飛びます。

千駄木は根津の北に当たり、古くは根津神社の旧地で元根津と呼ばれた地域です。千駄木といういささか不可解な地名ですが、この一帯は元々は『千駄木御林(せんだぎおはやし)』と呼ばれた林で、上野寛永寺の創建の後、徳川霊廟用の薪材の供給地として寄進されといいます。『駄』は馬に背負わせた荷物のことで、千駄木の名は、ここで一日に千駄の薪を伐り出したことにちなむそうです。

団子坂団子坂

都道452号神田白山線と不忍通りの交差点である団子坂下から団子坂を上ります。

東京はたくさんの山谷でできておりあちこちに坂道がありますが、この団子坂もその一つで、通常は比較的車の通りが多くて自転車では走り難いのですが、今日は問題なし。しかしちょっとハヒハヒしなければなりません。

団子坂は道沿いに団子屋が多かったためにそう呼ばれるようになったそうです。

汐見坂汐見坂

坂の上には植木屋が多かったようで、1856年(安政三年)、ちょうど広重が名所江戸百景を出し始めた頃に、染井から菊栽培の植木屋が移り住み、菊人形で知られる地となりました。この団子坂の菊は夏目漱石の『三四郎』や二葉亭四迷の『浮雲』など、数々の文学作品に登場しますから、かなり知られたところだったのでしょう。

団子坂は坂の上から江戸湾が見渡せたため汐見坂とも呼ばれたそうです。しかし今日このあたりで汐見坂と言えば、団子坂上から南に下る細い道を指します。おそらく現在の団子坂に団子坂の名が定着したため、汐見坂の名をこちらの道に与えたのでしょう。

名所江戸百景『干駄木団子坂花屋敷』(安政三年(1856年)五月 春の部)
名所江戸百景『干駄木団子坂花屋敷』
(安政三年(1856年)五月 春の部)
名所東京百景『干駄木汐見坂』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

このあたりに1852年(嘉永5年)、ある植木屋が紫泉亭という花屋敷を開き、庭園に花菖蒲の池を設けたそうです。この花屋敷は団子坂から南へ入ったところにあり、天然の崖を利用したものでした。花屋敷の西側に当たるのが現在の汐見坂です。

絵は紫泉亭を下方にある庭から描いたもので、庭には梅や桜など観賞すべき花が多かったそうです。広さは2,500坪という広大なもので、不忍池を見下ろせる見晴らしの良いところとしても有名だったといいます。

この花屋敷があったところは現在は文京区の中学校や小学校などになっています。池が敷地の東側にあったのか南側にあったのかについてはわかりませんでしたが、いずれにせよ東南方面が下がっていたことは間違いがありません。

千駄木の裏道千駄木の裏道

花屋敷があったところから裏道を行き、団子坂の続きの神田白山線に戻ります。

御林稲荷神社御林稲荷神社

本郷通りから400mほど東に『御林』の名を残す御林稲荷神社(おはやしいなりじんじゃ)があります。

ここは現在は駒込天祖神社の飛地境内社となっていますが、よくなくならずに今日まで残ったものですね。江戸時代の切絵図を見ると、この神社の裏手一帯が『御林』だったようです。

御林稲荷神社の社内部御林稲荷神社の社内部

御林稲荷神社の社はそれはそれは小さなものですが、現在もきちんと管理されていました。

ここで空に真っ黒な雲が湧き出てきて急激に気温が下がり始めたので、今日はここまで。

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