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城南/名所江戸百景14

開催日 2021年05月08日(土)晴れのち曇り 26°C/暑い
参加者 ユッキー/マージコ/サリーナ/サイダー
総合評価 ★★
難易度
走行距離 38km
地域 首都圏
東京都

増上寺三解脱門
増上寺三解脱門

コース紹介

広重の名所江戸百景から城南の11景を。大しゃもじの『芝愛宕山』 五重塔の『増上寺塔赤羽根』 笑顔の民衆は『芝神明増上寺』 芝浦の海『金杉橋芝浦』 高輪の海岸『高輪うしまち』 野っぱらの『広尾ふる川』 富士だらけの目黒は5景。

動画(07'02" 音声:一部にあり)

地図:GoogleマップgpxファイルGARMIN ConnectRide With GPS

発着地 累積距離 発着時刻  ルート 備考
小石川播磨坂 START 発09:30 一般道
愛宕神社 8km 着10:15
発10:40
一般道 名所江戸百景『芝愛宕山
絵本江戸土産 三編『愛宕権現
東京タワー 9km 着10:45
発10:55
一般道 鯉のぼり
芝東照宮 10km 着11:00
発11:08
園内路 名所江戸百景『増上寺塔赤羽根
絵本江戸土産 九編『赤羽根』、芝公園
増上寺 10km 着11:10
発11:15
一般道 徳川家の菩提寺
大門 11km 着11:20
発12:05
一般道 名所江戸百景『芝神明増上寺
絵本江戸土産 十編『芝神明の社』、更級布屋
金杉橋 12km 着12:10
発12:15
一般道 名所江戸百景『金杉橋芝浦
竹芝桟橋 13km 着12:20
発12:25
一般道 東京湾眺望
高輪大木戸跡 16km 着12:55
発13:00
一般道 名所江戸百景『高輪うしまち
高輪ゲートウェイ駅 17km 着13:10
発13:30
一般道 JR山手線・京浜東北線の新駅
四之橋 19km 着13:35
発13:40
一般道 名所江戸百景『広尾ふる川
絵本江戸土産 十編『麻布古川 相模殿橋 広尾之原
太鼓橋 23km 着14:05
発14:30
目黒川 名所江戸百景『目黒太鼓橋夕日の岡
絵本江戸土産 十編『其三 同(目黒)太鼓橋 夕日の岡
目黒一丁目 24km 着14:40
発14:40
一般道 名所江戸百景『目黒千代か池
絵本江戸土産 十編『目黒千代ヶ池
茶屋坂 25km 着14:45
発14:50
一般道 名所江戸百景『目黒爺々が茶屋
絵本江戸土産 十編『同其二(目黒)爺々ヶ茶屋
別所坂児童遊園 26km 着15:00
発15:15
一般道 名所江戸百景『目黒新富士
絵本江戸土産 十編『同所(目黒)新富士 山上眺望
代官山 27km 着15:20
発15:25
一般道 名所江戸百景『目黒元不二
絵本江戸土産 十編『目黒元不二下道
小石川播磨坂 38km 着16:30


日の入り18:33/名所江戸百景:地図Wikipedia国会図書館デジタルコレクション江戸百景めぐり江戸切絵図古地図 with MapFan錦絵でたのしむ江戸の名所浮世写真家 喜千也の『名所江戸百景』くずし字見ながら歴史散歩絵本江戸土産江戸名所図会

小石川播磨坂小石川播磨坂

名所江戸百景シリーズの14回目は城南エリア。今回も歌川広重ドンにお世話になります。出発地は文京区小石川の播磨坂。

本日のランデヴー予定は江戸城のお濠でユッキー、愛宕神社でマージコなので、まずお濠に向かいます。

伝通院伝通院

江戸城とくれば徳川家ですが、お濠に向かう途中に徳川家の菩提寺の伝通院があります。

伝通院は徳川家康の生母・於大の方のことで、この方のほか徳川家ゆかりの女や子供がここに大勢埋葬されています。

千鳥ヶ淵千鳥ヶ淵

千鳥ヶ淵に到着するとすでにユッキーはやってきており、着替えをしていました。今日は気温が高く、日向はすでに27°Cに達しており、長袖を脱いで半袖になっていたのでした。

いつもの愛車のKHSは今日は奥方に取られてしまったそうで、大型車での登場です。(笑)

千鳥ヶ淵沿い千鳥ヶ淵沿い

千鳥ヶ淵から向かうはマージコとのランデヴー地点、芝の愛宕山です。

千鳥ヶ淵といえば桜で有名ですが、この時期の桜の木は春の明るい葉っぱから、夏の力強い深い緑色に変わるところで、木蔭が涼しくて気持ちいいです。

内堀通りのユリノキ内堀通りのユリノキ

千鳥ヶ淵から内堀通りに出ると、脇のお濠は半蔵濠、桜田濠と名前が変わっていきます。

ここは大きなユリノキ並木です。

国会議事堂国会議事堂

三宅坂を下り、国会議事堂の前を通り、

環二通りの自転車レーン環二通りの自転車レーン

虎ノ門に出ました。虎ノ門病院のところで外堀通りを渡り、環二通りに入ります。

環二通りはここから築地市場の跡地を通り、有明に抜ける最近整備された道路で、ここには短いながらも自転車レーンが設えられていました。

愛宕神社大鳥居愛宕神社大鳥居

虎ノ門ヒルズを横目に進み、都道301号の白山祝田田町線に入ってこれを南下すると愛宕神社です。愛宕神社の総本社は京都の愛宕山にあり、火伏せに霊験のある神社として知られます。芝の愛宕神社は1603年(慶長8年)、徳川家康の命により防火の神様として祀られたことに始まるそうです。

東を通る都道に立つと、西の正面に朱色の大鳥居が立っています。ここでマージコと無事ドッキング。本日のメンバーは左より、サイダー、サリーナ、マージコ、ユッキー。

男坂と女坂男坂と女坂

この愛宕神社の社殿も愛宕山の上にあります。愛宕山は自然の地形としては東京23区内の最高峰で、標高は25.7m。

大鳥居をくぐると、先にまっすぐ登る急な階段の男坂が見えます。この坂は、曲垣平九郎(まがき へいくろう)が馬でここを上り下りした故事が伝わっており、これから出世の石段とも呼ばれます。

右手には北西へ斜めに穏やかに登って行く階段があり、これは女坂と呼ばれています。

男坂男坂

では登ってみましょう。ここはやっぱり男坂でしょう。

男坂の段数は86あり、勾配はかなり急です。おそらく40°近くあるでしょう。上り出したユッキーはのっけからハヒハヒでした。

名所江戸百景『芝愛宕山』
名所江戸百景『芝愛宕山』
(安政四年(1857年)二月 冬の部)
名所東京百景『芝愛宕山』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

なんとか86段の男坂を登り切りました。石段のすぐ上には一の鳥居が立っています。現在この周囲には山頂より遥かに高い建物がびっしり立ち並んでおり、階段の上からでも眺望はまったくありません。

ここで本日最初の名所江戸百景といきましょう。この絵を見ると広重の時代には江戸湾から房総半島の山々まで見渡せたようです。灰色で描かれた街並の中の一際大きな屋根は築地本願寺。

ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)によれば、描かれているのは愛宕神社(広重の時代は愛宕山権現社)で正月三日に行われる強飯式(ごうはんしき)というもので、男坂の下にあった別当の円福寺の僧に山盛りの飯を強要する儀式だそう。女坂の上の茶店の主が『毘沙門の使』に扮し、僧に向かって六尺のまな板を大しゃもじで突き、飯を飲めと言い、飲まなければこの杓子で食わすと言うと、皆『のむ』と答えるので帰って行き、今まさに男坂を上り切り、神社の門をくぐろうとするところだと。

妙竹林な素襖(すおう=江戸時代の平士・陪臣の礼服)姿の『毘沙門の使』は、昆布の錏(しころ=兜の鉢の左右・後方に付け、首から襟の防御とするもの)を垂らし、前立(兜の前に付ける立物)には裏白(うらじろ=シダ)をはさんでいます。肩から幣束を提げ、頭には正面に橙(だいだい)を付けたざるを逆さまに被っています。その上に串を立てて御幣とし、手には大しゃもじと摺り子木。疲れた顔をしているのは、一本歯の高下駄を履くのがならわしだったからとのこと。

丹塗りの門丹塗りの門

一の鳥居の横にはここが山であることを示す三角点があります。そして先には丹塗りの門が立ちます。

上の絵の門はもしかするとこのようなものだったかもしれません。

社殿社殿

丹塗りの門をくぐると社殿です。

この神社の紋は徳川家の葵の御紋!

池と紫陽花池と紫陽花

ここには弁天さまもいらっしゃいます。

末社末社

さすがに徳川の支援を受けた神社だけあり、末社まできちんと整備が行き届いています。

女坂女坂

帰りは女坂を使いましょう。

この女坂、下の方の勾配は緩いのですが、上の方はかなりきつくて転げ落ちそうでした。

西新橋三丁目交差点付近西新橋三丁目交差点付近

芝といえばやっぱり東京タワーは抜かせないでしょう。ということで、西新橋三丁目交差点から西へ向かい東京タワーを目指します。

東京タワーは電波塔で芝公園の紅葉山に建てられました。ということで、ここからは切り通し坂をちょこっと上ります。

東京タワーの足下で東京タワーの足下で

日本一高い塔の地位は東京スカイツリーに明け渡しましたが、東京タワーは依然人気が高いですね。

なんと言っても芝公園という立地がいいです。

東京タワーの鯉のぼり東京タワーの鯉のぼり

今は五月。こどもの日は過ぎましたが、ここには鯉のぼりが何百匹も泳いでいました。

東京タワーと鯉のぼり東京タワーと鯉のぼり

壮観!

赤羽橋交差点赤羽橋交差点

思いがけない鯉のぼりの群れを楽しんだら、白山祝田田町線に戻りこれを南下します。

前方に高速道路が見え出すと、そこは赤羽橋交差点です。高速道路の下には古川が流れ、赤羽橋が架かっているのですが、古川も赤羽橋も意識しないと存在を認識できないほど、現在はまったく存在感がありません。どうしてそんなものをここで紹介したかは、このあとわかります。

芝公園芝公園

赤羽橋交差点から芝公園に入ります。芝公園は増上寺を中心とした広大な公園で、上野公園と並び日本でもかなり古くに整備された公園です。

この一帯は江戸時代は増上寺の境内でした。

芝東照宮芝東照宮

芝公園の南東には芝東照宮が立ちます。

このお宮は元は増上寺内の社殿でした。東照宮といえば徳川家康です。家康は自分が死んだら、家康の像を祀る社殿を増上寺に建造するよう遺言したのです。それがこの東照宮の起源です。

名所江戸百景『増上寺塔赤羽根』
名所江戸百景『増上寺塔赤羽根』
(安政四年(1857年)一月 夏の部)
名所東京百景『芝東照宮赤羽根』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

増上寺は徳川家の菩提寺で、江戸城の拡張に伴い1598年(慶長3年)に家康によって現在地の芝に移転させられました。二代将軍秀忠をはじめ、ここには6人の将軍の墓所が設けられています。

絵の左に見える川は、先ほど赤羽橋交差点のところで説明した古川で、橋は赤羽橋。古川の左に見える広い通り状の土地の向こう側は、増上寺の警備担当であった久留米藩主有馬家の上屋敷です。古川は前回企画の城北/名所江戸百景13で訪れた四谷大木戸で玉川上水の余水を流したために流量が増えた渋谷川の下流の名です。この周囲に見える緑は火除けのためのものらしいので、有馬家の前の黄色いスペースは火除地でしょう。

ヘンリー・スミス(前掲書)によればこの有馬家上屋敷には有名なものが二つありました、一つは左奥に見える増上寺の防火のための火の見櫓で、これは江戸で最も高いといわれたもの。もう一つはその右に見える6本の幟が示す水天宮で、現在は日本橋に移りました。右手の建物は増上寺の廟の中でももっとも壮麗だったもので、秀忠の慰霊塔として建てられた五重塔。芝愛宕下絵図を見るとこの五重塔は芝公園の南西の角に立つザ・プリンス パーク タワー東京のところに立っていたようです。

芝公園から見る東京タワー芝公園から見る東京タワー

芝公園は広大で様々な区画があります。ここは芝生広場で東京タワーの眺めが最高!

このあと増上寺に立ち寄りました。総門である三解脱門は増上寺で唯一の江戸時代初期の面影を残す建造物で、さすがのド迫力。(TOP写真参照) 大殿は工事中で足場が架けられていたのでこれはまた今度。

増上寺大門増上寺大門

三解脱門から東に200mほど行くと総門の大門が立ちます。大門は増上寺が芝に移転した際、それまで江戸城の大手門だった高麗門を、家康より寺の表門として譲られたものでした。その旧大門は関東大震災によって倒壊の恐れが生じたため両国回向院に移築されましたが、これは東京大空襲により焼失しました。現在の大門は1937年(昭和12年)に国道の整備に伴い、原型より1.5倍大きく、鉄骨鉄筋コンクリートで造り直されたものです。最近化粧直しが施されきれいになりました。

ちょっと脱線しますが、大門を『だいもん』と呼べばこの増上寺の総門のことで、『おおもん』と呼べば吉原遊郭の入口に立っていた門のことです。『おおもん』は残っていませんが、吉原に行くつもりでタクシーに乗り「だいもんまで」と言ったら目的を果たせませんのでご注意を。(笑) もっとも最近のタクシーの運転手でこの違いが分かる方は少ないかもしれませんがね。

芝大神宮芝大神宮

このあたりは伊勢神宮の荘園で飯倉御厨と呼ばれていたようで、大門のすぐ北に芝大神宮が立っています。

このお宮は元々は増上寺の後ろの丸山(古墳)にありましたが、増上寺の移転に伴い現在地に移りました。神明造りの社殿からわかるように、ここは伊勢の神を祀り徳川幕府の厚遇を受けていました。

名所江戸百景『芝神明増上寺』
名所江戸百景『芝神明増上寺』
(安政四年(1857年)十一月 秋の部)
名所東京百景『東京タワー増上寺』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

絵の右に見えるのが芝神明、現在の芝大神宮です。左奥の立て札には『下馬』と書かれており、その先に桜川の小橋が見えます。さらにその向こうに立っているのが大門で、これをくぐって200mほど行くと三解脱門です。

この絵は広重の『名所江戸百景』シリーズの中ではめずらしく人々の顔の表情がはっきりと描かれたものです。特に群衆を描いたものとしてはこれっきりしかありません。また『名所江戸百景』ではなく『江戸百景餘興』とあるのはこの絵の他には一枚しかありません。

さて、ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、ここに描かれている人々は『お上り』さんで、江戸見物にやってきて増上寺にお参りし、その広さとすばらしさに舌を巻いたところで感慨醒めやらず、話が弾んでおり、次に向かうは当然芝神明だと。ここは東海道からすぐなので、地方から江戸にやってくる多くの人が通ったことでしょう。生き生きとくつろいだ顔つきでほっとした感じになるのは、『余興』の絵だということでもたらされた気分であろうと。

うしろの人々は増上寺から托鉢に出かける修行僧らしく、袈裟に身を包んで整然と秩序を守って進む僧侶の一行と、ばらばらに談笑しながら歩いて行くお上りさん一行は対照的に描かれているが、一人の僧侶の顔にも笑みがこぼれていると。

第一京浜第一京浜

芝大神宮にお詣りしたらかつての東海道、第一京浜に出てこれを南下します。

金杉橋から見る古川金杉橋から見る古川

浜松町の南に首都高速道が走っているのが見えてきます。その下には赤羽橋の下を流れていた古川が流れ、金杉橋が架かっています。

ここが赤羽橋と異なるのは東京湾が近づいたからか、屋形船などが係留されていることでしょう。この金杉橋から200mほど東で古川は、かつて江戸湾に注いでいました。そこは現在JRの線路が通るあたりですが、そのずっと先まで埋め立てられて、海はだいぶ遠くなってしまいました。

名所江戸百景『金杉橋芝浦』
名所江戸百景『金杉橋芝浦』
(安政四年(1857年)七月 秋の部)
名所東京百景『金杉橋芝浦』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

絵は芝浦の海です。左の彼方に見えるのは浜御殿(浜離宮)で、その先の大きな屋根は築地本願寺。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、高い竿にぶら下げられているのはお寺に寄進するらしい柄杓と手ぬぐいで、小豆色の幟の上に白抜きされているのは池上本門寺の紋。その下のお題目からここに描かれた群衆は日蓮宗の祖師参りの行列とわかるそうです。手前は江戸を出て、本門寺、久遠寺に 向かう群衆で、向う側は参拝を終えて江戸に戻る人の列だそう。

こうした景色は今日では想像もできません。祖師参りの行列は見ることがなくなりましたし、第一ここからは海の存在をまったく感じることができなくなっています。

かつて江戸湾だったところかつて江戸湾だったところ

ちょっとでも海を感じておこうと、JRの線路をくぐり、かつて江戸湾だったところを東へ向かいます。

ここは埋め立て地で上空には羽田へ向かうモノレールが走ります。

竹芝桟橋竹芝桟橋

竹芝桟橋にやってきました。東京湾です。先に架かるのはレインボーブリッジで、芝浦と対岸の台場とを結んでいます。

台場は江戸時代に造られた砲台で、あのあたりは海でした。築地市場が移った豊洲も有明もなかったので、江戸湾は広々としていましたが、今日ここは果たして海なのか、それとも川なのかと迷うほどです。

ブラシノキブラシノキ

かつての江戸湾に思いを馳せたら竹芝桟橋から日乃出桟橋側に移ります。

そこで面白い植物を発見。真っ赤なブラシみたいなブラシノキ! あなた、そのまんまの名前なのね。

モノレールモノレール

ここは上空をモノレールが走っています。このモノレールは都心と羽田空港を結ぶ公共交通機関として、1964年(昭和39年)、東京オリンピックの開会直前に開業しました。

そのころはモノレールに乗って羽田で飛行機を観るのが楽しみだった、という方も大勢いるでしょうね。私はじいちゃんにお願いして、このモノレールに乗って羽田空港に連れて行ってもらいましたよ。

芝浦運河芝浦運河

ここは芝浦。江戸時代には海だったところです。江戸前と呼ばれた漁場であり、芝の名を冠した芝海老も水揚げされましたが、現在それはほとんど捕れないでしょうね。

新芝浦運河新芝浦運河

芝浦運河から新芝浦運河沿いに入ります。

近年、川縁の遊歩道の中には自転車が通行できないところもありますが、ここは禁止マークを見掛けませんでした。まあ歩行者優先ですから、歩く程度のゆっくりペースで行きます。

高輪橋架道橋下区道高輪橋架道橋下区道

新芝浦運河から上がり、高輪を目指します。前に言ったようにこの芝浦側と高輪側の間にはJRの線路が通っており、すんなりとは渡らせてもらえません。

しかしここには知る人ぞ知る高輪橋架道橋下区道というものがあります。そのクリアランスが凄い。立っては通れないくらいに低いのです。これでもかつては車の通行も許可されていたのですが、この道は近く廃止されるそうで、現在は歩行者と自転車のみ通行可となっています。自転車は押し歩き。

高さが低けりゃ、距離もかなりあります。この上を走るのは、山手線、京浜東北線、東海道線、東海道新幹線、これに加え車両基地の線路も通っているそうです。首、痛くなるぅ〜

第一京浜第一京浜

このおったまげた高輪橋架道橋下区道を抜けるとその先にあるのは、こちらもおったまげる第一京浜。

交通量がすごくて、ひろ〜い! 高輪橋架道橋下区道との対比で頭がクラクラします。

高輪大木戸跡高輪大木戸跡

第一京浜はかつては東海道で、その遺構がここに残っています。『高輪大木戸跡』。

江戸時代は町ごとに木戸が設けられ、自身番が警固していました。江戸の南の出入口であった高輪のそれは大木戸と呼ばれました。

現在残っている一組の石垣は、長さ9m、高さ3mほどで、幅7.2mの間に柵と門が設けられていたそうです。幕末に日本全国を測量した伊能忠敬は、ここを測量の基点としたとされます。

名所江戸百景『高輪うしまち』
名所江戸百景『高輪うしまち』
(安政四年(1857年)四月 秋の部)
名所東京百景『高輪2丁目』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

『高輪うしまち』はその大木戸の外側を描いたもので、この絵からわかるように江戸時代にはこのあたりは海岸でした。

大きな車輪は牛車のもの。ここは当時芝車町という名でしたが、俗称の牛町の方が有名だったそうです。犬とスイカの皮と打ち捨てられた草鞋が醸し出すのは庶民的な風情です。沖に見えるのは当時造られたばかりの台場(砲台)で、空に架かる虹の描く弧と車輪の描く弧とを見ていると、海岸線のカーブが頭に浮かんでくるとヘンリー・スミス(前掲書)は言っています。

かつての海岸線をほぼなぞっているのが、現在の第一京浜です。

高輪ゲートウェイ駅外観高輪ゲートウェイ駅外観

高輪の最近の話題はこれ、高輪ゲートウェイ駅でしょう。

JRの山手線と京浜東北線が乗り入れていますが、山手線の駅としてはなんと、ほぼ半世紀ぶりの新駅だそうです。

高輪ゲートウェイ駅内観高輪ゲートウェイ駅内観

改札階は2階で、内部は幕屋根で明るいです。

自動調光調色システムの採用など、新しい試みがされているようです。

高輪ゲートウェイ駅周辺再開発エリア高輪ゲートウェイ駅周辺再開発エリア

この周囲は元は車両基地でしたが、その役目を終えて再開発されることになっています。広〜

その工事中に、明治初期に国内初の鉄道を通すために海岸線に沿うように堤を建設して線路を敷設した高輪築堤の遺構が発見され、その保存と開発を巡ってやりとりが行われてましたが、つい先日、その一部を現地保存すると発表がありました。

南麻布南麻布

高輪の新駅を眺めたら泉岳寺から白金へ上る魚籃坂(ぎょらんざか)を行き、三たび古川です。

やってきたのは南麻布の明治通り。その脇をあの高速道路が走っています。この下にまたもや古川が流れているのです。

名所江戸百景『広尾ふる川』
名所江戸百景『広尾ふる川』
(安政三年(1857年)七月 春の部)
名所東京百景『広尾ふる川』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

ここは赤羽橋と金杉橋の下を流れていた古川の上流です。橋は麻布十番から上流に向け、一から順に番号を振った四番目である四之橋。

北東から南西を眺めた図で、右手が麻布方面、左手が白金方面。彼方に広がるのは『広尾が原』で一面田園風景です。橋向こうに見える建物は当時の切絵図によると『狐鰻』で、切絵図に店名が載るというのは当時としてはかなりまれでしたから、ここは江戸でも知られた有名店であったようです。この鰻やの西に『狸蕎麦』があります。一枚の切絵図に狐と狸を登場さしたのは江戸っ子の洒落でしょうか。

この絵を読み解くのは少しむずかしいですが、絵本江戸土産 十編『麻布古川 相模殿橋 広尾之原』が参考になります。

江都(こうと)第一の郊原(こうげん)にして、人のよく知る所(ところ)なり。されば、四時(しいじ)草木(そうもく)の花(はな)更に人力(じんりょく)を假(か)らずといえども、自然(おのずから)咲(さき)つづき、月の夜(よ)しがら(すがら)古(いにしえ)の歌(うた)に見えたる武蔵野(むさしの)の気色(けしき)はこれかと思うばかり寂寥(せきりょう)として余情(よせい)深(ふか)し

江戸の郊外の寂しい景色だが、美しい自然は味わいがある、といったことでしょうか。今は無惨な川と、どこにでもある建物があるだけのところになっています。

明治坂明治坂

ここは港区の。坂が多い土地です。

これは白金の明治坂で、○○のノンスリップコンクリート舗装から見てわかるように、ちょこっときついです。

目黒川沿いの遊歩道目黒川沿いの遊歩道

目黒川に下りてきました。

この川沿いは遊歩道になっており、木々も豊かで気持ちよく進んで行きます。

目黒川と目黒新橋目黒川と目黒新橋

雅叙園の前までやってきました。その一つ西に架かるのは1933年(昭和8年)に完成した優美な開腹アーチ橋の目黒新橋で、御茶ノ水の聖橋によく似ています。近代土木遺産に指定されています。

名所江戸百景『目黒太鼓橋夕日の岡』
名所江戸百景『目黒太鼓橋夕日の岡』
(安政四年(1857年)四月 冬の部)
名所東京百景『目黒太鼓橋雅叙園』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

ここからは目黒が5点続きます。

まったく偶然にも、私と同じ感覚をヘンリー・スミス氏は持っていました。この絵と深川洲崎十万坪/名所江戸百景12で訪れた木場を描いた『深川木場』は似ているというものです。一面の銀世界に藍が冴えた流れ。雪雲にちらちら舞うもの。違いは木場が景色を正面から描いているのに対し、こちらは斜めから描いている点で、スミス氏は、これにより人里離れた感じが増大し、わびしささえ感じられる、と述べています。

川は目黒川で手前が上流側、奥が下流側。石造の太鼓橋の左は、坂の中腹にあった大円寺を創建した行人にちなんだ行人坂で、これを登って行くと目黒駅に辿り着きます。奥に見える斜面がもみじの名所の『夕日の岡』で、秋の夕陽のもみじに映えるすばらしさが地名になったそうです。ここはのちに熊本藩細川家の下屋敷となり、今日は目黒雅叙園が立っています。橋を右へ行くと目黒不動で、手前の屋根はしるこ餅の正月屋という茶店で、来るべき初春のことを暗示していると。

桜の木の下を行く桜の木の下を行く

雅叙園からは目黒川沿いをさらに北西へ進んで行きます。

目黒川といえば春の花見で有名ですね。桜の木がいい感じで緑色の葉っぱを茂らせています。

名所江戸百景『目黒千代か池』
名所江戸百景『目黒千代か池』
(安政三年(1856年)七月 春の部)
名所東京百景『目黒千代か池』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

目黒川を離れ、坂道をちょっくら上ると、なんと15%の激坂登場! この坂に名はないようですね。ここはかつて千代が池があったところ。

江戸名所図会 巻之三 天璣之部 『千代ヶ崎』には以下のようにあります。

行人坂の北、長峯松平主殿侯 別荘の後中(うしろなか)、目黒の方へ少し下る所なり。初め鎗ヶ崎といいしを後に千代ヶ崎と改られしという。主殿侯(とのもこう)構(かまい)の旧跡に似て、池の傍に衣掛松という在(ある)は新田義興の室、義興 矢口の渡(やぐちのわたし)にて最期の事 聞(きき)、かなしみに絶ず此池に身を投るといえり。絶景観といえるも此(この)別荘の号なりとぞ

広重が描いたのは千代ヶ崎の中にあった池で、新田義興の妻千代が、夫の戦死を聞いて落胆のあまり身を投じたという伝説がある崖地の景勝地です。池にはかなりの高さのところから滝が流れ落ちています。桜は満開。そこに花見にでもやってきたのか、女が三人描かれています。すやり霞がどことなく風景を幻想的なものにし、伝統的な雅の世界観に繋げているような気がします。

珍しく広重はここで水面に映った木を描いていますが、これは透視図法的には正確ではありません。広重は透視図法的な描き方をしてはいてもそれは大抵どこか不自然で、図法を完全に習得していなかったと私には思えるのですが、ヘンリー・スミス(前掲書)は、広重は見た通りに描くことにさして関心を示していないように見え、この描画を楽しんでいる、としています。

千代ヶ崎の坂上から千代ヶ崎の坂上から

15%の激坂は上り口だけですが、坂の上の勾配が緩くなったところから下を見てもなかなかのものです。

ここ、あたしは押し。(笑)

茶屋坂上より新茶屋坂を見下ろす茶屋坂上より新茶屋坂を見下ろす

上ったら位置エネルギーを失わないように水平移動。三田の茶屋坂の上に出ます。

この西には新茶屋坂があり、そちらはガックンと下がっています。天気が良くて西に建物がなければ、ここから富士山が見えたでしょうね。

名所江戸百景『目黒爺々が茶屋』
名所江戸百景『目黒爺々が茶屋』
(安政四年(1857年)四月 秋の部)
名所東京百景『目黒茶屋坂』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

江戸時代の目黒の高台の崖の上は視界を遮るものがなく、富士山がよく見えたようです。

絵は、現在も残る茶屋坂の途中から西を眺めています。白い富士のお山に丹沢の山々。一番左に大山もはっきり見えます。中景の林と建物は有名な目黒不動で、周辺には広い野原と田圃が広がっています。近景の茅葺きの屋根が『爺々が茶屋』。

むかし、寛永(かんえい)の頃かとよ。大樹(たいじゅ)、この野辺(のべ)に放鷹(ほうよう)ありて、ここに立(たち)よらせ給うという。その頃、老人夫婦(ろうじんふうふ)あり。これを歓待(もてな)し奉(たてまつ)る。因って、爺々が茶屋と呼ぶ。されば今、老夫(ろうふ)ならぬも爺ゝ(じじ)という名を負(おわ)したる。いとも殊勝(しゅしょう)の旧跡(きゅうせき)なり --絵本江戸土産 十編『同其二(目黒)爺々ヶ茶屋

三代将軍徳川家光が鷹狩の際この茶屋に立ち寄り、老夫婦のもてなしを受けたことから「爺々が茶屋」と呼ばれるようになったそうです。この話の家光を吉宗とする説もあり、実際この茶屋の子孫の家に、吉宗と主人とが言葉を交わしたという記録が残るそうです。

この茶屋以外にもう一つ茶屋が高台にあり、そちらは『ばゝが茶や』と呼ばれていたようです。

目黒川と中目黒駅前の超高層マンション目黒川と中目黒駅前の超高層マンション

西は崖なのでいったん目黒川まで落っこちます。

先に見えるえらく細長いマンションが立つところは中目黒駅前です。

別所坂の庚申塔別所坂の庚申塔

位置エネルギーを失ってしまったので、また上り。中目黒の別所坂は狭く、曲がりくねっていて、例の○○ノンスリップコンクリート舗装でアへアヘ。その頂上に庚申塔があります。

この庚申塔の上に『目黒の"新富士"と新富士遺跡』の案内板が立っています。江戸時代の後期に、蝦夷・千島を探検した幕臣の近藤重蔵がこのあたりの高台にあった自邸内にミニ富士を築造したのです。

名所江戸百景『新富士』
名所江戸百景『新富士』
(安政四年(1857年)四月 春の部)
名所東京百景『新富士』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

単純明快な画題です。遠景に本物の富士を配し、手前に『新富士』。これは1819年(文政二年)築造の富士塚で、これが造られる前から近くにあった富士塚(次の絵を参照)に対して『新富士』と呼ばれるようになったようです。満開の桜の間を流れるのは三田用水。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、富士塚の第1号は1779年(安永八年)に高田(現在の早稲田大学商学部のところ)に富士講の行者によって築造されたものだそうで、この絵は富士塚の記録として注目に値すると言い、絵の富士塚は普通の山のように描かれているが、一般的には富士山の溶岩塊を運んできて築造するので、山肌はゴツゴツしたものになっていたと。ここは富士山の絶景の地としても有名だったそうです。

スミス氏は中景の木立の中の建物を目黒不動としていますが、それだと方角が異なるので祐天寺とする説もあります。まあ、絵師は実景をそのまま描かなければいけないという決まりはなく、物や建物を移動させて描くことはよくあることではありますが。

この富士塚、現在は残念ながらありません。

名所江戸百景『目黒元不二』
名所江戸百景『目黒元不二』
(安政四年(1857年)四月 春の部)
名所東京百景『目黒無不二』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

さて、上の絵で述べた近くにある富士塚まではまたまた上り。上目黒の目切坂です。この富士は『新富士』に先立つこと7年、1812年(文化九年)築造ですが、今日は新富士同様、その姿はなし。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、ここは造られると景色が素晴らしかったのですぐに評判となったそうです。富士塚のアプローチには松の木が、また足下には桜の木が植えられ、茶屋の床几が出され、そこで休憩する人々が描かれています。ここは江戸の富士塚の中でも一般の人が最もよく訪れるところだったようだと。

この絵は春の景色としては色がずっしりとし過ぎていて、どうも季節に相応しくありません。人びとの服装が厚着であることもこの印象を強くします。桜に使われている顔料は丹(たん)だと考えられ、化学変化により黒ずんでいます。これはもみじを描いた際によく起こることで、百景の別の絵でも同様の現象が見られます。 スミス氏はこの絵の木はもみじで、秋の景色であると暗に指摘して、百景の季節分類を手がけた人が、前図の『新富士』とこれとをいっしょにしておきたかったのだろうと述べています。

スミスはもちろん観ているはずですが、第一級品と折り紙付きの広瀬本(集英社)はこの摺りより全体に明るく、軽い印象であることを付け加えておきます。

元富士があったあたりは現在はマンションが立っており、その西側も音楽大学になっているため、このあたりからは富士山はおろか、一切合切、まったく何も見えません。

松の木松の木

最後があれですが、これで本日の名所江戸百景はおしまい。各自家に戻ります。マージコは目黒川沿いを行くというのでここで分かれ、ユッキー、サリーナ、サイダーの三人は飯田橋へ向かうことにしました。

三人が走り出すとすぐ、民家の庭先に立派な松の木がありました。元不二に描かれた松の木はこんなものだったかもしれません。

青山霊園青山霊園

広尾から青山に出て青山霊園の中を行き、

外苑の銀杏並木外苑の銀杏並木

絵画館を正面に見ながら外苑の銀杏並木の間を行きます。

安鎮坂安鎮坂

トチノキの並木がきれいな安鎮坂を下り、

迎賓館赤坂離宮迎賓館赤坂離宮

迎賓館赤坂離宮を覗き、

外濠内側の道外濠内側の道

外濠に沿ったソフィア通りからその先に続く土手の内側の道をずんどこ行き、飯田橋に到着です。

今日は愛宕山の男坂に始まり、東京タワーに向かう切り通し坂、泉岳寺から白金へ上る魚籃坂(ぎょらんざか)、白金の明治坂、目黒の名無し15%坂、三田の茶屋坂、中目黒の別所坂、上目黒の目切坂と、激坂が楽しめた一日でもありました。

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