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江戸南端五景/名所江戸百景16

開催日 2021年05月22日(土)曇り
参加者 ユッキー/マコリン/シンチェンゾー/サイダー
総合評価
難易度
走行距離 65km
地域 首都圏

旧穴守稲荷神社大鳥居/羽田空港入口弁天橋前
旧穴守稲荷神社大鳥居/羽田空港入口弁天橋前

コース紹介

歌川広重の名所江戸百景から江戸の最南端を描いた『はねたのわたし弁天の社』を含む5景を。都心の水道橋を出て品川で旧東海道に入りこれを南下。鮫洲、大森、蒲田と進んで羽田へ。多摩川サイクリングロードを遡り、洗足池まで。

動画(06'11" 音声:BGMのみ)

地図:GoogleマップgpxファイルGARMIN ConnectRide With GPS

発着地 累積距離 発着時刻 ルート 備考
小石川播磨坂 START 発08:50 一般道 環三通り
水道橋 2km 着09:00
発09:10
一般道 水道橋駅
海晏寺
かいあんじ
16km 着10:15
発10:20
一般道 寺の縁起が鮫洲の名の元になった
勝島運河 17km 着10:35
発10:40
一般道 名所江戸百景『南品川鮫洲海岸
絵本江戸土産 2編『南品川 鮫洲 大森
大森貝塚
遺跡庭園
19km 着10:50
発11:10
一般道 E.S.モースにより発見
縄文時代後期 - 末期の貝塚
天祖神社
大森駅前
20km 着11:15
発11:35
一般道 名所江戸百景『八景坂鎧掛松
江戸名所図会『八景坂鎧掛松
絵本江戸土産3編『八景坂鎧掛松
南大井 22km 着11:45
発12:25
一般道 布恒更科
聖蹟蒲田
梅屋敷公園
25km 着12:40
発12:55
一般道 名所江戸百景『蒲田の梅園
絵本江戸土産 2編『蒲田の梅園
穴守稲荷神社 29km 着13:20
発13:35
一般道 かつては現在の羽田空港内にあった
弁天橋 30km 着13:40
発13:50
多摩川CR 名所江戸百景『はねたのわたし弁天の社
旧穴守稲荷神社大鳥居
江戸名所図会『羽田辨財天社』巻之ニ第四冊
絵本江戸土産3編『羽田辨財天社
六郷橋 35km 着14:10
発14:20
多摩川CR 東海道の『六郷の渡し』があった
丸子橋 42km 着14:40
発15:20
一般道 河川敷公園
洗足池公園 45km 着15:30
発16:10
一般道 名所江戸百景『千束の池袈裟懸松
勝海舟夫妻の墓
江戸名所図会『千束池袈裟懸松
絵本江戸土産3編『千束池袈裟懸松
小石川播磨坂 65km 着17:35
日の入り18:33/名所江戸百景:地図Wikipedia国会図書館デジタルコレクション江戸百景めぐり江戸切絵図古地図 with MapFan今昔マップ錦絵でたのしむ江戸の名所浮世写真家 喜千也の『名所江戸百景』くずし字見ながら歴史散歩絵本江戸土産江戸名所図会

水道橋の神田川水道橋の神田川

歌川広重の名所江戸百景を巡るシリーズの最終回です。

名所江戸百景は、目録1枚と二代広重が描いた1点を含む119景から成ります。これだけあれば5年くらい遊べるのではないかと思ったのですが、去年からのコロナ騒ぎで都心の企画が多くなり、図らずも1年半で終わることになりました。今回は江戸の南端部を描いたものを含む、その周辺、合わせて5景を巡ります。

水道橋水道橋

コロナ騒ぎが始まってからは、スタート地点に集合してそこから走り出すというスタイルではなく、ルート上の適当なところで各自合流するランデヴー方式を採用することが多くなり、今回もそのつもりだったのですが、なんとみんな水道橋に集まるというので、水道橋が事実上の集合場所になりました。

左より、一月半ぶりに参加のシンチェンゾー、二週間ぶりのユッキー、半年ぶりとなるマコリン。へぼカメラはサイダー。

水道橋を渡る水道橋を渡る

水道橋はその名の通りに『水道橋』という名の橋です。しかし駅に水道橋駅があり、京橋や新橋のようにすでに橋はなく、それが地名となっているところもあるためか、水道橋のどこですか? というようなことになるのですが、今回のメンバーは全員、水道橋を知っていたようです。

水道橋の下を流れるのは神田川です。現在の神田川は井の頭池にその源を発し、東へ流れ、都心を通って隅田川に流れ込んでいます。古い時代の神田川の元の流れは平川と呼ばれ、現在の皇居前広場あたりで日比谷入江に流れ込んでいました。これを隅田川に流すため、現在の日本橋川とほぼ同じ流路に変更したのは太田道灌です。

江戸時代に神田上水が引かれると、現在の水道橋の少し下流に最初の橋が架けられました。そのすぐ下流に神田上水の懸樋が渡されていたことから、この橋は水道橋と呼ばれるようになったのです。

錦華通り錦華通り

さて、まず向かうは品川です。みんなが水道橋に集まるとは思っていなかったので、品川までは単にアクセスルートの位置付けで、特に面白いところを用意していません。皇居や東京タワー、増上寺といったところはつい先日行ってしまったので、これらを巡るのもちょっとねぇ。ということで、車が少なそうな道を選んで、とにかく先を目指すことにします。

猿楽町と神保町の間の錦華通りを行きます。この道の名の錦華がどこから来たのかについては残念ながら知らないのですが、錦町と何かをくっつけたのかな。このあたりには夏目漱石の母校である錦華小学校 (現 区立お茶の水小学校 ) など、錦華という名の付く施設がちらほら見られます。

千代田通り千代田通り

駿河台下から内堀通りに抜ける千代田通りに入り、これを南下して行きます。

コロナ禍でか、最近の都心の道路はかなり空いていると感じます。だってこんなですよ。

日本橋川沿い日本橋川沿い

この先は内堀通りに入って皇居前を通ってもいいのですが、皇居の周囲はランナーが多く、車道は車が多いので、日本橋川沿いに入りました。

日本橋は知っていても日本橋川があることを知らない方は意外と多いようです。日本橋川は日本橋の下を流れている川です。この日本橋川は先ほど水道橋のところで申し上げたように、元は太田道灌により流路変更された平川です。

馬場先濠馬場先濠

日比谷通りに入り、和田倉濠、馬場先濠と進んで行きます。

日比谷通りは内堀通りほどには車が多くないので車道を走ってもいいのですが、ここはお濠側をのんびり行くのが好きです。

日比谷公園日比谷公園

お濠の先は日比谷公園です。日本でもっとも早い時期に造られた公園の一つで、まさに都心のオアシス。

ここは江戸時代の初期までは日比谷入江と呼ばれた江戸湾の一部でした。まさかこんなところまで海だったとはね。今ではまったく想像できないですね。

モノレールモノレール

増上寺の大門をかすめ、芝から芝浦へ入ります。

すると上部には羽田空港へ向かうモノレールの線路が延びています。モノレールの高架橋はレールがモノだから、見上げてもうっとうしくなくのが○。

新芝運河付近新芝運河付近

いつものんびり行く新芝運河はこの日は通らず、その横を走る道をどんどこ。

まあ車が少ないのでここはまったく問題なし。

高輪橋架道橋下区道高輪橋架道橋下区道

芝浦側と高輪側の間にはJRの線路が走っています。ここには面白いトンネルがあります。その名は高輪橋架道橋下区道。

このトンネル、ヘッドクリアランスが凄い。シンチェンゾーは頭がまるまる梁にぶつかってしまいます。少し前までは車の通行も許可されていたのが驚きです。現在新しい通路を工事中で、もうすぐこれはなくなってしまうのがちょっとだけ残念。

品川駅東部品川駅東部

再開発によってまったく姿を変えた品川駅の東部を行きます。

みんなあんぐり口を空けて見上げているのは、ボンボン立った超高層ビルディング。

旧東海道旧東海道

品川浦をかすめて旧東海道に出ました。

現在の品川はどこに海があるのかさっぱり分かりませんが、江戸時代の東海道は江戸湾沿いを通っていました。つまりこの旧東海道のすぐ東は海だったのです。

聖蹟公園入口聖蹟公園入口

それを感じられるのが旧東海道から東に続く道です。ここは旧東海道から東の聖蹟公園へ向かう通路ですが、先の公園側に穏やかに下っているのが見て取れます。

この公園の先を走る八ツ山通りはかつては目黒川で、そのすぐ先が江戸湾でした、

海晏寺海晏寺

旧東海道を南下して行くと、運転免許試験場があることで知られる鮫洲です。この鮫洲の名の由来はちょっと面白いです。それは海曼寺(かいあんじ)の縁起から生まれたといいます。

品川沖で大鮫が浮いているのを漁師が見つけ、その腹を割くと、中から聖観音の木像が出てきた。これを聞いた北条時頼は海曼寺を建ててその像を奉らせたそうです。この聖観音は鮫が上がった洲ということで鮫洲観音と呼ばれ、これが『鮫洲』の地名の元になったといわれています。この観音さまは現在も海晏寺の本尊として奉られているそうです。海晏寺は現在も青物横丁駅の南の第一京浜沿いにあります。

勝島運河勝島運河

鮫洲駅を過ぎると東は勝島です。勝島は1939年(昭和14年)に京浜第1区埋立地として埋め立てが開始され、1949年に完成した人口島です。勝島の西側には勝島運河ができました。

現在この運河沿いは遊歩道で、なかなかいい散歩道になっています。

名所江戸百景『南品川鮫洲海岸』
名所江戸百景『南品川鮫洲海岸』
(安政四年(1857年)二月 冬の部)
名所東京百景『南品川勝島運河』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

名所江戸百景『南品川鮫洲海岸』は、勝島運河がまだ江戸湾だった頃の景色です。

左の帆掛け船の先に見える海に突き出たところが品川。その少し南、画面左の森が先ほど立ち寄った海曼寺。画題の南品川はこのあたりを指すのでしょう。遠景に筑波山、左手に東海道に沿って並ぶ家々。 海上に並んでいるのは海苔ひび(のりを付着生育させるために用いる資材で、木の枝や竹などを材料としたもの)です。当時この辺りは海苔の養殖が盛んでしたが、現在は残念ながら海苔が採れる環境ではありませんし、建物が立て込んでいてここから筑波山はまったく見えません。

現在海苔というと、あの黒い紙のような板海苔を指しますが、これは古くは浅草で製造されていたため浅草海苔と呼ばれていました。江戸時代の中期以降になると、主に大森や品川で製造されるようになったようです。浅草海苔は持ち運びにも便利だったため、江戸の土産物として大変人気があったそうです。

大森(おおもり)品川(しながわ)等(とう)の海(うみ)に産(さん)せり。是(これ)を浅草海苔(あさくさのり)と称(しょう)するは往古(いにしえ)かしこの海(うみ)に産(さん)せし故(ゆえ)に其(その)旧称(きゅうしょう)を失(うしな)わずして、かくは呼来(よびきた)れり。秋(あき)の時正(ひがん)に麁朶(そだ)を建(たて)、春の時正に止(とどま)るを定規(じょうき)とす。寒中(かんちゅう)に採(と)るものを絶品(ぜっぴん)とし、一年の間(あいだ)囲置(かこいおく)といえども其(その)色合(いろあい)風味(ふうみ)ともに変わる事なし。故(ゆえ)に高貴(こうき)の家(いえ)にも賞翫(しょうがん)せらるるを以(もつ)て諸国共(しょこくとも)に送(おく)りて是(これ)を産業(さんぎょう)とする者(もの)夥(おびただ)しく、実(じつ)に江戸(えど)の名産(めいさん)なり
 --江戸名所図会『浅草海苔』巻之ニ 天璇(てんせん)之部 第四冊--

浅草海苔は紙漉きの技法を応用して開発されたものです。江戸時代に紙は高級品で、浅草で漉かれた浅草紙という再生紙は庶民の生活に欠かせないものでした。浅草海苔は浅草で採れたことと紙漉きの技法を応用して造られたこと、そして浅草紙があったことなどから浅草海苔と呼ばれるようになったのでしょう。

この浅草海苔は本来はアサクサノリという品種から製造されたものでした。そのアサクサノリは絶滅危惧1類で、現在はこれから海苔がつくられることはまずありませんが、近年復活の試みがなされています。

浜川橋(涙橋)浜川橋(涙橋)

旧東海道に戻ると浜川橋で立会川を渡ります。この橋はまたの名を涙橋ともいうと現地の解説板にあります。江戸時代、この先に設けられた仕置場(鈴ヶ森刑場)に向かう罪人がここで涙を流し別れを告げたことから、涙橋と呼ばれるようになったそうです。

東京にはもう一つ泪橋があります。『あしたのジョー』で有名になった泪橋は、江戸のもう一ヶ所の仕置場だった日光街道沿いに置かれた小塚原刑場の近くを流れていた思川に架かっていました。現在この川はなく、当然ながら橋もありませんが、交差点名などにその名が残っています。両方とも仕置場の近くなので、ジョーの涙橋も同じようなところから付けられた名なのかもしれません。なお、『涙』と『泪』はあまり意識せずに使われていたようで、どちらの字を当てても良いようです。

鈴ヶ森刑場鈴ヶ森刑場

鈴ヶ森刑場跡にやってきました。1651年(慶安4年)開設、1871年(明治4年)閉鎖。

ここに残っているのは井戸、火炙用の鉄柱を立てた礎石、磔用の木柱を立てた礎石などで、井戸は切り落とされた首や血が付いた刀槍などを洗っていたと考えられます。火炙や磔は派手で残酷なパフォーマンスを人々に見せつけるための刑と言えるでしょう。恐ろしや。

なんだか近づくのを尻込みしているマコリンとシンチェンゾーでした。今夜は出ます!

南大井南大井

鈴ヶ森刑場跡の先で旧東海道は第一京浜になってしまうのでこれを離れ、大森貝塚へ向かうことにしました。

大森貝塚は日本人ならほとんどの方がその名を知っているでしょう。学校で習いますからね。エドワード・S・モースによって発見された縄文時代後期から末期、今から約3000年前の貝塚です。縄文時代というと原始人をイメージしてしまいがちですが、最近の研究で様々なことが分かってきています。彼らはドングリを粉にしてパンを作って食べていたそうですから、ちょっとびっくりですね。縄文人はグルメだった!

大森貝塚遺跡庭園大森貝塚遺跡庭園

また彼らは素晴らしい土器を残してくれました。縄文文化の素晴らしさを最初に語ったのは岡本太郎でしょう。

「なんだこれは!」と叫び、「心身がひっくり返る」ような衝撃を受けた岡本太郎は、その後自らの考えを『四次元との対話--縄文土器論』として発表します。それまで工芸品という位置付けで弥生土器より劣るものだった縄文土器は、これを境に芸術に昇格することになったのです。

大森貝塚遺跡庭園のモース像大森貝塚遺跡庭園のモース像

大森貝塚の場所についてはモースが具体的な場所を記していなかったため、しばらくの間、品川区説と大田区説の2つが存在したそうですが、現在は品川区側で決着しているようです。

その品川区にあるのが大森貝塚遺跡庭園で、線路に近いところに『大森貝塚碑』が立っており、ひっそりとモースの像が置かれています。ここで発掘された出土品は東京大学に保管されており、庭園には貝塚を思わせる遺構はまったく何もありませんが、『地層の回廊』があり、その中に貝塚の地層の実物大の模型があります。ここは公園としては静かでいいところだと思います。近くにある品川歴史館には大森貝塚を紹介するコーナーがありますがこの日はコロナ休み。

大森の猫大森の猫

縄文時代に思いを馳せたら大森貝塚遺跡庭園をあとにし、大森駅前へ向かいます。

裏道を行くと猫があっちとこっちでにらめっこをしていました。オスの縄張り争いかな。最近はこうした景色に出くわすことも少なくなってきたので、これはちょっと面白かったです。

天祖神社から大森駅方面を見下ろす天祖神社から大森駅方面を見下ろす

大森駅山王口前の天祖神社にやってきました。裏道を使ったので駅前を通りませんでしたが、この駅前の池上通りは『八景坂』と呼ばれています。江戸時代の八景坂は相当の急坂で、雨水が流れるたびに坂が掘られて薬研(やげん)のようになったため、薬研坂とも呼ばれたといいます。

また池上通りは江戸時代には平間街道や相州街道と呼ばれており、古東海道でした。坂上からの眺めは素晴しく、近くは大森の海岸、遠くは房総まで一望できたそうです。

天祖神社の男坂天祖神社の男坂

この八景坂から天祖神社に上る階段があります。

この階段は男坂と呼ばれ急勾配ですが、左手にはより穏やかな女坂もあります。

八景碑表八景碑表

男坂の石段の途中の踊り場には八景碑と呼ばれる石碑があり、表に江戸時代後期の俳人、大野景山による句『鎌倉の よ(世)より明るし のちの月』が刻まれています。

八景碑裏八景碑裏

そしてその裏には、『笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘』と八景が。これは琵琶湖の名勝を表した近江八景、『唐崎夜雨、粟津晴嵐、比良暮雪、矢橋帰帆、瀬田夕照、石山秋月、堅田落雁、三井晩鐘』をなぞったものですね。まあよくできていると思いますが。

つまり『八景坂』は様々な方角の展望がある坂という意味だったのでしょう。

天祖神社天祖神社

階段を登った先の天祖神社は、大森駅前にしてはかなりひっそりとしていて、びっくりするくらい静かです。

名所江戸百景『八景坂鎧掛松』
名所江戸百景『八景坂鎧掛松』
(安政三年(1856年)五月 春部)
名所東京百景『八景坂鎧掛松』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

ここにはかつて『鎧掛松』がありました。これは八幡太郎源義家が奥州安倍一族征伐の際、ここで休憩し鎧を掛けたと伝わる木です。

絵は天祖神社あたりから東を見たもので、海沿いに見えるのが東海道の松並木。画面左から江戸湾に突き出ているのが品川で、その向こうに江戸のまちと日光連山が見えます。その右にうっすらと延びているのが房総半島でしょう。中央に聳える巨木の鎧掛松は義家の時代からのものだとすれば樹齢800年以上ということになりますが、まあこれは、何代目かのものであると考えた方が素直でしょう。

ヘンリー・スミス(前掲書)は、絵の松は江戸名所図絵の説明とは異なり、鎧を掛けるかぎを連想させ、枝振りは伝統的な形にはまったものになっていると述べています。ここには茶屋があり、わざわざ駕篭で上って来ているらしい人も見えるので、当時はかなり人気があった場所なのでしょう。

天祖神社の代表に話を聞くサイダー天祖神社の代表に話を聞くサイダー

境内を一回りしてそろそろ引き上げようとしたところに、ちょうど神社の代表の方が現れたので話を伺いました。

私たちが広重の『鎧掛松』を見にきたと言うと大変喜び、長谷川雪旦が描いた江戸名所図会『八景坂鎧掛松』のコピーをくださいました。広重はこの絵を下敷きに名所江戸百景を描いたと考えられています。この方によると鎧掛松と伝わる木は大正時代に枯れてしまったそうですが、その樹齢は年輪から230年であることがわかり、これから推定すると絵に描かれたのは義家の時代から三代目だろうと。その切り株は現在、拝殿前に置かれています。

アーケード商店街アーケード商店街

次のチェックポイントは梅屋敷なのですが、その前にお昼。

布恒更科布恒更科

白海老の天ぷら付のお蕎麦をいただきました。

蒲田の裏通り蒲田の裏通り

午後の部開始。大森を抜けて蒲田に入ります。

名所江戸百景『蒲田の梅園』
名所江戸百景『蒲田の梅園』
(安政四年(1857年)二月 春の部)
名所東京百景『蒲田の梅園』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

京浜急行本線の駅の一つに梅屋敷駅があります。この駅名の元となった梅屋敷は江戸時代に『和中散』という風邪薬を販売していた薬屋が築いた梅園で、数軒の茶屋と料理屋があり、一般の人にも解放されていたそうです。この梅園は規模こそ縮小されたものの梅屋敷駅近くに聖蹟蒲田梅屋敷公園として残っており、瓢箪形の池とその周囲の数十本の梅の木、そしていくつかの石碑が当時の面影を今日に伝えています。

ヘンリー・スミス(前掲書)は、この絵には穏やかな美しさがあり、色には柔らかい陰影があるとし、右手前に描かれた山駕籠については、画面への入れ方がひどく唐突であると述べ、これは映画的効果であると同時に、ウィットに富んだ視点が賞賛された時代に生きた広重の創意であると褒め讃えています。この駕篭は東海道からわざわざ梅を観にここまでやってきたのでしょう。梅と桜と紅葉は江戸時代からずっと今日まで人気を保ったままですね。

紫陽花紫陽花

この季節の梅は、花ではなく実が生っていました。

今年は季節が早く、上の写真に見えるように花菖蒲はすでに終わりかけで、早くも紫陽花がいい色になりつつあります。

枇杷枇杷

食べられる実が生る庭があるといいですね。これは枇杷。

呑川呑川

さて、次は羽田へ向かいましょう。

呑川沿いに入り、

北前堀緑地北前堀緑地

北前堀緑地をどんどこ。

かつて大森から羽田にかけては農業用や漁業用の堀割りが何本かありました。

北前堀緑地末端北前堀緑地末端

ここは呑川から分水し海老取川とを繋ぐ北前堀でした。

北前堀水門の先が多摩川から分岐した海老取川です。

海老取川海老取川

海老取川は羽田空港とその西に位置する地区の境を流れる短い川です。川というより運河といったほうがふさわしいでしょうか。

かつての羽田は漁師町で、この川に多くの漁船が集まっていたことがあるそうですが、現在それは数えるほどです。

穴守稲荷神社穴守稲荷神社

羽田空港がある辺りは古くは多摩川の河口にできた低湿地で、扇浦、要島と呼ばれていました。江戸時代の天明年間(1781年 - 1789年)に、羽田猟師町の名主鈴木弥五右衛門が新田を開発してからは『鈴木新田』と呼ばれるようになりました。

鈴木新田は激しい波のために害を被ることがしばしばだったので、波除(なみよけ)稲荷として穴守稲荷神社が祀られました。しかし終戦直後の羽田空港の拡張工事に伴い、1945年(昭和20年)に現在地に移転させられました。

上社上社

穴守稲荷神社は参道に続く千本鳥居で有名でしたが、近年これは徐々に復活しているようです。

その千本鳥居をくぐった先には稲荷山が造られており、その上に上社と御嶽神社が祀られています。

福徳稲荷福徳稲荷

福徳稲荷社のお狐さまはどこか人間ぽい顔つきです。

天空橋天空橋

海老取川に戻ると天空橋があります。マコリンはしばらくぶりの走りなので終着地までは行けそうにないけれど、せめて天空橋は見たいと言っていたのですが、その橋がこれ。しかしこれを見るなり、

『えーっ、これですか〜ぁ!』と、マコリン。

そうなんですよね。マコリンは羽田空港に行く時に通る地下駅の天空橋駅から、天空橋ってどんな橋だろうと期待していたのだそうですが、、、

デザイン、もうちょっとなんとかならなかったのかねぇ、というのが衆目の一致するところでした。あっ、一応言っておきますが、駅の名は橋からとられたもので、橋が先にあったのです。そしてこの橋の名は地元の小学生による公募で決められたものだそうです。この天空橋そのものには何の罪もありませぬ。(笑)

弁天橋と旧穴守稲荷神社大鳥居弁天橋と旧穴守稲荷神社大鳥居

まあそれはともかく、衝撃の天空橋を眺めたら海老取川を南へ。すると多摩川との分流点、海老取川の最上流端に架かる弁天橋に出ます。

この弁天橋を渡り羽田空港側に降り立つと、そこには旧穴守稲荷神社の大鳥居が立っています。

名所江戸百景『はねたのわたし弁天の社』
名所江戸百景
『はねたのわたし弁天の社』
(安政五年(1858年)八月 夏の部)
名所東京百景
『はねたの多摩川穴守稲荷神社鳥居』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

ここで江戸の最南端を描いた名所江戸百景を見てみましょう。場所は武蔵国と相模国との国境、現在の多摩川で、ここは文字通り江戸の最南端と言えるところだったかもしれません。画題の『羽田の渡し』は、数ある多摩川の渡しの中でも最も河口に近いもので、川崎大師に参詣するための要路だったようです。東海道の『六郷の渡し』はこれより少し上流にありました。

遠景は位置関係からして、また、江戸名所図会の文からしても房総半島だろうと思いますが、右手から延びてきているので三浦半島ということも考えられなくもありません。中景の左に見えるのは羽田猟師町の要島で、社は画題の『羽田弁才天』。この頃の弁財天は今日の弁天橋から砂州を400mほど東へ行った先にありましたが、1945年(昭和20年)に穴守稲荷神社と供に移転させられました。その先には船の目印となる高灯籠。そして近景に描かれているのは、渡し船の船頭の脚とすね毛。

ヘンリー・スミス(前掲書)は、この絵のすね毛が引き起こす感情について、西洋の紳士淑女のそれを害することはまずまちがいないと述べ、一方、日本では、そこに遊びの精神を見てとっている、としています。続けて絵から渡し船の構造がよくわかる点を説明し、日本人はすね毛をとやかく言うより、ここから、ゆったりとしたリズム感で左右に揺れながら進んでいく感じを味わったに違いない、と。

羽田は中世より漁村で、特に海老やハマグリが名高く、江戸時代初期には『御菜八ヶ浦』の一つとして、魚を将軍家の台所に納めることによって特権的漁業権を幕府から与えられていました。江戸の最南端にして川崎大師への渡り口、風光明媚で稲荷神社と弁才天があり、江戸の台所でもあったここは、人々の関心を集めたところの一つだったのでしょう。

此地(このち)の眺望(ちょうぼう)最(もっとも)秀美(しゅうび)なり。東(ひがし)は蒼海(そうかい)満々(まんまん)として旭日(きょくじつ)の房総(ぼうそう)の山に掛(かか)るあり。南(みなみ)は玉川(たまがわ)混々(こんこん)として清流(せいりゅう)の富峰(ふほう)の雪に映(えい)するあり。西(にし)は海老取川(えびとりがわ)を隔(へだ)て東海(とうかい)の駅路(えきろ)ありて往来(おうらい)洛繹(らくえき)たり。北(きた)は筑波山(つくばやま)峨々(がが)として飛雨(ひう)行雲(こううん)の気象(きしょう)万千(ばんせん)なり。此(この)島より相州(そうしゅう)三浦(みうら)浦賀(うらが)へは午(うま)に當(あた)りて海路(かいろ)九八九里、南総(なんそう)木更津(きさらず)の湊(みなと)へは巳(み)に當(あた)りて海路八九里、南北総(なんぽくそう)の界(さかい)は卯(う)に當(あた)りて海路十三里斗(ばかり)を隔てたり。富峰は酉(とり)の方に見(みゆ)
 --江戸名所図会『羽田辨財天社』巻之ニ 天璇(てんせん)之部 第四冊--

多摩川と漁船多摩川と漁船

さて、コロナ禍で飛び交う飛行機が少なくなった羽田空港を眺めたら、多摩川サイクリングロードを北上します。

河口付近の多摩川には漁船だか釣り船だかがたくさん係留されています。江戸時代ほどは盛んでないにしても、ここにはまだ漁業で生計を立てている方もいるのでしょう。

玉川弁才天玉川弁才天

多摩川サイクリングロードを走り出すとすぐ、右手に玉川弁才天があります。これが移転した羽田弁才天です。

今日は訪れる人もほとんどなく、ちょっと荒れた感じで寂しい姿をしています。

産業道路の大師橋産業道路の大師橋

多摩川サイクリングロードで最初に見えてくる橋は首都高速の大師橋で、それに平行して産業道路の同名の橋が多摩川を渡っています。

名所江戸百景に描かれた『羽田の渡し』はここにありました。この渡しは1939年(昭和14年)に大師橋の旧橋が開通するまであったそうです。

多摩川サイクリングロード多摩川サイクリングロード

今日は天気がいま一つなのとコロナ禍とでか、いつも人でいっぱいの多摩川サイクリングロードはかなり人出が少なかったです。

多摩川の主な渡しの案内図多摩川の主な渡しの案内図

多摩川が大きくカーブしているところに差し掛かりました。六郷土手と呼ばれるところです。そこには第一京浜の六郷橋が架かっています。第一京浜は江戸時代は東海道で、多摩川は『六郷の渡し』で渡していました。

六郷橋の袂に多摩川の主な渡しの案内板がありました。現在の地図とこれとを照合すると、渡しがあった場所にはすべて橋が架けられていることがわかります。

東海道五拾三次『川崎』六郷渡舟東海道五拾三次『川崎』六郷渡舟

1600年(慶長5年)、徳川家康はここに長さ120間(220m)もある六郷大橋を架けました。この橋は、千住大橋、両国橋とともに江戸の三大橋とされたそうです。『関が原』に向かうのに家康はこの六郷大橋を渡ったのでしょう。

しかし当時は土手は造られなかったため橋は洪水でしばしば流失し、渡船が用いられるようになりました。これが『六郷の渡し』です。この渡しは立派な橋が架かってもその橋が流失するたびに復活し、結局1925年(大正14年)に洪水時に水没しない橋が完成するまで続くことになります。

広重は東海道五拾三次『川崎』六郷渡舟 でその情景を描いています。この六郷川を渡ると川崎です。川崎大師は現在も有名なお寺ですが、江戸時代の中ごろから盛んになった弘法大師信仰により、江戸など近郊から参詣者が大勢訪れたそうです。その中にはこの渡船を使った方もたくさんいるでしょう。ここには様々な人々が描かれていますが、暴れ川だった多摩川とは思えないのどかな風景の中、船上ではリラックスしてたばこをふかす姿が見られます。奥に見えるのは川合所という料金所で、ここで渡し賃を支払ってから乗船したそうです。東海道五拾三次ではこの絵で初めて富士山が登場します。

多摩川多摩川

六郷橋付近は河川敷が広くサイクリングロードからは川が見えないので、そこから少し上流に行ったところの多摩川を載せておきます。

武蔵小杉と新幹線武蔵小杉と新幹線

六郷橋から上流を見てみると、多摩川大橋(矢口の渡し)、ガス橋(平間の渡し)、丸子橋(丸子の渡し)と続きます。

写真は丸子橋のすぐ南に架かる新幹線の橋梁と武蔵小杉です。武蔵小杉はかつては工場地帯でしたが、ここ四半世紀の間の再開発で、びっくりするほど都市が変わりました。10年ひと昔といいますから2.5昔か。いや〜、それにしても、驚き〜〜

丸子橋丸子橋

水色の二連アーチは丸子橋です。ここでしばらく休憩し、川向こうへ渡るというマコリンと別れました。

名所江戸百景『千束の池袈裟懸松』
名所江戸百景『千束の池袈裟懸松』
(安政三年(1856年)二月 冬の部)
名所東京百景『洗足池袈裟懸松』
(令和三年(2021年)五月 春の部)

さて、名所江戸百景巡りの最後の一枚は『千束の池袈裟懸松』です。最後がこの絵であることに特別な意味はなく、たまたまです。しかし、偶然にもこれは名所江戸百景シリーズで最初に出版された5枚のうちの1枚です。広重は最初からずいぶんと遠くを描いたのですね。5枚の中には江戸川より東を描いた『堀江ねこざね』もあるので、遠隔の地から紹介しておこうとしたのかも知れません。あるいは今日ここはそれほど有名な場所ではありませんが、広重の時代はかなり名が知られたところだったのかもしれません。

画題の『千束の池』は現在の洗足池で、『袈裟懸松』は日蓮が袈裟(けさ)を掛けたと言われる松。袈裟は僧侶が肩から掛けるたすき状の着衣のことです。

千束(せんぞく)の名は、この辺りが寺領の免田で千束の稲の税を免除されていたからと言われます。身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中の日蓮がこの池の畔で休息し、足を洗ったという言い伝えから、千束の一部が『洗足』となったとも伝わります。この日蓮の伝説が当時の江戸の人々の間では良く知られていたため、広重はここを描いたのかもしれません。この地と日蓮とは縁が深く、ここから南東へ2kmほど行ったところにある池上本門寺は、日蓮終焉の地です。

絵の池はかなり広大なものに見えますが、ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、広重の時代にはすでにその周囲は800mほどだったと言いますから、現在とそう大きくは変わらなかったと思います。かつてここにあっただろう風景を意識してデフォルメしたのかもしれません。

遠景に描かれている山はどこだかはっきりしません。日光連山とも丹沢山系とも異なる、どこにでもある山に見えます。スミス氏はこれは概念化した山であろうと。左遠方に見える社は千束八幡神社で、現在もこの地の鎮守としてそこにあります。

袈裟懸松袈裟懸松

袈裟懸松は、もちろん何代目かだと思いますが、洗足池図書館の裏手の池の畔に現在もあります。その木は絵のようにうねった姿ではなくすくっと立っていました。

この場所は他の木も大きく、対岸から袈裟懸松を写してもどれがそれだかわからないので、上の写真は池の北岸にあった別の松を写したものにしました。

池月橋池月橋

洗足池はいくつかの湧水を主な水源としていますが、ここに流れ込む川はありません。しかし池の端に太鼓橋の池月橋が架けられています。この先代の橋は木造でしたが現橋にはアルミと擬木が使われているそうです。でもまあ、よくできていると思います。

今日は都心の企画にしてはかなり車が少なかったので、それに煩わされることがなかったのが一番でした。ルートは下の二つの企画を足して二で割ったようなものになりました。それぞれのコースにはそれぞれのストーリー性があるわけで、今回は広重の名所江戸百景が繋いでくれたルートということになりますが、それをより面白くするのはポイント間を繋ぐ道にどこを選択するか、また他にどんなポイントを挿入するかなのですが、今回は少し準備不足で、いま一つだったかなと反省しています。

とにかくこれで歌川広重の名所江戸百景をすべて巡り終えました。何気なく始めた企画でしたが、よく続きました。この企画で良かったのは何より、より深く江戸を知ることができたことです。実はこれまであまり歴史には興味がなかったのですが、身近な風景の一つ一つに歴史の積層があることを感じられるようになったのは、この企画のお蔭です。ん〜ん、次、どうしよ〜


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