6月14日に関東地方は梅雨入りしました。昨日の土曜日に開催だったこのポタリングは雨で一日順延、しかも朝まで雨が残りそうだったので、集合時刻を1時間遅らせての開催となりました。マサキンが家を出た時にはまだ少し雨がバラついていたそうです。
梅雨の合間なのに小作駅に集まったのはなんと10名。コロナに梅雨でみさなんフラストレーションが溜まっているのでしょうか。
今日は、多摩川から分水する玉川上水と、そこからさらに分水された用水、そして多摩川の崖線に湧き出した水の流れを追って遊びます。
というわけで、小作駅からまず多摩川に向かいます。すると小作緑地公園に出ます。この小作緑地公園は多摩川の河岸段丘を成しており、この先で地面は急激に落ち込んでいます。
崖地を下って多摩川に出ると、そこはちょうど小作取水堰です。
多摩川には堰が全部で八つありますが、この小作取水堰はそれらの中でもっとも上流に位置します。
ここで塞き止められた水は東京の水瓶の一つである山口貯水池(狭山湖)に送水されます。
簡単に言えば、私たちが毎日使っている水道から出てくる水はこの多摩川の水なのです。
小作取水堰の上は管理橋になっており、対岸に渡れるのでちょっと行ってみましょう。小作取水堰は1980年(昭和55年)完成で、この下がゲートです。
現地案内板によると、洪水吐ゲートが4門、土砂吐ゲートが1門、そして魚道が2箇所となっています。
堰の上流に設けられた取水口から取り入れられた水は3つの樋門ゲートに導かれ、さらにその裏にある流量調整ゲートを通過します。
取水口はこの写真の床に見えるコンクリートの左外にあり、写っていません。このコンクリートの下を導水は通って樋門ゲートに向かっています。
流量調整ゲートを通った水は三本の流れとなり沈砂池に向かいます。奥に見えるプールが沈砂池で、ここで重い砂などを沈下させ、その先で直径3.8mの水路に入り、自然流下で狭山湖へ流れて行きます。
狭山湖って結構高いところにあるような気がしたのですが、そこよりここの方が標高が高いんですね。地図でざっくり当たると、ここの標高は140m、狭山湖は110m。
今日はこのあとは一日曇りの予報でしたが、空に青い色が見え、そこにちょっと変わった雲が浮かんでいます。
これ、うろこ雲?
小作取水堰で堰の勉強をしたら多摩川に沿って下ります。
すると阿蘇神社です。
この阿蘇神社は社殿はそう大きくはありませんが、601年創建とされる古社で、平将門が社殿を造営しただの、修復は藤原秀郷だの、徳川家康が参詣しただのと、錚々たる顔ぶれがその歴史の中に登場してきます。
羽村のひっそりとしたこの神社は、意外とサイクリストには知られているかもしれません。
それは、社が多摩川サイクリングロードの起点近くにあり、自転車のお守りを頒布しているからです。
阿蘇神社にお詣りしたら、その参道で多摩川沿いを下ります。
この参道を行くと、そのまま多摩川サイクリングロードに入ります。
多摩川サイクリングロードを走り出す前に、すぐその横にある『根がらみ前水田』を覗いてみましょう。
ここは春はチューリップ、そしてもう少しすると大賀ハスが咲くのですが、この時期は本来の水田がきれいです。
根がらみ前水田のすぐ北には踊子草公園があります。
オドリコソウは4月から6月にかけて咲くそうですが、この時は気が付きませんでした。もう終わっていたのかもしれません。
根がらみ前水田を出て多摩川をほんのちょっと下ると羽村取水堰があります。羽村取水堰は江戸に水を送る玉川上水のための水を取る堰で、なんと1653年(承応2年)の完成です。これはもちろん玉川上水が完成した年でもあります。当時は当然ながら木製の堰でしたが、1911年(明治44年)にコンクリート造に改築されています。
正面が投渡堰(なげわたしぜき)という仮設的構造の堰で、増水時には堰を取払い流してしまうという、とても珍しいものです。それに続く右岸側は固定堰になっています。投渡堰と固定堰の間にスロープが見えますが、あれはかつて上流で産出した木材を筏にして江戸に運ぶための『筏通し場』の跡です。
右手前で水が出ているのは小吐水門(こはきすいもん)で、玉川上水に流されなかった余分な水を多摩川に戻しています。
玉川上水のための水は第一水門から取水されます。
現在の第一水門はコンクリート造と煉瓦造の部分があります。
そして第二水門で流量調整され、玉川上水となって流れて行きます。この第二水門は六つの『角落とし』水門で、角材を積み重ね(落とし込み)閉め切る構造になっています。
玉川上水はここから四谷まで全長42.74km、高低差92.3m、平均勾配2.16%というもので、この一部区間は現在でも現役の水道施設となっているそうです。
現地にあったこの図は、多摩川、小作取水堰、羽村取水堰、村山・山口貯水池(多摩湖・狭山湖)そして玉川上水の関係を簡潔に示しています。
これを見てわかるように、この第二水門の下には第三水門があり、そこで取水された水は多摩湖と狭山湖に送られていることがわかります。そしてさらに羽村導水ポンプ所とずっと下流の小平監視所のところからも水が取られています。
奥は公園風になっており東屋があり、大勢のサイクリストが休憩しています。玉川上水の工事総奉行は老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行は伊奈忠治でしたが、ここには実際に工事を請け負った玉川兄弟の像が立っています。
牛枠(うしわく)は川の水をコントロールする仕掛けの一つで、スペースフレーム状に組んだ木材を川に沈めて用います。重しには玉石を詰めた蛇籠が使われます。この例では左側を上流に向け、△の面で水流受けてその力を弱めます。現在牛枠はほとんど使われることはありませんが、かつてはここからさらに多摩川を遡った青梅の右岸に数機ありました。今でもあるでしょうか。
羽村取水堰で昔の人々の知恵に関心したら、ここからは玉川上水沿いに入ります。
もちろん多摩川沿いには快適なサイクリングロードがあるのでそれを使ってもいいのですが、今回はできるだけ水路にこだわって走ります。
2kmほど玉川上水を下った加美上水橋で上水を覗いてみました。
さっき多摩川から取水された水ですが、驚くほどきれいでみんなびっくり。ここは周囲の緑もきれいです。
加美上水橋のすぐ南で玉川上水は奥多摩街道に出ます。そこに小さな橋のようなものが見えます。あそこは田村分水の取り入れ口です。
玉川上水にはたくさんの分水がありますが、この田村分水は個人用ということで、それらの中でも特殊なものになっています。
田村分水は代々名主を務めていた田村家のために 1867年(慶応三年)に引かれました。
田村家は1808年(文政五年)に田村酒造を創業しており、この水で水車を回し精米・製粉をしていたそうです。
その田村分水は現在も田村酒造の中を流れています。
田村家はさすがに代々名主だった名家だけあり、現在も立派な屋敷林が残っています。
そこから南に田村分水は流れ出ています。
その流れは道を渡り、畑の横を通って行きます。手前に見える凹みは洗い場のようですね。
分水はこの辺りの農業用水・生活用水としても使用されてたそうです。
田村分水はこのあと民地の中に入ってしまうので、その出口がある多摩川中央公園へ向かいます。
多摩川縁にある多摩川中央公園にやってくると、そこに田村分水が現れました。この日は日差しがあるところは30°Cを超えているので、子供がバシャバシャやっていました。
田村分水はこのすぐ先で多摩川に流れ込んでおしまいになります。
多摩川中央公園からは多摩川を離れ、熊川に入ります。この地区には地頭井戸(じとういど)と伝わるものがあります。地頭とは領主のことです。
この井戸は、このあたりを治めていた徳川幕府の旗本が、水不足に悩む領民のために井戸を掘り与えたものと伝わっています。熊川地区には地頭井戸が4箇所あったそうですが現在残っているのはここだけで、昭和30年代まで共同井戸として使われていたそうです。
水が乏しかった熊川地区はかなり昔から用水の必要を幕府に訴えており、古くは1791年(寛政3年)に工事願いを出していますが、これは受け付けられませんでした。玉川上水は江戸市中の水を確保するために開削されたものですから、おいそれとその水を分けることはできなかったのだと思います。
ここに熊川分水が引かれたのはかなり遅く、1890年(明治23年)のことでした。
熊川地区には1863年(文久3年)創業の石川酒造があります。
石川家は代々熊川村の名主であったようで、現住所の福生市熊川1を見てもわかるとおり、名家でした。
『多摩自慢』の看板をくぐり石川酒造の敷地内に入ると、すぐのところに熊川分水が流れています。
酒造りを始めたのは13代当主でしたが、14代目は酒造米の精白のための水車の稼動を目的としてここに玉川上水の水を引くことを計画し、熊川分水の整備に大きく貢献したのです。
流れの先には巨大な夫婦欅が立ち、その根元に小さな祠があります。なかなかいい感じです。
石川酒造にはお酒の直販店に加えイタリアンと和食のレストランがあり、おいしい食事がいただけます。
石川酒造の道を挟んだ向かいには南稲荷神社があり、市の天然記念物に指定されている大ケヤキが立っています。
夫婦欅も立派ですがこの南稲荷神社のケヤキはそれより大きいようです。
石川酒造を出た熊川分水は民家の間をすり抜けて流れて行きます。
熊川分水の終点は多摩川のすぐ横を流れる湧水によって作られた『下の川』と呼ばれる流れです。
ここに『どうどうの滝』となって熊川分水は落ちるのですが、あれ、今日は『どうどう』とは流れていないような。(笑)
ここの『下の川』は完全に人工物に見えますが、このすぐ上流は崖地から流れ落ちる水を集めた、それはそれは細い流れです。
福生南公園に下ったら多摩川サイクリングロードを行きます。
本日三番目の堰が見えてきました。多摩川に秋川が合流する地点に設けられた昭和用水堰です。この堰は農業用水である昭和用水に導水するために1933年(昭和8年)に造られ、1955年(昭和30年)にコンクリート製に改築されました。右端に写っている水門から取水されています。
昭和用水の前身は、拝島、田中、大神、宮沢、中神、築地、福島、郷地、柴崎村(現立川市)の9つの村を灌漑する室町時代に開削されたとされる九ヶ村用水です。九ヶ村用水の取水口跡がここから250mほど上流に現在も残っています。昭和用水の名称の由来は昭和時代に造られたからだと思いましたが、実は柴崎村を除く現在昭島市となる8村はかつて昭和村に属しており、そこから来ているそうです。
これが取水された直後の昭和用水の流れです。この先で用水は90°向きを変え、正面に見える崖線に沿って東へ向かいます。
ここからは昭和用水の流れを追って進む手もあるのですが、現在その流れの周囲はごく普通の市街地で、あまり面白くありません。そこでこの先は多摩川サイクリングロードを行くことにします。
先頭のシロスキーは電動折り畳み自転車でス〜イスイ!
右手の多摩川の中に千畳敷のようなものが現れました。
普段何気なく通っていてあまり気にしていませんでしたが、この千畳敷はちょっとした広さです。多摩川にもいろいろなところがありますね。
多摩川の河川敷は広く、その割に通常流れは狭いので、どこでも川面が見えるわけではありません。
このあたりは流れが左岸側に寄っているのでよく見えます。
その流れが右岸側へ行ってしまうと、正面に中央線の橋梁が現れます。
あの線路沿いを左へ向かえば立川です。ここで数名立川へ向かうものがいるので、多摩川を離れます。
中央線の線路沿いを北へ向かうと残堀川に出ます。
先ほどの昭和用水はここに流れ込んでおしまいとなります。
ここから立川へ向かうは左から三人目、川向こうの住人マコリン、同じく川向こうのシロスキー、そして川向こうは川向こうでもかなり東を流れる川の向こうに住むミルミルでした。
残った面々は残堀川を下り、根川緑道に入ります。
根川緑道は、かつてここを流れていた根川が河川改修されて下流部分を残して埋立てられたため、そのあとを整備して造られたものです。
この緑道には水路が設けられており、人々はそれを『根川』と呼んでいます。当初この水路に流された水は井戸水でしたが、現在は下水処理場からの高度処理水となっています。
人工的な流れではありますが、じょうずに計画されており、楽しい空間が出来ています。
ここには時々カワセミの姿もあります。
いないかな〜カワセミ、と探してみましたがこの日は残念ながら遭遇しませんでした。
代わりに現れたのはまるで彫刻のような、でっかいアオサギでした。(笑)
根川緑道は4つのゾーンで構成されています。下流域はかなり自然っぽくて、土手には桜の木が植えられ、河川敷は緑で覆われています、
この根川緑道の最下流域部にあるのが根川貝殻坂橋です。このすぐ上に甲州街道が通っており、そこから多摩川に下る坂を貝殻坂といいます。根川貝殻坂橋の名はこのこの貝殻坂から取られたそうです。
そして貝殻坂の名称はかつてこの辺りは海だったため、地面を掘ると貝殻が出てきたことから名付けられているようです。
根川貝殻坂橋から多摩川の土手をほんのちょっと下ると緑川排水樋管があり、その西に府中用水の取水堰があります。
府中用水は江戸初期の1693年(元禄6年)に多摩川の古い河床を利用して開削されたもので、府中崖線の南側に沿って流れる6kmほどの農業用水路です。当時は七ヶ村用水と呼ばれていました。
府中用水はこの多摩川からの取水とハケからの湧水とから成っており、途中で谷保分水を分け、府中市に入って最終的には再び多摩川の流れに戻ります。
その府中用水の水源の一つである矢川に向かいます。矢川の最上流部にある矢川弁財天に出ました。
矢川弁財天は小さな社ですが、ちょっと興味深いものがあります。
その一つは手水石から湧き出す水です。これは湧水だそうです。
境内のすぐ東を通る青柳大通りを見てもらえば分かりますが、ここは北側がぐっと高くなっており、そこから湧き出た水がこの東で矢川となって流れているのです。
もう一つは狛犬ならぬ狛蛇。蛇はかなり珍しいですね。
この他、龍神之池、白龍橋という龍と関係する名も見られます。ここの蛇と龍との関係はよくわかりませんが、中国にも日本にも龍蛇信仰があるので、その一つなのでしょう。
矢川弁財天にお詣りしたら、青柳大通りを渡って東の矢川緑地に向かいます。
緑地の南に位置する畑にはとっても現代的な案山子が立っていました。
矢川緑地には湿地帯と樹林地が広がり、中には矢川が流れています。
矢川は立川段丘を水源とし、立川市の東南部から国立市の西南部を流下して、青柳段丘崖の先で谷保分水に合流する延長1.3kmほどの流れです。その周辺には湧水があちこちに見られ、またナガエミクリなどの貴重な水生植物を見ることができます。
矢川を横目に、最近入手したダホンのチューンナップに余念のないユッキーがどんどこ行きます。
ここの矢川の中では小さな男の子とそのお父さんが網を片手にガサゴゾやっていました。ザリガニでもいるのでしょう。
矢川が甲州街道にぶつかったところで、ちょっと矢川沿いを離れます。
先にこんもりした森が見えてきました。
この森は高台の端っこで、この向こうの土地は6mほど沈んでいます。ここが青柳段丘です。
ぐるっと廻って青柳段丘の下に下りてみると、そこには段丘上とは違う世界が広がっていました。
段丘からしみ出した水が小さなせせらぎとなって流れています。
段丘は『ハケ』とよばれることがありますが、このあたりでは『ママ』とも言い、この湧水は『ママ下湧水』と呼ばれています。なんと昭和時代の始め頃まではこの湧水でワサビ田が作られていたそうですから驚きです。
ちいさな女の子が網を持ってこの湧水でパチャパチャやっていました。
流れの中を覗いてみると、それはそれは小さな魚がいました。
他にも何かいそうですが、残念ながらみんな年寄りなものだから目が見えず、見つけられませんでした。(笑)
ママ下湧水は少しずつ水を集め、次第に大きな流れになっていきます。どうです、ここはもう立派な川じゃあありませんか。
よく見るとママ下湧水の向こう側にもう一本の流れがあります。これは先ほどまで私たちがその横を通っていた矢川です。青柳崖線から押し出されるように出て来るため、『矢川おんだし』と呼ばれます。『おんだし』は押し出しが転訛したものと考えられています。
ママ下湧水と矢川が合わさる地点を流れているのは谷保分水です。
谷保分水は府中用水からの分水で、中央自動車道のすぐ北の谷保堰で府中用水から別れています。
矢川おんだしからは谷保分水沿いを行きます。
谷保分水は青柳崖線に沿って東へ向かって行きます。もう夏ですね。トウモロコシが背丈より大きく伸びています。
谷保分水はこの先、崖線を離れ中央高速沿いを流れて行くのですが、私たちはヤクルト中央研究所の北を通り城山公園(じょうやまこうえん)へ向かいます。私たちが通ったヤクルト中央研究所の北の遊歩道にも湧水による小川が流れていました。
城山公園は鎌倉時代初期の城館跡で、15,000m2という広大な面積があります。ヤクルト中央研究所の北の流れはこの城山公園に入り、ちょっとした池を作り出しています。ここではその池ではなく、旧柳澤家住宅を紹介します。
旧柳澤家住宅は現国立市青柳に建てられていたもので、江戸時代後期の建築と考えられています。 当時としては典型的な家屋だったようです。
明治時代以降、養蚕が盛んになると土間はもちろん、座敷やアガリハナまでも作業場となり、小屋裏では蚕を飼育するようになったそうです。
また明治から昭和初期にかけて、養蚕とともに漬物業も営んでいたそうです。
城山公園でちょいと休憩したら谷保天満宮(やぼてんまんぐう)へ向かいます。
谷保は駅名は『やほ』ですがこの天満宮は『やぼ』で、本来『やぼ』が正しい読み方だそうです。秋葉原の例とは逆に、ここでは田舎漢の南武鉄道が、濁って読むのは野暮だとばかりに現地の読み方を無視した読みを採用したということでしょう。しかし時代は変わるもので、現在は町名も『やほ』となっています。
谷保天満宮は菅原道真が死んだ年にその息子によって創建されたと社伝にあるといいますから、ここの創建は903年(延喜3年)ということになり、東日本で最古の天満宮とされています。
天満宮に付きものの牛さんはみんなになでなでされてお鼻がぴっかぴかです。
今日はこのあと武蔵国の総社である大國魂神社に立ち寄り、お鷹の道を通り真姿の池湧水群を眺め、武蔵国国分寺跡を覗いて国分寺駅に出る予定でしたが、もうお腹一杯になってきたのでこのあたりで切り上げることにします。
多くのメンバーが武蔵野線と南武線が通る府中本町駅へ向かうというので、そこを本日のゴールとすることにしました。シンチェンゾーによればスイーツがリッチだというミニストップで小休憩をとり、用水沿いを府中本町駅へ向かいます。このあたりの用水は府中用水の本流だと思うのですが、なんだかとにかくあちこちに流れがあってどれがなんだかよくわかりません。
とにかく最後はごちゃごちゃっと進んで府中本町駅に到着。
いや〜、今日は距離は短かったですが、なかなか内容が密で結構ハードでした。