関東地方は平年より1日早い6月6日に梅雨入りしたようです。今年の梅雨の序盤はかなり梅雨らしい天気が続き、天気予報もころころと変わるので走るチャンスがありませんでしたが、この週末にようやく晴れマークが付きました。そこでこの時期の花である花菖蒲と紫陽花を観に出かけることにしました。
目指すは紫陽花で有名な千葉県松戸市にある本土寺です。このお寺は花菖蒲もきれいですから紫陽花と花菖蒲、両方楽しめます。
今回の集合はランデヴー方式で、各自適当なところで合流することにしましたが、スタート地点は東京の下町、浅草の浅草寺にしました。ここにやってきたのは、マージコ、レイ、コテッチャン、レイナそして企て人のサイダーの五人。
浅草寺の五重塔を眺め、本堂にお参りしたら二天門を出て、隅田公園を行きます。
隅田公園にはいろいろな植物が植えられていますが、ここも紫陽花がいい調子。
今日の天気は予報では晴れ晴れでしたが、なんと空は真っ白。あれれ。。。
隅田公園で隅田川の土手に上ってその上流へ向かいます。
するとすぐに優雅なX字形をした桜橋に出ます。
この橋からは東京スカイツリーはもちろん、アサヒビールの金ピカ本社などがよく見えます。
この川は江戸時代には荒川の本流でしたが、その後の河川改修で荒川放水路が開削されると、岩淵水門より下流の旧河道は隅田川と改称されました。
その隅田川はほとんど勾配がないと言っていい位で、水は流れていないように見えます。
桜橋で墨田区の向島に渡り、徳川吉宗が桜の木を植えさせた墨堤を北へ向かいます。
すると鉄の塊のような白鬚橋が見えてきます。これは昭和初期に架けられたもので、文化財にはなっていないようですが日本の名橋の一つだと思います。
その白鬚橋を渡り足立区の南千住に出て、隅田川の右岸の土手をどんどこ。
ここは歩行者自転車道で快適です。いつもならうしろにくっきり見える東京スカイツリーですが、この日はぼーっと霞んでいます。
千住汐入大橋で隅田川を渡り、その先の堀切橋で荒川を渡って葛飾区の堀切に入ります。
この流れは明治時代になってから開削されたもので、当初は荒川放水路と呼ばれていたものです。
今は荒川という名称で、サイクリストにはおなじみの荒川サイクリングロードが川辺を走っています。
その荒川と並走するのが綾瀬川です。綾瀬川は隅田川に流れ込んでいましたが、荒川放水路が開削されたことによって行き先を失ったため、荒川に並走させる形で東京湾に流したのです。
先に見えるのは堀切菖蒲水門。綾瀬川はこの先で中川に合流して東京湾へ流れて行くのですが、この水門は中川から綾瀬川へ水が逆流してくるのを防ぐためのものです。
綾瀬川の東を走っているのは首都高速道。うしろにも!
東京の高速道路はほとんど迷路のようですね。
堀切菖蒲水門で綾瀬川を渡って東に下りると、堀切菖蒲園があります。ここで、コンタ、シロスキー、マサキン、マコリン、ミルミル、コムランが合流。
このあたりは江戸時代から花菖蒲で有名なところで、歌川広重を始めとする絵師が、ここの花菖蒲の絵をたくさん残しています。
現在の堀切菖蒲園はかなりコンパクトで、背景にはマンションが立ち高速道路が走るという何とも言えないロケーションの中にありますが、江戸時代のここは、ほとんど地の果てというところだったことでしょう。
花菖蒲はアヤメ科アヤメ属なので『アヤメ』と呼ばれることも多いようです。アヤメを始めとするハナショウブ、カキツバタといったアヤメ科アヤメ属の花の代表的な色と言えば、やはり紫色でしょう。
明るい紫色や白もきれいです。
ひらひら〜 がハナショウブの特徴とも言えますね。
野郎にひらひら〜は似合わないかも。。。
美女三人ならどーだ〜(笑)
花菖蒲は大きくは、江戸系、伊勢系、肥後系、長井古種の四系統に分けられるそうですが、私には皆目、、、
まあ、どれもきれいに見えまする。
堀切菖蒲園には僅かですが紫陽花も咲いていました。
紫陽花の原種は日本に自生するガクアジサイで、写真がそれだと思います。ここで花に見えるものは実は本当の花ではなく装飾花とよばれるもので、花弁に見えるのは実は萼片(がくへん)です。四枚の顎片の中に見える小さなプチっという丸いやつが花なのですが、この花のめしべは退化してしまっており実を結びません。実を付けることができる本当の花は装飾花が取り囲んでいる真ん中のプチプチで、これは両性花と呼ばれます。
ガクアジサイは萼が花びらに見えるから萼紫陽花なのかと思っていましたがそれはどうやら違うようで、中央の真花を装飾花が額のように取り囲んでいることから来ているそうです。X 萼アジサイ→○ 額アジサイ!
堀切菖蒲園の花菖蒲を楽しんだら再び荒川と綾瀬川の間の土手へ戻り、南へ向かいます。
大きな道路が荒川を横断するところは河川敷に下って橋を潜ります。
荒川の河川敷には菖蒲園があったりグラウンドがあったりで賑やか。
四つ木で中川沿いに入ります。この中川も荒川放水路によって分断されてしまったので、上流の流れは先ほどの綾瀬川同様に荒川に沿って流され、東京湾に注いでいます。
私たちは中川を上流へ遡って進んで行きます。この中川の土手上の道はかなり狭いところもあるのでゆっくりとね。
少し広いところに出たところで小休憩です。
今日は参加人数が多いので、先頭と最後尾ではかなり距離が開いてしまうため、時々こうした小休憩を挟んで全員に問題がないかチェックします。
くねくねとうねる中川沿いを進んで斜張橋の高砂橋で中川を渡ります。
高砂橋から上流の中川の左岸は道幅が広くゆったり走れますが、この先工事中で通行止めでした。
水戸街道の宿場だった新宿(にいじゅく)をかすめ、江戸川に出ました。
するとそこにあるのは両さんのあのトンガリ帽子の取水塔です。
金町の取水塔からは江戸川自転車道を北上します。
取水塔付近の自転車道はかなり狭くて注意が必要ですが、常磐線をくぐり抜けた先はこんなに広くてびっくりするくらい。
葛飾橋で江戸川を渡り、千葉県の松戸市側へ。
松戸市側の江戸川の土手にもサイクリングロードが続いています。
遥々栃木県からやってきたコンタは前回、このあたりの対岸で足がつって大騒ぎをしましたが、今日は大丈夫なようです。
こちらは遥々東京の果てからやってきたシロスキー。E-bikeでGoGo!
コロナがうようよいるから外出しちゃダメよ、と奥様から外出禁止令を出されていたマサキンは2年半ぶりの登場。
遥々神奈川県からやってきたマコリン。最近忙しくてなかなか出席できませんが、引き続きよろしくお願いしますとのこと。若いうちは忙しくて当たり前。がんばれ〜
仕事場が遠方になった上に土曜日出勤が増えてしまったので、なかなか出席できないタキスキーは、今日は仕事をほっぽらかしての参加。おいおい、大丈夫か〜
近くだけれど週末はなにかと予定が入ってしまうコムランは2ヶ月ぶりの登場。今日は曇りで良かったです〜、ピーカンだったら暑くて走れないですからね〜
江戸川サイクリングロードは、同じく都心のサイクリングロードとして有名な多摩川のそれに比べると利用者が少なく、どこかのんびりしていて走りやすいのがいいところです。
松戸水門の脇の主水橋から坂川沿いに入ります。
江戸川近くの坂川周辺にはいくらか田んぼが残っていますが、すぐに市街地に入って行きます。
松戸もかなり大きな町になりました。
坂川を離れて高台にある本土寺へ。
私たちは本土寺の北側からアプローチしたのですが、最後に激坂が出てきてここはアヘアヘ。
ここまでいろいろなことが重なって本土寺到着は予定より45分も遅れてしまったので、お寺の参拝はあとにして昼食を先にすることにしました。
今日の昼食はなんとおフレンチ。
たまにはお嬢様方のご機嫌をとらなくちゃあならないので。。(汗)
今回選択したコースは、メインは肉か魚かどちらか一品ですが、スープもデザートも付いて2,000円とかなりリーズナブルでおいしかったです。
さて、昼食のあとは本土寺にお参りしましょう。
本土寺の創建は13世紀と伝わり、参道もかなり立派です。
慶安年間(1648年〜1651年)建立とされる朱塗りの山門は大きな木で半分隠れています。
その山門をくぐると紫陽花がそこら中に咲き出します。
これはセイヨウアジサイでしょうか。それともホンアジサイですかね?
参拝者の中にフクロウを連れてきていた方がいました。
フクロウってどこか愛嬌を感じますね。
この鐘楼の中にあった梵鐘には1278年の鋳造銘があるようです。その梵鐘は現在は宝物殿に保管されています。
五重塔は1991年(平成三年)建立と新しいのですが、すっかりこの景色になじんでいます。
アプローチ正面に立つ本堂にお参りしたら、その北にある徳川家康の側室の一人であった秋山夫人の墓などがある庭園へ。
ここは新緑も紅葉も良さそうなところです。このガクアジサイは装飾花の数が多いですね。ガクアジサイに良く似たものに装飾花の数が少なく、枝や葉っぱが細いヤマアジサイというものもあります。
ホンアジサイはガクアジサイの栽培種ですが、今日アジサイと言うとこちらをイメージする方が多いでしょう。
日本のアジサイはほぼ青いものであったろうと考えられているので、これはもっとも伝統的な色でしょう。
その伝統的な青い色のアジサイも最初生まれた時は白っぽい色をしています。それが徐々に青くなり、さらに赤みを帯びていきます。
真っ白なアジサイです。
白い紫陽花では北米原産でヨーロッパで改良されたアナベルが有名ですが、これはそれとは違い、日本的な感じがします。
竹林の横を下って行くと先に像師堂が立っており、その下に菖蒲池が見えます。
薄暗いところからこの明るい花がたくさんの広々とした空間に出ると、あっと驚きます。
全体が日本的な色調です。
堀切菖蒲園の花菖蒲はかなり手が入れられており整然としていてきれいですが、ここのそれはより少しだけワイルド。
周辺に雑物が見えないこのロケーションはとてもいいです。
渡り廊下の朱色もここでは悪くないですね。
本土寺でたっぷり紫陽花と花菖蒲を眺めたら、丘を下って東の小川沿いを行きます。
周辺はほとんど住宅で埋め尽くされつつありますが、この小川の周辺だけは田畑が残っています。
坂川を渡ると松戸市から流山市になります。今日の最後は流山本町の江戸回廊と呼ばれる江戸時代からの建物が立ち並ぶゾーンを巡ります。ここは江戸時代から大正時代にかけて、江戸川の水運を活かした商業の町として栄えたところで、白みりん発祥の地としても知られています。歴史的な建築物は江戸川沿いの通りに多いので、その流山本町大通りを行きます。
まずは雑貨の『あかり館』。築90年ほどの元乾物店の建物を改修したものでシックでいい感じですが、この日はすでに店じまいしていました。
流山本町江戸回廊は流山本町行灯回廊とも呼ばれるようで、店先に切り絵行灯が並んでいます。
この街に切り絵行灯が立ち並ぶようになったのは2012年のことで、ここ『ましや呉服店』に元々あった行灯に切り絵作家の飯田さんが切り絵を嵌めたことから始まったと言います。
その後、飯田さんと同じくこの街に生まれ育った長谷部さんが行灯本体を作るようになり、協力して現在の切り絵行灯が並ぶようになったわけです。今日、その数は80基以上だそうです。
呉服の新川屋は市内で最初の国登録有形文化財で、創業は幕末の1846年。現在の建物は棟札から1890年(明治23年)に大工の土屋熊五郎によって建てらたものということがわかっています。
土蔵造りで、鬼瓦に見えるのはなんと恵比寿さまと大黒さま!
この建物は元は足袋屋でしたが、流山市の古民家再生プロジェクトの第一号でレストランとして蘇ったものでした。
『丁字屋』の名前も元の屋号から付けられたものだそうです。当時の佇まいをできる限り残す形でリノベーションされ、外観だけでなく内装も、土間、上がりかまち、神棚、急な階段など、そのままに蘇らせたものでしたが、丁字屋さんはつい最近移転してしまい、現在ここは空き屋になっています。残念ですがこの建物を引き継いでくださる方が現れるのを期待しましょう。
丁字屋の向かいには浅間神社があります。
浅間神社と言えば富士塚ですね。この富士塚、意外と高くてびっくり。頂上からは流山クリーンセンターの大きな煙突がぼーっと霞んで見えました。この日は視界が悪いので距離感や大きさが良くわからず、最初は巨大な超高層ビルでも立ったのかなと思いました。
これは国登録有形文化財の笹屋土蔵で、現在はカフェ&ギャラリーの灯館になっています。外部は白漆喰塗りで、頂部と腰は黒漆喰と洒落ています。外部内部とも、とてもきれいに整備されています。
笹屋は江戸時代の1860年創業で、現在は五代目が営む寝具店です。初代は越後屋(現在の三越)の仕立屋だった『笹屋』の職人で、その後暖簾分けにより流山へ移転したといい、当時流山一の商店だった『三河屋』呉服店の仕立てを請けていたそうです。この建物は三河屋の蔵を移築したと伝わっています。
流山本町大通りと万上通りを繋ぐ小径には近藤勇陣屋跡と国登録有形文化財の秋元家住宅土蔵があります。
秋元家住宅土蔵の外壁は白い塗装が施されているので、この下地はモルタル塗りだと思います。この家の隣の方によれば、秋元家はみりん醸造を行っていた本家から分家した家で、建物は明治時代の後期に『三河屋』呉服店の蔵を買い取り、この地へ移築したものだとのこと。ちなみに近藤勇とこの蔵は関係がないそうです。
秋元家住宅土蔵の並びには閻魔堂があります。その横にこんな井戸が残され、手押しポンプが設えられていました。
奥にお墓が見えるので手桶の水汲み用でしょうか。手押しポンプで水を汲んだことのない方も増えましたが、私の家にはありましたよ〜(笑)
流山本町大通りに戻ると『清水屋』です。この清水屋は1902年(明治35年)創業の和菓子屋さんです。
建物は創業より早い明治中頃のものと推定されており、国登録有形文化財です。白い外壁はモルタル塗りで、今日は光が弱いのではっきり見えませんが、そこにコテで『店本屋水清』と書かれています。いわゆる看板建築ですが、これは内部の円柱脚部の大理石塗りとともに職人技です。
ここで菓子好きのシロスキーが最中を買ってくれました。
しっかりした餡子の伝統的な味です。
清水屋さんの向かいは寺田園茶舗の万華鏡ギャラリーでしたが、おやおや、こちらも移転だって。残念。
寺田家は流山村の草分けといわれる六軒百姓の一つで、明治時代は寺田茶乾物屋を営んでいたようです。流山市の国登録有形文化財第2号。黒漆喰磨仕上げの土蔵造りはこの通りで残るのはこれだけです。
万上通りにシフトすると『まちなかミュージアム』があります。ここは流山キッコーマンの工場。言わずと知れた白みりん『マンジョウ本みりん』を醸造しているところです。
その塀に流山の歴史や日本の食文化についての写真や絵がずらりと並んでいます。かつては今よりずっとその数が多かったのですが、どうしたわけか減ってしまったようです。
この中で一番目を引くのは、歌川広重の『東都名所 高輪廿六夜待遊興之図(たかなわにじゅうろくやまちゆうきょうのず)』でしょう。
これは江戸時代の旧暦7月26日の月見を描いた図です。『二十六夜待ち』といえば高輪から品川にかけてで、これを描いた浮世絵はたくさんあるのですが、広重のこの絵には食べ物屋がたくさん載っています。汁粉屋 、だんご屋、蕎麦屋、天ぷら屋、焼きいか売り、寿司屋、果物売りなどがひしめき合っています。当時の食べ物屋、今で言うファストフード店の集合の図といったところ。
二十六夜待ちは元々は信仰儀式でしたが、そのうちに祭りとしての色合いが濃くなってきます。二十六夜の月が顔を出すのは深夜なので、それまで人々は飲めや歌えやの大騒ぎをして過ごすようになったのでしょう。面白いことにサイダーの指差すところに描かれているのはタコの着ぐるみを着た男です。これは広重の愛嬌だと思いますが、本当にこんなものがいたかもしれませんね。周囲には楽器を持つ人々が描かれているので、少し前のチンドン屋といったところでしょうか。それともこれからやられるドンチャン騒ぎのエンターティナー? 当時は素人が即興で踊りや芝居をする『俄(にわか)』(俄狂言のこと)というものがあったそうですから、これかもしれません。
みりん醸造で財を成した秋本本家の跡であり、俳人の小林一茶が数十回訪れたという現在の『一茶双樹記念館』はこの時刻はすでに閉館しているのでパスし、赤城神社を覗いてみます。
赤城神社は小山の上に鎮座していますが、この小山はかつて洪水の際に群馬県の赤城山の山体の一部が流れてきたものだという伝承があります。また一説によると、赤城神社のお札が流れ着いたともされています。まあとにかくこの神社は赤城山にある赤城神社と関係があり、『流山』という地名もこれらの伝承に由来するとされています。流山にとってはとても大事な神社なのです。
ここでは例年10月に流山市指定無形民俗文化財の『大注連縄行事』が行われます。写真の鳥居に見える重さ500kgという大注連縄を、氏子や地元の方々が協力して一日で造りあげるそうです。
今日は晴れだと思っていたのに曇りで、しかもこの後すぐに雨が降り出すよ、と言うので、急いで南流山駅へ向かいました。なんとか南流山駅に無事到着の図。
今日は堀切菖蒲園、本土寺、流山本町江戸回廊と盛りだくさんでしたが、それぞれそれなりに楽しめたので良かったです。
昼にたくさん食べたけれど、やっぱり反省会は欠かせませんよ。雨が降り出す直前に駅前の居酒屋に飛び込みました。
いつものようにワイワイ・ギャーギャーとすざまじい時間を過ごしましたが、ここで今回3回目のジオポタ参加となるコテッチャンはなんと入会を決意! 物好きだね〜(笑)