2027

ツール・ド・中央区  名所江戸百景

開催日 2021年02月06日(土)
参加者 /サイダー
総合評価 ★★
難易度
走行距離 25km
地域 首都圏

コース紹介

中央区をぐるり。名所江戸百景からは22景! 広重が実に百景の五分の一をこのエリアに費やしていることから見ても、このあたりが江戸の中心であったことが分かります。160年で変わった江戸と東京の見比べを楽しみます。


集合場所    東京駅 八重洲口
集合時刻    08:50
解散予定場所  銀座四丁目交差点
持物      健康保険証、緊急時連絡先(実家など)のメモ、ライト、チューブ
企画者     サイダー
決行案内    開催前夜
備考       


地図:Googleマップgpxファイル/GARMIN Connect/Ride With GPS

検討用map:1 2

発着地 累積距離 発着時刻 ルート 備考
東京駅 START 発09:00 外堀通り 八重洲口
比丘尼橋 0.5km 着09:05
発09:10
一般道 『びくにはし雪中』/二代広重?
京橋 0.8km 着09:15
発09:20
一般道 『京橋竹がし』
広重住居跡 1.4km 着09:25
発09:30
一般道 『市中繁栄七夕祭』
コレド日本橋 2.0km 着09:35
発09:40
一般道 『日本橋通一丁目略図』
日本橋 2.2km 着09:45
発09:50
一般道 『日本橋江戸ばし』
『日本橋雪晴』
一石橋 2.7km 着09:55
発10:00
一般道 『八ツ見のはし』
常磐橋 2.8km 着10:05
発10:10
一般道 常盤橋門跡
日本銀行
室町二丁目交差点 3.0km 着10:15
発10:20
一般道 『する賀てふ』
三井本館、三越本店、コレド室町
本町二丁目・三丁目 3.4km 着10:25
発10:30
一般道 『大てんま町木綿店』
大伝馬町 3.8km 着10:35
発10:40
一般道 『大伝馬町こふく店』
馬喰町 4.5km 着10:45
発10:50
一般道 『馬喰町初音の馬場』
柳橋 5.2km 着10:55
発11:00
隅田川 『両国花火』
両国橋 5.3km 着11:05
発11:10
隅田川 『浅草川大川端宮戸川』
浜町河岸通り 5.5km 着11:15
発11:20
隅田川 『両国橋大川ばた』
新大橋 6.3km 着11:25
発11:25
隅田川 新大橋通り
中州公園 6.6km 着11:30
発11:35
隅田川 『大はしあたけの夕立』の視点付近
清洲橋 6.9km 着11:40
発11:40
隅田川 チェーンブリッジ
日本橋川
豊海橋
7.5km 着11:45
発11:50
一般道 『永代橋佃しま』
WC
水天宮 8.7km 着11:55
発12:15
一般道 久留米水天宮の分社
安産・子授け
鎧橋 9.3km 着12:20
発12:25
一般道 『鎧の渡し小網町』
東京証券取引所
鉄炮洲稲荷神社 10.6km 着12:30
発13:50
一般道 『鉄炮洲稲荷橋湊神社』
佃島
住吉神社
11.6km 着13:55
発14:10
一般道 『佃しま住吉の祭』
着14:15
発14:15
もんじゃストリート
月島 13.0km 着14:20
発14:25
一般道 『鉄炮洲築地門跡』
晴海客船ターミナル 15.0km 着14:35
発14:50
一般道 展望台
築地大橋 18.8km 着15:10
発15:15
一般道 『芝うらの風景』
浜離宮 19.0km 着15:20
発15:20
一般道 300円
築地場外市場 20.0km 着15:25
発15:40
一般道
築地本願寺 21.0km 着15:45
発16:00
一般道 設計:伊東忠太
歌舞伎座 21.5km 着16:05
発16:05
一般道
泰明小学校 22.4km 着16:10
発16:15
一般道 『山下町日比谷外さくら田』
銀座四丁目交差点 24.0km 着16:30 和光
日の入り17:13/名所江戸百景:Wikipedia地図国会図書館デジタルコレクション
錦絵でたのしむ江戸の名所浮世写真家 喜千也の『名所江戸百景』古地図 with MapFan江戸城三十六見附

東京23区にあってその名も中央区! えらく大きく出たもんですね。しかしこの名はまんざらでもありません。江戸時代の絵師、歌川広重による名所江戸百景は119景からなりますが、そのうちのなんと五分の一以上に当たる22景が、今の中央区を描いたものなのです。このことからもこの地は、広重の時代からまさに『中央』と言って良いところだったことが伺えます。

今日はこの22景の場所がどのように変わったのかを確かめつつ、中央区をぐるりと廻ります。

集合地点は東京駅の八重洲口。東京駅そのものは中央区ではなく千代田区に属していますが、駅前を通る外堀通りから東側が中央区です。この外堀通りはその名からわかるように、かつては江戸城の外濠でした。江戸時代、外濠の外側は商工業者が住んだところで、桶町、大工町、鍛冶町、紺屋町など、かつては町名に職業の名が付けられたところもたくさんありました。

東京駅の正面から東南東に延びる広い通りは八重洲通り。かなり立派な通りなので、江戸城に向かうメインの道だったのだろうと想像していましたが、実はこれは関東大震災(1923年(大正12年))後に計画され、1939年(昭和4年)に完成したものだそうです。大正時代中ごろのこのあたりを今昔マップで見ると、八重洲側は密集して建物が立ち並んでおり、まだ八重洲通りはありません。東京駅(1914年(大正3年)開業)はすでにあるものの、丸の内側はまだ丸ビル(1923年(大正12年)竣工)もなく、ガランとしていたことがわかります。さらに古い地図を見ると、現在の八重洲通りの突き当たりに八重洲橋があり、八重洲側と丸の内側を繋いでいたことがわかります。

ちなみに『八重洲』の語源は、江戸時代の初期に日本で活躍したオランダ人ヤン・ヨーステンから来ているそうです。

さて、八重洲通りを眺めたら外堀通りを南南西に向かいます。最初に出てくる交差点は『鍛冶橋』です。江戸時代、ここが外濠だったことは述べましたが、その外濠には当然橋が架かっていました。当時の切絵図(地図)築地八町堀日本橋南絵図を見ておきましょう。この図を90°半時計回りに回転さすと、ほぼ現代の地図の向きとなります。

元の図のままの向きで説明すると、一番上に左右に延びているのが外濠で、この右端に見えるのが呉服橋、その左、画面左右方向のほぼ中央に見えるのが鍛冶橋です。さらに左手に見えるのが数寄屋橋で、ここで濠は現在の道路の線形と同じように斜めになっていきます。これらの橋は交差点名としてその名を現在に伝えています。この時代にはまだ八重洲橋はありません。

『びくにはし雪中』(安政五年(1858年)十月 冬の部)

鍛冶橋交差点を南南西に向かい、正面に高架の高速道路が見えてくると、このあたりが江戸名所百景の『びくにはし雪中』が描かれたところです。江戸名所百景は基本的には初代歌川広重の手によるものですが、その死後出版されたものが三点あり、それらには二代広重の手が加わっているとする説が有力で、この絵もそのうちの一つです。二代広重作、初代広重以外の作と見る方もいます。

さて、画題の通りにこの絵は雪の絵で、描かれているのは比丘尼橋です。最近は東京ではほとんど雪を見なくなくなりましたから、この絵は一瞬どこを描いたものだろうと思ってしまいましたが、今から半世紀ほど前は、東京でも雪が20〜30cm積もることはそう珍しくありませんでした。

比丘尼橋は先ほどの切絵図では鍛冶橋のすぐ左、外濠から下に延びる京橋川に架かっています。つまりこれは今の外堀通りで、絵の比丘尼橋の右に外濠が見えるので、北の鍛冶橋側から南の数寄屋橋側を描いたものであることがわかります。濠の向こうに見えるのは江戸城の石垣でしょう。

手前の大きな看板の『山くじら』は猪の肉のことで、ここはその鍋を食べさせた店らしい。『○やき 十三里』の○やきは丸焼きのことで、これは栗(九里)より(四里)美味い十三里(9+4=13)という洒落で、売られていたのは焼き芋。十三里は店の名で、これはまた、今でもサツマイモの産地として知られる川越までの距離だとか。この店は橋番(橋の警備や清掃ををする番人)の番屋と見る向きもあるようです。当時の橋番は副業として日常雑貨などを売ったりしていたようで、寒い冬の日には、焼き芋はぴったりだったのかもしれません。

橋に向かって天秤棒で箱を担いでいるのは『おでん燗酒屋』だか総菜を売って歩く『煮売り屋』だか。先には見える火の見櫓は数寄屋橋のあたりに立っていたようです。

比丘尼橋からは京橋方面へ向かいます。かつてそこにあった京橋川は外濠同様に完全に埋め立てられ、その上には高速道路が通されています。

新橋も京橋も現在は、地名として一般には知られているでしょうか。しかしこれらは元々はそこに橋が架かっていたのです。現在の中央通りが京橋川を跨ぐところに架かっていたのが京橋でした。

『京橋竹がし』(安政四年十二月(1858年1月) 秋の部)

『京橋竹がし』

満月の夜。川は京橋川で、手前に大きく描かれているのが東海道で日本橋の次に架かる京橋。奥は中ノ橋で、東にあたる下流側を見ています。左手、川の北側に見えるのが竹河岸。

京橋川は徳川家康の入府後、最初に行われた天下普請で外濠と共に開削された水路でした。このあたりには、薪河岸、大根河岸、白魚河岸などたくさんの河岸がありました。その一つが建築資材や正月の門松、七夕飾りなどに使う竹を扱う竹河岸で、この絵ではかなり大げさにそれが描かれています。これらの竹は千葉県や群馬県などから筏などで運ばれたようで、河岸の横にそれを運んだのだろう筏が浮かんでいます。

京橋の欄干には擬宝珠(ぎぼし)が見えます。当時このあたりで擬宝珠が付けられたのは江戸城の各御門橋以外は日本橋とこの京橋だけだったそうですから、この橋がいかに重要なものであったかが伺えます。

ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)は、京橋の下を行く荷足船(にたりぶね)に積まれているのは竹籠と見て、近所に竹細工の店があるらしいと述べています。

橋の上には、大山帰りで大森名産の麦わら細工の纒(まとい)を担いでいる大山講中の人々が見えます。この写真では分からないと思いますが、中央より少し左の人物が持つ赤提灯には『彫竹』と書かれています。彫竹は彫師の横川彫竹(よこがわ ほりたけ)のことで、この人は当時もっとも有名な彫師の一人だったそうです。

浮世絵は絵師、彫師、摺師の共同作業で、絵師の名は画中によく出てきますが、彫師と摺師の名はそれほど多くは見られません。特に名所江戸百景では彼ら名がわかるのはこの絵を除けば『彫千』の名が認められる3点だけです。スミス氏は、彫竹の名が小さく隠し入れられる程度に押さえられてしまったのは、画面をできるだけすっきり整えようとする版元の方針にちがいない、としています。

極めて色数を限定したこの絵は、じっくり見れば見るほど、その世界に吸い込まれて行きそうです。

京橋からは中央通りで北へ。

『市中繁栄七夕祭』(安政四年(1857年)七月 秋の部)

『市中繁栄七夕祭』

画題から分かる通り、この絵は七夕を描いたものです。そしてその画題にはいつもなら挿入されている描かれた場所名がありません。だだ『市中』とあるだけ。

宮尾しげを(名所江戸百景 広重画/集英社)はこの絵の視点について、『(広重は)我が家の屋根の上に昇って見たものかも知れない』と言い、ヘンリー・スミス(前掲書)は、この場所は広重の家(現 京橋1-9-7)からの眺めだと言い切り、手前の蔵はその西側にあたる南伝馬町の商家のもので、右下に見える浴衣は広重自身のものではないか、とさえ言っています。

この絵を見ると、当時の七夕は現在よりずっと華やかだったようです。スミス氏によれば、七夕は江戸時代には五節句の一つとして将軍家の行事になる一方、農村では五穀豊穣を願ったそうです。都市では字の上達を願って、色紙などに詩歌を書いて青竹に吊るしたといいます。江戸時代の後半には江戸っ子の心意気の証として屋外で大々的にやられるようになり、物干し台に青竹をくくりつけて、それにいろいろな飾り物がつり下げられました。隣の家よりちょっとでも高く、豪華な飾り付けをしようという江戸っ子たちの姿が目に浮かぶようです。

杯は飲み助用か。スイカはなぜ?

七夕は現在まで伝わる行事ですが、明治六年(1873年)に五節句廃止令が出されて以降これは衰退し、大正時代の始めごろ(1910年代)までにほとんど消滅したそうです。現在の七夕は、仙台の商人が七夕に似た飾り物で軍事訓練を祝い始めたことが起源のようですから、びっくりです。

広重住居跡からは中央通りに戻り、さらにこれを北上します。

『日本橋通一丁目略図』(安政五年(1858年)八月 夏の部)

『日本橋通一丁目略図』

通一丁目は現在の日本橋一丁目あたり。絵に『白木屋』の文字が見えます。これは江戸三大呉服店(越後屋、大丸屋、白木屋)の一つとされた1662年(寛文2年)創業の白木屋呉服店で、その後東急百貨店となり、現在そこにはコレド日本橋が立ちます。一番奥に『や』とあるのは、現在はふとん店として有名な創業1566年(永禄9年)の西川で、現在も当地で営業しています。

この通りは当時も江戸一番の繁華街だったのでしょう。日傘をさしたり笠を被った人々が大勢行き来しています。画面中央の『ソ』の暖簾はヘンリー・スミス(前掲書)によれば蕎麦屋の東橋庵で、その出前持ちが白木屋の前に見えます。この頃から蕎麦はセイロに盛られ、出前があったということがわかります。

当時の風俗について伺い知ることは一般人にはなかなかむずかしいですが、スミス氏は続けて、画面中央の二段傘の中の五人組は大阪の住吉神社に始まった住吉踊りの連中で、この頃はすでに江戸の大道芸人になっていたと述べています。画面一番手前に三味線を持って歩いているのは女太夫で、これは当時は最下層の芸人であったとも。そして、これらの人々に共通するのは木綿を着ていることで、それがこのあたりが木綿問屋であったことと結びつくと。

『日本橋江戸ばし』(安政四年十二月(1858年1月) 夏の部)

コレド日本橋から中央通りをさらに北に進むと日本橋です。日本橋北神田浜町絵図 最初の日本橋は慶長8年(1603年)に架けられた木造橋で、翌年に五街道の起点となりました。

この絵は日本橋の欄干の擬宝珠を極端にクローズアップし前景とし、さらに手前に魚河岸帰りの魚屋の盤台の中の初鰹。初鰹は江戸っ子の垂涎の的だったといいます。

下を流れるのは日本橋川で、向こうには下流に架かる江戸橋が見えます。その背景にダーッと並ぶ白壁の土蔵は小網町河岸三十六蔵でしょう。東の空は朝焼けで、よく見ればその中に顔を出しつつある太陽が見えます。

現在の日本橋は明治44年(1911年)竣工の石造2連アーチ橋で、その中央には7つの道路の起点を示す道路元標が埋め込まれ、北西の橋詰にはそのレプリカが展示されています。

『日本橋雪晴』(安政三年(1856年)五月 春の部)

広重は東海道の起点である日本橋をもう一点描いています。『日本橋雪晴』 この絵こそ、名所江戸百景の冒頭を飾る一枚です。前の『日本橋江戸ばし』では東を描いたのに対し、この絵では西が描かれています。

中央に大勢の人々が行き交う日本橋、その向こうに一石橋(いちこくばし)、さらに奥に目をやると江戸城、そして富士山。川にはたくさんの押し送り船(江戸周辺で漁獲された鮮魚類を江戸へ輸送するために使用された漕帆両用の快速小型荷船)、手前は魚河岸で賑やかです。左上に白壁の土蔵。

この絵には日本橋の賑わいがすべて詰まっているようです。西の空が赤いので夕やけかと思いましたが、『雪晴』と、描かれている内容から朝であることがわかります。

葛飾北斎がこのあたりを富嶽三十六景『江戸日本橋』で描いています。手前の人波でごった返す橋が日本橋でしょう。

『八ツ見のはし』(安政三年(1856年)八月 夏の部)

日本橋から西へ向かい外堀通りに出ると、そこには一石橋が架かっています。ここはかつては外濠から日本橋川が別れる地点でしたが、現在はこれより南の外濠は埋め立てられてしまっているので、日本橋川が外濠であるように見えます。

『八ツ見のはし』は一石橋のことです。かつてはここから、自身を含め八つの橋が見えたようです。手前で欄干だけ見えているのが一石橋。外濠の向こうに見えるのが今は埋め立てられてなくなってしまった道三堀の銭亀橋(銭瓶橋)、そしてその先の道三橋。右手には常盤橋、左手には呉服橋と鍛冶橋、うしろを振り返れば、日本橋と江戸橋が見えたのです。

大きくて優雅な柳の木と富士山、そして船で薪を運ぶ人、四手網(よつであみ)を沈める漁師。これらのうち、現在ここから見える物はありません。そう、二羽のツバメはもしかすると見られるか。そうそう、柳の木の左に出っ張った部分ですが、これ、横から見ると富士山ですよね。隠れ富士!

一石橋のすぐ北には外堀通りに常磐橋、さらに進むともう一つの古い常磐橋があります。前者は関東大震災後の復興計画で建設された道路橋で、後者は江戸城常盤橋門に通じる歩行者専用の石橋です。

この石橋の袂には日本銀行が立っています。このあたりは江戸時代から両替商が軒を連ねた金融の中心でした。明治29年(1896年)に竣工した日本銀行旧館(本館)は赤煉瓦の東京駅を設計した辰野金吾の設計で、ギリシャ風のドリス式とコリント式の列柱が立ち並ぶクラシックな様式です。

その東は昭和4年(1929年)に竣工した三井財閥の本拠地である三井本館。ギリシア復古調の新古典主義様式です。

『する賀てふ』(安政三年(1856年)九月 春の部)

三井本館の南は三越本店。中央通り(中山道)を挟んだ向かいは三井不動産がプロデュースしたコレド室町。現在は日本橋室町となっているこのあたりは、江戸時代には駿河町と呼ばれており、都市計画で富士山を正面から跳められるように道が配されました。駿河町の名は富士山山頂が駿河の国にあることから来ているといいます。

左右に立ち並ぶ大店は井桁に三の字が見える暖簾から、三井越後屋。これはのちに三井と越後屋の頭文字を取り三越呉服店になります。左が現在の三越本店、右が三井銀行がある場所です。店を一点透視図法で対称に描き、正面中央にデ〜ンと富士山。これは日本の伝統的な絵画ではあまり見られない構図で、やや単調な印象を受けますが、それが逆に絵に強さを与えているように感じます。

北斎の富嶽三十六景は『江都駿河町三井見世略図』。

『大てんま町木綿店』(安政五年(1858年)四月 春の部)

三越の前からは昭和通りに出て旧日光街道に入ります。この旧日光街道あたりは江戸時代は大伝馬町で、江戸最大の繊維問屋街を成しており、木綿店(もめんだな)と称されていました。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、絵は宵の光景。暖簾が並んだ木綿店は手前から、田端屋、升屋、嶋屋。短く描かれた暖簾の間から店の中の木綿の反物が見えます。

この絵を見て驚くのは、店が長屋形式であることでしょう。長屋は裏店のものだと思っていましたが、こうした大店でも長屋形式をとることがあったのです。しかしこれはやはり珍しかったようで、スミス氏は大伝馬町独自のものだと述べています。さらにこの建物は長屋ではあっても防火構造であるようで、店と店の間には卯建(うだつ)が上がり、屋根上には防火用水置場の囲いが見えます。店の前を歩いているのは揃いの着物の芸者二人と供の小女で、足どりから宴席の帰りだろうと。

通りの反対側には小津屋、江戸屋、川喜多屋があり、この中の創業1653年(承応2年)の小津屋は現在もそこにあります。

『大伝馬町こふく店』(安政五年(1858年)七月 秋の部)

旧日光街道をそのまま東に進むと、現在も日本橋大伝馬町である地区に入ります。ここで広重は大伝馬町をもう一点描いています。

描かれているのは下村大丸屋呉服店(現在の大丸)とその前を練り歩く『棟梁送り』の行列。

棟梁(とうりょう)とは大工の親方のことで、棟梁送りとは現在ではほとんど廃れてしまった行事ですが、棟上式の祝宴を終えたあとに棟梁をねぎらってその家まで送って行くことです。

ヘンリー・スミス(前掲書)は、大工は江戸では職人の雄であり、この絵は、江戸で商いをするものと江戸を建てるものとの羽振りのよさを、それとなく巧みに描き出していると述べています。先頭で武士の礼装である烏帽子を付けているのが大工の棟梁で、担いでいるのは大幣。それに続く袴姿の人々は鳶の頭、左官といった職人たちで、二本の破魔矢を担いでいるのが見えます。

大丸屋の看板には『現金掛値なし』とあり、この商習慣は三井越後屋の三井高利(みつい たかとし)によって始められたもので、これに大丸屋が挑戦した形だそうです。広重は高名な大店の三井越後屋だけを描くのは不公平と考え、その競争相手であった大丸屋も描いたということかもしれません。

『馬喰町初音の馬場』(安政四年(1857年)九月 春の部)

旧日光街道からちょっと逸れて日本橋馬喰町に入ります。馬喰(ばくろう)は馬牛の売買・仲介をする商人です。江戸時代の初期には、浅草御門(現在の浅草橋の位置)のすぐ南西に『初音の馬場』とよばれる徳川家の馬場がありました。その北に郡代屋敷が置かれると、周辺は訴訟や裁判で地方から出てくる人のための宿屋が増加し旅宿街になり、次第に日光街道、奥州街道の起点のまちになっていきました。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、初音の馬場は広重の時代には空き地になっており、この絵に見られるように柳の木が植えられていたようです。手前に見えるのは紺屋町の染物職人が干した反物で、その向こうには宿屋と馬場の西の端に立つ火の見櫓が見えます。

柔らかな落ち着いた色合いのこの絵は、摺師の腕に負っているところも大きいように感じます。この写真ではわかりませんが、白い反物には布目摺が施されています。

『両国花火』(安政五年(1858年)八月 秋の部)

神田川から浅草の隅田川に出ます。神田川の出口には柳橋が、その先の隅田川には両国橋が架かっています。絵は柳橋あたりから両国橋を見たものでしょう。

夏の風物詩とも言える隅田川花火大会は、将軍吉宗が全国的な大飢饉とコレラの退散を願い、1773年(享保18年)に両国橋での花火の打ち上げを鍵屋に命じたことに始まるようです。旧暦の5月28日のことでした。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、以降その日を隅田川の川開きとし花火は恒例行事になりましたが、これ以外に7月と8月にも打ち上げられていたそうです。そして当時の記録では、夏には雨が降らない限り毎晩のように行なわれていたとあるそうです。この絵は、『秋』の部に入っていること、川開きの特徴となっている押すな押すなのどんちゃん騒ぎといった雰囲気がないことから、特定の一日の行事を描いたというより、夏の気分を表わしたもので、格式ある料亭からの眺め、としています。

大きな船は大店の商人たちが貸し切った屋形船で、それより小さな屋根船も見えます。小型の船はタクシーのような猪牙船(ちょきぶね)で、舳先に行灯を灯しているのは遊山船を廻って飲食物を売る荷売船だそう。

浮世絵は同じ絵でも現在の初版に当たる初摺りと、増刷に当たる後摺りとがあります。後摺りの中には初摺りとはまるで雰囲気が異なるものもあります。この例では花火は開いておらず、散っていくところに見えます。

『浅草川大川端宮戸川』(安政四年(1857年)七月 夏の部)

川は、場所により時代により、その名を変えます。かつて隅田川は、鐘ヶ淵より上流は荒川で、浅草付近では浅草川とも宮戸川とも、そして大川とも呼ばれていました。この画題を見ると広重は画面の左、右、中で別々の川の名を当てているのですが、混乱は否めず、後摺りでは『両国船中浅草遠景』と改題されています。

大山詣りを描いた絵です。大山は神奈川県伊勢原市にある霊山で、別名『雨降山』とも呼ばれ、雨乞いや五穀豊穣の祈願だけでなく、商売繁盛にも御利益があり、江戸時代には年間に江戸の人口の五分の一もの参詣があったそうです。大山登拝は大山講(講:同一の信仰を持つ人々による結社)によるものが一般的でした。

画面手前と右の船に梵天(たくさんの御幣(神祭用具の一つで、紙または布を切り細長い木に挟んで垂らしたもの)を束にして棒の先に刺したもの)が見えます。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、描かれているのは『大山石尊の水垢離(みずごり)取り』。水垢離とは、神仏に祈願する際に冷水を浴び、体のけがれを去り清浄にすること。右の船の大山講の一行は橋の東詰めの垢離場で身を清め、柳橋の船着場を目指しています。大山講は山伏が組織したので、船の舳先に法螺貝を吹く山伏が見えます。

左下は鉢巻き姿の職人たちで、端午の節句の早朝に夏の水垢離取りの口火を切るのは、こうした血の気の多い若い衆だそうです。垢離を取った人々は、梵天に刺さった御幣を抜いて、町内の一軒一軒に配って歩くのだそうです。

絵は両国橋の真下から北を望んだもので、正面に見える山は形からして明らかに筑波山でしょう。

『両国橋大川ばた』(安政三年(1856年)八月 夏の部)

広重は両国橋をもう一点描いています。画題の大川端は前図にも出てきましたが、両国橋付近の隅田川東岸の呼び名でした。

広重自身による絵本江戸土産の初編『両国橋』には以下のようにあります。

長さ九十六間あり。万治二年(1659年)に初めて架ける。むかしは武蔵と下総の境なればかく呼びしを、今は両岸武蔵となりて、ただ二国(ふたくに)はその名のみ。東都第一の繁華にして観場(みせもの)芝居、辻講釈、あるは納涼花火の景、昼夜の遊興絶え間なし

これによると、両国橋の名は武蔵国と下総国の境にあったことから来ており、この時代には国境が移動して両岸とも武蔵国になっていたことがわかります。両国橋は住宅の密集を緩和するために隅田川東岸に市街地を広げる目的で架けられたのでした。そして橋の周囲は東都一の繁華街で、芝居小屋などが立ち並ぶ、昼夜とも賑やかな遊興地でした。

絵は中央に往来の激しい両国橋、下によしず張りの茶屋が並んでおり、川面にはたくさんの船が浮かんでいます。向こう岸が大川端で、百本杭と呼ばれる水勢を緩和するための無数の杭が見えます。そのうしろは伊勢津藩藤堂家下屋敷で、さらにその向こう側(現在の両国国技館あたり)に御米蔵の水路に架かる御蔵橋が見えます。

『大はしあたけの夕立』(安政四年(1857年)九月 夏の部)

隅田川に沿って南下し、首都高速をくぐり抜けると、新大橋が見えます。この新大橋の初代は元禄6年(1694年)に今の橋の少し南に架けられました。

広重の作品でもっとも有名なものの一つ、ゴッホが模写したことでも知られる『大はしあたけの夕立』。日本橋浜町側から大橋を介し、北東を望んでいます。安宅は対岸一帯の俗称で、これは幕府の巨大軍艦安宅丸が半世紀ほど御舟蔵の前に係留されていたことから名付けられたものだそうです。

突然降り始めた夕立に慌て、傘を差したりゴザを被って逃げ出す人々。この写真では判然としないかもしれませんが、雨は二種類の線で描き分けられています。ネズミ色の細い線と墨色の線で、この二つは角度も微妙に異なります。

よく見れば、対岸の左に御舟蔵、右に火の見櫓がうっすらと見えます。上部の黒雲は当てなしぼかしによるもので、後摺りと思われるものになるとこれは直線になります。この絵には対岸に二艘の船が描かれている異版があります。

『永代橋佃しま』(安政四年(1857年)二月 春の部)

清洲橋、隅田川大橋と過ぎてなおも隅田川を下ると、永代橋です。江戸時代の永代橋は日本橋川の北側に架かっていました。そしてその先に浮かぶ佃島は、今からは想像できないくらい小さなものでした。そして越中島もまだ埋め立てられておらず、江戸湾は広々としていました。築地八町堀日本橋南絵図

永代橋の下から佃島を見たこの絵をヘンリー・スミス(前掲書)は、『摺師の腕前と浮世絵師の意匠がみごとに一つになって詩情豊かな夜の眺めをつくりだしている。』『広重の数少ない月夜の描写で(中略)もっとも成功した作品』と述べています。

近景は左に永代橋の橋脚、右に漁船とその櫓。中景は右に弁才船(俗に千石船と呼ばれた大型木造帆船)、左に佃島から白魚漁に来た小舟の舳先と漁り火。遠景にその佃島。白魚漁のかがり火は隅田川の河口の冬の風物詩だったそう。

各所に見られるぼかしの技法。かがり火に照らされた川面はその光をぼーっと映しています。この写真ではわからないかもしれませんが、弁才船の帆柱には雲母摺(きらずり)が施され、月の光を反射しています。

『鎧の渡し小網町』(安政四年(1857年)十月 夏の部)

水天宮に立ち寄ったら、小網町から鎧橋で日本橋川を渡ります。渡った先は茅場町。ここには江戸時代には橋はなく、『鎧の渡し』で川を渡っていました。日本橋川に沿って、小網町側には小網河岸が、茅場町側には茅場河岸があり、たくさんの土蔵が並んでいました。

絵は茅場町側から小網町側を見たものでしょう。並んだ並んだ土蔵が並んだ。空にはツバメが舞い、川にはいろいろな種類の船が浮かび、船着場にはこれから渡しに乗るのか、粋な着物姿の娘がいます。

ヘンリー・スミス(前掲書)によれば、ここのお蔵には全国から集まった米、大豆、油といったものが蓄えられたといいます。中央で櫓を操るのはタクシーのような猪牙船。右には茶箱らしきものを積んだ荷足船。左に見える数名の客を乗せているのが渡しでしょう。画面左の黒い影は行徳・木更津方面に向かう内海航海用の五大力船(ごだいりきせん/江戸近辺で用いられた海川両用の廻船)だろうと。

鎧の渡しには源頼義(義家という説も)の伝説(いずれも鎧を海中(徳川が埋め立てる前はこれより東南は海だった)に投げ入れたというもの)があり、これが現在の兜町の名の起こりだといいます。

『鉄炮洲稲荷橋湊神社』(安政四年(1857年)二月 秋の部)

日本橋川から亀島川沿いに入ります。

前に掲げた『京橋竹がし』の京橋川を下って行くと八丁堀に出ます。その八丁堀は亀島川の末端でこれに合流するようにして、江戸湾に流れ込んでいました。この八丁堀の出口に架かっていたのが稲荷橋で、そのすぐ南には湊神社が立っていました。この神社は元の位置から少し移動して鉄砲洲稲荷神社として現在もあります。鉄炮洲は湊神社の南に長く延びる洲で、現在は鉄炮洲通りなどにその名を留めます。

絵は八丁堀の末端から西を望んでいます。ヘンリー・スミス(前掲書)によると、手前の二本の柱は弁才船二艘の帆柱で、その先に見える橋が稲荷橋。橋の左に見える朱色の玉垣の向こうに半分だけ見えているのが湊神社。奥へ向かっている船は弁才船から受け取った荷を橋の向こうに見える河岸蔵に配送する瀬取船で、『川の合流点の感じをうまく出している。』といい、湊神社は『江戸でも有数の古社で、江戸湾から都市へ入る入口を守る神としてことのほか重要であった』とも、述べています。

『帆柱の様子から、和船の帆装に使う装置の知識が、ある程度得られる。』そうですが、和船に詳しい方の話として、正確に描いていないところがあると紹介しています。

『佃しま住吉の祭』(安政四年(1857年)七月 春の部)

さて、佃島に渡りましょう。佃島は江戸湾に浮かぶ砂州のようなものだったようで、そこを埋め立てて島にしたのだとか。徳川家康が江戸に入るのに合わせ、大阪の佃の漁民がやってきて住み着き、漁業を始めたそうです。この時、住吉神社も分社しました。

当時の佃島の大きさは築地八町堀日本橋南絵図でもわかりますが、北斎の冨嶽三十六景『武陽佃嶌』を見ると、よりイメージできるでしょうか。

絵は、中央にデンと『住吉大明神』と書かれた幟。その向こうの海の中には大勢に担がれた神輿。彼方の山は房総半島。

ヘンリー・スミス(前掲書)によると、祭りは大阪からここに移住したことを祝うもので、三年ごとに執り行われており、神輿は島をぐるりと一周して住吉神社に戻ってくるそうですが、この水渡御は昭和時代に廃止されたそうです。右にちょっとだけ見えている赤いものは祭り用の提灯で、実際は格子模様の屋根の下にいくつか並んでいるようです。幟の文字を書いた整軒宮玄魚は広重の友人で、のちに名所江戸百景の目録を手がけることになる梅素亭玄魚のことだと。

『芝うらの風景』(安政三年(1856年)二月 冬の部)

名所江戸百景のなかで最初に出版された五枚のうちの一枚。

右手に描かれているのは今の浜離宮庭園で、当時は浜御殿と呼ばれた将軍の別荘。手前左と中景に描かれているのは、浅瀬で船が安全に航行できる水路を示す澪標(みおつくし)。遠景には造られたばかりの台場がいくつかと、高輪から品川にかけての海岸線。愛嬌ある鳥はユリカモメ。

ヘンリー・スミス(前掲書)によると、ここにはすでに『近景の一部を大写しにして遠景と対比させるという工夫』が現れているといいます。しかしそれは『まだ完全に自分のものになっていない。』と。確かにこれは、二つ前に取り上げた『鉄炮洲稲荷橋湊神社』と比べると一目瞭然です。

二つの澪標が連続しているもののように見え、さらに中景のそれとその右に描かれている船の大きさとは釣り合いが取れていないとも。広重の絵には遠近法の一つである透視図法的な描き方をしているものがかなりありますが、それが正確でないことは多々あります。

浜御殿の実際の石垣はまっすぐですが、ぎざぎざに描いたのは構図に変化を付けるためのようだと。

この絵の左下には彫師の『彫千』の名があります。これは名所江戸百景にあっては例外中の例外です。『彫千』の名が見えるものはもう二点ありますが、それらは絵の外の印で、絵の中に彫師の名があるのはこの一点しかありません。(『京橋竹がし』の『彫竹』は明示的ではない)

『鉄炮洲築地門跡』(安政五年(1858年)七月 秋の部)

築地です。築地は埋め立てて築いた土地という意味で、ここは明暦の大火(1657年)の際に焼失した浅草御門の南にあった西本願寺(現 築地本願寺)の代替地として佃島の住人によって造成されたものだそうです。

この絵は鉄炮洲の湊神社から1kmほど南へ移動した地点で、遠くに見える大屋根は西本願寺本堂。画題の築地門跡はその尊称だそう。

画面中央付近で石垣が切れていますが、その右側が明石町で、これは現在も地名として残っています。その手前に見える二列の石積は砂や波を避けるためのもの。帆掛け船が行き交う中、釣りをする人や投網を打つ人が描かれています。

我らがヘンリー・スミス(前掲書)は、広重がこれを描いた時、西本願寺はまだ普請中だったに違いないと言っています。西本願寺本堂はこの絵が出版される二年前の安政三年(1856年)に暴風雨で倒壊、再建の完成は1860年なのです。広重のこの絵は完成予想図?

さて、この絵の外題を良く見ると、いつもの『名所江戸百景』ではなく『江戸百景餘興』とあります。餘興? この『餘興』が付くのはこの絵の他にもう一枚あります。スミス氏は『餘興』についていくつかの考えを述べた後、最終的には『文字通り「余分」の売り物として遊びの気分で出されたものであろう』としています。『そうはいっても手前の2枚の帆には、布目摺が丹念に施されている』とも。

現在の築地本願寺は、インド風、ヨーロッパ調、日本風・・・ この奇妙な建物の設計者は橿原神宮や湯島聖堂を設計した伊東忠太。

『山下町日比谷外さくら田』(安政四年(1858年1月)十二月 春の部)

さて、日比谷にやってきました。本日の名所江戸百景の22景目。これで最後です。

山下町は数寄屋橋近くにある泰明小学校のあたりで、外濠の外側でしたから町屋が多かったようです。日比谷は現在の有楽町1丁目と日比谷公園の間にあった日比谷門の周辺。外桜田は現在の桜田門周辺で、日比谷濠・桜田濠と外濠に挟まれた範囲。外桜田と日比谷には武家屋敷が立ち並んでいました。外濠の内側と外側とではまるで違う景色だったのです。

絵は泰明小学校の正門あたりから日比谷方面を眺めたもの。濠は外濠が山下御門で折れ曲がって内山下濠になり、さらに正面の赤い門、松平肥前守・佐賀鍋島藩上屋敷(現 日比谷公園)のところで右に折れ曲がったところです。右手の石垣は牧野越中守・笠間藩上屋敷(現 日比谷シャンティから東京ミッドタウン日比谷あたり)。外桜田永田町絵図 御江戸大名小路絵図

空には凧が揚げられ、羽子板と羽根突きの羽根が見えます。よく見れば左の手前にあるのは門松です。お正月! うっかり見落とすところでしたがこの門松の影、現在帝国ホテルが立つところには白河藩の屋敷がちょこっとだけ見えています。

ヘンリー・スミス(前掲書)は、『江戸のまちにおける威風堂々とした大名の構えと町人の遊びの軽妙洒脱さを対比して目を楽しませてくれる。』と述べています。


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