この旅の最終地デリーにやってきました。ここは言わずと知れたインドの首都ですが、道はご覧の通り。いつでもどこでも大賑わいというか、大混雑!
デリーの醍醐味はこうした、ぐちゃ〜、ごちゃーっとしたカオスとも言える雰囲気にあると思いますが、それを直接紹介するのはちょっとむずかしいので、一般的な観光案内を。この街は様々な王朝が都を置いたところなので、歴史的な遺産はたくさんありますが、そうした中から代表的なもの二つを紹介します。
まずはクトゥブ・ミナール(Qutub Minar)。この塔はデリー郊外の広々とした平原の中に聳えています。
デリーに奴隷王朝を創始するトルコ系ムスリムのクトゥブッディーン・アイバク(Qutb al-Din Aibak, 在位1206 - 1210)は、スルタンとなる前、ゴール朝の将軍だった1193年に、インド北部を征服した勝利の記念としてここにモスクの建設を命じました。のちに『イスラムの力』を意味するクワットゥル・イスラーム・モスク(Quwwat ul-Islam Mosque)と呼ばれることになるこのモスクは、インド最古のモスクです。
モスクに付属して石造の塔が建てられました。これがクトゥブ・ミナールです。その高さは72.5mで、これはインドの石造塔ではもっとも高いものだそうです。赤砂岩が主に使われていますが、上部の白いところは大理石です。
直径は、基底部14.3m、先端部2.75m。極端に先細りで、下から見上げると一層高く見えます。イスラム教の塔はその上部から人々に礼拝を呼びかけるためのものですが、これはジャーム(アフガニスタン)にあるゴール朝のミナレットを参考にしているようで、凱旋記念碑とも言われています。
また、デリーはそれまでヒンドゥーの地であり、ヒンドゥー教徒に対するイスラムの勢力誇示という意味合いが強かったとも考えられています。よく見ればこの塔には、コーランやアラベスクが刻まれています。塔は5層から成り、1層目はアイバク、3層目まではシャムスディーン・イルトゥミシュ、その上はアラー・ウッディーン・ハルジーの時代に造られました。
この最後のアラー・ウッディーン・ハルジーは、奴隷王朝の次の王朝であるハルジー朝の第3代スルタンで、クトゥブ・ミナールのすぐ横に、モスクの南側の入口となる門(Ala'i Darwaza)を建てました。ここでインドでは初めてとなる、真のアーチと真のドームが架けられました。。
さらにこのスルタンはクトゥブ・ミナールを超える高さのアライ・ミナール(Alai Minar)の建設を始めました。しかしこれは財政難で未完に終わり、現在は直径25mの巨大な基底部を見ることができるだけです。
クワットゥル・イスラーム・モスクの礼拝堂を見てみましょう。
この回廊の柱を見ると面白いことに気付きます。
イスラム教は偶像崇拝を一切禁じているため、通常その寺院の装飾には人はおろか、動物も植物も見当たりません。ところがここには女神像のようなものが見えます。
狂信的なイスラム教徒だったアイバク将軍はモスク建設を急ぎ、27のヒンドゥー教とジャイナ教の寺院を次々に破壊させ、城塞の中心にある大きな寺院の敷地の上にモスクを建てさせました。
イスラム教によるインドの支配はここに始まり、それは英国に支配されるまでの実に600年以上続くことになります。
石工(おそらくヒンドゥー教の)は破壊された寺院の柱をモスクに転用し、その柱の上に石膏を塗って元の彫刻を覆いました。おそらくこれらにはイスラム的な幾何学的デザインの装飾が施されたでしょう。しかし、何世紀も経てこの石膏は脱落し、元の寺院の彫刻が現れることになったのです。
皮肉にもこのモスクは歴史の積層により、イスラム建築とヒンドゥー教建築の混合が見られる結果になったのです
奴隷王朝を引き継いだイルトゥミシュは、元の礼拝堂に3つのアーチを加えて拡張しました。
この尖頭アーチのある壁と先ほどの回廊を見ると、クワットゥル・イスラーム・モスクはかなり巨大だったようです。
この頃になると王朝は十分に安定し、石工のほとんどをイスラム人に置き換えることができるようになりました。
そのため、ここに見られる装飾は先のアイバク時代に築かれたものに比べ、よりはっきりとイスラム的です。
アーチの向こうに真っ黒な柱が立っています。高さは7.2m。
これはグプタ朝のチャンドラグプタ2世(在位376-415)を記念したもので、5世紀初頭にウダヤギリにあるヴィシュヌ寺院群の前に建てられ、10世紀にここにヴィシュヌ寺院が建設された際に移設されたようです。
柱の上にはヴィシュヌの乗り物であるガルーダの像があったと考えられています。
鉄製のこの柱は1,500年以上も錆に耐え、今なお立ち続けています。これは鉄の純度が極めて高いからと言われています。そんなわけでかこのヒンドゥー教の遺産はこちらではかなり有名らしく、ここを訪れた人が必ずする行為があります。
柱に背中を付けて両腕を後ろに回し、手の指先どうしをくっつけるのです。これができると幸わせになれるそうです。
イスラム的な装飾が施されたアーチの前に立つサリーナ。
クワットゥル・イスラーム・モスクの周辺は広々とした公園のようになっています。
ここで草原に座って休憩していると、若い女性の集団がやってきました。
彼女たちはどうやら女学生らしく、わいわい、ガヤガヤ、なにやらとても盛り上がっています。
まあ彼女たちは『箸が転んでもおかしい年頃』というやつでしょうか。
一人が突然踊り出すと、もう一人が手拍子を。
これがきっかけでどんどん踊り手が増えていきます。
そしてついに私たちにも声がかかり、その輪に加わることに。
お〜、ラッキー!
サリーナは頭にスカーフを巻いてもらって大満足。
しかし激しい踊りにこれはすぐに取れてしまうのでした。
まさかインドでダンスするとは思っていませんでしたね〜
しばらくダンスを楽しむと小腹が空いてきたので、屋台でちょっとつまみ喰いを。
小腹を満たしたら『赤い城(Red Fort)』に移動します。赤い城はタージ・マハルを造ったムガール帝国皇帝シャー・ジャハンがアグラからデリーに遷都した際の、17世紀の前半にヤムナー川の畔に建設されました。思えばタージ・マハルもアグラ城もこのヤムナー川の畔に立っていましたね。
城の西にある有名な正門のラホール門を入ってまっすぐ行くと、かつては市場だったチャッタ・チョウクを抜け、中門であるナッカル・カーナ(Naubat Khana)の前に出ます。この門はドラム・ハウスで、時刻や王族の帰還を知らせる音楽が演奏されたところです。王族以外はここで全員下車しなければならなかったようです。
ここからは当時使われていた18種類の楽器が発見されています。
ナッカル・カーナをくぐり抜けるとディワーニ・アーム(Diwan-i-Am, 公謁殿)です。ここは一般の人々が皇帝に謁見した場所です。
見事な列柱とアーチが続きますが、これらはかつては白漆喰で覆われていたそうです。内謁殿であるディワーニ・ハース(Diwan-i-Khas)は白大理石でできていますが、庶民は漆喰で充分と言うことでしょうか。
さて、お城を見たらデリーの街中を散策します。
デリーは首都機能のために新たに造られたニューデリーとそれ以前からあるオールドデリーに分けられますが、これは断然オールドデリーが面白い。
通りにはぐちゃ〜っと人の波があり、その中をサイクル・リキシャーがゆっくりと通り抜けて行きます。
道の片隅には露店が出ています。これは路上の八百屋さん。
狭い通りに入れば、その両側に小さな店がずらり。
ここは生地屋さん。
派手な布地がたくさんあります。
インドでは既製服は少なく、みんなこうしたところでサリーやサルワール・カミーズ(パンジャビ・ドレス)などを作っています。
いい男がいた〜
この通りは神様へのお供えなどを扱っているようです。
みんな金ピカ!
八百屋は日本とおんなじ。
ですが、インドの野菜は味がとっても素晴らしいです。付け合わせに出てくるようなキュウリのかけらでさえも味がしっかりしていて、こうしたものを食べると日本の野菜には味がないと感じてしまいます。
大きな金属の器にはいろいろな総菜が入っています。
ここはインドの総菜屋ともファスト・フード屋さんとも呼べる店ですね。
こんなに売れるの?
揚げパンです。
米の種類はたくさん。
穀類はなにがなんだか良くわかりませんが、これもたくさん。
トンガラシを売っているのでしょうか。
メインはそれを粉にしたカレー粉のようなものか。
16世紀の半ば、アクバル大帝の治世、その母は夫であったムガル帝国第2代皇帝フマーユーンの廟を建てました。
それがこのフマユーン廟(Humayun's Tomb)です。
ペルシャ出身の建築家により9年の歳月を掛けて完成させられたこの建物は、ムガル帝国の霊廟建築の原型とも言えるもので、タージ・マハルにも大きな影響を与えたと言われています。
イスラム教が生まれた中東では、緑と水が溢れる庭は天上の楽園とも言える夢のようなものでした。
ここではペルシャ的な四分庭園が造られ、そこに緑と水が配されました。
廟堂は赤砂岩と白大理石でできており、四面とも同じファサードを持っています。
アーケードを持つ基壇は一辺95mで高さは7m。その上は一辺48mで、中央の墓室の回りに4つの正方形のブロックが配置されています。
中央部のドームは白大理石造で高さは38m。
このドームは二重になっていて、内側のドーム天井には繊細な装飾が施されています。
イーワーンと呼ばれる壁の凹みは二段。
上部の4つの正方形のブロックは隅が面取りされ、8角形に見えます。
屋上にはヒンドゥー教の意匠であるチャトリと、小さなミナレットが見えます。
窓の透かし彫りは繊細。
フマユーン廟の敷地は墓群となっており、その内にはたくさんの墓があります。廟堂から南東を見ると、ブルー・ドームという意味のニラガンバド(Neela Gumbad)とナイカガンバード(Nai - Ka - Gumbad)が見えます。
ナイカガンバードは床屋の墓という意味だそうです。フマユーンはあの世でもお気に入りの床屋に髭を剃ってもらえるというわけですね。フマユーン廟はかなり広い庭を持ちますが、驚くことにこれはその中にただ一つだけある墓です。フマユーンはこの床屋がだいぶ気に入っていたと見えます。しかしここに埋葬されたのが誰なのかについては、わかっていないそうです。
フマユーン廟のすぐ外側にはシーク教の礼拝所グルドワーラー(Gurudwara Damdama Sahib)があります。
これは18世紀の終わり頃、シーク軍がデリーを征服したときに建設され、20世紀に新しくされました。毎年何千人もの信者がここに集まり、ホラモハラ(Hola Mohalla)と呼ばれるフェスティバルが行われるそうです。
さて、フマユーン廟の見学を終えたら市場です。
ここは狭い路地と言えばそうだし、店と店の間の隙間と言えばそうも言えそうな、何とも言いがたいところです。とにかく人がようやく通れるだけのスペースを挟んで、その両側にずらっと店が出ています。通路の上はほとんど塞がっていて、かなり薄暗い。
インドの食べ物と言えば真っ先に思い浮かぶのはカレーですね。
日本にはカレー・ルウやカレー粉といった便利なものがありますが、本場インドにはそういったものはないらしく、ターメリックやコリアンダーなどのパウダーを各家庭でブレンドして作るそうです。
ここはそんな材料を扱っている店です。
こういった店の壁には大抵、ヒンドゥーの神様のポスターが飾られます。
日本で言えば、商売繁盛の神社のお札や熊手を飾るようなものでしょうか。
デリーは内陸にありますが、さすがに首都だけあり魚も豊富に出回っています。
魚のカレーもおいしいです。
これはちょっとどうよ、って思ってしまうプレゼンテーション。
上、チキン。下、鶏。
こちらには私たちが普段食べないものもあります。
これはたぶん犬。あっ、日本でも戦争の直後は犬を食べたそうです。赤い犬がうまいそうな。インドではどうかなぁ。
店の裏には驚くべき光景があります。
まあ、世界中のどこでもこの行為は行われているのですがね。鶏が檻から引っ張り出され、締められ、熱湯に浸けられて羽根をむしられ、床のコンクリートの上でバンバン!
最後が床のコンクリートというところが日本とは違うとは言えますが。
こうした市場のある通りはそこも人で溢れています。
まあ、日本で言えばアメ横をもっとぐちゃ〜っとした感じですか。
インドはまだまだ人力の国。自転車たくさん、リクシャーもサイクル・リキシャーが大活躍です。
そうしたものが通れないほどの大混雑がデリー、インドです。