リスボン
スペインでは、11月1日は『諸聖人の日』という祝日です。その日は火曜なので、月曜を休めば4連休。じゃあ、ちょっと遠くへ出かけよう!というわけで、ポルトガルに行くことにしました。
いろいろ調べた結果、バスツアーがかなりお得。リスボンに滞在し、半日は海辺のナザレにも足を延ばすという行程です。マリちゃん、モニカと一緒にいざ出発!
行きは金曜の夜10時45分にマドリードを出る夜行バスで、車中泊。リスボンのホテルには翌朝9時に到着。ホテルの場所はリベルターデ大通りの北端あたりです。部屋に荷物を置いたら、早速リスボンの街を歩き始めます。
リベルターデ大通りを南へ下り、リスボンの街の中心部へと向かいます。
この直線の大通りは全長1.1km、パリの大通りを手本として1879~1882年に建設されたそうです。これによって市は北へと拡大します。
大通り沿いの建物はつまり、19世紀末以降に建てられたものということになりますね。
写真の建物は、丸や半円形を使ったデザインが特徴的。
こちらの建物は、曲線の出窓に漆喰や鋳鉄を使った装飾がかなり凝っています。
そんな建物の並ぶ大通りからレスタウラドーレス広場、ドン・ペドロ4世広場を抜け、フィゲイラ広場に入ります。東には、サン・ジョルジェ城の丘が見えます。
リスボンは1755年のリスボン大地震で大きな被害を受け、中心部はその後近代的な都市計画によって再建されました。ここフィゲイラ広場は、以前は病院があったそうですが、大地震で被害を受た後に青空市場になり、1949年に市場が廃止されオープンスペースになったそうです。
広場の中央にはブロンズの騎馬像『ジョアン1世像』が設置されています。
その像の足元に腰掛けて豆類などのおやつを売る女性たち。鳩が『豆をくれないかな~』と集まってきています。
さて、ここから私たちはサン・ジョルジェ城の丘へと上ります。
結構な坂をわっせわっせと上っていくと、
城壁に出てきます。門をくぐって中へ入り、まずテージョ川を望む見晴台にやってきました。
赤い瓦屋根の向こうにテージョ川が広がり、南西には川の対岸とを結ぶ4月25日橋、そしてその左側にクリスト・レイ像が小さく見えます。
丘の斜面を埋め尽くすように密集して建つ家々。
続いて、サン・ジョルジェ城に入ります。
この丘に最初に要塞が築かれたのは紀元前のことだそうで、中世にはレコンキスタの攻防戦が行われ、1255年にポルトガル王国の王宮となったそうです。
14世紀には城の大改修と城壁の建設が行われ、16世紀前半までは華やかな王宮として使われたそうですが、その後地震の被害を受け、長く放置されてきたとか。
王宮の建物はその遺跡が残るのみですが、外側の四角い見張り台と城壁の通路を巡ることができます。
写真は城壁から北を見たところ。お城の周りを通る道の向こう、遥か先まで街並みが広がっています。
お城を出て、丘を南のテージョ川の方へと下ります。
路地の建物の窓辺には、よく洗濯物が干してあります。
こちらのバルコニーでも、今まさに洗濯物を干そうとしているところ。
バルコニー自体は人ひとりがやっと立てるくらいに狭いのですが、段になったロープや張り出した物干し竿を使ってたくさん干せそう。
そして、リモエイロ通りまで下りてきました。ここにはサンタ・ルジア展望台があります。
屋根の向こうのテージョ川が近くに迫ってきた感じ。港の船がよく見え、右手側には帆船が係留されています。
展望台から東の方を見ると、白い塔のあるサント・エステヴァン教会が建っていました。
サン・ジョルジェ城からテージョ川にかけてのこのあたりはアルファマ地区といって、1755年の地震の際にあまり被害を受けず、路地と建物が密集する昔ながらの風景が残っています。
リモエイロ通りを南西へ下っていくと、リスボン大聖堂があります。この通りは歩道の幅が狭いところを路面電車が行き交い、ちょっとスリリング。
リスボン大聖堂は1147年から建設が始まった市内最古の教会ですが、その後増改築が繰り返され、また1755年には地震とその後の火災で一部が廃墟となり、再建・改修が行われています。正面に見えるのはサント・アントニオ教会。地震後の1767年に建てられたものです。
さらに南へ下ります。広場に並ぶ家々の後ろには大聖堂の鐘楼が見えますね。
写真の家並みの中で、右端にちょっと変わった建物があります。
これは、『くちばしの家』(Casa dos Bicos )。壁一面を覆う突起がくちばしのように見えるからだそう。
1523年に第2代インド総督アフォンソ・デ・アルブケルケの息子が建てた邸宅で、全体のデザインは彼が旅した当時のイタリア・ルネサンスの影響を受けています。1755年の地震でかなりダメージを受け、倉庫などに使われていましたが、1983年に元の姿に再生されたそう。
この日はこの後、コメルシオ広場からサンタ・ジュスタのエレベーターなどを見て終了。食事は、モニカが『ポルトガルと言えば、これらしい』と言うバカリャウ(干しタラ)料理にトライ。バカリャウと魚介類、ポテト、玉ねぎなどを煮込んだ料理でとても美味しかったです。
リスボン2日目は、朝からステキな青空が広がっています。『やっぱりお天気がいいと全然違うね~』などとおしゃべりしながらバスでやってきたのはべレン地区。リスボン中心部から西へ7kmほどのテージョ川沿いにあります。
ここには大航海時代を象徴する建物があるということで、ベレン駅でバスを下りて歩いていると、緑の芝生が美しいヴァスコ・ダ・ガマ庭園にさしかかりました。
今日は日曜日。芝生でサッカーを楽しむ青年たちにカメラを向けていたら、『おい、写真撮ってるぞ!』といきなり集合してポーズ。一緒に写真に収まってくれました。このノリ、好きですね~
その先の川岸から張り出すように建っているのがこれ、『発見のモニュメント』です。
これは、最初に1940年の国際博覧会の象徴として制作され、1960年のエンリケ航海王子没後500年の記念行事にコンクリートで再度制作されたそうです。先頭のエンリケ航海王子以下、大航海時代の著名な人々の群像が東西両側に並んでいます。この写真の右から2番目はフランシスコ・ザビエルだそう。
モニュメントに上ってみれば、足元の広場にはポルトガル人航海者が辿った航路を示す世界地図がモザイクで描かれています。
このモザイク(ローズ・コンパス)は、1960年に南アフリカ共和国から贈呈されたものだそう。
北の上方に目を転じれば、左の四角い緑はプラサ・ド・インペリオ庭園、右は先ほど通ったヴァスコ・ダ・ガマ庭園、そして斜面に沿って建ち並ぶ住宅群です。
すぐ東にはヨットハーバーがありました。たくさんのヨットが係留されています。
そして、ヨットはテージョ川へと漕ぎ出して行きます。
すでにたくさんのヨットがテージョ川に浮かんでいます。気持ち良さそう~
川沿いをさらに西へ進むと『ベレンの塔』があります。16世紀にマヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの世界一周の偉業を記念して作られた塔で、用途はテージョ川の船の出入りを監視する要塞なのだそう。
紋章や盾、ロープ、丸い地球のようなものなど、さまざまな装飾が散りばめられています。これは、15世紀後半~16世紀のポルトガルで流行した『マヌエル様式』という建築様式(建築空間というより装飾)で、船や海や大航海時代に関連するモチーフが用いられているそうです。
塔の川に突き出たバルコニーに出てみました。
吹き抜けを取り囲む手すりに立てられた尖塔が、色々な形をしています。地球儀っぽい先端もありますね。
そして、螺旋階段を上って塔のてっぺんへ。
北を見ると、ちょうど正面の方向にトーレ・デ・ベレン(ベレンの塔)通りがまっすぐ延びて丘の上の公園に至り、その背後には白い高層住宅群が建ち並んでいます。
ベレンの塔を出たら、この直線道路トーレ・デ・ベレン通りを上ってみました。
広々とした道路の両側は緑の街路樹で覆われ、その奥には広々とした戸建て住宅が建っています。テージョ川を眺められるステキなロケーション。かなりの高級住宅地のよう。
東の方へ戻り、ベレン地区で最後に訪ねたのはジェロニモス修道院です。ヴァスコ・ダ・ガマがインドへの航海から帰還したことを記念して、マヌエル1世の命によって建設が始まりました。始まったのは1514年ですが、拡張したり改築したり、完成したのは20世紀のことだそう。
修道院は南面に長いファサードを見せており、写真はその西端にある海洋博物館の入口。
そして、これが華麗なるジェロニモス修道院のファサード。東洋の香辛料で得た潤沢な資金をつぎ込んでつくられたマヌエル様式の傑作と言われています。
修道院の東側の塔のある建物はサンタ・マリア教会。
ゴシック建築のようにも見えますが、より肉厚で装飾が施されている感じです。
教会の中へ入ってみましょう。明るく高い天井の堂内は、ヤシの木をイメージしたという高い柱で支えられています。ホアン・デ・カスティーリョによる1522年の設計。
写真はありませんが、この北にある2層の回廊もマヌエル様式のモチーフをちりばめた見事なものです。
お昼の休憩を挟んで、次に向かったのはテージョ川の対岸、アルマダ地区です。
長さ2km以上の赤い吊り橋『4月25日橋』を通ってたどり着いたのは、クリスト・レイ像の足元。ここから橋と対岸のリスボンの街がよく見えます。
もう少し右に目を転じると、海のように広いテージョ川に浮かぶ陸地はリスボンの中心部。白い建物で埋め尽くされています。
景色を堪能したら、クリスト・レイ像の丘から南へ下ります。
このあたりは平屋か2階建程度の住宅が続き、のんびりした田舎町という感じ。
ディレイタ通りに出てきました。通り沿いには少しお店やレストランもあります。そろそろリスボンの中心部へと戻りましょう。
今宵はアルファマ地区に行き、パレイリーニャ・デ・アルファマというレストランでポルトワインとともに料理を楽しみ、ファドの調べに耳を傾けます。
リスボン3日目。今日は昼からナザレへ向かう予定なので、リスボン観光は残すところ本日午前中の半日です。
おみやげでも買おうかとホテルを出て歩いていると、市場にぶつかりました。野菜をたくさん並べています。
これは、首にかけるレイのような唐辛子! 色鮮やかですが、いかにも辛そう。
ポルトガルにそんな辛い料理はあるんでしょうか?
リベルターデ大通りを下っていくと、坂道を上るケーブルカーの駅がありました。
リスボンは七つの丘の街と言われ、坂道が多い。19世紀末には急な坂道にケーブルカーが敷かれました。ここはそのうちの一つ、1885年開業のグローリア線です。
走行距離は260mということで、すぐに上の駅に到着します。でも、狭い路地をゆっくり上るアトラクションとしては盛り上がりますね。
到着したところは、バイロ・アルトというエリア。ポルトガル語で『高い地区』という意味です。
このあたりはリスボンでも古い地区なのだそうで、4階建くらいの建物が建ち並ぶ細い路地が続きます。
建物の間の狭い空間から青空が覗いています。上階の窓越しに住民のおしゃべりする会話が聞こえてきそうです。
ナザレ
12時にリスボンを出て、バスは約2時間で130kmほど北の海岸にあるナザレの町に到着。
バスを下りて路地を進むと、通りの隙間から光溢れる砂浜と海が見えてきました。
海岸に到着。緩い円弧を描く海岸線に沿った街並みの外側を緑の急斜面の丘陵地が囲み、その上にも白い街並みが続いています。
伝説では、12世紀に聖母マリアが鹿狩りをしていたポルトガルの騎士の命を救ったそうで、その奇跡を記念して最初の教会を建てたことから町が発展していったのだそう。
美しい景観の海辺の観光地ですが、イワシの炭火焼などの料理、魚の干物づくりなど、伝統的な暮らしが女性たちに代々受け継がれていて、そんな雰囲気を感じ取れるのも楽しい。頭に荷物を乗せた女性たちが歩いていきます。
美しい砂浜の北には断崖絶壁。この絶壁の上にオ・シティオという旧市街地がありますが、断崖の上に町をつくったのは、海賊の襲撃から身を守り安全な居住地とするためだったそうです。
海辺の方の町はア・プライアといいます。雲一つない青空の海岸を散歩するのは地元のおじさん。そして、網をつくろう漁師さんの姿も。(TOP写真)
海辺のレストランでは、イワシの炭火焼がいい匂いを漂わせています。では、ここで昼食にしましょう。
イワシの炭火焼は、特に鱗や内蔵をとることもなくそのまま焼いて、レモンを絞って食すというシンプルなもの。これがたまらなく美味しい!一応、炭火焼の写真を撮りましたが、炭火に乗っていたイワシはもう食べたあと。。
食事を終えて、海沿いをぶらぶら。このお店は野菜や果物のほかにホウキなども売っていますね。小さな町のよろず屋なのでしょう。
この海辺のエリアでは、海岸と直行する細い路地がいくつも並んでいます。
静かな路地を黒い衣装のおばあさんが通り過ぎていきました。陸地の丘の方にはもくもくした雲がわき上がっています。
そんな路地に入って、今度は北の丘の上に上ってみましょう。急勾配の丘ですが、大丈夫、ケーブルカーがあります。
このケーブルカーは1889年開業。上の町にある教会や礼拝堂へ訪れる巡礼者の足として建設されたのだそうです。
というわけで、ラクチンで上の町オ・シティオに到着。
その海を見下ろす広場の前に建つのは、17世紀のバロック様式の『ノッサ・セニョーラ・ダ・ナザレ教会』。元は伝説のマリアの奇跡を記念して14世紀に創建された教会だそうです。
教会前の広場の南には見晴し台があります。
空と雲、そしてポツンと立つ街灯。
見晴し台で、サリーナがポーズ。ここからの眺めは本当に絶景!
これがそのナザレの海辺と町の絶景です。しばらくの間、この景色に見とれている3人でした。
海辺の景色を十分楽しんだら、17時のバスでリスボンへ戻ります。そして翌日は1日バスに揺られてマドリードへ。
ポルトガルは、スペインとはまたちょっと違った穏やかさとローカルさがあって面白く、久しぶりに海辺に行けて、海の幸が豊富な食べ物もよかったです。
帰ってホストファミリーのセニョーラにお土産を渡したら、『ポルトガルの鶏(の置物)でしょう!』とお見通しでした。ともあれ、楽しい旅でした。