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プラハ

プラハ+ウィーン+ブダペスト 1

開催日 1990.07.11(水)-07.14(土)

プラハ旧市街
プラハ旧市街

旅の紹介

◆  モスクワ経由で到着したプラハは民主化ホヤホヤ。重厚な歴史の中にも輝く明るさを感じつつ、旧市街広場、ユダヤ人地区、プラハ城などを訪ね美味しいビールで喉を潤します。そして、スロバキアの首都ブラチスラヴァにちょっと途中下車。

地図/プラハ:Googleマップ

地図/ブラチスラヴァ:Googleマップ

モスクワ

モスクワ郊外の宿泊施設モスクワ郊外の宿泊施設

1985年にソビエト連邦はゴルバチョフ政権となり、1988年の新ベオグラード宣言により東欧諸国への内政不干渉を表明し、これがきっかけとなって1989~1990年にかけて東欧諸国の民主化が相次ぎました。

1990年夏、民主化ホヤホヤの明るさに満ちた東欧の街を訪ねてみようと、旅の目的地に選んだのはプラハとブダペスト。真ん中にウィーンも加えて、これらの3都市を巡ることに決定。よっちゃんとの2人旅です。

プラハやブダペストに行くならソ連のアエロフロートが便利。以前に何度か使ったことのあるアエロフロートですが、今回はモスクワ1泊が必要な行程でどうなるかと思いきや、バスで連れて行かれたのは林の中のコテージのような宿泊施設。写真は管理棟です。

聖ワシリイ大聖堂聖ワシリイ大聖堂

なかなかいい施設ね~などと言っていると、希望者はバスでモスクワ市内を観光案内してくれるという。以前モスクワ空港を通った時の重苦しい雰囲気とは全く異なり、明るい女性に促されてバスに乗り込みます。ペレストロイカ万歳。

バスは街中に入り、しばらくすると『モスクワといえば』という風景が。赤の広場にある聖ワシリイ大聖堂です。この大聖堂は1551~1560年にかけて建てられたそうで、玉ねぎ頭のカラフルないくつもの塔の奥に金の玉ねぎを乗せた尖塔がそびえています。おとぎ話に出てきそうな聖堂ですね。

クレムリン大宮殿クレムリン大宮殿

ここはモスクワの中心。そしてモスクワ川を渡り、対岸からクレムリンの建物を眺めます。

『クレムリン』とはロシア語で『城塞』のことだそうで、城壁の内部にはいくつもの宮殿が建てられています。写真の緑の屋根の白い建物はクレムリン大宮殿。1839~1849年に建てられたロシア皇帝の宮殿です。

ヴォドヴズヴォドナヤ塔ヴォドヴズヴォドナヤ塔

ここまでバスの窓越しに眺めるだけでしたが、少しバスから出て写真を撮ってもいいと言われ、モスクワ川沿いをちょっと散策。川の向こうに見えるのは、城壁の端に聳え立つヴォドヴズヴォドナヤ塔です。

クレムリンの城壁には20もの塔があり、そのうちヴォドヴズヴォドナヤ塔を含めた5つの塔の先端には、1937年のロシア革命20周年を記念してルビーで造られた赤い星が乗せられたのだそうです。

プラハ

プラハの通りプラハの通り

翌日、モスクワ空港を飛び立って、チェコの首都プラハに到着しました。ホテルに荷物を置いて、青空の下、早速街へ。通りの両側には歴史を感じさせる建物が続きます。

プラハは6世紀後半にヴルダヴァ川沿いに集落が形成され、その後街として発展しましたが、ボヘミア王カレル1世が1346年に神聖ローマ帝国の皇帝に選ばれると、神聖ローマ帝国の首都をプラハに移し都市開発を進めたことでヨーロッパ最大の都市の一つとなったのだそうです。

ティーン教会ティーン教会

ヴルダヴァ川の西岸には、11世紀頃から商人の街として発展した旧市街があります。ここでまず誰もが訪れるのは『旧市街広場』。広場の南東に見える黒い2つの塔を持つ建物はティーン教会です。しかし、教会の入口前に別の建物が建っているのが不思議ですね。

1365年に建設が始まり1511年に完成したというこの教会は、15世紀にはフス派のプロテスタント教会となりましたが、プロテスタントとカトリックの対立によって起こった30年戦争(1618~1648年)によりカトリック教会に変えられ、そのことに怒ったプロテスタント系市民が教会の前に建物を建てて入口を塞いでしまったのだそう。

天文時計天文時計

ティーン教会の対面にある旧市庁舎の南壁には、15世紀に取り付けられた天文時計があります。ゴシックの装飾に楽師や骸骨などの像がみられます。

定時になると時計の上の窓が開いて人形が動き出すとのことなので、またあとで見学に来ることにします。

旧市庁舎1旧市庁舎1

それにしても、旧市庁舎の建物の可愛らしいこと。

天文時計から2軒目のこちらは赤い壁の上部にたくさんの紋章が並び、その上の屋根の中央部に尖塔で飾られた出窓があります。

旧市庁舎2旧市庁舎2

そのさらに隣は白い壁。そして屋根にはルネサンス風の2つの出窓が。

旧市庁舎は、元々は一つの小さな市民の家を買取って市庁舎として利用していましたが、周囲の建物を買い取って増築を繰り返し、徐々に旧市庁舎は大きく拡張されていったのだそうです。

カラフルな広場の建物カラフルな広場の建物

周辺の建物もとてもカラフルです。

東欧といえばちょっと陰鬱な、あるいは苦みばしったイメージを持っていたのですが、何と明るい幸せ感が溢れた広場でした。

火薬塔火薬塔

広場の南東角から東へと続く通りの先には、『火薬塔』が見えます。

1475年に建てられた65mの高さの火薬塔は、王様の戴冠式の行列が街に入る際に通った旧市街への入口だそうで、17世紀には火薬を保管して置く倉庫として使われたためこの名で呼ばれるようになったそうです。

時計塔から南西の眺め時計塔から南西の眺め

では、旧市庁舎の塔に上ってみましょう。エレベーターで上れます。

天文時計のはるか上にまで聳える時計塔からは、旧市庁舎広場やその周辺に広がるプラハの美しい街並みが360度のパノラマで見渡せます。

旧市庁舎南の広場旧市庁舎南の広場

足下の広場にはパラソルが並び、観光客の姿もたくさん見えます。

聖ミクラーシュ教会聖ミクラーシュ教会

そして北の眺め。大きな旧市庁舎広場の北には堂々たる聖ミクラーシュ教会が建っています。

聖ミクラーシュ教会は12世紀に創設され、何度も増改築を繰り返した後、1735年にバロック様式の建物として建て替えられました。

西の眺め西の眺め

こちらは西の眺め。たくさんの塔が並んでいます。プラハは『百塔の街』と言われているそうな。

中央右の黒い塔は、カレル橋の端に立つ橋塔。14世紀に見張り台や橋の通行税の徴収場所として建てられたのだそうです。

ヤン・フス像ヤン・フス像

旧市庁舎の塔の展望台をぐるっと周り、改めて足下の旧市街広場を見下ろします。

広場の中央にあるのは、15世紀にプラハで宗教改革を行ったプロテスタントの指導者ヤン・フスの彫像。この像は、彼の500周忌にあたる1915年に制作されました。ヤン・フスの周りにフス派の戦士、プロテスタントの人々などの群像が見られます。

旧市街広場のティーン教会旧市街広場のティーン教会

時計塔から下りて、再び旧市街広場。

正面のティーン教会は、正式名は『ティーン(税関)前の聖母マリア教会』といって、かつて裏側にティーン(税関)があったのだそうです。

マイセロヴァ通りマイセロヴァ通り

旧市街広場から今度は北へ、マイセロヴァ通りを歩いていきます。

細い路地の両側にはなかなかオシャレな建物が並び、塔を持つものもあります。

ヨゼホフの界隈ヨゼホフの界隈

このあたりは『ヨゼホフ』(ユダヤ人地区)といって、ユダヤ人墓地やシナゴーグがあります。

18世紀末に、皇帝ヨゼフ2世がユダヤ人のゲットーの壁を取り壊してプラハの一部に組み入れたのだそうです。

旧新シナゴーグ旧新シナゴーグ

ギザギザの切妻の建物は『旧新シナゴーグ』。13世紀に建てられた部分と、16世紀に増築された部分があるため、『旧新』という名前が付いているのだそう。これを含め、ヨゼホフには6つのシナゴーグがあります。奥の建物はユダヤ人地区集会所です。

初日の今日はここまで。ホテルに戻ってゆっくりくつろぐことにしました。この当時、日本から予約できるホテルは限られており、私たちが泊まったのは巨大なインターコンチネンタル・ホテルです。

あまり大きなホテルは好みではありませんが、ヨゼホフ地区のすぐ北のヴルダヴァ川沿いにあり、立地は最高です。ここでナオボーが合流し、3人で夜のプラハへと繰り出します。

ヨゼホフの街並みヨゼホフの街並み

さて翌日。昨日の続きということで、ヨゼホフ地区の散策からスタートです。

ヨゼホフ地区は、19世紀末に人口が増加しスラム化していたことから、プラハ市が古い建物の取り壊しを命じ、パリを手本として美しい街を作ろうとしたそうです。

五叉路に面した建物五叉路に面した建物

こちらは、集会所から少し東にある五叉路に面した建物。角の建物が表情豊かです。

その名も『パリ通り』を中心に、ネオバロックやアール・ヌーヴォーの華麗な建物が並んでいます。

優美なバルコニー優美なバルコニー

この建物には、植物レリーフの優美なバルコニーがありました。

旧市庁舎の時計塔旧市庁舎の時計塔

散策している間にお昼の12時近くになりました。

旧市街広場に向かい、旧市庁舎の時計塔に到着。塔の上は、昨日上った見晴台です。

天文時計のからくり人形天文時計のからくり人形

その下にある天文時計。定時になると骸骨が鐘を鳴らし、音楽とともに上の2つの小窓が開いて12使徒が姿を見せます。

あっという間に終わりますが、集まった観光客からは拍手喝采が湧き起こりました。

音楽隊が出現音楽隊が出現

天文時計の前の広場には音楽隊が現れ、吹奏楽の演奏が始まりました。

人々はこの音楽のプレゼントに足を止めて聞き入ります。

旧市庁舎前のカフェ旧市庁舎前のカフェ

そして、天文時計の周りに集まったたくさんの観光客はお昼や休憩を求めて散っていきます。

旧市庁舎の真ん前のカフェテラスは特等席ですね。

V. J. Rott の店V. J. Rott の店

旧市街広場の少し西にも小さな三角の広場がありました。

広場に面した建物は、1880年に建てられた『V. J. Rott の店』という店舗です。壁いっぱいの壁画には、植物文様に人々の商売などの活動が描かれています。

丸っこい出窓の建物丸っこい出窓の建物

V. J. Rott の店の隣の建物は屋根に3つの丸っこい出窓が特徴的です。こちらはもっと古く、15世紀の建物なんだそう。

ベツレヘム礼拝堂の前の広場ベツレヘム礼拝堂の前の広場

路地を南西の方向に歩いていくと、ベツレヘム礼拝堂の前の広場に出ました。礼拝堂はほとんど映っていませんが、写真の右手にあります。

ベツレヘム礼拝堂の創設は1391年。1402年から1412年まではヤン・フスがここで説教をしていたそうです。19世紀に取り壊されたものの、復活運動が起こり1954年に昔の姿で再建されたのだそうです。

レリーフの建物レリーフの建物

ベツレヘム礼拝堂から西へ、ヴルダヴァ川を目指します。

途中の角にあった建物は、角に様々なレリーフが施されて宝石箱のよう。

スメタナ博物館スメタナ博物館

ヴルダヴァ川にやってきました。ここはカレル橋のすぐ南、川にちょっと突き出たピアのような場所で、レストランが並ぶ先端(写真左端)にはスメタナ博物館があります。

スメタナ博物館の入る建物は1883~1884年に建てられたネオ・ルネッサンス様式で、旧市街の給水所だったのだそうです。

カレル橋とプラハ城カレル橋とプラハ城

スメタナ博物館の足下まで行くと、右手に石造りのカレル橋、そして対岸にはプラハ城の眺めが広がっていました。

では、橋を渡っていきましょう。

カレル橋カレル橋

カレル橋の建設は、ボヘミア王カレル1世(神聖ローマ帝国皇帝カール4世)により1357年に始まり、完成は次の王ヴァーツラフ4世時代の1402年までかかったそうです。当時のヨーロッパでは最大の土木工事だったと言います。

橋の両側には15人の聖人の像が並んでいます。

橋の上のパフォーマンス橋の上のパフォーマンス

橋の長さは516m、幅は9.5mあり、幅広い橋の上では音楽を奏でる者、絵を描き売っている者など、ちょっとした広場のようで楽しい。

こちらのグループは賑やかな楽隊に歌とパフォーマンス付きです。

カフェで一休みカフェで一休み

橋を渡ったあたりのカフェでちょっと一休み。やっぱりチェコはビールが美味しいんですよね~

ところでカフェやレストランでは、チェコ語以外では英語というよりドイツ語の方が通じます。大学時代の第二外国語ドイツ語を思い出そうとするも、全く出てこないサリーナです。写真は、右がこの旅の同行者よっちゃん、左は一人旅の途中で合流したナオボー。

マラー・ストラナ橋塔のアーチマラー・ストラナ橋塔のアーチ

カレル橋を渡り終え、マラー・ストラナ橋塔のゴシックアーチをくぐったら、マラー・ストラナ地区に入ります。

ヴルダヴァ川の西側、マラー(小さな)・ストラナ(側)はプラハ城の城下町です。

聖ミクラーシュ教会聖ミクラーシュ教会

モステッカー通りをまっすぐ西へ進むと、正面に聖ミクラーシュ教会のドームが見えてきました。同じ名前の教会が旧市街にもありましたね。

こちらの教会は1283年に創設され、現在の建物は18世紀にバロック様式で建てられたものです。聖ミクラーシュの生涯を描いた天井画のある内部空間は、プラハの盛期バロックを代表するものだそう。

プラハ城への坂道プラハ城への坂道

さて、ここからさらに西へ進み、回り込んでプラハ城へと登城します。

坂道を上りながら振り返ると、丘の上に2つの塔を持つストラホフ修道院が見えます。12世紀に創設されたこの修道院の内部には、美しい図書館があるのだそうです。

赤い屋根の邸宅群赤い屋根の邸宅群

南の眺めは、緑豊かなペトシーンの丘をバックにした赤い屋根の邸宅群。

17世紀半ばから次々に邸宅が建てられ、貴族たちが住んだのだそうです。

南東の景色南東の景色

南東を見ると、マラー・ストラナからプラハの中心部の景色が広がっています。

左手のドームと塔は、先ほど通り過ぎた聖ミクラーシュ教会です。

聖ヴィート大聖堂聖ヴィート大聖堂

坂を上ったら、西の正門からプラハ城へと入ります。2つの建物をくぐり抜けると、目の前にいきなり壮大なゴシック教会が現れます。これは聖ヴィート大聖堂。

1344年、カレル4世の時代に建築が始まり、全体が完成したのは何と20世紀、1929年だそうです。内部には美しいステンドグラスがあり、アルフォンス・ムハ(ミュシャ)の手によるものもあります。

マラー・ストラナ中心部の景観マラー・ストラナ中心部の景観

プラハ城内の建物は東西に長く配置され、私たちは西から東へ。旧王宮や宮殿、聖イジー教会などが並んでいます。

城内の宮殿や黄金の小路を見たら、帰りは東の出口から。出口付近の見晴台からは、マラー・ストラナ中心部の美しい景観が広がっています。右手はお馴染みの聖ミクラーシュ教会、左の細い塔とドームは聖トマーシュ教会で、こちらもバロックです。

プラハ城東側の階段道プラハ城東側の階段道

プラハ城の東側の出口からは、300mほど細い緩やかな階段道を下りていきます。

路面は石畳のモザイクでいい感じ。

ヴァルトシュテイン通りヴァルトシュテイン通り

階段を下りたら、ヴァルトシュテイン通りを入って再びマラー・ストラナの内部へ。

この通りには大邸宅が並び、左の塀はヴァルトシュテイン宮殿です。ここは、17世紀前半の30年戦争で皇帝軍を率いたヴァルトシュテイン将軍が築いた宮殿で、プラハ最大の貴族の館なのだそう。

旧市街の商店旧市街の商店

ヴルダヴァ川西側のマラー・ストラナの観光を終え、旧市街へと戻ってきました。夕方になり、通りには果物やパンなどの商品も並べられて賑やかです。

民主化直後のプラハは、重厚な歴史と同時にキラキラした明るさを感じた街でした。まだまだ見所はたくさんありますが、私たちのプラハ観光はこれで終了。明日はブラチスラヴァを経由してウィーンへと向かいます。

ブラチスラヴァ

ブラチスラヴァの街並みブラチスラヴァの街並み

翌日。プラハからブラチスラヴァまでは、列車で4時間ほどかかります。

スロバキアの西端にありドナウ川に面したブラチスラヴァは、スロバキア共和国の首都。1990年夏のこの時点では、チェコ共和国とスロバキア共和国は、チェコスロバキア連邦共和国という連邦制の国家を構成していましたが、1993年に連邦は解消されることになります。

ミハエル門ミハエル門

ブラチスラヴァは、10~11世紀頃からハンガリー王国の都市として発展し、その後のオスマン帝国の侵攻により首都ブダが支配されたため、1536年から1784年まではハンガリー王国の首都となった歴史ある都市です(1919年まで都市名はポジョニ)。

その後、19世紀前半から起こったスロバキア民族運動の中心地となり、第一次大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国が解体されると、チェコスロバキアの一部となって都市名をブラチスラヴァに改めたのだそうです。

ブラチスラヴァの旧市街はかつて城壁に囲まれており、4つの門があったそうですが、現存するのは写真正面のミハエル門のみです。

ミハエル門の足元ミハエル門の足元

ミハエル門は14世紀に建てられました。当時は武器庫としても使われていたそうで、現在は中世の武器博物館となっています。この門の手前側が旧市街。

黄色い壁の路地黄色い壁の路地

ミハエル門の横の細い路地を進みます。少しくすんだ黄色い壁が雰囲気を出しています。

北西の城壁に至る路地北西の城壁に至る路地

さらに路地を西へ。周囲はやや荒廃した感じの建物が並び、突き当たりは城壁の北西の角。かつては塔が建っていたところです。

そして、路地の中央奥には、城壁の外の道路を隔てた高台にあるブラチスラヴァ城の塔が小さく見えます。ブラチスラヴァ城は大きな中庭を持つ四角い建物で、四隅に塔があり、その形状から『ひっくり返ったテーブル』などと呼ばれているそうです。

パンスカ通りパンスカ通り

旧市街の南のパンスカ通りにやってきました。

お店が並ぶ通りの先を左へ曲がると、

旧市庁舎の塔旧市庁舎の塔

旧市街の中心部のフラヴネー広場に出てきました。ここは、中世から街の中心となってきた広場です。

そして、フラヴネー広場の東側に旧市庁舎があります。この建物は現在市の博物館になっており、入口は中庭側にあります。

旧市庁舎の中庭旧市庁舎の中庭

中庭の回りはアーチの巡る2層の回廊になっています。

中庭はこぢんまりとしてちょうどいいスケール感です。ここで小さなマーケットを開くと楽しそう。

旧市庁舎の中庭2旧市庁舎の中庭2

回廊の2階の屋根には、半円形の連続したパラペットが立ち上がっていて可愛らしい。

さて、ブラチスラヴァの旧市街を駆け足で見て回りましたが、今日はこれから夕方の船に乗ってドナウ川をウィーンへと移動します。

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