ブダペストの観光は、ドナウ川東岸の『ペスト』の街の中心部から。今日は、1900年前後に建てられたアールヌーヴォー建築を訪ねます。
まず、市役所のすぐ近くで見つけたのは『トルコ銀行』。1906年に建てられたコンクリート造のこの建物は、ヘゲデュス・アールミン設計のアールヌーヴォー。ファサードの3連アーチの前全体にガラス窓が設置されています。
ファサード上部には鮮やかなモザイク画があります。
これはロート・ミクシャによる『ハンガリーの栄光』で、聖母マリアとその周りの天使、そしてハンガリーの英雄の姿が描かれているそうです。
トルコ銀行から1kmほど北の公園『リバティ・スクエア』の隣にあるのが、1899~1902年に建てられた『郵便貯金局』。
設計者はレヒネル・エデン。『ハンガリーのガウディ』などとも称される建築家で、ハンガリー固有の様式を創造しようとした彼の設計は、アールヌーヴォーといっても、何だか土っぽい民俗の香りがします。
平らな壁に垂直の付け柱が伸びて、柱の先端の丸い握りのようなものに挟まれた曲線のパラペットの縁は黄色いタイル。
その下には植物の文様が描かれています。よく見ると、壁の細部に色々な模様や出っ張りがあって楽しい。
さて、街を歩いていると、小さな広場に果物や野菜を売っている露店が出ていました。
色とりどりのプラムや桃、メロンなどの上にニンニクがぶら下がっています。
そして、真っ赤なトマトの横には白っぽい黄色のパプリカ。
ハンガリー料理といえばパプリカの煮込み『グーヤッシュ』が有名。パプリカは食卓の定番なのでしょう。
中心部に戻り、市役所の少し南のコシュート・ラヨシ通りに出ました。
左の建物は、1817年にパリのパッサージュをモデルとしたショッピングアーケードとして建てられ、1909~1913年にかけて上階にオフィスやアパートを持つアールデコ、アールヌーヴォー、ムーア調などの様式が混ざり合ったガラスのアーケードを持つ建物『パリの中庭(Párisi Udvar)』として再建されたものだそうです。この通りの近辺にはそんな歴史を感じさせる建物がいくつも並んでいます。
この通りを東へ4kmほど行くと、鉄道駅(東駅)の北側のスポーツ施設が集積しているエリアがあります。
その一角に青い屋根とベージュの壁、茶色の縁取りで特徴的な姿を見せている建物が『地質学研究所』。レヒネル・エデン設計で1897~1899年に建てられました。
柱の先端は見張り台みたいになっていてお城みたいな雰囲気もありますが、窓の茶色い縁取りが童話に出てくるお城のようでかわいい。
上部の壁をよく見てみると、中央の窓を取り囲んでいるのは青いタイルの三葉虫やアンモナイトのようです。
『地質学研究所』だから。わかりやすいというか、楽しいですね。
地質学研究所の入口は、波打つ曲線の鉄とガラス。その上には青いタイルの文字や装飾が。
彼の建築に特徴的な装飾タイルですが、ハンガリーではこの時代、耐凍性の建築用セラミックや玉虫色に輝く『エオシン釉』などを生み出した『ジョルナイ工房』という一つのファミリーによる工房があり、それによってハンガリーのタイル文化が築かれたのだそうです。
日暮れが近づいてきました。広場には、いつの間にか大勢の人たちが集まってきておしゃべりをしています。
今日の観光は終了。私たちはそろそろ宿へ引き上げて、ハンガリー料理とワインを楽しむことにしましょう。
翌日。ここはドナウ川にかかる『サヴァッチャーク橋(自由橋)』。元は1896年に建造され、ハンガリー国王フェレンツ・ヨージェフ1世(オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世)の名前をとって『フェレンツ・ヨージェフ橋』と命名されたそう。1945年にドイツ軍によって爆破された後、1946年に架け替えられたそうです。
路面電車を待つ人たちが、橋の見える停留所で佇んでいます。
サヴァッチャーク橋から2つ北にある橋が、有名な『鎖橋』です。スコットランドの技師アダム・クラークによるもので、1849年の完成。ブダペストでドナウ川の両岸を結ぶ最初の恒久的な橋なのだそう。
この橋は夜にはライトアップされ、美しいブダペストの夜景の一コマとなっています。
そして鎖橋をブダ側へと渡ると、王宮のあるブダの丘を貫くトンネルが現れます。凱旋門のような威厳のあるトンネルの入口。
このトンネルは、橋の延長として1857年に建設されたものだそうです。
トンネル入口の横には、丘を上る『ブダ城ケーブルカー』。1870年開通と、かなりの歴史があるものです。
丘の高さは下から70mほど。チケットを買って乗り込めば、あっという間に王宮の丘の上へ。
ケーブルカーの到着した上の広場からは、ドナウ川と対岸のペストの街並みがとてもよく見渡せます。
北東へ目を向ければ、ドナウ川の東岸にはドームと連なる尖塔の『国会議事堂』。ネオ・ゴシックを基調としたこの華麗な建物は1885~1904年にかけて建てられたもの。連続するアーチに沿って林立する細い柱やリブが、レースのように繊細な外観をつくっています。
ケーブルカーの上の駅から少し北へと進むと、『マーチャーシュ教会』がありました。
伝承では、創建は1015年ということですが、現在の建物の姿の基本は14世紀後半のゴシック様式。しかし、1541年にブダがオスマン帝国に占領されると、それ以降154年に及んでモスクとして使われたそう。
1686年にオスマン帝国の支配が終わると、聖堂のバロック様式での復旧が試みられましたが十分なものではなく、19世紀末にシュレク・フリジェシュによりネオ・ゴシックとして全面的な改築が行われました。この際、ジョルナイ工房のカラフルな屋根を使うなど新たな要素も加えられ、現在見られる教会の姿になったとのことです。
ブダの丘の上でもマーケットが開かれています。野菜や果物が色とりどりで美味しそう。
プチプチと小さい実は何でしょうか。ベリー類かな。
マーチャーシュ教会から西へ、セントハーロムシャーグ通りを進むと、すぐに丘の反対側に出てきました。このあたりのブダの丘の東西方向の幅は150m程度と狭い。
丘の南西には緑の多い住宅地が広がっていました。
ちょっと引き返して今度は北へ、ウーリ(Úri)通りを歩いていきます。
王宮のある丘の上の通りに並ぶ建物群は、貴族の邸宅だったんでしょうか?
薄緑、黄色、褐色など、塗り分けられた建物ごとに一つずつ、アーチ状の入口が設けられています。
入口は立派な柱やバロック風の装飾、バルコニーなどに飾られて、どれもなかなか立派です。
入口から中を覗いてみると、中庭を囲んだ部屋の窓が並んでいます。
草花を飾ったバルコニーが美しい。
こちらはバロック風。アーチの上には紋章、両側の柱の上部には天使と、ひときわ立派なエントランスですね。
中を覗いてみると、白と黒のタイルの床の向こうに白い壁と楕円の窓のある中庭が見えます。
右手には螺旋階段があって、とてもオシャレです。
そんなウーリ通りを歩いていると、レンガ造の塔の足元に出てきました。『マリア・マグドルナの塔』です。
ハンガリー市民が13世紀に自分たちの教会を建設し、15世紀終わりに拡張されこの塔も建設されたのですが、第二次大戦によって教会の建物はかなりダメージを受けたそうです。
1950年から、教会の塔をモニュメントとして残そうという取り組みが始まったそうですが、教会の本堂の建物は壊されてしまいました。
塔の奥には、教会の石積みの基礎のみが残っています。
このマリア・マグドルナの塔の向かいに、可愛い郵便ポストがありました。郵便局のマークはラッパですね。
それにしてもポストの容量が少なそうで、クリスマスや年賀状(ないか?)の季節には溢れないかと心配になります。
ここは、ブダの丘の北端です。ここからウーリ通りの1本東にあるオーサグハズ(Országház)通りを通って南へ戻っていきます。
その途中、最初の路地を覗くとルーテル教会の塔が見えました。
オーサグハズ(Országház)通りをさらに進んでいくと、観光馬車とすれ違いました。
ところで、この通りの名前オーサグハズは『議会』という意味のようなので、ここには議会の建物があったのでしょうか。北端の立派な建物がそうだったのかも。
建物の壁に、ときどき歴史のありそうなお店の看板風の飾りを発見するのも楽しい。
これはブドウなので、ワイン屋さんだったのかな。
そして、オーサグハズ通りが終わったら、さらに東に並行したフォルテゥナ(Fortuna)通りを再び北へ。
ブダの丘を南北に走る主要な3本の通りを歩き回ります。私たちは、こんな歴史ある街並みの通りが好きなんです。
通りの北端正面にあるのは『ハンガリー国立アーカイブ』。カラフルな屋根の模様が特徴的な建物です。
右手は、先ほども見たルーテル教会の塔。
ブダの丘の北側は観光客も少なく、のんびり街歩きができて楽しいところでした。ゆっくりできるカフェもあります。
観光的には、おっと、肝心の『ブダ城』を見ていませんが、まあまたの機会ということにして、そろそろ次の場所へ移動しましょう。
というわけで、丘を下りて再び鎖橋へとやってきました。
そして南へと進み、サヴァッチャーク橋(自由橋)に到着。
ブダ城の丘の南には、もう一つ、ゲレルトの丘があり、その丘の南の麓とペスト地区を結ぶのが自由橋です。
その橋の袂にあるのは『ゲレルト温泉』。温泉を備えたホテルとして1911~1918年に建てられた建物です。
左側がホテルの入口、そして右側のドームがあるところが温泉の入口。
20世紀初頭のユーゲント様式ですが、ドームなどはエキゾチック。早速中へと入っていきましょう。
ところで、ヨーロッパの温泉文化とはどんなものなんでしょうか。古くは古代ローマの浴場があります。温泉好きだったローマ人はヨーロッパ各地で温泉を開発し、兵士たちの傷病治療にも役立てたそうです。
その後、中世になると風紀の乱れや伝染病の流行などにより、多くの公共浴場が閉鎖されたそうですが、18世紀に入ると医学の発達により温泉の治癒力が見直され、王侯貴族の湯治旅行が流行したのだとか。
19世紀後半には、ハプスブルグ帝国によってウィーンから中央ヨーロッパ各地に鉄道路線が伸びて、帝国内の温泉地の多くもこの時期に発展したのだそうです。
ブダペストはヨーロッパでも有名な“温泉都市”で、100もの源泉があるそうです。このゲレルト温泉は美しく優雅なデザインの建物で、ブダペストの温泉の中でも特に人気。入口を入ると、最初のドーム天井のところに受付があります。
そして、ヴォールト天井の下をまっすぐ進みます。
天井は明るいガラス部分と優雅な漆喰部分があり、それを支える柱や壁は濃いピンク、多分大理石なんでしょう。
その先の交差部には高いドーム天井がありました。
ドームの頭頂部は美しい色ガラス、そしてその周囲に小さな8つの円形の丸窓が並んでいます。
さらにその先には、再びガラスのヴォールトが現れます。
2つのガラスのヴォールト部分の右手に、男女の浴場への入口があります。
手前のヴォールトの中央右手が女子浴場への入口。鴨居の上の紋章には『温泉 女性(Termálfürdö Nök)』と書いてあります。
ここはヨーロッパの温泉では珍しく裸で入るお風呂ですが、隠したい人のために、女性には金太郎の腹掛けのようなものを貸してくれます(男性はフンドシらしい)。
さて、その浴場。写真はありませんが、天井や壁は青緑のタイルに模様が描かれています。
次に、水着に着替えて室内プールの方へ。プールの入口は交差部のドーム天井の右手です。
このプールが素晴らしく豪華なんです。青い水を湛えたプールの周りに彫刻を施した2本組の柱が並び、上部のバルコニーを支えています。ガラスの天井の一部は開放できるようになっており、水面に眩しい光が差し込んでいます。
この2階のバルコニーからは、屋外テラスに出ることができます。デッキチェアでリラックスする人も。
さらにその先に目を転じれば、今度は屋外プール。やるなあ、ゲレルト温泉。
美しく充実した温泉リゾート施設に大満足です。
ゲレルト温泉を出たら、自由橋をペスト側へ渡ります。
ブダペスト滞在の最後を飾るのは、レヒネル・エデン、パールトシュ・ジュラの設計した『工芸美術館』(『応用美術館』という表記も)。1891~1896年の建築です。
急勾配の屋根の中央には釣鐘型ドーム。ドームは鱗のようなタイルに覆われ、てっぺんには王冠をかぶったような見晴台のようなものが乗っています。
壁には色タイルで草花模様などが緻密に描かれています。
では、ドームの下の入口を入ってみましょう。
有機的な曲線の造形は、怪しい魔物の館の入口かと思わせます。
そんな中、黄色いセラミックの複雑な形をした手すりが奇妙にも美しく、
天井は草花の模様が描かれたタイルで、明るく華やか。
この建物は、マジャール民族の伝統装飾への関心の高かったレヒネル・エデンがジョルナイ工房のセラミックと出会ってそれを表現し、後のハンガリー建築に大きな影響を与えることになった初期の代表作だといいます。
建物の中に足を踏み入れてみると、驚くことに内部はインド・イスラム風アーチが並び、奥の中央ホールは高い天井の空間が明るい光に包まれています。ここで上を見上げると、
ステンドグラスの美しいドーム天井がありました。
うねるバルコニーがステンドグラスを縁取っているのも、何とも幻想的な感じがします。
中央ホールへと進みます。外観や入口と違って、シンプルな真っ白な内部は白大理石のインドのマハラジャの館のイメージかな、などと思いましたが全く間違いでした。
実は、当初は内部もカラフルな彩色だったそうですが、奇抜なデザインが物議をかもし、竣工後間もなく内部は白く塗り込められてしまったのだそう。
それにしても、なぜインド風なのか。マジャール人はモンゴル遊牧民の流れを汲み、テュルク系、イラン系、ドイツ系、ラテン系などが複雑に混じった民族なのだそうで、そんな民族のオリエントとの混合を表したのでしょうか。
そして、元のカラフルな内装だったらどんなだろう、などと思いつつも、真っ白なマハラジャの館風の内部はとても美しいと感じました。
工芸美術館の見学を終えて、中心部へと戻ります。そろそろブダペストともお別れ、旅の終わりが近づいています。
ブダペストは、1873年にブダ、オーブダ、ペストの3つの街が合併して誕生した都市です。その前年の1872年にエルベージェト公園から英雄広場に至るアンドラーシ通りが築かれ、計画的な都市開発が行われるようになったそうで、19世紀末~20世紀初頭の建物がよく見られ、世紀末建築のアール・ヌーヴォーや独自の民族的なモチーフを用いた建物が並んでいました。そんな街並みは、他のヨーロッパの都市とはやや雰囲気の異なる個性と美しさを見せていたように思います。
夕方の広場には人々が集まり、観光客を目当てに似顔絵描きの人たちが店を開いています。
こちらの通りでは、女性たちがテーブルクロスやスカーフなどを手にずらりと並び、道行く人たちに声をかけています。ハンガリーには世界でも有名な伝統的な刺繍があるんだそうで、カラフルな花模様の図柄が見えますね。
さて、中欧の三都を繋いだ旅はこれで終了。壮大な聖堂や、数々の華麗な建築に出会うことができました。今回は大都市が中心だったので、次の機会には田舎町も巡ってみたいものです。