ムーレイ・イドリス
今日は一日かけて、車でフェズの西にある名所を巡ります。
まずは、フェズから60kmほどのところにあるムーレイ・イドリス(ムレ・イドゥリス・ズル)。丘の斜面を覆うような白い町が見えてきました。
ムーレイ・イドリスは、789年にモロッコで最初のイスラム王朝『イドリス朝』を開いたイスラム指導者で、その名が町の名前となっています。
そして、ここにはそのムーレイ・イドリス(イドリス1世)の霊廟があり、ムスリムの巡礼の地となっていて、毎年8月には大きな祭りも開催されるそうです。
巡礼の地としての賑わいのある通りを、町の中へと入っていきます。
ムーレイ・イドリスは神聖な町として、1912年まではムスリム以外は入ることができず、また現在も(*2005年まで)ムスリム以外が宿泊することはできないそうです。
白い壁とアーチに挟まれたムーレイ・イドリス廟の入口は、神聖な雰囲気が漂います。
ここはムスリム以外は入れないのですが、少し入口から覗かせてもらいました。
霊廟をあとに、町の東側に見晴らしのよい場所があるというので行ってみました。
ロバと一緒に細い路地を進むと、街角に水場があったりお茶を売る人がいたりします。小さい町なので、のんびりした雰囲気でいい感じ。
見晴しのよい場所ということは、当然上りです。坂道と階段を上っていきます。
路地の両側を埋める建物の壁面は白く、時には美しいデザインの鉄格子がはめ込まれていたりします。
そして、見晴らしテラスに到着。ここは絶好のスポットで、すぐ目の前にムーレイ・イドリス廟の緑の屋根が見え、モスクの尖塔と広い中庭も見渡せます。(TOP写真も)
この町は東西の丘の上につくられており、東の丘から西の丘を眺めているというわけです。
4代目カリフの系譜を持つイドリス1世は、中東地域を支配していたアッバース朝を追われ、まず古代ローマの町であったヴォルビリスを拠点としてこの地域の指導者になったそうです。
しかし、ヴォルビリスは開けた平地にあり守りの面で脆弱であると考えたことから、数キロ先の丘の上、現在のムーレイ・イドリスの地に町を移したのだとか。
そんな丘の町、斜面にへばりつくような建物の間を細い階段が通っています。
町の入口付近に戻ってきました。テラスでお茶をしながらちょっと休憩です。短い滞在ながら、丘につくられた歴史ある聖地の雰囲気を味わうことはできました。
ヴォルビリス
そして、次に向かったのはムーレイ・イドリスから4kmほど北西にあるヴォルビリスです。
周囲の赤土の草地の中に、高く伸びて黄色い花を咲かせているリュウゼツランをよく見かけます。リュウゼツランの花は数十年に一度しか咲かないそうですが、こんなに咲いているのは珍しいのでしょうか?
前方の小高いところに柱が何本も立っているのが見えてきました。
ヴォルビリスは紀元前3世紀頃にカルタゴ人が創設した町だと言われています。カルタゴが滅びた後、この地域を支配したマウレタニア、その後のマウレタニア・ティンギタナはローマの属州となり、オリーブオイルや小麦などの商業都市として栄えました。
その後、285年までにローマのディオクレティヌス帝は現在のララシュ以南の地域を手放すこととし、ヴォルビリスもローマ帝国ではなくなりました。これ以降もヴォルビリウスの町は存在していましたが、8世紀にイドリス1世がやってきてムーレイ・イドリスに、その後イドリス2世がフェズに都を移すこととなり、ヴォルビリウスは放棄されました。
それから1000年以上の時を経て、1915年以降、フランス人によって遺跡の発掘調査が開始されたそうです。
写真のここは、2世紀頃に建設されたフォーラムで、都市の中心的な公共の場だったところです。この建物はバシリカ。
バシリカを取り囲む壁のアーチが残り、重厚な姿を見せています。
そして、バシリカ内部に残るコリント式の柱。
一方、居住区の方にも見所があります。住宅の床に描かれたモザイク画がとてもよく残っているのです。
これは、馬に逆向きに乗っている男ですね。アクロバットを見せているのでしょうか。
こちらでは、男が海で釣りをしています。魚をゲットできたようです。
あたりには大きな魚がたくさん泳いでいます。
円を重ねたデザインで、ここにも魚が描かれています。
こちらは、イルカだそうです。9頭も泳いでいます。
そして、少し北に行ったところに『カラカラ帝の凱旋門』があります。
これは217年に建てられたもので、カラカラ帝が帝国内に住むすべての自由市民にローマ市民権を与えたことへの感謝を示したものだそうです。
東から延びる道の突き当たりに位置し、アーチの向こうには平原と緑の農地が広がっています。
このヴォルビリスは、北アフリカでも最も保存状態のよいローマ遺跡で、20haにも上る遺跡のエリアはまだ発掘の途上なのだそうです。
メクネス
日差しの強い平原のヴォルビリス遺跡を散策し終えたら、次は車で30kmほど南のメクネスへ。
なだらかな丘の上に、白く広がっている街が見えてきました。街は城壁に囲まれています。
メクネスは、10世紀頃にベルベル人のメクネッサ族がここに町をつくり、周辺でオリーブやブドウを栽培したことから始まったそうで、メクネッサ族の名が町の名前の由来となっています。
17世紀、アラウィー朝のスルタン、ムーレイ・イスマイルがここに都を置いたことで、町は大きく発展しました。しかし彼の死後、都はフェズに移され、メクネスは次第に衰退していったそうです。
ムーレイ・イスマイルは馬を愛したことでも知られており、王の馬として12,000頭もの馬を飼育していたそうです。
メクネスでまず訪れたのは、その王室厩舎の遺跡。この驚くべきアーチの連続、多くの馬の厩舎が整然と並んでいたようです。
分厚い壁と太いアーチで支えられた天井を持つ厩舎、そして水路を整備し新鮮な水を常に供給していたのだそうです。
1755年のリスボン地震の被害を受け、またメクネスの衰退もあって、現在は遺跡として残っているのみですが、この頑丈なアーチが並ぶ様は、当時のムーレイ・イスマイルの権力の大きさを物語ってくれます。
そして、メクネスの最大の見所はこのムーレイ・イスマイル廟。1703年に建設されました。ここはムスリム以外でも入場することができます。
中央に水盤のある中庭に出てきました。床のタイルが涼しげで美しい。
柱の下部にもタイルが施されており、その上には漆喰のレリーフが。落ち着いたデザインで静かな中庭の空間をつくっています。
一方、霊廟は床・壁・天井すべてにきらびやかで繊細な装飾が施され、息をのむような空間が構成されています。
天井横の四方の窓から明るい陽が差しています。
部屋の中央には噴水があり、それを取り囲む床のタイルも美しいデザインです。
正面の壁にはお祈りの場所でしょうか、小さな窪みがつくられています。
その壁のタイル、回りの壁のレースのような漆喰などがエレガントな雰囲気を醸し出しています。
天井を見上げると、色合いは落ち着いていますが、こちらもまた美しい模様が緻密に描かれています。
星か花が舞っているようですね。東洋的というか、日本人好みのデザインのようにも感じました。
そして、アーチ上部の壁は、青を基調とした小さなアーチの連続のようなデザイン。アーチの中はレース編みのようです。
この華やかな空間の奥に静寂に包まれた部屋があり、ここにムーレイ・イスマイルと家族が埋葬されています。
ムーレイ・イスマイルはフランス国王ルイ16世と親交があり、メクネスを『モロッコのベルサイユ』にしたかったのだといいます。メクネスの繁栄は彼の代で終わりましたが、現在のメクネスはゆったりと落ち着いた都市に見えました。
さて、カサブランカから始まり、マラケシュ、ラバト、フェズ、メクネスなどの古都を訪ね、また近郊の村や遺跡を巡った私たちのモロッコ10日間の旅は、これで終わりです。イスラム圏の習慣の違い、また女性にとっての動きにくさを感じることもありましたが、メディナの街歩き、スーク巡りは文句なく楽しいものでした。そして、繊細な漆喰のレリーフやタイル、木の彫刻などを駆使した美しい建築の数々に出会うことができました。
今回は短い滞在でしたが、次の機会にはもう少し足を延ばして、サハラ砂漠の村などもゆっくり訪ねてみたいものです。