梅雨空の合間を縫って、蓮を見に行こうとやってきたのは埼玉県の北鴻巣駅。この隣の行田市には、古代蓮で有名な『古代蓮の里』があるのです。
この日のお天気は、なんと快晴!
蓮を鑑賞する前に、『さきたま古墳公園』に寄ることにしました。北鴻巣駅からさきたま古墳公園へは、駅のすぐ近くの赤見台近隣公園から武蔵水路に沿って『さきたま緑道』があり、安心して進むことができます。
ここは久々に登場のベネデッタを先頭にどんどこ行きます。
この緑道は歩行者用と自転車用の道がそれぞれ独立してあるのもいいところです。
緑道の脇にはほとんど車が通らない道が併設されているので、場合によってはこちらを走ってもOK。横は田んぼで、この時期は等間隔に植えられた緑の苗がきれいです。
1.5kmほどで元荒川を渡りますが、この川はここのすぐ上流で忍川(おしかわ)となります。
元荒川の先で上越新幹線の高架をくぐりますが、その先も緑道は続きます。
この時期の緑道は木陰の中で涼しく、気持ちよく進みます。
このさきたま緑道の終点が、さきたま古墳公園。
緑道からアプローチすると、まず、前方後円墳の『奥の山古墳』が見えてきます。
この公園には1基の円墳と8基の前方後円墳、合計9基の古墳があります。これらの築造は、おおむね5世紀末から7世紀初頭にかけてのようです。
かつてこのあたりには40基ほどの古墳が点在していたそうですが、明治の末ごろから昭和の始めごろにかけて、農業用地拡大のため、その多くが削り取られたといいます。
またここには、二軒の古い民家が移築保存されています。
その一つが江戸末期の旧遠藤家住宅で、これは稲作農家だったものでとても広い土間があり、その上はお蚕さんでも飼っていたのか、簀の子状の天井とも床板ともつかないもので覆われています。
この脇には立派な博物館があり、また『埼玉県名称発祥之碑』が建っています。その碑によれば、埼玉県の名称は『埼玉郡』からきているようで、埼玉郡は古くは前玉郡(さきたまぐん)とも記されていたとのこと。そして古い由緒正しい文献に『前玉神社』の文字があり、ここ行田市の埼玉(さきたま)には巨大古墳があり、また前玉神社があることから、ここに埼玉県名称発祥之碑を建てたのだそうです。
さて、そんな碑を横目に県道を渡ると、さきたま古墳公園の北のブロックになります。この公園は南北二つのブロックから成るのです。
南北のブロックを繋ぐメイン通路の突き当たりにあるのが、この公園で唯一の円墳、丸墓山古墳。
丸墓山古墳は直径105m、高さ18.9m。これは日本で最大規模の円墳だそうです。
この古墳は登れるようになっているので、登ってみることにしました。
頂上からはちょっとした眺めが楽しめます。
南西を見れば富士山。
北西には榛名山、北には赤城山から日光の男体山、東には筑波山と、関東周辺の山々が一望にできます。
丸墓山古墳は戦国時代の歴史的な一幕の舞台でもありました。
豊臣秀吉の小田原征伐に際し、石田三成は忍城(おしじょう)攻略の命を受けます。三成は忍城を水攻めするために、ここ丸墓山周辺に石田堤を28kmほど造ります。そしてこの頂上に陣を張り、攻撃の指揮をとったといいます。利根川や荒川の水を引き入れますが、城の周りに水はあまり溜まらなかったようで、逆に増水により石田堤が決壊し、石田方に多くの被害が出てこの水攻めは失敗に終わります。
ここからは再建された忍城も見えています。
丸墓山古墳からは隣にある稲荷山古墳もよく見えます。この稲荷山古墳からは、国宝の115文字の銘文を持つ金錯銘鉄剣が発掘されました。金錯とは金を使った象嵌のことで、なんとこの剣は先の博物館に保管・展示されているそうです。
稲荷山古墳の東にある将軍山古墳からは日本では三例しかない馬冑が出土しており、これもここの博物館に展示されています。
さきたま古墳公園からは旧忍川に沿う遊歩道で『古代蓮の里』に向かいます。
それは先に見える高い塔の下にあります。
『古代蓮の里』の駐車場から一段上がると、そこは各国の蓮の展示ゾーンである世界の蓮園。
まず目に入ったのは大賀蓮です。大きな赤い花が見事なこの蓮は、千葉県で発掘された古代蓮です。
舞姫蓮の花は薄黄色で淡いピンクが先の方にかかっていて可憐。
真っ白なものや黄色いもの、花びらの数が百枚以上もありそうなものなど、これらのほかにももの凄い数の蓮があります。
ところで古代蓮はどこ? と探すも、世界の蓮園には原始蓮や中国古代蓮というのはあるけれど、ここ行田で花開いた古代蓮は見当たりません。
それは世界の蓮園から奥に入った蓮池に咲いていました。
ここの古代蓮は行田蓮と呼ばれ、この近くの建設工事の際、偶然出土した種子が自然発芽し、開花しているのが発見されたものだそうです。
この種子はおおむね1400年から3000年前のものと推測されています。
赤く大きな花は、やはり古代蓮だという大賀蓮とよく似ているように見えます。
ここには蓮以外の水生植物も。これはたぶんアサザでしょう。
アサザは一時絶滅が危惧されるほどでしたが、近年は各地での保全活動が実り、その数を増やしているとも聞きます。しかし実はそのほとんどがクローンとしての増殖で、種子を作れるのは霞ヶ浦だけともいわれているので、予断を許さない状況ともいえます。
ともあれ、咲き乱れる古代蓮に満足な面々でした。
蓮の観賞に満足したら、近くの成就院に向かいます。
今日も元気なエーちゃんと帽子のキルピコンナ。
関東平野は稲作地帯。周辺にはきれいな田んぼがず~っとどこまでも並んでいます。
成就院はこうした田んぼの中にあります。成就院には江戸時代の三重塔が建っています。埼玉県には江戸時代の三重塔は三つしかなく、これは貴重なもののようです。
この塔が面白く感じられるのは、一間四面という造りです。一間とは柱間が一つであることで、四面とは方形の建物であるということ。つまり方形の平面の四隅にしか柱がない建物ということになります。ちなみに今日一間といえばおおよそ1.8mという寸法を表しますが、ここでいう一間はあくまで柱と柱の間の数のことです。
三重塔には比較的小規模なものが多いですが、それでも三間四面ということが多く、一間四面はかなり珍しいと思いやってきたのですが、一間なのは初層の正面だけで、他三面は二間でした。芯柱は二層で止められており、内陣には須弥檀が設けられ、格天井が組まれています。
さて、一間四面の謎が解けたら、次は八幡山古墳です。
田んぼの中をどんどこ行って、
街に入ったすぐのところにある工業団地の中に、それはひっそりとあります。
八幡山古墳は、7世紀中頃に築造された直径80mほどの円墳と推定されています。
近づいてみると、あれ、なんか石が積まれている。これ、古墳? そう、これは八幡山古墳の中にあった石室なのです。
さきたま古墳公園周辺の古墳の多くは農業用地確保のために壊されましたが、ここは昭和の初期に土を取るために崩されました。この石室の一部は江戸時代より露出していたようですが、この工事で完全にあらわになったのです。かつてここは、あの丸い円墳の土中だったわけです。
石室の露出した様子が飛鳥の石舞台古墳によく似ていることから『関東の石舞台』と形容されたといいます。
この横穴式石室の構成は入口側から、羨道、方形の前室、胴張り形の中室、隅丸方形の奥室で、現在長は14.7m(推定長16.7m)、奥室幅4.8m。
ここからは乾漆棺などが出土しており、被葬者は宮廷ときわめて近い関係の人物と考えられているそうです。
八幡山古墳からは行田市の中心にある水城公園(すいじょうこうえん)へ向かいます。
水城公園は、忍城の外堀跡を利用してつくられた公園で、なかなか涼しげで気持ちいい。
水上公園を廻っていると『おなかすいた~』と叫び出すもの数名が現れたので、ここでお昼に。その飯処の近くに立派な神社があったので立ち寄ってみました。
行田八幡神社です。なんでもここは千年の歴史を持つ由緒正しき神社だそうで、珍しく西向きに建っていることから『西向き八幡』とも呼ばれているそうです。
さて午後の部は、お城好きのシロスキーのための忍城から。
行田市役所の南には、気持ちのいい遊歩道が忍城の東まで延びています。その遊歩道を行くと正面に忍城が見えます。この城はもちろん最近再建されたものです。
15世紀に建造されたこの城の当時の主は成田氏で、これは四代百年続いたようです。その当時の様子を示す資料によれば、ここは利根川と荒川の間の扇状地で、広大な沼地でした。三成の水攻めはこの成田氏時代の最後にあったわけです。水攻めは成功しなかったものの、結局小田原城開城にともないこの城も豊臣軍に引き渡されます。
家康が関東に入ると、その四男の松平忠吉が十万石で入城。以後ここは徳川の譜代や親藩の大名が城主となります。この時代に忍城は大改築が行われ、天然の要害の城から櫓や白壁を持つ城へと変わっていき、城下町も整備が進みます。当時の忍城はかなり広大な敷地を持ち、その廻りにはこれまた広大な濠が巡らされていました。
忍城からは利根川へ向かいます。
いい気分で緑の田んぼの中をどんどこ。榛名山がぐっと近づいてきました。
利根川の土手に突き当たると、なぜかその付近には土手上に登る道が見当たりません。どういうわけか土手のこの突き当たりの部分だけ草が刈られています。まるで、ここからお上がりなさい、とでもいっているように。
ということでそこを、えいやーっと自転車を押し上げます。
よじ登った先の利根川です。利根川は長さは信濃川に次いで日本で二番目に長く、流域面積は日本一です。
対岸が見えないような世界の名だたる川には及びませんが、日本の大河であることに間違いはありません。
このすぐ下流には利根大堰があり、12門のゲートで水位を調整しています。
この堰は首都圏の水需要に応えるために造られたもので、群馬県と埼玉県を繋ぐ武蔵大橋にもなっています。
利根大堰の埼玉県側の袂には『大堰自然の観察室』があり、1号魚道を上る魚が観察できます。
4~5月なら鮎、10~12月なら鮭の圧倒的な遡上が見られるのですが、この時期は鯉の仲間くらいしかいません。
それでも、急な流れを遡る勇ましい魚の姿を見るのは楽しい。
利根大堰からは利根川自転車道で利根川下りを。
新人ビジターのユキちゃんを先頭に、久々に登場のコンタが続く。
『梅雨時にしたら今日は最高のサイクリング日和になったね~』と企て人のサイダー。
しかし川辺の自転車道には日影がありません。でもこのあたりにはいくつか休憩できる施設があります。その一つが『道の駅はにゅう』。物産販売所があり、ちょっとした食堂もあるのでここでまず休憩です。
アイスクリームで身体を冷やしていると、外の気温もぐっと下がってきました。ひと息付いて道の駅はにゅうを出発すると、これまでなかった風が出てきました。こうした時にはそれはかならず向かい風というのが決まり事。その風がだんだん強くなってきて、いくらペダルを踏んでも前に進まない。しかも道が砂利道になったりして、ちょっとあたふた。
先に次の休憩ポイントである加須未来館が見え出すも、一向にそれは近づかない。
なんとか加須未来館に辿り着いたときにはもうへろへろでした。
ここで偶然、ラベンダーを発見。
加須未来館はプラネタリウムと天体観測室を中心にした施設で、一階には農産物直売所と小さな食堂があります。
屋上には屋外観察スペースという簡単なデッキがあり、360°の眺望が得られます。ここから眺める利根川とその対岸の山々はなかなか見事です。
そうそう、このラウンジにこいのぼりが置いてあるので思い出しました。加須市は有数のこいのぼりの産地であり、毎年5月3日にこのすぐ近くの利根川河川敷緑地公園で、100mのジャンボこいのぼりが揚げられます。これはかなり面白いです。
加須未来館を出ると風はさらに強まっていました。道脇の草はバサバサと波打っています。
利根川の河川敷にはグライダーの滑走路が何箇所かありますが、今日は強風のためか、滑走路に飛行機の姿はなし。
先に東武日光線の鉄橋が見えてきました。その上を白にオレンジのラインの特急スペーシアが滑るようにして進んで行きます。
『さあ、もうちょっとで終点の栗橋だから、がんばって~』とお互いを励ましつつ進みます。
ところがその東武日光線で、土手上の自転車道はプチっと途絶えています。
ちょっと、、、こういうところは下に下りる道を作ってよね! とブツブツ言いながら、みんなで土手を下ります。って、この少し手前にそうした道はあったらしいのですが。。
このあと、ちょっとぬかるんだところでコケたりと小さなアクシデントがありましたが、なんとか進んで行きます。
そしてようやく東北本線の鉄橋が見えてきました。終着地の栗橋駅はあの鉄橋のすぐ先です。東武日光線と東北本線のちょうど中間あたりに、土手に上がるスロープがあったのですが、先の例のごとく東北本線でまた行き止まりだと困るので、ここは河川敷の中の道をそのまま進んで行きます。
その道脇にはこんなオレンジ色の花がびっしり。この生命力を見ると、おそらくこれは外来生物でしょう。なんていう植物でしょうか。
東北本線の鉄橋をくぐり、土手に上ります。その土手上からはすぐに栗橋駅方面に下る道が二本あるのですが、これがどちらも通行止め。特に工事をしているわけでもないのに。このあたりはちょっとどうなっているの、という感じの作りですね。あとで地図を確認すると、この手前で土手に上るとスムースに栗橋駅方面に向かえたようです。
最後の利根川自転車道は強風向かい風で、『疾走』するというわけにはいきませんでしたが、梅雨時の天気としては最高で、楽しい一日になりました。このコースはまったくアップダウンがなく車も少ないので、初心者でも走りやすいでしょう。