2021年の走り初めは富士山に登ります。あ、富士山とは言っても本物の富士山じゃあなくて富士塚ですが。
去年のお正月に品川神社で富士塚に登ったら、これが意外と面白く感じたので調べてみると、なんと都内には100を超える富士塚があることがわかりました。23区内に限っても50以上あります。今日はこれらの中で比較的規模が大きく、行きやすい七箇所を巡ります。
集合場所は上野公園。この公園はモダンな造りではありませんが、広大で、周辺には国立博物館をはじめとする文化施設が多く存在し、ある意味、日本の文化の中心地と呼べるところです。
ここは春の花見でも有名ですが、この時ばかりはいけません。酒臭いだけで、いいところがすべて失われてしまいます。そんな桜の名所の上野公園には寒桜が咲いていました。
現在上野公園となっている土地は、かつては3代将軍徳川家光が創建した寛永寺の境内でした。これは『古地図 with MapFan』を見ると良くわかります。本堂である根本中堂は大噴水のところ、そして総門である黒門はそのすぐ南、今私たちが立っているところにありました。
富士塚巡りに出発する前に、このあたりで歌川広重が名所江戸百景で描いた三景を巡ります。
大噴水から五條天神社の前を通って不忍池の畔に降りると、そこには中之島があり弁天堂が立っています。写真は動物園通りの南側から北を見たもので、左手に不忍池と弁天堂があります。信号を右に入るとそこはこのあと出てくる清水観音堂(きよみずかんのんどう)。信号の先の緑色のフェンスを右に入ると五條天神社です。
動物園通りを手前に行くと広小路で、そこには不忍池の水を流す川(現在はない)に、三橋(みはし)と呼ばれる橋が架かっていました。
広重の名所江戸百景『上野山した』は画題のとおりに上野の山の下を描いたもので、ヘンリー・スミス(広重 名所江戸百景/岩波書店)によれば、この絵は三橋のひとつを渡った辺りから北を描いたものとのことなので、広小路ということになります。『古地図 with MapFan』で見ると当時の五條天神社は現在の場所ではなく、広小路の突き当たりに入口があるのがわかります。当時から広小路は広く、今日と同じくらいの幅があったようですが、現在そこにはビルが立ち並び、広重の絵とはまるで雰囲気が異なるので、上の写真はそこから程近い動物園通りにしたのです。
黒い石垣の手前に伊勢屋があり、紺色の暖簾には『志楚めし』(紫蘇飯)と白抜きされています。一階は魚屋で二階は料亭。この伊勢屋は棟に描かれている雁にちなんだ料理を出すようになり、後に『雁鍋(がんなべ)』という名に替わり、幕末から明治にかけて人々が通う人気店になったようです。 夏目漱石の『虞美人草』、森鴎外の『雁』、正岡子規の『病寐六尺』にこの雁鍋が出てきます。また上野戦争の折にはこの店に新政府軍がたて籠り、二階から彰義隊を狙撃して勝利のきっかけとなったことでも知られます。
伊勢屋の奥に見える鳥居は五條天神社で、その上に描かれた、日本絵画によく登場する『すやり雲』の上に飛ぶのは鳩ではなく(笑)、烏。
左に並ぶ日傘の女たちは、スミス氏の見立てでは花見を兼ねて寛永寺に代参に行く御殿女中らしいです。寛永寺の入口は広小路の突き当たり、上野公園への入口である京成上野駅のところにありました。黒い石垣の左側の通りが寛永寺の参道です。
さて、この絵は広重の死の翌月に出版された三枚のうちの一枚です。この事実からこれらを二代広重作とする説もありますが、スミス氏は、「少なくとも最終段階において、広重とは別の人物の手、おそらく重宣(二代広重)の手が入ったもの」という仮説を立てています。これは逆に言えば、最終段階以外は広重の手による可能性が高いということでしょう。
不忍池の畔から上野の山に上り返します。そこに見上げるようにして立つのは清水観音堂。上の絵の通りを進むとここに出ます。
徳川家康のブレーンの一人、天台宗の天海僧正により1625年(寛永2年)に開かれた寛永寺の山号は東叡山で、これは比叡山の東という意味だそうです。延歴年間に創建された延歴寺にならい、建立年に因んで寛永寺とされました。延歴寺が京都に対したように、寛永寺もまた江戸の鬼門にあたる東北の方角を鎮護しようとしました。
また天海僧正は将軍家の威光を高めるため、ここに京都の写しを作ろうとしました。清水の舞台、琵琶湖、そこに浮かぶ竹生島と弁天堂は、清水観音堂、不忍ノ池、弁天島、弁天堂となりました。この清水観音堂は、比叡山の延歴寺に相当する一大伽藍群を江戸に現出させるという大がかりな計画の一環として建立されたものなのです。
舞台の真ん前に丸い枝振りの『月の松』が鎮座しています。
名所江戸百景『上野清水堂不忍ノ池』(うえの きよみずどう しのばずのいけ)はこの清水観音堂の舞台を中心に据え、周囲に満開の桜、左手に『月の松』、その向こうに不忍池と弁天堂に続く参道が描かれています。
この絵の舞台はいささか張り出しすぎのようで、松の木もずいぶん大きく描かれていますが、広重が描いた『絵本江戸土産』五篇『清水堂花見』では、松は舞台の下に届く程度だとスミス氏は指摘しています。絵本江戸土産には『月の松』は描かれていません。当時この松の知名度はあまり高くなかったようで、他の文献には現れないそうです。
『月の松』は明治初年前後の台風で折れ、現在あるのは2012年(平成24年)に再現されたものです。絵の『月の松』が生えている場所は寛永寺の所有ではなくなったため、舞台のすぐ前に移動したそうです。
広重は上の絵を描いてから1年と少し経った後、再びここを名所江戸百景『上野山内月のまつ』(うえの さんない つきのまつ)で描いています。
まん丸の枝の中に描かれたのは弁天堂ではなく、それは絵の右端にちょこっと見えるだけ。スミス氏は丸の中の火の見櫓はおそらく加賀藩前田家上屋敷のものと述べています。そこには現在、東京大学が立っています。そしてこのいかにもデフォルメされたような枝振りについて、石井研堂の「其枝自然に輪を為し」という報告を引用し、「この絵は、実際のかたちを写したもの」としています。
絵の松はかなり特徴的で迫力があります。スミス氏は木の摺りについて高い評価をしており、上辺の草色のぼかしについて「苔のむすまで年を経た木の感じが見事に表現されたといってよい。」と述べています。
現在の松のかたちはもちろん自然のものではなく人工的に作られたものです。若いのと養生のために巻かれた布のせいで、それほど迫力はなく、苔もむしていません。残念ながらここからは池の水面は見えず、輪の中に東京大学方面は捉えられなかったので、素直に正面に見える弁天堂を入れました。
以上が上野公園の広重です。出発点に戻ろうとすると、ミルミルがすぐ近くに面白いものがあると言うので寄ってみることにしました。
そこにあったのは、巨大なお面。しかも顔立ちが普通ではありません。このお面のすぐ下に大仏さまの写真があるのですが、その顔がこのお面にそっくり。というか、このお面は実は写真の大仏さまなのだそうです。関東大震災で損壊し、胴体は第二次世界大戦時の金属供出で失われたといいます。
まあそれはともかく、このお顔、なかなか迫力ですね。
大仏さまを眺めたらいよいよ富士塚巡りと行きましょう。
かつて寛永寺の根本中堂が立っていた出発地の大噴水まで戻り、上野公園を出ます。
まず最初の富士塚ですが、これは下町、台東区下谷の小野照崎神社(おのてるさきじんじゃ)にあります。
今日はお正月の3日ですが、今年はさすがにコロナ禍で人出はまばら。
この神社、境内は広くありませんが社殿はなかなか立派です。
拝殿でお詣りを済ませたら、すぐ横にある富士塚を覗いてみます。
富士塚は富士山を模して築造された塚で、簡単に富士山に行くことができなかった時代に、だれでも心安く富士に登山できるようにと考え出されたものです。その起源は18世紀のおわりごろまで遡るようです。富士山はそのものが神様とされ、それを祀るのは浅間神社でここにもその名が見えます。
下谷坂本富士の直径は16mで高さは5mしかありませんが、富士塚は大抵その山頂から富士山が見えるように造られたそうなので、かつてはここから富士山が見えたのでしょう。
今日、富士塚はその保存のため山開きの日(7月1日)前後の数日間しか登拝できないところも多く、ここもそのひとつで、残念なことにこの日は登山口は閉じていました。富士塚は民間信仰によるものなので民俗文化財に指定されているものも多くあります。この下谷坂本富士は国の重要有形民俗文化財に指定されています。
小野照崎神社で下谷坂本富士を眺めたら、鴬谷駅前凌雲橋(新坂跨線橋)で下を通る電車を眺めます。
ここは上野側が高く根岸側が低いので線路が段々になっているのが面白く、通過する列車もよく見えて楽しいです。山手線や京浜東北線に加え、新幹線はもちろん常磐線の特急ひたちも見ることができます。
上野に戻ったら寛永寺です。かつてその根本中堂は上野公園の大噴水のところに立っていましたが、これは1868年(慶応四年)の新政府軍と彰義隊が戦った上野戦争の際に焼失してしまいました。1879年(明治十二年)に川越喜多院の本地堂を移築し、上野桜木に新しい根本中堂として再建されました。この日この根本中堂では特別開帳が行われていました。
ちなみに黒門はかろうじて上野戦争の難を逃れ、荒川区の円通寺に移され、現在もそこで銃弾だらけの姿を見ることができます。
寛永寺の北には広大な谷中霊園があります。現在ここは都立の霊園になっていますが、かつて谷中墓地と呼ばれたものには寛永寺墓地と天王寺墓地が含まれます。
徳川家の6人の将軍の墓は寛永寺墓地にありますが、最後の将軍である慶喜のそれは都立霊園にあります。その他都立霊園に眠る有名人としては横山大観や渋沢栄一がいます。
ここはちょっと散歩するのにとても良いところです。
寺町の上野にはお寺がいっぱい。これは観音寺の築地塀(ついじべい)で国の有形文化財。
築地塀とはいわゆる土壁のことで、ここのものは瓦と粘土を交互に積み重ねて造られており、とても味わいがあります。
このあたりでは一番知名度が高い商店街の谷中銀座が西で突き当たる通りはかつて藍染川だった夜店通りで、こちらにも下町の商店が並んでいるのですが、さすがにお正月の3日はほとんどお店は開いていません。
二番目の富士塚がある文京区の駒込富士神社にやってきました。道路に面して立つ鳥居には単に『富士社』とだけあります。ここは地元では『お富士さん』と呼ばれているそうです。富士が強いですね。
一般的に富士塚があるのは浅間神社で、ここも歴史を辿れば元は富士浅間神社だったそうですが、江戸時代に本郷からここに移転し、その後は駒込富士となったようです。
一の鳥居の正面にぽっこりした塚があります。この大きさははっきりとはわかりませんが、高さは6mといったところでしょうか。一説ではこの塚は古墳とされています。
正面に見える階段は急も急で45°を超えています。
階段の横にはたくさん石が置かれ、纏や鳶口の絵と鳶という文字が見えます。中には『加州』なるものがあり、カリフォルニアと何か関係があるのかと思いましたが、これは加賀のことらしいです。加賀藩前田家が江戸藩邸で抱えていた喧嘩鳶とも呼ばれた大名火消です。そもそもこの神社がここにやってくるきっかけとなったのは、本郷の神社が立っていたところに前田家が屋敷を建てることになったからなのです。
この神社は氏子を持たず、こうした火消たちによって構成された富士講の組織で成立しています。江戸時代後期には『江戸八百八講、講中八万人』といわれるほど流行した富士講ですが、ここにはその最も古い組織のひとつがあるそうです。
階段を登ると山頂に拝殿があります。富士塚の上には奥社の小さな社があることは多いのですが、本格的な拝殿とは珍しいですね。
お正月です。みなさん初夢は見ましたか。初夢で見ると縁起が良いとされるのは富士に鷹に茄子。『駒込は一富士二鷹三茄子』と川柳にも詠まれました。この富士はこの神社のことで、鷹は近くにあった鷹匠屋敷を指し、そして当時の駒込は茄子が名産であったためと言われます。縁起物三つが揃った駒込は当時最強の地だったのです。
駒込富士神社からは護国寺に向かいます。住宅地を進んで行くと小さな交差点の角に面白いものを見つけました。
ただの小さな石。(笑) これはおそらく道しるべ石でしょう。道標です。その多くは石を四角柱にしたものが使われますが、こんなふうに原型の石塊に近いものもあります。
文京区は都心にあっては比較的緑が多いところです。それは江戸時代に大名屋敷がたくさんあったからでしょう。
占春園は水戸徳川家2代光圀(黄門さま)の弟松平頼元が屋敷を構えたところで、ここはその庭園の名残です。
護国寺は5代将軍徳川綱吉が母の桂昌院の願いを受けて建立したものです。
さすがに将軍のお寺だけありここはものすごく立派で、それなりに参拝者もやって来ています。
仁王門をくぐると不老門に続く階段を上ります。
その不老門の先に、ドーンとでかい本堂の観音堂。
しかしここでもっとも興味深いのは本堂の横に立つ月光殿でしょう。
この建物は桃山時代に建造された近江の三井寺の塔頭日光院の客殿を移築したもので、書院造りです。一般公開していないのが残念。
本日三番目の富士塚はこの護国寺にある音羽富士です。
高さは6mとのことで、ちょちょいと登れます。これは簡単でよろしい。(笑)
富士塚の多くは富士講と呼ばれる富士山信仰の組織が関係しているわけですが、そうした講が実際に富士に登った時などは塚になにがしか寄進をします。
写真に『巣鴨』の文字が入った石が見えますが、これらはそうした時の記念として立てられたものでしょう。
豊島区に入ります。23区内で有名な墓地はいくつかありますが、雑司ヶ谷霊園もその一つで、ここは先の谷中霊園と同じくらいの広さがあります。
こうした墓地には番地が振ってあるので、待ち合わせにとてもいいです。(笑)
谷中霊園同様にここにも多くの有名人が眠っています。その中でももっとも有名なのはやはりこの方、夏目漱石でしょう。ビッグネイムの墓はやはりビッグでした〜(笑) 当の漱石はこの雑司ヶ谷霊園を代表作のひとつである『こころ』で描いています。漱石は若い頃は学校の先生をしていましたが、この墓を見ると、その後印税でだいぶ儲けたようですね。
その他の有名人としてはジョン万次郎、サトーハチロー、泉鏡花、永井荷風、小泉八雲といった名が上げられます。確か金田一京助もここだったような。
雑司ヶ谷霊園を出るとすぐに鬼子母神(きしもじん)です。
ここの名称の鬼の字は本当は田の上に突き出たチョンがないのですが、これは変換できないので普通の鬼を使わせていただきます。
鬼子母神という奇妙な名の云われについてはここでは割愛しますが、安産・子育の神様としてかなり人気です。
この日も行列ができるほど参拝者が訪れていました。
この境内には都内最古の駄菓子屋だという上川口屋があります。
ここを覗くと、へー、こんなもん今でも売ってんのか〜 とびっくりします。おばちゃん、元気でよかった〜
鬼子母神を出て山手線の線路を越え、そろそろ池袋駅というところに自由学園明日館があります。自由学園は日本初の女性ジャーナリストであり、また家計簿の考案者、婦人之友社の創業者として知られる羽仁もと子によって設立された学校で、出身者には著名人がたくさんいます。オノ・ヨーコ、坂本龍一、山本直純、三好晃、野依良治、岸田今日子・・・
明日館はフランク・ロイド・ライトとその弟子の遠藤新の共同設計で、この向かいに立つ講堂は遠藤の設計です。休日は公開(予約制)されているのでぜひどうぞ。
自由学園明日館から西へ進むと谷端川(やばたがわ)緑道に出ます。かつてここには谷端川が流れていましたが、それが暗渠化され緑道となったのです。
谷端川は千川上水の分水中最大のもので、文京区内では小石川(礫川とも)と呼ばれました。戦前はこの川沿いに新進画家のアトリエ群がたくさんあったそうですが、今はその影なし。
谷端川緑道を離れ西へ向かい山手通りを渡ります。やってきたのは豊島区高松にある高松富士浅間神社。
ここで見知った顔がひょっこり。赤パンのデニちゃん。クリスマス仕様のパンツだそうですが、その時期だけではもったないからお正月用にしたそうな。
高松富士は高さ8m、直径20m。富士塚の多くは富士山の溶岩を運んできてそれで塚が覆われることが多いのですが、ここもその例外ではありません。
国の重要有形民俗文化財で7月上旬の二日間のみ登拝可となっていて、この日は登れず。やっぱり山は登れないと面白くないですね。
高松富士からはさらに西を目指します。
ここは豊島区。ん〜ん、同じ形のアパートがずらりと並ぶ姿などはやっぱり豊島区っぽい。(笑)
豊島区から練馬区に入ると江古田の駅前に本日5番目の富士塚があります。
ここも浅間神社。浅間神社はたくさんあるので江古田浅間神社または茅原浅間神社と呼ばれるようです。
ここは氏子さんと思われる方々が案内をされていました。表の張り紙に富士塚の入場は15時までとあったのでびっくり。あと5分しかありません。拝殿でのお詣りはあと廻しにして富士塚に急ぎます。
そしたら、慌てなくてもだいじょうぶですよ、と。まあ、こんなところですから少しは融通を効かしてくれるのでしょう。
富士塚というのはなかなか面白いもので、一合目から順に何合目という表示があったり、天狗やお猿さんがいたりします。富士山だから何合目はいいとして、天狗やお猿さんはいったいどこから来たのでしょう。
この富士塚は年に数日しか登ることができません。ここは富士塚としてはかなり人気らしく、登拝できる日にはかなり遠方から来る方もいるそうです。お正月の三が日は登れるので、ラッキーでした。
しかし山頂まで行列です。(笑)
多くの富士塚の山頂にはこうした小さなお宮があります。
今年はいい年になりますように!
さすがに人気の富士塚だけあり、ここはなかなかいいところです。
さて、江古田富士に登ったら、6番目の富士塚に向かいます。それは新宿にあります。
新宿区に入り妙正寺川を渡ります。
両側を完全にコンクリートで固められたこの川は、都市型の川と言えばそうなのですが、その都市の卑しさや貧しさの裏返しにも見えます。
神田川に出て北新宿に入ります。
北新宿公園のパーゴラ下のスツールは最初からソーシャル・ディスタンス仕様。(笑)
西新宿の超高層ビル群が見えてきました。
面白いことにここは来る度に新しいビルが立っています。そんな土地、どこにあったかいな。。。
そんなビル群の下にあるのが成子天神社。
いいぞ、この感じ。混沌としたアジア! ちょっときれいすぎるか。隣の超高層ビルはわりと最近できたものですね。
この神社さん、ここだけで完結する七福神をお造りになられました。
七福神、いいけど一箇所っていうのは逆にご利益がなさそうに感じますね。
新宿の富士山はこの天神さまの奥にあります。
うしろは壁状マンション。
その向こうは超高層ビル。
ン〜ん。富士山ってやっぱり一番高いから価値があるだよねぇ。(笑)
山頂から天神さまを見下ろします。いい眺め。(笑)
でもその向こうも、ビル、ビル、ビル〜〜〜
ここには木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやびめのみこと)がおられました。このやたらにむずかしい漢字と読みの姫は日本神話に出てくる女神さまで、天照大御神の孫に求婚されるというお方です。この話には続きがあるので、興味がある方はどうぞ調べてください。
浅間神社は富士山を神格化した浅間神を祀っていますが、これをこの姫さまと見て祀ってもいるのです。つまりこのお姫さまが浅間神社の神様というわけです。
ビルの谷間の富士山から新宿中央公園に出ると、東京都庁とその周辺の超高層ビル群がそそり立っています。
しばらく来ないうちに新宿中央公園内は自転車乗り入れ禁止になっていたので、押し歩きで熊野神社に向かいます。
新宿中央公園の一角にある熊野神社は15世紀の始めに紀伊半島にある12社を勧進したもので、以降十二社として知られるようになりますが、後世、人々はこれを誤って『じゅうにそう』と言ったのが今日まで伝わり、このあたりは地域ごと『じゅうにそう』と呼ばれるようになりました。
広重はこのあたりを名所江戸百景『角筈熊野十二社俗称十二そう』(つのはず くまのじゅうにしゃ ぞくしょう じゅうにそう)で描いています。
え、これどこ? というのが大方の感想でしょう。私もこれがどこなのかさっぱりわかりませんでした。だいたいこの池のようなものは一体何?
画題を見てみましょう。『角筈』は新宿区にあった地名で江戸時代は角筈村でした。現在も角筈の名は公園名や施設名として僅かながら残っています。熊野十二社は熊野神社のことで、『俗称十二そう』は先ほど述べた通りです。
『今昔マップ』で明治時代のこのあたりを見てみましょう。まず縦に『淀橋町』とあります。この淀橋の名は現在ヨドバシカメラなど僅かに残るのみです。その下、横に『角筈』。明治時代に角筈は淀橋町になったのです。角筈の文字のところにある四角いものは淀橋浄水場で、ここが現在の超高層ブロックです。新宿中央公園のところには『十二双』とあり、その中に熊野神社の鳥居マークが見えます。十二双の文字の左にはキュウリのような細長いものが見えますが、これこそが広重が描いた池です。地図でも確認できるとおり、これは大小二つあります。十二社池(じゅうにそういけ)は元々は農業用の溜池として造られたものだそうで、ウィキペディアで見ると以下の歴史がわかります。
1606年(慶長11年) - 伊丹播磨守によって十二社の地に大小二つの池が造られる。
1700年代(享保年間)には料亭・茶屋が立ち並ぶ観光地として栄えた。
1968年(昭和43年) - 新宿副都心計画に伴い十二社池が埋め立てられ消滅。
広重の絵はちょうど熊野神社あたりから南を見ているようです。現在、下には十二社通りが通り、歩道橋の向こうのグレーのビルのあたりから先に池があったと考えられます。こうやってその場に立ってみても、広重が描いた風景とさっぱり重なりませんね。
1667年(寛文7年)に玉川上水から神田上水(神田川)へ助水堀が引かれ、熊野神社の所に滝が出来たことなどから、このあたりは次第に景勝地として知られるようになり、池の周囲には茶屋や料亭が並ぶようになります。広重が描いたのはこうした風景です。
明治以降は料亭や置屋などができて花街として賑わいました。1950年代に戦後の最盛期を迎え、池が消滅してからも1980年ごろまでは連れ込み宿などとして残りましたが、それも今はすっかりなくなりました。
この旅館は少し前までは伝統的なくぐり門がある造りでしたが、改装してモダンになりました。今は連れ込みではなくビジネス客相手なのでしょう。おそらくこれが十二社で最後の旅館です。
池があったあたりに向かいます。ビルの間に大イチョウが残っています。おそらくこのイチョウは花街として賑わったこの街を知っているでしょう。こんなふうにごく普通のビルが立ち並ぶようになった街をどう見ているでしょうか。
この大イチョウあたりが池の北の端です。
十二社通りから見るとかつて池があったあたりの土地は明らかに下がっているのが見て取れます。やはり地形というのはそう簡単には変わらないものなのです。
広重は当日急遽コースに割込ませたのですっかり遅くなってしまいました。十二社池があったところを通り抜け、本日最後の富士塚に向かいます。
それは千駄ヶ谷の鳩森八幡神社にあります。
千駄ヶ谷は、新宿、青山、四谷のそれぞれの重力圏に入らず、宙に浮いたところです。国立競技場や東京都体育館などのスポーツ施設と国立能楽堂という渋い施設はあるにはあるのですが、こうしたものはイベントの時に人が集まるだけで、日常の生活にこれらはあまり影響しません。あ、将棋会館もありますね。(笑)
そんな千駄ヶ谷は比較的新しい街かと思ったら、なんとこの八幡神社は広重がよく参考にした、江戸時代後期に刊行された江戸名所図会3巻『千駄ヶ谷八幡宮』に描かれていました。ここはそれなりに歴史がある神社なのです。
夕ぐれの神社の雰囲気はなかなかいいものです。提灯に明かりが灯るこの時期は特に。
ひっそりとした中にもしめ縄が、ちょっとお正月の気分を持ち上げてくれます。
さて、いよいよ最後の富士山アタックです。
ここにはちょっとヘタウマ?な富士塚の案内図がありました。これによるとこの山頂にも奥宮があるようです。
かなり暗くなったので、自転車のライトで足下を照らしながら登って行きます。
本当に暗いのでちょっとヨタヨタでしたが、なんとか登頂に成功。奥宮にお詣りして、七つの富士塚巡りの成功を祝いました。
富士塚、日常的に登ることはもちろん、目にすることもほとんどないので、意外と面白かったです。