タージマハル
今日は誰でも知っている彼のタージ・マハル(Taj Mahal)です。
昨夜バラナシ(Varanasi)を出た列車は9時間ほど掛かって、ようやく朝9時にアグラ(Agra)に到着しました。この列車、ガッタンゴットンと揺れが凄くてとても眠れたものじゃあなかった! かなり疲れていたので、ひとまずホテルで休憩です。
そして午後一番にタージ・マハルへ。
タージ・マハルは真っ白だと思っていましたが、目の前に現れたのは赤砂岩の壁でした。その周囲はこの塀が取り囲んでいるのです。
塀には東西そして南の三箇所に門が設けられています。タージ・マハルは南北軸のシンメトリーで構成されていて、南門はその中心軸にあるため東西の門とは少し形状が異なり、少し大きいです。
東西の門から中に入ると柱廊があり、それは前庭側に延びていきます。この柱廊は左右対称にあり、ここでもアプローチ軸に対してシンメトリーになっています。しかし強烈な影ができるので、視覚的には完全なシンメトリーとは言えないかもしれません。
柱廊が左右に折れ曲がるとその先は前庭で、緑色の芝生の先に四角い建物が見えます。これは大門で、高さは30mもあります。
南門は前庭を挟んでこの大門の真向かいにあるので、そこから入るといきなり大門の正面が現れます。
タージ・マハルは、前庭、大門、庭園、霊廟の四つのゾーンより構成されています。配置図
大門も赤砂岩で出来ており、中央には壁が大きくえぐられたような形のイーワーン(Iwan)と呼ばれる窪みがあり、その上部には、釣り鐘のような、タマネギのような白いチャトリ(chatri)がたくさん載っています。
四隅には八角形の塔が立ち、その上部は少し大きなチャトリ。
イーワーンはイスラム建築を特徴づけるものの一つで、4辺のうち1辺を戸外に向かって開いている空間のことです。
その正面にはアーチが架けられることが多く、ここではその内側の天井に網目状の装飾が施されているのが見えます。
大門のイーワーンの中央奥がタージ・マハルの中核部へと続く出入口ですが、これが門の大きさに比べると驚くほど狭い。
ぐんと暗くなったこの尖頭アーチの出入口のシルエットの先に、あのタージ・マハルの真っ白な建物が何の前触れもなく突然現れます。
それはムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628-1658)がその妃ムムターズ・マハルのために建設した霊廟で、17世紀の半ばに完成しています。タージ・マハルという名はこの妃の名を縮めたものだそうです。
真っ白な廟堂の前には庭園が置かれ、その中に天上の四本の川を表わすという、十字に配された水路があります。
廟の基壇は94m四方で高さ5.5m。中央の廟堂には巨大なタマネギ屋根が載せられており、その上部までは55m、そして四隅に建つミナレット(Minaret, 尖塔)は高さ42mという、とにかくすべてが巨大なものです。
これがお墓だというから本当に驚きですね。しかもすべて白大理石!
廟堂は平面的には一辺57mの正方形の四隅が切られた八角形で、大門と同じように巨大なイーワーンがあります。
ここまで近づいても中央のタマネギ屋根が見えるのは驚きです。それだけタマネギが高いということですが、これは当然こうした視点を計算して造られたのでしょう。
さらに近づいてみると、イーワーンはなんと天井まで白大理石!
遠景では真っ白に見える廟堂ですが、近づくといくつか色の付いた装飾が見えます。
外壁に刻まれたこの黒い模様はアラビア書道というものでコーランが書かれているそうです。この廟が造られた頃、皇帝シャー・ジャハーンはイスラム教国家建設に取り掛かっていたそうです。
壁面の基部にはこのような植物のレリーフがあり、ペルシア建築の影響が伺えます
そしてそれを取り巻くアラベスク。日本では象嵌は良く知られていますが、それは石で用いられることはあまりないと思います。しかしこれは石の象嵌細工です。
こうした細工には翡翠、水晶、トルコ石、サファイア、アメジストなどが使われていたといいますが、貴重な宝石類はイギリス東インド会社などによって略奪されてしまったそうです。
これは壁の腰部のレリーフ。先ほどの植物のものより抽象化、デザイン化されたものになっています。
廟の内部に入ると、そこは大きな空間ではあるものの意外とがらんとしていて、建物の中央にムムターズ・マハルの柩が、そしてそのとなりにシャー・ジャハーンの柩が置かれています。実はこれらの柩はダミーで、本物はその真下の地下にあります。
このメインの空間である墓室はあのタマネギ屋根の下で、当然天井はドームになっています。しかしこれはイーワーンのアーチのてっぺんより少し高いくらいまでしかありません。二重ドームです。実はこのメイン空間よりそれから上のタマネギ屋根の中の空間の方が大きいのです。ん〜〜ん、なんだかなぁ。。
この庭園は完全な正方形で、水路により四つのゾーンに分けられています。その四つのゾーンももちろん正方形です。
廟堂より庭園を見てみます。中央軸線上に水路。庭園の中心はこの水路とそれに直行する水路の交点で、正方形の池があます。シンメトリーと正方形へのこだわり。
廟堂の東西にはまったく同じに見える建物が立っています。
西のものはモスク、東のものは集会場(迎賓館とも)だそうです。ここにもタマネギ屋根が載っていますね。このタマネギがないと、とたんにつまらない建物に見えてしまうと思いませんか。
ミナレットは本来、塔の上から人々に礼拝を呼びかけるためのものですが、いつしか権威の象徴となっていきました。
霊廟には機能的にはミナレットは不要です。最初の写真に戻ってミナレットがないタージ・マハルを想像してみてください。とたんに頭でっかちのバランスの悪い建物になってしまいます。タージ・マハルにこのミナレットは意匠上どうしても必要だったのです。
タージ・マハルの裏にはヤムナー川が流れています。シャー・ジャハーンはこの川の対岸に自身のお墓を黒大理石で造ろうとしていたそうですが、これは実現しませんでした。白と黒の二つの廟が並んだ姿は、ちょっと見てみたいと思いました。
アグラ城
タージ・マハルから1kmほどのところにあるアグラ城。 タージ・マハルが白い墓ならこちらは『赤い城』。
ムガル帝国第3代皇帝アクバル(在位1556-1605)がデリーから遷都し築いたもので、『アクバルの町』を意味するアクバラーバードとも呼ばれ、孫でタージ・マハルを造ったシャー・ジャハーンまで3代の居城となりました。
周囲には赤砂岩でできた高さ20mの城壁が2.5kmに渡って巡らされています。アグラ城平面図
観光地にはたいてい写真のような物乞いがいます。
この方は足が悪いようですが、中には目を背けたくなるような傷害を負っている子供もいます。そんな人々の中には、親によって故意に体を傷つけられたものもいるそうです。
城塞の中にはアマル・シン門(Amar Singh Gate)をくぐり入って行きます。
するとその内側にもう一つ門が。こればアクバル門。
ちなみにアクバルは『偉大』という意味で、アクバル帝は自らこの名を名乗ったそうです。
アクバル門から主郭宮殿へは高い塀の間を上って行きます。
緩やかな坂を上りきると、右手に城内で最大の建物が現れます。
これはアクバルが、息子で第4代皇帝のジャハーンギールのために建てた宮殿(Jahangiri Mahal)だそうですが、実際は王室に属する女のためのものであり、主にアクバルの子の妻たちによって使用されたようです。ジャハーンギールがここの主となったのはアクバルの死後だとか。
建物は左右対称で、両端にはチャトリが載っています。
中央の入口はタージ・マハルで見たイーワーン。
赤砂岩の壁面には白大理石が嵌め込まれており、その周囲に細かい模様が見えます。
左右対称、イーワーン、チャトリ、象嵌はタージ・マハルでも見たモチーフですが、やはりそれと比べると、この建物にはどこか洗練されていない野暮ったさが感じられます。
上部は屋上のようで、壁から突き出たスラブを支える木造的な肘木状の部材と、これまた木造のような細い柱が見えます。
この外部に現れていた木造的な要素は、中庭でよりはっきり視覚化されます。
石造であるにもかかわらず、細い柱と梁のような造形が見え、必要以上にあるように見える肘木状の部材の上には薄い板庇が載っています。
この肘木状には恐ろしく細かいレリーフが施されています。
アクバル自身はイスラム教徒でしたが、宗教的には融和を重視した君主であり、イスラム教徒とヒンドゥー教徒との融和をはかり、ヒンドゥー教徒を要職に登用してもいたそうです。
そうしたアクバルは建築にも様々な地域の要素を取り入れたとされ、この建物にはペルシャの建築様式とヒンドゥー教の構成要素が見られるといいます。
アクバラーバードと呼ばれたアグラ城でしたが、それが完成しないうちにアクバルはファテープル・スィークリーに都を移してしまいます。その後この砦に足跡を残すのは第5代皇帝のシャー・ジャハーンで、彼はアクバルが建てた建物を次々に取り壊し、タージ・マハルと同じように白大理石に貴石の象嵌を施した優美な建物に置き換えていきました。
シャー・ジャハーンが寝室として使っていたのはカース・マハル(Khas Mahal)で、この内部はいやというほどの装飾で埋め尽くされています。元は金箔が貼られていたそうですが、イギリスに略奪されてしまいました。
その両端にはゴールデン・パビリオン(Golden Pavilions)が置かれています。この四隅が垂れ下がった建築様式はベンガル地方の民家のものだそうです。
アグラ城の東側にはヤムナー川が流れていて、その先にはあのタージ・マハルが見えます。
八角形の平面を持つムサンマン・ブルジュ(Musamman Burj, ジャスミンの館) はシャー・ジャハーンが妃ムムターズ・マハルの寝室として建てたものです。
しかしそのシャー・ジャハーンは晩年に息子との権力争いに負け、ここに幽閉されて74歳で亡くなります。それゆえここは『囚われの塔』とも呼ばれています。
囚われの身となったシャー・ジャハーンは毎日、妻だったムムターズ・マハルの壮大な墓をここから眺めて過ごしたわけです。
そして亡くなるとその遺体は舟に載せられてヤムナー川を下り、ムムターズ・マハルが眠るタージ・マハルへと運ばれたのでした。
こうした宮殿の装飾はアラビックで美しい。
それは柱の足下まで隙間なく繋がっています。
壁の腰の装飾もタージ・マハルで見たものと非常によく似ています。
窓にはところどころ日よけなのか透かし彫りのフェンスが嵌め込まれています。
驚く事にこれ、大理石製! 地味ですがもの凄い仕事です。
屋上にはチャトリが並んだ並んだ。
それにしてもこの柱、本当に石造かと疑ってしまうくらい細いですね。
この城には二箇所の謁見のための場所があります。
その一つはディーワーニ・ハース(Diwan-i-Khas, 内謁殿)で、アグラを訪れた貴族が皇帝に謁見するためのものです。かつてその中庭には、魚で満ちた大きな池があったそうですが、ここがそうでしょうか。
中庭と言えばカース・マハルの前のそれはグレープ・ガーデンと呼ばれ、ブドウが栽培されワインが造られていたそうです。
もう一つの謁見のための場所はディワニ・アーム(Diwan-e Am, 公謁殿)で、ここは一般人が入ることのできる唯一の場所でした。アクバル時代は木造だったそうですが、シャー・ジャハーンは白大理石の三廊式の列柱ホールに建て替えました。
イスラム様式で高さ7m、9連の多弁形アーチがあります。この中央奥には一段高いところに玉座が設けられており、そこで皇帝は市民の訴えを聞いたそうです。
ディワニ・アームの前は広場になっており、そこからは城内に二つあるモスクのうち大きい方のモティ・マスジッド(Moti Masjid, 真珠モスク)が見えます。
これはアグラ城の工房だったろうと思います。
グラインダーで石を削っているようなのですが、なんとこれが手動。鉄の棒に付けられた紐でグラインダーが付いている軸を回転さすというもので、ちょっと面白いです。
ファテープル・スィークリー
アグラ城の見学を終えたら、西に40kmほどのところにあるファテープル・スィークリーに移動します。
ファテープル・スィークリーはアクバルがアグラ城の完成を待たずして新たに造った都(1574-1588)で、なんと周囲11kmに及ぶ市域を持っていたそうです。現在は当時の市街地は失われましたが、宮廷地区とモスク地区がほぼ当時のまま残っています。
アクバルがアグラからここに遷都した理由は、王子の誕生を記念してとも、アグラの夏の暑さに耐えられなかったからとも言われています。
しかしここは水の確保ができずに、わずか14年しか都としては機能しなかったそうです。
マリアムの館はアクバルの母マリアム・マカンのための建物で、スナフラ・マカン(黄金の館)とも呼ばれたそうです。
アクバルはここでもアグラ城と同じ赤砂岩で建物を建てました。
柱梁構造、深い庇、肘木はアグラ城のジャハーンギール宮殿で見たモチーフで、ここでもヒンドゥーとイスラム文化の融合が言われています。
宮廷地区でもっとも目に付く建物はこのパンチ・マハル(五層閣)でしょう。
これまで壁を持たない柱梁だけの構造物はチャトリくらいしかありませんでしたが、これはまったく壁がない上に5階建です。この頂部からは宮廷地区の全体が見渡せるので、展望用の施設と考えられています。
1584年、アクバル帝はアフガン勢討伐のためにパキスタン北部のパンジャブ地方のラホールに城塞を築き、遷都します。
その後ここファテープル・スィークリーは顧みられる事なく、打ち捨てられたようです。都市が放棄された理由は水不足ともされていますが、本当のところはどうもはっきりしないようです。
すっかり日が沈んでしまいました。
駆け足でモスク地区を巡り外に出ると、残照のなかにまるで影絵のシルエットのように、へんてこりんなものが浮かび上がってきました。
これがアクバル帝が築いた都ファテープル・スィークリーのモスク地区です。それにしてももの凄い数のチャトリですね。
この景色を見てはたと閃いたことがあります。モンゴルのあの白いテント、ゲル。ムガル帝国のムガルとはモンゴルという意味。ムガル朝の祖先はモンゴル族であり、アクバル帝は遠征時にはテントなどを利用していたと言われています。このタマネギ頭はゲルから来ている?
さて、アグラはこれでおしまい。今日はこれからジャイプールへ移動しなければなりません。あ〜急がしい!