東海道品川宿入口
2020年の新春走り初めは品川区の東海七福神巡り。これに歌川広重の名所江戸百景を加えます。
ルートは北品川の旧東海道入口をスタートし、品川宿を通って旧東海道の東海七福神を巡りつつ平和島口交差点まで下ったら、京浜運河に出てこれを北上、田町まで。
さて品川宿ですが、江戸名所図会の品川驛の本文には次のようにあります。
江府の喉口にして、東海道五十三駅の首(はじめ)なり。日本橋より二里。南北と分かつ。(東海寺の南に傍(そ)ひて、貴船の社の側を流るる川を堺とす。ある人云く、これすなはち品川と称するところの水流なり、と云々)。旅舎数百戸軒端を連ね、つねに賑はしく、往来の客絡繹(らくえき)として絶えず。
これによると江戸時代の後期の品川宿は、東海道1番目の宿場で日本橋より8kmのところにあり、当時は品川と呼ばれた目黒川を境に北と南に別れていたようです。宿屋は数百軒あり、常に賑わっていて、人々の往来が絶えなかったことがわかります。
当時の様子を浮世絵から見てみましょう。広重の中でももっとも有名な東海道五十三次から『品川・日之出』です。
朝焼けの品川。この写真の絵では判然としませんが、水平線付近の空はピンク色です。右手前に描かれているのは今はなき八ツ山。これは芝高輪との境に位置した丘で、その名は海岸に突き出た岬が八つあったことに由来するそうです。この絵は八ツ山が描かれていることから品川宿の入口付近を描いたものとわかります。
左の品川湾には荷を満載した大型の船。大名行列のしんがりとその行列に土下座している庶民。宿屋や料亭が軒を連ね、手前の茶店の中には客待ちなのか女の姿があります。品川は吉原に次ぐ遊興地だったそうです。
では現在の北品川の旧東海道入口、かつての品川宿の入口に立ってみましょう。
白い小さな建物の横に『従是南 品川宿 地内』と書かれた木柱が立っています。そのすぐ先に京浜急行の線路があり、旧東海道がその先へ延びています。
現在、品川湾は埋め立てられてしまっていて、このあたりから海を眺めることはできないのと同時に、建物もすっかり高層ビルに置き換わっていて、残念ながらここからは広重が描いたような江戸時代の様子を伺い知ることはできませんが、細い旧東海道が南に延びて行く様が、唯一当時の雰囲気を残していると言えるでしょうか。
振り返ると八ツ山橋が見えます。八ツ山は江戸時代に土木工事のための土砂を採取するために切り崩されたため、現在はほとんど平地になっており、箱根駅伝でよく耳にするこの八ツ山橋などにその名を止めるだけです。あ、ゴジラが初めて上陸したのがこの八ツ山橋でした。
ちょうど今私たちが立っているあたりにかつて八ツ山はあったのでしょう。
品川宿に入る前にその入口にあった八ツ山の様子をちょっと覗いてみましょう。
旧東海道の入口から新八ツ山橋に向かいます。ここは緩い坂道で、先の方が高くなっています。これが八ツ山の名残なのかもしれません。新八ツ山橋の東詰に出て南を見ると、R15第一京浜は下っており、その東側の建物は比較的低いので、ここは多少なりともスペースを感じることができます。かつてはこのすぐ先に品川湾があったのです。
新八ツ山橋のすぐ西にはJRの線路があり、その向こうに御殿山の名が付く超高層ビルが見えます。御殿山の山は八ツ山同様に江戸時代に削り崩されてしまったので、今はなくほとんど平らです。この御殿山についてはのちほど取り上げます。
品川宿
旧東海道の入口に戻って品川宿に入ってみましょう。
かつての旧東海道は現在は商店街になっていて、『北品川本通り商店会』と書かれた街灯が両側に立っています。
広重は『品川・日之出』で品川宿の入口付近を描きましたが、江戸名所之内『品川の駅海上』では宿場の中から品川湾に向かって描いています。
軒を連ねる宿屋や料亭の前を旅人が行き交っています。建物のすぐ向こう側は海で、帆船がたくさん浮かんでおり、通りの賑わいと同時に湾の賑わいも表現されています。
ここに描かれた宿屋や料亭は現在は商店になったということですね。
土蔵相模と月の岬
300mほど進むと左手に小さな『三番 歩行新宿 土蔵相模跡』の石柱が立っています。歩行新宿(かちしんしゅく)は享保期に北本宿の北側にできた新しい宿で、歩行人足の手配をする場所だったので歩行新宿と呼ばれたそうです。
そのすぐ先には『土蔵相模跡』の案内板が立っています。妓楼の相模屋はその外壁が土蔵造りの海鼠塀(なまこかべ)のだったので土蔵相模と呼ばれ、幕末には高杉晋作や伊藤博文らがここで密儀を行い、長州藩士による英国公使館焼き討ち事件や水戸浪士による桜田門外の変の際にも使われたそうです。
広重は名所江戸百景で『月の岬』を描いています。ここに描かれているのがどうやら土蔵相模らしい。
軒先に満月。三味線を側に置いた芸妓の後ろ姿。障子に映った遊女の影とそこから伸び出た着物の裾が色っぽい。
ところがこの絵のタイトルの『月の岬』は、土蔵相模があった品川州崎ではなく別の場所だそうです。
さてはて、これはどういうことでしょう。
広重は絵本江戸土産の中でも『月の岬』を描いています。
この所北は山 東南は海面 にて 万里の波濤眸をさへぎる 実にや中秋の月この所の眺めを第一とす 月の岬の名も空しからず
この文から『月の岬』はその名のとおり月の名所で、画中の『八ッ山』の文字から、その場所は八ツ山と考えられます。しかし名所江戸百景に描かれているような豪華な料亭はどうやら八ツ山にはなかったようです。
当時の別の資料では、現在の三田四丁目に『月の岬』が地名として明記されているようなので、ますます訳が分からなくなります。
ヘンリー・スミスは、百景で描かれている場所は土蔵相模と断定はできないものの、品川の妓楼か茶屋の一軒とし、狂歌江都名所図絵 九編『品川』で広重が描いた挿絵が同一場所で、それぞれ宴の後と最中とであると考え、その根拠としています。
残念ながら土蔵相模はすでになく、現在そこにはマンションが立っています。ここからは名所江戸百景に描かれた場も、そこから見える品川湾も容易には想像出来ませんが、喜多川歌麿が雪月花三部作の中の『品川の月』で土蔵相模を描いたものと合わせて見ると、かなりイメージできるでしょう。
ここで面白いことを発見。雪月花三部作には成人の男が一人もいないのですが、唯一この絵にだけ男のシルエットが描かれています。一方、広重の百景は二人の女の後ろ姿だけで、そのうちの一人がシルエット。
品川すさき
土蔵相模跡から東に向かい、八ツ山通りを渡ると東品川一丁目で、そこには品川浦があります。北側には品川駅前に立つ超高層ビルが並んでいるのが見えます。
ここで新年早々遅刻のベネデッタが合流。ベネデッタ、年始からやってくれるぜよ。
超高層ビル群から視線を下に移すと、二階建の民家と釣り船や屋形船が見えます。
品川の海がほぼ完全に埋め立てられてしまった今日、ここはこのあたりで唯一江戸時代の雰囲気を残すところと言っていいでしょうか。
『品川・日之出』にも『品川の駅海上』にも洲崎が描かれていました。そしてこの『品川すさき』。このころの洲崎は品川の観光名所だったようです。
洲崎はその名のとおりに元々は人が住まない単なる洲でしたが、南品川漁師町となり、その後埋め立てられ南品川新開場となったそうです。その北端に立つのは水の神様・弁財天を祀る洲崎弁天で、これは現在の利田神社(かがたじんじゃ)だそうです。つまり洲崎は現在の東品川一丁目ということになります。
洲崎の手前を流れるのは目黒川で、宿場との間に鳥海橋(とりみばし)が架かっています。左手に見える大きな建物は『月の岬』に出てきた妓楼の土蔵相模。ちなみに古くは目黒川の河口付近は品川と呼ばれ、これが品川の地名の起こりだそうです。遠く、海の中に見える盛土は御台場で、これについてはのちほど取り上げます。
例によってこの絵とそっくりなものが、絵本江戸土産 七編『品川洌㟢辨天』にあります。
品川浦を南に進んで行くと利田神社があります。今立っているのは上の絵の右手に見える鳥居の正面です。
ここがずばり『品川すさき』で描かれた場所と言っていいでしょう。利田神社はかつての洲崎弁天で、その前を通る八ツ山通りはかつての目黒川なのです。西から流れてきた目黒川は現在の新品川橋付近で大きく向きを北に変えていましたが、付け替えられ、旧流路は1968年(昭和43年)に埋め立てられて八ツ山通りになったのです。八ツ山通りから旧東海道を見ると、この二つの道はだいぶレベルが異なるのがわかります。
利田神社には鯨塚があります。
この鯨塚は江戸を驚かせた品川沖で捕獲された巨大な『寛政の鯨』の骨を埋めた上に建てられた供養碑とのこと。
かつての洲崎弁天にお詣りしたら『品川すさき』に描かれた御台場とはどんなものなのか見てみましょう。この絵に描かれている御台場は『ゆりかもめ』の台場駅やフジテレビがあるお台場ではありません。1853年(嘉永6年)、ペリー提督率いる米国海軍艦隊が浦賀にやってきたあと、幕府は品川沖に11基の砲台を計画し着工しました。この砲台は品川台場と呼ばれ、幕府に敬意を表して『御』を付け、御台場と呼ばれるようになったのです。第一・第二・第三・第五・第六台場は完成しましたが、第四と第七台場は建設途上で中止、残りは着工前に中止されます。このうち現存するのは第三と第六で、第三台場は台場公園として整備されているので行ったことがある方もいるでしょう。
建設が中止された第四台場の代わりに造られたのが御殿山下台場で、これは唯一の陸上台場でした。五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられたそうです。
現在そこは台場小学校の敷地となっていて、その入口では、台場の石垣として使われた石とその上に立つ第2台場にあった灯台のレプリカが見られます。
品川御殿やま
最初に見たとおり、かつての品川には御殿山がありました。御殿山は徳川家康が御殿を構え、寛文年間(1661-73年)に1,000本の桜が植えられ、さらに享和2年(1717年)に吉宗によって600本が植えられ、桜の名所になったようです。
御殿山と周辺の関係を示す絵を広重は、東都名所『御殿山花見・品川全図』で描いています。この絵を見ると、海、品川宿、御殿山の関係がよくわかり、人々がのどかに花見をする様子が伺えます。
その場所は現在の北品川3丁目から4丁目のあたりとされていますが、この山も八ツ山同様に切り崩されて現在はありません。しかしその名は通り名や建物の名称として残っています。
御殿山下台場からちょっと戻って御殿山通りを行ってみます。この道は旧東海道からJRの線路の先まで穏やかな上りで、かつてこのあたりに御殿山があったことを僅かに感じさせてくれます。
坂の上、JRの線路の向こう側には、南側にマンションが、北側にホテルとその庭が見えます。このあたりが今日、かつての御殿山の雰囲気を残す唯一のところでしょう。
しかし線路沿いはフェンスで覆われ、その先の旧東海道側は高層の建物で埋め尽くされており、広重の絵から想像できるような眺望はまったくありません。
広重は上の絵から四半世紀経たったあとに、名所江戸百景で『品川御殿やま』を描いています。
しかしこの絵には、華やかな桜の名所を描いたものとしてはどこかそれにそぐわない雰囲気があります。簡単に言えばバランスが悪く、不安定さを感じさせます。その理由はいくつかありますが、もっとも大きな要素は画面中央に横に延びる崖でしょう。
『御殿山花見・品川全図』には崖は描かれていないことに気づかれたでしょうか。
名所江戸百景で描かれた御殿山の崖がJR線路北側の擁壁に似ているのですが、御殿山通りから見たそれは線路のガードフェンスと鉄道の架線などでほとんど写真になりません。
崖の向きが逆になりますが、新八ツ山橋から御殿山方面を撮ったものがこの写真です。
広重は百景で、美しいはずの御殿山をどうしてあのように描いたのか。その手がかりとなる絵を広重自身が五十三次名所図会『品川』で描いています。これは百景とほぼ同じ場所を視点を変えて描いたもので、手前の崖が御殿山で沖合に三箇所の台場が見えます。当時はペリーの黒船騒動で台場が着工され、その土を採るために御殿山は切り崩され始めていたのです。このことは絵本江戸土産 七編『再出御殿山』の中でも述べられています。
ヘンリー・スミスは『広重 名所江戸百景』で、『品川御殿やま』には『場所の美しさではなく、場所の崩壊が記録されている』と言っています。広重はここで美しい桜咲く御殿山を描いたのではなく、無惨に姿を変えたそれを描いたのでしょう。この絵が描かれる直前には安政の大地震が起こっており、江戸は大きな被害を受けていたことも、この絵を描くきっかけになっているのかもしれません。
同じ御殿山を葛飾北斎は富嶽三十六景『東海道品川御殿山ノ不二』で描いています。花は盛り。人々が楽しそうに花見をしている様子が描かれています。左下に見えるのが品川宿でしょう。北斎の作品の中では桜のきれいな薄いピンク色が際立つ、一際華やかな一枚です。
この絵は上の広重の絵より四半世紀ほど前に描かれています。安政の地震も黒船騒動もまだありません。
現在、御殿山付近で海側の眺望がありそうなところというと品川神社でしょうか。ま、海そのものは見えませんが、ここには品川富士があり眺めが良いのです。この品川神社にはあとで立ち寄ってみます。
東海七福神
かつての御殿山に思いを馳せたら、旧東海道に戻ります。
1895(明治28)年創業のせんべい屋『あきおか』で、細長いあられに海苔を巻いた『品川巻』をGET。このあたりはかつて海苔の産地として有名だったそうです。せんべいの中では私はこれが一番好きです。甘納豆や芋けんぴ、かりんとうなどもおいしそう。
品海公園に入れば『日本橋より二里』の碑があります。この公園のそばには海辺の名残があります。
写真の左の民家の基礎に使われている石は、おそらく海辺にあったものでしょう。こんなふうにこのあたりには海水に洗われた跡がある石垣がわずかですが残っていて、まさにこの辺りが波打ち際であったことが想像できます。
また、この写真に映っている道の前方が下がっているのがわかるでしょうか。海側が下がっているのです。
さて、品海公園を出たらいよいよ東海七福神巡りが始まります。まず初めに一心寺です。
この寺は井伊直弼により1855(安政2)年に開山されました。これはちょうど広重が名所江戸百景を描いたころです。境内は狭いものの全体のまとまりが良く、なかなかいい感じで、江戸三十三観音霊場30番札所にもなっています。
ここには寿老人が祀られているのですが、それは本堂のかなり奥にあり、内陣は撮影禁止だったので写真には収められませんでした。
一心寺付近の街灯の商店街名には『北品川商店街』とあります。
その中の一軒、一心寺のすぐ前にある履物屋丸屋は1865(慶応元)年の創業だそうです。
この店先はなかなか味わいがあります。最近はあまり見かけなくなった下駄や草履が並び、昭和レトロな『たばこ』の販売窓口も。
一心寺の前で旧東海道を離れ路地に入ると養願寺です。
まずはご本尊の虚空蔵菩薩にお参りし、
続いて七福神の布袋さまに。
この布袋さん、ドーンと脂ぎったようなお方です。(笑)
養願寺から南へ行くとすぐ、左手にレンガ塀が現れます。この塀は正徳寺のもののようですが、どうしてお寺の塀がレンガ造なんでしょうか。
面白いことにこの塀の下段部はイギリス積みで上段部はフランス積みになっています。
この路地が突き当たるとそこは品川神社の参道で、周辺にはちょっとした商店が建ち並んでいます。
この商店街の中には歴史を感じる銅板葺きの看板建築が一軒あり、その隣に将棋の駒形をしたせんべいの『王将』せんべいがあります。
王将せんべいのすぐ西には『北馬場参道通り』と書かれた鳥居状の看板があり、その先で京浜急行の高架橋をくぐると第一京浜に出ます。
第一京浜の向こう側に見えるのが品川神社です。この神社は、1187年、源頼朝により創建とされています。
ここから見ると品川神社は全体がこんもりした丘で、かつてあった御殿山はこの景色を拡大したようなものだろうと想像させます。正面にはちょっとした小山が見えます。あれが品川富士と言われる富士塚でしょう。
第一京浜を渡ると龍が巻き付いた石の鳥居が立っています。これはちょっと珍しいですね。左が昇り龍、右が降り龍になっています。
鳥居の左には大黒さまがいらっしゃいます。
ここの境内にはたくさん狛犬がいるのですが、中でもこの狛犬はちょっと面白くて陶製です。
その他には頭のてっぺんにお皿があるものも。
社殿は銅板葺きの立派なものです。
ここは金運パワースポットでもあり、この右手にある朱色の鳥居が立ち並ぶ阿那稲荷神社下社の『一粒万倍の御神水』でお金を洗うと何倍にもなって戻ってくるそうですよ。
さて、品川富士に上ってみましょう。(TOP写真参照)
さすがにここの富士塚は品川富士の名が付くだけあり、今でもなかなか眺めがいいです。京浜急行の高架橋の向こう側に、どこまでも続く建物群が見えます。今は宿場も海も見えませんが、この眺めから広重や北斎が描いた品川を少しだけ想像することができますでしょうか。
ここ、一押しのヴューポイントです。
品川神社から荏原神社に向かうと、途中に稼穡稲荷(かしょくいなり)があり、そこに大イチョウが立っています。
このイチョウの木、気根のようなものがたくさん伸びていて、ちょっと面白い姿をしています。
稼穡稲荷のすぐ先で目黒川に出ました。
先には朱色の鎮守橋が架かっています。
この鎮守橋の袂にあるのが荏原神社で、木の鳥居が立ち、これをくぐると左手に恵比寿さまがいらっしゃいます。
ここの創建は 709年と古く、当時のものではないにしろ社殿も結構立派です。
あと、ここの狛犬も見応えがありますよ。今回の七福神の狛犬はどこもなかなかのものです。
荏原神社から東に向かうとすぐに旧東海道の品川橋があります。
橋の下を流れているのは目黒川ですから、かつて品川宿はここで南北に分かれていたことになります。
旧東海道をどんどこ南に下って行くと街灯の商店街名は『品川宿場通り南会』、そして『青物横丁商店街』になり、東海道南品川交差点に出ます。この交差点で直交する道は『ジュネーヴ平和通り』。
なぜここにジュネーヴ?
それはさておき、さらに進むと、おっと、これは何なんだ〜 大きなお地蔵様が突然目に飛び込んできます。
ここは品川寺(ほんせんじ)で、山門前に江戸六地蔵の一つがあるのです。江戸六地蔵は江戸市中の主な街道沿いの6箇所に造立された地蔵菩薩坐像で、このかつての東海道に置かれたものがその一番になっています。
品川寺は品川区最古の寺で、江戸三十三観音31番霊場であり東海三十三観音21番札所にもなっています。
境内には樹齢600年とされる大イチョウがあり、七福神の毘沙門天がいらっしゃるのですが、これは奥深くにおられてほとんど見えません。
この寺の梵鐘は19世紀にパリ次いでウィーンの万国博覧会に出展された後行方不明になってしまったのですが、数十年後にスイスのジュネーヴで発見され、返還されました。この出来事がきっかけとなり、品川区とジュネーヴ市とは友好都市提携を結び、先の道は『ジュネーヴ平和通り』と名付けられたのだそうです。
いつの間にか街灯そのもののデザインが変わって『鮫洲商店街』になりました。
しかし驚いたことにここの住所は品川区東大井で、鮫洲の名はどこにも出てきません。日本の地名には伝統的で良く知られたものも多いのですが、そうしたものが住所になっていないということもしばしばで、これは残念というほかありません。ちなみに鮫洲の名は、鎌倉時代に腹の中に聖観音を持ったサメが揚がったことから来ているそうです。
南品川鮫洲海岸
鮫洲で昼食をいただいたら、勝島運河沿いをちょっと歩いてみます。
ここは『しながわ花海道』という歩行者専用の遊歩道で自転車の走行はできませんが、まあ散歩にはちょうどいい感じです。何より水が近いのがいいですね。
広重はこのあたりを名所江戸百景『南品川鮫洲海岸』で描いています。この視点は現在の勝島運河の南東端あたりで、そこから北を見ています。
遠景に筑波山、左手に東海道に沿って並ぶ家々、 海上に並んでいるのは海苔ひびで、当時ここは海苔の養殖が盛んだったことがわかります。もちろん現在は海苔などが採れる環境ではありませんし、筑波山も見えません。まあ筑波山に関しては、『どう考えてもこうは見えるはずがない』と宮尾しげをは言っていますから、これは広重の想像の世界ということかもしれません。
おなかがいっぱいで頭に血が廻らずに、なんとこの視点の場所に行くのを失念してしまいました。ここは上の写真でがまん。
立会川(浜川)までやってくると、そこにはかつては泪橋という名だった浜川橋が架かっています。
この先にあった鈴ヶ森刑場に向かう罪人はここで涙を流し、家族などに別れを告げたと言われています。
浜川橋を渡るとすぐ天祖諏訪神社があります。
この神社は、かつて立会川を挟んで並んで鎮座していた南浜川の天祖神社と北浜川の諏訪神社が昭和時代に合祀され、できたものだそうです。
ここにいらっしゃるのは福禄寿さま。
頭をなでなでしてくださいと書いてありましたよ。
天祖諏訪神社から旧東海道を南に進み、前方に首都高速道路が見え出すと、右手にいくつか石碑が立っているところに出ます。
何の石碑だろうかと近づいてみると、ここが鈴ヶ森刑場遺跡でした。
1651(慶安4)年開設、1871(明治4)年閉鎖。
200年以上もここは刑場だったんですね。
ここに残っているのは井戸、火炙用の鉄柱を立てた礎石、磔用の木柱を立てた礎石などで、井戸は切り落とされた首や血が付いた刀槍などを洗っていたと考えられます。
火炙や磔は派手で残酷なパフォーマンスを人々に見せつけるための刑と言えるでしょう。恐ろしや。。
鈴ケ森交差点からは第一京浜を行きます。
その先にあるのが東海七福神の最後となる磐井神社です。
磐井神社はかつて鈴森八幡宮と呼ばれ、叩くと音がするという『鈴石』があったため、このあたりを『鈴ヶ森』と呼ぶようになったそうです。
ここには石がもう一つ。鳥の形をした模様がある珍しい自然石『烏石』があるらしいのですが、これらは残念ながら非公開です。
見られるもので面白いものもあります。ここの狛犬はに子獅子が片側に三匹、計六匹もいます。こんなにたくさん子獅子がいるのはちょっと珍しいのではないでしょうか。
ここには池があり、その畔に小さな社が立っていて、中にこれまた小さな弁天さまが祀られています。
さて、以上にて七福神巡りはおしまいです。ここからは旧東海道を離れ、平和の森公園、平和島公園と繋いで京浜運河に出ます。
平和の森公園はかつてあった平和島運河を埋め立てて造られました。今日はこの先ずっと、人工の土地を行くことになります。
ここには釣りができる池、広場、フィールドアスレチックといったものがあります。
平和島公園を出たら平和の森公園に入り、その後はなんとスーパーブリッジで首都高速道路をオーバーパス!
続いて巨大倉庫が立ち並ぶ京浜運河を渡ります。このあたりは現代的な湾岸の景色そのものです。
京浜運河の先は大井埠頭。大井埠頭には港湾巨大施設が立ち並びますが、京浜運河に面したゾーンは広場や住宅になっています。
曲がるところを間違えて一ブロック先で入った緑道は、ちょっとした森の気分が楽しめて面白かったです。
京浜運河まで戻って大井ふ頭中央海浜公園の中の緑道を進みます。
この道沿いにはいくつか現代彫刻が設えられています。
京浜運河の向かいに立つのは大井競馬場で、その前を羽田空港に向かうモノレールが通り抜けて行きます。
広い運河、巨大競馬場、モノレールと、普段あまり見かけない景色です。
品川八潮団地の横の緑道の地道を通り、しばらく行くと、
緑道はなくなり、運河に架かる若潮橋を上って行きます。
若潮橋を渡ったら、次は京浜運河の品川ふ頭橋です。
このあたりの景色はとにかくシュールといっていいでしょう。辺り中ぜんぶ巨大で、大きさの感覚をほとんど失ったように感じます。
品川ふ頭橋を渡ると天王洲アイルです。ここは江戸時代に建設途上で放棄された第四台場をベースとした埋め立て地です。
天王洲運河には歩行者専用橋の天王洲ふれあい橋が架かっています。意匠はちょっとレトロチックですが、1996年完成なので新しくデザインされたものなのでしょう。
天王洲ふれあい橋を渡った先は高浜運河です。この運河沿いはプロムナードになっていて快適なのですが、自転車は通行禁止でした。
知らずにちょっと走ってしまいましたが、表示に気づいたあとは押し歩きました。
新芝運河は自転車通行禁止マークがなかったので乗らせてもらいました。
この運河沿いは正月だからか、歩行者も自転車もまったく通行なし。
芝浦の藻塩橋で新芝運河遊歩道を出ると、そこに2020年の新年会場はありました。超高層ビルの前庭にぽつんとある威南記海南鶏飯は一見高級そうで一瞬たじろぎましたが、実は意外とリーズナブル。
シンチェンゾーと久しぶりにデニちゃんがやってきて、楽しく夜はふけていきました。