ハジャイ着、ソンクラーで遊ぶ
バンコクを発車した夜行寝台車はなかなか快適です。晩御飯は車内でチャーハンや野菜炒めを注文し、シンハビールに加えてタイ産のウイスキーも試していい気分。
そして翌朝。ガタゴトとゆっくり走る列車の車窓からは、背の高いヤシの木と緑の生い茂る風景が広がり、朝日を浴びながら赤土の道を牛を連れた若者が通っていきます。列車はマレー半島の中央部を走っています。
朝9時、ハジャイ駅に着いた私たちはハダーイ・ホテル(Hadaai hotel)に荷物を置いて、バスでソンクラーへと向かいます。ハジャイは商業都市で地域の交通の中心地ですが、そこからバスで1時間弱ほどのソンクラーは海辺の町で、のんびり半日過ごすのならこちらの方が良さそうだと思ったから。
ソンクラーでバスを降りると、早速市場にぶつかります。広場にはパラソルが林立しています。
脇の方から進んでいくと、広場を囲む建物の前でも座って野菜を売る人たちが並んでいます。
そして、パラソルの林の中へ。ここの女性はビスケットやアメなどおやつを売っていますね。
と思ったら、いきなり魚です。さすが海辺の町、屋外の市場に魚が普通に並んでいます。あまり馴染みのない形や模様ですが、何という魚でしょうか。
市場の奥の方には木造の建屋がたっていました。こちらはニンニクや唐辛子などを売っています。白い液体はココナッツミルクかな。
こちらの一角では、味噌のような紫っぽいペーストが山盛りで売られています。あたりには強烈な匂いが充満。
後から調べてみたら、この味噌のようなものは『カピ』という小エビ(アミ)を塩漬けにして発酵させた調味料らしい。ダシとして、タイ料理には欠かせないものなのだそうです。
そして縁台でお昼寝中の方の横には、小学生の子どもくらいはありそうなジャックフルーツがごろり。でかい~
果物売りの界隈は、さすがに南国フルーツが充実していますね。ココナッツを剥く人、スイカを割る人。
暑くて喉が渇いたので、スイカを買ってかぶりつきました。
これはまた、緑の鞘に入った大きな豆ですね。ジャックの豆の木?
鞘から黒い豆を取り出しても売っています。
さて、市場を出てぶらぶら歩いていると、高い石の壁が100mほど続いていました。これは、かつての旧市街の境界線だと言われているそうです。
今度は町を抜けて東の海辺まで行ってみることにしました。
2階建ての建物が並び、道路を行くのは主に自転車やサムロー(自転車タクシー)。のんびりした町です。
海が見えてきました。砂浜にパラソル、ビーチリゾートだ!
と思ったのもつかの間、何だか空模様が怪しい。そしてにわか雨がやってきました。慌てて通り側の建物で雨宿りです。
雨はすぐに止んだので再び通りを歩き始めると、学校がありました。
ちょうど授業が終わった時間なのでしょうか、白いシャツの制服の子どもたちが門の前に集まっています。
青いシャツは中学生くらいかな。学校が終わった校庭での一コマです。
こちらは女子。制服は日本のセーラー服に似てますね。カメラに笑顔で応えてくれました。
再び海岸です。サミラ岬に続く白い砂浜のサミラ・ビーチには小さな漁船が停泊し、そのうちの一艘が漕ぎ出そうとしています。
その沖合に浮かぶ島はヌー島。この島とさらに沖合のメーオ島とがライオン(マレー語でシンゴラ)のように見えるというのが、町の名前『ソンクラー』の由来だそうです。ヌー島は、私にはちょっと角ばったひょうたん島に見えますが。。
海岸をぶらぶらしていると、そこにおサル軍団がやってきました。何か美味しいものはないかな、と砂や石ころの間を物色中。地元の人たちは特に見たり騒いだりする風でもなく、ごく日常的な風景なのでしょう。
この後、私たちはバスでハジャイに戻り、宿の近所で買い物をしたり屋台でおかゆを食べたりして過ごしました。
ハジャイからペナン島へ
翌朝。今日は国境を越えてマレーシアに入ります。国際列車は朝7時5分発ということで、5時半に起床。
まだ夜が明けきらないほの暗い通りを駅へと向かいます。
しかし、町の中心部はすでに目覚めて活動を開始していました。市場の近辺では通りまで露店が溢れ、野菜や果物が広げられています。
市場には買い物かごを下げた女性たちも大勢見受けられます。みなさん早起きなんですね。
ハジャイ駅に到着。地域の交通の要衝だけに駅も大きく立派です。
そして、駅前ではたくさんのカラフルなミニバスが出動の時を待っていました。
余裕を持って駅にたどり着いた私たちですが、国際列車は少々遅れて到着。列車は7時20分にハジャイを出発です。
列車は1時間ほどで国境の駅パダン・ブサールに到着しました。ここでいったん列車を降りて、出入国審査を行います。
窓口で『名前は?』と言われたので答えたら、発音が似ていると思ったのか(似てないんだけど)係のおばさんは『アヤコ・コバヤシ』と言って喜んでいる。どうも日本の朝の連続テレビ小説『おしん』が大人気のようで、小林綾子さんは超有名。『日本人=小林綾子』なのでした。
しばらく待って、ようやくバターワース行きの列車に乗り込みました。ところでタイとマレーシアには1時間の時差があるので要注意。マレーシアに入ったら時計を1時間進めます。
パダン・ブサールを出ると田園風景が続き、2時間ほど経過した12時過ぎにようやくバターワースに到着。
今日はバターワースの対岸にあるペナン島で半日を過ごし、夜再びバターワースに戻って夜行列車に乗る予定。結構慌ただしい旅になっています。
ペナン島へはフェリーが頻繁に出ていて、所用時間は20分くらい。
フェリーが出発すると、進行方向左手(海峡の南方)のジェレジャック島の前に長い橋が渡っているのが見えました。これは1985年に開通した13.5kmのペナン・ブリッジです。
そして前方に見えてきたのは、ペナン島第一の都市ジョージタウン。
ひときわ高い丸っこいビルは、1985年完成の65階建て『コムタ(Komtar)』。ペナン島のランドマークになっています。
ペナン島は古くからインド洋と南シナ海をつなぐ航海の補給地として利用されていましたが、18世紀後半にはイギリスが占領し、交易地として中国人、インド人、アラブ人、ペルシャ人など多様な民族が集まるようになったといいます。第二次大戦中に日本軍に占拠されましたが、戦後再びイギリス植民地に戻り、独立運動によって1963年にマレーシア連邦の一員となったそうです。
そんな歴史を持つペナン島のジョージタウンには様々な宗教の多民族が居住した街並みが残り、散策も面白そうですが、たまたま出会った現地在住日本人が『究極のリゾート』と紹介してくれた『バトゥ・フェリンギ』にバスで向かうことにしました。
バトゥ・フェリンギは島の北にあるビーチ・リゾート。ここで泳いだり砂浜でゴロゴロしたりとと楽しく過ごし、バスでジョージタウンに戻ったまでは良かったのですが、私サリーナが暑さにやられ、旅の疲れも重なってダウン。ふらふらしつつフェリーでバターワースまで戻り、何とか夜10時発のクアラルンプール行き夜行列車に乗り込みました。この後、寝台列車がダブルブッキングになっていたなどひと騒動あったようですが、私は知ることもなく寝込んだままだった。。
マラッカ
クアラルンプールには、まだ暗い朝6時40分に到着。体調はやや回復しています。チケット売り場が開くのを待って、マラッカ行きのバスに乗りました。
10時にマラッカに着いたらツーリスト・インフォメーションで安めのホテルを紹介してもらい、そのホテルへ。それが営業60余年というホテル・マジェスティック(大華飯店)です。
建物の中に入ってみると、まったりくつろいでいたインド系の係のおじさんが慌てて身だしなみを整えて応対。ちょっと可笑しい。
内部は天井が高くコロニアル風のつくりですが、何となくうらぶれた雰囲気です。私は部屋でしばらく休憩。ヨッちゃんとハッちゃんは街歩きに出かけました。
ホテルの部屋でゆっくりゴロゴロしていたら、ようやく体調が回復してきました。予定では明日朝にはマラッカを出発しなければならないので、午後3時過ぎから一人で周辺を少し散歩することにしました。
マラッカは、1396年頃スマトラの王子パラメスワラがマラッカ王国を興して始まったそうです。東西貿易の中継地として栄え、中国やインド、アラブの人々が行き交いますが、ヨーロッパ列強が進出し、1511年にはポルトガル、1641年にはオランダ東インド会社がマラッカを占領。
1824年には英蘭条約でイギリスの植民地として割譲され、第二次大戦中の日本軍の占領を経て再びイギリス植民地となった後、1957年にマラヤ連邦として完全に独立を遂げることになります。
そんな歴史を持つマラッカの街には、東洋と西洋の趣を持つ多様な建物が混在しています。中国系の人たちも多いのでしょう。漢字も目につきます。
旧市街の中、目の前に突然白い塔が現れました。カンポン・クリン・モスク(Kampung Kling Mosque)です。
1748年に建てられたこのモスクは、マレーシアでも最古のモスクの一つなんだそうです。
旧市街のジョンカー・ストリートに入りました。この通りの名前はオランダ語で『商業』を意味するのだそうで、商店の並ぶ繁華街となっています。
この建物の柱や壁は、漆喰で描いた植物などの文様で飾られ、窓や手すりもかなり凝っていますね。
並んでいる町家の2階には洗濯物が干されて生活感も感じますが、壁の漆喰や瓦が剥がれ老朽化した建物も多く見られます。
ところで、私は観光しつつ銀行を探しています。マレーシアに入ってから両替できておらず、文無し状態なのです。
しかし時刻はすでに夕方、銀行も閉まっており、止む無く『眺めるだけ』観光を続けます。
マラッカ旧市街の建物は、京都の町家のように間口が狭く奥行が深いのが特徴です。
これは実は、オランダ時代に間口の幅で税金の額が決められたからなのだそうです。いつの時代も税金の影響は大きい。。
再びマラッカ川のほとりに出てきました。下流に近づき川幅が広くなり、たくさんのボートが係留されています。
今度はジョンカー・ストリートと並行したヒーレン・ストリート(トゥン・タン・チェン・ロック通り)を北へ進みます。
『ヒーレン』とはオランダ語で『紳士』のことだそうで、裕福な人たちが住んだのだとか。そういえば、建物のつくりも少し凝っているような。
商店が並び、間口が広めの建物も見られます。教会のファサードのような装飾を持つ建物も。
こちらの邸宅は中国風。赤い柱組が目立ちますが、よく見ると1階の張り出し屋根の棟の部分の装飾も浮き彫りの花などがとても豪華です。
これも漆喰の浮き彫り模様がかなり凝っていますね。いろいろなテイストの装飾で飾られた建物が連なっています。
マラッカ川に戻り、橋を渡ってオランダ広場へ。ここはマラッカ観光の中心地。赤く塗られた建物が並んでいます。
正面の大きな建物は『スタダイス』、オランダ語で『市役所』。1650年に完成し、18世紀までオランダの役所と統括責任者の官邸として利用されていたそうです。
左には時計塔、そして写真には映っていませんが、その奥にマラッカキリスト教会があります。
オランダ広場から、マラッカ川沿いを少し上流に向かって歩いてみました。
右手は川沿いに歩道が連なっていますが、左手の旧市街は建物が川岸まで建ち並んでいます。
旧市街側は、川に張り出すように建てられた建物がひしめき合っています。
かなりくだびれて手入れが必要な建物も多そうですが、川沿いの赤い瓦屋根の家並みは、なかなか絵になる風景でもあります。
オランダ広場の建物の裏側に回ってみました。正面の三角屋根の赤い建物がスタダイスの端っこ。
そして、通りからオランダ広場の方向を覗けば、右手がマラッカキリスト教会の後ろ姿。
この教会は1753年に建てられ、1本の木でできた天井の梁、手彫りの木の座席など、当時の姿を残しているそうです。
通りを東へ歩いていくと、白く低い塀に囲まれてひっそりとしたオランダ人墓地がありました。
その近くに、木造の大きな建物が現れました。『マラッカ・スルタン・パレス』、マラッカ王宮です。
これは『マラヤ王統記』などの資料をもとに、15世紀に栄えたマラッカ王国の宮殿を復元した建物だそうで、1984年に建てられました。内部は博物館になっています。
ぶらぶら歩いていると、今度は学校に出てきました。芝生の美しい校庭では、子どもたちがホッケーの練習中。
ホテルの近くの見どころを一巡りして帰路につきます。
商店の並ぶ通りを北へ。新聞や雑誌を売るお店の左隣は看板に『電器公司』と書いてありますが、自転車を売っていますね。
ホテル・マジェスティックに帰ってきました。高い天井にまったりした空気の流れるロビーは結構居心地がいい。
部屋でヨッちゃん・ハッちゃんと合流したら、晩御飯に出かけます。入った食堂のメニューは『チキンライス』のみ。ご飯の上に蒸したチキン、そしてキュウリの薄切りが3枚乗っています。
ビールで乾杯しつつ、明日の旅に思いを馳せる私たち。明日はいよいよシンガポール、この旅の最終地点です。