都心の桜は終わりましたが栃木の山はまだ見頃だというので、太平山(おおひらさん)を中心に据え、その前後に蔵の街栃木と雄大な景色の渡良瀬遊水池を配してみました。
まずは栃木市内の観光です。栃木駅から北に向かうとすぐ、巴波川(うずまがわ)の流れに出会います。
栃木は江戸時代、日光例幣使街道の宿場町として、また、この巴波川の水運によって栄えた商都でした。巴波川沿いの道は綱手道と呼ばれるそうで、これは、かつては川の流れが速く、江戸からの帰路は麻綱で舟を曳いてきたことによるそうです。江戸まで行きは一昼夜ですが帰りは三日三晩もかかったといいます。
川の畔に建つ塚田歴史伝説館はかつては江戸深川の木場まで木材を運搬した木材回漕問屋だったそうで、120m続く黒塀の中に立派な蔵などが並んでいます。
そうそう、ここでは小舟に乗って船頭が歌う栃木河岸船頭唄を聞きながらの遊覧が楽しめるそうです。
巴波川から現例幣使街道のr11、栃木のメインストリートに出れば、まず目に付くのが立派な蔵造りの『蔵の街観光館』。
ここはかつては荒物・麻苧問屋だったそうで、この見世蔵は明治37年(1904年)上棟とのこと。
現在は観光案内所的な役割を担っている施設となっており、内部もご覧の通りに立派。
碍子の電気配線!
蔵の街観光館の向かい、山車会館の横には『蔵の街美術館』があります。
江戸時代後期のこの土蔵は『おたすけ蔵』と呼ばれますが、豪商だったこの家が庶民の困窮を救済するため多くの銭や米を放出したことに由来するそうです。
ハーフティンバー木造二階建のしゃれた洋風建築は栃木病院。
中央ベランダの両側に翼が突き出ています。この大正2年の建物は外観の意匠だけ保存されているのかと思いましたが、なんと現役の病院として使われていて、感動です。
現在例幣使街道と呼ばれているのは大通りのr11ですが、かつてのそれはr11と巴波川との間を通る道だったようです。
そのかつての例幣使街道沿いには豪商だった岡田家の記念館が建っています。ここの町名は嘉右衛門町で岡田記念館はその1番地です。江戸時代の岡田家の当主の名が嘉右衛門でした。つまりここの当主の名がそのまま町の名になったというわけです。ちなみに岡田家では代々嘉右衛門を襲名しているそうです。
巴波川の畔に建つ横山家は明治時代に麻問屋と銀行を営んでいた豪商だったようです。
店の両側にはほぼ対称に立派な石蔵が建っています。右が麻蔵、左が文庫蔵だそうです。これは店の右半分で麻問屋を、左半分で銀行をやっていたからのようです。
現在の栃木県の県庁所在地は宇都宮ですが、かつてはここがそうでした。栃木市役所、栃木中央小学校、栃木高等学校のある区域がかつて県庁があったところで、現在でも県庁堀と呼ばれる堀が残っています。
この周辺には栃木市役所別館(旧栃木町役場庁舎)や栃木高等学校講堂など、明治時代から大正時代にかけての建物が多く残っています。
さてさて、栃木市内の見どころは尽きないのですが、そうゆっくりもしていられません。ここで市内観光を切り上げて本日のメインである太平山に向かいます。
町中を出ると日光方面の山々がきれい。写真ではわかりませんが、男体山も。
永野川に架かる上人橋を渡ると太平山に続く太平山遊覧道路です。
4kmに渡る桜のトンネルが見事。
ここの桜はもう残っていないと思っていましたが、なんとかぎりぎり間に合ったようです。
桜のトンネルに入るといよいよ上りになります。上りはおおよそ3kmで170m、平均斜度5%強です。
序盤はごく穏やかな勾配ですが徐々にきつくなり、5~6%になってきます。
そんなところでの慰めは美しい新緑と淡いピンクの桜です。
後半には7~8%のところもあったでしょうか。
しかしともかく、えっさ、えっさと上って、
太平山神社の随神門に到着。
この門からは強烈な石段が上下に延びています。一番下から上の神社までは約1000段もあるとのこと。しかし私たちがいる随神門からは大したことはありません。
これをえっこらよっこらと上って、
太平山神社に到着です。
境内には見事な桜が咲いていました。
そしてここからの眺めはなかなかよろしい。
このあたりの名物はだんごと焼き鳥と卵焼きだって。なんかこのみょうちくりんな取り合わせには意味があるのでしょうか。それはともかく、焼き鳥と卵焼きは遠慮してだんごをいただきました。これはなかなかいけます。
だんごとお茶で一休みしたら、いよいよ太平山へハイキングです。
今日のハイキングコースは太平山を経由して晃石山(てるいしさん)まで行って戻ってくるというものです。太平山への上り口は神社の境内の東側にある小さな祠の横。
ここを入るといきなり急な階段状の登りが。
その登りの途中からは下に霞のような桜、そして遠くには先ほどまでいた栃木の街が見渡せます。
ちょっとえっこらして太平山神社の奥社にお参りし、さらに登れば富士浅間神社に辿り着きます。ここまではほんのちょっとしたハイキングですが、意外と傾斜がきつく、ちょっとよろよろ。さて太平山の山頂はというと、それはなんとこの神社のすぐ裏手のひっそりとした地点なのでした。
ここで弁当を広げしばし休憩したあと、いざ晃石山へ、という段になったのですがなぜか、晃石山までは遠い、ここで引き返そう、というものが約三名おり、この企画はここであえなく挫折。
ハイキングを終えたらあとは自転車で豪快なダウンヒル。と思ったら、道はまだ上っている。実は随神門から謙信平まではごく僅かですが、上りなのです。
謙信平には茶店が数軒並び、お天気のこの日は結構な人出でした。
謙信平の名は、かの上杉謙信が太平山から関東平野を見渡し、あまりの広さに目を見張ったということから来ているそうです。その真偽はともかく、
確かにここからの眺めは素晴らしい。
謙信平からはいよいよ下りです。
この下り道は雄大な眺めはないものの、木々や近くの山がとてもきれい。
その林道の終点近くにあるのが大中寺です。
立派な杉林の参道の先の山門をくぐると、
きれいなしだれ桜が目に入ります。
この桜も見事でした。
ここは曹洞宗のお寺で関三刹(かんさんさつ)の1つ。つまり宗派統制の権限を与えられた格式が高いお寺なのだそうです。山号は先ほど登った太平山です。
上杉謙信が北条と和議を結んだのがここで、謙信はそのあと太平山に登って関東平野を見渡したとされます。
本堂の裏手にも感じのいい桜があります。
大中寺の参道の反対側の小山もいい感じ。
大中寺からその小山に向かって進み振り返れば、あの太平山は春の色。
大中寺のすぐ近くに『おおひら郷土資料館』があります。ここには白戸家戸長屋敷が保存されています。
戸長とは明治時代前期に制定された行政単位である大区小区制の小区の長をいうそうです。つまり白石家は小区の長である戸長だったということです。より古い江戸時代の呼び方をすれば、庄屋や名主といったところでしょう。
ここには2000坪の広大な敷地に、長屋門、立派な玄関が付いた母屋のほか、様々な蔵などが建ち並んでいます。
小区の長というよりは大庄屋といったほうがわかりやすい、そんな風格のある家です。
おおひら郷土資料館の横にはピンク、赤、白と三色の桃が咲き競っていました。これははっとするほどきれい。
白戸家戸長屋敷からは平坦な田んぼの中を行きます。
ここは太平山から晃石山にかけての稜線がきれい。
そして晃石山から馬不入山あたり。
こうした山々を眺めながら走るカントリーロードは最高に気持ちいいです。
岩船山をかすめて進めば、今度は先に『みかも山』が見えてきます。
みかも山は山全体が公園になっていて、お天気のこの日は家族連れで賑わっています。
この中を散策したかったのですが、残念ながら自転車は乗り入れ禁止だったので、入口だけ覗いて渡良瀬川に向かうことにしました。
渡良瀬川の自転車道はかつては右岸だけに整備されていたと思いますが、左岸にも整備されたようで快適に走ることができます。
菜の花もいい感じ。
快調に走っていると空から音もなく近づいてくる飛行機が。グライダーです。しばらく見ていると近くに着陸しているようなので、行ってみることにしました。
新開橋を渡り右岸を2kmほど遡ると、そこに滑空場がありました。
ここでグライダーの離陸と着陸を見学。音もなく滑るように着陸するグライダーは優美ですね。(動画参照)
たっぷりグライダーを鑑賞したら渡良瀬遊水池に向かいます。東武日光線の先の橋からはもう遊水池ゾーンです。今回は橋から渡良瀬川に沿って進んでみました。するとこの道はところどころで砂利道に。北エントランスに向かえば舗装路だったはずですが。しかし芦などが生い茂る風景をたっぷり味わうことができました。
渡良瀬川を離れ、渡良瀬緑地の展望塔に到着。ここからは広大な遊水池が見渡せます。
谷中湖は渡良瀬遊水池の中心的な施設。遊水池内で平常に池の状態にあるのはここだけで、空から見るとハート形に見えるそうです。
ちょっとロマンチックな形の谷中湖ですが、なぜここには常時水があるかといえば、それはコンクリートによって造成されているからです。現在ではほとんど忘れかけられていますが、この遊水池は元はといえば足尾鉱毒事件による鉱毒を沈殿させ無害化することを目的に造られたものでした。しかし残念なことに最近も渡良瀬川下流から基準値を超える鉛が検出されており、まだこの問題が完全に解決したものではないことを知らされました。
まあそれはともかく、遮るものの少ないここは風が強く、いつのまにか追い風が横風に、そして向かい風となり、谷中湖の中央を突っ切る橋を渡るときにはハヒハヒとなったのでした。
すばらしいお天気に恵まれたこの日は、春をたっぷりと感じることができた一日でした。