今回は、成田山にお参りし、成田空港の飛行機を眺め、佐原の街並と雄大な利根川を楽しむという、ちょっと見どころの多い企画です。
まずは成田山へ。
京成成田駅から成田山の参道を行けば、そこは意外と細い道で、両側にびっしりと土産物屋や飲食店が並んでいます。
ここで目に付くのは『うなぎ』の文字。どうやら成田はうなぎで有名のよう。
中には、こんな立派な店構えのうなぎやも。
成田山は成田山新勝寺といい、関東では有数の参詣人を集める有名なお寺なので、ここのお守りを持っている方も多いでしょう。
このお寺の起源は、朱雀天皇が平将門の乱を平定するため、ある僧を東国に遣わしたことによるとのことで、それは西暦900年代のことですから、たいへん古いお寺ということになります。
ここには国の重要文化財が五つもあります。
総門をくぐった先にある、『魚がし』と書かれた大提灯がぶら下がる仁王門、そしてその仁王門をくぐった先の右手にある三重塔などです。この三重塔は2008年(平成20年)の大開帳の際に漆塗りの彩色の修復が行われたので、創建当時のきらびやかな姿を見ることができます。
成田山は広大な敷地を持ち、本堂の東側は広い庭園になっています。
紅葉はすでに終わっていましたが、なかなか気持ちのいい庭で、散歩するにはうってつけです。
大きな池があり、錦鯉もたくさん泳いでいます。
この池の畔で、散り際の紅葉を見ることができました。
成田山からは、成田空港のB滑走路の北の端にある『東雲の丘』に向かいます。
根木名川を渡り、R51やR408などが複雑に絡み合う寺台インターを過ぎると、成田の市街地は終わり、いきなり田んぼの中になります。
このあたりの田んぼは谷津田ともいわれ、谷津(谷戸などともいう)という、台地が浸食されてできた狭い低地に作られています。ですから、田んぼの周囲はちょっと高くなった森になります。
このあたりをGoogleマップの衛星写真で見ると、まるで龍のような地形が見られます。それが谷津です。
道は大抵田んぼの縁にあるのでこれを行けば、当然森の日影があり、そこの田んぼは凍っています。
今日はお天気ですが、気温は日中でも10°Cまでしか上がらないとのこと。当然、道にも凍ったところが。
谷津が広くなると、両縁の道を繋ぐ道も必要になってきます。
ここではそうした道を使って、谷津のあっちからこっちに渡っています。
谷津の奥まで進むと、小さなトンネルがあり、東関東自動車道沿いの道に出ました。
進行左手のフェンスの下に東関東自動車道は通っています。ここからしばらくは、この道を進みます。
JCスポーツ公園のところで東関東自動車道沿いから離れ、十余三(とよみ)の『東雲の丘(しののめのおか)』にやってきました。ここは丘とはいっても、人工的な展望台です。
ここからは成田空港のB滑走路に着陸する飛行機を間近に見ることができます。もちろんこの滑走路からの離陸もあるのですが、それは着陸に比べ、圧倒的に数が少ないのです。
最初に着陸したのはFedExの貨物機で、南から侵入してきて、この展望台のすぐ近くで向きを変え、ターミナルビルの方へ向かって行きました。
成田空港の離着陸は二分おきとかいうことで、あとからあとから、ひっきりなしにやってきます。
これはA滑走路から飛び立ったジャンボジェット機です。ここからA滑走路まではだいぶ離れているので、肉眼ではどこのエアラインのものか判読できないほどですが、なんとかカメラに納まっていました。A滑走路の飛行機を見るなら、『さくらの山』がいいそうです。
飛行機を眺め終わったら、佐原へ向かいます。
まずは、東関東自動車道沿いに戻って、どんどこ。この道の脇は畑で、ここでは一面、だいこんが作られています。その向こうに見える赤い橋梁は、先ほど見た成田空港B滑走路の進入灯橋です。
東関東自動車道沿いを離れれば、そこはカントリーロード。
このあたりは、国道を避ければ、その他はみんなこんな感じの気持ちのいい道です。
先ほど畑で見たのはだいこんでしたが、ここではにんじんが植えられています。
にんじんは最近では通年スーパーで買うことができますが、旬は秋から冬に掛けてで、まさに今頃。
さて、再び谷津に入ります。谷津は小さな谷津が集まって中ぐらいになり、中ぐらいの谷津が集まって大きな谷津になります。
こうした谷津の一番小さなところから出て、その谷津がだんだん広がっていく様子を見ながら、佐原に向かうことにします。
佐原の西に大きな谷津があり、その真ん中に大須賀川が流れています。谷津の真ん中にはこうした川が流れていることが多いのです。この大須賀川を上流に辿っていき、東関東自動車道のすぐ近くから始まる谷津を見つけました。
ここがその始まりの谷津の、もっとも奥です。
その谷津を進んでいくと、ちょっと広いところに出ます。
ここは二つの谷津の合流点で、写真の奥の左右に小さな谷津が延びています。
この二番目の広さの谷津が合流し、三番目の広さの谷津となり、そこにさらにそれと同程度の谷津が合流し、四番目の広さの谷津になりました。
ここの幅は200mほどあります。
あちこちからこうした谷津がどんどん集まり、だいぶ広くなってきました。これまで田んぼのまわりには何もありませんでしたが、ここに来て民家が現れ、ちょっとした集落も出てきます。
谷津を取り巻く小高い森が、あっちとこっちに別れ、はっきり谷津の広さを示してくれます。
谷津の広さを感じるため、こっちからあっちへ渡ってみます。
その道のちょうど中央に、大須賀川が流れています。
その流れは、ここではまだかなり細い。
上流域では谷津のすぐ際まで丘が迫っていますが、下流域ではスペースが広いこともあり、道と丘までの間に家が建っていたり、畑が作られていたりします。
ここでは夏みかんと、最後の紅葉という取り合わせが見られました。
夏みかんは、夏という名が付くけれど、実を付けるのは秋なのです。でもこの時期はすっぱくてまったく食べられません。越冬して徐々に甘くなり、初夏にようやく食べられるようになるので、夏みかんというのでしょうね。
さらに谷津が合流して、その幅は500mを超えるようになります。
その端にあるのは、ここで田んぼを作る農家。
この家はそう古くはないようですが、伝統を継承した造りで、立派です。
丘陵地が浸食されることでできた谷津は、それらが集まり、広大な低地を作ることで終わります。
このあたりの北には利根川が流れており、その利根川の周辺の低地に流れ込むようにして、私たちが辿ってきた谷津は終わります。写真のうしろに見える森が左端で低くなり、なくなっているのがわかるでしょうか。あそこがこの谷津のおしまい、出口です。
その出口付近の大須賀川は、ずいぶんと広がっていました。
さて、谷津の出口までやってきたのですが、ここから佐倉までは、完全に谷津の外側まで行き、利根川に沿って、まったく平坦なところからアプローチするのが簡単なのですが、ここでは低地の谷津と台地の上とがどの程度の高度差で、どのような違いがあるのかを感じるために、谷津の出口直前の丘を渡ってアプローチすることにしました。
低地の田んぼと丘の上との標高差は僅か30mほどですが、ここから佐原まではこのアップダウンをいくつもこなさなければならないので、ちょっぴりきつい。
さて、その小さなアップダウンをこなすと、佐原に到着です。とにかくまずはお昼をと、寿司屋に。お得なランチにぎりに赤貝と穴子を追加しましたが、どれもgooooodでした。
佐原は、江戸時代に利根川の水運を利用して栄えた街で、小野川沿いに『だし』と呼ばれる河岸が多くつくられていました。その周辺には現在でも当時の面影を残す建物が建ち並んでいます。
その小野川から佐原の街を眺めることができる、『舟めぐり』もあります。
冬のこの季節、水上のオープンエアの舟はさぞ寒かろう、と思いますが、なんとこの舟には『こたつ』があります。ん~ん、寒い冬にこたつに入って舟で行くってのも、おつかもね。
でも、私たちは正当に? 自転車で。
小野川沿いには日本的な柳の木が植えられていて、これがなかなか風情があってよろしい。
その柳の木の下に、ところどころ、階段があり、川辺に降りられるようになっているところがあります。これが、かつての河岸の『だし』です。ここに見える『だし』の向こう側の建物は、佃煮屋の正上(しょうじょう)で、佐原でもっとも古い建物といわれています。
佐原といえば、あの日本全国を測量して廻り、はじめて正確な日本地図を作った伊能忠敬が婿入りした先があることでも有名です。
これが当時、酒と醤油の醸造、そして貸金業を営んでいた伊能家で、先の東日本大震災で受けた被害もすっかり修復され、無料で見学できるようになっています。
土蔵造りの店のほか、炊事場、書院、土蔵が残っています。
これは炊事場で、立派なかまどがあります。
伊能忠敬旧宅前の小野川には、樋橋(じゃあじゃあ橋)が架かっています。
この橋のもとは、江戸時代の前期につくられた佐原村用水を、小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋だったといいます。
現在の橋は観光用で、日中は30分ごとに水が流され、小野川に落水する様子が見られます。
この落水は毎正時と30分のようで、これはちょうど14時の写真。
そしてそのじゃあじゃあ橋の袂にも『だし』があり、現在ここは、観光用の舟乗り場になっています。
このじゃあじゃあ橋の一つ北側の橋が佐原のメインストリートr55が通る忠敬橋で、そのあたりに歴史的な建物が集まっています。
手前から、正文堂、茶房さかした、小堀屋本店、福新呉服店。
これは忠敬橋の南西角にある中村屋商店の店先で、店舗は1855年(安政2年)のもの。
ここでは、明治時代の初めごろから荒物・雑貨・畳などを商ってきたようです。現在は和雑貨を中心に扱っています。
佐原には、商家の『おかみさん会』による、まちぐるみ博物館があります。これは一つの博物館ではなく、各店舗の一部に各家に残るお雛様や道具などを展示するものです。
中村屋商店では、一枚での和紙で折った鶴、連鶴(れんづる)などが展示されています。連鶴は、製図や鋏の入れ方により、いろいろな形の鶴になるそうです。しかし、写真の鶴、何羽いるのかわかりませんが、これがたった一枚の紙から折られたとはとても信じられません。
佐原はいくら時間があっても遊ぶことができる楽しい街ですが、そういつまでもここで過ごすわけにはいきません。
小野川に沿って利根川に向かいます。そうそう、レトロな佐原の郵便ポストですが、これもレトロな丸形です。
小野川は小野川水門で利根川に出ます。
日本を代表する川の一つであるこの利根川は、とても広い。
そこには釣りを楽しむ人のボートが浮かび、その向こうに、関東平野の中にただ一つだけ浮かぶようにして、筑波山が立っています。
利根川の土手上は自転車道になっています。
ここは国道がすぐ横を通っているのがちょっと目障りですが、いつまでも広い川面と筑波山を眺めながら走れるのが、気持ちいい。
この自転車道、最初は国道側に草が生えていて、やや狭かったのですが、上流に進むうちに国道側の草がなくなり、かなり幅が広がります。
ここはずっと向かい風で、ちょっときつい。
自転車道は安全で快適なのですが、ややもすると単調で飽きてしまいます。そこでちょっとアクセントにと、神崎神社(こうざきじんじゃ)に寄ってみました。この神社は小高い丘の上にあり、短いものの、激坂を上らなければなりません。
変化ありすぎ~ という叫びとともに、なんとか神社にたどり着きました。この境内には『なんじゃもんじゃ』と呼ばれている大きな楠の木があります。なんでも、水戸黄門が『この木はなんじゃ? もんじゃ・・・』といったからだとか。
神崎神社からは少しだけカントリーロードを走って、また利根川自転車道に戻ります。
だいぶ日が傾いてきました。
宝船と七福神がいる下総利根宝船公園を過ぎると、新川水門で自転車道が途切れます。
ここで、成田の市街を出た時に渡った根木名川が、利根川に流れ込んでいます。
ということで、この川沿いを辿れば成田に着くわけです。具合のいいことに、この土手上は舗装されており、自転車道のようになっています。上り口はないけれどね。
さて、この土手上を走り出すと、左右に二本の流れが。あれ、どっちが根木名川? 右手のそれは、どうやら派川十日川といい、別の川のようです。
利根川の水門から2kmほどで、土手上の道の舗装は途絶えるので、下の田んぼの中を行きます。
もうすっかり夕暮れ時です。
小高い丘に日が沈んでいきます。ここではすでに丘に太陽が隠れはじめているので、あと二分少々で日没となります。
成田の日没時刻までは、あと20分。ちょっと急がねばなりません。
残照が僅かにある17時に成田に到着。
この打ち上げはやっぱり鰻!ということで、全員の意見が一致。成田山の参道の鰻屋は、どこもかしこも17時に店じまいしてしまうので、そこで見かけた鰻屋の別館へ。
ここはちょっとぜいたくに、上鰻重を。やっぱり鰻はでかくなきゃあね。