季節の良い10月の三連休。今年は奥志賀の紅葉を見に行くことにしました。その前段となるこの日は、長野駅から志賀高原の入口となる湯田中温泉まで走る予定ですが、どうも天気が怪しい。
雨がパラつく中で新幹線に乗り、車中で行程を再検討。雨だったらあ〜だこ〜だ、上がっていたらあ〜だこ〜だ・・・ 長野駅に降り立つと、天は我らの味方のようで、雨は上がっていました。
この日は善光寺にお参りし、そのあと三登山山麓林道を行くつもりでしたが、雨が上がったとは言え、林道は無理そうなので、須坂の町並みを見て、小布施で北斎を見学するというコースに変更です。
長野駅を出て街中を抜けると、
住宅地と田畑の中を行くようになります。
田んぼの中には黄金色になった稲がまだ刈り取られないで残っている所も見られます。
先に見覚えのある大きな建物が現れました。長野オリンピックの施設として造られたM-WAVEです。
M-WAVEは現在は多目的アリーナになっており、明日から400mトラックのアイススケートリンクとしての営業が始まるようです。
M-WAVEまで来ると、畑の向こうに、千曲川の対岸にある山が見えてきます。
県道に出て、屋島橋でゆったりとした流れの千曲川を渡ります。
千曲川は山梨県・埼玉県・長野県の三県の境にある甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)に源を発し、新潟県に入ると信濃川と名を変え、367kmを旅して新潟市で日本海に注ぐ日本一長い川です。
屋島橋を渡り切ると、千曲川の右岸の土手上には自転車に快適な道が続いています。
この自転車道のような道をどんどこ行くと、左手には北信五岳の一つである飯縄山(いいづなやま、標高1,917m)が見えます。
天気は回復してきており、所々に青空も見えています。
後ろには低い山ひだがいくつも重なり合っていますが、写真は奇妙山の稜線でしょうか。
そして右手には須坂の街が見えます。
土手上の道はほどなくなくなるので、河川敷に下ります。
するとそこには畑が築かれていて、いろいろな作物が作られています。
この畑の中をどんどこ進んで行くと、いつしか周囲はりんご畑になります。この時期はりんごの収穫期で、たわわに実った赤い実がたくさん生っています。
『わ〜、たくさん生っていますね〜』 とりんごを眺めながら走るキルピコンナ。
百々川を渡り長野電鉄長野線の線路をくぐると、再び千曲川の土手上に道が出てくるのでこれに復帰。
河川敷にはびっしりとりんごの木が並び、その向こうにはあの飯縄山がドンと座っているのが見えます。
快適な土手道をちょっと進んだら、須坂の中心部へ向かいます。
黄金色の稲があり、その反対側には小さな赤いカンナが並ぶ道を行きます。
須坂の中心部が近付くと、周囲はぶどう畑が多くなってきます。りんご同様に、ぶどうも収穫期を迎えており、白い袋の隙間から大きな房が見えています。
ちなみに須坂市は、巨峰とリザマートの交配種であるナガノパープルが生まれたところです。
『お〜、でっかい房が見えるよ〜』 と、高級ぶどうに驚くシンチェンゾー。
須坂の中心部にやってきました。ここはかつては須坂藩主堀氏の陣屋町であり、明治から昭和初期にかけ製糸業で栄えたところで、現在でも土蔵や大壁造りの商屋の建物が残っています。
東山魁夷が揮毫した『馬車よ ゆっくり走れ!』の碑が出てくると、そこが蔵の町並みの入口で、すぐ先に江戸時代から藩御用達の呉服商を営んでいた旧山一製糸の旧牧新七家住宅、現須坂クラシック美術館が建っています。
この建物は明治初期に建てられたもので、土蔵、長屋門、うわみせに囲まれて母屋があり、足元には『ぼたもち石積み』という大きな丸い石を積んだ石垣があります。明治初期の大規模町屋の代表的なもので、須坂市の有形文化財で、経済産業省認定の近代化産業遺産にもなっています。
須坂クラシック美術館の先には製糸家だった牧家が建っています。
牧家は明治初期の富豪の家で、土蔵、長屋門、蔵店と並んでいます。ここにも『ぼたもち石積み』が見られますが、これらは当時より道路が高くなったため、本来の姿より低く見えます。
牧家の向かいには蔵のまち観光交流センターがあります。
この明治中期に建てられた三階建ての建物は、旧角一製糸場のまゆ蔵として使用されたもので、大屋根の鬼瓦、門と下屋の瓦、二階の戸袋に、□一(カクイチ)の屋号や○二(マルニ)の家紋が見えます。
『ふれあい館まゆぐら』は旧田尻製糸のまゆ蔵として使用されていた建物で、元はここから少し離れた所にあったようですが、曳き家して現在地に移されたそうです。
桁行は十間と長大で、漆喰塗の壁に整然と窓が並んでいます。明治時代に建てられ、国の登録有形文化財になっています。
現在は製糸業に関する体験や展示等の施設として活用されており、無料で見学できるので入ってみました。
みんなで覗き込んでいるものは、たこ焼き機のような金型とその横に置かれた紙で、紙には丸く蚕の卵がくっついています。金型の穴は直径40mm、高さ20mmほどで、この金型の下に紙を敷き、金型の穴の中に交尾後の雌の蛾を入れると、紙の上に卵を産むようです。
帰り際にここで、おいしいお茶と漬け物をいただきました。ごちそうさまでした。
須坂には洋風建築も残っています。これは1917年(大正6年)建築の旧上高井郡役所で、県内に唯一残されている郡役所の建物だそうです。
薄緑色のドイツ下見板張りの外壁に上げ下げ窓、正面玄関には車寄せがあり、その上はテラスになっています。さらにその上には切妻破風(ペディメント)も見られます。
須坂でもっとも蔵が集まっているのが中町交差点付近です。これは蔵の美術館。明治初期の土蔵を改造しギャラリーとして使われてます。
その手前にちらっと写っているのは、旧製糸家の西糀屋小田切家。
旧高津屋の小布施家は乾物商だったそうで、通常の倍の十軒の間口を持ち、その中央に破風の門を構えています。
旧高津屋の向かいには黒塗りの蔵店の西田屋、江戸末期の土蔵造りで望楼と『うだつ』がある山下薬局、酢屋信商店と並びます。
須坂の町並みを眺めたら、小布施へ向かいます。
サリーナとの約束の時刻に遅れそうなので、ここはR403をまっしぐら。
小布施に入ったらまずは昼食を。信州といえば蕎麦、ということでここはおぶせミュージアム・中島千波館近くのそば屋に。ともに十割りの発芽蕎麦と更級蕎麦の盛り合わせはおいしかったです。
さて、おいしい蕎麦のあとは北斎館へ。今日の小布施は、栗、北斎、花で有名です。
『栗の小径』に入ると、江戸時代の儒学者で浮世絵師の高井鴻山(たかいこうざん)の記念館の東門の横を通り抜けます。鴻山は葛飾北斎の門人であると同時に、北斎のパトロンでもあったようです。北斎は83歳の時に鴻山を訪ねてここに始めてやって来て以来、小布施を四度訪れています。
この高井鴻山記念館と北斎館をつなぐ狭い道が『栗の小径』で、路面には栗の木が敷き詰められています。1982年ごろから87年にかけての町並み修景事業で整備されました。
1982年に高井鴻山の隠宅「悠然楼」を小布施町が記念館にする計画を立てたとき、周辺の住民が悠然楼周辺の町並みを整備したらどうかと提案したことが、のちの町並み修景事業に繋がっていったのだそうです。
『栗の小径』を抜けると北斎館です。北斎館は、小布施に残された葛飾北斎の肉筆画を集めて1976年(昭和51年)に開館しました。
小布施には七基の祭屋台が現存するそうですが、ここには東町と上町の祭屋台が展示されています。これらは両方とも北斎による天井絵を持ちます。東町の祭屋台は1805年(文化2年)の再建で、小布施の祭屋台の中では最も古い歴史を持つそうです。村民の意向を受けた鴻山の依頼に基づき、北斎が85歳の時(1844年(天保15年))に、この天井に龍と鳳凰の二図を描いています。
もう一方の上町の祭屋台の天井絵は怒涛図で、『男浪』と『女浪』。1845年(弘化2年)から翌年にかけて制作されています。これはこの時は他館に貸し出し中で、レプリカが置かれていました。
北斎館で特別展『北斎漫画の世界』を見て、近くの菓子屋で栗菓子を食べたら、小布施にあるもう一つの北斎を見に行きます。
それは小布施の東の外れの山裾のある寺にあります。
その途中に『フローラルガーデンおぶせ』があるのでちょっとだけ覗いてみることにしました。
ここは鳳凰花壇という、北斎の鳳凰図を模した花壇や温室、植栽園があります。入口には「花のまち小布施』の庭作りに欠かせない花の苗や鉢花の販売が行われています。ここ小布施はオープンガーデンのまちとしても有名なのです。
フローラルガーデンおぶせを出て郊外に向かうと、湯田中温泉の北にある高社山(こうしゃさん)が見えます。
今日は最終的にはあのあたりまで走るのです。
その高社山を目掛けていき、右に折れると先に小布施の東に位置する小高い山が見えてきます。 雁田山(かりだやま)です。
目指すもう一つの北斎はあの山裾にあります。
岩松院の赤い屋根が見えてきました。この寺は北斎以外にも、戦国の武将の福島正則と俳人小林一茶のゆかりの地でもあります。
ここには福島正則の霊廟があり、一茶のもっとも有名な句『やせ蛙まけるな一茶これにあり』と詠んだの蛙合戦の池があります。
さて、北斎の方はというと、本堂の大間の天井に21畳敷もある巨大な絵を描いています。『大鳳凰図』。またの名を『八方睨み鳳凰図』と言います。 これは北斎最晩年の88歳から89歳(1848年(嘉永元年))にかけての作品と言われています。この絵を描いた四度目の小布施訪問が北斎がこの地を訪れた最後になりました。翌年、北斎は江戸に戻り、90歳で亡くなっています。
この鳳凰図は描かれてから170年近くたっていますが、塗り替えは一度もしていないそうです。いかに高級な絵の具が使われたかが、このことからも推測できます。画面中央の白い小さな逆三角形は、富士山の隠し絵だそうな。
大鳳凰図を眺めたら、同じく雁田山の麓にある浄光寺へ向かいます。
岩松院から浄光寺へ続く道はせせらぎ緑道と言うらしいです。
浄光寺には、国の重要文化財に指定されている室町時代初期の1408年に建立された茅葺き屋根の薬師堂があります。
仁王門の先から薬師堂まで延びる杉並木の石段もいい感じ。
浄光寺からは玄照寺を廻るつもりでしたが、少し遅れぎみなのでこれはパスし、松川の土手に出ます。
土手の先には飯縄山が遠くに見えます。
この松川の土手をどんどこ行き、雁田山が遠ざかると、松川は千曲川に流れ込み、
道は千曲川の土手に入ります。
千曲川の土手を下り、田んぼの中を進んで行くと、正面には本日の終着地の湯田中温泉から渋温泉あたりの後ろにある山々が見えてきます。
すでに刈り取りが終わった田んぼ、黄金色に実り刈り取りを待つばかりの田んぼと、田んぼも色々ですが、ここは気持ちいい道。
山々の稜線を追って左に視線を移していくと、一番左に小布施から見えた高社山があります。
田んぼが終わると再びりんご畑の中を行くようになります。
りんごを見ると、なぜか微笑んでしまうキルピコンナ。
このりんご畑の先で篠井川を渡ります。
川の上流側には湯田中温泉の手前に横たわる低い山並みの先端に、箱山がポコッと飛び出しています。
写真中央に箱山、左手にチョンと飛び出たのは飯盛山でしょうか。
湯田中温泉はあの飯盛山の稜線を右に下った先の箱山の裏手あたりにあります。
田んぼをどんどこ行く先頭のシンチェンゾー。
それを追うサリーナ、キルピコンナ、そしていつものしんがりはシロスキー。
ここの畑はサニーレタスかな。
高社山の手前に低い丘が見えてきました。あの丘は千曲川とこの平らな田んぼの間に横たわっています。
特に丘に上る必要はなかったのですが、上れば千曲川の眺望が得られるかと思って、ちょっと上ってみることにしました。
ところがこの丘の道は激坂でハヒハヒ。
その上、上っては見たものの、千曲川側にはさらにもう一つ小高い丘があり、そこには期待した風景はなかったのでした。あ〜れ、ま〜。。
しかし小さな谷のなかなかいい景色と、右手に中野の街の眺望があったので、これはこれで良しとしよう。
この写真の右に写っているのはアスパラガスです。アスパラガスって、こんなボサボサの木なんですね。
上りが激坂なら、ここは下りも激坂です。中野の街を見下ろしながら、慎重に下って行きます。
この激坂を下り切ると、中野市の田麦というところに出ました。
ここも周囲は田んぼ。
正面にはずっと見えていた高社山がデンと座っています。
その前の田んぼはすっかり稲刈りが終わり、天日干しがされています。
『ここまで来れば、今宵の宿のある湯田中駅前までは8kmほどなので、楽勝ね。』 と、この時は全員が思ったのですが・・・
高社山を眺め小休憩したら、湯田中温泉へ向かいます。
ここからはまたまたりんご畑の中を行きます。あちこちのりんご畑で収穫をしている農家の方を見掛けましたが、ここではりんごの木の下でちょっと休憩されていました。
そんなのんびりムードで走り出したのですが、ところがこの道はずっと上りっ放しで意外ときつい。
りんご畑の次はぶどう畑。これも上りでようやく夜間瀬川の夜間瀬橋に出ました。
ここまで来れば湯田中温泉までは3km。もう着いたも同然です。
ここからはr478湯田中停車場線の一本道です。湯田中温泉は志賀高原の入口にある街なので標高が高く、この県道もずっと上りです。
しかも黒雲がやってきて、ゴロゴロ太鼓を叩き始めました。
宿まであと2kmというところで、空からパラパラと雨が落ちてきました。予定では余裕で宿に到着のはずが最後に、さ〜急げ〜、と必死でペダルを回すことになったのでした。
宿に入ったら即座に濡れた衣類を脱ぎ捨て、温泉に直行。あぷ〜っと浸かった露天風呂は、最高に気持ち良かった〜〜
今日は最後に雨に当たりましたが、土蔵の須坂の町並みも良かったし、小布施の蕎麦と北斎も素晴らしいものでした。りんご畑に黄金色の田んぼも楽しかったので、満足いくサイクリングとなりました。
さて、明日は本企画のメインイベントの奥志賀の紅葉です。このあたりはまだ紅葉は始まっていませんが、上の方はどうでしょう。今から楽しみです。